東京地方裁判所 平成18年(ヨ)21092号 決定 2006年8月09日
債権者
X
同代理人弁護士
長安弘志
同
桝田慎介
債務者
株式会社新生銀行
同代表者代表執行役
B
同代理人弁護士
岡田和樹
同
山川亜紀子
同
久保達弘
主文
1 債権者の申立てをいずれも却下する。
2 申立費用は債権者の負担とする。
理由
第1申立の趣旨
1 債権者が,債務者に対して労働契約上の権利を有する地位にあることを仮に定める。
2 債務者は,債権者に対し,4175万円及びこれに対する平成18年5月20日から支払済みまで年6分の割合による金員並びに平成18年6月から本案判決確定に至るまで毎月19日限り175万円をそれぞれ仮に支払え。
第2事案の概要
1 争いのない事実
(1) 債務者は,銀行業を営む株式会社であり,債権者は,平成13年8月13日ころ,債務者に雇用され,同年12月初旬に債務者の子会社である新生信託銀行株式会社(以下「新生信託」という。)に出向し,以来新生信託のGeneral Manager(部長)及びDirector(取締役)を務めてきた。
債権者の賃金は,月額175万円で,支払日は毎月19日であった。
(2) 債務者は,平成18年4月25日ころ,債権者に対し,同日付けで懲戒解雇する旨の通知(以下「本件通知」という。)を交付することにより,懲戒解雇の意思表示をした(以下,これを「本件懲戒解雇」という。)。
(3) 本件通知には,懲戒解雇の理由として,債権者が不動産信託業に関連する法令に違反する行為を行い,この行為が新生信託の就業規則23条第<3>項第1号及び債務者の就業規則23条第(3)項第a号に違反し,新生信託の就業規則43条第<1>項第2号及び債務者の就業規則43条第(1)項b号に該当することが挙げられている。
2 債権者の主張
(1) 本件懲戒解雇は無効であり,債権者は債務者に対し,現在でも労働契約上の権利を有する地位にある。また,債権者には平成18年5月19日に賃金として175万円が,同月20日ころには賞与として4000万円が支払われる予定であったが,いずれもまだ支払われていない。
したがって,債権者は,平成18年5月19日支払分の賃金175万円及び同月20日支払分の賞与4000万円並びに平成18年6月以降毎月175万円の賃金の支払を受ける権利を有する。
(2) 債権者は,本件懲戒解雇により債務者の従業員としての地位を否定されて就労の機会を奪われ,収入を断たれている。また,具体的な事由もなく「懲戒解雇」という処分を受けたため,多大な精神的苦痛を受けていると同時に,債権者のこれまでの経歴が生かせる金融界において就労の機会も奪われている。金融界,とりわけ信託業界においては,変化が激しく,数か月間職がない状態が続くことにより同業界での求職活動が困難となる状況があり,このような状態をこのまま放置すると,仮に本訴によって後に解雇が無効とされたとしても,この業界における再就職が事実上不可能となってしまう。なお,近時民事保全手続において,労働契約上の地位の保全が認められる例が減少していると言われているが,労働契約上の地位の保全が認められないのは,金銭の給付さえなされれば債権者が救済されるという事案であり,あえて労働契約上の地位の保全まで認める必要はないとの考え方に基づくものと思われる。したがって,本件のように金銭の給付では債権者が救済されない事例においては労働契約上の地位の保全が認められてしかるべきである。
また,債権者は,債務者から医療補償を与えられていたが,本件懲戒解雇により債権者やその家族が病気になったような時は,必要な医療費が支払えないこともある。
債権者は,債務者から支払われる賃金を唯一の収入とし,これをもって家族を扶養する労働者であり,本件懲戒解雇によって全く収入の途を失ったのでその生活を維持することができず,本案判決の確定を待つまでに著しい損害を被ることが明らかである。
なお,債権者には,本件懲戒解雇以前にあらかじめ定められた価格で債務者の株式を購入できるというストック・オプションが与えられていたが,不当な本件懲戒解雇によりこれらを行使することができなくなるという不利益も被っている。加えて,債権者は,債務者から社宅を与えられていたところ,本件懲戒解雇により当該社宅からの退出も余儀なくされかねない状態にある。
(3) よって,債権者は,債務者に対し,労働契約上の権利を有する地位にあることを仮に定めることを求めるとともに平成18年5月19日支払分の賃金及び同月20日ころ支払分の賞与の合計4175万円及びこれに対する平成18年5月20日から支払済みまで年6分の割合による金員並びに平成18年6月から本案判決確定の日まで毎月19日限り175万円を仮に支払うことを求める。
3 債務者の主張
(1) 新生信託は,平成8年11月27日に設立された債務者の100パーセント子会社であり,平成14年11月ころから不動産信託業務を開始した。ところが,債権者を含む経営幹部の行為が原因となり,平成18年4月26日,金融庁から,「不動産管理処分信託の新規受託業務を平成18年5月11日から1年間行わないこと」,「(処分の理由となった)問題等の原因となった役職員の責任の所在の明確化を図ること」などを内容とする行政処分を受けた。
(2) 債権者は,不動産信託業務の専門家として採用されたものであり,新生信託では,部長職と取締役(平成17年12月からは社長)の職にあったが,上記処分の原因となった問題取引に,経営幹部の一員として深く関与していたのであり,懲戒解雇されたのは当然である。
(3) 信託銀行が信託業務を行う場合,信託法20条に基づく信託の受託者としての「善管注意義務」を負うのはもちろんのこと,信託業法28条による「善管注意義務」を負うことになる(金融機関ノ信託業務ノ兼営等ニ関スル法律(兼営法)4条)。したがって,信託銀行が不動産信託を受託する場合には,受託する不動産が,信託銀行が受託するにふさわしいか否か,あるいは取引の当事者の意図に違法,不当な点がないかなどを,その業務の公共性等の観点から十分に審査しなければならないのは当然である。さらに,信託銀行は,信託業務を行う際に必要な認可の申請に際し,金融庁に対して「信託業務の種類及び方法書」(以下「業方書」という。)を提出しなければならず(兼営法1条2項),金融庁は,この業方書の記載事項を審査して,認可するにふさわしいか,また適切な事業を行えるか否かという点を判断する。そして,認可後の業務は,当然,認可を受けた業方書に従って遂行することが求められている。
ところが,新生信託においては,業方書を受けて制定された「不動産の信託事務手続」(以下「事務手続」という。)において,業務部から独立した部門である「案件管理部」が受託審査をするものとされていたにもかかわらず,この規定にいう「案件管理部」は存在せず,営業部が受けた新規案件について,営業部と一体である「エグゼキューション部」が,信託契約書等,受託に必要な書面を準備し,案件審査委員会に承認申請していた。しかも,事務手続に規定された書類の徴求すら行われないままに,案件審査委員会に提案されることも常態化していた。そのため,案件審査委員会の審査は極めて形式的で,会計操作や脱税目的などがないかなどという取引の意図,建築基準法などの法令違反や汚染物質の存在などの物件のリスクについての実質的な審査は全く行われないままに案件が承認されていた。このため,新生信託は,多くの問題物件を抱えることになった。
(4) 以上が新生信託における不動産信託業務の問題点であるが,このように業方書や事務手続を無視して多数の問題物件を受託した新生信託の幹部の責任が極めて重大であることはいうまでもないことであり,金融庁が処分の中で,問題等の原因となった役職員の責任の所在の明確化を図ることを命じたのは当然のことである。債権者は,同じく取締役であるC,営業部長であるDと密接に連携しながら,Dが獲得してきた案件を,債権者やCが部長である「エグゼキューション部」が書類を作成し,Cが議長を務める案件審査委員会が承認するという仕組みを確立することにより,実質的には無審査受託ともいえるビジネス手法を確立し,これを推進した。
(5) このように,債権者は,審査を放擲して,法令,環境上の問題を抱える数多くの物件を信託の対象として受託して新生信託の社会的信用を危険にさらした。さらに,一部の案件では,当事者の違法な取引目的に利用された可能性もあるばかりでなく,物件の瑕疵等によるリスクが一般投資家にも及ぶこととなった。また,上記行政処分により,新生信託は甚大な損害を被り,その信用は著しく失墜した。また,子会社である新生信託が免許剥奪と紙一重ともいえる異例の厳しい行政処分を受けたことにより,親会社である債務者の信用が受けた打撃も極めて重大である。債権者が,上記のような信託銀行にあるまじきビジネス手法を新生信託に持ち込み,これを推進したことは明らかであって,懲戒解雇は当然の措置である。
(6) 債権者は,地位保全の仮処分を求めるが,同仮処分は,それ自体では執行力をもたない,いわゆる任意の履行を求める仮処分であり,本件においてはそのような仮処分を認める必要性は全くない。
また,賃金及び賞与の仮払については,債権者は,平成13年の入行以来,住宅手当を含めると毎年5000万円から7000万円程度の報酬を受け,さらには2000万円にも及ぶ子女教育手当を受け取るなど極めて高額の収入を得ており,十分な貯蓄があることは明らかであるから,賃金や賞与が支払われないからといって,債権者に「著しい損害又は急迫の危険」(民事保全法23条2項)が生じるなどということは全く考えられない。
第3当裁判所の判断
1 保全の必要性について
(1) 地位保全の仮処分について
債権者は,債権者が,債務者に対して労働契約上の権利を有する地位にあることを仮に定める仮処分を求めるが,同仮処分は民事保全法23条2項の定める「仮の地位を定める仮処分命令」であり,「争いがある権利関係について債権者に生ずる著しい損害又は急迫の危険を避けるためこれを必要とするときに発することができる」ものである。
本件についてこれをみるに,同仮処分は,同じく仮の地位を定める仮処分であっても,後述する賃金の仮払を命ずる仮処分と異なり,強制執行をすることができず,任意の履行に期待する仮処分であり,実効性に乏しいものといわざるを得ない。したがって,このような仮処分を本案判決確定前に発令することは極めて慎重であるべきであって,これを発する高度の必要性が疎明された場合に限り発せられるべきところ,本件においてかかる必要性についての疎明があるとはいえない。
この点に関し,債権者は,金融界,とりわけ信託業界においては,変化が激しく,数か月間職がない状態が続くことにより同業界での求職活動が困難となる状況があり,このような状態をこのまま放置すると,仮に本訴によって後に解雇が無効とされたとしても,この業界における再就職が事実上不可能となってしまう旨を主張する。しかし,解雇された労働者の仮の地位を定める仮処分は,雇用契約上の権利,すなわち当該労働者と雇用契約を締結した使用者との間の権利関係を保全することを目的として発せられるものであるところ,雇用契約上労働者は使用者との間で,求職活動をする権利や再就職する権利を有するものではないから,上記主張は採用することができない。また,同主張を,就労できないことによる技能ないし技量の低下を防ぐ必要性について言及したものであると解しても,金融業界が他の業種と比して特に変化が激しいとか,特に技能ないし技量が低下するということについての疎明はないから,上記判断を左右しない。
また,債権者は,医療補償が受けられなくなることによる不利益,債務者の株式についてストック・オプションが行使し得なくなることによる不利益,社宅からの退去を余儀なくされることによる不利益についても主張するが,これらはいずれも抽象的であって,具体的な疎明があるとはいえないばかりか,経済的不利益であって,本案判決確定後に金銭的な賠償により補填が可能なものであるから,これらをもって労働契約上の地位を保全すべき必要性とすることはできない。
(2) 賃金仮払の仮処分について
債権者は,本件懲戒解雇により債務者の従業員としての地位を否定されて就労の機会を奪われ,収入を断たれている旨主張するが,賃金仮払の仮処分も民事保全法23条2項の「仮の地位を定める仮処分命令」であり,同項の要件が必要とされるところ,債権者の賃金月額が毎月175万円であったことは当事者間に争いがなく,それ以外にも年1回以上高額の賞与を得ていたことがうかがわれるが,このような高収入を継続的に得ていた場合においては,相当程度の預貯金等の蓄えがあることが推認されるから,特段の事情がない限り,債務者からの賃金が途絶えたからといって,直ちに生活に困窮を来すとはいえないと考えられるところ,上記特段の事情についての疎明はない。したがって,債権者には,著しい損害又は急迫の危険が生ずるということはできず,同項の定める保全の必要性についての疎明がないといわざるを得ない。
(3) 小括
以上のとおりであるから,債権者には仮処分発令の要件である保全の必要性についての疎明がないことに帰する。
2 結論
以上によれば,本件申立ては,その余の点について判断するまでもなく,理由がないから却下を免れない。
(裁判官 蓮井俊治)