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東京地方裁判所 平成18年(ワ)12530号 判決 2008年10月09日

主文

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第1請求

1  被告は,原告Aに対し,5016万4883円及びこれに対する平成17年2月7日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

2  被告は,原告B及び原告Cに対し,それぞれ2508万2441円及びこれに対する平成17年2月7日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

第2事案の概要

本件は,平成16年8月11日,被告が設置運営管理するD医療センター(以下「被告病院」という。)において,Eが右披裂軟骨内転術(以下「本件手術」という。)を受け,その後低酸素脳症に陥り,平成17年2月6日に死亡したことについて,Eの相続人である原告らが,被告病院の医師らには,本件手術後の術後管理を怠った過失があるなどと主張し,診療契約上の債務不履行に基づき,損害賠償及びこれに対するEが死亡した日の翌日である平成17年2月7日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める事案である。

1  前提となる事実(証拠を掲げていない事実は,当事者間に争いがない事実である。)

(1)  当事者等

ア E(昭和22年1月6日生)は,平成16年8月11日(以下,平成16年については,原則として月日のみを記載する。),被告病院において,本件手術を受けた(甲C1,乙A1)。平成17年2月6日午後零時13分,Eは,心臓停止により死亡した。

イ 原告Aは,Eの妻であり,原告B及び原告Cは,Eと原告Aの子である(甲C1)。

ウ 被告は,被告病院を設置運営管理している。

(2)  診療経過の概要

本件の診療経過の概要は以下のとおりであり,その詳細は,別紙診療経過一覧表のとおりである(なお,診療経過一覧表中,証拠を掲記した事実は当該証拠により認定したものであり,その他は当事者間に争いのない事実である。)。

ア 平成15年6月19日,Eは,財団法人F病院(以下「F病院」という。)において,甲状腺乳頭癌の治療のため,甲状腺右葉切除,中心領域リンパ節郭清手術を受け,その影響で嗄声となった(甲A2,A3,乙A2の8頁)。

イ 7月8日,Eは,F病院の紹介で,嗄声の治療のため,被告病院耳鼻咽喉科を受診した(乙A2の4ないし6,8頁)。

ウ 8月10日,Eは,嗄声に対する手術を行うため,被告病院に入院した(乙A1の4,27頁)。同日,Eは,同月11日に本件手術を行うこと,本件手術の合併症として,呼吸困難があり,場合によっては気管切開を行うことがあることなどについて説明を受け,本件手術の実施について同意した(乙A1の9頁)。

エ 同月11日,Eに対し,本件手術が行われた。本件手術の術者は,被告病院耳鼻咽喉科医長であるG医師(以下「G医長」という。)であり,助手は,H医師とI医師であった(乙A1の11頁)。

同日午後4時35分,Eは,手術室より帰棟した。覚せい良好であり,体温36.8℃,脈拍88回/分,血圧128/78mmHg,呼吸困難感はなく,酸素マスク4Lにて酸素飽和度(SaO2)は97%であった(乙A1の97頁)。

同日の夜,Eは,呼吸停止,心停止状態に陥り,気管切開が行われた(乙A1の99頁)。

オ 同月12日午前3時55分,Eに対し,頭部CT検査が施行された。その結果,Eに低酸素脳症の所見が認められた(乙A1の31頁)。

カ 平成17年2月6日午後零時13分,Eは,死亡した(甲A1)。

2  争点

本件の争点は,次の4点である。

(1)  I医師の過失の有無

(2)  G医長の過失の有無

(3)  因果関係の有無

(4)  損害額

3  争点に関する当事者の主張は,次のとおりである。

(1)  争点(1)(I医師の過失の有無)について

(原告らの主張)

ア 本件手術後病棟に戻ったEは,原告Aの前で,血の混ざった痰を2回吐いた。午後5時20分,Eは,「頸部おされるような圧迫感」を訴えた。午後5時30分,I医師は,声門間隙がわずか1mmしかないこと,術前正常に動いていた左声帯の動きが悪くなっていることを発見した。また,午後5時20分以降,Eは,約2秒に1回の頻呼吸になっており,呼吸苦を和らげるために,午後4時35分の帰室後からファーラー位をとっていた。その後の午後8時から9時になっても,Eの呼吸困難は収まらず,ファーラー位のままであった。

午後9時,I医師は,自宅に帰宅した。午後10時,Eは,「さらに呼吸のしづらさ」を訴え,午後10時5分,Eの容態の悪化にM看護師が気づき,ナースコールをした。午後10時10分,J(以下「J看護師」という。当時の氏は「K」である。)は,I医師とL医師を電話で呼んだ。午後10時15分ころ,Eは苦しみ,手で口を開けようとし,午後10時20分,Eは呼吸停止状態となった。午後10時30分,L医師が来棟した。午後10時37分ころ,Eは心停止状態となり,心臓マッサージが開始された。午後10時40分,I医師が来棟し,午後10時45分,気管内挿管を試みるも,成功せず,午後11時5分,気管切開が開始された。

イ 本件手術で最も問題となる合併症は呼吸困難であり,高度の声門狭窄が生じると致命的になること,披裂軟骨内転術の後に気管切開を要した割合は2%程度であること,Eは,術後肺合併症のリスクが高いとされたこと,Eは本件手術前に甲状腺に対する手術を受けており,頸部は,癒着及び循環障害等が考えられ,出血しやすく,浮腫が生じやすい状態であったこと,本件手術後にEが血の混ざった痰を2回吐いたこと,呼吸停止のときは4分から6分で不可逆的な脳障害が生じるとされていることなどから,受持医であったI医師は,喉頭浮腫が発生してもEが呼吸停止に陥らないよう,また,呼吸停止となっても脳に不可逆的な障害が生じないよう,少なくとも本件手術後から24時間が経過するまでは,被告病院に常駐し,速やかに気道確保に当たるべき義務,又はEの状態を正確に把握し,気道確保措置ができる当直医を常駐させ,速やかに気道確保ができる体制を執る義務があった。

それにもかかわらず,前記アのとおり,I医師は,午後9時に自宅に帰宅し,L医師が到着するまでナースコールから20分,呼吸停止から10分もかかっており,また,受持医であるI医師が到着するまでにはナースコールから30分もかかっているなど,速やかに気道確保に当たるべき義務を怠ったことは明らかである。また,L医師は,1mmの声門間隙しかないEに対し,7mmの挿管を試みるなど,Eの状態がL医師に伝わっていなかったことは明らかであり,L医師が被告病院内に待機していたことをもって,上記義務が尽くされているとはいえない。

ウ 8月11日午後5時30分ころ,I医師は,Eに対し,喉頭ファイバースコープ等による診察を行い,その際,前記イで主張した本件手術後の呼吸停止の危険性等に関する事情に加え,Eが2秒に1回の頻呼吸状態であったこと,ファーラー位が続いていたこと,気道がわずか1mmの気道狭窄の状態にあったこと,術前正常であった左声帯の動きが弱まっていたことなどの状態を認識したのであるから,その時点で,Eが呼吸困難の状態にあること及びそれに対する適切な処置を行わなければ呼吸停止に至る危険性がある状態であることを認識し得た。

したがって,I医師は,この時点において,Eの将来の悪化に備えて,気管切開をすべき義務があったにもかかわらず,気管切開を行わなかった。

また,この時点で,気管切開を行わないのであれば,I医師は,G医長及び看護師らに対し,Eの声門狭窄等の状態を報告するとともに,ステロイドの追加点滴及びネブライザーを実施し,喉頭浮腫の発生を防止すべき義務があったにもかかわらず,これらの処置を怠った。

エ 同日午後9時ころ,I医師は,前記イ,ウで主張した事情に加え,ファーラー位が午後5時30分から3時間30分の間,間断なく継続していたのであるから,少量の出血でも症状の悪化を予見すべきであり,その時点において,Eの将来の悪化に備えて,気管切開をすべき義務があったにもかかわらず,気管切開を行わなかった。

また,この時点において,気管切開を行わないのであれば,I医師は,喉頭ファイバースコープによる観察を行い,Eの状態を正確に把握し,G医長及び看護師らに対し,Eの声門狭窄等の状態を報告するとともに,ステロイドの追加点滴及びネブライザーを実施し,喉頭浮腫の発生を防止すべき義務があったにもかかわらず,これらの処置を怠った。

オ なお,被告は,本件手術後の事実経過について,午後8時のG医長の回診,午後9時にI医師の診察,午後10時41分にナースコール,午後10時45分にL医師の到着,呼吸停止,午後10時46分にドクターハートの医師5名が到着したなどと主張し,その事実関係を前提とした主張をするけれども,被告病院の診療録の記載からすれば,本件手術後の事実経過は,前記アのとおりであり,被告が根拠とする診療録の記載(乙A1の27,99頁)は,術後の看護体制のミスを隠蔽するために改ざん等されたものである。

(被告の主張)

ア 本件手術後の事実経過は,大要,以下のとおりである。

すなわち,午後5時30分ころ,I医師は,Eの喉頭を喉頭ファイバースコープにて観察し,披裂部の腫脹がないこと,問題となるような呼吸苦は見られないこと,狭窄音がないことを確認した。午後8時には,G医長,I医師,H医師,L医師らが回診し,喉頭ファイバースコープ観察により,Eの状態に特に変化がないことを確認の上,午後10時の時点でハイドロコートン(ステロイド剤)点滴の追加と酸素流量を下げてよいとの指示を出した。午後9時,I医師は,Eを診察し,頸部の腫脹や狭窄音がないことを確認した。

午後10時ころ,Eから呼吸のしづらさの訴えがあり,午後10時10分ころ,Eに呼吸のしづらさ,頻呼吸が見られた。午後10時35分ころ,ナースセンターカウンターのEのモニターは酸素飽和度95~96%を示していた。午後10時41分ころ,Eからナースコールがあり,M看護師がEのところに向かったところ,Eは,苦しいと手をばたばたさせていた。M看護師は,J看護師にナースコールをし,間もなく,Eが眼球上転,チアノーゼ気味,努力様呼吸という状態になったため,L医師及びドクターハート(院内緊急応援医師招集システム。心血管系医師,麻酔医,救急医からなる。)を呼んだ。午後10時45分ころ,L医師が到着し,頸部の腫脹及び呼吸停止を確認し,直径7mmの経口気管挿管を試みるも,喉頭の腫脹のため困難であった。午後10時46分ころ,ドクターハートの医師5名らが到着し,心電図モニターを装着したが,徐脈の後,心停止を認めたため,心肺蘇生を開始した。午後10時55分ころ,I医師が到着し,気管切開を施行し,午後11時5分ころ,頸部気切部からの気管挿管を終了した。

なお,原告は,被告病院の診療録に訂正等がなされていることなどをもって,診療録が改ざんされたなどと主張するけれども,診療録の訂正は,携帯電話の着信時刻等に基づいてなされたものであり,改ざんではない。

イ 披裂軟骨内転術は,頸部を切開することから,術後は一般的に創部の痛みや圧迫感を伴う。また,喉頭を操作する手術であるため,多少の腫脹を生じ,その程度により喉を圧迫されるような感触や,呼吸がしづらいような感覚を伴うことが多い。軽度の腫脹であれば,特別な気道確保は必要ではなく,術後安静,酸素投与,吸入やステロイド投与による浮腫の予防などで経過を見ることができ,24時間ほどで症状が安定し,7日ほどで退院するのが一般的である。

ごくまれに起こり得るリスクとしては,術後出血,気道狭窄などが想定されるものの,術後出血は陰圧ドレーンによって対応可能であり,これを超える量の出血が生じた場合に頸部は腫脹し,喉頭浮腫を増強させ,喉頭浮腫が強度の場合は高度の呼吸困難に陥る。

披裂軟骨内転術では,出血が止まらない場合であっても,外的な要因がない限り,一度に多量の出血があるということは考えられず,少量の出血が継続することになる。また,出血が止まらない場合であっても,腫脹による気道狭窄が生じるのは,少なくとも頸部腫脹が生じてからであり,頸部腫脹が生じた後,咽喉頭浮腫が起こり,気道狭窄症状が出現するまでには数時間を要する。したがって,このような場合であっても,医師には,患者の容体を診つつ,患者と相談して,気管挿管や気管切開等の気道確保の方法を採るかどうかを決定し,器具等の準備を整えるだけの時間的余裕がある。

本件では,午後4時35分ころ,Eのバイタルサインは正常値であり,強い呼吸困難感もなく,酸素飽和度も97%と問題がなかった。午後5時30分ころの喉頭ファイバースコープの所見においても,披裂部の腫脹はなく,呼吸苦,狭窄音ともないと診断されており,全く異常は認められなかった。午後8時の喉頭ファイバースコープの所見も特に変化がなく,経過は良好であった。午後9時にI医師が診察した際にも,頸部腫脹及び頸部狭窄音のいずれも認められず,出血等の異常も全くなかった。

午後10時過ぎ以降,Eの容体は急変しているけれども,上記のとおり,午後9時までの原告の状態からは,数分間での急変を予見することはできず,数分間での容体悪化に対応できる体制を整える義務はない。被告病院の経験によれば,披裂軟骨内転術の術後において,通常一般的に想定されるリスクに対応できる体制とは,術後出血による頸部腫脹出現後,喉頭浮腫が起こり,気道狭窄症状が出現するまでには数時間単位の余裕があるため,手技時間を含めて,30分から2時間程度で気管切開に至ることが可能である体制であると考えられるところ,被告病院には,ドクターハートといわれる救急医療体制があること,耳鼻咽喉科のL医師も被告病院内に常駐していたこと,I医師も被告病院から5分程度の場所にいたことから,被告病院の体制に問題はない。

ウ 原告らは,午後5時30分,午後9時の各時点において,I医師には,予防的気管切開をすべき義務があった旨主張する。

しかし,声門間隙が吸気時に膜様部後方で1mm程度であっても,披裂部に浮腫や腫脹は認められなかったこと,喘鳴などの狭窄音がなかったこと,全身状態としては落ち着いていたこと,意識が清明であったことなどの状況から,喉頭ファイバースコープでは死角になる奥の部分では気道は確保できていると判断したのであり,また,左声帯の可動性が低下するのは緊張状態によく見られること,ファーラー位は呼吸運動を楽にする効果を持つものであり,それが継続しているからといって気道狭窄に結びつくものではないこと,気管切開による侵襲の程度は小さくないことから,気管切開の必要はないと判断したのであり,その判断に誤りはない。

エ 原告は,午後5時30分,午後9時の各時点において,ステロイドの追加点滴等をして,喉頭浮腫の発生を防止すべき義務がある旨主張するけれども,ステロイドの点滴は術中から予定どおり行われており,十分管理されていたことから,何ら問題はない。

(2)  争点(2)(G医長の過失の有無)について

(原告らの主張)

ア 前記(1)イの原告らの主張のとおり,本件手術後には呼吸困難が生じ,気管切開などが必要となる可能性があることから,G医長には,I医師や看護師らに対し,少なくとも本件手術後から24時間が経過するまでは,特に慎重な観察を要すること,速やかに気道確保ができるよう準備しておくことを指導監督すべき注意義務があったにもかかわらず,それを怠った。

イ また,午後8時の時点では,前記(1)ウの原告らの主張のとおり,Eが呼吸困難の状態にあること及びそれに対する適切な処置を行わなければ呼吸停止に至る危険性がある状態であったことを認識し得た事情に加え,Eが3時間以上,ファーラー位を継続していたことなどから,G医長は,その時点で予防的に気管切開を行う義務があったにもかかわらず,これを怠った。

また,この時点において,気管切開を行わないのであれば,ステロイドの追加点滴及びネブライザーを実施し,喉頭浮腫の発生を防止すべき義務があったにもかかわらず,G医長は,これらの処置を行わなかった。

(被告の主張)

ア 原告らは,少なくとも術後24時間が経過するまでは,速やかに気道確保ができるよう準備しておくことをI医師らに指導監督しておく義務があり,G医長は,それを怠ったなどと主張するけれども,前記(1)イの被告の主張のとおり,被告病院の体制に問題はなく,G医長に注意義務違反はない。

イ 原告らは,午後8時の時点で,G医長は,予防的気管切開を行うか,ステロイド点滴等により喉頭浮腫の発生を防止すべき義務があったにもかかわらず,これを怠ったなどと主張するけれども,前記(1)ウ,エの被告の主張のとおり,午後8時の時点において,気管切開を行う義務はないし,ステロイド点滴等を実施する義務もない。

(3)  争点(3)(因果関係の有無)について

(原告らの主張)

I医師らが,遅くとも午後9時までに気道確保の措置や喉頭浮腫を防止するための措置等を行っておれば,Eが低酸素脳症に陥ることはなく,その後死亡することもなかった。

(被告の主張)

本件のような急激な気道狭窄は非常にまれなケースであり,患者のナースコールから気管切開が遂行され,気道が確保されるまでは少なくとも10分から20分の時間が必要であり,低酸素脳症を免れる時間内での気道確保は不可能であった。

(4)  争点(4)(損害額)について

(原告らの主張)

ア Eの損害  6130万8287円

(ア) 入院付添費  202万8000円

Eは,低酸素脳症に罹患した8月11日から平成17年2月6日に死亡するまでの180日間,付添看護が必要であり,Eは昏睡状態にあったことからすれば,1日当たり,8450円の付添看護費用が必要である。また,8月11日から60日間は2人の付添が必要であったから,入院付添費は,次式により算出される。

8450 円× 180 日+ 8450 円× 60 日= 202 万 8000 円

(イ) 入院雑費  27万円

1500 円× 180 日

(ウ) 傷害慰謝料  317万2000円

Eの傷害は,重度の低酸素脳症であり,受傷の中でも極限であること,180日間も苦しみ続けたこと,楽しみにしていた原告Cの結婚式に出席できなかったこと,原告Bの二人目の子の顔を見ることができなかったことから,Eの傷害慰謝料は,通常より増額すべきであり,317万2000円が相当である。

(エ) 逸失利益  1562万2152円

Eの年収は,251万7980円であり,70歳までの12年間の稼働が可能であるから(ライプニッツ係数は8.8632),生活費控除30%として,逸失利益は次式により算出される。

251 万 7980 円× 0.7 × 8.8632 = 1562 万 2152 円

(オ) 死亡慰謝料  3640万円

(カ) 葬儀関係費用  381万6135円

イ 原告ら固有の損害  3902万1480円

(ア) カルテ謄写費用  2万1480円

(イ) 慰謝料  3000万円

(ウ) 弁護士費用  900万円

本件は,診療契約の債務不履行に基づく損害賠償請求であるが,事案の性質,内容からすると,生命侵害による不法行為に基づく損害賠償として請求した場合と,弁護士費用の点で実質的に差を設ける合理的理由はないから,上記の弁護士費用が本件と相当因果関係のある損害として認められる。

ウ 原告らは,上記ア及びイの損害合計1億0032万9767円について,原告Aがその2分の1である5016万4883円を,原告B及び原告Cがその4分の1である各2508万2441円をそれぞれ相続することとした。

(被告の主張)

争う。

第3争点に対する判断

1  診療経過等

前記前提となる事実並びに証拠及び弁論の全趣旨によれば,本件の診療経過等について,次の事実が認められる。

(1)  本件手術に至るまでの経緯等について

ア 平成15年6月19日,Eは,F病院において,甲状腺乳頭癌の治療のため,甲状腺右葉切除,中心領域リンパ節郭清手術を受け,その影響で嗄声となった(甲A2,A3,乙A2の8頁)。

イ 平成16年7月8日,Eは,F病院の紹介で,嗄声の治療のため,被告病院耳鼻咽喉科を受診した。同日,Eに対し,呼吸機能検査が実施され,その結果,混合性換気障害が認められた(乙A2の4ないし6,11頁)。

ウ 同月12日,Eは,被告病院耳鼻咽喉科を受診し,音声機能検査を受けた(乙A2の6,12頁)。

エ 同月23日,同病院耳鼻咽喉科のN医師は,同病院の呼吸器科及び麻酔科の医師に対し,全身麻酔の可否についてコンサルテーションをした。

同病院呼吸器科の医師は,N医師に対し,全身麻酔は可能と思われること,胸部X線画像,呼吸機能検査の結果,職業歴から,塵肺の存在が疑われること,慢性閉塞性肺疾患と診断したことなどを報告した。また,同病院麻酔科の医師は,N医師に対し,非常に低肺機能であること,術後肺合併症のリスクは高いと考えることなどを報告した(乙A2の13ないし15頁)。

オ 8月10日,Eは,嗄声に対する手術を行うため,被告病院に入院した(乙A1の4,27頁)。

同日,Eは,同月11日に本件手術を行うこと,本件手術の合併症として,呼吸困難があり,場合によっては気管切開を行うことがあることなどについて説明を受け,本件手術の実施について同意した(乙A1の9,44頁)。

(2)  本件手術及び本件手術後の経緯等について

ア 同月11日,Eに対し,本件手術が行われた。本件手術の術者は,G医師であり,助手は,H医師とI医師であった(乙A1の11頁)。

午後2時6分,麻酔を開始し,G医師らは,午後2時41分に手術を開始した。G医師らは,皮切,甲状軟骨露出,披裂軟骨筋突起露出,筋突起の牽引・固定などの操作を行った。なお,甲状軟骨露出の際,前頸筋の瘢痕化があること,周囲との癒着が強いことが認められた(乙A1の11ないし13頁)。

本件手術は,午後4時4分に終了し,午後4時20分に麻酔が終了した(乙A1の13頁)。なお,午後3時40分ころと,午後4時20分ころに,Eに対し,それぞれハイドロコートン100mgが投与されている(乙A1の13頁)。

イ 同日午後4時35分,Eは,手術室より帰棟した。覚せい良好であり,体温36.8℃,脈拍88回/分,血圧128/78mmHg,呼吸困難感はなし,肺エアー入り弱めで,熱感があった。酸素マスク4Lにて酸素飽和度(SaO2)は97%であった(乙A1の97頁)。

ウ 同日午後5時30分ころ,I医師は,Eを診察した。Eは,「起きていた方が楽だ」などと原告Aに対して述べ,少しベッドを起こした状態で座っていた(甲C5,乙A1の98頁)。

I医師は,喉頭ファイバースコープにより,吸気時に声帯の膜様部の後方が1mm程度開くこと,左の声帯の動きがやや悪いこと,右披裂部の浮腫はほぼないことなどを確認し,頸部の視診で,頸部皮下出血はなく,頸部の聴診では,喉頭からの狭窄音は認められなかった。Eは,術後から,吸いにくさといった呼吸困難感と頸部を押されるような圧迫感があるなどを訴えていた。そのころ,Eの呼吸数は1分間に26回ないし30回であり,酸素飽和度は,4Lの酸素投与で,96ないし97%であった(乙A1の27,98頁,A4,A5)。I医師が,Eを診察したころには,Eは,I医師や原告Aと,ほぼ普通に会話をしていた(甲C5,証人I)。

I医師は,喉頭ファイバースコープの所見,全身状態,酸素飽和度,本人の表情などから,術後に見られる一般的な症状であり,呼吸困難感はないと判断し(乙A1の27頁,A4,証人I),Eに対し,ゆっくり呼吸するように指示し,また,J看護師に対し,酸素マスクから3Lのカニューラに変更するよう指示した(乙A1の27,98頁,A4,A5,証人I)。

エ この後,午後8時ころのG医長らによる回診が行われるまでの間,J看護師は,Eのバイタルサインに著変がないことを確認したり,点滴の滴下の確認のためにEの病室を訪れており,また,Eと同室の患者の食事の手伝い等の際にも,Eの状態を確認するなどしていた(乙A5)。

オ 同日午後8時ころ,G医長,H医師,I医師,L医師,N医師及びO医師らは,Eを診察した。そのころ,Eは,坐位をとっており,G医長及びI医師らは,喉頭ファイバースコープを用い,Eの喉頭所見を確認した。喉頭所見は,声帯膜様部が1mm程度と狭めであり,左声帯の動きが若干不良であったが,披裂部も含めて喉頭浮腫はほとんど認められず,吸気時の喘鳴もなく,通常の会話が可能であり,I医師が午後5時30分ころに診察した際の喉頭所見や自覚症状とほとんど変化はなかった。G医長は,左声帯の可動性が低下しているような所見は,喉頭の緊張状態にはよく見られること,声帯膜様部で狭めに見える所見は,呼吸困難や吸気性喘鳴などが認められないことから,喉頭ファイバースコープでは確認しづらい後部声門に気道がある程度確保されているため,さほどの呼吸困難が生じていないと判断し,酸素投与を継続し,状況に応じては2Lに下げてもよく,喉頭浮腫の防止のために予定どおり午後10時にハイドロコートン100mgを投与することとし,経過観察をすることとした(乙A4,A6,証人I,証人G)。

カ G医長らの回診後から午後9時ころまでの間,Eは,J看護師に対し,呼吸状況が変わらず,吸いにくさ,頸部の圧迫感も変わらず続いていると訴えた。J看護師は,少しでも呼吸を楽にする思いで,ファーラー位に体位を整えた(乙A1の98頁,A5)。

キ 午後9時ころ,I医師は,Eを診察した。頸部の視診上,頸部皮下出血はなく,頸部の聴診上,喉頭からの狭窄音もなかった。また,Eの呼吸困難感にあまり変化はなかった。その後,I医師は,被告病院を離れた(乙A1の27頁,A4,証人I)。

ク 午後9時50分ころ,J看護師は,午後10時の定時巡視のため,Eの病室を訪れた。そのとき,Jバックドレーンの廃液(38ml,血性)を行った(乙A1の98頁,A5)。

午後10時ころ,J看護師は,Eに対し,ハイドロコートンの点滴を開始した。このとき,Eは,J看護師に対し,「吸ったり,吐いたりしにくい」ことなどの話をするなど,午後10時10分ころまで,EとJ看護師は会話等をしていた。なお,午後10時ころ,酸素投与3Lで,酸素飽和度は95%であった(乙A1の98,99頁,A5)。

ケ J看護師は,Eの経過を報告して指示を受けるために,I医師に連絡しようと考え,ナースステーションに戻ろうとした際,他の患者からナースコールがあり,15分から20分程度その対応をして,ナースステーションに戻り,Eの酸素飽和度が95ないし96%であることを確認した後,I医師の携帯電話に電話をかけたが,I医師は電話に出なかった。そのため,J看護師は,留守番電話に,「呼吸のしにくさが変わらない,一度電話をください」と伝言を残した。

そして,J看護師は,L医師に電話をかけたところ,その電話中に,I医師から電話があったので,L医師との電話を切り,J看護師は,I医師に対し,「呼吸のしにくさが変わらないと話されている」,「状態に変化はないが,夜間に備えて診察をしてほしい」ことなどを伝え,I医師は,直ちに被告病院に向かうこととした(乙A1の99頁,A4,A5,証人I)。

J看護師がI医師と電話で話をしている間に,Eからナースコールがあり,J看護師は,M看護師をベッドサイドに向かわせた。Eのところに向かったM看護師は,ナースコールをし,I医師との電話を終えたJ看護師は,M医師のナースコールを受けて,Eの病室へ向かった。J看護師が病室に着いたときには,Eには,顔面チアノーゼが見られ,努力様呼吸となっており,次第に呼吸数が低下してゆき,手足をばたつかせた。J看護師らは,即座に酸素マスクに変え,酸素投与を10L以上とした。また,M看護師が吸引しようと声かけをし続けた後に,Eは,眼球上転した(乙A1の99頁,A5)。

そこで,J看護師は,L医師のPHSに電話をするとともに,準夜看護師長に電話をして,ドクターハート(院内緊急応援医師招集システム(心血管系医師,麻酔医,救急医))を要請した。

L医師が到着し,Eの頸部の腫脹と呼吸停止を確認した。その後,ドクターハートの医師5名(P医師,Q医師,R医師,S医師,T医師)が到着し,Eに心電図モニターが装着された。その後,Eは,徐脈から,心停止となったため,心臓マッサージが開始され,また,L医師は,経口気管挿管を試みた(乙A1の36,99頁,A5)。

その後,I医師が到着し,気管切開を行い,午後11時5分ころ,気管挿管がなされた(乙A1の28,99頁,A4)。

同月12日午前零時50分ころ,Eに対し,頸部皮下出血止血術及び気管開窓術が行われ,午前2時30分ころ,同手術が終了した(乙A1の16ないし20頁)。

コ 同月12日午前3時55分に頭部CT検査が施行された。その結果,Eに低酸素脳症の所見が認められた(乙A1の31頁)。

サ 平成17年2月6日午後零時13分,Eは,死亡した(甲A1)。

(3)  なお,原告らは,午後8時のG医長の回診,午後9時にI医師の診察,午後10時41分にナースコール,午後10時45分にL医師の到着,呼吸停止,午後10時46分にドクターハートの医師5名が到着したなどの被告主張事実はなく,被告病院の診療録の記載からすれば,被告が根拠とする診療録の記載(乙A1の27,99頁)は,術後の看護体制のミスを隠蔽するために改ざん等されたものであるなどと主張するけれども,以下のとおり,原告らの主張を採用することはできず,その他前記1(2)で認定した事実を覆すに足りる証拠はない。

ア 原告らは,J看護師が看護記録に(乙A1の98頁),午後8時のG医長の回診や,午後9時のI医師の診察が行われた旨の記載をしていないこと,喉頭ファイバースコープの写真がないことなどをもって,午後8時にG医長が回診したり,午後9時にI医師が診察したという事実はなく,これらの事実に関する診療録(乙A1の27頁)は改ざんされたものであるなどと主張する。

しかしながら,証拠(乙A5)によれば,J看護師は午後8時のG医長の回診や,午後9時のI医師の診察に立ち会っていなかったことが認められ,医師らの診察に立ち会わなかった看護師が,医師らの診察について看護記録に記載しないことは何ら不自然ではない。

また,証拠(乙A4)によれば,I医師やG医長が診察に用いた喉頭ファイバースコープは,携帯型であり,印刷機能を有していないものであったこと,原告Aは,本件手術後の午後5時30分ころに喉頭ファイバースコープによる診察があった旨陳述しており,そのころに喉頭ファイバースコープによる診察が行われたことが明らかであるにもかかわらず,診療録にはその診察時の喉頭ファイバースコープの写真が添付されていないことからすれば(乙A1),診療録に午後8時のG医長の回診時の喉頭ファイバースコープの写真が添付されていないことをもって,午後8時のG医長による回診という事実がなかったということはできない。

その他,午後8時のG医長らの回診,午後9時のI医師の診察に関する診療録の記載について,改ざん等が疑われるような事情を認めることはできず,これらの診療録の記載が改ざんされたものであるとの原告らの主張は理由がない。

イ(ア) 原告らは,診療録のフローシート(乙A1の99頁)のグラフの時間軸上の時間の記載が訂正されていることについて,この訂正前の時間軸上の時間の記載と,被告病院の救急部の医師が記載した診療録の記載(乙A1の36頁)とを照らし合わせると,各時間帯に行われた診療行為等が合致しており,訂正される前の時間軸上の時間が正しいにもかかわらず,その後にその記載について改ざんされたなどと主張する。

これに対し,被告は,緊急時に時計を見ながらリアルタイムで記録を取る余裕はなく,フローシートの時間の記載等は,8月11日の午後11時過ぎの気管切開後に記載したものを,同月13日に追記訂正したものであると主張し,I医師の携帯電話の着信記録等に基づき午後10時以降の時間軸がずれていることが明らかとなったため,同月13日にフローシートの追記・訂正に至った旨の報告書が存在する(乙A3)。

(イ) 乙A第3号証及び同第5号証によれば,フローシートは,8月11日午後11時過ぎに,Eの気管切開が終了した後に,J看護師により作成され始め,それ以前に発生した事項については,記憶に基づき記載したものの(以下,このころ記載された部分を「当初の記載」という。),正確でなかったことから,8月12日に,関係者が集まって時間等を確認し,13日に追記・訂正したこと(以下,これにより追記等された部分を,「訂正後の記載」という。)が認められる。

当初の記載と訂正後の記載は,Eの容体の経緯や看護師等の対応については,おおむね一致しているけれども,訂正後の記載は,それぞれの時刻が記入されている点,I医師からコールバックがあった事実及びEからナースコールがあった事実とその時間,I医師の到着した時点等に相違がある。

前記1(2)のとおり,J看護師は,8月11日午後10時10分ころまで,Eの点滴の処置をし,同人から容体を聞き取るなどをし,それをI医師に報告して指示を受けるために,ナースステーションに戻ろうとした際,他の患者からナースコールがあり,15分ないし20分程度その対応をして,ナースステーションに戻り,I医師の携帯電話に電話をかけたが,I医師は電話に出なかったため,J看護師は,I医師の留守番電話に伝言を残し,L医師の携帯電話に電話をかけたところ,その電話中に,I医師から電話があったので,I医師に対し,Eの状況を報告したところ,I医師は,被告病院に向かうこととなったことが,それぞれ認められる。そうすると,J看護師が,I医師に最初に電話した時間は,午後10時10分ころから15分ないし20分程度経過した午後10時25分ないし30分ころと推測されるから,当初の記載では,I医師への最初の電話が,フローシートの午後10時10分ころの位置に記載されている点は,正確とは言い難い。

乙A第1号証の28頁の入院診療録の記載のうち,午後11時5分ころより前の部分は,乙A第3号証によれば,同日午後11時30分ころから,I医師が,看護師からのヒアリングを踏まえて記載したものであることが認められ,また,前記のとおり,看護師らは,フローシートの当初の記載部分については,再検討後,訂正したものの,診療録の医師作成に係る部分については,訂正は行っていないことが認められるところ,I医師の上記記載部分によれば,午後10時10分から,ハイドロコートンの点滴が開始されたこと,午後10時20分,看護師から電話があり,Eに呼吸困難感があるなどの報告を受け,呼吸をゆっくりするように指示するとともに,そちらに向かう旨述べたこと,午後10時30分ころ,呼吸停止となり,L医師を呼び,ドクターハートを要請したこと,午後10時39分に婦長から電話があり,心停止の報告を受け,午後10時40分過ぎに病室に到着したことが記載されている。これらの記載は,看護師からのヒアリングに基づいてされたものであるにせよ,約1時間後に記載されたものであり,I医師は,それまでの事実の経過を同医師の記憶と齟齬することなく記載したものと推認できる。しかし,I医師作成の上記部分では,最初に看護師から電話で,Eの容体の報告があったのは午後10時20分であり,I医師が病室へ向かう旨述べた後,午後10時39分に婦長から心停止の連絡を受けたと記載されているのに対し,フローシートの訂正後の記載では,看護師は,午後10時39分にI医師に最初の電話をし,午後10時41分に,I医師からコールバックがあった旨記載されており,これらの時刻は,必ずしも一致しない。

原告は,フローシートの当初の記載が正しい旨主張するけれども,午後11時過ぎの同じころにI医師により記載された診療録の記載とも齟齬するものであり,フローシートの当初の記載が時間軸との関係で正確であるとは言い難い。

そうすると,前記のとおり,J看護師は,午後10時10分ころまで,Eの対応をし,その後,他の患者からのナースコールに対し15分ないし20分対応した後の,午後10時25分ないし30分ころにI医師に電話したことが推認されるから,午後10時10分ころの位置にI医師に最初の電話をした旨記載のあるフローシートの当初の記載は,この点,正確とは言い難いけれども,他方,訂正後の記載も,前記I医師の記載部分と照らして検討すれば,完全に正確であると断定するには足りないと言うべきである。

(ウ) 以上のとおり,フローシートの当初の記載は,午後10時以降に生起した事情の経過を記載したものとしては信頼できるけれども,当初,I医師に電話した時点を,午後10時10分ころの位置に記載しているなど,それぞれの記載が,正確な時点を示していると見るには,疑問を抱かざるを得ない。しかし,訂正後の記載も,I医師からのコールバックの時点を午後10時41分とするなど,時刻の厳密な正確性については,なお,疑問なしとしないから,本件の事実経過については,前記認定の範囲にとどまらざるを得ない。

しかしながら,本件において,原告の主張するように,被告病院が看護体制のミス等を隠蔽するために診療録の改ざんをするのであれば,フローシートのみが訂正され,救急部の医師の記載(乙A1の36頁)や,I医師の記載(乙A1の28頁)などの訂正等が行われないことは考え難く,また,隠蔽目的で改ざんするのであれば,フローシート全体を取り替えれば足りるのであり,あえて訂正印などを用いて訂正するということも考え難い。

そうすると,フローシートの訂正後の記載が,客観的に正確であることは,なお,断定するには足りないけれども,これをもって,被告病院において,術後の看護体制のミスを隠蔽するために診療録の改ざんがなされたということを認めることはできず,フローシートを改ざんした旨の原告らの主張は採用できない。

2  医学的知見

証拠(甲B8,B9,乙B1,B3の1)によれば,披裂軟骨内転術及びその術後管理等について,以下の医学的知見が認められる。

(1)  披裂軟骨内転術とは,声帯内転時の披裂軟骨の回転を糸による牽引で模し,声帯を正中固定する手術法であり(乙B1),一側性声帯麻痺,特に後部声門における声門閉鎖不全が高度な症例の嗄声改善に良い適応となる(甲B8)。

(2)  披裂軟骨内転術の術後管理等について

ア G「披裂軟骨内転術のコツと pitfall」『Monthly BookENTONI No.72』(2007(平成19)年2月15日発行。甲B8)には,「本術式で一番問題となる合併症は呼吸困難である。声門を狭窄させる術式であるため若干の呼吸困難感は生じうるが,高度の声門狭窄が生ずると致命的になる」と記載され,その対策として,「頸部および内視鏡による喉頭所見の確認」,「ステロイド投与」,「陰圧ドレーン」を行うことが記載されている。

同文献には,「頸部および内視鏡による喉頭所見の確認」について,「抜管時に声帯の内転具合と,喉頭浮腫の有無を内視鏡で確認する。この時点で問題となるような気道狭窄があれば,悪化するおそれがあるため気管切開を施行すべきである。その後も頸部や喉頭の状態を経時的にチェックする。術後ある程度の喉頭浮腫は生じうるが,通常は経過観察可能であり,また翌日までにピークを迎えることが多い」と記載され,「ステロイド投与」の内容について,「術中・術後にステロイドの静注や吸入などで喉頭浮腫の予防をはかる。実際には喉頭の所見より増減および継続を決定するが,翌日までで十分な場合が多い」と記載され,陰圧ドレーンについて,「創部よりの出血や滲出液は喉頭の浮腫を悪化させるため,陰圧ドレーンを留置する」と記載されている。

また,同文献には,「喉頭浮腫が生じた場合,気管挿管は困難であるため気管切開術を行う。筆者の経験では気管切開を必要とした例は2~3%であり,全例創部の術後出血が原因であった」と記載されている。

イ U,G,V,W「反回神経麻痺の音声外科-披裂軟骨内転術の治療成績と問題点-」『音声言語医学 第41巻第3号』(2000(平成12)年7月20日発行。甲B9)には,手術における問題について,「術後,喉頭の浮腫,血腫などの理由で気管切開を必要とする可能性がある」と記載されている。

ウ X,Y,G「披裂軟骨内転術の合併症とその対策-術後の呼吸困難を中心に-」(平成19年5月開催の第108回日本耳鼻咽喉科学会総会・学術講演会の資料。乙B3の1)には,1982年から2007年までに披裂軟骨内転術が行われた196例のうち,合併症として呼吸困難感があったものが49例あり,そのうち術後出血の生じた3例では,高度の喉頭浮腫に対して気管切開を施行し,その他は1日から2日以内に改善したこと,緊急気管切開が行われた上記3例の帰室時から呼吸苦出現までの時間は,それぞれ5時間,8時間,3時間であり,呼吸苦出現から気管切開までの時間は,それぞれ1時間30分,13時間,2時間30分であったことなどが記載されている。

(3)  気管切開等について

ア 兵藤政光「気管切開の適応と手技」『Monthly Book ENTONI No.50』(2005(平成17)年6月。甲B3)には,「気管切開術はその緊急度に基づけば緊急気管切開と選択的(あるいは非緊急,待機的,予防的)気管切開とに分けられる。近年は気管内挿管技術の発達とラリンジアルマスクやトラヘルパーなど気道確保のための医療器具の普及により,選択的気管切開の割合が相対的に増加しつつある。呼吸困難が高度の例や全身状態が悪い例では,手術に伴う合併症予防の観点からも気管内挿管などにより気道を確保した上で気管切開を行うことが望ましい」と記載されている。

イ 『耳鼻咽喉科学』(昭和60年1月10日第1版発行。甲B12の1ないし3)には,気管切開術の適応について,「頭頸部領域の大手術の術中・術後の処置と呼吸管理のために,手術に先立って行われる」と記載されている。

3  争点(1)(I医師の過失の有無)について

前記1の事実及び前記2の医学的知見等に基づいて,I医師に原告ら主張の過失があったか否かについて検討する。

(1)  原告らは,午後5時30分ころ及び午後9時ころにI医師がEを診察した際に,Eの状態悪化に備えて気管切開をすべき義務があったにもかかわらず,これを怠ったなどと主張するので,まず,午後5時30分ころ及び午後9時ころ,I医師に気管切開をすべき義務があったか否かについて検討する。

ア 前記2(2)ア,イの医学的知見によれば,披裂軟骨内転術において一番問題となる合併症は呼吸困難であり,その対策として,抜管時に喉頭浮腫の有無を内視鏡で観察し,この時点で問題となるような気道狭窄があれば,悪化するおそれがあるため気管切開を施行すべきとされ,その後も頸部や喉頭の状態を経時的に観察すること,術後ある程度の喉頭浮腫は生じ得るが,通常は経過観察が可能であり,翌日までにピークを迎えることが多いとされ,術後,喉頭浮腫などの理由で気管切開が必要となる可能性があるとされている。

そして,前記2(3)ア,イの医学的知見によれば,呼吸困難が高度の例や全身状態が悪い例では,手術に伴う合併症予防の観点からも気管内挿管などにより気道を確保した上で気管切開を行うことが望ましいとされ,頭頸部領域の大手術の術中・術後の処置と呼吸管理のために,手術に先立って行われるとされているところ,本件手術後に喉頭浮腫が生じ,高度の呼吸困難等が生じる可能性が高いということであれば,本件手術後に予防的に気管切開を施行しておくことも考えられるところである。

しかしながら,前記2(2)ア,ウのとおり,G医長の経験では,披裂軟骨内転術後に気管切開を必要とした例は2ないし3%であったこと,披裂軟骨内転術が行われた196例のうち,合併症として呼吸困難感があったものが49例あり,そのうち術後出血の生じた3例では,高度の喉頭浮腫に対して気管切開を施行したこと,緊急気管切開が行われた3例の帰室時から呼吸苦出現までの時間は,それぞれ5時間,8時間,3時間であり,呼吸苦出現から気管切開までの時間は,それぞれ1時間30分,13時間,2時間30分であったことが認められる。

気管切開が患者にとって負担であること(証人Z),前記のとおり,披裂軟骨内転術後に気管切開が行われるのは2ないし3%程度の症例であること,気管切開が行われた症例においても,呼吸苦が出現してから1時間以上経過してから気管切開を行うことにより対応できることなどからすれば,本件手術が喉頭の手術であり,術後に気道狭窄を生じる可能性があるからといって,披裂軟骨内転術後に必ず予防的な気管切開をすべきであるということはできず,術後に問題となるような気道狭窄が認められ,それが悪化するおそれがある場合に気管切開をすべき義務が生じるものというべきである。

イ これを本件についてみると,前記1(2)イ,ウのとおり,手術室から戻った午後4時35分ころ,Eに呼吸困難感はなく,酸素マスク4Lにて酸素飽和度(SaO2)は97%であったこと,午後5時30分ころ,Eは,ベッドを起こした状態であったこと,頸部が押されるような圧迫感と吸いにくさを訴えていたこと,Eの呼吸数は1分間に26ないし30回であったこと,喉頭ファイバースコープ上,吸気時に声帯の膜様部後方が1mm程度開くこと,左の声帯の動きがやや悪いこと,右披裂部の浮腫がほぼなかったこと,頸部の視診上,頸部皮下出血はなく,頸部の聴診上,喉頭からの狭窄音がなかったこと,4Lの酸素投与にて,酸素飽和度は96ないし97%であったことが認められる。

このような状態のEに対して,気管切開をすべきであったか否かについて検討するに,声帯の膜様部後方が1mm程度開くという喉頭ファイバースコープ上の所見は,通常よりも狭いといえる(証人I)。

しかしながら,証人I及び証人Gによれば,喉頭ファイバースコープ上見えない声帯突起の後方側には大きな空間があり,その部位も含めて声門間隙が1mmであれば,会話もできない程度の非常に強い努力様の呼吸という状態となり,狭窄音が聞こえるはずであるとされているところ,前記のとおり,狭窄音はなく,ほぼ普通に会話をしていたことから,声帯突起の後方が空いていた可能性が高いこと,緊張を解いた状態でないと声帯が大きく開かない場合があるところ,Eは喉頭ファイバースコープが挿入されて緊張した状態になっていたため,声帯が開かず,左声帯の動きがやや不良となっていた可能性があること(乙A6,証人G)などにかんがみると,声帯の膜様部後方が1mm程度という喉頭ファイバースコープの所見をもって,直ちに気管切開を必要とするような気道狭窄が生じていたということはできない。

また,本件では,呼吸数が1分間に26ないし30回と多いこと,Eがファーラー位であったこと,Eが頸部の圧迫感や呼吸のしにくさを訴えていたことなどが認められるけれども,前記2(2)アの医学的知見によれば,披裂軟骨内転術の後に若干の呼吸困難感は生じ得るとされ,乙B第2号証(a医師の意見書)によれば,披裂軟骨内転術後は,包帯をするので圧迫感は通常見られ,呼吸数は若干多いものの,術後であること,Eには肺合併症があることから,緊急に対処を要するものではなく,全身麻酔の術後は呼吸困難感があるのが普通であるとされているところ,証人Iも,圧迫感の訴えは比較的よく見られる症状である旨証言していること,ファーラー位であるからといって直ちに呼吸困難であるとはいえないこと(証人I),普通に会話ができる状態にあったこと,頸部の狭窄音がなかったこと,右披裂部の浮腫がほとんどなかったことなどからすれば,呼吸数が多いなどの症状や圧迫感を訴えたことなどが,直ちに気管切開を必要とするような気道狭窄によって生じたものであるということはできない。

以上のように,午後5時30分ころのEには,右披裂部の浮腫がないなど,直ちに気管切開を必要とするような気道狭窄が生じていたということはできず,この時点において,I医師に気管切開をすべき義務があったということはできない。

ウ また,前記1(3)オ,キのとおり,午後8時ころ,喉頭ファイバースコープの所見は,声門膜様部が1mm程度と狭めであり,左声帯の動きが若干不良であったが,披裂部も含めて喉頭浮腫はほとんど認められず,吸気時の喘鳴もなく,通常の会話が可能であり,I医師が午後5時30分ころに診察した際の喉頭所見や自覚症状とほとんど変化はなかったこと,午後9時ころ,頸部の視診上,頸部皮下出血はなく,頸部の聴診上,喉頭からの狭窄音もなく,呼吸困難感はあまり変化はなかったことが認められる。

前記イのとおり,午後5時30分ころのEに,直ちに気管切開を必要とするような気道狭窄があったということはできないところ,上記のとおり,午後8時ころ及び午後9時ころのEには依然として喉頭浮腫や狭窄音が認められず,自覚症状等にも変化がなかったことからすれば,午後9時の時点においても,直ちに気管切開を必要とするような気道狭窄が生じていたということはできない。

(2)  原告らは,午後5時30分ころ及び午後9時ころにI医師がEを診察した後に,G医長や看護師らに対し,Eの声門狭窄等の状態を報告するとともに,ステロイドの追加点滴やネブライザーを実施し,喉頭浮腫の発生を防止する義務があったにもかかわらず,これを怠ったなどと主張する。

しかしながら,証人Gは,ステロイドの投与間隔について,大体6時間ごと,短い場合でも3,4時間後である旨証言しているところ,前記1(2)アのとおり,午後3時40分ころと午後4時20分ころに,Eに対し,ハイドロコートン100mgがそれぞれ投与されていること,前記1(2)ウ,オ,キのとおり,午後5時30分ころ及び午後8時ころのEには喉頭浮腫がほとんど認められなかったこと,午後9時ころのEには狭窄音もなく,午後8時ころの状態とあまり変わりがなかったこと,前記(1)イ,ウのとおり,問題となるような気道狭窄があったとはいえないことなどにかんがみると,午後4時20分のハイドロコートンの投与から約1時間程度しか経過していない午後5時30分の時点において,喉頭浮腫を防止するために,ステロイドの追加点滴やネブライザーをすべきであったということはできず,また,午後10時にハイドロコートンの投与が予定されているにもかかわらず,あえてその予定を1時間早めて午後9時の時点で投与すべき必要があったということもできない。

また,前記1(2)ウのとおり,午後5時30分ころにI医師がEを診察した際には,J看護師が立ち会っていたこと,証拠(乙A6)によれば,G医長は,I医師から午後5時30分の診察結果の報告を受けていることが認められることからすれば,I医師がEの状態についての報告を怠ったということはできず,また,午後9時ころのEの状態は,それ以前の状態とあまり変化がなかったことからすれば,I医師がG医長らに報告しなかったことをもって,過失があるということもできない。

以上のとおり,I医師が,G医長や看護師らに対し,Eの声門狭窄等の状態を報告するとともに,ステロイドの追加点滴やネブライザーを実施し,喉頭浮腫の発生を防止する義務を怠ったという原告らの主張は理由がないというべきである。

(3)  原告らは,受持医であったI医師には,本件手術後少なくとも24時間が経過するまでは,被告病院に常駐し,速やかに気道確保に当たるべき義務等があったにもかかわらず,これらを怠ったなどと主張する。

そこで,原告らが主張するような本件手術後から24時間が経過するまでの常駐義務違反の有無について検討する。

ア 前記2(2)ア,イの医学的知見によれば,披裂軟骨内転術において一番問題となる合併症は呼吸困難であり,その対策として,抜管時に喉頭浮腫の有無を内視鏡で観察し,その後も頸部や喉頭の状態を経時的に観察すること,術後ある程度の喉頭浮腫は生じ得るが,通常は経過観察が可能であり,翌日までにピークを迎えることが多いとされていること,術後,喉頭浮腫などの理由で気管切開が必要となる可能性があるとされていること,証人Gは,術後の管理体制について,急激な変化は通常ないことから,2時間から3時間,場合によっては4時間から5時間ごとに医師が診察をする旨証言していること,b医師は,披裂軟骨内転術後は,気道確保できる医師が院内に待機していることが必要である旨述べていること(甲B4,B6),証人aは,当直医がいれば主治医がいなくても十分である旨証言していることなどからすれば,披裂軟骨内転術から24時間程度が経過するまでの間は,頸部や喉頭の状態を経時的に確認する必要があり,また,その間は,喉頭浮腫による気道狭窄が生じた場合などに備え,気道確保の措置をなし得る医師を院内に待機させておく必要があるというべきである。

そして,前記2(2)ウのとおり,披裂軟骨内転術が行われた196例のうち,合併症として呼吸困難感があったものが49例あり,そのうち術後出血の生じた3例では,高度の喉頭浮腫に対して気管切開を施行したこと,緊急気管切開が行われた3例の帰室時から呼吸苦出現までの時間は,それぞれ5時間,8時間,3時間であり,呼吸苦出現から気管切開までの時間は,それぞれ1時間30分,13時間,2時間30分であったことなどが認められるところ,G医長は,これまで経験した術後出血に関しては,術後より明らかに出血が継続し,頸部腫脹が甚だしかったものを除き,術後数時間にわたって,頸部の腫脹や呼吸困難は徐々に進行するため,気管切開の必要性について患者に説明し,手術器具を準備した上で施行することができた旨陳述していること(乙A6),証人Zは,呼吸苦から気道切開まで数十分から数時間程度の余裕があることはそのとおりであり,急激な出血の経験もない旨証言していること,証人aは,数分で気管切開の用意をするのは現実的に無理である旨証言していることなどからすれば,披裂軟骨内転術の後,常時,数分程度で気管切開等の気道確保の措置が執り得る体制を確保しておかなければならないということはできず,上記のとおり,気道確保をなし得る医師が院内に待機していれば足りるというべきであり,患者に呼吸苦が出現した場合には,それから,前記のとおり,ある程度の時間をかけて徐々に進行する腫脹等による呼吸困難が生ずるまでに気管切開などの措置を執り得るよう準備をしておく必要があるというべきである。

イ これを本件について見ると,前記1(2)ウ,オ,キのとおり,I医師は,本件手術後の午後9時ころまでは,Eを診察するなどしており,被告病院内にいたこと,その後も,午後8時のG医長の回診にも立ち会い当時のEの状態を把握していた耳鼻咽喉科のL医師が,被告病院内で待機していたこと(証人I),被告病院には,ドクターハートと呼ばれる院内緊急応援医師招集システム(心血管医系医師,麻酔医,救急医からなる。)があること(乙A5,証人I,証人G),前記1(3)ケのとおり,L医師及びドクターハートの医師5名は,J看護師らからの要請を受けて,Eの病室に来棟していることが認められ,午後10時10分以降に生起した事情の経過にかんがみると,その要請からL医師やドクターハートの医師らが到着するまでにそれほど長時間を要したとは考え難く,わずかの時間で到着したことがうかがわれる。

また,前記1(2)イ,ウ,オ,キのとおり,本件手術後の午後4時35分ころ,呼吸困難感はなく,午後5時30分ころ,酸素飽和度は96ないし97%であり,右披裂部の浮腫はほぼなく,喉頭からの狭窄音も認められかったこと,午後8時ころ,披裂部を含めて喉頭浮腫はほとんど認められず,吸気時の喘鳴もなく,通常の会話が可能であったこと,午後9時ころも喉頭の喘鳴音もなく,呼吸困難感については従前とあまり変化がなかったことなどが認められ,前記(1)イ,ウのとおり,問題となるような気道狭窄が生じていたとは認められないことからすれば,本件手術後から午後9時ころまでの間にEに呼吸苦が出現したということはできない。

前記のとおり,呼吸苦が出現していない段階では,披裂軟骨内転術の後,常時,数分程度で気管切開等の措置が執り得る体制を確保しておかなければならないということはできず,気道確保をなし得る医師が院内に待機していれば足りるところ,本件では,午後9時ころまでの間にEに呼吸苦が出現したものとは認められないこと,本件手術後の被告病院内に,午後9時ころまでは受持医であるI医師がおり,その後も,L医師やドクターハートの医師がおり,L医師やドクターハートの医師5名が,J看護師らからの要請を受けて,わずかの時間でEの病室に到着していることからすれば,被告病院の本件手術後のEの管理体制について特段の不備があったということはできず,I医師に過失があったということはできない。

(4)ア  なお,原告らは,Eは,術後の肺合併症のリスクが高いとされ,本件手術の前に甲状腺に対する手術を受けており,頸部は,癒着及び循環障害等が考えられ,出血しやすく,浮腫が生じやすい状態であったなどと主張し,Z医師の意見書(甲B7の2)にも,これに沿う意見が記載されている。

しかしながら,前記(3)アのとおり,披裂軟骨内転術の後には,喉頭浮腫が生じ得ることが指摘されていることなどから,披裂軟骨内転術から24時間程度が経過するまでの間は,頸部や喉頭の状態を経時的に確認する必要があるところ,前記1(2)ウ,オ,カのとおり,午後5時30分ころ,午後8時ころ,午後9時ころに,I医師やG医長らが,Eの頸部や喉頭の状態を確認し,喉頭浮腫がほぼ認められていないことからすれば,Eが本件手術前に甲状腺に対する手術を受け,癒着等が生じやすい状態であったことをもって,直ちに予防的に気管切開をすべきであるということはできず,また,常時,数分で気管切開ができるような体制を確保しておくべきであったということもできない。

また,前記1(1)エのとおり,Eは本件手術以前に術後の肺合併症のリスクが高いと指摘されていたことは認められるけれども,肺合併症が生じた場合にはそれに対する処置をすべきであるということはいい得ても,前記のとおり,喉頭浮腫がほとんど見られないなど,直ちに気管切開を必要とするような気道狭窄が生じていたとはいえないことからすれば,術後の肺合併症のリスクが高いと指摘されていたことをもって,予防的に気管切開をすべきであったということはできず,また,常時,数分程度で気管切開ができる体制を確保しておくべきであったということもできない。

イ  原告らは,午後5時30分,午後8時,午後9時の各時点において,Eは呼吸困難な状態にあった旨主張し,証人Zも,起坐呼吸であること,頻呼吸であったこと,声門間隙が1mm程度であったことなどから,午後5時30分の時点で呼吸苦が出現していた旨証言する。

しかしながら,前記(1)イのとおり,ファーラー位であるからといって,直ちに呼吸困難があるとはいえないこと,術後であり,肺合併症により呼吸数が多くなることもあり得ること,普通の会話ができ,喉頭浮腫もほとんど認められなかったことなどからすれば,午後9時ころまでの間に,気管切開の要否を検討するような呼吸困難又は呼吸苦が出現していたということはできず,午後5時30分ころ,午後8時ころ,午後9時ころの呼吸のしにくさの訴えなどから,Eに呼吸困難感があったとしても,前記2(2)ア,ウの医学的知見によれば,披裂軟骨内転術は声門を狭窄する術式であるため,若干の呼吸困難感は生じ得るとされ,披裂軟骨内転術後に呼吸困難感が生じた49例のうち,その後呼吸苦が出現し,気管切開に至ったのは3例であることからすれば,呼吸苦の出現が認められない以上,Eに対し,予防的に気管切開をすべきであったということはできず,また,数分内に気管切開ができるような体制を確保しておくべきであったということもできない。

また,原告らは,本件手術後から午後9時までの間,ファーラー位や呼吸困難の訴えが継続していたことから,呼吸困難があったなどと主張するけれども,前記(1)イのとおり,ファーラー位があるからといって,呼吸困難であるといえないことなどからすれば,これらが継続したことをもって,気管切開の要否を検討するような呼吸困難や呼吸苦が出現していたということはできない。

ウ  また,原告らは,本件手術後,病棟に戻ってきたEが血の混ざった痰を2回吐くなどの出血があり,浮腫が生じやすく,また,血が混ざった痰があった後は内視鏡での観察が必要であるにもかかわらず,午後9時ころ,I医師は,内視鏡による観察を行わなかったなどと主張する。

原告Aは,本件手術後にEが血の混ざった痰を2回吐いたと陳述しているところ(甲A),仮にそのような事実があったとしても,乙B第2号証(a医師の意見書)によれば,挿管麻酔後には痰が出ることはまれではなく,血が混ざっていることが1,2度であれば経過を見るだけでよく,血の混ざった痰が止まらなければ,内視鏡での観察が必要であるとされているところ,本件証拠上,その後もEが血の混ざった痰を継続して吐いていたとは認められないこと,午後5時30分ころ及び午後8時ころに喉頭ファイバースコープによる診察等が行われ,喉頭浮腫がほとんどないことが確認されていることからすれば,午後9時ころに喉頭ファイバースコープによる診察をしなければならなかったということはできない。

エ  なお,原告らは,L医師は,1mmの声門間隙しかないEに対し,7mmの挿管を試みるなど,Eの状態がL医師に伝わっておらず,このようなL医師が被告病院内に待機していたことをもって,術後の管理体制に過失がなかったとはいえないなどと主張するけれども,前記1(2)オのとおり,L医師は,午後8時ころのG医長の回診に立ち会っており,Eの状態がL医師に伝わっていなかったということはできない。

また,前記(1)イのとおり,喉頭ファイバースコープ上,声帯膜様部後方が1mm程度という所見であったとしても,当時のEの状態等からすれば,声帯突起の後方が空いていた可能性が高いこと,証人aは,声門は披裂軟骨で支えられた動く臓器であって,他動的に広がる旨証言していること,証人Gは,被告病院の麻酔科の医師は,第一に挿管を試みても問題はないという見解であった旨証言していることなどからすれば,L医師が直径7mmの挿管を試み,結果的に気管挿管ができなかったとしても,そのことをもって,L医師が気道確保等の措置をすることができない医師であったということはできず,原告らの主張は理由がない。

4  争点(2)(G医長の過失の有無)について

前記1の事実及び前記2の医学的知見等に基づいて,G医長に原告らが主張する過失があったか否かについて検討する。

(1)  原告らは,午後8時ころにG医長がEを診察した際に,Eの状態悪化に備えて気管切開をすべき義務があったにもかかわらず,これを怠ったなどと主張する。

しかしながら,前記3(1)アのとおり,披裂軟骨内転術後に必ず予防的な気管切開をすべきであるということはできず,術後に問題となるような気道狭窄が認められ,それが悪化するおそれがある場合に予防的に気管切開をすべき義務が生じるものというべきであるところ,前記1(2)オのとおり,G医長が回診をした午後8時ころのEは,坐位をとっていたこと,喉頭ファイバースコープ上の喉頭所見は,膜様部声門が1mm程度と狭めであり,左声帯の動きが若干不良であったが,披裂部も含めて喉頭浮腫はほとんど認められなかったこと,吸気時の喘鳴もなく,通常の会話が可能であるなど,I医師が午後5時30分ころに診察した際の喉頭所見や自覚症状とほとんど変化はなかったことが認められ,午後5時30分ころ及び午後9時ころと同様(前記3(1)イ,ウ),午後8時の時点においても,直ちに気管切開を必要とするような気道狭窄が生じていたということはできない。

したがって,午後8時の時点において気管切開をすべき義務を怠ったという原告らの主張には理由がない。

(2)  原告らは,午後8時ころにG医長がEを診察した際に,ステロイドの追加点滴やネブライザーを実施し,喉頭浮腫の発生を防止する義務があったにもかかわらず,これを怠ったなどと主張する。

しかしながら,前記3(2)のとおり,午後3時40分ころと午後4時20分ころに,Eに対し,ハイドロコートン100mgがそれぞれ投与されていることなどにかんがみると,喉頭浮腫がほとんど認められない午後8時の時点においても,喉頭浮腫を防止するためにステロイドの追加点滴やネブライザーを施行する必要があったということはできず,原告らの主張には理由がないというべきである。

(3)  原告らは,G医長は,本件手術後少なくとも24時間が経過するまでは,速やかに気道確保ができるよう準備をしておくことなどをI医師らに指導監督しておく義務があったにもかかわらず,これらを怠ったなどと主張する。

しかしながら,前記3(3)アのとおり,披裂軟骨内転術の後,常時,数分程度で気管切開等の措置が執り得る体制を確保しておかなければならないということはできず,気道確保をなし得る医師が院内に待機していれば足りるところ,本件では,前記3(3)イのとおり,午後9時ころまでの間にEに呼吸苦が出現したものとは認められないこと,本件手術後の被告病院内に,午後9時ころまでは受持医であるI医師がおり,その後も,L医師やドクターハートの医師がおり,L医師やドクターハートの医師5名が,J看護師らからの要請を受けて,わずかの時間でEの病室に到着していることからすれば,被告病院の本件手術後のEの管理体制について特段の不備があったということはできず,G医長に過失があったということはできない。

5  以上のとおりであって,その余の点について判断するまでもなく,原告らの請求は理由がないから,これを棄却することとし,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 浜秀樹 裁判官 松田浩養 裁判官 松井俊洋)

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