東京地方裁判所 平成19年(ワ)5766号 判決 2007年12月14日
原告
X
同訴訟代理人弁護士
上条貞夫
被告
株式会社Y旅行
同代表者代表取締役
A
同訴訟代理人弁護士
飯野信昭
八代徹也
赤塚順一郎
堀口昌孝
主文
原告の請求をいずれも棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第一請求の趣旨
1 原告が、被告に対し、労働契約上の権利を有する地位にあることを確認する。
2 被告は、原告に対し、平成一八年四月二五日から毎月二五日限り五四万七七六六円及びこれらに対する各支払期日の翌日から支払済みまで年六分の割合による金員を支払え。
第二事案の概要
1 本件は、被告に勤務していた原告が、五五歳時に管理職がその職を外れるとの就業規則の規定(以下「役職定年」という)の適用に当たり、従来五五歳で関連会社等に移籍するとの取扱いがあったところ、原告は、被告から内示された関連会社への移籍を断り、退職届を提出して退職したが、その際、役職定年制を誤解して退職しなければならないものと誤信していたため退職届を提出したので、依願退職は錯誤により無効であると主張して、その地位の確認とともに、それ以降の賃金及び遅延損害金の支払を求める事案である。
2 前提となる事実
(1) 原告は、昭和四九年四月から被告に雇用され、平成四年四月に管理職となり、平成一五年以降は経営管理部に所属して社団法人日本旅行業協会に出向していたが、平成一八年三月三一日限り退職した。なお、退職当時の賃金は、月額五四万七七六六円であった。(争いのない事実)
(2) 被告における従業員の定年は六〇歳であるが、管理職については、五五歳となった後の三月三一日でその職を外れるものとされ、役職定年となった以降は、被告の関連会社に移籍するか、被告社内に残る場合には、プロフェッショナル職として、別体系の年俸が支給されることとされている。また、他に選択定年制度があり、勤続二〇年以上の者が五五歳となった月の末日で任意退職するときは、六〇歳定年扱いの退職手当に一〇パーセントが加算されることとされている。(書証(省略)、争いのない事実)
(3) 原告は、平成一八年三月三一日で役職定年制により管理職を外れることとなったが、平成一七年八月ころ、被告は、これに伴う関連会社への移籍等に関し、「二〇〇六年度役職定年についてのご案内」と題する文書(書証省略)を送付して原告の希望を聴取したところ、原告は、同月一九日付け状況報告書を提出して、選択定年制度の申請予定はないこと、一三年間連続単身赴任となっているので、自宅のある桐生市付近での勤務を強く希望する旨を伝えた。また、原告は、上司であるB経営管理部長から、平成一七年一〇月一三日及び平成一八年二月七日に面談して、意向を確認されたが、その際にも上記のとおりの意向を述べた。(証拠省略)
(4) B部長は、同年三月九日、原告に対し、群馬県内での移籍先の確保は困難であり、埼玉県戸田市所在の株式会社日旅物流(以下「日旅物流」という)への移籍を内命される可能性が高い旨を内々に伝えたが、原告は、桐生から戸田への通勤は不可能であり、単身赴任とならざるを得ない以上、受諾は困難である旨を述べた。さらに、原告は、同月一四日にもB部長からの電話連絡で再度日旅物流への移籍の意向の確認を求められたが、桐生からの通勤時間が片道三時間二〇分、新幹線等を利用しても二時間三〇分かかるので、移籍には応じられない旨を答えた。これに対し、B部長は、同月一六日、電話で原告に対し、被告で決めた人事異動の内命はいったん出すこととなる旨述べ、連絡のための携帯電話番号を問い合わせた。(証拠省略)
(5) B部長は、同月二〇日、電話で日旅物流の管理課長への移籍の異動内示を原告に伝えたところ、原告は、これに応じられない旨返答した。そこで、B部長は、同月二三日に原告と面談してその意向を最終的に確認した上、退職に関する書類を人事部から受領して所要の手続をとるよう依頼した。そこで、原告は、翌二四日に人事部担当者から役職定年とこれに伴う移籍の手続書類を受領したが、原告は、日旅物流へ移籍する意思はない旨述べたので、担当者は、そうであれば、同月三一日までに退職届のみを提出するよう依頼し、原告はこれに応じて同月二九日に退職届を提出した。そのため、原告は、同月三一日をもって被告を退職となった。(証拠(省略)、争いのない事実)
3 争点及びこれに関する当事者の主張
(1) 原告
被告における定年は六〇歳であり、役職定年は退職の理由とはならないにもかかわらず、被告においては原告が役職定年に達したことを理由に退職届の提出を求めたものであり、原告は、それまで役職定年によりただちに退職、移籍をしなければならないものと誤信していたため、退職届を作成して提出した。しかし、原告は、役職定年後も六〇歳までは被告の従業員にとどまることが可能であることを認識していれば、退職届を提出することはなかった。したがって、原告の退職の意思表示は、錯誤により無効である。
(2) 被告
原告は、退職するとの内心の効果意思に基づいて退職届を提出したのであるから、内心と意思表示の不一致はなく、ただ、内心の形成に当たって役職定年により退職するものと誤信したという動機の錯誤があったにすぎず、その動機が表示されていない以上、法律行為の要素の錯誤があったということはできない。
また、そもそも、役職定年と退職とを同視するということは考え難く、原告は、役職定年に当たり、希望する桐生市周辺への異動がかなわなかったため、自ら退職を選択したものというべきである。
仮に、原告に上記の誤信があったとしても、就業規則を確認することや、何度も行われた上司との面談の場で質問することなどにより、誤信を正すことは極めて容易であったから、原告が錯誤により退職の意思表示をしたことについては、重大な過失があるというべきである。
第三当裁判所の判断
1 前提となる事実によれば、被告の役職定年制においては、管理職が五五歳に達したとしても、会社の提示する移籍先への移籍に応ずるか、プロフェッショナル職として被告の従業員にとどまるかを選択することができるから、原告としては、役職定年に達し、被告の提示する移籍先への移籍を拒んだ場合であっても、退職する必要はないこととされている。それにもかかわらず、原告においては、退職届提出までの経緯において、このような選択について検討した形跡は窺われないし、また、被告の作成した書類やB部長の説明においても、このような誤解があった場合にこれを積極的に解くような説明があったことも窺われないから、原告において役職定年に達して移籍に応じない場合には退職せざるを得ないものと誤信していたとの可能性は否定することができない。この点につき、原告は、被告が役職定年制においては移籍しない場合は退職するのがその制度であると原告を誤信させたと主張するが、被告作成の書類(「二〇〇六年度役職定年についてのご案内」・書証(省略))を見ても、積極的に誤信を招くような既述は見当たらないし、また、証拠(省略)によれば、B部長が原告に対し退職を前提として事後の手続をとるよう指示したのは、原告が桐生周辺の移籍先がなければ自分で就職先を探す旨述べていたためであると認められる。原告は、上記発言を否定するが、桐生周辺での就業を強く希望する以上、これがかなわなかったときには、プロフェッショナル職として被告での勤務を継続する可能性を認識していなかった原告としては、自ら就職先を探すほかはないのであるから、上記のような発言をするのは自然なことと解されるのであって、前掲証拠を疑う理由はないというべきである。また、B部長をはじめとする被告の担当者らにおいては、原告が移籍を拒否して退職すると述べているのに対して、特に疑問を差し挟んではいないが、原告は単身赴任の解消を強く望んでいたのであり、被告においてもこのことを考慮して被告の希望する群馬県に隣接する埼玉県での勤務を内示したものと解されるにもかかわらず、原告においてこれを拒否する以上、その後それよりも有利な処遇を受けることは極めて困難であると考えられ、単身赴任を解消するとの希望を優先して退職するという原告の行動はさほど奇異なものとは受け取られないから、原告の真意を質さなかったとしても、ことさら誤信を放置したものとみることもできない。もっとも、被告には早期退職制度により、関連会社への移籍をしないまま五五歳で退職する者に対しては退職金優遇をする制度があることからすると、当初から桐生周辺の就職にこだわり、退職という選択もあり得た原告に対しては、被告の人事担当者としては早期退職制度適用の検討をも促すことが相当であったとも考えられるが、原告は平成一七年一二月に五五歳に達したものである(書証省略)から同月中に退職する場合でなければ早期退職制度の適用を受けられないところ、被告の移籍先が具体化したのは平成一八年二月以降であったことから、その適用は時期的に困難であったといわざるを得ないのであって、被告においては、役職定年制と早期退職制度との関連をもった運用をすべきことが望まれるとしても、そのことから被告の対応に問題があったとまでいうことはできない。したがって、被告がことさらに原告を誤信させたものとはいうことはできない。
2 そして、上記誤信は、自らが退職するという効果意思と表示行為との間に不一致があったというものではなく、退職届を提出する必要がある場合か否かについての錯誤であるから、動機の錯誤にとどまるというべきであり、これが要素の錯誤に当たるためには、そのことが表示されたことを要するところ、原告は、終始役職定年制に伴う移籍に応じられないことから退職することを考えていたのであり、このことはB部長らにとっても当然の前提とされていたものと解されるから、退職の動機が役職定年により移籍を拒否するからである旨黙示に表示したものとみる余地もある。
3 しかしながら、被告の就業規則(書証省略)には、定年が六〇歳に達した月の末日である旨が明記されていて(四九条)、役職定年に関する労使協定(書証省略)にも、役職定年に伴い職位を外れた後は、移籍とプロフェッショナル職として被告にとどまることとの二つの場合があることが明記されていること、原告としては、これらを確認することや人事担当者に質問することなどで自らの誤信を解く機会は十分にあったとみられることからすると、原告に錯誤があり、これが表示されたものと解したとしても、原告が錯誤により退職の意思表示をしたことについては重大な過失があったものといわざるを得ず、したがって、原告が退職の意思表示につき無効を主張することはできないものといわざるを得ない。
4 以上によれば、原告の退職の意思表示に錯誤があったとしても、それは原告の重過失に基づくものといわざるを得ないから、その余の点につき判断するまでもなく、原告の請求は理由がないことに帰する。よって、主文のとおり判決する。
(裁判官 佐村浩之)