東京地方裁判所 平成2年(ワ)11616号 判決 1994年2月16日
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
理由
一 請求原因1(当事者)の事実は当事者間に争いがない。
二 繼代の診療経過等
《証拠略》によれば、以下の事実が認められる(なお、当事者間に争いのない事実も含まれる。)。
1 繼代の既往症、手術歴
繼代は、昭和三〇年ころ盲腸(虫垂)炎の手術を受け、昭和三八年ころ神戸の隈病院でバセドウ病のため甲状腺の摘出手術を受けたが、その際に麻酔が使用された(ただし、麻酔の種類と量については不明である。)。
被告病院も、本件手術の際には、繼代の右既往症、手術歴について承知しており、昭和六三年一二月七日には甲状腺機能に関する検査を実施した。
2 繼代の本件手術前の健康状態(術前検査)
昭和六三年一一月二四日に被告病院耳鼻咽喉科外来で実施された術前一般検査では、総ビリルビン値一・一(正常値〇・一~一・〇)、GOT一四(正常値五~二五)、GPT一六(正常値〇~二〇)、総コレステロール値一八五(正常値一三三~二五五)であり、検尿、血液生化学的検査では特に異常所見は見られず、血液学的に異常はなかつた。好酸球(Eosino。正常値は六パーセントまで)も四パーセントで正常範囲内であつた。ICG排泄試験(インドシアニングリーンテスト。色素を用いる肝機能検査。正常値は一五分値一〇パーセント以内)も一五分停滞率は八パーセントで正常であつた。
凝固因子の検査結果でも、プロトロンビン時間クイック一段法(正常値一〇・四秒~一三・一秒)が一一・三秒、活性部分トロンボプラスチン時間(正常値二四秒~三三秒)が二八・三秒で正常範囲にあつた。
昭和六三年一二月七日の甲状腺機能に関する検査の結果もすべて正常範囲にあつた。
以上のように、繼代は、本件手術当時、耳鼻咽喉科学的異常及び肥満(身長一六四センチメートル、体重七九・五~八〇キログラム)を除くと特に身体的異常はなかつた。
3 ハローセン麻酔の経過
昭和六三年一二月一六日の本件手術の際、繼代は、麻酔医である木村晶司医師により、午前八時三八分から午後〇時一六分にかけて、ハローセンを吸入麻酔薬とする全身麻酔を受けた。右麻酔について菊地博達医師(被告病院麻酔科教授)が側で指導にあたつていた(この点は争いがない。)。
本件手術自体は極めて順調に終了し、その後一二月二三日までの経過も極めて良好であつた。
なお、抗生物質であるアザクタムが一二月一六日に計三グラム、同月一七日から一九日まで毎日二グラム、同月二〇日から二二日まで毎日一グラム投与されていた(検証の結果)。
4 容体の急変
繼代は、右手術後八日目の同年一二月二四日午後一時ころから「気分が悪い」と訴えるようになり、翌二五日午後五時三〇分ころから三八度から三九度の高熱が続くようになり、著明な全身倦怠、食欲不振、嘔気、嘔吐が認められるようになつた。
5 急性肝炎の罹患、発症
(一) 昭和六三年一二月二二日の採血に基づく検査結果では、GOT一四、GPT一六と正常範囲にあつたが、総コレステロール値が一三三と同年一一月二四日の一八五より低下傾向を示していた。同年一二月二六日には、GOT四八、GPT三六に軽度上昇し、同月二八日にはGOT七一九、GPT七三九へと急上昇し、総ビリルビン値も二・二と明らかに異常を示した。
(二) 一二月二八日の血液凝固能の検査で、プロトロンビン時間二〇・七秒(対照一一・〇秒)、部分トロンボプラスチン時間四三・一秒(対照二七・七秒)、ヘパプラスチンテスト(HPT。正常値七〇~一三〇パーセント)四六パーセントと、凝固因子の低下が見られた。
(三) これらの検査結果から、被告病院は劇症肝炎への移行の可能性があると判断し、同年一二月二八日内科兼科(耳鼻咽喉科と内科の共同管理)とした。そして、同日午後五時三〇分ころ、被告病院内科の長山医師が原告の自宅に電話で呼び出しをして、同日原告が被告病院に出向いたところで「ものすごく肝臓が破壊されている。劇症肝炎になる可能性が高い。劇症肝炎は死亡率が高いので、ご主人も覚悟して下さい。一二月二九、三〇日が山です。親子兄弟会わせたい人がいたら呼んで会わせてあげてください。」と説明した。
6 内科兼科(昭和六三年一二月二八日)後の検査成績
(一) 血液学的検査
白血球数(WBC。正常値四〇〇〇~九〇〇〇)は、同月二二日に七〇〇〇、同月二六日に六九〇〇であつたものが、同月二八日には九〇〇〇、同二九日には一〇八〇〇、同三一日には一七七〇〇へと急上昇した。
平成元年に入ると、赤血球(RBC)、血色素量、ヘマトクリット(血液中に占める血球の容積の割合)がいずれも低下を示し、貧血が著明になり、死亡直前の同年二月末に最も高度となつた。
好酸球は、昭和六三年一二月二三日に二・五パーセントであつたところ、同月二八日には六・五パーセント、翌平成元年一月一一日には一三パーセント、同月一三日には一八パーセント、同月一八日には二三パーセントと急激な増多がみられた。
(二) 血液凝固能検査
血液凝固能検査は、術前には正常範囲内であつたが、内科兼科時から、プロトロンビン時間及び活性トロンボプラスチン時間が延長するようになり、ヘパプラスチンテストも一二月二八日、同月二九日には四六パーセントであつたものが、翌昭和六四年一月五日には一三パーセント、翌六日には一二パーセントと急激に減少した。これらの傾向は経過中、新鮮凍結血漿の補給により、一時的に改善するが、死亡時まで持続している。
(三) 血液生化学的検査
前記のように、術前には肝機能障害は認められなかつたのに、一二月二六日から、GOT・GPTが上昇しはじめ、GOTは同月二八日に七一九、GPTは同月二九日に一一一四とピーク値となつた。
その他に、LDH(乳酸脱水素酵素。正常値一一八~一八九)の上昇もみられ、同年一二月二八日に一二〇六とピーク値を記録した。
ビリルビン値(ビリルビンは胆汁色素の値で、この値が高いということは黄疸がでており、肝臓の障害が強いことを示す。)の上昇は、一二月末ころは軽度であつたが、次第に上昇し、昭和六四年一月六日に総ビリルビン値二二・三、直接型一〇・七、間接型一一・六となり、同年二月六日には総ビリルビン値五一・一、直接型二二・一、間接型二九・〇と常に間接型優位の高ビリルビン血症がみられ、死亡時まで持続した。
血清脂質では、昭和六三年一二月二八日内科兼科時から総コレステロール値の低下が認められ(一二月二八日一〇三と九九、二九日九三)、昭和六四年一月六日に七二と最低値となつた。
血中アンモニア値(正常値一五~六〇)は、昭和六三年一二月末から一〇〇を超えて上昇を示した。
三 繼代の劇症肝炎罹患の原因
1 劇症肝炎罹患
以上の事実経過から、繼代の劇症肝炎が発症した時期は、遅くとも昭和六三年一二月二八日ころと判断される。なお、原告はこの時点で繼代が劇症肝炎に罹患したと主張し、被告作成の入院診療録(甲第一三号証)や死亡診断書(甲第二号証)には昭和六三年一二月二八日ころに劇症肝炎が発症したとの記載があるが、乙第二一号証によれば、劇症肝炎とは、急性肝炎の経過中、意識障害をはじめとする急性肝不全症状が出現し、短時間のうちに死亡する予後不良な症候群であり、診断基準としては、肝炎のうち症状発現後八週間以内に高度の肝機能障害に基づいて肝炎昏睡{2}度以上の脳症をきたし、プロトロンビン時間四〇パーセント以下を示すものをいうとされており、前記症状及び甲第一三号証の平成元年二月八日の欄には肝性昏睡{2}であり、劇症肝炎の診断基準を満たしたとの記載があることからすると、繼代は、同年一二月二八日ころには、いまだ急性肝炎の状態であつて、平成元年二月に入つて初めて劇症肝炎と呼ぶことができる症状になつたと解される。
2 劇症肝炎に関する医学的知見
(一) 劇症肝炎の原因
甲第二一号証、乙第二一号証及び井上証言によれば、劇症肝炎の原因としては、肝炎ウィルス及びそれ以外のウィルス(サイトメガロウイルス等)の感染、薬物性肝炎が挙げられることが認められる。
(二) 肝炎ウイルスについて
甲第二一号証及び井上証言によれば、現在、劇症肝炎の起因ウイルスとしては、A型(HAV)、B型(HBV)、C型(HCV)、D型(HDV)、E型(HEV)の可能性があること、そのうちD型とE型については、従来から報告がなく、臨床的に問題となることはないとされていることが認められる。
3 ウィルス性肝炎の可能性
そこで、まず、ウイルスによる感染の可能性がないか検討する。なお、被告病院では、繼代が昭和六三年一二月二八日に内科兼科となつた後、ウイルス学的検索が行われているので、その結果に基づいて判断する。
(一) A型肝炎ウイルスの感染について
A型肝炎ウイルスは、正規の感染を受けた場合、IgM型の抗体が発生し、これが後になつてIgG型抗体となり、その後ウイルスが入つてもIgG型抗体の働きにより感染が起こらず、肝障害が発生することはない。したがつて、肝障害がA型肝炎ウイルスに起因するというためには、IgM型の抗体が陽性になつていることが必要である。
ところが、昭和六三年一二月二八日に行われたウイルス学的検索によれば、IgG型抗体が陽性で、IgM型抗体が陰性と診断されている。これは、過去にHAVの感染を受け、それによつてIgG型抗体ができたことを示唆するが、IgM型抗体が陰性であるから今回の肝障害はHAVの感染に起因するものではないと認められる(井上証言、甲第二一号証)。
(二) B型肝炎ウイルスの感染について
前記ウイルス学的検索によれば、IgM型HBc抗体が陰性と診断されているから、今回の肝障害はHBVの感染に起因するものではないと認められる(井上証言、甲第二一号証)。
(三) C型肝炎ウイルスの感染について
昭和六三年当時、C型肝炎ウイルスの感染を立証する手段が開発されていなかつたため、前記ウィルス学的検索の結果はない。
しかし、C型肝炎の感染経路としては、主たるものとして輸血が挙げられ(《証拠略》によれば、C型慢性肝炎の四九パーセント、肝硬変の四三パーセントであるという。)、その他に、医療従事者、血液透析患者、薬物乱用者の感染、母児感染、家族内感染、性行為による感染等が報告されているところ、本件では、手術前後の期間に輸血が行われておらず、入院後の発症が一〇日前後と潜伏期間が比較的短い点等も考慮に入れると院内感染の可能性も少ないのであつて、その他の感染経路も全くないと断言できるものではないが、その可能性はほとんどないと考えられるから、C型肝炎ウイルスに起因するものと認めることはできない(井上証言、甲第二一号証)。
(四) EBウイルス、サイトメガロウイルス、コクサキーウイルス、エコーウイルス等について
前記ウィルス学的検索によると、EBウイルスについては、IgG型抗体が四〇倍と基準値以上であり陽性であるが、A型肝炎ウイルスのところで述べたのと同様の原理により、IgM型抗体が一〇倍以下と陰性と診断されていることから否定できるし、他の全てのウイルスについては、初期抗体が陰性であり、その後の抗体値の上昇が見られないことから、これらのウイルスによる感染ではないと認められる(井上証言)。
以上から、本件劇症肝炎がウイルス感染に起因するものではないことが認められる。
4 薬物性肝炎の可能性
(一) 「薬物と肝」研究会の診断基準における「薬物性肝障害の判定基準案」(甲第二一号証の鑑定書添付の表一)によれば、(1)薬物の服用開始後(一~四週)に肝機能障害の出現を認める、(2)初発症状として発熱・発疹・皮膚掻痒・黄疸などを認める(二項目以上を陽性とする。)、(3)末梢血液像に好酸球増加(六パーセント以上)、または白血球増加を認める、(4)薬物感受性試験(リンパ球培養試験・皮膚試験)が陽性である、(5)偶然の再投与により、肝障害の発現を認める、という五つの基準が挙げられ、(1)及び(4)または(1)及び(5)をみたす場合には確診、(1)及び(2)または(1)及び(3)をみたす場合には疑診であることが認められる。
(二) 本件において、前記のように、繼代は手術後一〇日前後に急性肝炎の症状を発症していること、好酸球増加がみられているのであるから、少なくとも(1)及び(3)を満たしていることは明らかであり、薬物性肝障害の疑診であることが認められる。
(三) ところで、《証拠略》によれば、本件において、繼代に投与された薬物のうち、劇症肝炎を引き起こしうるのは本件手術の際に吸入麻酔として使用されたハローセンと術後投与された抗生物質アズトレオナム(ATZ。商品名はアザクタム)であると認められる。
(四) そこで、まず、アザクタムによる罹患の可能性があるか検討する。
《証拠略》によれば、平成五年二月四日までにアザクタムにより劇症肝炎に罹患したという報告例がないこと、ハローセンに比べて劇症肝炎に罹患する危険度は格段に低いといわれること、昭和六四年一月六日に実施されたリンパ球培養試験において添加薬剤アザクタムについて陰性の結果が出されていること、を考えあわせると、アザクタムによる罹患の可能性は極めて低いと考えられる。
(五) 次に、ハローセンによる罹患の可能性を検討する。
《証拠略》によれば、ハローセンによる劇症肝炎の特徴は、潜伏期間が短いこと、発症時に原因不明の発熱、好酸球の急激な増多、GOT・GPT値の急激な上昇、白血球数の増加、凝固因子の急激な減少があることであるところ、前記のように、繼代の臨床検査の結果にはこの特徴が現れている。
なお、リンパ球培養試験は、薬剤アレルギー性肝障害の診断法として、安全性、定量性及び信頼性の点から信用できるものとして、広く行われているものであるところ、昭和六四年一月六日に行われたリンパ球培養試験において、添加薬剤ハローセンについて陰性の結果が出ている。これによればハローセンに基づく劇症肝炎の発症は否定されそうであるが、ハローセンは気体でアザクタムに比べて薬剤の添加方法が難しいという検査の信頼性に問題があること、一般にハローセン肝炎ではリンパ球培養試験の陽性率が低いといわれていること、からして、リンパ球培養試験結果が陰性であることから直ちにハローセンが原因であることを否定する根拠となるものではない(井上証言)。
《証拠略》によれば、本件手術から劇症肝炎発症の経過及び諸検査結果をふまえて、被告病院自身、本件劇症肝炎の原因としては、ハローセンの可能性が最も高いと考えていたことが認められる。
5 以上によれば、本件劇症肝炎の原因は、アザクタムによるものであるという可能性を完全に否定することはできないものの、本件手術の際に吸引したハローセンによるものである蓋然性が高度であると考えられる。したがつて、被告病院の行為と繼代の劇症肝炎罹患との因果関係は認められる。
四 被告の責任
繼代と被告間の診療契約については、当事者間に争いがない。そこで、被告に診療契約上の債務不履行ないし不法行為にいう過失があつたといえるか検討する。本件では、被告医師らに、ハローセンの使用を避けるべき注意義務があつたといえるかが問題となる。
1 原告は、中年、肥満の女性にハローセンを使用するに際しては注意すべき義務があるという。
たしかに、井上証言、右井上による鑑定書である甲第二一号証(甲第九号証も同様である。)及び同人が著した論文である甲第七号証によれば、ハローセン肝炎発症に関する要因として、ハローセン麻酔の回数とともに、肥満(カーネイの三三四例のハローセン肝炎のうち肥満について記載のあつた七八例中五六パーセントに肥満者が見られ、これは通常人口の二〇パーセントが肥満である比率より高いとされている。)と女性が挙げられている。そして、その理由として、肥満の場合、吸収されたハローセンが脂肪組織に蓄積されるためその量が多くなり、対外への排泄が遅れるためであるとし、女性は、男性に比して薬剤代謝酵素の活性が一般に低いためハローセンについても代謝が遅れることが予測されるからであるとしている。また、数回のハローセン麻酔を受けた患者のなかでも婦人科領域で子宮頚部癌のラジウム療法を受けた患者に多発したとの報告からも、肥満である女性の危険性が指摘されている。
さらに、右井上の著作ではない甲第二五号証の臨床的研究に関する文献でもハローセン肝炎に肥満が多いこと(ハローセン肝炎の発生機序として、過敏反応--これは、複数回の麻酔後に肝炎が起こること、発熱パターン、肝組織像、好酸球増加や皮疹が出現したことを根拠とする--と、肝臓内に毒性代謝産物が蓄積されることを挙げ、この後者のため、肥満に多いと理由付けている。)、甲第二八号証でも肥満でアレルギー既往の女性が危険であること、甲第二九号証でもハローセン肝臓障害に対する感受性は女性の方が高く、年齢と肥満度が進むほどいくぶん高いように思われるとされていること、《証拠略》では、ハローセン肝炎の発症の因子として、肥満(体内に吸入された麻酔薬が脂肪組織に蓄積されて、麻酔終了後長時間にわたつて排泄されるから)、四〇歳から六〇歳までの中高年者(種々の薬剤、食物に接したり、暴露されたりする機会が多いから)、女性(脂肪組織の過多、肝酵素の働きに女性ホルモンが特に関係深いため)が挙げられており、乙第一八号証でも肥満が危険因子であるかもしれないとされ、乙第一九号証では、臓器特異的な自己免疫傾向のある肥満女性の危険性が最も高いであろうこと、乙第二〇号証では、理論的な危険因子として、ハローセン暴露の既往、薬物に関するアレルギー、肥満、中年、女性などが挙げられていること、ハローセンに関していろいろな議論があるため、その使用を全面的に中止している施設もあることが認められる。さらに、《証拠略》によれば、現在の麻酔学会の趨勢としてハローセン麻酔を避ける方向にあることからしても、ハローセンによる副作用の危険が存在することが推認されるとしている。
2 しかし、調査嘱託の結果によれば、日本麻酔学会が現在まで揮発性吸入麻酔薬ハロタン(ハローセン)がその副作用により肝障害を起こすことがあるとする見解を出したことはないこと、肝障害の発生予防のため使用方法や使用対象者について学会員等に対して注意を喚起したことがないことが認められるうえ、前記各種文献のほか《証拠略》でも、ハローセンが短期間に複数回使用することが禁忌であると明言されているのに対し(《証拠略》の販売薬品会社によるハローセン使用上の注意にも副作用として肝障害が起こること、短期間の反復投与は避けるべきであること、既往症がある場合には禁忌であることのみが明記されている。)、肥満、中年の女性が禁忌とされておらず、前記記載の仕方も単に危険な因子と指摘しているにすぎない。そして、甲第二四号証では、ハローセン肝障害に男女差は認められなかつたとしており、肥満者に対する麻酔について論じた乙第一七号証は、肥満者に対するハローセン麻酔を避けるべきであるとはしていない。
また、ハローセンにより肝障害が起こる例があることは是認されているものの(この点は当事者間に争いがない。)、その発生頻度については、乙第五号証の米国ナショナル・ハローセン・スタディー(甲第七号証でも引用している。)によれば、ハローセン麻酔後の術後死亡率は一・八七パーセントで、全麻酔薬の死亡率一・九三パーセントより低く、とくに他の麻酔剤の術後死亡率と大差はみられなかつたこと、二回以上のハローセンの麻酔を受けた場合の広範性肝壊死の頻度は一万人に七・一人と一回だけの手術による場合の一・〇二人に比して明らかに高いこと(甲第二四号証によれば、発症率が〇・〇五三~〇・一六六パーセント(平均〇・一一八パーセント)、カーネイの場合、発生頻度は二五二五例に一例で、死亡率一一二一四例に一例)が認められるようにかなり低いこと、発生機序が十分解明されていないこともあつて(井上証言では、同人はハローセン肝炎がアラジックすなわちアレルギーによるもので、量的なものには関係がないと証言しつつも、肥満の場合には脂肪組織に代謝産物が蓄積されることから危険性が高いといつているように、理論的に説明できない部分も多い。)、女性、中年、肥満の場合には常に避けるべきであるという理論的な裏付けは認められない。
また、当時ハローセン以外に有効かつ副作用が無い吸入麻酔薬が存在したとの証明もない(井上証言でも、同人は内科医であり、当時吸入麻酔薬としていかなるものがあつたかは認識がない。)。
以上の事実から、当時の医学界の医療水準とすれば、ハローセンを使用することによる肝障害の発生機序が十分解明されておらず、その発生頻度が低く、他の麻酔薬と異ならないこと、中年や肥満の女性にハローセンを投与することが危険だと一般的にいわれていたとまで認められないことからすれば、短期間に複数回ハローセンを投与したという事情が認められない本件においては、繼代が中年で肥満の女性であつたというだけで、後前検査で全く異常の見られなかつた同人に対してハローセンを一度投与することにより、重度の肝臓障害の結果が発生する具体的予見可能性があつたものと認めることは相当でなく、被告においてハローセンの投与を回避すべき義務があつたとは認められない。
よつて、被告に診療契約上の債務不履行及び不法行為における過失は認められない。
五 以上によれば、原告の請求は、その余を判断するまでもなく理由がないこととなるから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 大橋寛明 裁判官 田中俊次 裁判官 佐藤哲治)