東京地方裁判所 平成2年(ワ)13585号 判決 1994年4月27日
主文
一 原告らの請求を棄却する。
二 訴訟費用は原告らの負担とする。
理由
一 原告竹島脩が侃子の夫であること、被告大学が被告病院を経営していること、被告大和田が昭和六二年当時被告病院に勤務していた医師であることは当事者間に争いがなく、弁論の全趣旨によれば、原告竹島賢、同竹島智子、同竹島稔が侃子の子であることが認められる。
二 請求原因2の当事者間に争いのない事実に加えて、《証拠略》を総合すると、本件医療事故発生の状況は以下のとおりである。
1 侃子(昭和一七年二月一三日生)は、昭和六〇年二月二二日、虎の門病院で乳癌による左乳房摘出手術を受けたが、昭和六二年八月、左側胸部痛が出現したため、右病院で診察を受け、鎮痛剤を処方された。ところが、同年九月に右痛みが増し、食欲低下もあつたため、被告病院の御座医師に受診し、胸部レントゲンの結果、同医師から左胸部胸水貯留の指摘を受け、被告病院第一内科の受診を勧められた。そこで、侃子は、同年一〇月一六日に被告病院の外来で初診を受け、同月二一日に同病院に入院した。
2 被告大和田(当時は本間)は、昭和六二年六月に医師免許を取得し、当時被告病院の第一内科(呼吸器内科)に勤務する研修医であつた(胸膜癒着術の施行は初めてであつた。)。その指導医が片山道夫(昭和五四年五月医師免許取得)であり、同医師のもとに山口医師(昭和六〇年五月ころ医師免許取得)がいた。
3 昭和六二年一〇月二二日、片山医師が、局所麻酔薬としてプロカイン(商品名・オムニカイン)を用いて、胸膜生検、胸腔穿刺(胸水が貯留する原因を調べるため、胸水を一部採取すること)を行つた。その結果、胸腔穿刺で採取した胸水からクラス五の悪性細胞が発見され、細胞の特徴から腺癌細胞であることが認められたため、乳癌の転移が疑われ、侃子を癌性胸膜炎(別名・悪性胸水。癌細胞が胸膜や胸膜腔内に浸潤、播種することによつて胸膜が炎症を起こすこと。炎症によつて胸膜腔内に胸水が貯留する結果、肺が圧迫されて呼吸障害を起こすとともに胸水に蛋白質、電解質、その他身体の構成部分が奪われるため全身状態の悪化を招く。)と診断した。
そこで、受持医である片山医師と被告大和田は、同月二七日、胸膜癒着術(胸膜腔内に貯留している胸水を吸引して、胸膜腔内が空になつた状態で薬剤を注入して壁側胸膜と臓側胸膜に人為的に炎症を起こさせて癒着させ、胸膜腔内をなくし、胸水が貯留しないようにすることを目的とする施術)を行うこととした。当初の計画では施術方法として、二パーセントの静脈注射用キシロカイン二アンプル二〇〇ミリグラムとアドリアマイシン三〇ミリグラム、ピシバニールを一〇単位にヘパリンを加えた生理食塩水を混ぜて合計一〇〇ミリリットルにして使用することとなつていた。ところが、同月二九日の午前、被告大和田からの提案で、侃子は痛みの訴えが強いことから痛みによる急変を防ぐため、キシロカイン二アンプルだけを胸膜腔内に注入して、体位変換をして麻酔薬をよく行き渡らせたうえで、アドリアマイシン、ピシバニール等の抗癌剤を注入することとなつた。
4 同日、午後二時三〇分ころ、被告大和田が侃子に対し、侃子の病室(中央病棟一一二六号室)において、山口医師同席のもと、胸膜癒着術を施行した。その施術方法は、前記胸腔穿刺によつて既に注入されていたカテーテルの排液チューブをはずして、その部位を消毒し、空の注射器を右カテーテルに接続して陰圧をかけて胸水が吸引されること、すなわち、カテーテルの先端が胸膜腔内にあることを確認してから、二パーセントのキシロカイン二〇〇ミリグラム(一〇ミリリットル)が入つた注射器を付け替えて約四分間かけて胸膜腔内に注入するというもので、皮内テストは行わなかつた。右注入が終わるとカテーテルを閉じて、麻酔液が胸膜腔内に行き渡るよう侃子の身体の右側を下にする体位変換を行つた。
その後(キシロカインの注入終了の一、二分後)、山口医師が侃子に対し、「気分はどうですか。」と問いかけると、侃子は、「何だかふわふわして気分が悪い。」と答えた。そのため、血圧低下のおそれがあると考えた山口医師の指示で、被告大和田が、病室の斜め向かいにあるナースステーションに血圧計を取りに行き、その場にいた野沢利江看護婦と北山和貴医師に応援を頼んだ。
5 被告大和田が病室に戻り、薬剤廃液のためいつたん開放していた胸膜ドレーンを閉じ、侃子の血圧を測定しようとしたが、非常に低下していたため測定不能な状態であつた。山口医師が「竹島さん答えてください。」と問いかけてみたものの、意識レベルが低下していたため、返答できなかつた。
6 被告大和田が病室に戻つたすぐあとに野沢看護婦と北山医師が病室に駆けつけたが、侃子は、既に全身痙攣、チアノーゼを起こしていた。それとほぼ同時に、ナースステーションに予め用意されていた薬品、気道確保のために用いる器具、心臓マッサージ用の板その他注射器等のそろつた救急キットが載つているカート、心拍モニター、アンビュー等の器具も届けられた(なお、気管切開の道具はなかつた。)。さらにこれらと相前後して、一、二分の間に安井修司、亀山伸吉、坂本匡一、松田直樹〔以上循環器内科〕、西園子〔腎臓内科〕各医師が援助に駆けつけた。
7 侃子がショック状態に陥つたため、被告大和田と北山医師が直ちに両腕の血管確保にとりかかり、左肘からトンボ針を刺して静脈を確保した上、薬剤の点滴を開始した。ところが、痙攣のため腫れて、輸液が漏れてしまうので抜いてしまつた。同時に、応援に駆けつけた医師らによつていくつもの部位から静脈確保が試みられ、午後二時四〇分過ぎころには、北山医師により右手手背からトンボ針が挿入され、生理食塩水五〇〇ミリリットル、メイロン二五〇ミリリットルが投与された。また、松田、北山医師らは左鼠径部からIVHの挿入を試みており、右大腿部からのIVH挿入も行われたが、これは、出血が著明であつたため抜かれた。これらの行為によつて確保された静脈から、ショック状態改善のための即効性ステロイドホルモンであるソルコーテフ(八〇〇ミリグラム)、昇圧剤であるボスミン(二アンプル)、カルニゲン(二アンプル)、同様に抗痙攣剤のセルシン(二アンプル)が投与された。
8 一方、午後二時四〇分ころ、野沢看護婦が心拍モニターを装着して、測定すると侃子の心拍数は一〇〇であつた。被告大和田らは、気道確保のため口内バイトブロックを挿入しようとしたが、全身痙攣のため侃子が強く歯を食いしばつていてうまくいかず、二、三分後にようやく挿入に成功し、被告大和田と山口医師及び北山医師が交代でアンビューバッグで送気を試みた。しかし、アンビューバッグによる送気には、強い抵抗があり、心拍数は五〇台になつた。引き続き安井医師及び亀山医師によつて気管内挿管が試みられたが、侃子が歯を固く食いしばつていたため、挿管チューブも口に入れられない状態で経口的な気管内挿管は直ちには達成できなかつた。そこで、左鼻腔から挿管を試みたが、これも入らなかつた。
この間、侃子は痙攣を繰り返し、チアノーゼが著明で血圧は測定できず、呼吸停止(アプニア)を繰り返した。
9 午後二時五五分、心停止(アレスト)をきたしたため、閉胸心臓マッサージを開始した。午後二時五八分には心拍数は五八となつた。
このころには、左右の大腿部からIVHが挿入されており、ラインがキープされていたため、山口医師が右IVHを用いて心臓に昇圧剤であるボスミン(一アンプル)を注射した。この間にも、心臓マッサージやアンビューバッグによる送気が継続されたが、意識は戻らず、チアノーゼも消失しなかつた。
10 午後三時ころ、気管支鏡(ブロンコスピー)下による挿管を試みたが、喉頭部の浮腫が著明であることを認め、経口的な気管内声門の強い浮腫により気管内に挿管チューブを挿入することが困難であつた。そこで、声門等の浮腫等を除去するため、気管支鏡下に数回にわたり直接喉頭部に血管収縮剤でもあるボスミンを振り掛けた。
11 午後三時九分には心拍数が三にまで低下したため、ボスミン(一アンプル)とソルコーテフ(一〇〇ミリグラム)を注射した。このように、血圧が低下し、心マッサージを続行中であつたため、気管切開は可能でなく、また、気管支の痙攣のため有効でもなかつたので、試みられなかつた。午後三時一〇分ころ、安井医師が一八ゲージの注射針を喉元の下の気管に数本刺入する手段を用い、肺に送気して酸素量の増加を試みたが、空気流入に抵抗が著しく強い状態であつたためうまくいかなかつた。
12 前記喉頭部へのボスミンの注入によつて浮腫等は軽快し、午後三時一九分に再挿管が試みられ、午後三時四二分に気管内挿管が達成され、人工呼吸器(ベネット)が装着された。
ただし、この間にも心停止が何度か再度出現し、ボスミンの心腔内注入及び心臓マッサージを並行して行つた。
13 その後、侃子は、自発呼吸が回復せず、脳波その他の検査でも改善が見られないで、感染症を併発して全身状態が悪化し、同年一一月一五日、急性心不全により死亡した。
三 侃子の死亡原因を検討する。
1 本件において、侃子がキシロカインにより死亡したことは当事者間に争いがなく、死亡原因として考えられるのは、局所麻酔薬中毒かアナフィラキシーショックである。
そして、《証拠略》によれば、以下の事実が認められる。
(一) 局所麻酔薬中毒は、局所麻酔薬が血管中に誤つて注入されたり、高濃度の局所麻酔薬の使用、また過量投与及び解毒機能が低下している患者に使用した際に起こりやすく、中枢神経の種々の領域を刺激しあるいは抑制するために発症すると考えられ、その症状としては、一般に初期に中枢の刺激症状として、多弁、興奮状態となり、脈拍が早く、血圧が上昇し、呼吸数及び呼吸量が増加し、頬筋、四肢、指先の筋肉などが攣縮し、その後、強い全身痙攣が起こり、精神錯乱あるいは意識消失し、チアノーゼとなつて(しかし、血圧は比較的正常に近いか上昇している。)、さらにこの状態が強くなると呼吸停止と血圧下降が起こるという。ただし、大量の局所麻酔薬が急に血中に一時に入つた時には痙攣発作がなく、突然に意識が消失し、血圧降下と無呼吸が起こる(《証拠略》によれば、発症までの時間は、誤つて動脈内に注入された場合には直ちに、静脈内、表面麻酔では数分以内であつて、症状は、眠気、眩暈から始まり、悪心、嘔吐、発汗から痙攣へと移行し、一時期過呼吸、血圧上昇が現れ、昏睡、呼吸停止、心停止になるとされている。)。
(二) アナフィラキシーショックは、一般に過量投与または急速な血中濃度の高まりによる中毒反応に比べて非常に稀と考えられている。その臨床症状としては、薬剤投与後、五分から一五分以内に口内異常感、口唇のしびれ、喉頭部狭窄感、くしやみ、麻痺感(四肢末端のしびれ)、心悸亢進、嘔吐、耳鳴り、めまい、皮膚発赤、皮膚蒼白、発汗等に始まり、ついで胸内苦悶、圧迫感、声門浮腫や気管支痙攣による呼吸喘息、チアノーゼ、脈拍微弱、血圧降下、そして、意識混濁、痙攣、失禁、呼吸停止、心停止が起こるとされている(《証拠略》によれば、発症までの時間は、静脈内では五分以内、症状は、自覚的には、四肢のしびれ、脱力感、痛痒感で始まり呼吸困難・閉塞感と意識混濁、その他口腔内異和感、悪心、嘔吐、腹痛、便意、尿意など、他覚的には、血圧降下、意識消失、全身じん麻疹、チアノーゼ、咳・ぜい鳴、顔面浮腫、発熱などがみられるとされている。)。
2 そこで、本件について検討するに、前記認定のとおり、侃子は、キシロカイン注入直後(五分以内であると認められる。)に気分が悪くなり、血圧が測定不能になる程低下したこと、呼名消失という意識消失を起こし、痙攣を繰り返し、その後チアノーゼ、呼吸停止、心停止を起こしていること、喉頭に著明な浮腫が認められたことから、前記アナフィラキシーショックの特徴により符合する症状であるということができる。また、《証拠略》によれば、麻酔による中毒症状は、投与されたキシロカインが吸収されて循環血液中に入り、その血液中のキシロカイン濃度があるレベルより高くなつた時に、身体各臓器に作用して発現すること、右中毒発現の血中濃度は、投薬量だけでなく、投薬部位、投薬方法によつて異なつてくること、キシロカインの一回の最高投与量は二〇〇ミリグラムであることが認められるところ、前記認定のように、被告大和田は二パーセントの静脈注射用キシロカイン一〇ミリリットル(二〇〇ミリグラム)をあらかじめ胸腔内に挿入されていたカテーテルを通して約四分間かけて注入したのであり、投薬量は、許容範囲内であること、投薬部位、方法については、胸腔内への投与が粘膜への表面麻酔と同様に考えられ、できるだけうすい濃度、少ない量で使用すべきではあるものの、当時胸腔内には胸水があつたためそれで希釈され、全てが吸収されたとは考えにくいこと、被告大和田は、胸膜癒着術において、カテーテルから排液チューブをはずし、キシロカインを注入する前に、空の注射器を右カテーテルに接続して陰圧をかけて胸水が吸引されることを確認して行つているのであつて、胸水が吸引されるということはカテーテル先端が胸膜腔内にあることを示すものであるから、大量の局所麻酔薬が急に血中に一時に入つたと認めることは困難であることなども、侃子に生じたショックがアナフィラキシーショックであることを推測させるものということができる。しかし、他方、《証拠略》には、アナフィラキシーショックとは断定できないとの部分があり、前記の局所麻酔薬中毒の症状の特徴に照らし、血管内にキシロカインが誤注入されたために局所麻酔薬中毒を生じさせた可能性を否定し去ることはできない。しかしながら、本件においては、ショックの原因が局所麻酔薬中毒であつたとしても、以下の判断に影響を与えるものとは認められないから、この点については、これ以上の検討を要しないものというべきである。
四 被告らの責任原因
1 施術上の過失
前記二3、4及び三2において認定した事実によれば、被告大和田の侃子に対するキシロカインの投与方法及び投与量は、できるだけ少ない量をできるだけ薄い濃度でできるだけ遅い速度でという注意事項からすれば、最適であつたといえるかどうかはともかくとして、許容範囲の量を相当の注意をもつて投与したものと認められ、施術方法について被告大和田に過失があつたとの原告の主張は理由がない。
なお、原告は、キシロカインは、炎症を持つ患者には投与すべきでないと主張するが、前記認定のように、侃子は癌性胸膜炎と診断されていたのであり、乙第四、第五号証によれば、癌性胸膜炎に対し、胸水の再貯留を防止する目的で、人為的に炎症を起こして胸壁胸膜、肺壁胸膜を癒着させる胸膜癒着術、その前投与として胸腔内粘膜面麻酔のためキシロカインを胸腔内カテーテルで注入することは医学的に認知された施術であると認められるから、右施術を実施した被告大和田に何ら過失は認められない。
2 本件施術面に安全確認を怠つた過失
(一) キシロカインによつてアナフィラキシーショックが発生することがあることは当事者間に争いがなく、《証拠略》によれば、アナフィラキシーショックによつて重篤な副作用が発生することが認められる。
したがつて、被告大和田が、キシロカインを使用するに際し、医師として、十分な問診を行つてアレルギーが無いか確かめる注意義務を負つていたことは認められる。
(二) しかし、皮内テストに関しては、《証拠略》によれば、侃子の入院後、片山医師が胸膜生検、胸腔穿刺を施行する際に胸腔内にカテーテルを挿入するにあたりプロカインを二回使用しているが、その際には全く特異反応を呈さなかつたこと、キシロカインはアミド型の麻酔剤であつて、エステル型麻酔剤であるオムニカインより安全性が高いといわれていること、キシロカインは心室性不整脈等に対してごく普遍的に用いられ、緊急時に用いられることが多いので、通常、診療時に皮内テスト等は行われていないこと、皮内テスト等の信頼性については、臨床医学の研究者の多数が否定していることが認められ、被告大和田が本件施術に際し、キシロカインの皮内テストをすべきであつたという注意義務を認めることはできない。したがつて、被告大和田が皮内テストを実施しなかつたことは過失とはいえない。
(三) そこで、被告大和田が十分な問診をしたかどうかであるが、《証拠略》によれば、原告大和田は侃子に対し、入院時に問診して、過去に薬物、抗生物質に係るアレルギーの既往症がないこと、食物、絆創膏に対する過敏症もなく、じんましん等の既往症もないことを確認しているし、虎の門病院からの申し送りにもアレルギーに関する記載は一切なかつたのであり、本件施術直前のピシバニール(免疫賦活剤)の皮内反応テストも陰性であつたと認められるから、注意義務違反はない。
(四) したがつて、この点に関する原告の主張は理由がない。
3 ショック症状に対する緊急事後措置を怠つた過失
(一) キシロカイン液注射を施術するにあたつては、実施中あるいは直後に呼吸および心臓機能の停止を惹起する局所麻酔薬中毒やアナフィラキシーショックを発現させるおそれがあることは当事者間に争いがなく、《証拠略》によれば、これらの反応が現出した場合、心停止から四ないし六分のうちに脳中枢神経系への血流を十分回復させるため、救急心肺蘇生術の処置を講じ、患者を無酸素状態に陥らせないような措置をとらなければ脳死を招来し、死亡に到らしめる危険性があることが認められる。
したがつて、右注射を行う医師である被告大和田は、予め介助の看護婦に右施行に際し、局所麻酔薬中毒やアナフィラキシーショックを発現することがあること及び発現した場合の対処方法を教示するなどしておくとともに、必要な器材を備え、局麻剤反応が発現した場合、直ちに、救急蘇生法の基本である、静脈確保(薬剤投与)及び気道確保を自らまたは他の医師とともに行う注意義務を負つていたと認めることができる。
(二) 前記認定のように、被告大和田が本件施術を行う際、山口医師が立ち会つていたこと(なお、看護婦は介助していなかつた。)、施術場所である病室がナースステーションの斜め向かい側にあること、急変後に多くの医師や看護婦が援助に駆けつけたこと、救急キットがナースステーションに備えられていてすぐに病室に届けられたことが認められ、《証拠略》によれば、施術の予定は病棟看護婦に連絡してあつたこと、看護婦はショック状態の患者に救急措置を実施した経験を有していたことが認められ、事前準備について被告大和田に注意義務違反は認められない。
(三) 次に静脈確保についてみるに、前記認定のように、被告大和田は、午後二時四〇分ころ、侃子が呼吸消失と血圧の触知不能等のショック症状に陥つたことを認めると、直ちに末梢及び中枢の静脈から血管を確保しようとしたこと、応援の医師らが直ちに両鼠径部からIVHライン確保にあたつたこと、実際に、右手手背からトンボ針を挿入し、右大腿部にIVHのカテーテルを挿入できたこと(その時期は確かではないが、乙第二号証一五二頁の重症チャートの観察欄に、午後二時四〇分から五五分の間に、左鼠径部のIVHは挿入施行され、右手手背からのトンボ針は挿入され、薬剤の投与が行われた旨、同五五分から五八分の間には、左右の鼠径部からのIVHが挿入されラインがキープされている旨の記載があり、これに《証拠略》を総合すれば、右手手背のトンボ針は午後二時四〇分からほどなく、左大腿部のIVHは午後二時五五分前後に挿入されたと認められる。)が認められるのであつて、静脈確保について被告大和田に注意義務違反は認められない。
《証拠略》中には、静脈確保のためにトンボ針を使用したのは妥当でなく、テフロン針を使用すべきであつたとの部分が存する。しかし、その理由は、トンボ針では体動により血管が破れるなどの理由で、針の固定が保証されないという点にあるとされているところ、本件において刺入後のトンボ針が血管を破るなどの理由により静脈確保を妨げたとの事実を認めるに足りる証拠はなく、前記のとおり薬剤投与が行われたというのであるから、右の理由でトンボ針を選択したことが誤りであつたと断ずることはできない。しかも、本件においては、大量に薬剤投与が可能となるIVHラインの確保も並行して試みられ、まもなくそれも確保されたというのであるから、テフロン針を用いないでトンボ針を用いたことをもつて注意義務違反ということはできない。
(四) また、気道確保については、前記認定のように、被告大和田等は、午後二時四〇分頃、前記ショック症状を認めると直ちに気道の確保のための行為を開始し、アンビューバッグによる送気、気管内挿管の試み、気管支鏡下による挿管、一八ゲージの注射針を気管に刺入、声門等へのボスミンの投与の末、午後三時四二分に気管内挿管を完了したというのであり、これが効を奏さず、気管内挿管が遅れたのは、アナフィラキシーショックにより気管支が痙攣していたためであるから、被告大和田に注意義務違反は認められない。
(五) ところで、原告は、被告大和田が、救命措置に経験豊富な麻酔医やICUスタッフに応援を求めるべき注意義務を負つていたと主張し、鑑定の結果中にも、静脈確保は右経験豊富な医師らなら午後二時五五分ころにできた可能性があるし、気道確保は心停止(午後二時五五分)後、四七分経過後の午後三時四二分では遅すぎるとの部分がある。
しかし、救命措置に経験豊富な麻酔医やICUスタッフに応援を求めることが最善の手段であつたとしても、それを選択しなかつた場合がすべて注意義務違反となるものではなく、一般的な医師としてなすべき注意義務を果たしていれば足りると考えられる。とすると、被告大和田は、前記認定のように注意義務は尽くしていたのであり、麻酔医やICUスタッフに応援を求めるべき注意義務を負つていたとまで認めることはできない。しかも、本件においては、静脈確保はショック後まもなく達成されており、また、気道確保については、喉頭浮腫、気管支痙攣等のため、ICUスタッフ等によつてもより早く達成できたとは認め難い(この点については、証人小田切も断定し難いと証言している。)のであるから、右応援を求めなかつたことを被告大和田の過失ということはできない。
五 結論
以上のとおりであるから、原告らの請求は、その余を判断するまでもなく理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 大橋寛明 裁判官 田中俊次)
裁判官 佐藤哲治は、転官のため、署名捺印することができない。
(裁判長裁判官 大橋寛明)