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東京地方裁判所 平成2年(ワ)8808号 判決 1992年3月10日

原告

甲野美加

甲野和之

甲野智之

右三名法定代理人親権者父兼原告

甲野猛

右四名訴訟代理人弁護士

石井芳光

松丸渉

被告

高橋章

川嶋時春

右両名訴訟代理人弁護士

南出行生

被告

興亜火災海上保険株式会社

右代表者代表取締役

笹哲三

右訴訟代理人弁護士

北村一夫

主文

一  被告高橋章及び被告川嶋時春は連帯して、原告甲野猛に対し一〇〇八万八一二四円、原告甲野美加、原告甲野和之及び原告甲野智之に対しそれぞれ三三六万二七〇八円並びに右各金員に対する被告高橋章は平成二年七月二〇日から、被告川嶋時春は同月二一日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  被告興亜火災海上保険株式会社は、原告甲野猛に対し六二五万円、原告甲野美加、原告甲野和之及び原告甲野智之に対しそれぞれ二〇八万三三三三円を支払え。

三  原告らのその余の各請求をいずれも棄却する。

四  訴訟費用はこれを四分し、その一を被告らの、その余を原告らの各負担とする。

五  この判決は原告ら勝訴の部分に限り仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求める裁判

一  請求の趣旨

1  被告高橋章及び被告川嶋時春は連帯して、原告甲野猛に対し四一三九万一四二一円、原告甲野美加、原告甲野和之及び原告甲野智之に対しそれぞれ一一五一万四二一四円並びに右各金員に対する被告高橋章は平成二年七月二〇日から、被告川嶋時春は同月二一日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  被告興亜火災海上保険株式会社は、原告甲野猛に対し六二五万円、原告甲野美加に対し二〇八万三三三四円、原告甲野和之及び原告甲野智之に対しそれぞれ二〇八万三三三三円を支払え。

3  訴訟費用は被告らの負担とする。

4  仮執行の宣言

二  請求の趣旨に対する答弁(被告ら共通)

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  事故の発生

(一) 平成元年五月一一日午後三時二五分ころ、被告高橋章(以下「被告高橋」という。)は、普通貨物自動車(以下「被告車」という。)を運転して東京都国分寺市<番地略>先の信号機により交通整理の行われている交差点(以下「本件交差点」という。)に差しかかったが、対面信号機の赤色の表示に気付くのが遅れ、本件交差点の直前で急ブレーキをかけたところ、被告車が滑走し、歩道上で信号待ちをしていた甲野春子(以下「春子」という。)に衝突した(以下「本件事故」という。)。

(二) 春子は、本件事故により脳挫傷、外傷性くも膜下出血、頭皮割創及び左大腿打撲の傷害を受け、東京都立府中病院(以下「府中病院」という。)等で治療を受けていたが、右治療中から抑うつ状態に陥り、平成元年一一月一日自殺を図って死亡した。

2  被告らの責任

(一) 被告高橋の責任

被告高橋は、被告車を運転して本件交差点に差しかかったのであるが、このような場合、車両等の運転者としては、前方を注視した上で、対面信号機の表示が赤色であるときには、停止位置を越えて進行しないよう安全な速度と方法で進行すべき注意義務を負うものというべきである。しかるに被告高橋は、これを怠り、対面信号機の赤色の表示に気付くのが遅れ、本件交差点の直前で急ブレーキをかけて停止しようとした過失により本件事故を惹起したものであるから、民法七〇九条に基づき、春子及び原告らが本件事故により被った後記損害を賠償すべき義務がある。

(二) 被告川嶋時春の責任

被告川嶋時春(以下「被告川嶋」という。)は、被告車を所有し、これを自己のために運行の用に供していた者であるから、自動車損害賠償保障法(以下「自賠法」という。)三条本文に基づき、春子及び原告らが本件事故により被った後記損害を賠償すべき義務がある。

(三) 被告興亜火災海上保険株式会社の責任

被告興亜火災海上保険株式会社(以下「被告会社」という。)は、被告川嶋との間で、被告車につき、本件事故時を保険期間内とする自動車損害賠償責任保険契約を締結していた保険者であるから、自賠法一六条一項に基づき、同法施行令二条一項一号イの保険金額(二五〇〇万円)の限度で、春子及び原告らが本件事故により被った後記損害額を支払うべき義務がある。

3  春子及び原告らの損害

(一) 治療経過及び自殺に至る経緯

春子は、本件事故後直ちに救急車で府中病院に搬送され、前記診断を受けて八日間入院し、その後も通院治療を続けていたが、右入院中から抑うつ状態が認められたため、平成元年八月一九日から同月二八日まで岩手県立南光病院(以下「南光病院」という。)精神科に入院し、同病院を退院したのちは再び府中病院に通院して治療を受けていたところ、同年一一月一日自宅で腰紐を用いて自殺を図り死亡した。

(二) 春子及び原告らの損害額

(1) 傷害による損害

ア 治療費等 四七万九三〇三円

春子は、前記のとおり、府中病院に平成元年五月一一日から同月一八日まで八日間入院したのち通院治療を続け、また南光病院に同年八月一九日から同月二八日まで一〇日間入院し、その治療費等として四七万九三〇三円の支払を要した。

イ 入院付添費 八万一〇〇〇円

春子は、前記一八日間の入院期間中一日当たり四五〇〇円の割合による入院付添費を要した。

なお、被告高橋及び被告川嶋からは、春子の夫である原告甲野猛(以下「原告猛」という。)が、春子の入院中会社を休んだ五日間についての休業損害として五万一五六〇円の支払を受けているが、右八万一〇〇〇円はこれとは別に支出した金額である。

ウ 入院雑費 二万一六〇〇円

春子は、前記一八日間の入院期間中一日当たり一二〇〇円の割合による入院雑費の支払を要した。

エ 通院費 三二五〇円

オ 休業損害 一九一万六〇九一円

春子は、本件事故当時、東京都国分寺市<番地略>所在の社会福祉法人浴光会国分寺病院(以下「国分寺病院」という。)において看護婦として稼働していたが、本件事故により前記傷害を受け抑うつ状態に陥ったため、事故後約5.5か月は全く稼働することができなかった。春子の昭和六三年度の収入は四二二万四二〇〇円であるから、右期間の休業損害は一九一万六〇九一円となる。

カ 傷害慰藉料 一〇〇万円

(2) 死亡による損害

ア 葬儀費用 一一二万五一七七円

イ 春子の逸失利益 五〇三四万六〇四三円

春子は、死亡当時三九歳(昭和二五年九月二七日生まれ)であったが、本件事故により死亡しなければ、六七歳までの二八年間は資格のある看護婦として稼働可能であり、その間は前記賃金額を下回らない年収を得ることができたものと考えられる。したがって、前記賃金額を基礎に、春子が原告猛と共働きであったことを考慮に入れて生活費控除率を二割とし、ライプニッツ方式により年五分の割合による中間利息を控除して春子の逸失利益を算定すると、その額は五〇三四万六〇四三円となる。

ウ 死亡慰藉料 二〇〇〇万円

エ 原告猛の逸失利益 六八四万八七七九円

原告猛は、春子の夫であり、本件事故当時、多摩運送株式会社府中営業所に勤務し、トラックの夜間長距離運転手として通常の社員よりも多額の収入が得られる職種に従事していたが、本件事故により春子が死亡し、自らが幼い三人の子供の面倒をみる必要が生じたため、平成元年一二月からやむなく従前よりも時間的余裕はあるが賃金の低い荷物集積係に配置転換を受けた。原告猛の収入は、本件事故前には四五〇万一一九三円(平成元年度)であったが、右配置転換により減額されて、平成元年一二月から平成二年五月までの六か月の平均で月額七万一三九九円の減額を生じている。この状態は、配置転換を受けた平成元年一二月から、末の子である原告甲野智之(以下「原告智之」という。)が小学校を卒業する平成九年三月末日ころまでの約七年間は続くものと予想されるが、既に減収となった一八二万二七九九円に加え、将来の減収額につき新ホフマン方式により中間利息を控除して原告猛の逸失利益を算定すると、その合計額は六八四万八七七九円となる。

(3) 相続等

原告猛は春子の夫であり、原告甲野美加(以下「原告美加」という。)、原告甲野和之(以下「原告和之」という。)及び原告智之はいずれも春子の子であるから、原告らは、春子の相続人として、右(1)のアないしカ並びに(2)のイ及びウの損害賠償請求権をそれぞれ法定相続分に従って相続し、また右(2)のアの費用をそれぞれ法定相続分に従って負担することを約した。

(4) 損害の填補 合計一三七六万九七七七円

原告らは、被告高橋及び被告川嶋から傷害による損害分として一二六万九七七七円(治療費二八万三九三〇万、入院付添費五万一五六〇円、入院雑費五六〇〇円、通院費三二五〇円、休業損害七三万一六一九円、慰藉料一九万三八一八円)の支払を受け、また被告会社から死亡による損害分として一二五〇万円の支払を受けたから、これらを法定相続分に従って原告らの前記損害額に充当した。

(5) 弁護士費用 合計六九〇万円

4  よって、原告らは、(一)被告高橋及び被告川嶋に対し、連帯して、原告猛が四一三九万一四二一円、原告美加、原告和之及び原告智之が各一一五一万四二一四円並びに右各金員に対する本件事故の日以後である平成二年七月二〇日(被告高橋)又は同月二一日(被告川嶋)から各支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求め、(二)被告会社に対し、原告猛が六二五万円、原告美加が二〇八万三三三四円、原告和之及び原告智之が各二〇八万三三三三円の支払を求める。

二  請求原因に対する認否(2項を除き、被告ら共通)

1  請求原因1(事故の発生)の事実は認める

2(一)  被告高橋及び被告川嶋

同2(一)(被告高橋の責任)、(二)(被告川嶋の責任)の事実はいずれも認める。

(二)  被告会社

同2(二)(被告川嶋の責任)、(三)(被告会社の責任)の事実中、被告川嶋が被告車を所有し、これを自己のために運行の用に供していた者であること及び被告会社が被告川嶋との間で、被告車につき、本件事故時を保険期間内とする自動車損害賠償責任保険契約を締結していたことはいずれも認めるが、被告会社が原告らに対し、損害賠償額を支払うべき義務があるとの主張は争う。

3  同3(春子及び原告らの損害)の事実中、原告猛が春子の夫であり、その余の原告らがいずれも春子の子であること及び(二)(4)(損害の填補)の事実はいずれも認めるが、その余は不知ないし争う。

本件事故と春子の死亡との間に因果関係はない。すなわち、交通事故の被害者が事故後自殺した場合において、当該事故の加害者に右自殺に基づく損害賠償義務を認めるためには、交通事故の被害者がその被った肉体的・精神的苦痛のため自殺を決意しこれを実行するということが、右事故によって通常生ずる結果といえるか、あるいは加害者等において、被害者が右事故によって受けた苦痛のため自殺するに至ることを予見し、又は予見しうる状況にあったことを要する。本件における春子の傷害は、脳挫傷、外傷性くも膜下出血、頭皮割創、左大腿部打撲であり、しかも保存的治療により脳の器質的障害を残さずに治癒しているのであって、その部位・程度からは、本件事故による傷害ないし障害を原因として自殺に至ることまで到底予見可能とはいえないものである。

また、春子の自殺がうつ病によるものであり、そのうつ病が本件事故後に発症したものであったとしても、それは内因性のうつ病と考えられ、環境の影響等の外因は内因性のうつ病が発症する誘因となったにすぎず、しかも、その誘因たる外因としては、子供の非行問題、住宅ローンの問題、職場における人間関係の問題等本件事故以外の要因も大きいと考えられるのであるから、仮に本件事故と春子の死亡との間に因果関係を認めるとしても、その寄与の割合は小さく、最大でも二割程度とみるのが相当である。

第三  証拠<省略>

理由

一請求原因1(事故の発生)の事実は当事者間に争いがなく、同2(一)(被告高橋の責任)の事実は原告らと被告高橋との間において、同2(二)(被告川嶋の責任)の事実は原告らと被告川嶋との間において、それぞれ争いがない。また、同2(二)(被告川嶋の責任)及び同2(三)(被告会社の責任)の事実中、被告川嶋が被告車を所有し、これを自己のために運行の用に供していた者であること及び被告会社が被告川嶋との間で、被告車につき、本件事故時を保険期間内とする自動車損害賠償責任保険契約を締結していたことは、原告らと被告会社との間において争いがない。

したがって、被告高橋は民法七〇九条、被告川嶋は自賠法三条本文にそれぞれ基づき、連帯して、春子及び原告らが本件事故により被った後記損害を賠償すべき義務があり、被告会社は自賠法一六条一項に基づき、同法施行令二条一項一号イ所定の保険金額(二五〇〇万円)の限度において、他の被告らと連帯して、春子及び原告らが本件事故により被った後記損害額を支払うべき義務がある。

二そこで請求原因3(春子及び原告らの損害)について判断するに、被告らは春子の自殺と本件事故との間の因果関係を争うので、まずこの点について検討することとする。

1  <書証番号略>、証人千葉愛子、証人馬場克司及び証人西川徹の各証言並びに原告猛本人尋問の結果を総合すると、春子の成育歴、職歴、本件事故後の治療経過、自殺に至る経緯等は次のとおりであると認めることができる。

(一)  春子は、昭和二五年九月二七日に岩手県内で三人姉妹の三女として生まれ、地元の高等学校を卒業したのち埼玉県内の病院に就職し、看護婦養成所に二年間通って准看護婦の資格を得た。その後春子は看護婦の職を離れ、一時ガソリンスタンドで事務員として働いていたが、昭和五一年ころ原告猛と知り合って結婚し(同年九月八日婚姻届出)、長女の原告美加(昭和五二年一月二七日生まれ)、長男の原告和之(昭和五四年九月一二日生まれ)、次男の原告智之(昭和五九年七月二七日生まれ)をそれぞれ出産した。春子は、昭和五三年ころから国分寺病院で再び看護婦として稼働し始め、本件事故当時は内科病棟に勤務していたが、この間の昭和六〇年七月には、原告猛の名義で原告らの肩書地に土地建物を取得し、昭和六三年八月には右土地上に木造瓦葺の二階建建物を新築して、夫婦二人で働いて得られる収入の中から月額一七万円を住宅ローンの返済に充てており、本件事故時にも約二八〇〇万円の未返済分が残っていた。また、本件事故の一年位前から、原告和之が他の児童に物を投げる等して担任の教諭から注意をされたり、児童相談所で指導を受けたりしたことがあったため、春子はその対応に多少なりとも苦慮していた様子であった。しかし、本件事故に遭遇するまでは、春子が精神科ないし神経科において診療や治療を受けたことはなく、春子は概して朗らかな性格であった。

(二)  春子は、本件事故後直ちに救急車で府中病院に搬送されたが、脳神経外科において脳挫傷、外傷性くも膜下出血、頭皮割創、左大腿打撲と診断されたため、左前額部の縫合手術を受けたのち入院するところとなった。入院当初の所見では、意識障害Ⅰで、外傷性健忘症及び左前額部の創痛・腫脹はあるが、瞳孔異常、四肢麻痺及び項部硬直はいずれもなく、受傷後約六時間を経過した時点では、CTスキャンの画像上、くも膜下出血は洗い流されて消失し、脳神経外科的には特に問題のない状態であった。しかし、頭部及び頸部の痛みが続き、また入院三日目の平成元年五月一三日ころからは不眠症状を訴えるようになったため、鎮痛剤、睡眠剤等の投与を受けて経過し、同月一八日、神経学的には特に問題がないと診断されて退院した。

(三)  その後春子は自宅で療養を続け、同年五月二四日と六月一四日には同病院の脳神経外科に通院して診療を受けたが、いずれも神経学的に異常がないと診断されたため、同月二〇日からは勤務先である国分寺病院に出勤して看護婦として稼働し始めた。しかし、一〇日程すると再び休職し、よく眠れないと原告猛に訴えるようになり、同月二九日、医療法人社団根岸病院に赴いて診察を受けたところ、神経症の疑いと診断された。春子は、同病院の医師に対し、気の張りがなく仕事に集中することができない等と訴えていたが、同年七月五日に府中病院を受診した際には、頭痛、めまい、耳鳴り等の症状を訴え、また同月八日と一二日に受診した立川共済病院神経外科では、抑うつ気分があり、以前に比べて物事がよく理解できない、自分が仕事で足手まといになっている気がする、眠れない、死にたいとは思うが子供がいるのでできない等と訴えて、同病院の医師から抑うつ状態と診断された。春子は、同月一九日、外リンパの瘻孔の疑いにて府中病院の耳鼻咽喉科で診察を受けるとともに、同病院の神経科(精神科)においても診察を受けた。その結果、耳鼻咽喉科では異常がないと診断されたが、神経科(精神科)ではうつ状態と診断され、抗うつ剤等の投与を受けた。神経科(精神科)での初診時における主症状は、抑うつ気分、精神運動の軽度遅延、睡眠障害、食欲不振等であり、春子は、担当医(西川徹医師)に対して、頭を押されるような重い感じとともに耳鳴りがし、集中力がなく物覚えが悪い、事故がきっかけで気持ちがすさんでしまった、他人の話がよく理解できず苛立ってくる、一五年位看護婦をしているが、職場に出てみると他人の言うことがいじわるに聞こえ、自信が持てず出る気になれない、子供が三人いるほか家を建てたばかりでローンがあり、夫婦が共に元気で働くことを前提にやってきたので焦っている等と訴えていた。春子を診察した西川医師は、初診時の問題点として、「抑うつ状態であるが、交通事故、子供の学校における問題などが誘因となったと考えられ、神経症的な傾向もみられる。日内変動が認められず、多弁、一方的な訴え方など面接時の態度もいわゆる内因性のうつ状態の性質とはあわない。」とカルテに記載している。

(四)  同年七月二一日、春子は子供二人を連れて岩手県藤沢町の実家に帰り、同月二五日には両親の勧めに応じて南光病院精神科で診察を受けたが、同病院でもうつ状態と診断された。同病院での初診時における症状は、府中病院等におけるものと同様であり、春子の父親は入院して治療を受けさせることを希望したが、担当医(馬場克司医師)から、夫の同意を得るとともに府中病院の担当医の指示を受けるよう勧められたため、一旦帰京して府中病院の西川医師と相談することとした。その後春子は、同年八月二日、九日、一六日と府中病院神経科(精神科)に通院してカウンセリングを受け、同月九日のカウンセリングでは、死にたい気持ちはあるが子供のことを考えて抑えている等と話していた。同月一七日、春子は西川医師の紹介状を持参して再び岩手県の実家に帰り、同月一九日、南光病院精神科に入院した。入院時における所見は、抑うつ気分、焦燥感とともに自殺念慮があるというものであったが、抗うつ剤等を投与して経過を観察したところ、自殺念慮、焦燥感、抑うつ気分等は軽快した様子であり、春子本人も退院を強く希望していたので、同月二八日退院となった(もっとも、馬場医師は、退院時の春子の状態について楽観的な予測をもっていたわけではなく、更に時間をかけて回復を待つ必要がある旨を府中病院神経科(精神科)の西川医師宛の紹介状に記載している。)。

(五)  春子は、その後再び東京の自宅に戻り、自宅で療養を続けるとともに、同年九月二〇日、一〇月四日、同月一一日の三回にわたって府中病院神経科(精神科)に通院して治療を受けたが、担当医に対し、少し落ち着いてきたと訴えたかと思うと、次回の通院時には良かったり悪かったりして安定しないと訴える等、複数種の抗うつ剤の投与にもかかわらず、春子の症状は非常に不安定な状態で推移しており、同月一一日の診察時における西川医師の印象では、春子は再び抑うつ状態を強めているように感じられた。このようななかで、春子は、同年一一月一日午後二時ころ、自宅の押入れの中の鉄の棒に腰紐を掛け、これで縊首して自殺した。

(六)  春子の死亡後、押入れの中から同人の筆跡で記載されたノート(<書証番号略>)が発見されたが、その九月九日の欄には、「何もわからない、どうしていいのかわからない、眠っても眠りがあさく、頭の中がからっぽである、このまま死んだほうがましである、やせてしまって死にたい、あの世にいったほうがましである、この気持ちは誰にもわからない、夜も不安で昼間も不安である、楽しいことも一つもない、この世がつまらない、事故にさえあわなければこんなことにはならなかった、五月一一日に事故にあった、あれから」等と記載されていた。

2 右認定の事実に証人馬場克司及び証人西川徹の各証言を総合して考えると、春子は、本件事故によって脳挫傷、外傷性くも膜下出血、頭皮割創、左大腿打撲の傷害を受け、これらの傷害自体は短期間の入院治療により脳神経外科的には特に問題のない状態にまで改善したが、事故後三日目ころから既にうつ病の初発症状である睡眠障害を訴えていたことや、本件事故以前には特段の問題なく看護婦として元気に稼働していたこと等からすると、春子は、本件事故によって脳幹部に加えられたダメージにより、脳の神経伝達経路になんらかの障害を残して抑うつ状態に陥り、これに本件事故以前から存在していた住宅ローンの問題や子供の教育問題等に由来する精神的負荷が顕在化して加わった結果、次第に本件事故にさえ遭わなければこんなことにはならなかったという他罰的心理を強めて抑うつ状態を増強させていき、かなり早期の段階から抗うつ剤の継続的投与を受けて精神科的な治療を受けていたにもかかわらず、これが奏効しないことも相俟って、遂には発作的に自殺におよび死亡したものと推認するのが相当である。

ところで、<書証番号略>、証人馬場克司及び証人西川徹の各証言によれば、うつ病患者においては、そのほとんどの者が病相の間中、少なくとも潜在的には自殺の危険をもっているといわれており、諸研究によると、うつ病患者における自殺率は約一〇パーセント(自殺企図率はこれよりも更に高く、一〇パーセントないし二〇パーセントといわれている。)で、全人口における自殺率と比較して、かなりの高率となっていることが認められる。

したがって、春子が自殺に至った前示認定の経過とこれらの事実とを考え併せれば、前示認定の事実経過の下で、春子がうつ病に罹患し、次第に抑うつ状態を増強させていって自殺したとしても、これらは、被告らのみならず、通常人においても十分に予見することが可能な事態というべきであるから、春子のうつ病罹患と本件事故との間はもとより、春子の自殺による死亡と本件事故との間についても、相当因果関係があるというべきである。

もっとも、身体に対する加害行為と発生した損害との間に相当因果関係がある場合においても、その損害が加害行為のみによって通常発生する程度、範囲を超えるものであって、かつ、その損害の拡大について被害者の心因的要因が寄与しているときは、損害賠償額を定めるにつき、民法七二二条二項を類推適用して、その損害の拡大に寄与した被害者の右事情を斟酌するのが相当であるところ(最高裁判所昭和五九年(オ)第三三号同六三年四月二一日第一小法廷判決・民集四二巻四号二四三頁)、前示認定の事実経過に照らすと、春子が本件事故後うつ病に罹患したこと自体については、損害賠償額の算定に当たって斟酌すべきような心因的要因の寄与を認めることはできないが、自殺による死亡については、本人の自由意思によって生命を断つという側面があることを否定できず、換言すれば、本人の心因的要因の寄与によりその損害を拡大させた部分があることを否定できない。したがって、春子の死亡による損害額の算定に当たっては、春子のうつ病の内容・程度、治療経過のほか、本件事故以前から潜在的に存在していた住宅ローンの問題や子供の教育問題等、春子の抑うつ状態を増強させ、遂には自殺を決意するに至らせたと考えられる諸事情を総合考慮した上で、通常人が同一の状態(自殺直前の春子の状態)におかれた場合における自殺の選択可能性との比較において、損害の拡大に寄与した春子の心因的要因の割合ないし程度を捉え、これに応じてその損害額を減額することとするのが相当である。

そこで、このような見地から本件における春子の右心因的要因の割合ないし程度をみるに、被告らは、春子が自殺を図るについては、子供の非行問題、住宅ローンの問題、職場における人間関係の問題等本件事故以外の要因も大きいから、本件事故の寄与の割合は最大でも二割であると主張する。しかしながら、前示のとおり、潜在的に住宅ローンの問題や子供の教育問題等を抱えていたにせよ、春子は、本件事故以前には看護婦として元気に稼働していたのであるから、右のような事情は、本件事故によるうつ病罹患という事態がなければ自殺に至る誘因として顕在化しなかったものと考えられ、本件事故によりこれらが顕在化した結果、春子の自殺選択の場面では、右事情はむしろその自由意思の程度ないし割合を減殺させる方向に作用したものと評価することも可能である。したがって、被告らの主張する右事情を減額の要素として過大に評価するのは相当でないというべきであるが、他方、うつ病患者における自殺率が高いとはいっても、うつ病に罹患したすべての者が自殺するものでないこともまた前示認定より明らかであるから、これらの事情を総合考慮して、前示認定の事実関係の下では、春子の右心因的要因の割合を五割とするのが相当である。

三進んで、春子及び原告らの損害額について判断する。

1  傷害による損害

(一)  治療費等 四七万九三〇三円

春子は、府中病院及び南光病院における治療費等として、四七万九三〇三円(二八万三九三〇円については当事者間に争いがなく、その余の一九万五三七三円については<書証番号略>によって認められる。)の支払を要したことが認められる。

(二)  入院付添費 五万一五六〇円

本件事故により受けた傷害等の内容・程度に照らせば、春子は、その入院期間中付添看護を要する状態にあったことが認められるが、入院付添費として、当事者間に争いのない五万一五六〇円を超える金額の支払を要したことを認めるに足りる証拠はない。

(三)  入院雑費 二万一六〇〇円

本件事故により受けた傷害等の内容・程度に照らせば、春子は、その入院期間中少なくとも一日一二〇〇円の割合による雑費の支出を要したことが認められるから、一八日間では二万一六〇〇円となる。

(四)  通院費 三二五〇円

春子が通院費として三二五〇円の支払を要したことは当事者間に争いがない。

(五)  休業損害 一七六万〇〇八三円

前示認定の事実によれば、春子は、本件事故当時、国分寺病院で看護婦として稼働していたが、平成元年五月一一日に本件事故に遭遇して、脳挫傷、外傷性くも膜下出血、頭皮割創、左大腿打撲の傷害を受けた結果抑うつ状態に陥り、抗うつ剤の投与を受けて治療を続けたにもかかわらず、はかばかしい治療効果が得られないまま、同年一一月一日に自殺を図って死亡したものであり、この間少なくとも五か月間は全く稼働することができなかったものと認められる。そして、<書証番号略>によれば、春子は、本件事故前の昭和六三年に、国分寺病院から年間四二二万四二〇〇円の収入を得ていたことが認められるから、これを月額に換算してその五か月分の休業損害を算出すると、その額は一七六万〇〇八三円(一円未満切捨て)となる。

(六)  傷害慰藉料 一〇〇万円

本件事故により受けた傷害等の内容・程度、入通院期間、治療経過等に照らせば、春子の傷害による慰藉料としては一〇〇万円が相当である。

2  死亡による損害

(一)  葬儀費用 九〇万一一八三円

<書証番号略>によれば、原告らは、春子の葬儀費用等として一一二万五一七七円の支払を要したことが認められるが、このうち二二万三九九四円はいわゆる香典返しのために支出したものであって、本件事故と相当因果関係のある損害とは認められないから、被告らに賠償を求めることのできる金額は九〇万一一八三円となる。

(二)  春子の逸失利益 三七七五万九二七八円

前示のとおり、春子は、本件事故当時、国分寺病院で看護婦として稼働し、年間四二二万四二〇〇円の収入を得ていたものであるから、本件事故に遭遇しなければ、死亡時から六七歳に達するまでの二八年間にわたって、右金額と同程度の年収を得ることができたものと推認される。もっとも、春子の右年収額が、看護婦という職業の専門性、労働の過密性を考慮しても、同年齢の者に対する平均賃金額と比較してやや高額であること(賃金センサス平成元年第三巻第四表の職種・性、年齢階級、経験年数階級別所定内給与額及び年間賞与その他の特別給与額によると、三五歳ないし三九歳の経験年数一五年以上の看護婦の平均賃金額は四〇八万七九〇〇円、同じく准看護婦の平均賃金額は三三二万一三〇〇円である。)からすると、春子と原告猛とが共働きで、扶養すべき子供が三人いること等を考慮に入れても、少なくともその四割は生活費として費消するものと考えられる。したがって、右金額を基礎に、生活費控除率を四割として、ライプニッツ方式により年五分の割合による中間利息を控除して本件事故時における春子の逸失利益の現価を算定すると、その額は次のとおり三七七五万九二七八円となる。

4,224,200×0.6×14.898=37,759,278

(三)  死亡慰藉料 一九〇〇万円

前示のとおり、その治療経過の一時期において、死にたい気持ちはあるが子供のことを考えて抑えている等と話していた春子が、原告猛やその余の原告らを残したまま自殺を図るに至った経緯等にかんがみると、その心中は察するに余りあるところであり、これに加えて次の(四)で述べる原告猛の負担ないし不利益等、本件に顕れた一切の事情を斟酌すれば、春子の死亡による精神的苦痛を慰藉するためには、一九〇〇万円の支払をもってするのが相当である。

(四)  原告猛の逸失利益 〇円

原告猛は、本件事故で春子が死亡し、自らが幼い三人の子供の面倒をみる必要が生じたため、時間的余裕はあるが従前よりも賃金の低い係に配置転換を受けざるを得なくなり、収入面で不利益を被ったと主張し、これを原告猛固有の逸失利益として請求する。

なるほど、原告猛と春子とが、三人の子供を抱えながら、夫婦共働きで生計を立てていたことを考えると、春子が死亡したことによって、家庭生活のみならず社会生活を送る上でも、原告猛の負担ないし不利益が増大したであろうことは容易に推測されるところである。しかしながら、このような負担ないし不利益は、原告猛が春子の夫であったことから反射的に生じたものであって、原告猛の生命・身体に対する直接的な侵害の結果として生じたものではないのであるから、このようなものについてまで加害者に責任を負わせるときには、賠償の範囲を無制限に拡大する結果となりかねない。したがって、このような妻の死亡により夫に生じた負担ないし不利益については、加害者にそれ自体に対する故意ないし害意が認められる場合を除き、夫が固有の逸失利益として請求することはできないものというべきである。そして、本件における被告らに右の故意ないし害意があったことを認めるに足りる証拠はないから、結局、本件事故による原告猛の逸失利益を認めることはできず、原告猛の右負担ないし不利益は、右(三)の死亡慰藉料算定に当たっての一事情として斟酌することとするのが相当である。

(五)  春子の心因的要因の寄与による減額

右(一)ないし(三)の合計額は五七六六万〇四六一円となるところ、死亡による損害額については、前示のとおり、春子の心因的要因を斟酌して、その五割を減額するのが相当であるから、その残額は二八八三万〇二三〇円(一円未満切捨て)となる。

3  相続等

原告猛が春子の夫であり、その余の原告らがいずれも春子の子であることは当事者間に争いがないから、原告らは、春子の右1の(一)ないし(六)並びに2の(二)及び(三)の損害賠償請求権をそれぞれ法定相続分に従って相続し、また、弁論の全趣旨によれば、原告らは、右2の(一)の損害額につきそれぞれ法定相続分の割合でこれを負担することを約したものと認められる。

4  損害の填補

原告らが、被告高橋及び被告川嶋から傷害による損害分として一二六万九七七七円(治療費二八万三九三〇円、入院付添費五万一五六〇円、入院雑費五六〇〇円、通院費三二五〇円、休業損害七三万一六一九円、慰藉料一九万三八一八円)、被告会社から死亡による損害分として一二五〇万円の各支払を受け、これらを法定相続分に従って原告らの前記損害額に充当したことは当事者間に争いがない。

そうすると、原告らが、被告高橋及び被告川嶋に対して賠償を求めることのできる金額は、原告猛が九一八万八一二四円(一円未満切捨て)、その余の原告らが各三〇六万二七〇八円(一円未満切捨て)となり、また被告会社に対して支払を求めることのできる金額(死亡による損害についての保険残額)は、原告猛が六二五万円、その余の原告らが各二〇八万三三三三円(一円未満切捨て)となる。

5  弁護士費用 合計一八〇万円

弁論の全趣旨によれば、原告らは、本件訴訟の提起及び追行を原告ら訴訟代理人に委任し、相当額の費用及び報酬の支払を約しているものと認められるが、本件事案の性質、審理の経過、認容額に照らし、本件事故と相当因果関係のある損害として被告らに対して賠償を求めることのできる金額は、原告猛が九〇万円、その余の原告らが各三〇万円(合計一八〇万円)と認めるのが相当である。

四以上の次第で、原告らの本訴請求は、(一)被告高橋及び被告川嶋に対し、連帯して、原告猛が一〇〇八万八一二四円、その余の原告らが各三三六万二七〇八円及び右各金員に対する本件事故の日以後である平成二年七月二〇日(被告高橋)又は同月二一日(被告川嶋)から各支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求め、(二)被告会社に対し、原告猛が六二五万円、その余の原告らが各二〇八万三三三三円の支払を求める限度でいずれも理由があるから認容し、その余はいずれも失当であるから棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条、九三条を、仮執行の宣言につき同法一九六条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官石原稚也)

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