東京地方裁判所 平成2年(合わ)95号 判決 1993年4月14日
主文
被告人は無罪。
理由
一 本件公訴事実は、
「被告人は
第一 平成二年二月六日午前五時ころ、東京都江戸川区<住所略>被告人方において、殺意をもって、長女A(当時九年)の頸部を両手で絞めつけ、よって、そのころ同所において、同女を扼頸による窒息死に至らしめて殺害し
第二 引き続き、前記日時ころ、前同所において、殺意をもって、長男B(当時一二年)の頸部、胸部等を文化包丁(刃体の長さ約一八センチメートル)で数回突き刺すなどし、よって、そのころ同所において、同人を気管切断、頸動脈切損等による失血死に至らしめて殺害し
たものである。」
というのであり、右の各事実は、<書証番号略>によって、これを認めることができる。
二 しかしながら、当裁判所は、審理の結果、被告人は、右各犯行当時、内因性うつ病(双極性)に罹患し、そのうつ病相期にあり、その程度も重症であって、自己の行為の是非善悪を弁識する能力は一応有していたものの、それに基づき自己の行為を制御する能力を喪失していた状態にあったと認め、本件各殺害行為は、責任能力を欠く者の行為として、いずれも罪とならないと判断した。その理由は以下のとおりである。
1 前掲関係各証拠のほか、<書証番号略>によれば、次の事実が認められる。
(1) 被告人は、昭和三〇年六月一三日、鹿児島県内において、父C、母Dの六女として出生し、同四九年三月、県立高校を卒業後、東京都内の鞄製造会社に就職し、事務員として稼働していた。そして、同五二年八月、同社の出入り業者の従業員であったEと結婚し、同年一二月に長男Bを、同五五年七月に長女Aをそれぞれ出産して、幸せな家庭生活を送っていた。しかし、同五六年六月、Eが交通事故により死亡したため、被告人は、中華料理店、玩具製造会社等で稼働して生計をたてていたが、同六二年七月、仕事をやめ、その後は、母子年金により親子三人で生活していた。
(2) 被告人は、PTAの委員をし、熱心に活動して周囲からも信頼され、また、人付き合いの上手な明るい人であったが、同六三年一二月から出産の関係で同居していた被告人の実姉のFが、平成元年五月に自宅に戻ると、それまで忙しかったFの子供の世話から解放され、急に、食欲不振、倦怠感等の抑うつ症状を覚えるようになった。そのため、同年七月、千葉県内の精神科病院で診察を受けたところ、うつ病の兆候があるとの診断を受け、投薬治療を受けた。右投薬治療により、間もなく症状が軽快し、同年の夏には、被告人は、子供たちとキャンプや海水浴に行くなど、これまでになく大変明るい充実した日々を送ることができた。
(3) 被告人の二人の子供のうち、Bは、幼少のころから性格がおとなしく、内向的であったが、小学六年時の同年九月ころから、登校を拒否するようになった。そこで、江戸川区内の病院で診察を受けさせたところ、精神面に問題があるとの診断を受けたため、被告人は、同区内の教育相談所に、週に一回、相談に通った。しかし、Bは、同年一一月ころから、部屋に閉じこもり、家族とも話をしないなど、より自閉的になったので、被告人は、何とかBを立ち直らせ明るくしようと前向きに努力していた。
(4) ところが、被告人は、同年一二月中旬から、再び気分が落ち込み、人と会ったり、話をしたりすることが嫌になり、家事をする気力もなくなったので、同月下旬、前記精神科病院で再び診察を受け、投薬治療を受けた。しかし、今度は以前と異なり、症状も軽快しなかったため、自らの判断で投薬を中止し、以後、気分の落ち込む日と、気分の回復する日が交互に二、三日おきに続いた。
(5) 他方、Bは、翌二年一月上旬に、被告人を交えFの夫と話し合いをし、その後は、そこで約束した生活習慣を守るようになるなど、明るい兆しが見られるようになっていた。しかし、それにもかかわらず、被告人は、同月中旬になると、食事の準備などの家事をする意欲が薄れ、食欲もなく、気分も落ち込んで外出もできないようになるなど、通常の社会生活を営むことができない状態になり、「この世の中は人と接しなくては生きていけない。それができない以上、生きていけない。自分は死ぬ以外にはない。」と思い始めるようになった。そして、同年二月に入ると、被告人の念頭には殆ど死ぬことしかなくなり、ただ、「自殺したあとのことを考えると、とてもBとAを残して死んでしまうわけにはいかない。三人で父さんのところに行こう。」と考え、二人の子供と無理心中することを決意するまでになった。そして、同月一日早朝、ラジオカセットのコードをBの頸部に巻き付け、絞殺しようとしたが、Bに抵抗されたため、その日は途中で断念した。
(6) その後、被告人は、同月三日、Fに頼まれ、Fの家で子供の面倒を見るなどした。すると、落ち込んでいた気分が楽になり、自宅に戻った後、子供たちと豆まきをしたりした。しかし、翌四日には、再び気分が落ち込み、自宅に訪ねてきたFに対し、「死にたい。」と漏らすなど、被告人は、死ぬことばかりを考えていた。
(7) このような状態の中、同月六日午前四時半ころ、三階の寝室で親子三人で就寝していた被告人は、Aから「トイレに行きたい。」と起こされ、トイレから戻った後も、目が冴えて眠れず、いろいろと考えているうちに死のうという思いが強くなり、死ぬのは今をおいてないとの気持ちが心の中に広がり、A及びBを殺害し、その上で自殺しようと決意するに至った。そこで、まず、Aを起こしてトイレに連れて行き、公訴事実第一の犯行及び、引き続いて、世話になった人へ詫びる気持ちから、二階の仏間のテーブルで遺書を書き、一階のダイニングキッチンから自殺用に文化包丁を持ち出して、それを寝室の布団の下に隠した上で、「ごめんねB。お母さんも後から行くからね。」と声をかけながら、寝ていたBの頸部を両手で絞めつけたが、Bが目を覚まして抵抗したため、前記包丁を取り出し、公訴事実第二の犯行に及んだ。
(8) その後、被告人は、前記包丁で自分の胸部を刺したり、ドアの金具にビニール紐を掛けて、首を吊ろうとしたり、浴室の浴槽内で息を止めて窒息死しようとしたり、前記包丁とは別の包丁を取り出して、胸部を刺したり、電子レンジを頭の上に落としたりするなど、執拗に自殺を試みた。しかし、結局死ぬことが出来ず、そのうち、一階の居間で気を失ってしまった。そして、意識の戻った同日午後八時ころ、Fに電話をしたところ、不審に思ったFから連絡を受けた近所の友人らが駆けつけ、救急車で病院に搬送された。
(9) なお、被告人の父C及び叔母Gもうつ病に罹患していたことが窺われる。
2 以上認定した各事実と、証人金子嗣郎に対する受命裁判官の尋問調書、鑑定人松下昌雄作成の鑑定書及び第九回公判調書中の同人の供述部分、鑑定人逸見武光作成の鑑定書及び同人の当公判廷における供述(以下、尋問調書、公判調書中の供述部分、公判供述につき、いずれも「証言」という。)とを総合すると、次のことが認められる。
(1) 被告人が本件犯行時に遺書を書いたりBに謝っていることからして、当時、被告人は、自己の行為の善悪を判断する能力は失っていなかった。
(2) しかしながら、被告人は、内因性うつ病(双極性)に罹患し、そのうつ病相と躁病相を経てきたところ、平成元年一二月中旬ころから再びうつ病相が始まり、本件当時には、右うつ病に起因する高度の抑うつ気分に支配され、食欲不振、行動の抑制等のうつ病特有の諸症状が顕著に発生しており、それに加え、同二年一月中旬ころからは、自分は死ななければならないという極めて強い希死念慮に捉われ、その結果、もはや子供を殺害して自殺する以外、他に残された途はないと考え、いわゆる無理心中、すなわち「拡大自殺」の一環と言うべき本件各犯行に及んだのであって、被告人は、本件犯行当時、極めて強い希死念慮に捉われ、微小妄想もみられるなど、程度の高いうつ病相期にあり、その精神障害の程度は重症で、被告人に他の行為を選択することは期待できなかったことが認められるから、本件当時、被告人は、是非善悪の判断に従って自己の行為を制御する能力を失っていた。
以上のことから、被告人は、本件各犯行当時、殺害行為自体の事柄の是非善悪を判断する能力こそ一応有していたものの、その判断に従って自己の行為を制御する能力を欠いていたと認められ、心神喪失の状態にあったと言うべきである。
3 なお、金子医師は、鑑定書において、「本件犯行は、被疑者が内因性うつ病の病状の中で行われたものと考えてもよい。(中略)被疑者については、不安・苦悶は強度であり、死の観念に支配されていたとは言え、微小妄想(貧困・罪責妄想など)に支配されていたとは言えず、それ故、是非・善悪の弁識とその弁識にもとづいて行為する能力は著しく障害されていたと言えるが、それらを欠いていたと迄は言えない。」とし、また、「妄想がみられないので、うつ病の程度は、中程度より少し重いが、極度に重症であるというところまではいっていない。」旨証言している。
しかしながら、松下証言及び逸見証言によると、妄想が顕著でないから重症でないとするのは問題がある上、本件当時、被告人は、重症のうつ病相期にあり、希死念慮に支配され、微小妄想があったことが認められる。
したがって、金子鑑定は、本件当時の被告人の病状の程度、精神状態について、裁判所の前記認定と異なる事実を前提として、心神耗弱であるとの結論を出したものであって、採用の限りではない。
また、逸見鑑定人は、「結論として、被告人は、自分の行動を制御する能力が著しく減退していたという表現のほうが正確と思う。」旨証言している。これは、同証言によると、「うつ病は、全人格が崩壊しているわけではなく、気分だけが著しく侵されているに過ぎない。そして、うつ病は完治する病気であり、うつ病患者は、将来従来どおりの生活を営むものである。このような者に、『責任無能力』という、人間存在としての基本までを否定しかねないラベルをはるべきではない。(責任無能力ということは)あってはならないことだと考えている。また、うつ病は、犯行前に治せる病気であり、それを知っていながら治療しなかった者を『責任無能力』として刑事責任能力を否定すべきではない。」との見解に基づき、被告人は、うつ病に罹患した叔母を看病した経験があり、また、うつ病に関する知識があったことなどを理由に、被告人を責任無能力とすべきでないと考えた結果によるものであることが認められる。しかしながら、逸見鑑定人自身、本件犯行時の被告人の精神状況について、「微小念慮が続いており(同鑑定人は、妄想と呼んでも間違いではないが、分裂病を連想するので、この言葉を使わず、念慮と表現するとしている。)、希死念慮に支配されていた。」、「自分の弁識に基づいて行動する、自分の行為を制御できたかどうかになると、本件行為に限っては、やはり出来なかったと見るべきである。」、「こういう選択もできたはずだというようなことは到底言えない状態に、行為時にはあったと言わざるをえない。」などと証言しており、結局、本件犯行当時において、被告人に統御能力がなかったことを認めているのであって、その実質は、むしろ、前記2の認定と同じ結論に達しているものと認めるのが相当である。
三 ところで、検察官は、以下に掲げる諸点を根拠として、被告人は、本件犯行当時、自己の行為に対する是非善悪の弁識能力及びその弁識に従って行為を制御する能力が著しく減退した状態にあったが、その能力を完全に欠いた心神喪失状態には至っていなかったと主張するので、この点について付言する。
検察官が根拠とする点は、要約すると、(1)被告人自身における自殺の決意は、単に抑うつ気分からの希死念慮のみによるものではなく、長男の登校拒否という母親にとり深刻かつ重大な要因が存在したものであり、また、本件犯行の決意は、自殺後におけるBらの不憫な境遇を思っての決意であり、このような子供を道連れにしての無理心中の決意については、一般人における正常な感覚によっても十分理解しうるものであって、犯行の動機として了解可能なものである、(2)被告人は、本件犯行当時、①Aの殺害途中にBに気づかれないように、Aを二階トイレに誘った上で殺害している、②Aに対する扼頸の際、BにAのうめき声が聞こえないようにAの口腔内にタオル等を詰め込んでいる、③兄弟及び世話になった知人らに対し、遺書を残している、④Aの集団登校の時刻が近付くや、登校の世話人方に電話をして、Aが欠席する旨を伝えている、等の行為をとっているが、これらは、子供らを殺害し、自殺するという目的に適った合理的なものであって、被告人は、一般人の正常な感覚で十分了解可能な的確な行動に終始している、(3)被告人の犯行前及び犯行当時の記憶は、極めて鮮明に保持されており、記憶の欠落及び意識の混濁等を窺わせる事情は皆無であり、また、犯行当時の被告人には、人格の荒廃・変容は窺えず、さらに、犯行前及び犯行当時において、被告人に、幻覚及び妄想状態の出現を窺わせるものは認められない、(4)被告人は、本件の五日前に、本件と同様の動機により、Bらの殺害行為に着手したが、Bの抵抗にあって、その途中で断念し、その後気持ちを持ち直しており、本件当時も、殺害を思い止まることができる精神状態を有していた、というものである。
しかしながら、まず、右(1)の点であるが、たしかに、被告人は、教育相談所に通うなど、Bの登校拒否を気にして悩んでいたことは事実である。しかしながら、被告人は、捜査段階から一貫して、本件犯行の動機は被告人自身にあり、Bの登校拒否は、それとは関係ない旨供述しており、金子証言も、「うつ状態になると、そのとき考えたことに支配されてしまい、前に気にしていた原因は、どうでもいいとなることがあるかもしれない。」として、被告人が供述しているようなことがありうるとしている。そして、前記1(5)で認定したように、Bは、本件発生の約一か月前の平成二年一月上旬に、Fの夫と三人で話し合いをした結果、そこで約束した生活習慣を守るようになるなど、明るい兆しが見られるようになっており、被告人もBのこの状態を認識しているのであるから、Bの登校拒否が本件犯行の重大な要因になったとは認められない。次に、子供を道連れにしての無理心中の決意を動機として、自殺後の子供の不憫な境遇を思ってというのは、一見合理的な動機に基づくもののように認められる。しかしながら、前記1(8)及び2で認定したように、本件で、被告人は、犯行後、執拗に自殺を図っていることなどからみても、当時、強い希死念慮に支配されており、思考抑制の結果、他の行為を選択しうる余地が全く閉ざされていたと認められるのであって、このような状態の中、被告人が、子供を殺害して自殺しようという決意を覆し、又は抑止することは、全く期待できない状態にあり、このような決意をすること自体、抑うつ状態の作用によるものと言えるのである。すなわち、子供を道連れにすることは、自己の自殺行為の付随効果にすぎず(拡大自殺)、子供を道連れにすることの動機の了解可能性は、責任能力を判断するにあたって重視すべきではなく(この点、逸見鑑定人も、子供を巻き込んだことは、病気の判定の側面では二義的なものと考えていいと証言している。)、子供を道連れにする動機の了解可能性があるからといって、被告人の責任能力が認められるとするのは妥当ではない。
次に、右(2)の点であるが、たしかに、本件犯行時における被告人の行動は、合理的であると認められる。しかしながら、逸見鑑定人は、「精神病をもっている人は、合理的すぎるくらい行動するものである。」、「被告人は犯行当時希死念慮に支配されていたからこそ、むしろ合理的な行動をとった」旨、また、松下鑑定人も、「自殺をする患者は、強い自殺念慮に支配され、死ぬという方向に向かってひたすら行動を重ねていくことになる。」旨証言するように、被告人は、本件当時、強い希死念慮に支配されていたからこそ、自己の死という目的の実現のため合理的な行動をとっているのであり、被告人の行為の合理性は、むしろ、被告人が希死念慮に支配されていた結果であると認められる。したがって、被告人が本件犯行に際して、検察官が主張するような種々の合理的な行為をとっていたとしても、いずれもそれが自己の死に向けての合理的な行為であると評価できるものである以上、被告人がうつ病に罹患し、それが重症の状態であったことと何ら矛盾するものではない。また、犯行時に遺書を書き残しているということは、当時、是非善悪の判断能力が残存していたことの証左とはなりうる。しかしながら、遺書を書くことも、死に向けての行為の一環であり、うつ病による希死念慮の一つの現れとみうるから、それが、犯行時、被告人が他の行為を選択しえた、すなわち、被告人には自己の行動を制御する能力があったとまで推認させるものでは決してなく、被告人の責任能力の判断を左右するものではない。
さらに、右(3)の点であるが、金子証言にもあるように、抑うつ状態と記憶とは関係がないし、また、本件当時、被告人に微小妄想があったことは、前記二2及び3で認定したとおりであって、検察官の主張は理由がない。
最後に、右(4)の点であるが、検察官は、二月一日の精神状態を、被告人は本件当時もほぼ有していたことを前提とするが、前記二1で認定したように、その間の同月三日には、被告人はいったん持ち直しており、また、本件の行為態様が、一日の行為に比して、より執拗であることなどを考慮すると、逸見鑑定人も、「一日のほうが衝動的である。本件は、一日の失敗を繰り返さないように、手を打っている。本件当時はもはや後戻りできない状態にあった。」と証言しているように、被告人の本件当時の精神状態は、一日のときよりも増して、希死念慮に支配されていたと認めるのが相当であり、一日の精神状態とほぼ同様のものであったと認めることはできない。
四 以上述べたように、被告人の本件犯行は、責任能力を欠く心神喪失者の行為であって、罪とならないから、刑事訴訟法三三六条前段により、被告人に対して無罪の言渡しをすることとする。
(裁判長裁判官大野市太郎 裁判官平塚浩司 裁判官栃木力は転勤のため署名押印することができない。裁判長裁判官大野市太郎)