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東京地方裁判所 平成3年(ワ)15868号 判決 1992年3月09日

原告

新堀茂子

右訴訟代理人弁護士

柴崎晃一

中根茂夫

被告

甲野春子

(登記簿上の氏名甲野春子)

右訴訟代理人弁護士

江口保夫

江口美葆子

戸田信吾

牧元大介

主文

一  被告は原告に対し、別紙物件目録一記載の土地及び同目録二記載の建物を引き渡せ。

二  被告は原告に対し、前項の建物について、平成二年七月五日売買を原因とする所有権移転登記手続をせよ。

三  訴訟費用は被告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

主文と同旨

第二事案の概要

本件は、借地権付建物の買主である原告が、売主である被告に対し、売買契約に基づき、建物とその敷地の引渡しと、建物につき売買を原因とする所有権移転登記手続をなすよう求めた事案である。

一争いのない事実

被告は、原告に対し、平成二年七月五日、別紙物件目録二記載の建物(以下、「本件建物」という。)を、その敷地である同目録一記載の土地(以下、「本件土地」という。)の借地権とともに、代金二三五〇万円で売り渡した(以下、「本件売買契約」という。)。

二争点

被告は、本件売買契約当時、精神分裂病による意思無能力の状態にあったか否か。

第三争点に対する判断

一被告の精神分裂病の病歴

1  証拠(<書証番号略>、被告、調査嘱託回答書)によれば、被告の精神分裂病の病歴は、次のとおりである。

(1) 被告は、高校卒業後、富士火災海上株式会社に勤務していたが、昭和四二年に母が死亡しひとり住まいとなった際に不安、不眠等の精神変調をきたし、数か月間向精神薬を服用した。

(2) 昭和四七年ころから、上司の有馬某が自分を愛していると思い込む被愛妄想が始まり、昭和四九年二月には被毒妄想も生じ、仕事を続けることが困難となって、同年三月右会社を退職した。

(3) 昭和五〇年五月、陽和病院で精神分裂病と診断されて通院を開始し、昭和五〇年六月からは同友会クリニックに通院した。

(4) 昭和五一年三月ころ、被愛妄想、被害妄想が激しくなり、同年五月一二日、多摩済生病院に入院した。当時、恋愛妄想、関係妄想、被害妄想、被毒妄想、思路弛緩等の症状が見られた。

(5) 右症状の消退により、昭和五一年一二月一八日退院し、その後は同病院で通院による投薬治療を続けて現在に至っている。

退院後は、平成元年二月ころから約六か月間及び平成二年六月ころから約五か月間の二回、被害関係妄想状態になった。

二本件売買契約時における被告の意思能力について

1 意思無能力とは、自分の行為の効果ないし結果を正しく認識し、これに基づいて正しく意思決定をする精神能力を欠いていることをいうと解される。

本件においては、被告が精神分裂病にり患していたことから、これによって本件売買契約当時被告の右精神能力が欠如していたか否かが問題となる。

2  証拠<書証番号略>、証人新堀、被告、調査嘱託回答書)によれば、次の事実が認められる。

(1) 原告の弟乙川一郎(以下、「乙川」という。)は、原告から任されて本件土地の管理をしていた。

被告の隣人の中村道夫(以下、「中村」という。)は、かねて原告から被告の隣地を借地し、同所に建物を所有して居住していたが、昭和六二年四月ころ、乙川との間で、右借地を明け渡す話が持ち上がった。

そこで、乙川は、隣に居住する被告からも本件土地の明渡しを受けることができれば、これらの土地を合わせて有効利用することができると考え、そのころ被告に対し、中村が借地を明け渡す話がある旨伝え、被告も明け渡す意思があるかどうかを尋ねた。

被告は、本件建物は相当古い木造建物で、被告が居住するようになってからでも五五年以上経過しており、かなり老朽化していたが、改修するにはそれなりの費用がかかることから、これを機会にどこかの中古マンションにでも引っ越すことを考え、明渡しに応じる旨を回答した。

被告は、同年六月初めころ、乙川から、中村との明渡しの合意が正式に成立し、同人が同月末までに引っ越す予定である旨聞かされたことから、同月一九日ころ、乙川に対し、被告の明渡代金として五、六〇〇〇万円を希望する旨申し入れたが、乙川から、二〇〇〇万円でどうかとの呈示を受けた。

更に、被告は、昭和六二年七月一日ころ、乙川に対し、代金を四、五〇〇万円にするよう申し入れたが、乙川から、それでは借地権ではなく所有権としても高額にすぎるとして、中村が二四〇〇万円で明け渡したのでこれと同額ではどうかとの申し入れを受け、結局二四〇〇万円とすることで合意した。

(2) 右交渉の間、被告は、二週間に一度の割合で通院し、投薬治療を受けており、被害関係妄想等の症状はみられなかった。また、被告は立退き問題について杉並区役所に相談し、権利があるので立ち退く必要はない旨の助言を得たが、自由な判断から、右の合意をした。

なお、被告は、当時妄想があった旨供述するが、<書証番号略>(カルテ)の記載に照らし、にわかに措信することはできない。

(3) 被告の借地面積は、実質上は45.55平方メートルあるにすぎないから、借地面積がこれより若干大きく54.20平方メートルある中村と同額の立退料で立退きの合意をすることは、立ち退く者としては通常考えられるところである。

(4) 被告は、その後、引っ越し先となる中古マンションを探し、乙川も協力して物件を紹介したが、被告の希望に沿うものがなかった。

乙川は、被告がひとり暮らしの女性であることや、あまり催促して立退料の上乗せを要求されることを懸念し、明渡しの具体的時期について被告と詰めないままで推移した。

(5) 被告は、平成元年三月一三日ころ、乙川に対し、西荻窪に移転先を見つけたので引っ越す旨連絡し、乙川との間で、本件建物を原告において取り壊すための費用として五〇万円を立退料から控除する旨合意した。

しかし、被告は、同月一五日ころ、乙川に対し、西荻窪の物件が駄目になったとして明渡しを五月ころまで延期する旨告げた。

当時、被告には、身体のあちこちが痛くなったりだるくなったりする症状が現れ、有馬がいやがらせをしている、本件建物は隙間だらけのためそこから電気でやられているとの妄想を抱いていた。

(6) 被告は、平成二年七月五日又はその前日、乙川に、先の合意に基づく明渡しの契約をしたい旨を申し入れ、同月五日、被告と乙川は、被告が原告に対し本件建物及び本件土地の借地権を代金二三五〇万円で売り渡す旨の売買契約書に調印した。代金の支払と明渡しは、被告の申し出により、同年七月末日とされた。

当時、被告には、身体が痛く、有馬が電気のようなもので痛くしているとの被害関係妄想があった。そのため、被告は、引っ越しをすれば痛くされることから逃れられるかもしれないと考え、右契約の締結を申し入れた。

(7) 被告は、右明渡しの期日である平成二年七月末日が近づくと、体調が悪いとして明渡しの猶予を得ていたが、同年九月四日ころ、引っ越し先となる立川市錦町のマンションを三〇〇〇万円未満の代金で購入することを決め、乙川に申し入れて、代金の授受を同月五日とすることを決めた。

しかし、被告は、当日、決裁を延期するよう乙川に申し入れた。

この間被告は、引き続き被害関係妄想が出現していた。

3 右認定の事実に基づき検討するに、被告のなした本件売買契約をする旨の意思表示は、有馬が被告の身体を痛くしているとの妄想のもとに、本件建物から引っ越せば右のいやがらせから逃れられるかもしれないと考えたことが動機の一つとなっているから、右妄想の存在が被告の意思決定に影響したことは否定できない。

しかし、右妄想の内容自体は、引っ越しをするように電波に命令されるとの内容の妄想がある場合と比較すれば、売買契約との結びつきは間接的なものにすぎず、引っ越しをすれば妄想から逃れられるかもしれないと考えたのは被告自身であって、右決意をしたこと自体にはそれなりの合理性がないわけではない。また、被告は、右契約が従前の立退きの話を実行に移すためのものでることを認識しており、被告が引っ越せば、本件建物を改修する必要もなく、土地の有効利用に協力することになることも動機の一つとなったと解することができる。また、被告は右売買契約の効果として、本件建物の所有権が原告に移転するため被告が別途引っ越し先を探して引っ越す必要のあることや、代金請求権の生じることを認識していたことは明らかであるし、右売買代金もそれなりに合理性のある金額であったと解される。

これらの点を総合考慮すると、被告は、本件売買契約の締結当時、動機において間接的に妄想の影響を受けてはいたものの、右意思表示の効力を全面的に被告に帰属させることが被告にとって酷に過ぎるというほどの状況にはなく、意思無能力の状態にあったとまでは認めることはできないと解するのが相当である。

三結論

以上の次第であるから、本件売買契約に基づき本件土地建物の引渡しと本件建物の所有権移転登記手続を求める原告の請求は、全部理由がある。

(裁判官畑中芳子)

別紙物件目録<省略>

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