東京地方裁判所 平成3年(ワ)6147号 判決 1993年8月27日
主文
一 原告の請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
理由
第一 請求
被告らは原告に対し、各自金六四九五万円及びこれに対する平成三年六月一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二 事案の概要
一 本件は、借地上の建物に根抵当権の設定を受けていた原告が、地主の被告田ケ谷忠及び訴訟承継前の被告田ケ谷喜久子(以下、両名を合わせて「田ケ谷夫妻」という。)から地代不払等借地権消滅をきたすおそれのある事実が生じた場合には原告に通知する旨の念書の差入れを受けていたのに、田ケ谷夫妻が原告への事前の通知なしに地代不払を理由に土地賃貸借契約を解除してしまつた結果、建物が取り壊され、根抵当権が消滅したために債権回収が不能になり、総額六四九五万円の損害を被つたと主張して、被告田ケ谷忠及び亡田ケ谷喜久子の相続人である被告らに対し、通知義務の不履行による損害賠償請求として、六四九五万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成三年六月一日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める事案である。
本件の主要な争点は、<1>原告、田ケ谷夫妻間に通知義務負担契約が成立したか、<2>その契約が有効か否か、<3>借地人の経済状況が悪化した時点で通知義務が消滅したか、<4>通知義務が商事短期消滅時効により消滅したか、<5>原告が被つた損害につき過失相殺がなされるべきかなどである。
二 前提となる事実関係
1 トキワ工芸株式会社(以下「トキワ工芸」という。)は別紙物件目録記載の建物(以下「本件建物」という。)を所有し、その敷地(以下「本件土地」という。)の共有者である田ケ谷夫妻から本件土地を賃借していた(以下、右土地賃貸借契約を「本件賃貸借契約」という。)なお、田ケ谷喜久子は平成四年四月三日死亡し、同女の夫である被告田ケ谷忠並びに子である被告田ケ谷康弘及び被告高橋明美が田ケ谷喜久子を相続した(争いのない事実)。
2 原告は、トキワ工芸との間の信用金庫取引上の債権を担保するため、トキワ工芸から、本件建物に以下の根抵当権の設定を受けた(甲第二号証)。
(1) 契約日 昭和三九年一二月一八日
登記日 同月一九日
極度額 二〇〇〇万円(設定当初は五〇〇万円であつたが、昭和四七年一二月一九日に変更した。)
順位 二番
(2) 契約日 昭和五七年四月二六日
登記日 同年五月四日
極度額 五〇〇〇万円
順位 四番
3 田ケ谷夫妻は、昭和五九年三月三〇日、本件土地の借地人であるトキワ工芸と連名で、別紙添付の本件土地の賃貸借契約に関する念書(以下「本件念書」という。)を原告に差し入れた。本件念書の第四項には、「賃借人の地代不払、無断転貸など借地権の消滅もしくは変更をきたすようなおそれのある事実の生じた場合、または、このような事実が生じるおそれのある場合は、地主及び賃借人は原告に通知するとともに借地権の保全に努める」旨が記載されている(争いのない事実)。
4 トキワ工芸が昭和六〇年四月分以降の賃料の支払を怠つたため、田ケ谷夫妻は、昭和六一年二月一三日付け内容証明郵便をもつてトキワ工芸との間の本件賃貸借契約を解除したが、事前に原告に対しトキワ工芸の賃料不払の事実を通知しなかつた(争いのない事実)。
5 田ケ谷夫妻は、平成元年一〇月三〇日、株式会社千代田住宅に本件土地を売却し(争いのない事実)、本件建物は平成三年二月、取り壊されるに至つた。
6 一方、原告は、昭和六一年二月一七日に田ケ谷夫妻から本件賃貸借契約を解除した旨の通知を受け(争いのない事実)、同月二一日及び同年三月五日に原告の社員二人が田ケ谷夫妻宅を訪れてトキワ工芸の延滞賃料を提供して受領を促したが拒絶された。そこで、原告は、同月七日、延滞賃料全額を供託し、それ以降平成二年五月分までの賃料を供託した(争いのない事実)。
そして、原告は、昭和六一年四月二二日、前記2(1)の根抵当権に基づき、本件建物の競売の申立てをした(以下「本件競売手続」という。)その結果、株式会社大丸不動産が八〇九五万円で買受けの申出をし、平成元年二月六日売却許可決定がなされたが、翌七日、買受け申出後の調査によりトキワ工芸と田ケ谷夫妻との間の本件土地の賃貸借契約が解除されていることが判明したとして、同社から執行抗告の申立てがなされ、同年七月二八日執行抗告が認容されて売却許可決定が取り消された。その後本件建物が取り壊されたことが判明したため、平成三年二月一五日、本件競売手続は取り消された。
三 争点
1 通知義務負担契約の成否及び効力
(被告らの主張)
(一) 本件念書は、原告側があらかじめ各条項を印刷した定型用紙を用いて、本件土地の所在及び契約期間等を書き入れたものに田ケ谷夫妻が署名捺印したものである。田ケ谷夫妻が、原告とは建物の敷地の地主と同建物の根抵当権者という関係しかないのに、無償で本件念書に署名捺印したのは、本件念書に記載された通知義務の記載を問題としておらず、この記載内容に拘束される意思を有していなかつたからである。すなわち、本件念書に記載された通知義務の文言はいわゆる例文にすぎず、これを内容とする田ケ谷夫妻の意思表示は存在しない。
(二) 仮に本件通知義務を負担することを田ケ谷夫妻が承諾したとしても、本件通知義務は単なる徳義上の義務にすぎず、原告がこれに基づき田ケ谷夫妻に対して履行を強制し、もしくは損害賠償を請求し得る性質のものではない。
(三) 仮に田ケ谷夫妻が原告に対し強制力を伴う通知義務を負担する旨の契約が成立したとしても、田ケ谷夫妻は、本件念書を原告に差し入れた際、本件念書はトキワ工芸の借地権の内容を確認したものであるという程度の認識しか有しておらず、本件念書に記載された通知義務の違反により莫大な損害賠償義務が生じるとの認識は有していなかつた。このような認識のもとになされた通知義務を負担する旨の田ケ谷夫妻の意思表示には要素の錯誤があり、無効である。
(原告の主張)
本件念書は定型用紙を用いているとはいえ、田ケ谷夫妻は本件念書の内容を熟知の上で署名捺印したものである。
また、本件通知義務の履行は、電話一本、葉書一枚で事足りるものであり、決して過大な負担を要求しているものではない。その上、右通知により、原告が地代を代払いして本件建物の担保権を保全し得る半面、田ケ谷夫妻としても土地の賃料収入を確保することができるのであるから、本件念書が田ケ谷夫妻にとつて何ら益するものがないとはいえない。
したがつて、田ケ谷夫妻は本件念書により本件通知義務を負つたのであり、しかも右債務は自然債務ではないから、田ケ谷夫妻が通知義務に違反したことにより原告に与えた損害を補填するのは当然のことである。
2 通知義務の消滅
(被告らの主張)
本件通知義務の趣旨は、原告がトキワ工芸の本件借地権についての賃料支払遅延及びそのおそれがある事実を解除前に知ることにより、原告自身がトキワ工芸に代わつて賃料を支払う機会を確保し、もつて借地権の保全を図れるようにすることにある。そうだとすると、原告がトキワ工芸の賃料不払又はそのおそれのある事実を知つた場合には、自らの判断で借地権の保全が可能となるから、その時点で田ケ谷夫妻の本件通知義務は消滅すると解すべきである。
原告は、昭和六〇年三月末日及び同年六月末日にトキワ工芸の原告に対する借入金返済の遅滞が生じていること、同年一〇月一六日に同社が手形取引停止処分を受けたことを当時から知つていたのであり、その時点で、自らの判断で本件借地権を保全することが可能となつたのであるから、田ケ谷夫妻の通知義務は消滅したというべきである。
(原告の主張)
トキワ工芸の経済状態が悪化していたとはいえ、原告は、本件土地の地代は既に一年分前払されているものと考えており、田ケ谷夫妻からの通知を受けるまではトキワ工芸の賃料不払の事実を知らなかつたのである。
3 消滅時効
(被告らの主張)
本件念書による債権は、以下の理由により五年の商事時効にかかるところ、昭和六〇年三月末日にトキワ工芸が原告に対する債務の支払を遅滞した時点でトキワ工芸の本件賃貸借契約の地代不払のおそれが生じ、原告は田ケ谷夫妻に対し通知義務の履行を請求し得たのであり、それから五年が経過したので、田ケ谷夫妻は原告に対し、平成三年七月一九日の本件口頭弁論期日において右の消滅時効を援用した。
(一) 原告は信用金庫であり、信用金庫は商行為をなすを業とするものであるから商人に該当する。したがつて、原告と田ケ谷夫妻の間で行われた本件念書に関する行為は商行為である。
(二) 仮に原告が商人でないとしても、本件念書により田ケ谷夫妻とトキワ工芸が連帯して通知義務を負い、商人であるトキワ工芸の通知義務負担行為は商行為であるから、商法第三条第二項により田ケ谷夫妻の通知義務についても商事時効の適用がある。
(三) また、仮に、実質的に本件念書によつて義務を負うのは田ケ谷夫妻のみであつて、トキワ工芸は原告に対して通知義務負担行為を行つていないと解されるとしても、田ケ谷夫妻の通知義務負担行為はトキワ工芸の依頼によりなされたものである。すなわち、原告とトキワ工芸との間の金銭消費貸借契約及び根抵当権設定契約を前提として、田ケ谷夫妻と原告との間の通知義務等に関する契約及びトキワ工芸と田ケ谷夫妻との間におけるこの契約の委託契約が一個の三面契約として結ばれたのであり、したがつて、本件念書については商法第三条第二項が適用される。
(原告の主張)
(一) 時効期間について
(1) 原告が信用金庫であることは認めるが、信用金庫は商人ではない。
(2) 本件念書は形式上は田ケ谷夫妻とトキワ工芸の連名になつているが、通知義務を含む各条項は、実質的には地主である田ケ谷夫妻のみを対象として義務を課すものであり、田ケ谷夫妻と原告という非商人間の合意であるから、商事時効の適用はない。
仮にトキワ工芸も念書による合意の当事者であつたとしても、商法第三条第二項は数人の当事者がそのうちのある者にとつて商行為である一個の行為を共同で行つた場合に適用されるところ、本件念書による義務負担行為は、便宜上一枚の用紙を利用したまでで、原告とトキワ工芸、原告と田ケ谷夫妻を当事者とする別個の行為であり、トキワ工芸と田ケ谷夫妻による一個の共同の行為ではないので、同項の適用の余地はない。
(二) 起算点について
原告は、昭和六一年二月一七日に田ケ谷夫妻から本件土地の賃貸借契約を解除した旨の通知を受けて以来、一貫して事前通知義務に違反した右解除は無効であると主張してきた。このように本件借地権の存在を主張しながら、これとは両立し得ない田ケ谷夫妻に対する損害賠償請求権を行使することは法律上不可能であるから、原告が損害賠償請求権を行使し得るに至つた時点すなわち消滅時効の起算点は、<1>本件競売手続で買受けの申出をした株式会社大丸不動産の執行抗告が認められて売却許可決定が取り消された旨の連絡を裁判所から受けた日(平成元年八月二八日)、<2>本件土地を田ケ谷夫妻から買い受けた株式会社千代田住宅がトキワ工芸を被告として提起した建物収去土地明渡の訴えを認容する判決が被告の補助参加人であつた原告に送達された日(平成二年七月二六日)若しくは同判決が確定した日、又は<3>本件建物の滅失により本件競売手続が取り消された旨の通知を受けた日(平成三年二月一八日)のいずれかである。
4 損害の額
(原告の主張)
田ケ谷夫妻が通知義務に違反してトキワ工芸の賃料不払の事実の通知を怠つたため、原告は延滞賃料の代位弁済の機会を奪われ、その結果本件賃貸借契約が賃料不払を理由に解除され、本件建物が取り壊されるに至り、本件建物に設定されていた各根抵当権も消滅した。これにより、原告のトキワ工芸に対する七〇〇〇万円を超える債権を各根抵当権によつて回収することが不可能となり、原告は六四九五万円(本件競売代金八〇九五万円から商工組合中央金庫の根抵当権極度額一六〇〇万円を控除した残金)の損害を被つた。
(被告らの主張)
仮に田ケ谷夫妻に通知義務違反があつたとしても、原告にはトキワ工芸の経済状況を把握しながら何らの借地権保全のための手続をとらなかつたという重大な過失があつたので、過失相殺すべきである。
第三 争点に対する判断
(通知義務負担契約の成否及び効力について)
1 《証拠略》によれば、次の事実が認められる。
(一) 原告は、借地上の建物に抵当権(根抵当権を含む。)の設定を受けるにあたつては抵当権設定についての地主の承諾を得る取扱いになつていたことから、昭和五九年三月ころ、本件建物の敷地共有者である田ケ谷夫妻の署名捺印をもらつてくるようトキワ工芸に依頼して、本件念書の用紙を渡した。本件念書は別添のようなものであり、六個の条項があらかじめ印刷されており、本件の通知義務についての条項である第四項もその一つであつた。
(二) トキワ工芸の代表取締役の富山力次郎とその娘明美は、原告から念書の用紙に土地の所在地番と土地賃貸料の額を記入し、これを持つて田ケ谷夫妻宅を訪れ、署名押印するよう依頼した。その際、富山力次郎は被告田ケ谷夫妻に対し、銀行から金を借りたいので地主さんの印鑑が欲しいという趣旨の話をしただけで、本件念書の内容については本件通知義務の条項はもとよりその他の内容についても全く話をしなかつた。
(三) 被告田ケ谷夫妻は、本件念書について、トキワ工芸が原告から借入れをするために地主が本件土地を賃貸していることを確認する趣旨の書面であると理解して、本件念書に土地の面積、契約期間を書き込んだ上で、署名捺印した。
(四) 原告は、田ケ谷夫妻から本件念書を差し入れてもらうことについては全てを借地人であるトキワ工芸に任せており、田ケ谷夫妻に対し、直接本件念書の内容を説明したことはないし、本件建物に設定されていた根抵当権の内容やトキワ工芸に対する貸付状況についても一切説明していない。
(五) 田ケ谷夫妻は、原告とは建物の敷地所有者と借地上の建物の根抵当権者であるという以外に何ら特別の関係はなかつたが、もつぱら、トキワ工芸の代表取締役である富山力次郎の依頼に応じて、原告に本件念書を無償で差し入れたものであり、対価を要求したこともない。
(六) 田ケ谷夫妻は、当時約四〇軒に土地を貸していたが、本件のような解除前の通知義務が含まれている念書の差入れを求められたのは本件が初めてであつた。
(七) 田ケ谷夫妻は、トキワ工芸に対して本件賃貸借契約を解除する旨の内容証明郵便を出した後、本件念書のコピーを見て、第四項の趣旨に従い好意的に原告に通知しておいた方がよいと考え、昭和六一年二月一四日付け書面をもつて、原告に対し、本件賃貸借契約を解除した旨の通知をした。原告は、田ケ谷夫妻から右の通知を受けた後、原告の社員を田ケ谷夫妻宅に派遣し、地代を受領するよう促したが、田ケ谷夫妻はこれを拒否した。
2 右の事実を前提として原告と田ケ谷夫妻との間で田ケ谷夫妻が強制力を伴う通知義務を負担する契約が成立したか否かにつき検討すると、田ケ谷夫妻が通知義務が記載されている本件念書に署名捺印して原告に差し入れた以上、田ケ谷夫妻は通知義務を負担することを承諾する旨の意思表示をしたと認めるのが相当であり、これにより右契約が成立したというべきである。
3 しかしながら、前記1で認定した事実によれば、田ケ谷夫妻は、本件念書に署名押印してこれを原告に差し入れた当時、本件念書はトキワ工芸が敷地の借地権を有していることを確認するためのものであり、本件念書の差入れにより何ら義務を負担することはなく、第四項の通知義務についても好意で通知をしてやつてもいいという程度の認識を有していただけであつて、本件通知義務には強制力があり、これに違反すれば損害賠償義務に転じる可能性のあるものであることの認識まではなかつたと認められる。右第四項の文言自体あいまいなところがあり、原告からその意味するところについて何らの説明も受けなかつた田ケ谷夫妻が右のような認識しか持たなかつたとしても無理からぬ面がある。そうすると、田ケ谷夫妻は、本件通知義務は強制力があり、違反すると損害賠償義務に転化する可能性があるという性質を有するものであることを知つていたならば、本件念書に署名押印しなかつたものと推認されるから、田ケ谷夫妻のした通知義務を負担する旨の意思表示には、その重要な部分に錯誤があつたというべきであり、したがつて、本件の通知義務に関する契約は無効であるというほかはない。
第三 結論
以上の次第で、原告の本訴請求は、その余の争点について判断するまでもなく理由がないから、これを棄却すべきである。
(裁判長裁判官 魚住庸夫 裁判官 畠山 稔 裁判官 市川多美子)