東京地方裁判所 平成3年(行ク)28号 決定 1991年12月10日
申立人
八尾恵
右訴訟代理人弁護士
久連山剛正
同
本田敏幸
同
梅澤幸二郎
同
高橋理一郎
同
大島正寿
同
池田昭
同
木村哲也
同
山下幸夫
相手方
外務大臣
渡辺美智雄
右指定代理人
名取俊也
外六名
主文
本件申立てを却下する。
申立費用は申立人の負担とする。
理由
一本件申立ての趣旨及び理由は申立人代理人作成に係る別紙「一般旅券返納命令処分執行停止申立書」及び「意見書」記載のとおりであり、本件申立てに対する相手方の意見は相手方指定代理人作成に係る別紙「意見書」記載のとおりである。
二当裁判所の判断
1 本件申立ては、相手方が申立人に対して昭和六一年一二月一六日に発給した一般旅券(数次旅券。旅券番号MH三二八一〇四七。以下「本件旅券」という。)につき、昭和六三年七月二九日付でした返納命令(以下「本件処分」という。)の効力を本案事件の判決が確定するまで停止することを求めるというものである。
2 ところで、処分の効力の停止は、当該処分により生ずる回復の困難な損害を避けるため緊急の必要がある場合に限りこれを求めることができる(行政事件訴訟法二五条二項)。そして、本件において、右の必要があるとする申立人の主張は、要するに、申立人は、本件旅券を所持しておればいつでも海外渡航をすることができるが、本件処分によってその地位を奪われることとなった。海外渡航の自由は憲法二二条によって保障された基本的人権であって、今日のような国際社会においては、単なる経済的自由権に止まらず、精神的自由権の性格をも有する重要な人権であり、しかも海外渡航の自由が保障されていて初めて具体的渡航計画を立てることも可能となるものであるから、本件処分により申立人の被っている海外渡航ができないという損害は回復が困難なものであって、これを避ける緊急の必要性がある、というものであると解される(なお、右の点に関する申立人の主張は必ずしも明確ではなく、本件旅券の有効期限は平成三年一二月一六日までであり、かつ、同日までに本案事件の判決がなされる可能性は低いから、本件旅券の有効期限が経過してこれが失効することにより、申立人に海外渡航ができなくなるという回復困難な損害が生じ、これを避けるための緊急の必要があるというように主張しているとも見られるが、仮に、申立人の主張がそのような趣旨であるとすれば、申立人の主張する回復困難な損害は、単に期間の経過により生ずるものであって、本件処分によって生ずるものではないことになるし、期間経過後は新たに一般旅券発給を申請することも可能であるから、本件処分によって現在海外渡航をすることができない状態に置かれていることをもって回復困難な損害と主張しているものと解せざるを得ない。)。
3 そこで検討するに、本件処分によって、申立人のいつでも海外渡航をすることのできる地位ないし海外渡航の自由に制約が加わることとなったとしても、かかる地位ないし自由に対する制約は、申立人に現実に海外渡航をしようとする具体的な計画がなければ、申立人に精神的な不満感ないし不充足感等をもたらすことはあるとしても、それ以外の現実的な支障や損害をもたらすものではないことは、事柄の性質上、明らかである。そして、具体的な海外渡航の計画があってはじめて、当該渡航の目的ないし必要性の内容、程度によって、申立人にその渡航ができないことによって回復困難な損害が生ずるか否か、あるいはこれを避けるための緊急の必要があるか否かが決せられるものというべきであり、右のような精神的な不満感ないし不充足感等が生ずることは、それ自体としては、なお回復困難な損害とまで評価することができないし、また、これを避けるための緊急の必要がある場合に当たるとすることもできない(なお、申立人は、海外渡航の自由が保障されていて初めて具体的渡航計画を立てることも可能となる旨主張するが、その程度の海外渡航計画であれば、その必要性からみて、やはり、回復困難な損害には当たらず、また、これを避けるための緊急の必要がある場合にも当たらないというべきである。)。
しかるところ、申立人は、右のような具体的な海外渡航の計画及びその目的ないし必要性について何ら主張疎明をしないから、本件申立てはその余の点につき判断するまでもなく、失当であるものといわざるを得ない。
4 よって、本件申立てを却下することとし、申立費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官中込秀樹 裁判官石原直樹 裁判官長屋文裕)
別紙意見書
被申立人は、申立人の一般旅券返納命令処分執行停止の申立てに対し、以下のとおり意見を述べる。
第一 申立ての趣旨に対する意見
本件申立てを却下する
申立費用は申立人の負担とする
との裁判を求める。
第二 申立ての理由に対する意見
一 申立ての理由に対する認否及び反論
1 「第一 一般旅券返納命令処分の存在」について
本件処分に対する異議申立てを被申立人が放置したとの点は否認し、その余は認める。
2 「第二 本件旅券返納命令処分の違憲・違法性」について
一 旅券法の違憲性の主張について
一の主張はすべて争う
この点についての被申立人の主張は、本件申立ての本案である一般旅券返納命令処分取消請求事件(東京地方裁判所平成元年行ウ第二一九号。以下「本案事件」という。)における被告第一準備書面(<書証番号略>)の第一の一及び二(三ないし一一ページ)に記載したとおりであるから、これを援用する。
二 認定手続の違憲・違法性の主張について
二の主張中1の事実は認め、その余はすべて争う。
1 本件なき別件捜査によって収集した証拠に基づく処分であるとの点について
申立人は、警察官及び検察官による逮捕・勾留請求・捜索・押収等の捜査手続につき、専ら北朝鮮の工作員と見られる人物と接触し、その指示を受けて情報収集活動を行っていたとの事実の取調べに利用する目的で、別件である有印私文書偽造・同行使、公正証書原本不実記載・同行使の被疑事実で捜査を行ったものであるから、「本件」である犯罪の存在しない「別件捜査」であり、違憲・違法である旨主張する。
しかしながら、警察官及び検察官が捜査の対象としたいわゆる「本件」は、申立人に対する有印私文書偽造・同行使(昭和六〇年五月二九日、神奈川県横須賀市内において、架空人名義の貸室賃貸借契約書を作成・行使したもの)、公正証書原本不実記載・同行使(同六一年一二月一一日、同市役所係員をして、住民票原本に新住所に転入した事実がないのに転入した旨不実の記載をさせ、真正なものとして備え付けさせ行使したもの)の各被疑事実そのものであり、違法な別件捜査のそしりを受けるいわれはない。すなわち、およそ犯罪捜査に当たっては、被疑事実の罪体部分はもちろんのこと、それのみならず犯行の動機、原因、犯行に至るまでの経緯、背後関係、共犯関係等犯罪の軽重及び情状に関する諸事実についても捜査を遂げる必要があり、これを遂げなければ、事案の真相を解明し、適正妥当な終局処分を決し得ないところ、申立人に対する右各被疑事実においては、犯行動機、背後関係等終局処分を左右しかねない情状に関する事実にあいまいな点が認められたことから、これを解明し、各被疑事実について適正妥当な終局処分をすべく捜査が遂行されたものであって、その過程において、申立人と北朝鮮工作員との接触状況、情報収集活動等に関する捜査が行われたことに何ら違法はなく、申立人の右主張は全く的外れというほかない。申立人は、犯行の動機、目的、背後関係に関する諸事実がそれ自体で独立の犯罪を構成しなければ、これらについて捜査をすること自体が違憲・違法であると主張するもののようであるが、これは、右各事情が罪体と密接に関連し、終局処分の決定又は量刑判断の上で極めて重要な要素を構成するものであることを看過した議論であるといわなければならない。
このように、申立人の主張は、その前提において誤っていることが明らかであるから、その余の点について論ずるまでもなく失当である。
2 告知・聴聞の機会を与えなかったとの点について
この点についての被申立人の主張は、本案事件における被告第一準備書面(<書証番号略>)の第一の二(八ないし一一ページ)に記載したとおりであるから、これを援用する。
三 旅券法一三条一項五号に該当しないとの主張について
三の主張はすべて争う。
この点についての被申立人の主張は、本案事件における被告第一準備書面(<書証番号略>)の第二(二一ページ以下)に記載したとおりであるから、これを援用する。
四 本件一般旅券返納命令書に記載された処分理由の瑕疵の主張について
四の主張中1の事実は認め、その余はすべて争う。
申立人は、適用法条の記載を誤った本件処分には重大な瑕疵があり、その瑕疵は訂正通知によっても治癒されない旨主張する。
しかし、そもそも本件一般旅券返納命令書においては、その本文に「貴殿に発行した一般旅券を下記により返納することを命じます。」として命令主文を記載した上、「記」の欄の「2 返納すべき理由」の項に処分理由たる事実及びこれに対する法的評価を「貴殿が昭和五七年以来北朝鮮工作員と認められる人物と海外において接触しその指示により情報収集活動を行っていた等の事実にかんがみ、貴殿は旅券法第一三条第一項第五号にいう著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する行動を行う虞れがあると認めるに相当の理由があるものであることが本一般旅券の発行の後に判明した。」と具体的に記載しており、これに照らせば、被申立人は、本件処分に当たって、申立人に関する本件旅券発行前からの事実を認定し、右事実が本件旅券発行後に判明したことから、旅券法一九条一項一号に該当するものと判断し、これをもって本件処分の理由としていることが明らかであって、返納命令書本文冒頭の「旅券法第一九条第一項第二号の規定に基づき」との部分が誤記であることは明白である。そうすると、被申立人が法律関係をより明確にすべく念のため発した訂正通知の有無にかかわらず、本件処分にはこれを取り消し又は無効とすべき瑕疵は存しないというべきであるから、申立人のこの点に関する主張は失当というほかない。
また、右のとおり被申立人は本件旅券発行の後に申立人が旅券法一三条一項五号に該当する者であることを知るに至ったものであるから、旅券発行以前から被申立人がこれを把握していたことを前提とする申立人の主張も失当である。
3 「第三 回復困難な損害と緊急の必要性」について
すべて争う。
申立人は、本件処分により海外渡航の自由を侵害されており、本件旅券の有効期限(なお、本件旅券が本年一二月一五日の満了により失効するとあるのは、同月一六日の誤りである。)の経過によって回復困難な損害を被るので、その損害を避けるため、本件処分の執行を停止する緊急の必要性がある旨主張する。
しかしながら、後に詳述するように、単に抽象的な海外渡航の自由を制約されるというだけでは「回復の困難な損害」に当たらないと解されるところ、申立人は、本件旅券の有効期限内に必要とされる海外渡航の具体的内容を明らかにしないばかりでなく、緊急の必要性の有無についても、主張・疎明しないのであるから、既にこの点において申立人の主張は失当であるといわざるを得ない。
二 失効停止の可否に関する被申立人の意見
前述したことから明らかなように、本件においては、そもそも申立人が本件処分が違法であるとして指摘する諸点はことごとく理由がなく、かえって、疎明資料によれば、前記の処分理由たる事実が優に認められるのであるから、行政事件訴訟法二五条三項所定の「本案について理由がないとみえるとき」に該当するばかりでなく、以下に述べるように、執行停止を命じ得る積極的要件ともいうべき同条二項所定の「回復の困難な損害を避けるため緊急の必要があるとき」にも該当せず、本件申立てが失当であることは明らかであるといわなければならない。
まず、右の「回復の困難な損害」とは、一般に、処分を受けることによって被る損害が金銭賠償不能あるいは現状回復不能のもの、又は著しい損害でなくとも、社会通念上それを被ったときはその回復は容易ではないとみられる程度のものを指すと解されているが(杉本良吉・行政事件訴訟法の解説八八ページ、南博方編・条解行政事件訴訟法六二一ページ以下等)、これを具体的事案において認定するためには、損害の性質・程度、本案判決による救済の可能性、国家賠償等による金銭的補償の可否等の諸要素を具体的に考慮すべきことが指摘されている(藤田=井関=佐藤・行政事件訴訟法に基づく執行停止をめぐる実務上の諸問題三八ページ以下、南・前掲六二一ページ以下)。
これを本件についてみるに、申立人の主張する被侵害利益は「国民の基本的人権である海外渡航の自由」であるというのであるが、具体的な渡航計画もないまま、単にかような抽象的な権利・自由を制約されるというだけでは、執行停止により回避すべき損害ということはできないというべきである。けだし、執行停止制度は、行政事件訴訟法の採用する執行不停止原則(同法二五条一項)に対する重大な例外であり、行政の円滑な遂行の要請と国民の権利利益の救済の必要性との調整を図りながら一定の要件の下に例外的に運用されるべきものであるところ、これにより救済されるべき国民の権利利益は救済の必要性に迫られた具体的なものであることを要し、海外渡航の自由を行使し得ないという抽象的な侵害の可能性だけでは足りないと解すべきであるからである。そして、旅券を返納したためその有効期限内に海外渡航し得ないという立場に置かれたことにより何ほどかの精神的損害を受けたとしても、それが具体的なかつ真に必要な渡航計画を阻止されたという場合でない限りは、その損害は軽微であるといって差し支えなく、かような軽微な損害については執行停止を認める必要性はないというべきである(損害の大小が執行停止の必要性の判断に大きい影響を与えており、軽微な人格的な損害については右必要性が否定されることもやむを得ないことを指摘するものとして、藤田ほか・前掲書四四、五二ページ参照)。
次に、執行停止が認められるためには、「緊急の必要」が存しなければならないが、前記諸事情、殊に申立人が具体的な渡航計画すら明らかにしていないことに徴すれば、現時点において執行停止を直ちにしなければならない緊急の必要性も存しないといわざるを得ない。
以上の次第であるから、本件申立ては、その余の点を論じるまでもなく理由がなく、速やかに却下されるべきである。
疎明方法<省略>
別紙意見書
申立人 八尾恵
被申立人 外務大臣
頭書事件につき、被申立人の一九九一年八月三〇日付意見書に対する申立人の意見は左記の通りである。
第一 処分理由たる事実の疎明の不十分性について
一、外務大臣の一九九一年八月三〇日付意見書(以下、「被申立人意見」という。)は、「疎明資料によれば、前記の処分理由たる事実が優に認められる」とするが(一四頁)、被申立人が意見書とともに提出した疎明資料だけでは、何ら「北朝鮮工作員と認められる人物と海外において接触しその指示により情報収集活動を行っていた」との事実(以下「本件処分事実」という。)は何ら疎明されていないと言わなければならない(本案訴訟においても、被申立人は、被申立人意見に添付した疎明資料に加えて、証人二名、鑑定等の立証を請求しようとしているのであって、それは、被申立人自身、なお証明不十分であると認識していることを物語っているのである)。
二、被申立人が、本件処分事実が認められるとしている根拠は、要するに、神奈川県警外事課から警察庁外事課に、申立人につき照会したところ、申立人がコペンハーゲンで、KIM YU CHOLなる人物と接触したと回答したことだけである(<書証番号略> 捜査報告書)。しかし、警察庁外事課がそのように認定した根拠は何ら示されておらず、一官庁がそのように認定したことのみを、本件処分事実の認定根拠とすることはできないと言うべきである。
三、それ以外には、捜査段階における申立人の司法警察員及び検察官に対する供述調書における申立人の供述しか根拠らしきものは存在しないが、申立人の供述調書は、申立人第二、二に詳論したように、「本件なき別件捜査」によって強制的に「自白」させたものであり(<書証番号略> 陳述書(2))、違法な手続によって得られた証拠であって、そのような証拠に基づいて、申立人に対する不利益処分を認定することは、憲法三一条が保障する適正手続に反するとともに、そもそも任意でない供述なのであって、証拠能力を欠く証拠と言うべきである。
四、さらに、右供述調書には、原告がある人物と付き合っていたことが詳細に記載されているが(この供述の多くは強制による不任意の「自白」ではあるが)、この人物とKIM YU CHOLなる人物が同一人であり、そのKIMなる人物が北朝鮮工作員であることを示す客観的な疎明資料は何一つ存在していないのである。
五、このように、被申立人は、本件処分事実が存在するということを、疎明資料によって何ら疎明できていないのであって、旅券法一九条の規定の違憲性はともかくとしても、処分事実が存在しないが故に、被申立人の処分は無効と言うべきである。
第二 「本件なき別件捜査」の違憲・違法性について
一、申立人は、申立書第二、二において、本件処分事実の認定に使用された証拠の取得過程が「本件なき別件捜査」に基づくもので、違憲・憲法な手続によるものである旨主張したが、被申立人意見は、申立人に対する各被疑事実につき、犯行動機、背後関係等終局処分を左右しかねない情状に関する事実につき、適正妥当な終局処分をするために、申立人と北朝鮮工作員との接触状況、情報収集活動等に関する捜査が行われたことに何ら違法はないと主張する(六〜八頁)。
二、犯罪の情状については、犯行動機や背後関係の事実の究明も必要ではあるが、それはあくまで罪体の事実認定に付随する限度で行われるべきものである。しかるに、本件においては、申立人の取調べ自体の比重も北朝鮮工作員との接触についてのものがそのかなりの割合を占めるとともに(<書証番号略> 供述調書)、申立人が経営していたカフェバー「夢見波」の顧客や申立人の知人・友人等を参考人として一〇〇通以上もの調書が作成されていることなどに照らすと(<書証番号略>報告書)、警察・検察当局による捜査の主眼は、本来我が国では犯罪となりえない北朝鮮工作員との接触や情報収集活動等に関する捜査にこそあったと言うべきであり、被申立人意見は、その捜査実態とは全くかけ離れた空論と言う他ない。警察・検察当局による本件捜査は、本来許された捜査の範囲を遙かに逸脱した違憲・違法な捜査だったと言うべきであり、それに基づいて取得された証拠に基づく本件処分事実の認定は違憲・違法と評価すべきである。
第三 「回復の困難な損害を避けるための緊急の必要性」について
一、行政事件訴訟法二五条二項は、執行停止の要件として「回復の困難な損害を避けるための緊急の必要性」を挙げており、被申立人意見は、本件申立はこの要件に該当しないと主張する(一二〜一八頁)。
二、しかし、まず、この要件については、あまり厳に解することは制度の利用価値を減殺する虞があるため、現行法は旧法よりも緩和した表現に改めたという制定経過を尊重すべきである(被申立人意見も引用する藤田耕三他『行政事件訴訟法に基づく執行停止をめぐる実務上の諸問題』司法研究報告書第三四輯第一号〔一九八三年〕三九〜四〇頁注二参照)。
三、ところで、被申立人意見は、要するに、申立人の主張する被告侵害利益が「海外渡航の自由」という抽象的なものであるに過ぎないと主張するものであるが、申立書第二、一、1で指摘した通り、海外渡航の自由は、憲法二二条によって保障された基本的人権であって、今日のような国際社会における海外渡航の自由は、単なる経済的自由権にとどまらず、外国の文化や人々とのコミュニケーションを通して精神的に豊かな人格の形成を図るために必要不可欠な手段として、精神的自由権の性格を有する重要な人権であると考えるべきものである。そして、申立人が有していた旅券は数次旅券であり、本来、具体的な渡航計画の有無にかかわらず取得できるものであるとともに、海外渡航に際しても、一々、その具体的渡航計画を外務大臣に示して許可を得るべきものではない。つまり、海外渡航の自由とは、いつでも行きたい時に海外に渡航できる自由であって、また、このような海外渡航の自由が保障されていて初めて具体的渡航計画を立てようとするのであって、違憲・違法な手続によって申立人の海外渡航の自由を一般的に奪っておいて、そのために具体的な渡航計画を立てる術もない者に対して、「具体的な渡航計画もないまま」など主張するのは本末転倒であり、国家権力をふりかざす傲慢な主張と言うべきである。
四、その上、本件旅券は、本年一二月一六日までに更新手続をしなければ、その経過により失効することになっており、それまでに本案判決が出る可能性が低い以上、本件旅券による海外渡航の自由を失なう虞があるということは、優に「回復の困難な損害を避けるための緊急の必要性」があると評価できると考えるべきである。
五、なお、被申立人意見は、「具体的なかつ真に必要な渡航計画を阻止されたという場合でない限り、その損害は軽微であるといって差し支えなく、かような軽微な損害については執行停止を認める必要性はない」と主張しているが、著しい損害がなければ執行停止の必要性が認められないと考えることは、損害の執行停止の要件を旧法より緩和しようとした現行法の制定経過に反すると指摘されていることに注意すべきである(被申立人意見が引用する藤田耕三他『行政事件訴訟法に基づく執行停止をめぐる実務上の諸問題』司法研究報告書第三四輯第一号〔一九八三年〕五二頁参照)。
第四 結語
被申立人意見は、疎明資料として添付した本案訴訟における準備書面を、主張として引用して事足れりとするなど、申立人の主張に対する誠意ある態度が全く見受けられないものである。
疎明資料によって何ら本件処分事実が認められない上、本件処分に際して申立書記載の通りの違憲・違法な事由がそれぞれ認められる以上、速やかに、申立人に対してなされた一九八八(昭和六三)年七月二九日付の一般旅券返納命令処分の効力を、本案判決確定まで停止するとの執行停止が認められるべきである。
申立の趣旨
一、被申立人が申立人に対し、一九八八(昭和六三)年七月二九日付でなした一般旅券返納命令処分の効力を、本案判決確定まで停止する
二、申立費用は被申立人の負担とする
との裁判を求める。
申立の理由
第一 一般旅券返納命令処分の存在
一、申立人は、被申立人より、一九八六(昭和六一)年一二月一六日、一般旅券(旅券番号MH三二八一〇四七、以下「本件旅券」という。)の発給を受けた。
二、しかるに、被申立人は申立人に対し、一九八八(昭和六三)年七月二九日付で左記の通り、一般旅券返納命令処分(以下「本件処分」という。)を行い、同日付「一般旅券返納命令書について」と題する書面により、同年八月一日午後四時三〇分ころ、これを通知した。
記
1、返納すべき理由
申立人が一九八二(昭和五七)年以来北朝鮮工作員と認められる人物と海外において接触しその指示により情報収集活動を行っていた等の事実にかんがみ、申立人は旅券法一三条一項五号にいう著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する行動を行う虞れがあると認めるに相当の理由がある者であることが本一般旅券の発行の後に判明した。
2、返納期限
一九八八(昭和六三)年八月一日午後五時三〇分
三、本件旅券は、当時、横浜地方検察庁に押収中であったため、右八月一日に「横浜地方検察庁から外務大臣に引き継ぐ」という形式で、本件旅券の返納が行われた。
四、なお、申立人は、一九八八(昭和六三)年九月二八日、本件処分につき、被申立人に対して異議申立をなしたが、被申立人はこれを放置したため(なお、その後被申立人は、一九九〇〔平成二〕年三月二三日付で異議申立を棄却した)、申立人は、一九八九(平成元)年四月一七日に、横浜地方裁判所に対し、本件旅券の返納命令処分の取消等を求めた行政訴訟を提起した。右訴訟は東京地方裁判所に移送されて、現在審理中である(同裁判所民事第三部係属、事件番号・平成元年(行ウ)第二一九号事件)。
第二 本件旅券返納命令処分の違憲・違法性
一、旅券法の違憲性について
被申立人は、旅券法一九条一項二号、同一三条一項五号に基づいて、本件処分をなしたものであるが、旅券法のいずれの規定も憲法に反し、無効な規定である。
1、旅券法一三条一項五号の違憲性(憲法二二条違反)
被申立人は、旅券法一九条一項二号、同一三条一項五号に基づいて、本件処分をなしたものであるが、旅券法一三条一項五号は、海外渡航の自由を保障する憲法二二条に違反し、違憲・無効な規定である。
すなわち、海外渡航の自由は、憲法二二条によって保障された基本的人権であり(根拠条文を同条一項と解するか二項と解するかの争いはあるが、同条により保障されることに争いはない)、今日のような国際社会における海外渡航の自由は、単なる経済的自由権にとどまらず、外国の文化や人々とのコミュニケーションを通して精神的に豊かな人格の形成を図るために必要不可欠な手段として、精神的自由権の性格を有するものと解されるので、最大限の尊重が必要であり、その制約は必要最小限のものでなければならない。
ところで、現在、外国へ渡航しようとする者は、必ず旅券を所持していなければならないのであるから、国民が外務大臣から旅券の発給を受け、それを所持することは、憲法二二条が保障する国民の海外渡航の自由の保障そのものの内容として厚く保障されなければならない。
しかるに、旅券法一三条一項五号は、旅券の返納を命ずることができる要件として、「前各号に掲げる者を除く外、外務大臣において、著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行う虞れがあると認めるに足りる相当の理由がある者」という極めて漠然かつ不明確な規定を設けているが、これは外務大臣の恣意的な判断の余地を大きく残すものであり、憲法二二条の保障する海外渡航の自由が無に帰せられる危険性をはらんでいる。したがって、かかる漠然・不明確な規定で海外渡航の自由を制限することは、憲法二二条に反するものであり、「漠然性の故に無効の法理」により文面上無効と解すべきである(漠然性の故に無効の法理につき、佐藤幸治『憲法訴訟と司法権』〔日本評論社、一九八四年〕一七〇〜一七九頁参照)。
2、旅券法一九条一項二号の違憲性(憲法三一条違反)
また、旅券法一九条一項二号は、憲法三一条にも反し、違憲・無効である。
すなわち、旅券返納命令処分は、憲法上保障された基本的人権である海外渡航の自由を特別に奪う不利益処分であるから、旅券返納命令処分を行うには、憲法三一条が規定するデュープロセスの保障の趣旨に則った適正な手続が憲法上要請されると言うべきである。
したがって、旅券返納命令処分を行うには少なくとも告知・聴聞の手続が必要であると解すべきである。
しかるに、旅券法一九条一項二号は、対象者に告知・聴聞の機会を全く与えておらず、一方的に旅券返納命令処分に応ずる義務を規定しているだけである。かかる規定は、憲法三一条に反するものであり、違憲・無効と言うべきである。
3、よって、右に述べた違憲・無効な旅券法一九条一項二号、同一三条一項五号に基づき行われた本件処分は、当然に違憲・無効である。
二、認定手続の違憲・違法性
1、申立人は、一九八八(昭和六三)年五月二五日に、有印私文書偽造・同行使の被疑事実により、神奈川県警外事課により逮捕され、同月二七日に、横浜地方検察庁検察官により公正証書原本不実記載・同行使の被疑事実が追加されて勾留請求がなされ、横浜簡易裁判所裁判官により一〇日間の勾留決定が、同年六月三日には勾留延長決定がなされ、同年六月一五日に、右公正証書原本不実記載・同行使の公訴事実にて罰金五万円の略式処分を受けて釈放され、右有印文書偽造・同行使については同年七月二一日に不起訴処分となった。
2、申立人についての右刑事事件は「本件」なき別件捜査(逮捕、勾留、捜索・押収)という違憲・違法な処分であった。
すなわち、めざす本命の事件(本件)につき、逮捕の要件が具備していないのに、その取調べに利用する目的で、逮捕の要件の具備している別件でことさら逮捕する捜査方法は「別件逮捕」と呼ばれているが(田宮裕編著『刑事訴訟法Ⅰ』〔有斐閣大学双書、一九七五年〕二七一頁)、「別件逮捕」は、違憲・憲法であるとされている(田宮裕・前掲書二七六頁)。
その理由は、第一に、本件については、逮捕の理由も必要性もなく、逮捕に伴う諸権利の保障及び告知がなく、令状主義が潜脱され、令状主義(憲法三三条、三四条)に反するからであり、第二に、逮捕は嫌疑が認められるときに、逃亡や罪証隠滅を防止するという消極的機能を果たすために行われるものであるが、別件逮捕の場合には、本件についての自白を獲得するという本来許されない目的のために利用されるという点で違法(刑事訴訟法六〇条一項違反)だからである。
なお、めざす本命の事件(本件)のために、「別件」を名目として行われる別件勾留や別件捜索・差押についても、令状主義(憲法三四条、三五条)の精神から、「別件逮捕」と同様に違憲・違法と解すべきである。
3、本件各処分は、形式的には、有印私文書偽造・同行使及び公正証書原本不実記載・同行使を被疑事実とするものであったが、神奈川県警や検察官が真に意図していたのは、申立人が、北朝鮮工作員とみられる人物と接触し、その指示を受けて情報収集活動を行っていたとの予断のもとに、その嫌疑につき、申立人を取り調べることであった。
ただ、万が一申立人が北朝鮮工作員と接触したり、その指示を受けて情報収集活動を行った事実があったとしても、そもそも我が国においてはそのような行為は何らの犯罪行為を構成しないのであるから、その意味において、本件各処分は、一般に言われている「別件逮捕」等と異なり、「本件」が存在しない点にきわだった特色がある。
4、しかし、申立人や参考人に対して行われた本件各処分については、「本件」すら存在しないにもかかわらず、申立人の身柄拘束を含む多数の強制処分等を行って著しい人権侵害を行った点で、通常の「別件逮捕」等の場合以上に強い理由で違憲・違法であると言うべきである。
すなわち、第一に、本来警察権を発動すること自体が許されない北朝鮮工作員との接触や情報収集活動の事実関係について、強制的に申立人を取り調べるために刑事手続を利用した点は、令状主義(憲法三三条)に反するとともに、適正手続の保障(憲法三一条)に反する重大な憲法違反があり、第二に、本来、逮捕・勾留は、逃亡や罪証隠滅を防止するという消極的な目的のために行われるものであるが、申立人の逮捕・勾留は、北朝鮮工作員との接触や情報収集活動についての申立人の「自白」を獲得するという本来許されない目的のために逮捕・勾留が利用されているという点で違法(刑事訴訟法六〇条一項違反)だからである。
5、よって、申立人に対する有印私文書偽造・同行使及び公正証書原本不実記載・同行使を被疑事実とする刑事手続全体が、憲法の保障する令状主義(憲法三三条ないし三五条)の精神に根本的に反する違憲・適法な手続であったと評価すべきであり、本件処分は、この違憲・違法な手続により獲得された証拠のみに基づいて、事実認定がされ、処分が決定されたのである。
旅券法は、処分要件の認定は処分庁である外務大臣が行う旨規定しているが、実際には、申立人は外務大臣から呼出しを受けたり、処分事実に関して事情聴取を受けた事実は存在しない。これは、警察・検察により違憲・違法な手続によって獲得された証拠のみに基づいて、申立人に対する本件処分が決定されたことを物語っているものである。
しかし、このような違憲・違法な手続により獲得された証拠のみに基づき、しかも、告知・聴聞の機会を全く与えることなく行われた本件処分は、憲法三一条のデュープロセスの保障に反する違憲・違法な処分で無効と言うべきである。
三、旅券法一三条一項五号の不該当性
仮に、旅券法一三条一項五号が憲法二二条に反し違憲・無効でないとしても、同規定の「著しく且つ直接」とは害悪の発生が明白かつ顕著であることを要し、そこにいう「行為」とは原則として犯罪行為、たとえば、内乱罪、外患罪、国交に関する罪、麻薬取締法違反等の重大な違法行為であり、また、これらの行為を行うという可能性が十分な根拠によって予測される者に厳しく限定(合憲限定解釈)すべきである(佐藤功『憲法(上)』ポケット註釈全書〔一九八〇年〕三九九頁参照)。
申立人は、もともと、北朝鮮工作員との接触など全くなく、万が一そのような行為があっても我が国では何ら法律に触れる犯罪行為でないのであるから、いずれにせよ、申立人が旅券法一三条一項五号に該当しないことは明らかである。
四、通知書の根拠法条並びに処分理由の記載の明白かつ重大なる瑕疵
1、被申立人は申立人に対し、本件処分から一年七ヵ月経過した一九九〇(平成二)年三月一日付「一般旅券返納命令訂正通知書」をもって、「貴殿に交付した昭和六三年七月二九日付一般旅券返納命令書において、命令本文の『旅券法第一九条第一項第二号の規定に基づき(中略)返納することを命じます。』との記載は、『旅券法第一九条第一項第一号の規定に基づき(中略)返納することを命じます。』との誤記であるので訂正します。」と通知した。
2、しかし、公権力の行使である行政処分の通知書に誤記があるときは、原則として表示主義により記載通りの処分があったと解すべきであり(兼子仁『行政法総論』〔筑摩書房、一九八三年〕一八五頁)、本件処分についても、旅券法一九条一項二号に基づく処分であると解すべきである。
実際に、申立人に対する本件処分がなされた直後の一九八八(昭和六三)年八月六日付で別の女性五人に対しても旅券の返納を命じ、同日付官報にて公告しているが、その返納命令処分においては、「返納すべき理由」として、申立人に対するものとほぼ同様の事実関係が記載された上、処分の根拠規定として、申立人と同様に「旅券法第一九条第一項第二号の規定に基づき」とあり、本件処分の通知書だけが誤記であったとは到底考えられないのである。
3、しかるに、本件処分の通知書は、特定の法規(旅券法一九条一項二号)と、その法規の要件に該当するとされる事実との関係が明らかに食い違っており、本件処分は、旅券法の適用を誤った重大な瑕疵がある違法・無効な処分と言うべきものである。
そもそも、根拠法条の記載は法令上も必ずしも必要的記載事項とはされていないが、処分の理由付記と一体となるものと言うべく、処分の理由付記については、事由の有無についての外務大臣の公正妥当を担保してその恣意を抑制するとともに、その理由を被処分者に知らせることによってその不服申立てに便宜を与える趣旨から認められるものとされ(最高裁第三小法廷一九八五(昭和六〇)年一月二二日判決、民集三九巻一号一頁以下)、その手続的意義からすれば、瑕疵の治癒は認められないとされていることに鑑みると(兼子仁『行政法総論』〔筑摩書房、一九八三年〕一八九頁、市原昌三郎「理由付記」『行政判例百選Ⅱ(第二版)』二六七頁参照)、根拠法条の誤りについても、瑕疵の治癒を認めるべきではないと言うべきである。
4、なお、仮に、旅券法一九条一項一号への訂正が認められるとしても、被申立人は、申立人に対し本件旅券を発給する以前から、被申立人が言うところの北朝鮮工作員なる者の生年月日、国籍、地位・役割及び活動の詳細が判明し、一九八二(昭和五七)年ころ同工作員が海外で日本人複数と一緒に行動していたとして、その工作員の活動を把握していたことになり、「旅券の発行の後に判明した」のではなく、それ発行以前から、工作員の活動の実態を把握していたと言うのであるから、旅券法一九条一項一号にも該当しないのであり、いずれにせよ、本件処分は、旅券法の適用を誤った重大な瑕疵がある違法・無効な処分と言うべきである。
第三 回復困難な損害と緊急の必要性について
一、本件処分は、国民の基本的人権である海外渡航の自由に対する重大な侵害であり、現に、申立人は三年間もの間、全く海外渡航することができなくなっており、その被った損害は重大である。
二、また、本件旅券は、一九九一(平成三)年一二月一五日をもってその有効期限が終了するのであり、本案訴訟の経過では、その有効期限までに結審及び判決がなされる可能性は低く、申立人が提訴している本件処分取消訴訟の本案の確定を待っていたのでは、申立人は旅券を喪失し、海外渡航ができなくなるという回復困難な損害を発生させることが確実であるので、緊急の必要もあると言うべきである。
第四 本件処分における執行停止決定の効力
執行停止決定には、取消判決の効力と同様に(行政事件訴訟法三三条四項)、行政庁に対し、決定の判断内容を尊重し、その事件について、決定の趣旨に沿って行動し、再度同一の処分をしたり、その他決定の判断内容に矛盾する行為をしてはならないことを義務付ける効力(拘束力)を有する。
そして、執行停止決定は、将来に向かって処分の効力がない状態におくものであるから、行政庁としては、決定後なお当該処分自体について、その効力のある状態を存続させることは許されないこととなり、これと矛盾する状態があれば、それが決定前に生じたものであっても、これを将来に向かって排除し、処分の効力がない状態をもたらすための措置を講ずべき義務があると解すべきである(以上、藤田耕三他『行政事件訴訟法に基づく執行停止をめぐる実務上の諸問題』司法研究報告書第三四輯第一号〔一九八三年〕八〇〜八二頁)。
したがって、本件処分についての執行停止が認められたときは、被申立人は申立人に対し、本件旅券を返還しなければならない(右同書八二頁参照)。
第五 結語
よって、申立人に対してなされた一九八八(昭和六三)年七月二九日付の一般旅券返納命令処分の効力を、本案判決確定まで停止するとの執行停止が、速やかに認められるべきである。
疎明方法<省略>
附属書類<省略>