東京地方裁判所 平成4年(わ)870号 判決 1993年1月25日
主文
被告人を禁錮一年六月に処する。
この裁判確定の日から四年間右刑の執行を猶予する。
訴訟費用は全部被告人の負担とする。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は、自動車運転の業務に従事していたものであるが、昭和四〇年ころてんかんの発作が発現して以来通院し投薬治療等を受けていたものの、しばしば意識を喪失する発作に襲われてきたのであるから、自動車の運転を差し控えるべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、薬を服用していれば昼間の自動車運転中は発作が起こらないものと軽信し、平成四年五月一二日午前一〇時四〇分ころ、東京都豊島区巣鴨五丁目二三番一四号付近路上において、普通貨物自動車の運転を開始し、そのまま同都明治通り方面から同都中山道方面に向けて運転を継続した過失により、同日午前一一時七分ころ、同区巣鴨二丁目一六番三号先の信号機の設置された横断歩道を板橋方面から千石方面に向かい時速約四〇キロメートルで直進中に突然発作が起きて意識を喪失し、対面信号機が赤色の信号を表示していたのに気付かないまま、自車を同横断歩道に進入させ、折から同横断歩道を青色信号に従つて左から右へ横断歩行していたA子(当時八〇歳)及びB(当時二歳)の乗つた乳母車を押して横断歩行していたC子(当時三一歳)に自車前部を衝突させて、A子及びC子を路上に転倒させ、よつて、A子に対し全身打撲による全身挫滅の傷害を負わせ、同日午後零時五二分ころ、同都板橋区加賀二丁目一一番一号帝京大学医学部附属病院において、同人を右傷害により死亡するに至らせたほか、C子に対し全治約五日間を要する両下腿擦過創の傷害を、Bに対し全治約三日間を要する頭部挫傷の傷害をそれぞれ負わせたものである。
(証拠の標目)《略》
(弁護人の主張に対する判断)
弁護人は、被告人には結果の発生に対する客観的な予見可能性が存在せず、被告人の過失は認められない旨主張するので検討を加える。
前掲関係各証拠によれば、
(一) 被告人は、昭和四〇年ころてんかんの発作を起こして平田病院に通院し、昭和五一年には京北病院において真正てんかんと診断され、投薬治療等を受けていたこと、
(二) 被告人は、医師の指示に基づいて服薬を続けてはいたものの、十数秒程度意識を喪失し、その間、口をもぐもぐさせる、舌を口の中でべちやべちやさせる、手を震わせる、ぼんやりしていて目の焦点が定まらないといつた症状を呈する精神運動発作を繰り返していたこと、
(三) 右発作は、平成元年二月ころにおいて一〇日に一回程度、平成四年においても犯行時までに約一〇回、同年五月においても二回程度起こつていること、
(四) 被告人の家族らは右発作を確認し、その都度被告人に知らせていたこと、
(五) 被告人自身、てんかんの病があり意識を喪失する発作があることを認識していたこと、
(六) 被告人の家族らが現認した限度においては、被告人の発作は自宅で夜ほつとした時に起きることが殆んどであつたとはいうものの、一度は昼間被告人が昼寝している際にも起きたことを被告人の妻が目撃しており、家族らが被告人の発作を現認した時間帯が全て夜のみであつたとまではいえないこと、
(七) 医師が、被告人のてんかんの発作は、いつ起きても不思議ではないと判断しており、被告人に対し、薬を飲んでいれば発作は夜しか起きない旨の説明をしたことはないこと、
(八) 同医師は、平成元年二月二日に、被告人に対し、同年一月二八日に行つた脳波検査の結果では脳波に中等度の異常がみられ、脳波が前よりも悪くなつている旨を告げていること、
(九) 同医師は、被告人に対し、薬を飲んでいても過労や寝不足にならないように、又ストレスをためないようにとの一般的注意はしていたこと、右の二月二日の時点においても同様の注意をしていたこと
などの諸事実が認められる。
以上によれば、被告人は長期間てんかんの発作を繰り返してきており、服薬を続けても発作はかなりの頻度で起きていたこと、平成元年二月には中等度の脳波の異常がみられ従前よりも悪い方向に向かつていたこと等を認識し、また、医師から、薬を飲んでいても睡眠不足や過労にならないよう、またストレスをためないよう注意を受けていたのであるから、たとい家族の者から発作は夜ほつとしたときに起こる旨聞かされていたとしても、睡眠不足、過労、ストレス等身体の状態如何では、昼間の自動車運転中においても発作が起こることもありうることを予見することは可能であり、また、予見すべき義務があつたといわざるを得ず、右予見義務を尽さず本件運転行為に及んだ以上被告人の過失は免れない。弁護人の主張は採用できない。
(法令の適用)
被告人の判示所為は、各被害者ごとに刑法二一一条前段に該当するが、右は一個の行為で三個の罪名に触れる場合であるから、同法五四条一項前段、一〇条により、一罪として犯情の最も重いA子に対する業務上過失致死罪の刑で処断することとし、所定刑中禁錮刑を選択し、その所定刑期の範囲内で被告人を禁錮一年六月に処し、情状により同法二五条一項を適用してこの裁判確定の日から四年間右刑の執行を猶予し、訴訟費用については刑事訴訟法一八一条一項本文により全部これを被告人に負担させることとする。
(量刑の理由)
本件は、てんかんの持病を有し、その発作を起こして突然意識喪失を来たすことのある被告人が、発作は昼間の自動車運転中にも起こり得ることが予見可能であつたにもかかわらず、発作は夜ほつとした時にしか起こらないものと軽信して車の運転を行い、結局運転中に発作を起こして、歩行者一名を死亡させ、二名に傷害を負わせたという事案であるところ、生じた結果が甚だ重大であること、被害者らは青色信号に従つて横断歩道上を横断していたものであつて、被害者らには全く落ち度がなかつたこと、被告人は、てんかんの症状を有する者は自動車の運転免許を取得することができないことを知りつつこれまで免許の更新を受けて車の運転を継続していたこと、死亡した被害者の遺族らの悲しみは深く、今なお厳重処分を求めるなど深刻さが窺えることなどの諸点に照らすと、被告人の刑事責任は重いといわざるを得ない。
しかしながら、他方、被告人が本件運転に及んだ経緯をみると、通院先の医師が患者への配慮から一般的な注意しか行わず、これがかえつて被告人の軽信を招く一因となつたともいえること、被告人は本件につき深く反省していること、被害者C子及びBとの間には既に示談が成立していること、死亡した被害者A子の遺族の被害感情には今なお厳しいものがあり示談も未だ成立していないものの、被告人は遺族らに謝罪の意を示すとともに、保険会社を窓口にして誠実に示談にあたる旨誓約していること、すでに本件事故車両を処分したほか、自ら任意に適性検査を受けて自動車運転免許証を取り消してもらつていること、反則金以外に前科がないこと、現在てんかん治療を受けている状況にあること等の事情も存在する。
以上の諸事情を総合考慮すると、被告人を直ちに実刑に処するのは必ずしも適切な量刑とはいい難く、被告人に対しては、社会内で更生する機会を与えるとともに、今後も更に被害者及びその遺族らに対する謝罪と慰謝の措置を尽くさせることにより自己の責任を果たさせるのが相当であると思料する。
よつて、主文のとおり判決する。
(裁判官 木村 烈)