東京地方裁判所 平成5年(ワ)17616号 判決 1996年8月26日
原告
津久井愛子
外三名
右四名訴訟代理人弁護士
外井浩志
被告
水野睦夫
同
三和産業株式会社
右代表者代表取締役
水野睦夫
右両名訴訟代理人弁護士
須黒延佳
主文
一 原告らと被告水野睦夫との間で、原告らが、被告三和産業株式会社の額面一株五〇円の普通株式三万六〇〇〇株につき、各自七分の一の持分を有することを確認する。
二 原告らの被告三和産業株式会社に対する訴えをいずれも却下する。
三 訴訟費用は、原告らに生じた費用の二分の一と被告水野睦夫に生じた費用を同被告の負担とし、その余を原告らの負担とする。
事実及び理由
第一 請求
原告らが、被告三和産業株式会社(以下「被告会社」という。)の額面一株五〇円の普通株式三万六〇〇〇株につき、各自七分の一の持分を有することを確認する。
第二 事案の概要
一 本件は、原告らが、亡父水野道造(以下「道造」という。)が所有していた被告会社の株式三万六〇〇〇株を相続したと主張して各自七分の一の持分の確認を求めるのに対し、被告らは、右株式のうち二万二〇〇〇株は、被告睦夫が道造から贈与を受けたものであると主張している事案である。
二 基礎事実(当事者間に争いがない。)
1 原告ら及び被告睦夫、訴外細田利子(以下「利子」という。)、同水野訓夫(以下「訓夫」という。)は道造の子であり、昭和六〇年一一月一一日に死亡した道造の相続人のすべてである。
2(一) 被告会社は、昭和一八年一二月八日に設立され、株式は、三〇〇〇株、額面五〇円、資本金一五万円であった。そして、名目上の株主は多数いたが、実際は、道造が三〇〇〇株を全部所有していた。
(二) 被告会社は、昭和二七年一一月二五日に新株を一万七〇〇〇株発行して発行済株式二万株、額面五〇円、資本金一〇〇万円に増資した。この時点においても、名目上の株主は多数いたが、実際は、道造が三〇〇〇株を全部所有していた。
(三) 被告会社は、昭和三一年一二月一〇日に新株を二万二〇〇〇株発行して発行済株式四万二〇〇〇株、額面五〇円、資本金二一〇万円に増資した。この時点においても、名目上の株主は多数いたが、実際は、道造が三〇〇〇株を全部所有していた。
(四) 被告会社は、設立当初の三〇〇〇株についてのみ額面株券を発行したが、その後の二度の増資にあたって発行した新株三万九〇〇〇株については株券を発行しなかった。
(五) 道造は、昭和三六年九月二五日、被告睦夫に三〇〇〇株を、原告宥生に二〇〇〇株を、訓夫に一〇〇〇株をそれぞれ贈与し、その結果、道造の所有する株式は三万六〇〇〇株となった。
3 道造の相続人間では、道造の所有していた被告会社の株式について遺産分割協議が成立していない。
4(一) 原告宥生らは、昭和六二年に、道造の遺言無効確認を求める訴えを提起した(当庁昭和六二年(ワ)第一七九七八号事件)が、平成元年三月二八日請求棄却の判決を受け、控訴したが、同年一〇月二五日に控訴棄却の判決を受けた(東京高等裁判所平成元年(ネ)第一三三八号事件)。
(二) 原告宥生は、道造の所有していた三万六〇〇〇株の株式を昭和四五年三月一一日に代物弁済契約により譲り受けたと主張して、被告睦夫に対して株主権確認請求事件を提起した(当庁昭和六三年(ワ)第二五二四号事件。以下「前訴」という。)が、平成二年一一月一九日請求棄却の判決を受け、控訴したが、後控訴を取り下げ、右判決は確定した。
5 利子は平成五年四月ころ、訓夫は平成八年二月一九日、被告睦夫に対しそれぞれ相続分を譲渡した。
二 争点
道造は、その所有していた株式のうち二万二〇〇〇株を被告睦夫に贈与したか。
(被告らの主張)
昭和五四年夏ころ、道造は、被告睦夫に対し、昭和四一年九月三〇日に被告会社の株式三万六〇〇〇株のうち七〇〇〇株を、昭和四六年一一月一五日に同株式二万九〇〇〇株のうち一万五〇〇〇株を贈与した手続をとっているので、了承してほしいと告げ、被告睦夫は、これを了承した(以下「本件贈与」ということがある。)。
その経緯は次のとおりである。すなわち、被告睦夫は、道造のため、金銭を出捐したり、債務を負担したり、世話をしたりしてきていたが、実父であることから、返済してもらえる債権として認識していなかった。しかし、昭和五四年に道造が土地を藤岡町に買収され、その代金で原告津久井愛子(以下「原告愛子」という。)及び同松尾卓子(以下「原告卓子」という。)に対する借金を返済するというので、被告睦夫も幾らか支払ってほしいと言ったところ、道造は、被告睦夫が長男であり、将来被告会社の経営も託したいと思っていること、及び既に株式を贈与しているとの事実を告げたので、被告睦夫はこれを了解した。
被告睦夫がした主な負担は、左記のとおりである。
記
① 昭和三二年ころ、道造から、急に金策してほしいと言われ、旧ゼネラルの八欧電気の株式(当時時価一万五〇〇〇円以上、被告睦夫の妻の父訴外伊藤正光名義)を五〇〇株譲渡した。
② 昭和三六、七年ころ、失業していた道造を、被告睦夫が以前勤務し、復職するように要請されていた淀川海運に就職の世話をした。
③ 昭和四三年ころ、道造が檀家総代をしていた藤岡町所在の宝光寺の寄付金が不足したため、道造は被告睦夫に金策を依頼し、現金二万円と被告睦夫振出の金額欄白紙の小切手一枚を持っていき、後に不足分一三万円を記入したと連絡してきた。また、昭和四八年ころにも被告睦夫は宝光寺に二〇万円を寄付した。
④ 被告睦夫が経営する訴外株式会社ミコヤ香商(以下「ミコヤ香商」という。)では、昭和四六年三月にフォルクスワーゲン一台(代金一〇三万円)、同年六月にニッサンサニー一台(代金五四万二八〇〇円)及び昭和四七年一一月にニッサンサニー一台(代金五三万一〇〇〇円)を購入し、その支払いのため約束手形を振り出したが、その直後に買い戻していたところ、道造はその都度手形をすべて持っていき、使用した。
⑤ 被告睦夫は、道造から懇願され、三井銀行から借り入れて、昭和四八年三月二五日ころに東武鉄道の株式を、住所を被告睦夫方として道造名義で二万六〇〇〇株購入し、道造に優待パスを渡して約一二年間使用させた。
記
昭和年月日
金額(円)
用途
①
二八年一〇月三一日
三万五〇五〇
国民金融公庫返済のため
②
二九年八月二七日
四万五〇〇〇
国民金融公庫返済のため及び工場従業員給料
③
三一年三月一九日
四万二〇〇〇
足利銀行当座預金支払(不足分)
④
三三年七月五日
二〇万三〇〇〇
栃木信用金庫支払
⑤
同年八月四日
二二万
山田敏郎の抵当権抹消のため(被告会社の土地六〇万円担保)
⑥
三四年一二月一〇日
六万一〇〇〇
約束手形不渡分(松尾哲次郎)
⑦
三五年七月一五日
二万八九五〇
約束手形不渡分(道造)
⑧
同年一〇月二三日
五万
約束手形不渡分(清水勝治)
⑨
三六年九月一八日
五万五〇〇〇
足利銀行当座預金不足金支払
⑩
三七年六月五日
二万五〇〇〇
足利銀行当座預金不足金支払
⑪
三八年一〇月一二日
六万
一〇万円用立て、一〇月一三日四万円返済あり
⑫
三九年一〇月四日
一〇万
足利銀行当座預金不足金支払
⑬
四三年五月一〇日
五万
被告会社固定資産税不足金
⑭
四五年三月一一日
二八〇万
渡辺鑿泉(猪瀬)の手形の裏書のため
⑥ 道造は、訴外猪瀬武(以下「猪瀬」という。)が振り出した手形に裏書してこれを田沼町愛村農業協同組合で割引してもらい、猪瀬の金策に協力していたが、昭和四九年九月ころ、猪瀬は、右債務四二〇万円余りを未払いとしたまま夜逃げしてしまい道造が払わなければならなくなった。ところが、道造も払えなかったため、とりあえず、被告睦夫が同年一〇月七日に所有株券を担保に差し入れ、内金二五万円を返済し、その後も利息分を随時被告睦夫が支払っていくこととして、元本の返済を当分の間猶予してもらった。被告睦夫は、約一〇回近く、一回あたり二ないし五万円位を返済した。
⑦ 昭和五二年一二月二八日、道造は、被告睦夫に無断で、被告睦夫の印鑑を持ち出し、足利銀行藤岡支店から二〇〇万円を被告睦夫名義で借り入れてしまい、その返済は被告睦夫がした。
なお、原告らが主張する原告宥生の「債権」や代物弁済は、既に前訴で明確に否定されており、右判決は確定している。
(原告らの主張)
そもそも、道造の所有していた株式三万六〇〇〇株は、昭和四五年三、四月ころ、原告宥生が道造に対して有していた貸金等の債権三七七万五〇〇〇円の代物弁済として譲り受け、株券も全部(ただし、喪失していた二〇〇株は除く。)引き渡されているものであり、被告睦夫が譲渡を受けることはあり得ない。
原告宥生が道造に貸し付けた金員は、左記<前頁・編注>のとおりである。
なお、被告睦夫の主張する「負担」のうち、②については、道造は、淀川海運の顧問として迎え入れられたのであり、被告睦夫は、同社の松田社長に道造を紹介しただけである。⑤のうち、被告睦夫が一時期道造に東武鉄道の優待パスを与えていたこと、及び⑥のうち、道造が訴外渡辺鑿泉工業株式会社猪瀬武(または「渡辺鑿井工業株式会社」。以下便宜「猪瀬」という。)の振り出した手形に裏書したこと、猪瀬の金策に協力してきたこと、猪瀬の債務について道造が支払わなければならなくなったことは認め、その余はすべて不知。なお、原告宥生は、道造が猪瀬の振り出した手形に裏書して多額の負債を負ったため、道造に依頼され、二八〇万円を用意して昭和四五年三月一一日に道造に渡している。また、道造は、むしろ、被告睦夫に対し、度々金銭を工面してやっていたものである。
第三 当裁判所の判断
一 争点について
1(一)被告らは、道造は、被告睦夫に対し、昭和四一年九月三〇日に被告会社の株式三万六〇〇〇株のうち七〇〇〇株を、昭和四六年一一月一五日に同株式二万九〇〇〇株のうち一万五〇〇〇株を贈与することとしたと主張するが、これを証する客観的証拠(書証)としては、二通の「株主名簿」なる書面があるのみである。そして証人麦倉理三郎(以下「麦倉」という。)は、昭和四六年一一月、道造が、当時被告会社の決算を見ていた訴外大久保経理事務所の事務員であった麦倉を呼び、メモに基づいて右のとおり贈与をしたと述べ、麦倉はこれをメモした上、自宅に帰って、右メモに基づいて「株主名簿」(乙第一号証)を作成し、さらに道造死後、相続税申告の準備のため、右乙第一号証に基づいて昭和四六年一一月三〇日現在で「株主名簿」(乙第二号証)を作成したと主張する。
2 しかしながら、右書証及び供述には、次のような疑問点がある。
(一) まず、道造が何のために麦倉に乙第一号証を作成させたのか明らかでない。すなわち、乙第一号証は、「株主名簿」と表題が付されているが、必ずしも一般に行われている「株主名簿」の形をとっていないし、仮に被告会社の「株主名簿」を作成するのであれば、道造自ら作成するか(原告宥生本人尋問の結果〔第一回〕等によれば、道造は、経理関係に明るく、日々の出来事を毎日克明に日記に記すことを怠らない筆まめな、文書を作成するのを苦にしない人間であったことが認められる。)あるいは会社の人間に作成させればよいことであり、わざわざ社外の人間である麦倉に対してメモに基づき口述し、文書を作成させ、これを被告会社ではなく麦倉ないし大久保経理事務所に保管させる必要はないはずである。しかも、証人麦倉は、当初乙第一号証を単独で預かり、その後決算書類に綴って保管していたと供述するのであるが、道造から作成の理由・目的も聞いたことはなく、呈示を求められたこともなく、また、税務申告に使用したこともないというのであり、何のために甲第一号証をわざわざ作成させたのか理解しがたいところである。
(二) 乙第一号証の原本を見ると、ある程度古い文書のようにも見えるが、子細に見ると、その左半分に数多くの茶黄色の染みがあり、これが古く見える大きな原因であると認められる。ところで、原告宥生は、右乙第一号証について、訓夫から、紙を古く見せるために自動車のフロントガラスで焼くといいという話を麦倉、被告睦夫としたと聞いたと供述するところ(第一回尋問)、前記の染みは左半分のみに現れ、右半分には存在しないこと、仮に紙を折った状態で細工したとすれば、折り目(真ん中の折り目)に何らかの痕跡が残るのではないかと考えられるところ、乙第一号証の折り目には、特に不自然な箇所はないこと、原告宥生が供述するような細工をして、乙第一号証の現在のような状況になるか疑問があることからすると、右原告宥生の供述をそのまま採用することはできない。しかしながら、前記の染みからすると、乙第一号証の原本には、これをことさら古く見せるために何らかの作為がされたのではないかとの疑いも全く否定しさることはできない。
(三) 乙第六号証によれば、前訴の証人尋問において、証人麦倉は、乙第二号証は道造の相続税申告の準備のため作成したもので、相続税申告書に添付したものであると供述し、本訴の証人尋問においても当初この供述を維持していたが、甲第一二四号証、乙第二七号証の一、二及び原告宥生の本人尋問の結果(第一回)によれば、事実は、右申告書には添付されなかったことが認められる。また、証人麦倉が供述するように、乙第二号証を道造死後の昭和六一年に相続税申告の準備のため作成したというのであれば、わざわざ日付を遡らせて「昭和四六年一一月三〇日現在」の株主名簿を作成する必要はないはずである(本来直近の株主名簿を作成すべきであろう。)。これらの事実からすると、麦倉は、むしろ、昭和四六年一一月三〇日に作成したように書いたものの、原告宥生の住所を当時の住所ではなく、その後に移転した現住所(原告宥生の本人尋問の結果〔第一回〕により認められる。)を記載してしまったため、やむなく申告用に作成したと供述しているのではないかという疑問も払拭しえないところである。なお、乙第二七号証の二によれば、道造の相続税の申告においては、その持株数が一万四〇〇〇株と記載され、これに原告らも捺印したことが認められるが、乙第二四号証、証人麦倉の証言及び原告宥生の本人尋問の結果(第一回)によれば、右申告は前記大久保税理士が被告睦夫の依頼によりしたもので、右申告用紙は、申告期限の前日に麦倉が原告らの所に持ってきて、期限内申告をして税金を安く済ませるためすぐ捺印してくれと迫ったため、原告宥生において、右持株数の記載とか被告睦夫が本家の屋敷を相続することになっていることに対し抗議したものの、麦倉から、それは後で争えばよいからと言われて、やむなく捺印したことが認められるから、右のように記載されているからと言って、原告らにおいて被告睦夫の本件の株式取得を承認していたと認めることはできない。
(四) 乙第六、第二四号証によれば、麦倉は、原告宥生の小学校時代の同級生であり、長年被告会社や原告愛子の夫要が経営していた医院の決算を見ていたことが認められるが、甲第一二四号証、乙第六号証及び原告宥生の本人尋問の結果(第一回)によれば、麦倉は、被告睦夫が経営するミコヤ香商の税務申告等の業務に携わり、その従業員として健康保険にも加入していたことが認められ、さらに、乙第六号証及び証人麦倉の証言によれば、道造の相続税申告にあたっては、大久保経理事務所が被告睦夫から依頼され、麦倉らにおいて被告睦夫からのみ事情を聴取し、他の相続人からは聞かないで申告書を作成し、報酬も被告睦夫から受け取ったことが認められ、前記のような申告書に捺印を迫った経緯等も併せ考えると、麦倉は、原告ら・被告睦夫の間で中立の立場にあったというよりも、むしろ、被告睦夫により近い立場にあったものとみるのが相当である。
(五) 前記認定の道造の性格等からすると、実際被告睦夫に株式を譲渡したのであれば、これを証する書面を作成し、または、このことを日記に書いてしかるべきであり、また、仮にこれらの文書を作成せず、そのため、わざわざ麦倉を呼んで乙第一号証を作成させたのであれば、その事実、あるいは少なくとも麦倉を呼んだことを日記に記載してしかるべきと思われるが、契約書等の書面がないことは被告らの自認するところであり、甲第一一一号証の一ないし三、第一一四号証の一ないし一〇によれば、日記にも右のような記載は一切ないことが認められる。なお、被告睦夫の本人尋問の結果によれば、昭和三六年の男兄弟三名に対する株式の譲渡の際にも、何らの書面も作成されなかったことが認められ、被告らは、本件贈与もこれと同様であると主張するが、右譲渡は当事者間に争いがないことから分かるように、公然と行われたものと考えられるので、道造死後まで他の兄弟に全く知らされなかったような(被告睦夫の本人尋問の結果による。)本件贈与とは、事情を異にするものといわなければならない。
3 次に、被告らが、被告睦夫が道造から株式の譲渡を受けるに至った理由として挙げる被告睦夫の負担につき検討する。
(一)(1) 昭和三二年ころ被告睦夫の妻の父名義の八欧電気(旧ゼネラル)の株式五〇〇株を譲渡したとの点については、これに副う被告睦夫の供述(本訴本人尋問における供述の他、前訴での供述〔甲第一二〇号証の一、二〕及び本訴での陳述書の記載〔乙第二〇号証〕も含む。以下、3において同じ。)はあるものの、他に客観的証拠がない(もっとも、原告らは、道造の手帳を多数書証として提出しているが、昭和三二年度分は提出していない。右手帳が提出されれば、さらに事実の存否が明らかになろう。)。
(2) 道造に対する淀川海運への就職の世話については、原告宥生の本人尋問の結果(第一回)によれば、むしろ、淀川海運において、陸運局の役人や銀行に顔がきく道造を顧問とすることを望んだ節があることが窺われ、被告睦夫が道造を淀川海運の社長に紹介したものであるとしても、道造において被告睦夫に対し負担として感ずるべきものであるか否か疑問が残る。
(3) 宝光寺の寄付金の不足分として一五万円(現金二万円、小切手一三万円)を渡したとの点についても、これに副う被告睦夫の供述はあるものの、他に客観的証拠がない。また、乙第二一、第二二号証及び被告睦夫の本人尋問の結果によれば、昭和四八年に、被告睦夫名義で宝光寺に二〇万円寄付したことは認められるが、被告睦夫が道造のために負担したことにならないことはいうまでもない。
(4) 乙第一六号証の二二と甲第五九号証の二、第七三号証の二等中の数字の字を対比すると、特に「3」の字が類似しているので、被告睦夫の尋問の結果と併せると、乙第一六号証の二二は道造が作成したものと認められる。しかし、右文書は、単に数字が加算されているのみであって、被告睦夫の供述と併せても、必ずしも被告ら主張のように、ミコヤ香商が自動車購入のため振り出し、その直後に被告睦夫が買い戻した手形を道造が持っていき、使用したものと認めるのに十分ではない。
(二) 被告らが主張する、道造が贈与したという昭和四六年一一月までの分は(一)のとおりである(ただし、(一)(4)中一部は右時点より後。)が、被告らは、被告睦夫が承諾の意思表示をしたという昭和五六年までの負担についても主張しているので、これらの点についても検討しておく。
(1) (被告らの主張⑤) 乙第一七、第二六号証及び被告睦夫の本人尋問の結果によれば、被告睦夫は、東武鉄道の株式二万六〇〇〇株を道造名義で購入し、同人に株主優待パスを渡して使用させたことが認められる(一時道造に対し東武鉄道のパスを利用させたことは当事者間に争いがない。)が、被告睦夫の本人尋問の結果によれば、被告睦夫は、右株式自体を実質上所有しているものとして扱っていたことが認められるから、仮にこれが道造から頼まれたものであるとしても、それほどの負担があったとはいうことができない。
(2) (被告らの主張⑥) 乙第一八、第一九、第二六号証及び被告睦夫の本人尋問の結果によれば、道造は、猪瀬が振り出した手形に裏書し、田沼町愛村農業協同組合で割引をしてもらい、猪瀬の金策に協力していたが、同人が多額の借金を未払いのまま夜逃げしてしまったので、手形金を支払わなければならなくなったこと、そこで、被告睦夫は、昭和四九年一〇月七日に所有する株券を担保に差し入れるとともに二五万円を内入返済したことを認めることができる(右事実のうち、道造が猪瀬振出の手形に裏書し、猪瀬の金策に協力してきたこと、猪瀬の債務について道造が支払わなければならなくなったことは当事者間に争いがない。)。しかし、その余の事実については、これに副う被告睦夫の供述はあるものの、他に客観的証拠がない。
(3) (被告らの主張⑦) 道造が無断で被告睦夫の印鑑を持ち出し、足利銀行藤岡支店から二〇〇万円を被告睦夫名義で借り入れてしまい、後に被告睦夫がこれを返済したとの事実については、これに副う被告睦夫の供述はあるものの、他に客観的証拠がなく、甲第一二四号証及び原告宥生の本人尋問の結果(第一回)に照らし、直ちに採用することができない。
(三) 以上によると、被告らが主張する被告睦夫の負担なるものは、その主張どおりの事実があったと認めるには必ずしもいまだ十分な立証があるとは言いがたいし、また、さほど大きな負担とは言えないものも多い。さらに、仮にこれらの事実が認められたとしても、親子である道造と被告睦夫の間で債権債務関係があると考えていたわけではないことは被告ら自身認めるところである。したがって、甲第八八ないし第九二号証、乙第七、第八号証及び被告睦夫の本人尋問の結果によれば、道造は、昭和五五年ころ土地の買収補償金を取得した際子供達に債務を返済したことがあったことが認められるが、返済先の表(乙第七、第八号証)に載っていないからといって、これらについては本件株式で処理することで話がついたものとは必ずしもいうことはできない。仮に道造において何らかの形で埋め合わせをしようと考えたとしても、甲第一二二号証によれば、道造は、昭和五八年二月一四日付で家屋敷を長男である被告睦夫に相続させる旨の遺言書を作成したことが認められるから、右補償金を配分したころから、道造は、被告睦夫に家屋敷を与えることにより精算ないし埋め合わせをすることを考えていた可能性も高いと考えられるところである。
4 さらに、次の事実も、被告睦夫が本件株式の贈与を受け、被告会社に強い利害関係を持ち、あるいはその過半数の株式を持つに至ったことに疑いを抱かせるものである。
(一) 甲第七九号証、第一〇一号証の一、二、第一〇九号証、第一二〇号証の一、二、第一二四号証、乙第二四、第二六号証、原告宥生(第一回)・被告睦夫の各本人尋問の結果によれば、原告宥生は、昭和五五年ころから、道造に頼まれて東京都練馬区の自宅から藤岡町の被告会社所有土地に行き、草を刈ったり、駐車場の管理等をしていたこと(当時、被告会社は、駐車場の経営位しかしていなかった。)、ところが、被告睦夫は、平成元年に被告会社の固定資産税等の通知がいくまで、被告会社の経営には一切関与していなかったことが認められる。なお、乙第二六号証及び被告睦夫の本人尋問の結果によれば、被告睦夫は、宇都宮地方裁判所栃木支部平成五年(ワ)第一六三号事件(以下「別訴」という。)及び本訴において、甲第七九号証中の道造の署名は道造のものであること(あるいはそれに酷似していること)は認めながら、右書面は道造の真意に基づくものでないと供述しているが、その理由は、結局原告宥生に都合のいいことが書いてあるからというに尽きるのであり、採用することができない。
(二) 甲第九九号証の一ないし三、第一〇〇号証、第一二一号証の一ないし六、乙第二四号証及び原告宥生の本人尋問の結果(第一回)によれば、昭和五六、七年ころ、被告睦夫は、道造に対し、被告会社をミコヤ香商に合併するよう強引に持ち掛け、これに対し道造が、被告睦夫は被告会社に何も貢献していない等として激怒したこと、そして、原告宥生に対し、相手にせず問題としないからご承知おき下さいとの書面をわざわざ原告愛子にことづけたことが認められる。
(三) 甲第一ないし第五七号証及び原告宥生の本人尋問の結果(第一回)によれば、被告会社が発行した株券三〇〇〇株のうち二八〇〇株分は、昭和四五年四月に道造が原告宥生に手渡し、原告宥生がそのまま所持していること、被告睦夫は、一切株券を所持していないことが認められる(なお、被告らは、右株券は原告宥生が道造の死後持ち出したものであるとも主張するが、甲第一二〇号証の一、二及び被告睦夫の本人尋問の結果によっても、昭和五四年当時、道造は株券を所持していなかったことが認められる。)。
5 ところで、原告らは、昭和四五年三月に原告宥生が代物弁済により道造から所有株式全部の譲渡を受けていたのであるから、その後に被告睦夫に本件株式を譲渡するはずがないと主張する。右主張は前訴における請求原因事実そのものであり、これが前訴第一審判決において否定され、確定したことは前記のとおりであるが、原告らは、本訴においては、右事実を被告らの抗弁事実に対する積極否認として主張しているので、検討することとする。
(一) 甲第一一三号証中の道造の署名と甲第一二二号証(原本の存在と成立に争いがない道造の遺言書)中の道造の署名、及び道造の署名部分については原告宥生が道造の署名を真似て書いたものであることにつき当事者間に争いがない甲第七八号証中の道造の署名とを対比してみると、甲第一一三号証中の道造の署名は甲第七八〇号証中の道造の署名とは異なり、むしろ甲第一二二号証中の道造の署名に似ていることが認められ(この事実自体は、被告睦夫も本人尋問において認めるところである)、道造の自書によるものと認められる。また、甲第一一三号証中の道造名下の印影は、甲第一ないし第五七号証の表裏面(表面部分については成立に争いがない。)の印影と対比すると、同一の印鑑により押捺されたものであることが認められる。さらに、甲第七七号証(債権内訳書)と第七八号証、第一一三号証の各原本を精査すると、甲第一一三号証には甲第七七号証に記載した際の筆圧による痕跡(紙を重ねて書字したときに下の紙に筆圧のため生じる痕跡。以下「筆圧痕」という。)があり、甲第七八号証にはこれより薄い甲第七七号証の筆圧痕及び甲第一一三号証の筆圧痕(特に道造の署名部分)があることが認められる。右の事実及び甲第一二四号証の記載、甲第七六号証の三(道造の手帳)に昭和四五年四月二三日に道造が原告宥生に対し借入明細、株券を預けたとの記載があることからすると、原告宥生の、道造に対し総計三七七万五〇〇〇円の債権を有することになったので、甲第七七号証を道造に送付し、道造が友人の訴外福地某に頼んで書いてもらって署名捺印をした、右債務の代物弁済として四万二〇〇〇株の株式を譲渡する旨を記載した契約書(甲第一一三号証)に原告宥生も署名捺印した、しかし、後にこれをよく検討した原告宥生が、先に子供達において合計六〇〇〇株の譲渡を受けていたことから、三万六〇〇〇株を譲渡する旨の契約書に書き換えて道造の字に似せて署名し、その下に道造に捺印してもらった(甲第七八号証)のであり、前訴においては甲第七八号証しか提出できなかったが、平成六年の夏になって原告愛子らが甲第一一三号証を発見してその経緯を思い出したものであるとの供述も必ずしも全面的に排斥すべきものとは言いがたい(もっとも、先の筆圧痕からすると、甲第七七、第七八、第一一三号証は一綴りの用紙に書かれたはずであり、原告宥生の供述〔第一、二回〕のうち、甲第一一三号証は道造が自ら紙を用意して持ってきたとの部分は事実と合致しないものと思われるが、約二五年前のことであるから、細部において正確でない部分があったとしても全体の信憑性が失われるものではない。少なくとも、右筆圧痕からすると、甲第七七、第一一三、第七八号証の順に書かれたものであり、甲第一一三号証を後になってから作成したものでないことは明らかである。)。
(二) 甲第一〇五号証(領収書)中の道造の署名と甲第一二二号証(遺言書)中の道造の署名とを対比するとよく似ていることが認められ、原告宥生及び被告睦夫の各本人尋問の結果と併せると、甲第一〇五号証中の道造の署名は道造が自書したものと認められ、また、甲第一〇五号証中の道造名下の印影は、甲第一一三号証中の道造名下の印影と対比すると、同一の印鑑により押捺されたものであることが認められる。さらに、甲第一〇五号証中の金額の算用数字と道造が書いたと認められる乙第一六号証の二二中の算用数字を対比すると、類似性(特に「3」の字)が認められる。また、甲第一〇五号証中の金額の漢数字を原告宥生が書いた甲第七八号証及び福地某が書いた甲第一一三号証中の漢数字と比べると別人の手によるものであることが認められる。これらの事実によると、道造から金額三七七万五〇〇〇円の領収書である甲第一〇五号証を受け取ったとの原告宥生の供述も必ずしも全面的に排斥すべきものとは言いがたい。
(三)(1) さらに、甲第五八ないし第六〇号証の各一、二、第六一号証の一ないし三、第六二ないし第六七号証、第六九ないし第七一号証、第七二ないし第七五号証の各一、二、第七六号証の一ないし三、第一〇六、第一〇九、第一二四号証に原告宥生の本人尋問における供述(第一回)を併せると、原告らが主張する代物弁済に供された債権についても必ずしも全面的に排斥すべきものとは言いがたい。
(2) もっとも、甲第六〇号証の二中の「借り入」との記載、甲第六一号証の三中の「(原告宥生より二二万借入)」との記載及び甲第七六号証の二中の「二八〇万木村分」との記載などのように、原告らが債権を裏付ける証拠として引く道造の手帳の記載部分には、他の部分と若干インクの色が違うように見える箇所が相当程度あるが、右字体を前各号証(手帳)の他の部分の字と対比し、また、右手帳の他の部分にも同様インクの色が異なる部分が相当あることを考え併せると、前記の記載はいずれもその時々に道造が書いたものと認めるのが相当のように思われる。
(四) 以上によると、原告ら主張の代物弁済契約は、その消滅したと主張する債権中にその成立自体疑わしいものがあり(例えば原告らの主張する債権⑥は、甲第六八号証、乙第二四号証に照らし、その成立は疑問というほかはないし、債権①、②等については当時原告宥生にこれらの貸金をするほどの資力があったか、債権④、⑤等については、他から調達して貸したというのであるが、その調達先に対する返済能力があったか等確かに疑問がある。)、また、前訴においては、右契約についての最重要の書証である甲第七八号証について、当初道造が自署したものであるとして提出していたのに、鑑定が問題となるや原告宥生が道造の字に似せて書いたものと主張を変更するに至った経緯とか甲第一一三号証が提出されていなかったことなどから、当然否定されるべくして否定されたものであるが、本訴において初めて提出された甲第一一三号証や原告宥生の本人尋問(第一回)における供述なども総合して考えると、道造において原告宥生に対し株式を譲渡していたと考えていた可能性も完全には否定できず、被告らの主張する贈与契約の成立に疑問を投げ掛けるには十分というべきである。
5 以上を総合すると、結局被告ら主張の贈与契約はいまだこれを認めることができない。
二 被告会社に対する訴えの適否につぎ職権で検討する。
前項の認定・判断によると、被告睦夫は、被告会社の株式四万二〇〇〇株のうち、三〇〇〇株しか所有しておらず、訴外利子及び訓夫から譲り受けた相続分を合算しても、他に三万六〇〇〇株の株式につき持分七分の三を有しているに過ぎないこととなる。しかるに、甲第一〇四、第一〇八号証の各一、二、乙第二六号証及び原告宥生(第一回)・被告睦夫の各本人尋問の結果並びに本件記録中の被告会社の登記簿謄本によれば、被告会杜の取締役は、原告宥生、被告睦夫及び訴外水野年純であるが、被告睦夫は、被告会社の株主総会、取締役会の開催が一切ないのに、ほしいままに自己を被告会社の代表者として登記してしまい、これを知った原告宥生が抗議しても、全く無視していることが認められる。してみると、被告睦夫は、適法に代表取締役として選任されたと認めることはできず、被告会社を代表する権限があるとは認められないので、被告睦夫を代表者とする被告会社に対する訴えは不適法であるといわざるをえない。また、被告会社の取締役である原告宥生の訴えについては、商法特例法二四条により、取締役会、または株主総会が定める者が会社を代表することとされているところ、これらの手続が履践されていないことも明らかであるから、原告宥生の訴えは、この点ですでに不適法であるといわなければならない(なお、本来はこれらの点につき補正を命ずるべきであるが、弁論の全趣旨によれば、原告ら被告らともに補正する意思がないことが認められるから、補正を命ずることなく、直ちに訴え却下の判決をすることとする。)。
三 結論
以上によると、原告らの本訴請求のうち、被告睦夫との間で被告会社の額面五〇円の普通株式三万六〇〇〇株(厳密には、争いがあり、確認の利益があるのは、一万四〇〇〇株を超えた分のみであるが、本訴は遺産分割の前提としての訴訟であり、被告らも特に訴えの却下を求めることもなく、便宜にも叶うものと思われるので、あえて右の範囲の訴えを却下することはしない。)につき原告ら各自七分の一の持分を有することの確認を求める部分は理由があるので認容することとし、被告会社に対する訴えは不適法であるから却下することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官滿田明彦)