東京地方裁判所 平成5年(ワ)19309号 判決 1997年1月14日
原告
甲野春子
同
甲野夏子
右二名訴訟代理人弁護士
松林詔八
同
宮﨑敦彦
右訴訟復代理人弁護士
丸山裕司
同
赤羽富士男
同
隈元慶幸
同
谷原誠
被告
東京都
右代表者知事
青島幸男
右指定代理人
小林紀歳
外一名
被告
日本赤十字社
右代表者社長
山本正淑
右訴訟代理人弁護士
加藤済仁
同
松本みどり
主文
一 原告らの請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実及び理由
第一 請求
被告らは、各自、原告らに対し、各金一億六八二八万四〇三三円及びこれに対する平成五年二月七日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二 事案の概要
一 争いのない事実等(証拠により認定した事実は末尾に証拠を掲げた。)
1 当事者等
(一) 原告甲野春子(以下「原告春子」という。)は、亡甲野一郎(昭和二二年一月三〇日生。以下「一郎」という。)の妻であり、原告甲野夏子(以下「原告夏子」という。)は一郎の長女である(<書証番号略>)。
(二) 被告日本赤十字社(以下「被告日赤」という。)は、東京都渋谷区広尾四丁目一番二二号において、日本赤十字社医療センター(以下「日赤医療センター」という。)を経営している。
猪狩友行医師及び吉次通泰医師(以下それぞれ「猪狩医師」、「吉次医師」という。)は、平成五年二月六日当時、日赤医療センターの勤務医であった。
(三) 被告東京都は、東京都世田谷区上北沢二丁目一番一号において、東京都立松沢病院(以下「松沢病院」という。)を経営している。
辻井和男医師及び太田聡医師(以下それぞれ「辻井医師」、「太田医師」という。)は、平成五年二月六日及び七日当時、松沢病院の勤務医であった。
2 一郎が死亡に至るまでの経緯
(一) 平成四年七月二五日、一郎は、日赤医療センター内科外来で吉次医師の診察を受け、同医師からアルコール性肝障害と糖尿病の疑いで入院を勧められ、同月三〇日から同年八月二六日まで入院し、主治医である吉次医師による治療を受けた(吉次医師が主治医であることについては<書証番号略>)。
その後、同年九月九日、一〇月七日、一〇月二七日、一二月九日、平成五年一月六日、一郎は日赤医療センターにおいて、診察、検査、薬の処方などを受けた(<書証番号略>)。
(二) 平成五年二月六日、一郎は、日赤医療センターに救急車で搬入され、当直医である猪狩医師の診察を受けた。右医師は、一郎と同人に付き添ってきた乙山花子(以下「乙山」という。)に対して問診し、同日朝、一郎に腹痛があったこと、ブスコパンを服用したが効果がなかったことなどを聞き、血液検査を行い、また、一郎が頻拍の症状を呈していたので、同人に対し、アデホス、リスモダン、ワソラン、ジゴキシンなどを投与したが、効果がなかった。
同日午後四時三〇分ころからは、吉次医師が一郎の診察に加わり、猪狩医師とともに一郎をアルコール離脱症状であると診断した(以上本項につき<書証番号略>、証人乙山)。
(三) その後、同日中に、一郎は、明石及び吉次医師の同行のもと、救急車で松沢病院に移送された。
右病院では、辻井医師が一郎を診察して入院させ、翌七日午前三時三〇分ころから、一般科当直医である太田医師(神経内科医)が一郎の診察にあたった(証人太田)。
(四) 一郎は、平成五年二月七日午前六時三〇分ころ、松沢病院において、急性膵炎により死亡した(<書証番号略>。なお、原告と、被告東京都との間で一郎の死因が急性膵炎であることについては争いがなく、被告日赤との間で一郎の死亡時刻については争いがない。)。
二 争点
本件の争点は、(1)猪狩医師及び吉次医師に原告ら主張の過失があったか否か、(2)辻井医師及び太田医師並びに被告東京都に原告ら主張の過失があったか否か、(3)原告らの被った損害及びその数額、右損害と右医師らの過失との間に因果関係があるか否かである。
右争点についての当事者の主張は、以下のとおりである。
(原告らの主張)
1(一) 猪狩医師の過失
平成五年二月六日、一郎が救急車で日赤医療センターに搬入された際、同人は、激しい腹痛で発症した激しい胸痛を訴え、顔色不良で苦痛表情を呈し、著しく発汗しているものの手足は冷たく、呼吸及び脈拍が速く血圧は低下している状態であり、ショック徴候の見られる全身不良状態・明らかな循環不全状態として、重要臓器の機能不全を疑わせる症状を呈していた。また、当日行われた緊急血液検査の結果、血中のアミラーゼ(膵酵素)値は、正常値上限(一二〇mlU/ml)の約三倍である三五二mlU/ml(以下単位は省略する。)を示しており、また、WBC(白血球数)も一万三六〇〇と正常値上限(八〇〇〇)を越えて増加していたのであるから、前記臨床所見と総合すれば、一郎について、重要臓器、特に膵臓の炎症が疑われる状態であった。
しかも、日赤医療センターの猪狩医師は、前記一2(一)の入院当時の一郎の病歴(入院加療を要する肝臓及び膵臓の機能障害であったこと)を認識し、前記血液検査の結果から一郎にはアルコールによる肝臓及び膵臓の障害があると考えていたのであるから、前記の全身不良状態を総合すれば、急性膵炎であると容易に診断できたはずであった。それにもかかわらず、猪狩医師は、一郎の激しい腹痛ないし胸痛を「前胸部圧迫感」と考えた上、ショックに基づく呼吸困難、血圧低下、精神症状の全身不良状態は「動悸」ないし「せん妄」であり、一郎を心筋梗塞、不整脈、上室性頻拍などと次々に誤って診断し、そのたびに治療薬を投与したが、当然のことながら効果は現れなかった。また、猪狩医師は、CT検査や、超音波検査等による造影検査を行うことや頻繁に血液検査を行って血中アミラーゼやWBC等の異常値の変化を観察することを怠った。
(二) 吉次の医師の過失
日赤医療センターの吉次医師は、平成四年七月二五日に一郎を慢性肝炎及び膵炎と診断し、同年八月二六日までの計一八日間、同人に対し治療を行った担当医であり、一郎が肝臓及び膵臓の機能障害で入院したことを認識していたから、一郎の診察に際しては、肝臓及び膵臓の障害に注意を払うべきであった。
また、吉次医師は、猪狩医師からの説明や一郎及び乙山に対する問診により、一郎が平成五年二月六日の朝から吐き気を伴う激しい腹痛から始まって胸痛となり救急車を呼んだこと、ブスコパンを服用したが効果がなかったことを認識し、さらに、血液検査の結果により血中アミラーゼやWBC等における異常値を認識していたから、少なくとも、アルコール性の急性膵炎を疑うことができたし、疑うべきであった。
一般に、日頃から飲酒量が多い患者が激しい腹痛に加えて吐き気を伴う症状を訴える場合には、膵炎を第一に考えるべきであり、飲酒後の激痛であれば急性膵炎の可能性が高いのであるから、一郎をアルコール依存症であると判断した吉次医師は、なおさら急性膵炎を疑うべきであった。しかし、吉次医師は、十分な検査と診察を怠り、一郎を、激しい腹痛や胸痛の症状を呈することはなく、ショック徴候の見られる全身不良状態を呈することもないアルコール離脱せん妄症と誤診した。
2(一) 辻井医師の過失
松沢病院の辻井医師は吉次医師からの引き継ぎや一郎及び乙山の問診によって、一郎が激しい腹痛から始まって胸痛を訴えて日赤医療センターに救急車で搬送されたこと、日赤医療センターでのホリゾンやセレネスの投与も効果がなかったこと、同所での血液検査の結果、血中アミラーゼやWBC等において異常値が見られ、肝臓等に障害があること、低血圧・顕著な発汗・神経症状等が認められたことなどを認識した。
しかし、辻井医師は、日赤医療センターにおける治療の経過や症状の変化を詳しく確認すべき注意義務及び一郎から慎重に問診すべき義務を怠り、一郎には直ちに内科的な救急治療が必要であることを見逃した。
また、辻井医師は、問診以外一切の検査や診察を行わず、一郎の四肢の拘束を指示し、同人に対し多量の催眠鎮静剤を投与し続け、その間に、一郎の容態が、全身色不良、腹部膨満、強い苦痛表情及び過呼吸等のほか、血圧が測定不能なほど異常に低下するなど急性膵炎、腹膜炎及びそれに伴うショック状態を疑わせる症状が明確に現れたにもかかわらず、自ら適切な治療を行う義務を怠り、また、適切な治療のできる医療機関へ転院させる義務を怠った。
(二) 太田医師の過失
松沢病院の太田医師は、平成五年二月七日午前三時三〇分ころ、一郎を診察した際に、それまでの治療経過に基づき、日赤医療センター受診時には一郎が少なくとも慢性膵炎に罹患していたこと、腹膜刺激症状を現に呈しておりショック状態であることを認識した。それにもかかわらず、太田医師は、一郎が急性膵炎に罹患していることあるいは慢性膵炎が急性化したことを疑うことさえせず、自ら適切な治療を行う義務、他の医師に対して応援を求める義務、十分な治療設備のある病棟又は他の医療機関へ転院させる義務を怠った。
(三) 被告東京都の管理監督上の過失
辻井医師が一郎を問診した当時、一郎には救急治療を要する精神症状は何もなかった。むしろ、一郎は、腹痛ないし胸痛による発症、血圧低下、顕著な発汗、重要臓器の障害を疑わせる血液検査データの異常等、内科的に救急治療を要する症状を呈していたのであり、「精神科夜間休日救急診療実施要綱」によれば、一郎は、引き受けてはならない救急を要する身体合併疾患者に該当していた。しかし、当時の松沢病院では、精神科医である辻井医師が本来引き受けてはいけない合併症患者であるかどうかを決定する体制がとられており、右病院には、合併症の診断に必要な検査設備も整っておらず、また、救急治療を要する状態に陥った場合の治療設備や体制も整っていなかった。
すなわち、被告東京都としては、「精神科夜間休日救急診療実施要綱」を実施できるような体制及び施設を松沢病院に整えさせ、実際に診療に当たる勤務医師等の職員に右要綱の趣旨を周知徹底させるべき義務があったのにもかかわらず、これを怠った過失がある。
3 損害及び因果関係について
(一) 逸失利益
平成四年一月から一二月までの一年間において、一郎は、役員報酬として月額一六五万円(年間一九八〇万円)及び賞与二五五万円の合計二二三五万円の収入があった。平成五年一月以降、役員報酬が月額一七〇万円に増額し、賞与額を増減する事情は特に存在せず据え置きであったから、平成五年度には、合計二二九五万円の収入が得られるはずであった。
また、一郎の被扶養者としては、収入があった原告春子を除き、当時未成年者であり、学生であった長女の原告夏子及び収入がなく老齢の一郎の実母の甲野秋子がいた。そこで、ライプニッツ方式で一郎が死亡した当時の現価に換算し(係数12.8211)、右二名の被扶養者の生活費として三割を控除すると、一郎の得べかりし利益の金額は二億〇五九七万〇九七一円となる。
これを、相続人である原告らが、その二分の一に相当する各金一億〇二九八万五四八五円ずつ相続した。
(二) 慰謝料
(1) 一郎本人が被った精神的苦痛
① 松沢病院への入院は、何ら一郎の意思に基づくものではなく、同人は、精神病に罹患しているわけでもないのに、精神病院として著名な右病院に、しかも窓を鉄格子で覆われた病室において、四肢を拘束されたまま死に至ったのであるから、一郎自身が被った精神的な屈辱ないし苦痛は計り知れないものがある。
② 急性膵炎に罹患した場合、その患者は極めて激しい腹痛に襲われる。一郎の場合も、急性膵炎に基づく腹膜炎を生じ、強いショック症状に陥っていたのであり、その上で拷問のような苦痛を受けたのであるから、同人は精神的にも肉体的にも極めて激しい苦痛を受けた。
③ 一郎は、肝臓障害及び膵炎の治療のために、かつて入院した際の主治医であった吉次医師に救いを求めて、日赤医療センターに診療を受けに来たのである。しかし、吉次医師は、初歩的な問診さえ怠り誤診したうえ一郎を精神病院へ強引に転院させ、しかも転院の際の引き継ぎにおいて、血圧がもともと低く安定している等虚偽の報告ないし指示を行っていた。一郎にとっては、主治医に対する信頼を裏切られたという失望と落胆は著しいものがある。
以上の諸事実を勘案すると、一郎本人が被った精神的苦痛に対する慰謝料は五〇〇〇万円を下らない。
これを、原告らが二五〇〇万円ずつ相続した。
(2) 原告らが被った精神的苦痛
① 原告らは精神病院である松沢病院への入院に同意したことはないし、松沢病院から他の病院への転院を拒絶されたうえ、一郎との面会さえも拒絶された。その結果、一郎の死を看取ることもかなわなかったのであり、原告らの被った悲痛は極めて大きい。
② 被告らや担当の医師らは、原告らに対して全く謝罪しようともしないどころか、本件訴訟の過程においても、全く話し合おうという態度さえ見せず、事実を無視した言い訳や責任転嫁に終始している。そのような被告らの態度は、極めて無責任かつ悪質なものであり、それによって原告らは深い失望と激しい精神的苦痛を被っている。
③ 社会的にも相当の名声を受け活躍していた一郎が、理由もなく精神病院で四肢を拘束されたまま苦悶死したことにより、原告らの被った屈辱感及び精神的苦痛は極めて大きいものがある。
以上の諸事実を勘案すると、原告ら自身が被った精神的苦痛に対する慰謝料は、原告ら各人につき二五〇〇万円が相当である。
(三) 因果関係について
昭和六二年に厚生省特定疾患難治性膵疾患調査研究班が行った全国調査によれば、重症膵炎患者の死亡率は三〇パーセントであり、中等症膵炎患者の死亡率は二パーセントであった。同研究班による急性膵炎の重症度判定基準によれば、一郎が日赤医療センターで受診した当初の膵炎の症状は、中等症から重症への増悪期であった。したがって、右全国調査の行われた昭和六二年以降の治療技術の進歩を考慮すれば、その時点における一郎の生存率は少なくとも八〇パーセント以上であったと考えられる。
したがって、被告らの医師らが、膵炎を疑い諸検査を実施してその重症度を正確に把握して、直ちに急性膵炎の軽症・中等症の重症化を防ぐための基本的治療法や、いったん重症化した場合の全身的集中管理による多臓器不全(MOF)の予防及び治療法がとられていれば、一郎が救命されていたことはかなりの蓋然性を持って認められるし、少なくとも延命されたことは明白である。
(四) 適切な治療を受ける期待を侵害したことに対する慰謝料
仮に、医師らの過失と本件死亡との間に因果関係が認められないとしても、一郎は、適切な治療を受ける機会と可能性を奪われ、少なくともその死期を早められたという結果を招来せしめられたものというべきであり、このような事項にかかる期待は、生命にかかわる根元的な欲求であって、法的保護に値する利益というべきであるから、被告らは、一郎が右利益を奪われたことにより被った精神的苦痛に対する損害を賠償すべき義務がある。
一郎は、日本有数の高度医療機関である日赤医療センター及び同センターにおける一郎の肝臓等重要臓器の「主治医」である吉次医師に大きな信頼を抱いており、日赤医療センターであれば肝臓等重要機能臓器の障害について最善の診療が受けられるものと期待し、信頼して受診したにもかかわらず、同センターにおいて、膵炎等重要臓器に関する治療を全く受けることがなかった。したがって、被告日赤は、一郎が適切な診療を受ける期待を裏切られたことにより被った精神的苦痛について慰謝料を支払うべき義務がある。
また、松沢病院においても、同病院の辻井医師らは、激しい腹痛に始まる上腹部痛ないし胸部痛で日赤医療センターへ救急入院したことを確認し、各種鎮痛剤が功を奏しなかったことも確認し、血中アミラーゼやWBC等において異常値を示す血液検査結果を確認したりしていながらも、一郎は、重要臓器に関する診療を一切受けることがなかった。したがって、被告日赤と同様に、被告東京都も、一郎が適切な診療を受ける期待を裏切られたことにより被った精神的苦痛について慰謝料を支払うべき義務がある。
(五) 弁護士費用
原告らは、それぞれ、本件訴訟の提起及び遂行を原告ら訴訟代理人に委任し、その着手金及び報酬として、右逸失利益及び慰謝料につき本訴判決認容額の一〇パーセント相当額を支払う旨約した。前記損害の合計額の一〇パーセントは、原告らにつき各一五二九万八五四八円である。
(六) 合計
右のとおり、原告らは被告らに対し、各自、合計一億六八二八万四〇三三円の損害賠償請求権を有するものである。
よって、原告らは、被告ら各自に対し、不法行為による損害賠償請求権に基づき各一億六八二八万四〇三三円及びこれに対する不法行為の日以降である平成五年二月七日から各支払済みに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。
(被告日赤の主張)
1 吉次医師及び猪狩医師の過失について
吉次医師及び猪狩医師には、一郎の重症膵炎による死亡につき、予測可能性がなかった。
急性膵炎の診断のきっかけとなる重要な症状は腹痛であり、その腹痛は一般に極めて激烈である。しかし、日赤医療センターでの診断中、さらには、松沢病院到着時においても、一貫して一郎にはそのような症状はなかった。一郎には、日赤医療センター来院前に腹痛があったとのことであるが、それは、一番頻繁に用いられる弱い鎮痛剤であるブスコパンで治まった程度であったのであり、その効果は長くは続かないから、ブスコパンによって急性膵炎の症状がわからなくなったということはない。
また、日赤医療センター来院時、一郎は、前胸部圧迫感を訴えているが、その当時不穏状態ではなく、一郎の訴えが間違っていたこともなく、心電図等をとられていることの意識もあった。さらに、日赤医療センターでは血液検査、血液ガス検査を行ったが、それらの検査結果においても重症の膵炎を示すデータはなかった。吉次医師は、一郎の血液検査の結果、血中アミラーゼの軽度の上昇を認められたことを認識し、急性膵炎も疑った上で全身状態から急性膵炎はないと判断したのであって、一郎が重症膵炎で死亡したものであったとしてもそれを予測することは不可能であった。
吉次医師は、一郎をアルコール離脱症と診断したが、それは、一郎が日赤医療センター来院に至る一週間くらいは酒浸りであったこと、右センターに来院後、平成五年二月六日午後四時ころから、一郎に、点滴を抜去しかけたり、看護婦にくってかかったり、つじつまの合わない言動をするなどの不穏状態が生じ、午後四時五〇分にかけて、ストレッチャーから降りようとしたり、点滴を抜去するなど治療に支障をきたす状態となったこと、その後おとなしくなり、自ら注射を希望したり、家庭の事情を話したりする一方で、付き添っていた乙山に対し「お赤飯を買ってきたのか。」などと訳のわからない発言をしたことなど、アルコール離脱による振戦せん妄の診断基準である意識及び注意機能の障害等に合致したためであり、右診断が不適切であったとはいえない。
2 因果関係について
一郎は、日赤医療センターに来院した当時、各種症状が外部的には発現していなかったにもかかわらず、重症の膵炎に罹患していたのであって、既に手遅れの状態にあったから、一郎の死亡と日赤医療センターの吉次医師及び猪狩医師の治療行為との間には因果関係はない。
被告東京都の主張
1(一) 辻井医師の過失について
一郎が、松沢病院に入院し、辻井医師の診察・診療を受けた際、同医師において一郎が急性膵炎に罹患しているとの診断をすることは、以下の事情からすれば不可能であった。
(1) 辻井医師は、一郎を問診した当時、急性膵炎の症状が、上腹部の持続した激痛であることや血中アミラーゼの値が高いことであると認識しており、これらは、一般的にも急性膵炎の診断基準とされているものであるが、一郎は、平成五年二月六日午後七時三〇分ころから行われた辻井医師の診察中において、腹痛はもちろん身体の痛みや苦しさ等を訴えたことはなく、同医師のほうから一郎に対して腹痛の有無について質問をしても、そうした痛みはないと述べていた。また、その後、同日午後九時三〇分ころや午後一一時ころに、辻井医師が一郎の様子を見た際にも、同人から痛いとか苦しいといった訴えはなく、一郎がうめいていたとか苦しいとかいうような状況は窺われなかった。
(2) また、松沢病院の看護者は、頻回な病室の巡回を行い、一郎の血圧や脈拍等の身体状況を把握して、随時担当医師に報告を行っていたが、それらの際にも、一郎が腹痛を訴えたということはなかった。
(3) 辻井医師の診察時に同席した一郎の主治医である吉次医師から示された一郎の血液検査の結果では、血中アミラーゼの値は、三五二とやや高かったものの、数値的にはそれほどの上昇ではないうえ、日赤医療センターからの紹介状では、データ的には安定していると書かれていたこと、右吉次医師から、一郎の血液検査等のデータ等は安定しており、身体的に大きな問題はない旨や腹痛は日赤の病院においてはなく、胸痛についても特別緊急な問題もない。腹痛や胸痛の原因としては、慢性の肝機能障害が原因である旨の説明を受け、辻井医師は、血中アミラーゼの値は今回急に上昇したものではなく、以前から高めの値が出ていればそれは急性のものではないと判断した。
右のような事情によれば、辻井医師が一郎を診察し入院させて治療にあたった経過の中で、一郎が急性膵炎に罹患しているとの診断をなすことは不可能であったというべきである。
なお、辻井医師は、一郎をアルコール離脱せん妄と診断しているが、この診断は以下のとおり妥当なものであった。
すなわち、せん妄の診断は、意識及び注意機能の障害、認知の全体的な障害、精神運動性障害とその変化、睡眠覚醒周期の障害、感情障害の有無などの基準によってなされるところ、一郎は、松沢病院に来院する前日までは通常の会話が保たれていたが、日赤医療センターでの治療の際には、点滴を自分で抜去してしまうなど不穏状態がみられ、松沢病院緊急外来での診察では、質問を取り違えたり、的外れな答えをすることが多く、松沢病院来院の経過の記憶が断片的で一部欠落しており、現在病院で治療を受けている自分の立場を理解していなかったこと、松沢病院での問診時点では不穏が認められないこと、平常なら理解できるであろう入院の必要性を理解できず、入院の説得については、その場では理解を示すが、直後にはこれを否定する発言をすること、また、同日午後九時二〇分ころには、抑制を全部外して全裸になり、午後一一時三二分ころ、点滴を調整していた看護婦に「コカインを入れるのか。」などと言ったこと、午後一一時五五分ころ、不眠、不穏が続いていたことは、一郎に幻覚症状等の感情障害及び睡眠覚醒の障害があったことを示すものであり、これらの事情からすれば、一郎の状態は前記基準を満たすものであった。
(二) 太田医師の過失について
(1) 太田医師が一郎を診察した際、一郎が急性膵炎に罹患しているとの診断をすることは、以下の理由により不可能であった。
① 右医師が平成五年二月七日午前三時三〇分ころ一郎を診察した際の同人の状態は、腹壁の筋肉が固く硬直するような筋性防禦の症状を呈していたことから、太田医師は急性腹症の症状に当たると判断し、一郎の血圧低下が起こったことから、急性腹症の原因疾患の可能性の一つとして消化管穿孔を疑った。
しかし、急性腹症の原因疾患は消化管穿孔を含め多数に上ることから、その原因疾患を特定するためには、血液検査、腹部レントゲン検査、腹部超音波検査、腹部CTスキャン等の検査がなされなければならないが、松沢病院においては、夜間の検査体制としては、検査機械が停止している上、検査技師も不在であることから、右のような検査を行うことは不可能であり、最終的に原因疾患を特定することは不可能であった。
② また、急性膵炎は、急性腹症の原因疾患の一つではあるが、太田医師は、急性膵炎の場合、一番大事な症状は腹痛であり、罹患した場合にはかなりの激烈な腹痛を伴うことから、患者はじっと寝ていられずにえびのように丸まった状態を呈する特徴があると認識していたものであるところ、一郎の場合には、日赤医療センターでの受診時から太田医師が診察を行うまでの間に、腹痛のエピソードがなかったこと、前記血球アミラーゼの値は急性膵炎を疑うほどの高値ではなかったことから、一郎が急性膵炎に罹患していたとの診断をなすことはできなかった。
(2) 太田医師が一郎を診察した際、一郎が急性膵炎に罹患しているとの診断をなし得たとしても、他の医療機関への転送等の措置をとることはできなかった。すなわち、太田医師が一郎を診察したときには、一郎は血圧が測れないショック状態に陥っており、原因のいかんにかかわらずショック状態が長引くと二次的に様々な臓器不全等の症状が現れ、病状が悪循環に陥ることから、太田医師はこのような状況を回避するためには、第一に血圧の上昇を図ることが必要であると判断して、輸液量を多くして昇圧剤の投与を行った。しかし、昇圧剤の投与後も一郎の血圧はなかなか改善せず、このような状態の一郎を移動させることは、体動による急性の心停止の可能性があり、移動のために一郎の装着した心電図モニターを外せば、急性の心停止等の緊急時の対応が困難になると考えられたために、太田医師は、一郎の病室を移したり他の病院へ転送することは非常に危険だと考え、このような措置をとらなかった。
また、太田医師は、一郎の血圧がある程度の値まで上昇しないと、外科的措置をとることは困難であり、他に処置すべきことはないと考え、昇圧剤等の投与等の処置を継続し、これらの処置により一郎の血圧が安定した場合には、外科医師に相談し外科的な処置が必要かどうか、転送できそうなら転送することを考えていたが、結局一郎の血圧はその後も回復しなかった。
(3) このように、太田医師が、平成五年二月七日午前三時三〇分ころ、一郎の診察を行った時点において、仮に一郎が急性膵炎に罹患しているとの診断をなし得たとしても、当時の一郎の身体状態からすれば、まず血圧の上昇を図る以外にとるべき処置はなかったのであり、一郎を他の病院へ転送すること等は非常に危険であったのであるから、太田医師が、一郎の転院等の措置をとらなかったといって非難されるいわれは全くないものというべきである。
第三 争点に対する判断
一 一郎の平成五年二月六日以前の状況
前記第二の一1の事実及び証拠(<書証番号略>)によると以下の事実が認められる(末尾に認定に供した主たる証拠を掲げた。)。
一郎は、昭和二二年一月三〇日生まれであるが、平成四年七月二五日、その三週間ほど前から深酒が続いており、フルーツか飲み物を口にするくらいで、食欲がないこと、吐き気や軽い腹部痛や背部痛などを訴えて、日赤医療センター内科外来での診察を初めて受けた(<書証番号略>)。
平成四年当時の一郎の日常生活習慣については、同人は自ら、食事は一日に三回不規則に摂り、ウイスキーを一日にボトル半分程度飲み、一日四〇本程度喫煙するというものであった(<書証番号略>)。
診察にあたった吉次医師は、血液検査と点滴を行い、アルコール性肝障害の疑いや糖尿病の傾向があるとして、GOTの数値を下げ、糖尿病の気を抑えるために一か月程度の入院を勧め、一郎は、同月三〇日、入院した。また、一郎の担当医は吉次医師となった。
なお、同日の生化学検査の結果は、GOT三三一mlU/ml、GPT一一六mlU/ml、γGTP二八九〇mlU/ml、LDH(乳酸脱水素酵素)七二二mlU/l、血中アミラーゼ五六mlU/ml、FBS(空腹時血糖)三〇四mg/dl等であった(<書証番号略>以下検査単位は省略する。)。
一郎は、右入院中、禁酒、食事療法、肝庇護剤の投与などの治療によって食欲不振、全身の倦怠感、腹部痛などは改善し、同年八月二六日に退院し、退院後も、同年九月九日、一〇月七日、一〇月二七日、一二月九日、平成五年一月六日、内科外来で受診し、診察、血液検査、薬の処方を受けた(平成四年一〇月七日及び平成五年一月六日は投薬のみであった。)。なお、一郎は、平成四年一〇月二七日ころは、ビールを週に一、二回、一回当たり一、二杯飲んでおり、同年一二月九日ころには、ウイスキーを週に三、四回、一回当たり水割り二、三杯飲み、一日四〇本ほど喫煙するようになっていた(<書証番号略>)。また、右一二月九日当時の血液検査の結果は、GOT二七、GPT一四、γGTP一三九、FBS一〇五であった(<書証番号略>)。
二 平成五年二月六日及び七日当日の経緯
1 一郎が日赤医療センターに来院するまでの経緯
証拠(<書証番号略>、証人猪狩、証人乙山)によると以下の事実が認められる(末尾に認定に供した主たる証拠を掲げた。)。
一郎は、平成五年一月三一日から乙山宅を訪れた。乙山宅では、おおむね、一郎は、朝一〇時ころ起きて、缶ビールを飲み、軽い食事をしながらウイスキーの水割りを飲み、その後居眠りなどをした後、夕方になるとまたウイスキーの水割りを飲むというような生活を送っていたが、一郎は「お酒は自分の生活のなかでは眠り薬みたいな感じだから」とか「自分からお酒をとったら生きていけない」というようなことを言うこともあった(<書証番号略>)。
平成五年二月六日朝、一郎は、起床し、空腹を訴え、おかゆを三口ほど食べた後、また食べるから二時間後に起こすように乙山に頼んで横になった。それから一時間もしないうちに起きて、おかゆを三口ほど食べ再び横になったが、その後ほどなく、腹部の痛みを訴え、吐き気を催したりした。しかし、一郎は、月曜日(同月八日)に日赤医療センターに行くからと言って、乙山に鎮痛剤のブスコパンを買いに行かせ、これを服用したが、特別効いた様子はなかったので、乙山が病院に電話しようとすると、一郎はこれを止めた。一郎は、吐き気を訴え、「何でこんなにおなかが痛いのかなあ」と言い、乙山と二人で盲腸に症状が似ているなどと話しをしていたが、乙山は、盲腸でも手遅れになったら困るからとしてタクシーを呼び、午前九時ころ、二人で近くの佐々総合病院に行った。
佐々総合病院内科での問診の際、一郎は、二月一日から三日まで多量の飲酒をしていたこと、平成四年二月ころから食欲不振であること、平成五年二月六日は腹痛でブスコパンを服用したこと、日赤医療センターに肝炎と糖尿病で通院中であること等を説明し、同病院にて血液検査を受け(WBC一一八四〇等の結果を示した。)、腹部レントゲン写真を撮った。そして、医師から、随分アルコールも入っているようだしそれが抜けると楽だからと点滴を勧められたところ、一郎は、月曜日に日赤医療センターに行くからと断り、医師と口論となった。乙山は、二時間くらいなら待てるからと一郎に点滴を勧め、一郎もこれに同意したので、一郎の気が変わらないうちにして点滴を始めさせたが、結局、一郎は、いらいらするとして自分で点滴を外して、四〇分くらいで出てきてしまった。なお、同病院の診療録には、一郎の病名は「感染性腸炎・気管支炎」と記載されている(以上につき<書証番号略>、証人乙山)。
その後、二人は、乙山の家に戻ったが、このとき、一郎は吐き気や腹痛を訴えることはなかった。しばらくして、一郎は、気分が悪いと言い始めたので、午後一時四三分、乙山が救急車を呼び、一郎は、自分で歩いて救急車に乗り、胸部痛を訴え、救急車の中で広尾の日赤医療センターがかかりつけだからそこに行くように頼み、救急隊は、日赤医療センターに、救急車を呼ぶまでの経緯の概要と一郎を日赤医療センターに搬送してよいかどうか連絡し、午後二時五〇分ころ、同所に到着した。その際、一郎は、自力で担架からストレッチャーに移動したが、顔色が不良で、苦痛の表情をしており、「あー、胸が痛い」などと言っていた。なお、救急隊が到着した際の一郎の意識は清明で、呼吸は一八、脈拍は九〇であり(いずれも毎分あたり。呼吸及び脈拍の単位は以下同じ。)、日赤医療センターに引き継いだ際も意識は清明、呼吸は一八、脈拍は九八であった。また、救急隊からの日赤医療センターへの連絡では、一郎に腹痛の訴えはなかった(以上につき、<書証番号略>、証人猪狩)。
2 日赤医療センターでの診療経緯
証拠(<書証番号略>、証人猪狩、証人吉次)によると以下の事実が認められる(末尾に認定に供した主たる証拠を掲げた。)。
午後二時五五分当時、日赤医療センターでは、当直の体制になっており、当日の内科の当直医の一人であった猪狩医師が一郎を診察した。同医師は、問診の前に、一郎の前記1の入院カルテのサマリーを見た上で、同人を問診し、血液検査のため採血を実施した。
右問診の際、一郎は自ら、朝から軽い腹痛があり、午後一時頃から前胸部圧迫感ないし軽い心窩部痛があり、吐き気、嘔吐が一回あって救急車を呼んだことを話し、乙山は、一郎がこの一週間深酒をしており、上腹部痛を強く訴えるので、一郎の言うとおりにブスコパンを買って飲ませたが治まらず、佐々総合病院へ行ったことを話した(<書証番号略>、証人猪狩)。
また、一郎は、猪狩医師に、胸の重苦しさを訴えており、発汗があり、頻拍で過呼吸の状態であったが、腹痛は訴えてはいなかった。また、この時の、一郎の体温は37.7度、血圧は一四〇/九〇、脈拍は一三〇、呼吸は三六だった(以上につき、<書証番号略>、証人猪狩)。
猪狩医師は、一郎の主訴が胸の重苦しさであることから、心臓に関する病状を疑い、発作性の上室性頻拍症あるいは心房性頻拍性などを懸念したが、救急医療の立場からより重篤な病気を先に疑うべきとして、心筋梗塞であるかについての識別から始めることにし、まず、心電図をとり、その後循環器内科の笠尾医師(当直医ではなかったがまだ病院にいた。)を呼び、同医師に診断してもらうことにした。
心電図の結果は、洞性頻脈を示していたが、心筋梗塞と認められるような波形変化は見られず、また、血液検査の結果では、心筋逸脱酵素の上昇が認められなかったため、猪狩医師は、心筋梗塞ではなく、上室性頻拍症あるいは発作性心房性頻拍症と考え、午後三時一五分ころから頻拍発作を抑制するなどの目的でアデホス、ワソラン、ジゴキシン等を順次静脈注射したが、午後三時四〇分ころになっても、一郎の脈拍は一三六、血圧は一一〇/八八であり、頻拍は治まらず、一郎は、頭の熱さ、胸の苦しさも変わらないと訴えており、著しく汗をかき、呼吸が上がった状態であった(<書証番号略>、証人猪狩)。
ところで、そのころ、血液検査の結果(GOT一七六、GPT五〇、LDH九八六、BUN(血液尿素窒素)九、クレアチニン0.9、アミラーゼ三五二、WBC一三六〇〇等)が出たが、猪狩医師は、一郎の前記症状やGOTの上昇、アミラーゼの軽い上昇から、アルコールの長期飲用に伴う慢性的な臓器障害を疑うようになったが(<証書番号略>、証人猪狩)、いずれにしても、発作性心房頻拍症は、外来治療で治まらなければ心電図をつけたまま経過観察することが望ましいと考え、笠尾医師と相談して、循環器病棟である六階西病棟の大部屋に入院させることにし、その準備を始めた。
ところが、午後四時ころには、一郎は、点滴を自分で抜こうとしたり、寝たり起きたりを頻繁にするようになるなど不穏状態を示すようになり、「何だっていつまでかかっているんだ」「これ(点滴)はいつまでやるんだ」などと言うようになった。このような状態をみて、猪狩医師は、長期にわたって一郎が飲酒していることから、同人がアルコール依存症患者に見られるアルコール離脱症候群あるいは、禁断症状による頻拍ではないかといよいよ考えるようになった。同医師は、一郎がアルコール離脱症であるなら数日間は不穏症状を強めるはずであるので、一般病棟(大部屋)での対応が非常に難しく、また、日赤医療センターには個室の空きもなかったことから、精神科と内科がある松沢病院への転送を考えた(以上につき<書証番号略>、証人猪狩)。
午後四時三〇分、猪狩医師は、従前から一郎を診察してきた経緯があり肝臓の専門医でもある吉次医師の診断を求めるため、同医師を呼び、同医師は、一郎を診察した。その結果は、胸部の苦悶感があるが、腹痛や背部痛はなく、頻脈で多汗、腹部は柔らかく、圧痛は認められず、筋性防禦もなく、肝臓や脾臓は触知されず、腹腔内の遊離ガスは認められなかった。また、吉次医師は、前記検査データ上、白血球が増多しているのは一郎が大酒家のためであり、LDHが高値なのはアルコールが原因であり、血中アミラーゼの値については、膵炎を一応は疑ってみたものの、一郎が腹痛を訴えていないことから、その可能性をとりあえず除外した(以上につき<書証番号略>、証人猪狩、証人吉沢)。
右両医師は、相談した結果、やはり、一郎を松沢病院に転院させようということになった。
午後四時四〇分、一郎は、ストレッチャーの上で起き上がって点滴を抜こうとし、いったんは治まったものの、再び興奮状態となり、一〇分ほどして、ストレッチャー上で起きあがり、抑制帯をかけようとすると、暴れて、点滴を抜いてしまった。
午後五時二〇分、一郎は、ベッド上で、上半身裸になり、乙山にうちわであおいでもらっていた。吉次医師は電話で松沢病院に相談し、転院を決定した。
午後六時、吉次医師は、一郎に対し、ホリゾン(抗不安薬)一アンプルを筋肉注射した。このころ、一郎は、原告春子は棟上げで親戚の家に行っており自分がここに来ていることは言っていないと話した(以上につき、<書証番号略>、証人猪狩)。
このころ、一郎は、乙山が貴重品等を紙袋に入れて持っていたのを見て、お赤飯買ってきたのかというようなことを口走ったりした(<書証番号略>)。
午後六時一八分、一郎は自分で救急車まで歩き、ストレッチャーに横になり、吉次医師及び乙山が同乗して日赤医療センターを出発した。
これらの治療の間、一郎が痛みを訴えてなかったため、鎮痛剤は使われなかった。
3 日赤医療センターから松沢病院への転院について
証拠(<書証番号略>、証人辻井)によると、以下の事実が認められる。
平成五年二月六日午後五時二〇分ころ、日赤医療センターから松沢病院の当日の当直医であった高橋医師に対し、平成四年に、日赤医療センターにアルコール性の肝障害で入院し、その後外来通院していた一郎が、胸痛を訴えて来院し、日赤医療センターが検査処置をしていたが、点滴を抜くなどの不穏行動が出たため、アルコール離脱症状が疑われ、日赤医療センターでは対応できないから、松沢病院に転院させたいとの電話が入った。高橋医師は、精神科夜間休日救急診療実施要領(<書証番号略>)によれば松沢病院では身体合併症をもっている患者の救急は受け入れられないので、そのようなことが一郎にないかどうかの確認をし、右要領にしたがって、東京都保険医療情報センターを通じて連絡を取るように伝えた。
午後五時二三分、日赤医療センター救急外来吉次医師から、衛生局夜間休日案内所に対し、アルコール依存症でアルコールが切れかかっている状態で、徘徊、急に立ち上がったり落ち着きがないなどの状態にある一郎の受診依頼があったので、右案内所は、松沢病院での受診を指示した。
その後、吉次医師は、午後六時ころ、辻井医師に電話をかけ、日赤医療センターに通院中の一郎が胸痛で受診したが、処置をしているうちに点滴を抜いたり落ち着かない状態になるなどの精神症状を示すようになり、日赤医療センターでは対応しきれないから、転院させたいと依頼した。辻井医師は、高橋医師と同様に、松沢病院では、重篤な疾患、緊急を要する疾患については対応できないから、その点について尋ねたところ、吉次医師は問題ないと回答した。
午後七時五分、一郎は、吉次医師、乙山に付き添われて、麻布救急隊によって松沢病院に来院し、同時一五分、精神科救急外来受付けとなった。
4 松沢病院での診療の経緯
証拠(<書証番号略>、証人吉沢、証人辻井)によると、以下の事実が認められる。
(一) 午後七時三〇分、辻井医師は、一郎の診察を開始した。同医師は、一郎や乙山から、高校のころから飲酒を始め、普段は少量しか飲まないが付き合いで飲むときはボトル一本は飲むこと、ここ一週間は乙山宅で過ごしていたこと、最後の飲酒は平成五年二月四日夜で、ビール一缶とウイスキーの水割り一杯であること、同月六日一〇時ころ、腹痛で近くの内科で診察を受け、帰宅後、救急車で日赤医療センターに入院したことなどを聴取した。
また、吉次医師は、辻井医師に対し、紹介状を示しながら、一郎が日赤医療センターの内科に以前入院したことがあり、アルコール性の肝障害があり、当日、胸痛を訴えて受診したが、その検査、点滴の処置の際、点滴を抜くなどの不穏状態が出現し、アルコール離脱症状が疑われること、血液検査のデータについては、安定しており身体的に大きな問題はないこと、日赤医療センターでは腹痛を訴えてはおらず、胸痛については検査の結果から特別急を要するような問題もなく、腹痛や胸痛の原因としては、慢性の肝機能障害が原因であると考えられることなどの説明をした。その際、辻井医師は、吉次医師から、日赤医療センターでの血液検査の結果を見せてもらったが、データ的には安定しているとの説明から、右検査のうちアミラーゼがやや高く、三五二という値であることについては、おそらく膵臓などに慢性的な障害があるのではないかと判断した。
一郎の右当時の血圧(八二/五七)について、辻井医師が低いのではないかと指摘すると、吉次医師は、一郎はもともと低めであり、日赤医療センターでの受診時から九〇前後なので、余り変化がないと答えた。
(二) 一郎の様子は、見た目には汗を大量にかいており、呼吸が荒く、深くて回数が多く、脱水状態も認められ、受け応えについては、一応の疎通はとれるものの、飲酒歴についての質問に対し仕事の話や家族の話などをするなど、時々的外れの応えかたをするなど、意識障害が疑われる状態であった。
辻井医師は、右問診の結果、一郎にせん妄状態がみられるが、その原因としては、一郎の飲酒歴からアルコール離脱によるものと判断した。また、発汗や呼吸の速いこと、血圧が低めであることもその症状と判断し、発汗は、自律神経の興奮により、過呼吸はせん妄時における不安や焦燥感や興奮によると判断し、その旨を吉次医師に伝え、さらに、問診や血圧、体温測定等の検査が終わって、吉次医師に対し、これから点滴をするが、それ以上に身体的に必要な措置はあるかどうか聞くと、吉次医師は、特別ないと答えた。
辻井医師は、一郎が特に腹痛を訴えてはいないこと、日赤での血液検査の結果中アミラーゼの値がやや高い点についてもそれほどの高値ではなく、吉次医師から値は安定しているとの説明を受けたことから、一郎に急性膵炎を疑わせるような事情がなく、また、重篤な身体的な疾患はないと判断し、また、LDHの数値が高めであることについては、慢性肝機能障害によるものと判断した。
辻井医師は、一郎に対し入院を勧めたが、一郎は仕方がないという感じで同意したり、その直後には帰ろうとしたりするなど、一貫しない態度を示した。
なお、右診察の間、一郎が腹痛を訴えるということはなく、振戦(手足の一部が震えること)は診られず、アルコール臭もなかった。
(三) 午後七時五五分、一郎は、歩行の際にふらつき、汗をかいており、顔色は不良で、四肢は冷たく、心拍はやや微弱であった。同人はのどの渇きを訴え、栄養飲料をコップ一杯ほど摂取した。このときの血圧は八二/五七であった。
午後八時、一郎は、覚醒状態にあり、ストレッチャーで病室に入った。辻井医師は、一郎に脱水症状が診られることから、循環血液量を維持し、血管の確保をするため、循環血液量を保つための基礎となる液体と、アルコール離脱に対しては、ビタミンの欠乏による脳障害を予防するためビタミン類の入った点滴を行おうとし、一郎にその旨説明したが、一郎は、口では納得した素振りを示したり、自分は大丈夫と答えたりしながら、すぐに起きあがろうとするような行動をとったりした。また、辻井医師は、点滴に際しては、吉次医師から日赤医療センターでは点滴を抜去しようとしていたことを聞かされていたため、引き抜かれないように、また、自傷・他害(看護者に対する)の防止、離脱せん妄からの回復のための十分な睡眠のために、一郎を入院病棟へ連れていき、三人の看護婦によって、抑制帯を使って、一郎の四肢と肩の固定をし、おむつを着用させた。
その後、一郎は二回嘔吐し、午後九時二六分には、抑制を全部外し、全裸になった。
このころ、辻井医師は、乙山への対応やカルテの記入、責任当直者への報告等を行っており、乙山と話しているときに、一郎が全裸になったことなどの報告を受けたので、一郎を診察に行ったが、一郎は苦しい等の訴えをすることはなかった。辻井医師は、抑制の持続と点滴の持続、不眠時、不穏時の際には、投薬により沈静化させるよう指示した。
(四) 午後九時四五分ころ、原告春子から松沢病院に電話があり、辻井医師は、松沢病院受診の経過、一郎の状態について説明し、入院治療が必要であり、一郎本人から同意が得られなかったので、原告春子を保護義務者として、その同意を得て、医療保護入院としたいことを説明し、原告春子はこれに同意した。
午後一一時、原告春子と原告夏子が来院し、一郎を精神病院である松沢病院ではなく、日赤医療センターに戻して欲しいことを辻井医師に依頼したが、同医師は、一郎には精神科的な入院治療が必要であると説明し、どうしても退院させたいというなら、それは可能だが、その場合には、どこかの病院に入院させる必要があると説明した。原告春子は、辻井医師の説明を聞いて、松沢病院での入院治療に同意した。
(五) 午後一一時三二分、点滴が漏れており、再挿入しようとした際、一郎は「コカインを入れるのか。」などと言った。午後一一時三五分、一郎の体温は37.7度で、血圧は一一〇/六六、全身の色は不良で四肢は冷たく、腹満著名で、緊満が認められ、呼吸は速迫しており、苦痛の表情をしていた。
(六) 平成五年二月七日午前零時三〇分、一郎は入眠し、午前二時一〇分当時における一郎の血圧は六四/四二で、脈は九二であったが、午前三時、辻井医師が一郎を診察したところ、手首の橈骨動脈では脈が触知できず、上腕動脈のリズムは不整であった。そこで、辻井医師は、脈に触れられないということは血圧の低下によるものであり、アルコール離脱せん妄だけではない別の身体的な問題があるのではないかと判断し、当日の一般科の当直医であった、太田医師にポケットベルで連絡をし、太田医師が来る前に酸素を投与し始めた。
(七) 午前三時二五分、一郎の頸動脈における脈は一四四、血圧は測定不能であり、午前三時三〇分、松沢病院の別棟で患者を治療していた太田医師が来て、検査のため血液を採取しようとしたができなかった。
辻井医師は、太田医師に、日赤医療センターからの紹介状や日赤医療センターでの血液検査の結果を見せ、入院時及び入院後の経過としては腹痛はなかったということを話し、その上で、太田医師は一郎を診察した。
太田医師は、一郎に自覚症状や状態を尋ねたが、一郎は応答できず、苦悶の表情を呈し、呼吸が著しく大きく速く、いわゆる過換気呼吸の状態、四肢は冷たく、脈が触れないような状態だった。また、聴診をしたが、胸部では心音、呼吸音とも特別異常は認められず、腹部のほうを触診すると、筋性防禦がみられ、腹部の聴診では、腸の蠕動音が聞かれないような状態であった。そこで、太田医師は、一郎がアルコールを常飲していた患者であるとの辻井医師の話や肝機能障害があるもののデータは落ち着いているとの記載がある前記日赤医療センターからの紹介状、血液検査の結果、診察の結果などから、一郎が血液低下でショック症状であり、急性腹症(緊急的に何らかの処置を必要とすると思われる腹部症状の総称)であると診断した。辻井医師も同様の診断であった。太田医師は、血圧が測定できないショック状態が長引くと二次的にさまざまな臓器不全の症状が出て悪循環となるため、血圧が上げることが第一目的であると考え、輸液量を多くして昇圧剤を投与し、その原因としては、血液低下が急速に起こったことから、消化管穿孔の疑いを持った。辻井医師は、太田医師に、検査体制の整っている病院への転院か、合併症病棟のほうに転棟させることを打診したが、太田医師は、現時点における移動は、急性の心停止を起こす可能性があり、血圧も測定できない状態にある一郎から心臓の情報を得る唯一の手だては心電図モニターだけであるのに、移動のためにモニターを外すことになれば、急性の心停止やそれに近い状態に陥ったときにその状況を把握できないことになること、外科的処置も血圧がある程度上昇しないと困難であり、一郎の現状からは右措置が困難であると考え(証人太田)、昇圧剤の投与によって血圧の安定を待ち、安定した後にそのような処置をとったほうがよいと説明し、ST3三〇〇ミリリットルとイノバン(昇圧薬)を一時間あたり四ミリリットルで二アンプルの投与を開始した。
午前四時三〇分、一郎は頭を持ち上げ起きあがろうとした(脈拍は一四五)。午後五時、血圧は測定不能、脈拍は一四四で、瞳孔反射はあり、四肢に冷感があった。前記イノバン滴下後も血圧が上昇しなかったので、以後二回にわたって滴下量が増加されたが、午前六時になって、呼吸は四八、脈拍は一二四で、血圧は測定不能、睫毛反射はなし、四肢にチアノーゼが出現した。また、左腹部がチアノーゼ様を呈していた。
午前六時一〇分、嘔吐反応は認められ、吸引施行にてコーヒー様のものが大量に吸引された。午前六時一五分、胃チューブ挿入後も、コーヒー様のものが自然に流出した。
午前六時二〇分、辻井医師が原告らに一郎が危篤である旨の電話をした。当時一郎の脈拍は四〇台で、無呼吸であり、辻井医師は心マッサージを開始した。午前六時二五分、一郎の脈拍は四〇台で、心マッサージは続行されていたが眼球は上転していた。
午前六時三〇分、心停止状態で死亡が確認された。
三 一郎の死因について
証拠(<書証番号略>及び証人齋藤)によると、平成五年二月八日午前一〇時から東京都監察医務院の佐藤医師により一郎の解剖が行われ、その結果、一郎の直接の死因は、死亡した二、三日ないし数日前からの極めて重篤な急性膵炎であると判断された。
四 争点1について
1 猪狩医師の過失について
(一) 原告らは、一郎の入院当時の病歴、一郎が日赤医療センターに搬送された際、重要臓器の機能不全を疑わせる症状を示していたこと、血中アミラーゼや白血球数の値が高かったなどの検査の結果から、猪狩医師において、一郎が急性膵炎であることは容易に診断できたとするので、この点について検討する。
まず、各種医学文献等によれば、一般に急性膵炎の特徴的な臨床症状・臨床検査所見として、腹痛、膵酵素や白血球数の上昇などが挙げられており、たとえば、厚生省特定疾患難治性膵疾患調査研究班(以下「厚生省研究班」という。)の提唱にかかる急性膵炎の判断基準は、(1)上腹部に圧痛あるいは腹膜刺激徴候を伴う急性腹痛発作がある、(2)血中、尿中あるいは腹水中に膵酵素の上昇がある、(3)画像、手術または剖検で膵に異常があるというものであり、右(1)を含む二項目を満たし、現病歴、理学検査、臨床検査、画像診断などから他の急性腹症の原因となる他の疾患を除外することが付帯条件となっている。また、急性膵炎の診断のきっかけとなる重要な症状は、腹痛であり(<書証番号略>によれば、急性期の特徴は、臨床的にはまず腹痛に尽きるとの指摘(座談会における和田攻東京大学医学部衛生学教授の発言)もある。)、その程度は一般には、激しく耐え難いものと形容されているが、そのうちの多くは、比較的軽い痛みで発症し、それが急激に増悪して数時間のうちに激しいものとなり、最強の痛みが数時間から数日間持続して、痛みは次第に治まるが間欠的な痛みは残り、自発痛は消えるが圧痛は残るというパターンをとる。その他の臨床症状としては、悪心、嘔吐が腹痛とともに頻度の高い初発症状である。重症例では、腹痛の発作まもなく頻脈、血圧低下、冷汗、乏尿などの低容量血症の症状を呈することがある。また、症状の進行とともに、腎、肺、肝などの主要臓器の障害を併発すると、乏尿、無尿、呼吸困難、頻呼吸、チアノーゼ、不穏状態、黄疸などの各種臓器障害による症状を呈するようになる。
次に、前記厚生省研究班の提唱による急性膵炎の重症度の判定基準では、以下に述べる五項目の臨床徴候と一〇項目の血液検査成績及び画像所見としてCTグレイド分類の各項目があり、右基準は、一項目でもあれば重症とする項目と、二項目異常で重症とする項目から成り立っている。
すなわち、臨床徴候として、ショック(収縮期血圧が八〇以下及び八〇以上でもショック症状を認めるもの)、呼吸困難(人工呼吸器を必要とするもの)、神経症状(中枢神経症状で、意識障害(痛みにのみ反応以上のもの)を伴うもの)、重症感染症(白血球増加を伴う三八度以上の発熱に、血球培養陽性やエンドトキシンの証明、あるいは腹腔内腫瘍の認められるもの)、出血傾向(消化管出血、腹腔内出血、あるいはDIC(播種性血管内血液凝固(症候群))を認めるもの)がとりあげられ、これらの一項目でもあれば重症とする。血液検査項目としては、B.E.(塩基過剰)マイナス三以下、Ht三〇パーセント以下(輸液後)、BUN四〇以上又はクレアチニン2.0以上のうち一項目でもあれば重症とし、Ca7.5以下、FBS二〇〇以上、PaO2六〇以下、LDH七〇〇以上、TP6.0以下、PT一五秒以上、血小板一〇万以下のうち二項目以上が陽性であれば重症と判定される。また、画像所見として、膵腫大、膵実質内部不均一、膵周囲への炎症の波及又は液貯留の三項目からなるCTグレイド分類が提示されており、グレイドⅣ、Ⅴ、すなわち、膵の実質内部不均一に加え、膵周辺(腹腔内、前腎傍腔)、あるいは膵周辺を越えて(胸腔内、後腎傍腔)炎症の波及を認める場合、前記血液検査項目の一つ以上陽性と併せて、重症と判定される(以上につき<書証番号略>)。
(二) ところで、原告らは、猪狩医師が一郎を問診した際、一郎には激しい腹痛ないし胸痛があったことを主張し、看護記録(<書証番号略>)の主訴欄や心機能検査依頼報告伝票(<書証番号略>)には胸痛を主訴とする記載もあるが、これらは、看護婦ないし平嶺医師が記載したものと認められるところ、平嶺医師については、問診そのものを行ったとは認められないこと(証人猪狩)からすれば、その記載は問診した医師の認識そのものの記載ではなく、また、その程度についての記載もないのであるから、一郎は、診療録(<書証番号略>)の記載のとおり、前胸部の圧迫感、軽い心窩部痛を訴えていたと認めるのが相当であるし、また、一郎が原告ら主張のような「激しい腹痛により発症した激しい胸痛」を猪狩医師らに訴えたとする証拠はない。そして、前記二1によれば、一郎は、平成五年二月六日朝、腹痛を訴え、病院での診察を受けたり、ブスコパンを服用したりしているものの、その後、日赤医療センターで猪狩医師の問診を受けた際には、前胸部圧迫感と軽い心窩部痛を訴えたにとどまり、腹痛は訴えていないのであって、急性膵炎の判定基準の重要な要素の一つが本件では欠けていたことになる。
また、前記問診の際に行われた血液検査の結果(前記二2参照)は、WBCは一三六〇〇、BUNは九、B.E.はマイナス1.8、クレアチニンは0.9、LDHは九八六であるなど、臨床検査所見でも、LDH以外は厚生省研究班による重症の判定基準を満たしていない。なお、血中アミラーゼの上昇は、膵臓、肝臓又は唾液腺の異常を示すものではあるが、その異常値の程度と膵炎であった場合の重症度とは必ずしも相関しないと解されている(<書証番号略>、証人吉次)。
さらに、解剖結果からみると、一郎は死亡の二、三日ないし数日前から急性膵炎を発症していたことが推定されるが、前記認定のとおり、日赤医療センター到着時において、一郎は担架からストレッチャーへの自力移動が可能な状態であり、意識も清明で問診に応じていたのであるから、明らかなショック徴候を呈していたとはいえず、右当時、重要臓器機能不全の状態にあったとしてもそれを臨床的に容易には確知し得なかったというほかない。
したがって、原告らが主張するように、猪狩医師が、一郎について容易に急性膵炎であると診断できたということはできず、右医師がそのような診断をせず、CT検査や超音波検査などの画像検査を行わなかったことにつき過失があるとは解し難く、猪狩医師が、アミラーゼの値について、膵臓の障害を疑わせる数値であることに留意した上で、アルコールによる影響と判断したことを不合理なものであったとすることはできない。
よって、猪狩医師の過失についての原告らの主張は理由がない。
2 吉次医師の過失について
原告らは、吉次医師の過失について、一郎が激しい腹痛を訴えていることを前提としているが、一郎がかかる腹痛を訴えていなかったことは前記認定のとおりである。なお、<書証番号略>によれば、急性膵炎を疑わせる腹痛の種類は体性痛(腹壁、腹膜に対する科学的、物理的刺激によって生じ、脊髄神経を介して伝えられる痛み)であり、その特徴は、圧痛、筋性防禦の存在等であるとする見解が存するが、吉次医師が一郎を診察した際には、前記二の2のとおり圧痛も筋性防禦も認められなかったものである。
また、原告らは、吉次医師が平成四年七月三〇日から同年八月二六日まで入院していた一郎の主治医であり、一郎が慢性膵炎であると診察していたことを理由に急性膵炎を疑う義務があったとするが、前記二の2のとおり、吉次医師は、アミラーゼの値から膵炎の疑いをもったこと、同医師は、その上で、一郎が腹痛を訴えていなかったことから膵炎の疑いを消去したと認められるのであり、右判断を特に不相当とすべき事情は認められない。さらに、一郎が原告ら主張のような「飲酒後の腹痛」を吉次医師に訴えたことを認めるに足りる証拠はなく(一郎は平成五年二月六日の朝には飲酒をしていないものと認められる(証人乙山)。)、その点においても、同医師が一郎の症状により急性膵炎を疑うのは困難であったというべきである。
そうすると、吉次医師の過失についての原告らの主張も理由がない。
五 争点2について
1 辻井医師の過失について
原告らは、辻井医師は、日赤医療センターにおける治療の経過や症状の変化を詳しく確認すべき注意義務を怠り、また、一郎から慎重に問診すべき義務を怠ったと主張する。
しかし、前記二4(一)及び(二)のとおり、辻井医師は、一郎の問診や診察、乙山や吉次医師からの聴取を通じて、一郎の飲酒歴、飲酒量、日赤医療センタコに入院したこと、平成五年二月六日の朝から始まって松沢病院来院に至るまでの概要、日赤医療センターでの診察・検査・治療の経緯を知り、また、一郎が現に頻拍やかなりの発汗があること、時として的外れな応答をするため意識障害の疑いがあること等の判断をしているのであることからすると、原告らが主張する前記義務を怠ったと認めることはできず、他にこれを認めるに足りる的確な証拠もない。
よって、原告らの右主張は理由がない。
2 太田医師の過失について
原告らは、太田医師が、急性膵炎あるいは慢性膵炎の急性化を疑わなかった過失を主張する。
前記二4(七)のとおり、平成五年二月七日午前三時三〇分、太田医師は、一郎を急性膵炎によらない急性腹症と診断しているが、右医師が一郎をそのように診断したのは、アミラーゼの上昇原因は、膵臓由来と、唾液腺由来に大別されるから、膵疾患、唾液腺の疾患が考えられるが、一郎は、日赤医療センターから太田医師が診断するまでの間、急性膵炎の特徴である強烈な腹痛といったエピソードがなく、アミラーゼの値も急性膵炎を疑うほどの高値ではなかったこと、慢性膵炎が急性に転換する場合にはかなりの腹痛を伴うことが多いが、一郎は腹痛を訴えていなかったこと、急性膵炎では、急激に血圧が下がるという状態になることはあまりないと考え、血圧の下がっている一郎に対しては急性転換を考えなかったことによるものである(証人太田)。
ところで、証拠(<書証番号略>、証人太田)によると、急性腹症の原因は、消化管穿孔、急性胆嚢炎、胆石症、急性膵炎、イレウス、ガン性腹膜炎などさまざまであり、そのうち急性膵炎の識別には、臨床所見、各種検査(血液検査や画像検査)が必要であるところ、当直体制時の松沢病院では、右検査を行う体制になかったのであり(それが被告の管理監督上の過失にならないことは後記のとおりである。)、そのような状況下において、太田医師が急性膵炎や慢性膵炎の急性転換を疑わなかったことが不合理なものとは必ずしも認められないから、右の点につき過失があるとまでは認め難い。
また、原告らは、太田医師が他の医師に対して応援を求めることをせず、他の治療施設又は病院へ転送しなかったなど十分な診療を行わなかった過失を主張するが、右当時(深夜から早朝)、松沢病院には、精神科の当直医が二名、一般科の当直医が太田医師のみという状態であり、他に医師の応援を求めるべきとすることはできず、また、前記二4(七)のとおり、太田医師が、一郎は急性の心停止を起こす可能性があったこと、血圧も測定できない状態にある一郎から心臓の情報を得るの唯一の手だてであった心電図モニターを移動のために外すことになれば、急性の心停止やそれに近い状態に陥ったときにその状況を把握できないことになると考えたこと及び血圧がある程度上昇しなければ外科的措置も困難であると考えたことから昇圧薬の投与により血圧の安定を保った後転送したほうがよいと判断したものであり、右判断を不当と断ずるに足りる的確な証拠はないことからすれば、右主張は採用し難い。いずれにしても、一郎は、死亡より二、三日ないし数日前に発症した急性膵炎が重篤化して、太田医師が治療を開始したわずか三時間後に死亡しているのであって、太田医師の作為、不作為と一郎の死亡との間に因果関係は認め難く、また、他の措置をとっていればいくらかでも延命の効果があがったと認めるに足りる的確な証拠もない。
3 東京都の管理監督の過失について
一郎が診察を受けた当時の松沢病院には、夜間救急休日救急診療時には、血液検査やレントゲン検査、超音波検査、CT検査等の画像検査をする体制になかったものと認められるが(証人太田)、本件では、当直の高橋医師が吉次医師に対して一郎の身体合併症の有無を尋ねた上で同人の転送を受け入れたなど、松沢病院において救急患者を受け入れる際には、合併症患者を受け入れてしまうことのないように、事前にこの点についての確認を取るようにしていたことが認められ、また、辻井医師による一郎の問診の際にも、自ら問診した結果とあわせて、一郎を診察していた吉次医師から身体状況を聞き、日赤医療センターでの検査結果の提示を受けるなどしていることに基づいて一郎を合併症患者ではないと判断したのであり、右判断を不合理とする特別の事情も認められず、原告ら主張の過失を認めることはできない。
六 結論
以上によれば、原告らの本訴請求は、いずれも理由がない。
よって、主文のとおり判決する
(裁判長裁判官宗宮英俊 裁判官石橋俊一 裁判官山﨑栄一郎)