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東京地方裁判所 平成5年(ワ)5749号 判決 1995年11月09日

原告

数野信男

右訴訟代理人弁護士

小川休衛

吉岡毅

被告

土屋久吉

森景剛

右訴訟代理人弁護士

山崎

主文

一  被告らは、原告に対し、連帯して、金一六八〇万円及びこれに対する平成三年四月二〇日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

二  訴訟費用は、被告らの負担とする。

三  この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一  原告の請求

主文同旨

第二  事案の概要

一  本件は、原告が、被告土屋に対し、同被告が売主の替え玉まで用意して原告に虚偽の売買契約を締結させ、原告から買付証拠金や手付金名下に一六八〇万円を詐取したとして、詐欺の不法行為による損害賠償を求めると共に、被告森景に対しては、売主と称した女性が替え玉であったことに気づかずに売主の代理人弁護士となって買付証拠金を代理受領し、本件売買契約締結の代理行為をした点について、主位的に売主本人からの代理権授与がなかったとして民法一一七条の無権代理人の責任を、予備的に本人確認義務違反の重過失があったとして民法七〇九条の不法行為責任を、それぞれ追及しているという事案であるが、中心的争点は、(一)被告ら主張のような、原告の反撃的な計画的詐欺があったのか、(二)被告森景の代理行為につき錯誤があり、無権代理人の責任が発生しないといえるのか、(三)被告森景に本人確認義務違反の過失(七〇九条)があるかという点である。

二  (原告の主張)

1  原告は、平成二年一〇月ころ、被告土屋に対し、別件物件目録記載の土地(以下「本件土地」という。)の買受交渉を依頼し、同年一一月二九日には右買収交渉の経費として金五〇〇万円を同被告に支払った。

2  原告は、平成三年二月、被告土屋から「買受けの交渉がまとまった。本件土地の所有者訴外細田千恵子が買付証拠金八〇〇万円を要求しているので準備してほしい。」旨の連絡を受けた。しかし、原告は、細田と面識がなかったことや、本件土地上には借地人所有の建物があり、明渡に不安があったことから、具体的な売買契約の履行を間違いなく進めるため、売主側に代理人として弁護士がつくことを取引の条件にしたいと被告土屋に伝えた。これに対し、被告土屋は、細田が買付証拠金の授受の場に弁護士を同行すると回答した。

3  平成三年二月二六日、原告は、買付証拠金八〇〇万円を用意し、指定された池袋メトロポリタンホテルに赴いたところ、被告土屋から、売主として細田千恵子なる女性を、その代理人弁護士として被告森景を、それぞれ紹介された。原告は、細田の印鑑証明あるいは権利証等の提示を求めたが、被告森景は戸籍謄本のようなものを広げ、本人に間違いないと述べ、さらに権利証については「登記のときには準備できる。今日はこの土地登記簿謄本で確認できればよい。」旨答えた。そこで、原告は、売買契約の内容を確認したうえ、買付証拠金八〇〇万円を被告森景に交付し、同被告はその預り証に細田の代理人として署名押印した。

4  平成三年四月一九日、池袋メトロポリタンホテルに、原告、原告の知人雨宮一三、被告土屋、同被告の補助者坂倉文夫、細田千恵子なる女性及び被告森景が集まった。そこで、原告は、売主細田の代理人である被告森景との間で、本件土地を六五七八万円で買い受ける旨の売買契約を締結し、被告森景が売主細田の代理人として、売買契約書に署名したので、原告は、被告森景に対し、約定の手付金二〇〇〇万円のうち、交付済みの買付証拠金八〇〇万円を手付金に充当した残りの手付金一二〇〇万円を支払った。

5(一)  原告は、残代金支払及び所有権移転登記日とされていた平成三年五月一五日までに残代金四五七八万円を準備していたが、売主において所有権移転登記の準備が整わないまま、右履行期が経過した。

(二)  原告は、被告土屋に対し、本件売買契約の履行をたびたび催告したが、具体的な進展がなく、被告森景に連絡しても要領を得ない回答しか得られなかったので、平成三年五月末日、売主本人の細田の電話番号を調べ、直接に電話したところ、細田千恵子本人は、本件売買契約のことを全く知らないとのことであった。

(三)  驚いた原告が調査していたところ、平成三年六月八日、坂倉が原告を訪ねて来て真相を告白した。その結果、被告土屋が原告を騙して金員を詐取するために、真実は本件土地所有者である細田及び借地人の佐藤慎太郎らが本件土地の売却や建物の明渡を承諾したという事実はないのに、これらがあるかのように虚偽の事実を原告に申し向け、右細田の売却承諾書や借地人の建物明渡同意書等を偽造して原告に交付し、細田の替え玉として女性(古谷ヨリ)を同行して本件売買契約書を作成させるなどして、原告をその旨誤信させ、もって、原告から買付証拠金名下に八〇〇万円を、手付金名下に一二〇〇万円を、それぞれ詐取したものであることが判明した。

6  原告は、平成三年七月二四日、被告土屋を本件詐欺罪で目白警察署に告訴したところ、同被告は、平成五年二月一二日付けで詐欺罪により東京地方裁判所に起訴された。

7  原告は、被告土屋から、買収交渉経費分四八〇万円と、買付証拠金のうち三二〇万円の合計八〇〇万円の被害弁償を受けたので、原告の損害は、一六八〇万円である。

8  (被告土屋の不法行為責任)

右のとおり被告土屋は、虚偽の売買名下に原告から金員を詐取したのであるから、原告に対し一六八〇万円の損害を賠償すべき民法七〇九条の不法行為責任がある。

9  (被告森景弁護士の責任)

(一) 民法一一七条の無権代理人の責任

被告森景は、本件土地所有者の売主細田の代理人として、買付証拠金八〇〇万円を代理受領し、売買契約を締結したが、細田と称した女性は替え玉であって、細田本人からの代理権授与はなかったのであるから、被告森景には、民法一一七条の無権代理人の責任がある。

(二) 民法七〇九条の不法行為責任

被告森景は、弁護士として依頼人から法律事務を受任するに際しては、依頼人が本人であることを確認すべき義務があり、依頼人名義を装った詐欺事件に加担することのないように注意すべき義務がある。本件においては、本件土地上の借地人が所有建物でクリーニング店を経営し、本件土地の明渡に不安があったために原告が売主側に代理人として弁護士をつけてほしいと要求したことは被告森景としても充分に認識し得た。そうであれば、被告森景は、依頼者が本人であるかどうかを充分に調査確認すべき注意義務があった。また、買受証拠金八〇〇万円の授受の際、原告は被告森景に対し、細田の身分を確認するために印鑑証明あるいは権利証等の提示を求めたのであるから、少なくとも手付金授受までの二か月の間には、細田本人の印鑑証明及び権利証を預かるか、少なくともこれらの書類を自ら直接見て確認すべき義務があった。さらに、電話で細田本人の意思確認をとることも充分にできたはずであり、そうすべき注意義務があった。

しかるに、被告森景は、細田と名乗る女性が細田本人であると軽信し、充分な本人確認もせずに漫然とその代理人となったのであるから、重大な過失がある。したがって、被告森景には、民法七〇九条の不法行為責任がある。

三  (被告土屋の主張)

1  原告から四八〇万円を受領したことはあるが、二〇〇〇万円を受領したことはない。二〇〇〇万円を受領したのは坂倉文夫と、細田の替え玉になった古谷ヨリである。

2  平成三年一月末ころには原告は本件売買が虚偽であることに気づいていた。そこで、原告は、追い銭二〇〇〇万円を払ってでも、弁護士を売主細田の代理人にし、後に民法一一七条の無権代理人の責任を追及することによって、資産のある弁護士から、交付済みの売買交渉費用も含めて回収しようと考え、被告土屋に対し売主に代理人弁護士をつけることを要求し、被告森景を売主の代理人にしたのであり、被告土屋は、そのことを後で原告から聞いた。したがって、被告土屋には責任がない。

3  原告は、坂倉文夫から五〇万円の弁償を受けているから、原告の損害が一六八〇万円ということはない。

4  被告土屋は、原告に対し、茨城県東村の物件に関して一一八〇万円の売買代金返還請求権があるので、本訴請求債権と対当額で相殺する。

四  (被告森景の主張)

1  原告の計画的詐欺を理由とする取消し

(一) 被告森景は、立会人のつもりで同席したのに、現金授受の直前に原告を含む出席者全員から売主の代理人になってくれと頼まれたので、買受証拠金の預り証と売買契約書に代理人として形式的に署名しただけであるが、これは、次のとおり、原告の計画的な詐欺である。

(二) 原告は、茨城県東村にある第三者所有の原野を自己の所有地と偽って被告土屋から一一八〇万円を詐取した。そこで、被告土屋が、右金員を取り戻すため、原告に対して別件民事訴訟を提起すると同時に、本件土地の売買交渉名下に、原告から金員を騙し取ろうとした。

(三) 被告土屋は原告から買収交渉費用名下に五〇〇万円を詐取した後、共犯者の坂倉や、細田の替え玉の古谷に対し、この詐欺を第三者に漏らさないようにさせていたが、坂倉に対して五万円か一〇万円程度の金しか渡さなかったため、これを不満に思った坂倉が、平成二年の一二月か平成三年一月初めころ、原告に対し、被告土屋による詐欺計画を打ち明けた。

(四) そこで、原告は、長年知り合いの弁護士小川休衛(本件原告訴訟代理人)に真相を打ち明けたところ、小川弁護士は原告の陰謀に呼応し、早速被告森景の資産を調査した。その結果、原告は、資力のある被告森景を売主の代理人につけさせれば、後に同被告に対して無権代理人の責任を追及する訴訟を提起することによって、交付済みの売買交渉経費五〇〇万円も含めて確実に回収できるものと考え、そのような計画を秘したうえ、売主に代理人弁護士をつけるよう被告土屋に命じたのである。そして、右計画どおり、騙されて代理人になった被告森景を相手に本件訴訟を提起しているのである。

(五) このように本件は、原告自身の被告森景に対する詐欺行為の一環なのであるから、被告森景は、細田との間の代理人受任契約を取り消すほか、買付証拠金八〇〇万円の代理受領行為及び本件売買契約の代理による意思表示を取り消す。したがって、被告森景には、民法一一七条の無権代理人の責任はない。

2  替え玉を本人と誤信した錯誤無効

被告森景は、古谷が細田の替え玉であるとは知らずに、同女が細田本人であると信じて売主の代理人となることを承諾したのであるから、買付証拠金の代理受領行為や本件売買契約締結の代理による意思表示には、いずれも要素の錯誤があり、錯誤無効である。よって、被告森景には、民法一一七条の無権代理人の責任がない。

3  民法七〇九条の無過失

(一) 前記1項のとおり、本件訴訟は原告による計画的詐欺の一環なのであるから、被告森景には、民法七〇九条の責任がない。

(二) 仮にそうでないとしても、次の(1)ないし(5)の各事情を総合考慮すれば、被告森景には、細田と称する女性が替え玉であることに気づかずに各代理行為をした点について、過失(民法七〇九条)はない。

(1) 被告森景と被告土屋との関係

被告森景は、昭和四六年七、八月に弁護士団の世界一周旅行に参加した際、榊純義弁護士が故障のため急遽同弁護士事務所の事務員であった被告土屋が弁護士団の旅行に例外的に参加し、長途の旅行中常に録音機を携帯して参加の弁護士から珍しがられ、人気者になったことから、同人を知ることとなった。それから約二〇年を経た平成二年一二月中旬に、建物二棟の明渡強制執行の立会いを、たまたま鈴木弁護士の事務員である被告土屋に委任したのが、彼に対する唯一の仕事の委任であった。被告土屋は、補助者として坂倉を同行し、忠実にその強制執行を手伝い、翌平成三年一月二二日に右執行を無事完了した。それから間もない一か月後に、被告森景は、被告土屋から本件売買取引の立会いを依頼されたのである。

(2) 被告森景の坂倉との関係

坂倉は右強制執行で被告土屋の補助者として同行していた者であって、年齢も約七〇歳位と高齢者であったから、被告森景は、同人と言葉も交わしたことはないが、普通のおとなしい人間だと思っていた。

(3) 細田の替え玉となった古谷ヨリの言動

細田の替え玉となった古谷ヨリは、五〇歳すぎのしとやかで貴品のある女性であったし、坂倉が、被告森景に対し、「只今、自分が細田千恵子さんを自宅まで迎えに行って連れてきました。」と話していた。また、細田は、住所・氏名・年齢を正しく答え、売買契約時には、原告側の雨宮から干支を尋ねられた際、正しく答えていた。

(4) 被告森景は、立会人のつもりで、買受証拠金と、手付金の授受の場に同席したのに、原告を含む出席者全員から細田の代理人になってくれと現金授受の直前になって頼まれたので、本件買受証拠金の預り証と、本件売買契約書に代理人として形式的に署名したにすぎない。

(5) 被告土屋から示された各関係書類の存在

被告森景は、被告土屋から、①原告が細田本人に直接に連絡しない旨の原告作成の念書(乙一の一)、②細田名義の売渡承諾書(乙一の二・公証役場の日付印があるもの)、③原告と被告土屋が共同して本件土地を地上げする旨の協定書(乙二)、④借地人名義の建物明渡同意書(乙三・公証役場の日付印と、鈴木弁護士名義の事実証明の署名押印があるもの)を示され、本件土地の売買交渉が本当に実在しているものと信じた。

五  (原告の反論)

1  仮に、被告森景に錯誤があるとしても、同人には重過失がある。

2  被告ら主張のように原告が詐欺を計画した事実は、全くない。

第三  争点に対する判断

一  裁判所が認定した事実経過

1  関係当事者の地位・関係

(一) 原告の地位・被告土屋との関係

原告は、農業を営み、病院の事務長をしている他(原告一頁)、不動産の売買もしており(原告一一回調書八頁三行目、乙六)、被告土屋と知り合ったのは、病院建設用地として原告が所有していた茨城県東村の土地に関する別件取引の際であった(乙一二)。

(二) 被告森景と被告土屋の関係

被告森景は、昭和四六年ころに弁護士会の世界一周旅行に参加した際、病気になった榊純義弁護士の代わりに同弁護士事務所の事務員であった被告土屋が例外的に参加したことから、同被告の顔を知るようになった。その後三、四年に一回裁判所の廊下で顔を合わす程度で付合いはなかったが、平成二年一二月中旬に執行官室で偶然会ったことから、建物二棟の明渡強制執行の立会いを被告土屋に委任した。被告土屋は、補助者として坂倉を同行して右強制執行に立ち会い、翌平成三年一月二二日には、右執行が無事完了した。その約一か月後に、被告森景は、被告土屋から本件売買の金額が大きいから是非契約書類を見てもらいたいと頼まれ、本件売買に関与するようになった(被告森景一ないし三項)。

(三) 被告森景と坂倉との関係

坂倉は、十数年前に府中刑務所で同じ在監者として、被告土屋と知り合った(坂倉一項)。被告森景は、坂倉が右強制執行で被告土屋の補助者として同行したため、知り合ったものであり、同人の年齢は本件当時で六九歳位であった(被告森景四項、坂倉四六項)。

(四) 被告土屋や被告坂倉の前科と、原告や被告森景の認識

被告土屋や被告坂倉は、いずれも相当数の詐欺罪等の懲役前科を有していることが窺われるが、原告も被告森景もそのことを、被告土屋の詐欺が判明するころまで、全く知らなかった(原告一二回調書二〇ないし二四項、坂倉一、四三ないし四五項、乙一一の一)。

2  本件土地の買取交渉依頼の経過

(一) 原告は、上野博久の紹介で、東武越生線東毛呂駅前に出物の土地があるというので、上野に依頼して三筆の土地を買収したが、予定された道路付けがうまくいかなかったため、病院建設用地として所有していた茨城県東村の土地に関する別件取引を通じて知り会った際に手際が良いと感じていた被告土屋に相談した。すると、同被告が右三筆の土地に隣接する本件土地等三軒の地上げ交渉をやってくれるというので、平成二年一〇月ころ、原告は、同被告に対し、本件土地等三筆の地上げを依頼した(甲一、乙一二)。

(二) 被告土屋は直ちに隣接の小峰、細田、柿沼らの売却承諾書(乙一の二は細田名義の売却承諾書で、坂倉が立会人として署名押印し、公証役場の確定日付があるもの)を持ってきたので、原告は、大変に手際がよいと感心した。その際、原告は、原告が売主らに直接に連絡すると地上げがうまくいかなくなると被告土屋から言われたので、同被告の要求に従い、「今後の手続や明渡等の諸問題を考慮し、原告から所有者らに対しては直接に面談を求めたり、電話をかけたりしないことを約束する。」旨の平成二年一〇月一一日付け念書(乙一の一)を作成し、同被告に差し入れた(甲一、原告一一回調書六、七頁)。

(三) 平成二年一一月二九日、原告は、被告土屋に対し、買収交渉費用として五〇〇万円を支払った(原告一一回調書三ないし八、一〇、一一頁)。その際、原告と被告土屋間において、「原告は被告土屋に対し本件土地等の買収交渉を依頼し、その費用として五〇〇万円を本日支払った。原告と被告土屋は連名で本件土地等の買主となる。その転売利益の分配は、原告四〇%、被告二〇%、売却の仲介者四〇%とする。」旨の平成二年一一月二九日付け協定書(乙二)が作成された。

(四) 原告は、平成三年二月、被告土屋から「地主の細田が買付証拠金八〇〇万円を準備してほしいと言っている。今まで何度となく買付けに来た人がいたが、いいかげんな話しであったから、きちんと買ってくれるならお金の準備をしてほしいとの申し入れがあった。」旨の連絡を受け、これを承諾したが、本件土地上には細田の親である借地人佐藤がクリーニング店を営んでいる所有建物があって、親子なのに姓が違い、佐藤には別に実子二人がいるなど複雑な親族関係の存在が窺われ、明渡の履行に不安があったため、売主に代理人弁護士をつけてほしいと被告土屋に伝えた(原告一一回調書一一ないし一三頁)。

(五) 被告土屋は、買付証拠金授受の二、三日前に、補助者の坂倉に対し、「細田の替え玉を用意して、買付証拠金を騙し取る。本件土地がたとえ買収できなくとも代替土地があるので詐欺にならない。」などと打ち明けた(坂倉四項)。

(六) 他方、被告土屋は、被告森景に対し、多額の売買取引なので二月二六日の買付証拠金の授受に立ち会って欲しいと頼み、同被告はこれを承諾した(被告森景五項)。

3  本件買付証拠金の授受(平成三年二月二六日)

(一) 平成三年二月二六日、被告土屋と坂倉は、池袋の喫茶店において、被告土屋の知人である古谷ヨリに対し、売主の細田になりきるために細田の住所・氏名・年齢をよく覚えるようにと言って戸籍謄本を手渡し、替え玉の予行演習をしてから、約束の池袋メトロポリタンホテルの喫茶室「すずかけ」に行った。その後、森景弁護士が来たので、古谷は、被告森景に対し、住民票と戸籍謄本を示し、自分が細田であると述べたが、被告森景からは何も尋ねられず、印鑑証明や権利証を見せて欲しいとは言われなかった(坂倉六ないし一〇項、乙四)。

(二) その後、原告が右喫茶室に来て、被告土屋が、原告に対し、売主の細田として古谷を、弁護士として被告森景を、それぞれ紹介した。原告は、被告森景が細田の代理人であることを明示的に確認はしなかったが、売主に代理人弁護士をつけてくれと事前に要望してあり、当日その場で弁護士を紹介されたので、てっきり同弁護士は細田の代理人であるものと信じ込んだ(原告一一回調書五四、五五頁)。

(三) 原告は、被告森景に対し、「大変失礼ですが、弁護士としての証明をお見せ下さい。」などと頼んだところ、同被告から、「昭和一八年当時の写真だけれども」などと言われて法衣をまとった身分証明書を見せられ、被告森景が弁護士であることを確認した(原告一一回調書一五ないし一七頁、坂倉一二項)。

(四) また、原告は、細田に対し、身分を証明する文書や、印鑑証明又は権利証等を見せて欲しいと頼んだが、細田は、自分は自動車の運転をしないなどと答えた。その際、被告森景が、戸籍謄本のようなものを広げ、「本人に間違いがない。」と述べ、権利証についても、「登記のときには準備できる。今日はこの土地登記簿謄本で確認できればよい。」などと答えた(原告一一回調書二〇頁、坂倉一三項、乙四)。

(五) そこで、原告は、買付証拠金八〇〇万円の現金小切手をテーブルの上に置き、被告森景に対し、「代理人として預り証に署名してほしい。そうでなければ買付証拠金は渡せない。」旨述べた。これに対し、被告森景は、「自分は立会人として同席しただけであるし、細田本人がいるのだから、今更私が代理する必要はないでしょう。」などと一旦は断わった。しかし、被告土屋や細田と称する古谷からも頼まれたため、これを承諾し、売主細田の代理人として預り証に署名押印し、原告に交付した(原告一一回調書二〇ないし二三頁、被告森景八、四六、七三項、乙四、五)。

(六) 被告森景は、被告土屋から、右買付証拠金授受の帰りに、報酬として二〇万円を受領した(被告森景五九項)。

4  本件売買契約・手付金の授受(平成三年四月一九日)

(一) 平成三年四月一六、七日ころ、「四月一九日に契約を実行したいので契約手付金として二〇〇〇万円を準備してほしい。八〇〇万円は買付証拠金を充当する。残り一二〇〇万のうち、一一〇〇万円は預金小切手で、残り一〇〇万円は弁護士先生への支払等もあるので現金にしてほしい。」旨の連絡が被告土屋から原告になされ、売買契約書案もファックスで送られて来て、原告もこれを了解していた(原告一一回調書二三、二四、二九、三〇頁)。

(二) 平成三年四月一九日、被告森景は、再度被告土屋から売買契約締結に立ち会うことを頼まれ、再び前記喫茶室「すずかけ」に赴いたところ、被告土屋、細田と称する古谷、坂倉がおり、坂倉が「今、細谷を自宅から連れて来た。」などと話していた(被告森景一三九項)。他方、原告は、大きい取引なので立会人として不動産業を営む知人の雨宮一三に同席してくれるよう頼み、右喫茶室に約一時間近く遅れて到着した(被告森景一二七項以下、原告一一回調書二四、二五頁)。右の原告が遅れて到着までの間、被告土屋は、被告森景に対し、①原告作成の細田本人に直接に連絡しない旨の念書(乙一の一)、②細田名義の売渡承諾書(乙一の二)、③原告と被告土屋が共同して本件土地を地上げする旨の協定書(乙二・公証役場の日付印があるもの)、④借地人名義の建物明渡同意書(乙三・公証役場の日付印と、鈴木弁護士名義の署名押印があるもの)を示し、売買交渉の経過を改めて説明したため、被告森景は本当に本件売買の話が進んでいるものと信じ込んだ(被告森景六〇ないし六四項、なお、この説明は二月二六日の買付証拠金の授受の前のことである旨被告森景は裁判所からの誘導的な質問に対して迎合的に供述したが、同人の供述は、一般に買付証拠金の授受の際の出来事と手付金授受の際のそれを混同していることが多くて不明瞭であるから、右の説明が手付金授受の際に原告が遅れて来るまでの四、五〇分の間の出来事であったとする古谷の陳述書(被告森景提出・乙四)の方が、たとえ原告の反対尋問に晒されていなくとも、充分に信用できるものと考える。)。

(三) 古谷は、雨宮から干支を尋ねられた際、酉年と正確に答えた。それから関係者間で売買内容が確認されたが、売買契約書の原文では被告森景の署名押印欄の肩書きが立会人となっていたので、原告と雨宮が被告森景に対し、弁護士バッジにかけて売主細田の代理人になってくれなければ手付金を払わない旨述べた。そこで、古谷と被告土屋が被告森景に対し代理人になってほしいと依頼し、当初は断わっていた被告森景も、被告土屋に対し、「土屋君、大丈夫だろうね。」と確認したら、「大丈夫です。」との返事を得たので、ようやく売主細田の代理人となることを承諾し、契約書の「立会人」という印刷文言を自ら抹消し、「代理人」と挿入記載したうえ、本件土地を代金六五七八万円で原告に売却する旨の本件売買契約書(甲二)に署名押印した(原告一一回調書五五、五六頁、乙四、五、七、一二)。

(四) そこで、原告は、被告森景に対し、約定手付金二〇〇〇万円のうち先に交付済みの買付証拠金八〇〇万円を手付金に充当した残りの手付金一二〇〇万円(小切手一一〇〇万円と現金一〇〇万円)を支払った。その際、原告は、買付証拠金の預り証を古谷に返還し、一三〇〇万円と七〇〇万円の二つに分けた領収証を古谷から受領した(原告一一回調書三〇、三一頁、被告森景一五七項、甲三、四)。

(五) 被告森景は、同日、被告土屋から報酬として三〇万円を受領した(被告森景一五一項)。

5  被告土屋による本件詐欺の発覚

(一) 原告は、借地権者の建物を平成三年四月三〇日までに買い取る契約を締結する約束になっていたが(甲二売買契約書・特約条項三)、それができないまま、五月上旬から被告土屋との連絡もとれなくなり、右履行期が経過した(原告一一回調書三三、三四頁)。そこで、原告は、被告森景に電話したが、「借地上建物の立退きは被告土屋がやっているから知らない。残代金の支払は五月一七日でどうかと被告土屋から連絡が入っているが、自分は都合が悪い。」などと言うだけだったので、平成五年五月二九日、細田本人の電話番号をNTTで調べてもらい、直接に電話したところ、細田本人は、本件売買契約のことを全く知らないとのことであった(原告一一回調書三五、三六頁)。

(二) 驚いた原告が雨宮に細田宅を訪ねてもらったところ、細田本人には会えなかったが、被告土屋が同じく売却承諾書を交付していた隣接地の小峰や柿沼らには直接会うことができて、確認したところ、いずれも売却を承諾していないし、承諾書に署名押印をしたこともないとのことであった(原告一一回調書三七、三八頁)。

(三) 同年六月四日、ようやく原告が被告土屋、被告森景、坂倉と会うことができ、被告土屋が同年六月一四日に二四八〇万円を原告に返還する旨の和解書を被告森景が作成した(原告一一回調書四〇頁)。

(四) 同年六月八日、坂倉が原告を訪ね、「実は、最初から被告土屋が原告を騙し、契約の経費とか手付金という名目で金をとろうとしたのである。自分もその一人である。申し訳ない。」旨告白した(原告一一回調書三九、四〇頁)。そこで、承諾書(乙一の二)のほか、建物明渡同意書(乙三)や、同書面中の鈴木弁護士の署名と職印もすべて被告土屋による偽造であることが判明した(乙一二、一三)。

6  被告土屋に対する告訴・公訴提起

原告は、平成三年七月二四日、被告土屋を本件詐欺罪で目白警察署に告訴したところ、同被告は、平成五年二月一二日詐欺罪で東京地方裁判所に起訴され、現在もその公判中である(弁論の全趣旨、原告一一回調書四一頁)。

7  原告の受けた損害

原告は、被告土屋から、買収交渉経費四八〇万円と、買付証拠金八〇〇万円の内金三二〇万円の合計八〇〇万円の弁償を受けたので、現在の損害は、一六八〇万円である(弁論の全趣旨)。

二  裁判所の判断

1  原告による計画的詐欺という被告らの主張について

「原告は、資力のある弁護士を売主側の代理人につけさせれば、後に同弁護士を相手に訴訟で無権代理人の責任を追及すれば、交付済みの売買交渉経費五〇〇万円も含めてすべての金員を回収できると考え、そのような計画を秘したうえ、売主に代理人弁護士をつけるよう被告土屋に命じ、騙されて代理人になった被告森景を相手にして、計画どおり、本件訴訟を提起している。」旨主張するが、原告が買付証拠金交付前に被告土屋の詐欺に気づいたというのであれば、新たに買付証拠金八〇〇万円や手付金一二〇〇万円を渡すはずもないのであって、前項認定の事実経過に照らしても、被告らの右主張事実は認められない。よって、被告森景の詐欺取消の主張や、原告の詐欺を理由に自らの不法行為責任を否定する被告らの主張は、理由がない。

2  被告土屋の不法行為責任

(一) 前記認定のとおり、被告土屋は関係書類を偽造したり、売主の替え玉を用意したりして、原告から買付証拠金や手付金名下に金員を詐取したのであるから、原告の損害を賠償すべき不法行為責任がある。

(二) 被告土屋は、「原告は、坂倉から五〇万円の弁償を受けているから、損害は一六八〇万円ではない。」旨主張し、坂倉の検察官調書(乙一二末尾)には、「被告土屋からの報酬二五万円に二五万円を足した合計五〇万円を原告に預けた」旨の坂倉の供述部分があるが、それは「預けた」というだけなので、弁済(弁償)したとまでは認定できず、他に右事実を認めるに足りる証拠はない。

(三) 被告土屋は、「自分は、原告に対し、茨城県東村の物件に関して一一八〇万円の売買代金返還請求権があるので、本訴請求債権と対当額で相殺する。」旨主張するが、反対趣旨の原告供述(原告一一回調書四五頁以下)に照らし、右相殺の自働債権の存在を認めることはできないので、同被告の右主張は理由がない。

以上によれば、被告土屋には、原告の受けた一六八〇万円の損害を賠償すべき七〇九条の不法行為責任がある。

3  被告森景の錯誤無効の主張について

前項認定の事実経過によれば、被告森景は、細田と名乗った女性が細田本人であることを当然の前提として、売主細田の代理人となることを承諾したものであり、これは原告も当然の前提にしていたのであるから、被告森景がした買付証拠金の代理受領や、本件売買契約締結の代理による意思表示には、要素の錯誤があり、錯誤無効が認められるというべきである。

そこで、被告森景の重過失の有無について判断するに、前記のとおり、①被告土屋や坂倉が被告森景や原告に対し、同席の古谷を細田本人であると紹介し、特に四月一九日には坂倉が「今、細田を自宅から連れて来た。」旨述べていたこと、②古谷も細田になりすまし、四月一九日には原告側の立会人雨宮から干支を聞かれた際に正確に答えていたこと、③被告森景は、被告土屋から、原告との協定書(乙二)、細田名義の売却承諾書(乙一の二)、借地権者の建物明渡同意書(乙三)などを見せられ、原告と被告土屋が共同買主として地上げをするという協定をし、既に原告が被告土屋に五〇〇万円を地上げ費用として交付済みであるなど両者が緊密な関係にあると思っていたこと、④右建物明渡同意書にはその事実を証明する旨の鈴木保弁護士名義の署名と職印の押捺部分があり、公証役場の受付印も押されていたこと、以上の事実が認められるのであるから、替え玉の古谷を細田本人と誤信した点について被告森景に重過失はないというべきである。

そうすると、無権代理人の責任の前提となる代理受領や代理による意思表示自体が錯誤無効によって法律上存在しなくなるので、被告森景には民法一一七条の無権代理人としての責任は発生しない。

4  被告森景の本人確認義務違反の過失による不法行為責任

右錯誤無効の重過失の判断における①ないし④の事実などに照らせば、細田と名乗る女性が細田本人であると被告森景が信じたのもある程度やむを得ないのではないかと窺わせる事情もない訳ではない。

しかしながら、一般に弁護士が法律事務に関して代理人を受任し、第三者と法律事務をするにあたっては、依頼者本人の意思に基づくものであるか否かを充分に確認すべき高度の注意義務があるというべきである。なぜなら、一般に弁護士が受任すれば相手方は本人とは直接交渉せずに、代理人弁護士を通じて交渉するのが社会的慣行になりつつあると言って差し支えないし、弁護士が代理人として活動するからには本人の意思に基づく依頼があるに違いないという相手方からの高い社会的信用が寄せられ、それによって弁護士は自由な活動が確保されているのであるから、その大前提として弁護士自身が依頼者本人の意思に基づく委任があるか否かを充分に確認し、替え玉などに騙されることのないようにしておくのが当然というべきだからである。

本件においては、前記認定事実によれば、(一)本件土地上には借地人の建物があり、複雑な親族関係の存在も窺え、地主の売却承諾書や借地人の建物明渡同意書の履行について不安が残るので、売主に代理人として弁護士をつけてほしいと原告が要求しており、そのことは、買付証拠金と手付金授受のときに、原告が直接に被告森景に対し、立会人ではなくて売主の代理人になってくれなければ金を払わないと明確に述べているのであるから、被告森景も、充分に認識できたはずである。また、(二)被告森景は、「弁護士」である自分が代理人になるからこそ、原告が最終的に八〇〇万円の買付証拠金や一二〇〇万円の手付金を交付するのだということを充分に理解していたはずである。さらに、(三)本件においては、今後の手続や明渡等の諸問題を考慮し、原告から所有者らに対して直接に面談を求めたり、電話をかけたりしないことを約束する旨の念書(乙一の一)が原告から被告土屋に差入れられており、原告が売主細田本人に連絡をとろうとしても、とれないという特殊な状態にあることを、被告森景自身も、被告土屋から右念書を見せられていたから、知っていたはずである。また、(四)被告森景は、買付証拠金の授受のときには二〇万円を、手付金授受のときは三〇万円を、それぞれ被告土屋から報酬として受領しているのだから、報酬受領の面からみても相当の注意義務を尽くしてしかるべきである。加えて、(五)本件取引は、いわゆる地上げであって、不動産取引のなかでもリスクのある取引といえるし、金額も六五七八万円と高額であるから、慎重に対応すべきであった。さらに、(六)本件の売却承諾書や建物明渡同意書には公証役場の日付印が押されているが、そのような公証印は、かえって法律関係を仮装するために悪用される事例も皆無とは言い難く、公証役場の印があるからといって文書の内容の真実性までも担保されないことは弁護士である被告森景ならば充分に理解できたはずである。

以上の(一)ないし(六)の事情その他前記認定の本件事実経過に照らすと、被告森景としては、本件売買が本当に実在するのかどうかを、僅か一回だけ執行の立会いを依頼した程度の被告土屋や坂倉に頼って判断するのではなく、自ら直接細田本人に電話するとか、鈴木弁護士に確認の電話をするとか、あるいは、細田と名乗る古谷に対しても保険証や権利証、印鑑証明などで依頼者本人であることを充分に確認すべき業務上の注意義務があったというべきであり、被告森景がそのような慎重な対応をしていれば、本件においては、本件売買について売主細田本人の承諾がなく、古谷が細田の替え玉であったことにも気づくことができたものと推認される。

しかるに、被告森景は、これらの注意義務を怠り、売主細田本人の承諾がなく、古谷が細田の替え玉であったことに気づかなかったのであるから、同被告には過失があり、原告に生じた一六八〇万円の損害を賠償すべき不法行為責任があると言わざるを得ない。右の結論は、弁護士に高度の注意義務を課することによって弁護士一般に対する高い社会的信頼を維持し、もって法律専門家である弁護士を通じて契約締結手続を円滑に実行させ、法律的紛争を迅速適正に解決させていくという見地に照らして、やむを得ないものと考える(なお、被告森景は、原告について様々な非難を加えているところ、裁判所から予備的に過失相殺の主張をする趣旨か否かという求釈明に対し、あくまでも自分には責任がないので、第一審においては、過失相殺の主張をしないと述べた。)。

よって、主文のとおり、判決する。

(裁判官齊木教朗)

別紙物件目録<省略>

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