東京地方裁判所 平成5年(行ウ)196号 判決 1994年2月14日
原告
水野坦
被告
稲城市長 石川良一
右訴訟代理人弁護士
村上守
主文
一 本件訴えのうち、被告に損害賠償を求める部分を却下する。
二 原告のその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第一 原告の請求
一 被告が原告に対し平成三年二月一五日付けでした老人保健法による医療費支給決定処分を取り消す。
二 被告は、原告に対し、金一万円を支払え。
第二 事案の概要
一 老人保健法(以下「法」という。)二五条一項一号は、市町村長は、医療保険各制度の被保険者のうち、七〇歳以上の者であって当該市町村の区域内に居住地を有するもの(以下「受給対象者」という。)に対し、医療を行うと規定している。他方、法三二条一項は、市町村長は、医療の支給を行うことが困難であると認めるとき等一定の場合に、医療の支給に代えて、医療費を支給する旨を規定している。
本件は、原告が、病院から支給を受けた薬剤の費用を右病院に支払ったことから、被告に対し、法による医療費の支給を申請したところ、被告が、支給決定額を零円とする旨の支給決定処分をしたので、原告が、被告に対し、右処分の取消しを求めるとともに、右処分によって精神的苦痛を被ったとして、損害賠償を求めている事案である。
二 本件処分の経緯等(この事実については、当事者間に争いがない。)
1 原告は、大正六年九月五日生まれ(平成二年一二月当時七三歳)であり、稲城市国民健康保険組合の被保険者である。
原告は、数年前から前立線肥大症を患い、稲城市立病院(以下「市立病院」という。)で診療を受けている。
2 原告は、平成二年一二月一三日、市立病院において、法による医療の支給として、泌尿器官用剤であるエビプロスタット及び血圧降下剤であるカルデナリン(以下、両薬剤を「本件薬剤」いう。)それぞれ一四日分ずつの支給を受けた。
さらに、原告は、右同日、同病院において、本件薬剤それぞれ六三日分ずつの支給を受け、その調剤報酬額合計三万五四〇〇円(以下「本件費用」いう。)を現金で支払った。
3 原告は、被告に対し、平成二年一二月一四日、本件費用について、法施行規則二二条に基づき、医療費の支給を申請したが、被告は、平成三年二月一五日、支給決定額を零円とする旨の決定(以下「本件処分」という。)をした。
そこで、原告は、東京都知事に対し、審査請求をしたが、同知事は、平成五年四月九日、これを棄却する旨の裁決をした。
二 争点
本件の争点及びこれに関する当事者双方の主張の要旨は、次のとおりである。
1 本件処分の適法性
(一) 被告の主張
法により支給される医療費の額は、法三〇条一項の医療に要する費用の額の算定に関する基準により算定した額から、法二八条に規定する一部負担金に相当する額を控除した額を基準として、市町村長が定めるものである(法三二条二項、三項)。
そして、厚生大臣は、法三〇条一項に基づき、「老人保健法の規定による医療及び特定療養費に係る療養の取扱い及び担当に関する基準」(昭和五八年一月二〇日厚生省告示第一四号、以下「本件基準」いう。)を定め、投薬の具体的方針について、投薬量は、予見することができる必要期間に従い、おおむね次の基準によるものとしている(本件基準二〇条三ホ)。
(1) 内服薬は、一回二日分を標準とし、外用薬は、一回五日分を限度として投与する。
(2) 帰郷療養等特殊の事情がある場合において、必要があると認められるときは、旅程その他の事情を考慮し、一回一四日分を限度として投与する。
(3) 別に厚生大臣が定める内服薬は、別に厚生大臣の定める疾患に罹患している者に対し、症状の経過に応じて一回三〇日分を限度として投与する。
また、「老人保健法の規定による医療及び特定療養費に係る療養の取扱い及び担当に関する基準に基づき厚生大臣が定める療養を定める等の件」(昭和五九年二月一三日厚生省告示第一六号)に基づく、平成四年三月七日厚生省告示第四一号による改正前の「厚生大臣の定める内服薬及び疾患」(昭和五九年二月一三日厚生省告示第一二号、最終改正平成二年三月一九日厚生省告示第四三号。以下「本件告示」という。)は、一回三〇日分を限度として投与を認める内服薬及び疾患を定めるとともに、新医薬品については、使用薬剤の購入価額(薬価基準)の別表への収載の日以後二年を経過する日の属する月の末日までの間は、本件告示を適用しない旨を定めている。
本件告示によれば、エビプロスタット及び前立腺肥大症は、一回三〇日分を限度として投与を認める内服薬及び疾患として定められていない。また、カルデナリンは、平成二年四月二〇日に新医薬品として薬価基準の別表に収載されたものであり、右の収載の日から二年を経過する日の属する月の末日である平成四年四月三〇日までの間は、本件告示が適用されない。
そうすると、本件薬剤は、帰郷療養等の特殊の事情を考慮しても、一回一四日分を限度として投与が認められるものであり、右の限度を超えて投与された分については、法による医療の支給の対象となるものではないから、医療費を支給する必要がない。
したがって、本件処分は適法である。
(二) 原告の主張
原告は、政府公用で長期間オマーンヘ出張している間、病状を悪化させないために、本件薬剤を毎日服用する必要があり、その分の薬剤は、日本から持参しなければ、他に確保する方法がなかったものである。
このように、原告は、やむを得ない理由により、必要があると認められる薬剤の支給を受け、その費用を支払ったのであるから、法三二条一項三号等からみても、法による医療の支給に代えて、本件費用相当額の医療費が支給されるべきである。
また、本件薬剤について一回一四日分の限度でしか投与を認めない本件基準及び本件告示は、合理性を欠くもので、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を保障する憲法二五条に反する。
したがって、本件処分は違憲、違法である。
2 損害賠償請求について
原告は、被告が医療費を速やかに支給しなかったことは違法であり、これにより、精神的損害を被ったとして、慰謝料として一万円の損害賠償を請求している。
これに対し、被告は、本件処分は違法である旨主張する。
第三 争点に対する判断
一 争点1(本件処分の適法性)について
1 法二五条一項は、受給対象者に対する保健事業として、診察、薬剤の支給、治療等の医療(法一七条)を行う旨を規定し、法二六条は、保険医療機関等及び保険医等は、厚生大臣が定める医療の取扱い及び担当に関する基準(法三〇条一項)に従い、医療を取り扱い、又は担当しなければならない旨を規定している。そして、受給対象者は、医療を受ける際、保険医療機関等に対し一部負担金を支払い(法二八条)、市町村長は、保険医療機関等に対し、医療に関する費用として、医療に要する費用の額の算定に関する基準(法三〇条一項)により算定した額から、右の一部負担金に相当する額を控除した額を支払うものとされている(法二九条一項)。
他方、法三二条一項は、<1>医療の支給を行うことが困難であると認めるとき(同項一号)、<2>やむを得ない理由により保険医療機関等以外の病院等について診療、薬剤の支給又は手当を受けた場合において、必要があると認めるとき(同項二号)、<3>保険医療機関等について診療、薬剤の支給又は手当を受け、やむを得ない理由によりその費用を当該保険医療機関等に支払った場合において、必要があると認めるとき(同項三号)に、医療の支給に代えて、医療費を支給する旨を規定している。そして、右の場合に支給する医療費の額は、医療に要する費用の額の算定に関する基準(法三〇条一項)により算定した額から、一部負担金に相当する額(法二八条)を控除した額を基準として、市町村長が定めるものとされている(法三二条二項、三項)。
このような法のしくみにかんがみると、法は、保健事業として、医療の支給を行うことを原則としつつ、それを補完する制度として医療費の支給を認めているものであって、医療費の支給は、本来法によって支給されるであろう医療に対応する費用について、金銭給付をするものであるというべきである。
2 ところで、厚生大臣は、法三〇条一項に基づき、医療の取扱い及び担当に関する基準として、本件基準及び本件告示を定めており、これによって法により支給される医療の範囲が定まることになる。
本件基準の定める投薬の具体的方針における投薬量の基準は、第二の二1(一)記載のとおりであり、特殊な事情がある場合においても一回一四日分の投与が限度とされ、別途厚生大臣の定める内服薬及び疾患に限り、一回三〇日分を限度として投与が認めれることになる。
そして、本件告示によれば、泌尿器官用剤であるエビプロスタット及び前立腺肥大症は、一回三〇日分を限度として投与を認める内服薬及び疾患として定められていない。また、カルデナリンは、本件告示に定める血圧降下剤であるが、平成二年四月二〇日厚生省告示第九九号により、使用薬剤の購入価額(薬価基準)の別表に収載されたものであるから、右の収載の日から二年を経過する日の属する月の末日である平成四年四月三〇日までの間は、本件告示が適用されないものである。
そうすると、法により支給される医療としては、本件薬剤に関していえば、いずれも、原告の特殊事情を考慮したとしても、一回一四日分の限度での投与に限られていることになる。そして、それを越えて投与された部分については、法に定める医療の支給範囲を超えるものであるから、医療費を支給する必要はないというべきである。
したがって、右部分について医療費を支給しなかった本件処分は適法である。
3 これに対し、原告は、やむを得ない理由により、必要があると認められる薬剤の支給を受け、その費用を支払ったのであるから、法による医療の支給に代えて、本件費用相当額の医療費が支給されるべきである旨主張する。
もとより、老人医療は、患者の健康の保持増進上妥当適切に行われなければならないものであることはいうまでもないが、その保健事業の範囲は、あくまで法に定めた範囲内で行われるものであるところ、前記のとおり法の定めた医療の支給範囲を超えるものについては医療費を支給する必要がないというべきであり、また、法三二条一項三号は、本来医療の支給がなされる場合にやむを得ない理由により医療費を支払ったときの医療費の支給に関する規定と解すべきであって、法の定める医療の支給範囲を超えた薬剤の支給については適用がないというべきであるから、原告の右主張は失当であるというべきである。
4 また、原告は、本件薬剤について一回一四日分の限度でしか投与を認めない本件基準及び本件告示は、合理性を欠き、健康な生活を保障する憲法二五条に違反する旨主張する。
そこで、この点について検討するに、本件基準は、長期にわたり診察をしないで同一の薬剤を投与すれば、患者の症状が改善あるいは悪化したにもかかわらず、漫然と従前の投薬を続けることになりかねないことにかんがみ、投薬は、必要があると認められる場合に、患者の症状の経過に応じて行われるべきであるとして、その限度を定め、もって、妥当適切な医療の支給を図ろうとしたものである。
もっとも、長期にわたり患者の症状が安定し、継続的な薬物療法を必要とする場合もあることから、本件基準及び本件告示は、対象疾患及び薬剤の分類を指定し、一回三〇日分の限度で投与できる場合を定めたものである。ただし、新薬については、薬事法による承認前には予測されなかった副作用等が発現する可能性があることを全く否定することができないことから、医師が継続投与の可否を随時判断することが妥当適切であるため、一定期間、本件告示の適用を認めないことにしたものである。
本件基準及び本件告示は、以上のような見地から定められたものであり、その定めるところには合理性があるというべきであるから、これをもって違憲ということはできないというべきである。
なお、原告は、長期海外出張をするに当たり、日本から持参しなければ、他に本件薬剤を確保する方法がない旨主張する。確かに、外国において、必要な薬剤の入手が困難なこともあり得るであろうが、必ずしも入手できないわけではなく、原告は、外国の医療機関において薬剤の支給を受け、法三二条一項二号により医療費の支給を受ける方法も取り得るのであるから、他に本件薬剤を確保する方法がないとまでいうことはできない。
したがって、原告の右主張は採用することができない。
二 争点2(損害賠償請求)について
原告は、被告が医療費を速やかに支給しなかったことは違法であるとして、被告に対して損害賠償を請求しているが、被告である稲城市長は。行政機関にすぎず、権利主体とはなり得ないものであるから、被告に対して損害賠償を求める訴えは、不適法なものといわざるを得ない。
三 よって、本件訴えのうち、被告に対して損害賠償を求める部分は、不適法であるからこれを却下すべきこととなり、原告のその余の請求は、理由がないからこれを棄却すべきこととなる。
(裁判長裁判官 秋山壽延 裁判官 竹田光広 森田浩美)