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東京地方裁判所 平成6年(ワ)13930号 判決 1998年5月14日

原告

河合恒男

右訴訟代理人弁護士

椎名麻紗枝

右訴訟復代理人弁護士

富田真美

被告

田淵節也

外一三名

被告一四名訴訟代理人弁護士

手塚一男

大江忠

主文

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一  請求

被告らは、訴外野村證券株式会社(以下「野村證券」という。)に対し、金一六〇億円及びこれに対する平成六年九月一五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事実関係

一  事案の概要

原告は、野村證券の株主であるが、同社が一部の顧客に対して合計一六〇億円のいわゆる損失補填を行ったことにつき、当時の代表取締役であった被告らに対し、被告らが、証券取引法及び私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(以下「独占禁止法」という。)に違反し、取締役としての善管注意義務等を怠り、これにより野村證券に損害を与えたものであると主張して、商法二六六条一項五号の規定に基づき右損失補填額に相当する金額の損害を野村證券に賠償すべき義務があるとして、その支払いを求めた。

主な争点は、右損失補填が商法二六六条一項五号に定める法令又は定款に違反するか否かである。

二  当事者間に争いのない事実(明らかに争わない事実及び掲示の証拠によって補完される事実を含む。)

1  当事者

原告は、平成五年九月二九日以降、野村證券の株式一〇〇〇株を保有する株主である。

被告らは、平成元年六月一日から平成三年六月三〇日までの間(被告岩崎輝一郎については始期平成元年六月二九日、同福島吉治については終期平成三年六月二七日、同吉田真幸については終期同月二六日)、野村證券の代表取締役の地位にあった者である。

野村證券は、有価証券の売買、有価証券指数等先物取引、有価証券オプション取引及び外国市場証券先物取引(以下「有価証券の売買等」という。)、有価証券の売買等の媒介、取次ぎ及び代理並びに有価証券市場における有価証券の売買等の委託の媒介、取次ぎ及び代理等を営む株式会社である。

2  損失補填

(一) 野村證券は、平成二年当時、日立製作所、エムアイエフ、上新電気、コマツ、日本石油、ミズノ、宮城県信用農業協同組合連合会、神鋼リース、リファイン、京都市職員共済組合、神戸市職員共済組合、甲斐信用組合、スタンレー電気、エーザイ、西日本銀行、福岡県信用農業協同組合連合会、肥後ファミリー銀行、日東電工、西芝電機、ホロンシティ、石橋産業、太陽酸素、住友金属工業、碧海信用金庫、焼津信用金庫、名鉄総合企業、兵庫県信用農業協同組合連合会、新日本工販、日航リース、東洋紡ファイナンス、大林組、ツガミ、TOKAI、愛媛県労働金庫、ユニチカ、京都府信用農業協同組合連合会、昭和産業、大阪商船三井船舶、土浦信用金庫、フソウファイナンス、東京商銀信用組合、アイ・エス・エンタープライズ、荒川信用金庫ら(企業名は略称による。)との間で、営業特金による取引を行っていた。

右にいう営業特金による取引とは、委託者が受託者たる信託銀行に対して運用方法を指定して金銭を信託する特定金銭信託契約に基づく勘定を利用した取引(以下「特金勘定取引」という。)のうち、委託者が投資顧問業者と投資顧問契約を締結することなく、有価証券の売買等により信託財産の運用がされる取引をいい、本件における営業特金による取引においては、顧客である委託者の指図に従って、受任者である信託銀行が野村證券に対して有価証券の売買等を発注し、野村證券は、右委託者に対して、有価証券等の売買に関する指示、助言及び情報の提供をしていた。

(二) 野村證券は、平成二年三月一三日、被告らが出席した専務会において、前記四三ほか一法人に対して、有価証券の売買その他の取引等につき、当該取引等について生じた顧客の損失の全部又は一部を補填すること(以下「損失補填」という。)を決定し、あわせて有価証券の売買等の取引による損害賠償債務を負っていると判断された個人顧客一名(葉山雅章)に損害の一部を賠償することとし、同年三月末、営業特金を解消する際に、一六一億円の損失補填(前記個人顧客に対する損害賠償分を含む。以下本件における損失補填を「本件損失補填」といい、個人顧客に対する損害賠償分を併せて「本件損失補填等」という。)を行った。その方法は、野村證券と各顧客との間で、同年三月中旬から下旬の間に、ワラント債、国債の売買及び国債の先物売買を証券取引所外において相対で行い、その売買益を顧客にもたらすもの(以下「本件ワラント取引等」という。)であった。

3  公正取引委員会の勧告

公正取引委員会は、平成三年一一月二〇日、野村證券に対し、同社が顧客との取引関係を維持し、又は拡大するために損失補填等を行ったことについて、不公正な取引方法(昭和五十七年公正取引委員会告示第一五号)の第九項に該当し、独占禁止法一九条に違反するとして、同法四八条二項の規定に基づき、今後損失補填等を行わないこと等を内容とする勧告を行った(乙五)。

4  大蔵省証券局長による通達等

(一) ところで、大蔵省は、同証券局長による社団法人日本証券業協会会長宛の平成元年一二月二六日付け「証券会社の営業姿勢の適正化及び証券事故の未然防止について」と題する通達(以下「本件通達」という。)により、証券会社の営業姿勢における大口顧客等に対する損失補填等の事例が、一般投資者の証券取引についての公平感や証券市場に対する信頼感を損なうものであり、証券取引の公正性や証券市場の透明性の確保の観点から、証券会社の営業姿勢の適正化が強く要請されているなどとした上で、法令上の禁止行為である損失保証による勧誘や特別の利益の提供による勧誘は勿論のこと、事後的な損失の補填や特別の利益提供も厳にこれを慎むこと、特定金銭信託に基づく勘定を利用した取引について、原則として、顧客と投資顧問業者との間に投資顧問契約が締結されたものとすること等を、同協会所属証券会社に周知徹底するよう指示した(乙一)。

また、右通達の趣旨を徹底するため、同日付けの大蔵省証券局業務課長による各財務(支)局理財部長宛の「「証券会社の営業姿勢の適正化及び証券事故の未然防止について」通達の徹底について」と題する事務連絡(以下「本件事務連絡」という。)により、特金勘定取引については、運用が証券会社に一任されたり、利回り保証や特別の利益提供等の不適正な営業行為が生ずるおそれがあるとして、証券各社に対し、①平成元年一二月末現在における特金勘定取引の業態別口座数、残高及びその管理体制について調査を行って実情を把握するとともに、②特金勘定取引に係る口座については、口座開設基準を設けること、口座を開設する場合は、顧客の属性、資産の状況、有価証券投資経験の有無、口座開設の理由、当該口座における運用資産規模及び信用形態等を記載した書面を顧客から受け入れること並びに一定の基準を満たす顧客との間で、運用に当たり売買一任勘定取引、利回り保証、特別の利益提供等の行為は行わない旨の書面を取り交わし、所定の社内手続を経た場合を除き、顧客が当該取引について投資顧問会社と投資顧問契約を締結していることを確認することを内容とする措置を講じ、さらに、既存の特金勘定取引については、平成二年末までに右②の措置を講ずるよう指導するものとされた(乙二)。

(二) 本件通達等の発出を受けて、社団法人日本証券業協会は、その作成に係る公正慣習規則九号「協会員の投資勧誘、顧客管理等に関する規則」に一箇条を新設し、協会員たる証券会社は「損失保証による勧誘、特別の利益提供による勧誘を行わないことはもとより、事後的な損失の補填や特別の利益提供も厳にこれを慎むものとし、取引の公正性の確保につとめるものとする。」と定めた。

三  争点に関する当事者の主張

1  総論

(原告の主張)

被告らのした本件損失補填等の行為は、法令又は定款に違反するから、被告らは、商法二六六条一項五号の規定により野村證券が蒙った損害について賠償すべき責任がある。

(被告らの主張)

本件損失補填等の行為は、法令又は定款に違反しないことはもとより、その行為によって野村證券には損害が生じていない。

2  証券取引法違反について

(原告の主張)

(一) 野村證券は、本件営業特金による取引をするに当たり、管理、運用上生じた損失の全部又は一部を負担することを少なくとも黙示的に約束していた。

(二) 平成三年法律第九六号による改正前の証券取引法(以下「旧証券取引法」という。)が、明文の規定をもって勧誘行為を伴わない事後の損失補填を禁止していなかったとしても、同法五〇条一項三号の趣旨、証券取引法の目的、日本証券業協会の公正慣習規則に照らして、勧誘行為を伴わない損失補填も禁止されなければならない。したがって、本件損失補填が損失保証ではなく、勧誘行為を伴わない事後の損失補填であったとしても、同号が禁止する行為に含まれると解さなければならない。

なお、日本証券業協会が定める規則は、もとより法的拘束力をもつ。

(三) 事後の損失補填が旧証券取引法五〇条一項三号には含まれないと解しても、旧証券取引法五八条一号の「不正の手段、計画又は技巧」に該当する。

同号は、証券市場において証券取引につき自己責任を負う投資家が真剣な投資判断を行うことによって適正な価格形成が行われるという証券市場の基盤を崩すような不正あるいは証券取引法制を否定するような本質的部分に関わる違法行為を禁止するものであり、損失補填は、同号に該当する。

(四) 本件ワラント取引等に係るワラントの売買は、公正な価格で売買することが求められているにもかかわらず、相対取引でワラントを売却して直ちに約五倍の価格で買い戻すという不公正な取引であるとともに、あらかじめ数倍に騰貴することの断定的な提示に基づく取引であり、旧証券取引法五〇条一項一号に違反するとともに、理由のない利益提供を目的として正常な取引を仮装した不正な手段による有価証券取引であり、同法五八条一号にも違反する。

(被告らの主張)

(一) 野村證券又は被告らが、本件損失補填につき、あらかじめ損失保証の約束をしていたことはない。

(二) 旧証券取引法五〇条一項三号は、損失保証の約束の禁止を定めるにとどまり、事後的な損失補填の禁止を定めるものではない。

(三) 旧証券取引法五八条一号にいう「不正の手段、計画又は技巧」に該当するというためには、証券取引について欺罔行為とそれによる錯誤が不可欠であるが、本件損失補填に関しては、欺罔行為あるいはそれによる錯誤は存在しないのみならず、立法の経緯に照らしても、そもそも損失補填が同号に違反することはない。

(四) 本件ワラント取引等に係るワラントの売買は、野村證券と各顧客との間で、証券取引所外において相対取引で行われたものである。そのうち、外貨建ワラントは、ルクセンブルク証券取引所に上場されているもので、その取引の大部分は証券会社の店頭における相対取引により行われているものであり、しかも、右ワラントの売買は、野村證券を含む全てのマーケットメーカーが、既に実質的な価格形成を終了させ、ルクセンブルク証券取引所においても全く行われていなかったもので、市場価格自体が実質的に存在していないから、右ワラントの売買は、市場における価格形成を歪めていない。

3  独占禁止法違反

(原告の主張)

本件損失補填は、不公正な取引方法に該当し、独占禁止法一九条に違反するから、商法二六六条一項五号の法令の違反に当たる。

(被告らの主張)

本件損失補填は、独占禁止法一九条に違反する違法行為であっても、その違法行為によって損害を蒙る被害者は、野村證券の競争者であって野村證券ではなく、野村證券の利益を図ってされたことが明白な行為であり、しかも野村證券に対して何らの損害をも与えていないから、商法二六六条一項五号の予定する法令違反の行為には当たらない。

また、被告らは、本件損失補填を決定し実施する時点において、それが独占禁止法に違反することの認識はおろか違反する可能性があることの認識すら全く有していなかったのであり、被告らに本件損失補填に独占禁止法違反の問題があるとの認識が欠如していたのはやむを得ないことというべきである。すなわち、本件損失補填は、野村證券と各顧客との特定の証券取引関係の中で行われたものであり、一般の顧客に対して取引を勧誘するような性質のものではなかったことから、被告らにとっては、不当な利益をもって競争者の顧客を自己と取引するように誘引する不公正な取引方法に該当するものとは念頭にも浮かばなかった。

4  善管注意義務又は忠実義務の懈怠

(原告の主張)

(一) 被告らは、取締役としての善管注意義務又は忠実義務を怠った。被告らは、証券取引法の目的に従って規制される公共性の高い証券会社の取締役として、その経営判断において一般企業における取締役とは異なり、広い範囲の裁量権を有するものではない上、本件通達により損失補填が禁止された状況において、これに違反して本件損失補填をしたもので、職務の誠実で公平な遂行という証券会社の仲介業者としての行動基準をないがしろにしたこと、本件損失補填は、市場参加者としての一般投資家を無視して一部の大口顧客のみを優遇したものでその選別自体合理的理由もない理不尽な行為であり、市場の担い手たる公共的責務を自ら放棄し、市場の公平な価格形成を歪曲して市場を混乱に陥れる行為であって、証券業における正常な商慣習に反すること、本件ワラント取引等はその態様からして通常の企業活動から逸脱した行為で正常な取引行為ということのできないものであって、会社の健全性を損なうことから、被告らによる本件損失補填は、経営上の裁量権を全く逸脱するものである。

(二) 被告らは、全体として会社が利益を増大させ、損失を予防できるならば、会社の利益の確保という目的は実現されることになるというのみで、野村證券の利益になることについて具体的に主張しない。

また、被告らは、顧客から、損失補填の要求を受けたり、損失補填をしないことによる今後の取引に対する危惧を示唆されたこともなく、顧客において営業特金口座の解消に伴う損失があるとしても、株価の暴落という予期できない現象の影響によるものであり、他の金融機関に資産運用を委ねたところで損失が回復するものでもないことは顧客も知っていたのであるから、損失補填をしなければ顧客との取引がなくなるというのは抽象的な危険にすぎず、損害が発生する具体的危険はなかったにもかかわらず、被告らは、各店舗からの大雑把な報告のみによって具体的危険があるものと過った判断をした。

(被告らの主張)

(一) 会社は、継続的な企業として、営業活動を行うものであって、全体としての利益の追求のために、時として個々の取引において一時的な損失を甘受しなければならないことがあるのは当然であるから、取締役が長期的な判断に基づき企業経営において容認しうる程度の一時的な損失をもたらす取引を行ったとしても、それがために取締役として要請される注意義務に違反するものとして損害賠償の責任を問われるものではない。

(二) 本件損失補填等は、当該状況下において、長期的な取引関係の維持・拡大の観点から、会社の最良の利益になるとの判断によりされたものである。

本件通達は、営業特金口座をできるだけ早く解消することを主眼とするものであり、被告らにおいても、右通達の方針に従うべきであると考え、早期に営業特金口座の解消を図ることとした。そこで、野村證券において、被告水内が、営業特金口座の総点検の担当者となり、関係各部署に対し、右通達の趣旨に則って早期にその解消を図ることを指示した。右指示を受けて、各営業部店の担当者により顧客と営業特金口座の解消等のための交渉が開始されたが、折からの株式相場の大暴落もあり、顧客から、運用実績に対する不満及び営業特金口座の早期解消による評価損が表面化して損失が発生することとなる等の苦情が顕在化してきたために、部店長は、被告水内に対し、営業特金口座の解消をするのに伴って損失補填が必要となる旨報告した。被告らは、担当部店からの申出や右の報告を基に、損失補填もやむを得ないものとして了承した。また、本件損失補填について、被告らは、前記のとおり、決定の過程で独占禁止法に違反する旨の認識を持たず、また認識を持たなかったことはやむを得ないものというべきであるから、同法に違反することがあったとしても、善管注意義務又は忠実義務を懈怠したことにはならない。

5  定款違反

(原告の主張)

本件損失補填等は、本件ワラント取引等の態様からしておよそ営利を追求する会社の行為として正常な取引行為ではなく、会社の事業目的を定める定款に違反する。

(被告らの主張)

本件ワラント取引等は、野村證券の定款が定める目的に照らして、有価証券の売買に含まれるものであり、また、野村證券の長期的な利益を図るために行われたものであり、定款所定の目的外行為であるとの原告の主張は失当である。

6  損害

(原告の主張)

野村證券は、本件損失補填等により、補填額に相当する一六〇億円の損害を蒙ったほか、営業の自粛による損害を蒙り、また本件損失補填によって証券市場の公正に対する会社の信頼を喪失させ、証券取引を低迷させ、もって減益を余儀なくされるとともに、株価の低迷を引き起こした。

(被告らの主張)

被告らは、本件損失補填によって、野村證券に損害を与えていない。

本件損失補填のうち、前記の個人顧客一名を除く四四法人に対する補填額は、一四二億二二三七万円であったが、その後平成九年六月末までの間に、野村證券は、運用手数料として合計九八億〇〇五六万円、ファイナンス手数料として合計三六億三二〇九万円の総計一三四億三二六五万円の利益を得ており、その後もファイナンス及び運用の各手数料による利益が見込まれる状況にある。

第三  当裁判所の判断

一  証拠(甲一、甲二、甲一五、乙三から五まで、乙八、乙一〇、被告水内靖裕本人、弁論の全趣旨)によれば、次の事実が認められる。

1  野村證券は、わが国の四大証券会社の一つであるが、昭和五五年ころから、経済環境が金融緩和策等により順調に推移し、株式市場においても積極的な資金運用がされるに伴い、そのころから営業特金を中心とした有価証券の売買等による資金運用に係る取引の取扱高の拡大に努めていた。

2  ところで、わが国の株式市場は、昭和六二年一〇月一九日のニューヨーク株式取引所における大暴落の余波を受けて、翌二〇日に暴落したが、その後株価は上昇に転じ、高値の更新を続け、平成元年一二月二九日には史上最高値を記録した。ところが、翌二年一月以降再び下落に転じ、三か月の間に二八パーセントも暴落した。

3  野村證券は、株式市況に応じて資金運用等の業務を遂行していたところ、昭和六二年の市場の急変により、顧客の営業特金等に損失が発生するなどの影響が現れたため、取引上重要な一部の顧客に対して、担当部長等の判断によって損失補填等を行うこととした。

4  平成元年には、株式市場は活況を呈することとなったが、同年一一月に他の大手証券会社による大規模な損失補填が行われたことが明らかになったことに伴い、同年一二月二六日、本件通達及び本件事務連絡が発せられた。

5  野村證券においては、その頃代表取締役専務である被告水内が営業部門を所管して営業特金口座の運営を担当していたところ、同被告は、営業特金による取引については運用上適正さを欠きやすい等の問題点があることを認識していたものの、本件通達及び本件事務連絡の発出を受け、本件通達等が営業特金口座について投資顧問契約の締結によるか、あるいは営業特金口座を解消するかのいずれかの選択を求めるとともに、その取引実態の総点検を行ってその結果を平成二年三月までに報告するよう指導している趣旨であると理解し、その趣旨を役員らに徹底させ、必要な社内規定を改めた上、翌二年の初頭、全店に向けて文書で右趣旨を連絡するとともに、右改定規定を配布した。

そして、同被告は、同年一月、代表取締役で構成される会で実質的に野村證券の意思を決定する定例の専務会において、右通達の趣旨を説明するとともに、速やかに営業特金口座の総点検を実施し、その解消を図るべき旨の報告を行った。同専務会においては、その構成員である代表取締役の全員が、これを了承するとともに、営業特金口座の点検と併せて全営業部及び全営業店における取引上の問題のある口座の点検も同時に行うべきことを合意した。

6  そこで、被告水内は、営業考査部、検査部及び総務企画部等の管理部門の長に対し、本件通達等の趣旨の徹底を図るとともに、営業特金口座及び取引上の問題のある口座の総点検並びに営業特金による取引の解消を速やかに推進するよう指示した。

右指示を受けて、各営業部及び営業店において、同年一月から二月にかけて、取引担当者を通じ、顧客との間で、営業特金口座等の総点検とその適正化あるいは営業特金による取引の解消のための交渉を開始した。ところが、顧客にとっては、投資顧問契約の締結については、投資顧問会社自体が設立されて間もなかったために、馴染みがなく、従来から証券会社の情報提供に依拠していた上、手数料の負担を余儀なくされるため、その選択には消極的であり、本件事務連絡にいう確認書の受入れについては、そもそも契約関係が存在しないにもかかわらず、取り交わすことにはためらいがあり、しかも折からの株価の急落も与っていずれの方法についても受け入れ難かった。その上、営業特金口座に係る顧客からは、運用実績や運用方法、あるいは折からの株価の急落により取引の早期解消に伴う予想を超えた評価損の発生等に対する苦情が寄せられ、部長又は店長による交渉によっても妥結に至らないものが多数出てきた。

部長又は店長は、右のような状況及び当該顧客が野村證券にとって極めて重要な取引先であって取引の維持又は拡大が将来の利益の拡大のためにも必要である旨を担当役員及び担当本部長に報告した上、指示を受け、あるいは両者間で検討会議を重ねるなどしてさらに交渉を進めた。被告水内においても、行政当局から本件通達等による作業の進捗状況について頻繁に問い合わせがあったこともあり、担当役員に対し、営業特金口座を解消するように交渉に一層努めるように指示をしたが、一方、担当役員においても、各顧客ごとに、過去の取引状況、今後見込まれる取引による収益の状況、苦情の内容等により重要度の高い顧客を選別した結果、最終的に、損失補填をしない限り営業特金口座の解消が不可能なもの及びそれ以外の口座で運用上の問題が発見され損失補填が必要なものが四九件あるとの報告をするに至った。

なお、顧客から主幹事証券会社の地位を得ることにより多額の引受手数料などの収入を得ることができるため、証券会社間で主幹事証券会社になることについて競われ、したがって、顧客の重要度の選別に当たっては、各証券会社は、このような関係にある顧客との取引関係の維持・拡大に努めるといわれている。

7  被告水内は、自らは事後の損失補填は法令による規制の有無にかかわらず許されないものと考えていたものの、営業特金口座等の総点検を進める過程で営業特金口座の解消のためには投資顧問契約の締結や確認書の受入れは困難であり、折からの株価の急落の状況下ではますます顧客からの苦情が顕在化し、紛争の発生や拡大を未然に防止するとともに、取引を維持継続するために損失補填をせざるを得ないと判断し、前記のとおり、同年三月一三日に開催された専務会において、その旨及び損失補填せざるを得ない件数が四五件、補填必要額が一六一億円強になることを報告し、自らの意見として、株式相場の更なる下落が予想される現状においては、損失をできる限り抑えるためには一刻も早く営業特金口座を解消するとともに、顧客との取引関係の将来にわたる維持又は拡大を図るべきであり、そのためには損失補填を行うことがやむを得ないと考える旨を述べた。その際、被告水内は、顧客の名や苦情の内容等については、具体的に報告しなかった。

被告ら専務会の構成員全員は、相場の下落の状況下において、一刻も早く営業特金口座を解消し、損失の拡大を防ぎ将来への禍根を断つため、また、それによって顧客との取引関係を維持、拡大して長期的な利益の獲得を図るためやむを得ざる措置として、損失補填を行うことを了承した。

なお、葉山雅章に対する損害賠償については、かねてより取引上発生した損害について紛争があり、平成二年に三〇億円余の損害賠償の請求がされたため、野村證券検査部において調査した結果、適切を欠くことが認められたので、一九億円を支払うことで和解することとなり、前記専務会で被告水口からその旨報告がされた。そして、同年三月二九日和解契約が締結され、その支払いがされた。

8  右専務会の結果を受けて、被告水内の担当のもとで、損失補填が実施された。同被告は、本件損失補填の実施に当たって、市場における価格形成を阻害して他の顧客に迷惑をかけることのないように自社の在庫で店頭取引により行うことのできる商品を用いること及び通常の取引と明確に区別して行うことを事務当局を通して指示した。

そして、前記のとおり本件損失補填がされた後、野村證券は、平成二年三月に、大蔵省に対し、本件通達に基づく報告をしたが、その際併せて本件損失補填がされたことについても伝えた。

9  野村證券においては、その後、本件損失補填を受けた前記法人との取引関係の維持によって、現在までに、ほぼ損失補填額に相当する手数料収入を得ている。

10  ところで、野村證券を含む大手証券会社四社は、昭和六三年九月期に約三八一億円、平成元年三月期に約一〇六億円、平成二年三月期に約七九五億円、合計二三一件で約一二八三億円にのぼる損失補填を行い、残る一三社においても、昭和六三年九月期に約四八七億円、平成元年三月期に約六一億円、平成二年三月期に約二六九億円、合計三八六件で約四三六億円にのぼる損失補填を行っていた。

そして、右のような措置が設けられたことについて、野村證券以外の大手証券会社にあっても、本件通達の主眼が早急に営業特金の解消を求める点にあると理解し、株式市況が急落する状況下で顧客との関係を良好に維持しつつ営業特金の解消を進めていくためには、損失補填を行うこともやむを得ないと考えられた。

11  なお、被告田淵義久及び同田淵節也は、本件損失補填に関して、野村證券の株主から告発された商法四八六条一項違反事件につき、平成四年九月三〇日、東京地方検察庁より、同被告らが長期的観点において、顧客との取引の維持、拡大に基づく手数料収入の増加により野村證券の利益を図るところにあったのであるから図利加害の目的がなく、任務違背にも当たらないとの理由で、不起訴処分に付された。

二  証券取引法違反について

被告らによる本件損失補填等が商法二六六条一項五号に定める法令に違反するか否かについて判断するに当たり、まず証券取引法違反の有無について検討する。

1  本件損失補填について、野村證券と本件損失補填に係る顧客との間に、事前に当該有価証券等の取引によって生じた損失を野村證券において負担する旨の約束があったことを認めるに足りる証拠はない。野村證券が本件損失補填を行った顧客との間で営業特金による取引を行っていたこと、野村證券が相場の下落により損失を蒙った顧客から苦情を受けたことは前認定のとおりであり、また、営業特金による取引が一任勘定、利回り保証などの不正が行われるおそれが大きい取引であることは、本件通達やその発出に至る経緯、証券取引法の改正の経緯等により明らかであるが、これらの事実をもって直ちに野村證券と右顧客との間に事前の損失保証の約束があったと推認することはできず、他に右約束の存在を窺わせる事情もない。

2 旧証券取引法五〇条一項三号は、有価証券の売買その他の取引等につき、証券会社らが、顧客に対して当該有価証券について生じた損失の全部又は一部を負担することを約して勧誘することを禁じるものであって、取引後にその損失を補填する行為を規制の対象としていなかったことは、その法文自体のみならず、平成元年に出された本件通達や本件事務連絡の記載内容やこれらの通達を経て平成三年に証券取引法が改正されて事後の損失補填が禁止されることになった経緯に照らしても明らかである。

原告は、公正な市場価格の形成の阻害等の観点から、事後の損失補填も事前の損失保証と同様に違法性が高いと主張する。確かに、事後の損失補填であっても、投資家が自らの判断と責任で投資をするという証券投資における自己責任の原則に悖り、投資判断を安易なものとする結果公正な市場価格の形成を阻害する危険があり、また、証券会社の健全な経営のみならず証券取引についての公平感や証券市場に対する信頼感を損なうものであり、ひいては一般投資者に不測の損害をもたらす危険を伴うものであることは見易いところである。しかしながら、事後の損失補填は、事前に行われる損失保証とは異なり、それ自体としては投資者の投資判断に直接影響を与えるものではなく、一般に、投資者が確実には見込まれない事後の損失補填を期待して安易な投資判断をする危険は必ずしも大きくないと考えられるから、安易な投資勧誘から大衆投資者を保護するという観点からは、事後の損失補填の危険性の程度は事前の損失保証に比べてより低いとみる余地もあり、証券市場における適正な価格形成を損なうことについても、間接的な危険があるにとどまり、また、証券会社の経営の健全性を損なう危険も、損失額が確定した後にされるだけに、将来の価格変動が確実に予測できないままされる損失保証に比べ小さいものということができる。したがって、事後の損失補填の違法性は、損失保証と異なるものであるということもできるから、違法性の故をもって旧証券取引法が事後の損失補填をも禁止の対象としていたものと解することはできない。

また、原告は、日本証券業協会が定める規則が法的拘束力を持つと主張するが、日本証券業協会は、証券会社が有価証券の売買その他の取引を公正にし、かつ、投資者の保護に資する目的で組織された私的な団体で、旧証券取引法六七条の規定により登録されたものであり、公正慣習規則は、その目的を達成するために定められたものである(旧証券取引法七四条参照)ことが認められるから(乙二、弁論の全趣旨)、右規則は、同協会の内部規範として会員である証券会社を規律するに止まり、もとより法律上の拘束力は有しない。

3  原告は、事後の損失補填が、旧証券取引法五八条一号の「不正の手段、計画又は技巧」に該当すると主張する。

同号は、証券取引法の目的(同法一条)に照らして、有価証券の取引の公正及び有価証券の流通の円滑を侵害する行為を禁止する趣旨であって、当該手段、計画又は技巧が有価証券の売買その他の取引等に係るもので、同法の目的に照らして社会通念上正当とはいえない一切の態様のものをいうものと解される(最高裁昭和四〇年五月二五日決定・裁判集刑事一五五号八三一頁参照)。確かに右規定は抽象的であって、事後の損失補填が前記のとおり公正な市場価格の形成を阻害し、正常な商慣習に悖るものであることにかんがみれば、事後の損失補填をもって「不正の手段」を弄するものと評される余地がないでもないが、同号に違反する行為が旧証券取引法一九七条の規定により刑事罰の対象となっていたのに対し、同法五〇条一項三号に掲げる事前の損失保証が刑事罰の対象となっていないこと、平成三年法律第九六号によって改正された証券取引法一九九条の五号において、事前の損失保証と事後の損失補填が併せて旧証券取引法五八条違反に対する刑事罰より軽い刑事罰の対象とされていることからすると、事後の損失補填が旧証券取引法五八条一号に該当するものと解することはできない。

4  本件ワラント取引等に係るワラントの売買について、旧証券取引法五〇条一項一号又は五八条一号に該当するか否かについて検討する。

同法五〇条一項一号は、市場に参加する投資家の自由な投資判断を確保し、もって、有価証券市場における公正な価格の形成を図る趣旨から、証券会社又はその役員らに対して、有価証券の売買等の取引に関連して価格等の騰落についての断定的判断を提供することを禁止したものである。本件ワラント取引等に係るワラントの売買は、前認定のとおり、野村證券と顧客との間で相対でされた取引であり、かつ、顧客に売却したワラントを直ちに高額で買い戻すというものであって、証券の市場価格についての判断を示したものとはいえないから、同号に違反するものではない。

また、本件ワラント取引等に係るワラントの売買は、相対取引であって有価証券市場の価格形成に影響を与えるものとはいえず、有価証券の売買その他の取引等の場面において取引の相手方の利益を害するものでもないから、同法五八条一号の前記の趣旨に照らせば、同号には当たらないというべきである。

三  独占禁止法違反

次に、前記二と同様、独占禁止法違反の有無について検討する。

1  本件損失補填は、前認定のとおり、野村證券にとって重要な地位を占める一部顧客に対して、当該顧客との取引関係の維持を図りつつ、営業特金を解消するために行われたものである。そして、有価証券の売買その他の取引等につき、当該有価証券の取引等について生じた顧客の損失の全部若しくは一部を補填し、又はこれらにつき生じた顧客の利益に追加するため、当該顧客らに財産上の利益を提供する行為は、自己責任の原則に反し、一般に、市場の公正な価格形成を妨げる危険性のある行為であり、証券業界において正常な商慣習の範囲内の行為であるとは認められないから、正常な商慣習に照らして不当な利益の供与に当たり、また、一部の顧客との取引関係の維持を図る行為は、ひいては他の競争者の支配下に入りうる顧客の引き抜きを図る行為と同視することができるから、それ自体が競争者の顧客を自己と取引するように誘引することにも当たるといえる。

したがって、本件損失補填は、正常な商慣習に照らして不当な利益をもって、競争者の顧客を自己と取引するように誘引する行為として不公正な取引方法(昭和五七年公正取引委員会告示第一五号)の第九項に該当し、独占禁止法一九条に違反する。

2  ところで、被告らは、本件損失補填の行為が独占禁止法一九条に違反する行為であっても、会社の利益を図ってされたものであるから、商法二六六条一項五号にいう法令違反の行為には当たらないと主張する。

なるほど株式会社は、商行為を業とするものであって営利法人としてその営利活動によって得た利益を株主に分配することを目的とするものであるが、もとよりその活動は法令の範囲内においてのみ許されるべきであり、その機関としての取締役には、商法二五四条ノ三に明記するとおり、法令を遵守すべき義務がある。したがって、取締役が違法であることを認識しながらあえて法令違反行為をして会社に損害を与えた場合において、当該行為が会社の利益を図る目的でされたことだけをもって取締役の損害賠償責任を否定するのは、相当ではない。

被告らの右主張は失当である。

3  ところで、取締役が法令に違反する行為をしたとして商法二六六条一項五号の規定により損害賠償責任を負うには、右違法行為について故意又は右行為が法令に違反するとの認識を欠いたことに過失があることを要する(最高裁昭和五一年三月二三日判決・裁判集民事第一一七号二三一頁)。

本件損失補填の行為についてみると、まず、被告らにおいて右行為が独占禁止法一九条に違反するものであることを認識していたことを認めるに足りる証拠はない。

進んで、右認識を欠いたことにつき、被告らに過失があったかどうかを検討する。被告らが本件損失補填をすることを決定した当時、事後の損失補填について、本件通達が発せられ、また、公正慣習規則が改正され、被告らがこれらの内容を知っていたこと、被告水内においては法令による規制の有無にかかわらず相当でないと考えていたことは前認定のとおりであり、したがって被告らが事後の損失補填について少なくとも相当性について疑問を有していたものと推認される。しかしながら、本件通達及び公正慣習規則の文面において、事後的な損失補填や特別の利益提供については、法令上の禁止行為である損失保証による勧誘や特別の利益提供による勧誘とは明確に区別され、「厳に慎むこと」としているにとどまり、当時の証券取引法上、事後の損失補填等は違法ではないとされていたことに加え、証券取引業界の一般認識として、証券取引に関しては、証券取引法及びその関連法令によって完結的に規制され、行政組織上はこれらの法令を所管する大蔵省の監督下に置かれ、一方、独占禁止法による規制あるいは公正取引委員会による監督については、事業者間の公正な競争の確保という観点から行われていたため、損失補填等については、一般に、証券取引に係るものとして、しかも投資者保護の観点から証券取引法とその関連法令に基づく規制に委ねられ、行政機能の重複を避ける観点から証券行政を所管する大蔵省の監督に任ぜられていたものと認識されていたものと窺われる(乙三)。

これらの事情によれば、被告らが本件損失補填について、それを決定し実施した当時、独占禁止法に違反するという認識を有するに至らなかったとしても、やむを得なかったというべきであり、本件損失補填を独占禁止法に違反する行為として商法二六六条一項五号の規定により損害賠償の責任を負うに足る過失があるとまでいうことはできない。

四  善管注意義務又は忠実義務の懈怠について

続いて、本件損失補填等が商法二五四条三項等に違反するか否かについて、検討する。

1  取締役は、会社から委任を受けた者として、善良なる管理者の注意をもって事務を処理すべきであるとともに(商法二五四条三項)、会社及び全株主の信任に応えるべく会社及び全株主にとって最も有利となるように業務の遂行に当たるべきであり(同法二五四条ノ三)、もちろん法令、定款及び総会の決議を遵守しなければならない(同条)。一方、取締役による経営判断は、当該取引等の判断の態様、相手方、その交渉等の時期、方法等はもとより、当該業界の状況、当該会社の事情、我が国のみならず国際的な社会、経済、文化の状況等の諸事情に応じて流動的であり、しかも複雑多様な諸要素を勘案してされる専門的かつ総合的な判断であり、一方、委任者たる会社又は株主においては、当該取締役に会社の経営を委ねたからには、その経営判断の専門性及び総合性に照らして、基本的にその判断を尊重し、もって経営を遂行する上においてその判断を萎縮から解き放って経営に専念させるべきであるということができるから、取締役による経営判断は、自ずから広い範囲に裁量が及ぶというべきである。

したがって、右の善管注意義務又は忠実義務の懈怠があるか否かの判断に当たっては、取締役によって当該行為がされた当時における会社の状況及び会社を取り巻く社会・経済・文化の情勢の下において、当該会社の属する業界における通常の経営者の有すべき知見及び経験を基準として、当該行為をするにつき、その目的に社会的な非難可能性がないか否か、その前提としての事実調査に遺漏がなかったか否か、調査された事実の認識に不注意な誤りがなかったか否か、その事実に基づく行為の選択決定に不合理がなかったか否かなどの観点から、当該行為をすることが著しく不当とはいえないと評価されるときは、取締役の当該行為に係る経営判断は、裁量の範囲を逸脱するものではなく、善管注意義務又は忠実義務の懈怠がないというべきである。

2  そこで、本件損失補填等についてみると、まず、本件損失補填等は、前記のとおり、旧証券取引法に違反するところはなく、独占禁止法一九条には違反するものの同法に違反するとの認識を欠いたことに被告らに過失がなかったから、法令違反をもって、善管注意義務又は忠実義務の懈怠があるということはできない。

次に、損失補填は、損失保証と共に、自己責任の原則に背反し、証券市場における価格形成機能を歪めるとともに、証券取引の公正及び証券市場に対する信頼を損なうものであり、一部投資家のみを利するものとして平等原則にも悖るもので、前記のとおり、証券業界における正常な商慣習に反するものであり、しかも、本件損失補填は、大蔵省証券局長による通達や公正慣習規則に反して行われたものであり、その上これらの通達等が発出された直後にされたものであるから、その反社会性は極めて強いといわざるをえない。市場の公平性及び透明性を確保するとともに、株主や取引主体に対して可能な限り情報が開示されていたとした場合に、本件損失補填のような態様の行為が決定、実施されたかというと大いに疑問であり、その行為が社会的相当性を欠くことは明らかであるといえよう。しかしながら、社会的相当性を欠く行為であることをもって直ちに善管注意義務又は忠実義務に違反すると解すべきではない。

なお、本件損失補填は、反社会性が強いということができるが、前認定のとおり、当該行為のされた当時、未だ証券取引法に違法な行為として定められていたものではなく、損失保証にあっても、違法な行為とされてはいたものの行政処分を科せられていたにすぎないこと、本件通達においても単に慎むべき行為として措定されているにすぎないこと、しかも、行政当局においても、本件通達によって営業特金の適正化を行うことが、予期せざる株式市場の急落によって結果的に損失補填をせざるを得ない状況に追いやった一つの要因であると認識していることが窺われること(乙三)、また前認定のとおり、本件通達を受けて多数の証券会社において同様の損失補填行為がされたこと、野村證券において、本件通達に基づく報告に際して損失補填の事実も併せて報告していること等にかんがみると、未だ反社会性の強い行為であるとの社会的認識が存在していたとはいえず、したがって当該行為に係る意思又は合意が未だ私法上無効というには至らない。

3  進んで、本件損失補填がされた当時の情勢をみると、前記認定事実によれば、平成元年一一月に大手の証券会社が損失補填をしたことが大きな社会的問題になり、これを契機に本件通達が発せられ、日本証券業協会において右通達を受けて公正慣習規則を改正し、これらの過程において、損失補填が証券取引の公正を害し、社会的に強い非難に値する行為であることの認識が形成されてきたものの、旧証券取引法の下において、損失補填は違法な行為として定められず、違法な行為とされていた損失保証にあっても、行政処分が科せられたにすぎず、私法上も学説の多くが有効であると解していたことからして、従前は、損失補填が反社会性の強い行為であるとは明確に認識されていなかった上に(最高裁平成九年九月四日判決・民集五一巻八号三六一九頁参照)、本件通達においても、損失補填等が厳に慎むべき行為として位置づけられているにすぎず、公正慣習規則においても事後的な損失補填を慎むように求めているにすぎなかったために、必ずしも禁忌されるものではなかったこと、当時大蔵省は事後の損失補填を慎むことと営業特金を廃止することの双方につき行政指導していたことが指摘され、次に会社の状況についてみると、野村證券は、四大証券会社の一つとして、他の大手証券会社との間で、たとえば主幹事証券会社の地位を得ることにおいて競争関係にあったことが指摘される。そして、前認定のとおり、野村證券と同様大手証券会社と目される各会社にあっても、本件通達等を受けて、同じ頃、損失補填を選択したことからすると、被告らにおいて当時の証券業界の経営者の知見と認識と格別乖離しているということはできない。さらに、本件損失補填行為の目的、事実の調査、意思決定等についてみると、前認定のとおり、被告らは、本件通達及び本件事務連絡において、特金勘定による取引につき投資顧問会社との間で投資顧問契約を締結するか、顧客と証券会社との間で特別の利益提供等の行為を行わない旨の書面を取り交わすかいずれかの措置をとるよう要請されていることをもって、営業特金口座の解消を求めるものであると理解したこと、営業特金口座の解消という要請に対応するために、各営業部、営業店において顧客と交渉を重ねたこと、交渉の状況等の情報を分析して現在及び将来にわたる顧客との紛争の回避及び取引関係の維持拡大をもって野村證券の経済的利益を図るとともに、損害を避けるために損失補填を選択したこと、右選択に当たって株価の急落という予期されない事象が与っていること、これらの補填先の法人は、いずれもこれまでの取引を通じ野村證券に多大な利益をもたらし、今後ももたらすことが予想されることは前認定のとおりであるが、当時の社会経済状況等の諸事情の下においては、被告らにおいて本件通達等の趣旨を営業特金口座の解消にあると理解したことに不合理な点はなく、営業店等による調査や交渉には、必ずしも十全であったとはいい難いものの格別遺漏があった事情は窺えず、また、顧客との取引の継続のために損失補填が必要か否かの点について、各営業部、営業店の判断に従ったことにも格別不注意とする点は認められないことがいえる。また、葉山雅章に対する損害に係る和解契約の締結については、前記認定事実によれば、その交渉の過程、事実の調査、和解金額等に格別不合理な点は窺えない。

したがって、被告らが本件損失補填等を行うことを了承した経営判断には、その判断の過程に著しく不合理な点があるとは未だいえないから、許容される裁量の判断を逸脱したものとは認められず、取締役としての善管注意義務又は忠実義務を怠ったものということはできない。

五  定款違反について

被告らによる本件損失補填等が商法二六六条一項五号に定める定款に違反する行為であるか否かについて検討する。

本件損失補填等は、有価証券の売買その他の取引に係る事後処理であり、本件ワラント取引等は、ワラント又は国債の売買であって、有価証券の売買として定款に定められた会社の目的に含まれるものであり、また、前認定のとおり本件損失補填が顧客との取引の継続によって会社の利益を確保することを目的としていたことから、営利の目的に反するともいえない。

したがって、本件損失補填等が定款に定める目的に反する行為であるとはいえない。

六  以上によると、本件損失補填等の行為は、反社会性がきわめて強く、社会的に厳しく非難されなければならないが、当時の社会経済情勢下において業界の知見等を前提にしてみると、被告らに商法上の損害賠償責任を負わせることは困難であるといわざるをえない。

七  結論

よって、原告の請求は、その余の点について判断するまでもなく、いずれも理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法六一条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官門口正人 裁判官鈴木芳胤 裁判官池田光宏は、転補につき、署名捺印することができない。裁判長裁判官門口正人)

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