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東京地方裁判所 平成6年(ワ)7766号 判決 1997年12月16日

原告

小石原巌

右訴訟代理人弁護士

志澤徹

被告

日鐵商事株式会社

右代表者代表取締役

佐藤穰

右訴訟代理人弁護士

松崎正躬

瀧川円珠

主文

原告の請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

被告は原告に対し、金五二六七万三九四〇円及びうち別紙<略>賃金一覧表一記載の各金員に対し同表記載の各支払期日の翌日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

被告は原告に対し、金二七六九万三〇八〇円及びうち別紙賃金一覧表二記載の各金員に対し同表記載の各支払期日の翌日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

本件は、被告の従業員であった原告が、転籍に際し一旦は被告に退職願を提出したものの、<1>右退職願の提出は錯誤により無効である、<2>転籍後再度雇傭契約が成立した旨主張して、原告の就労を拒否する被告に未払賃金等の請求を求めるとともに、併せて、被告は右転籍に際し、原告を不安定な立場に置いたため、出向先の会社からも就労を拒否された等主張して、不法行為に基づき損害賠償の請求を求めるものである。

(争いのない事実)

原告は、昭和三五年四月、被告の前身である大阪鋼材株式会社に就職し、昭和五二年の合併後は被告において業務に従事していた。なお、原告は、昭和一一年九月一二日生まれである。

原告は被告から富士機鋼株式会社(以下「富士機鋼」という。)に出向を命ぜられ、平成三年二月一日から富士機鋼に出向していたところ、原告は被告から、同年九月、富士機鋼に転籍するように説得された。

原告は被告に対し、平成三年九月三〇日付けで「一身上の都合のため」との理由による退職願(以下「本件退職願」という。)を提出し、以後、原告に対しては、富士機鋼から、五五歳当時の約七割の給与が支給された。

富士機鋼は、平成四年一一月二五日、原告の就労を拒否した。また、被告も原告に対し、一旦、被告の従業員たる地位を退職した以上、被告の従業員たる地位は取得できないと主張して、原告の就労を拒否し、平成三年一〇月三一日以降平成八年九月三〇日まで、五年間にわたって賃金及び賃金差額を支払っていない。

(争点)

一  賃金等の請求

1 本件退職願の提出は、要素の錯誤にあたるといえるか。

原告は本件退職願提出に際し、その動機を被告に表示したか。錯誤が要素の錯誤といえるか。錯誤につき重過失が存するか。

(一) 原告

(1) 原告は富士機鋼において、従前と同じ約一〇〇〇万円の年収が保障されると被告人事部の説明を信じ、これを前提として退職願に署名したところ、三割カットされた年収七〇〇万円しか保障されなかった。

(2) 富士機鋼に転籍されることを前提として退職願に署名したところ、富士機鋼においては、出向者として取り扱われ、被告においては、転籍者として取り扱われ、その地位において重大な取扱の差異があり、このような差異が原告に明らかであったならば、原告は退職の意思表示をしなかった。

被告は原告に対し、平成三年一〇月三一日以降平成八年九月三〇日まで、五年間にわたって、被告が原告に保障すると述べた賃金及び賃金差額を支払っていない。その合計は、賃金一覧表(略<以下同じ>)のとおり、五二六七万三九四〇円であり、この中には、当時から被告が原告に保障していた住宅手当も含まれる。よって、原告は被告に対し、賃金及び賃金差額五二六七万三九四〇円及びこれに対する一か月ずつの賃金一覧表一記載の各賃金の支払期日の翌日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

(二) 被告

争う。

被告が原告に対し、従前と同じ約一〇〇〇万円の年収を保障したという事実はない。

また、仮に、本件退職願の提出に際し、原告に要素の錯誤があったとしても、右錯誤は重大な過失に基づくものである。

2 再雇用の合意の有無

被告・富士機鋼間において、平成四年一一月二六日以降、原告を被告に戻すという合意が成立したか否か、成立したとしてその効力。。(ママ)

(一) 原告

被告・富士機鋼間において、平成四年一一月二六日以降、原告を被告に戻すという合意が成立した。

(二) 被告

被告らの間で合意が成立した事実はない。

二  不法行為に基づく損害賠償請求

原告主張の左記事実の存否及び違法・過失の有無

(1)(ママ) 原告

被告は富士機鋼と十分な連絡をとらずに、原告に対し、退職当時の給与が保障されるとの未確定な事実を申し向け、原告に退職の意思表示をさせた。

ところが、被告が富士機鋼と打ち合わせもせずに、何ら文書化されずに、原告に対し、転籍の手続が取られることになったために、被告・富士機鋼間において、原告の従業員たる地位の取扱について差異が生じた。

差異の根本が議論されないまま、原告を戻すという話し合いが、被告・富士機鋼間でなされたため、一方で富士機鋼は原告に対し、「被告から給料が支払われると」(ママ)通知したが、実際は、被告側は、原告の地位を被告に戻すつもりはさらさらなかった。

このような事実関係のもと、原告は、富士機鋼から、平成四年一一月二五日付けで就労を拒否されるとともに、それ以降の賃金の支払を拒否され、同会社の定年退職時である満六〇歳まで拒否された。

このような不安定な立場に置かれたのは、ひとえに、被告・富士機鋼間の出向契約が不明瞭であったこと、出向か転籍かの明確なコンセンサスが図られなかったこと、原告の給与を幾らとするかについても、明確なコンセンサスが図られていなかったことに根ざすものであることは明らかであり、出向という会社の都合により、労働者の地位に影響を与える制度を利用しておきながら、不当に労働者の地位を不安定にし、出向元、出向先の会社が、その労働者に対して負っている労働者の地位を明確にし、労働者の不安を防止する義務に違反する。

この義務違反は、出向元と出向先である被告と富士機鋼が共同して行ったものといえるから、被告の原告に対する不法行為が成立する。

原告の受けた損害は、原告が被告にとどまっていたとしても、富士機鋼の賃金分二七六九万三〇八〇円を下らない。

(二) 被告

争う。

原告は、被告の就業規則や人事慣行に基づき、正当な処遇のもとに被告を任意退職し、富士機鋼に移籍したのであって、被告が右移籍に関し、原告に対してとった措置は、原告に対し配慮にすぎたとの非難は受けても、法的にも社会的にも全く非難すべき点はなく正当なものである。

原告の退職願により、原告と被告との雇傭契約が消滅したことは明確になっており、その後の原告の従業員としての地位は、富士機鋼にあることは明らかである。

第三争点に対する判断

一  認定事実

1  当事者

被告は、昭和五二年八月、新日本製鐵株式会社の直系商社として設立された株式会社であり、昭和五二年一一月、大阪鋼材株式会社と入丸産業株式会社とを吸収合併し、平成六年七月当時、資本金一一九億七七〇〇万円、従業員数は約一二〇〇人であり、平成五年当時の売上高は概ね一兆円規模である。主たる営業は、鉄鋼、非鉄金属を中心とするものであって、これらの原材料及び製品、副産物等を主な対象とし、これに加えて機械、石油製品等の購入、販売等を取り扱っているいわゆる商社である。(<人証略>及び弁論の全趣旨)

富士機鋼株式会社(以下「富士機鋼」という。)は、名古屋に本社を持ち、鋼材の販売を業とする資本金一六〇〇万円、従業員数約四〇名で、売上高は概ね二二〇億に上る株式会社であり、被告との取引は、平成三年当時、売上高で一二~一三億円程度である。

2  退職願提出に至る経緯

(一) 原告は、平成二年一二月七日、被告から、五五歳で全員転籍である旨説明された。(<証拠・人証略>)

(二) 被告は、同年年末ころ、被告の取引先であった富士機鋼から、同社の東京支店長という職務で、被告のOB又はOBに近い人を斡旋して貰えないかとの打診があった。(<人証略>)

そこで、被告と富士機鋼株式会社(以下「富士機鋼」という。)は、平成三年二月一日付け「出向者の取扱いに関する覚書」(<証拠略>)を取り交わした。右覚書の有効期間は、同日から平成四年一月三一日までとし(但し、自動的に更新される旨の規定がある。)、出向者の出向期間は被告と富士機鋼との間で協議のうえ定めるとされ、給与・賞与については、被告が支給する、所得税の源泉徴収義務者及び住民税の特別徴収義務者は被告とし、富士機鋼が負担、支給した通勤交通費、昼食費等の現物給与で課税の対象となる金額については被告が課税計算を行う、社会保険の事業主は、健康保険、厚生年金保険、雇用保険及び児童手当法に定める事業主は被告とし、労働者災害補償保険の事業主は富士機鋼とされた。右覚書には、別紙として、給料・賞与は、年間の負担額を定め、給与としてその一六分の一、賞与として年二回・給与の二か月分ずつを富士機鋼が負担、健康保険料・厚生年金保険料・雇用保険料・児童手当拠出金については富士機鋼の負担給与に対して富士機鋼が負担、労災保険料は富士機鋼が負担する旨の協議決定事項が付されている。(<証拠略>)

(三) 被告は原告に対し、平成三年一月、富士機鋼への出向を命じた。原告は富士機鋼の東京支店長の職に就いた。原告は富士機鋼への出向に同意した。(争いのない事実)

(四) 被告の定年は、平成三年一月当時、五五歳であった。被告は、平成三年三月一九日、就業規則を変更し、同年四月一日以降、六〇歳定年制としたが、管理職については、役職定年を五五歳とし、給与については五五歳以前の七割程度を支給する、出向している従業員については、五五歳到達を機に、極力、出向先会社に転籍を推進実行することとし、また、現に、平成三年四月一日の就業規則の改正以来四半期末期ごとに、出向中の従業員について五五歳到達後その全員に対し転籍を実行しており、その際、給料については、五五歳時点での七割程度としている。(<証拠・人証略>、原告本人尋問の結果及び弁論の全趣旨)

なお、被告では、定年延長を実施する以前は、五五歳で定年に達した者については、嘱託として再雇用する制度を実施していたが、その際も、五五歳定年時の年収の七割程度の給与で再雇用していた。(弁論の全趣旨)

(五) 被告人事部長は被告店長らに対し、左記の内容の平成三年三月二八日付け「定年延長及びこれに伴う人事諸制度の改定について」と題する文書(<証拠略>)を送付した。

(1) 定年の延長

<1> 新定年 六〇歳到達日の属する四半期末日

<2> 実施時期 平成三年四月一日

(2) 人事諸制度の改定(骨子)

<1> 職掌及び資格制度

経営補佐職、ベテラン職の職掌及び資格を新設し、現行の総合職、事務職、特別職と合わせて社員職掌区分を五区分とする。

ア 職掌体系

経営補佐職掌 経営管理及び高度専門職業務を遂行する職掌

ベテラン職掌 専門的知識、経験等を必要とする特定の業務(又は実務)を遂行する職掌

イ 資格体系

経営補佐職掌 参与 管理職

ベテラン職掌 主査四区分 管理職

主務五区分 一般職

書記六区分 一般職

技士四区分 一般職

ベテラン職掌の資格呼称は転換した資格に対応する呼称とする。

(現行どおり)

ウ 資格内容

a 参与

昇格基準 原則として五五歳到達直前の理事、副理事社員の中から人格、能力、識見に優れ、経営補佐職に相当すると会社が認めた者

昇格時期 原則として毎年四月一日及び一〇月一日の年二回とする。

取扱 現行理事と同様とする。(但し、海外出張旅費の滞在費のみ旧参与基準額を適用する。)

b 主査以下

職掌転換 五五歳到達前の資格に対応するベテラン職掌の資格に転換する。但し、主査の資格内格付けについては個別能力(体力を含む)、成績管理をベースに決定する。五七歳到達時には資格の見直しを行う。

転換時期 五五歳到達日の属する四半期末日の翌日

役職ポスト 原則として役職は勇退する。

<2> 給与

ア 体系 基準内給与は本俸一本とし、定期昇給はない。

賞与は業績査定を行う。

イ 水準 標準的な給与、賞与は学齢(ママ)五四歳の水準の八五パーセント(五五から五六歳)、六五パーセント(五七から五九歳)とする。但し、参与は個別査定、主査は職掌転換後の資格内格付けによる。

<3> 退職金

ア 水準 現行と同額。

イ 支給時期

a 退職一時金 五五歳到達日の属する四半期末日。

b 適格退職年金 六〇歳より支給開始(現行どおり)

(六) 日鐵商事開発株式会社に出向中の田中正博、加藤恵弘の二名は、平成三年六月末、五五歳到達四半期末にて被告を退職のうえ、出向先会社に転籍した。原告と同様、平成三年九月末には、日鐵リース株式会社に出向中の吉村實、生田光紀、定金武志、日鐵商事開発株式会社に出向中の石井仁の四名がいずれも被告を退職し、出向先会社に転籍した。(<証拠略>)

(七) 被告人事部長磐長谷勲(以下「磐長谷」という。)は、同年九月三日、原告と面会して転籍の打診を行い、給与は最初は八〇パーセントで最後は六〇パーセントだから、平均すると七〇パーセントくらいになること、給料は七〇〇万円くらいになること、五五歳で転籍になることを原告に対し説明した。(<証拠・人証略>、原告本人尋問の結果)原告も、五五歳を過ぎた場合、被告にそのまま在籍する者も、他へ転籍する者も、その給与は五五歳当時の約七割になる旨知っていた。(原告本人尋問の結果)

(八) 原告は、同月中旬ころ、被告の人事担当取締役鎌苅賢一と面会した。原告は鎌苅に対し、富士機鋼は小さい会社であるので、将来倒産した場合の身分の不安を訴えた。鎌苅は、富士機鋼が万一倒産するようなことがあれば、その際に考える旨述べた。(<証拠・人証略>及び弁論の全趣旨)

(九) 原告は鎌苅に対し、鎌苅の右発言内容につき文書化して欲しい旨申し出たため、鎌苅は原告に対し、同月二五日ころ、左記内容の書簡(<証拠略>)を送付し、原告はそのころこれを受領した。(<証拠・人証略>)

小石原巌殿

前略

過日は、貴兄の人生計画等につき、種々お話ができ、誠に有意義であったと思います。

話合いの結果、富士機鋼株に籍を移して、新しい人生に進まれる決心をされたことについて改めて敬意を表します。

同社としても、もとより転籍を歓迎する意向であり、貴兄のご決心により、従来のやや中途半端な立場から、新しい展開への脱皮として、高く評価されることと思います。

この上は名実共に、同社の人間として業績向上に努力され、六〇歳といわず、同社に貢献されることを祈念してやみません。

なお、貴兄の洩らしておられた一抹の不安については、そのようなことがあるとは思いませんし、そのような話を誰彼なしに洩らすこと自体会社経営に対する不信と受け取られかねないこととして厳に慎まなければならぬことですが、万々一、倒産等、不測の事態により、貴兄が職を失うことが起こった場合、出向(派遣)者に準じた取扱をもって、職場の確保に努力することは話し合いの中でも、再三申し上げたことですので、そのような御心配に及ばれる必要はないと改めて申し上げておきます。また、そのようなことが杞憂に終わるような貴兄のご活躍が本来望まれることであると思います。

末筆ながら、健康に充分ご留意されますよう祈りあげます。 敬具

平成三年九月二五日

鎌苅賢一

(一〇) 原告は被告に対し、一身上の都合を退職理由とする平成三年九月三〇日付け退職願(<証拠略>)を提出した。(<証拠略>)

(一一) 被告は原告に対し、平成三年九月三〇日退職(転籍)を理由に、退職金一五〇九万七〇〇〇円を支給し、同年一〇月四日、原告の銀行預金口座に振り込まれた。原告の退職時の資格は参事であった。(<証拠・人証略>及び原告本人尋問の結果)なお、被告が原告に対し、満六〇歳以降支払う退職年金は月額一一万五九〇〇円である。(<証拠・人証略>)

(一二) 被告は、人事部長名で、原告は平成三年九月三〇日で被告を退職した旨を記載した住民税の特別徴収にかかる給与所得者異動届出書(<証拠略>)を、富士機鋼に送付した。富士機鋼はこれを受領し、社長の記名捺印のうえ、「退職等による特別徴収届出書」に、月額五万二七〇〇円を一〇月から徴収し納入することと、給与支払方法については、当月二〇日締め二五日支払、担当者として祖父江洋之の氏名を記載し、平成三年一〇月二四日江東区役所課税課へ提出した。(<証拠略>)

(一三) 原告は、退職願提出後、富士機鋼に対し、移籍の通知を出した旨伝えた。(原告本人尋問の結果)被告人事部長根津武志は富士機鋼の専務播摩幸三郎(以下「播摩」という。)に対し、口頭で、原告の一〇月分の給料から、被告に払わず、直接原告に渡して欲しい旨要請した。原告は、富士機鋼の社長である吉田浩(以下「吉田社長」という。)及び播摩に対し、被告から、輸入鋼材云々で退職願を書かされたと伝えた。播摩は原告に対し、退職願を書いたのであれば、移籍ということになると言った。(弁論の全趣旨)

(一四) 従来、富士機鋼は原告に対し、直接、給与の支払をしていなかったが、平成三年一〇月以降は、直接、給与を支払い、その際、所得税や住民税の源泉徴収を行い(<証拠略>)、さらには、社会保険手続の書類の提出を原告に要求した。(<証拠・人証略>、原告本人尋問の結果)給与については、富士機鋼は原告に対し、五五歳当時の七割程度の給与を支給した。(争いのない事実)被告在籍時は月額五四万六八〇〇円であったが、富士機鋼から支給された金額は四二万円であった。(原告本人尋問の結果及び弁論の全趣旨)なお、富士機鋼の原告に対する給料支払日は毎月二五日であった。(原告本人尋問の結果)

(一五) 原告は鎌苅に対し、同年一〇月中旬ころから、給与額に不満を述べていた。原告は、同月下旬以降、再三にわたり鎌苅と面会するなど連絡をとっていたが、原告は鎌苅に対し、その都度、富士機鋼から受け取っている給与が低い旨訴えた。(争いのない事実及び<証拠略>)

(一六) 原告は被告に退職願を提出した後も、被告の健康保険証を利用し、富士機鋼からの、社会保険手続の書類提出の求めに対し応じなかった。原告から被告に対し、翌平成四年一一月、厚生年金手帳が届けられたが、播摩は原告に対し、同月二五日、時期を失しているので被告で手続をしてもらうよう指示した。最終的には、平成五年三月原告の依頼により、富士機鋼が社会保険庁に顛末書を差し入れ、同年一一月二五日までの社会保険手続を行った。(<証拠略>、原告本人尋問の結果)

(一七) 富士機鋼は原告に対し、平成四年四月、原告の基本給を一万円増額した。(<証拠・人証略>)

(一八) 被告は原告に対し、平成四年一月三〇日付けで出向者懇談会の通知(<証拠略>)を出した。(争いのない事実)

3  その後の経過

(一) 播摩は、平成四年七月二二日、鎌苅と面会し、原告の勤務が不良であるので、被告で原告を引きとって欲しい旨申し出たが、その際、鎌苅は格別応答しなかった。播摩は、同年八月二四日、再度、鎌苅と面会したが、その際、鎌苅は、原告を被告へ一度寄こしてくださいと播摩に応答した。しかし、鎌苅は播摩に対し、原告を被告で引き取る等の発言は一切しなかった。(<証拠・人証略>並びに弁論の全趣旨)

(二) 鎌苅は、平成四年八月一九日、原告と面会したが、その際、原告が富士機鋼での給料等に不満を持ち、富士機鋼からも原告の勤務が不良であるとの苦情を受けていたので、原告に対し、他の会社を斡旋しようかと話をし、斡旋先の会社としては、原告の希望を聞いて、本人から申出のあった二社のうち被告の関連会社である西部鋼材株式会社へ斡旋することを考え、就職先は西部鋼材で、役職は営業担当役員付き部長、年俸は七〇〇万円という条件を示した。これに対し、原告は、被告への復職に固執し、また、西部鋼材へ行くなら社長にさせてくれなければ嫌だと回答した。(争いのない事実、<証拠・人証略>、原告本人尋問の結果及び弁論の全趣旨)

(三) 原告は、同年九月二日、同月九日、同月一四日及び同年一〇月六日、鎌苅と面会した。原告は、被告への復籍、処遇の明確化、差額の支払を求めたのに対し、鎌苅は、籍を戻すことはできない、西部鋼材に営業役員付き部長、給与は転籍前の年収には戻せない旨回答した。原告が、被告への復籍に固執する一方、鎌苅は一貫してこれを拒んだため、話し合いは平行線をたどり、鎌苅は、以後、原告との折衝を磐長谷に委ねることとした。(<証拠・人証略>)

(四) 原告は、同年一〇月以降、富士機鋼から、退職願を出して被告に戻るように言われたが、原告は、被告と話がついていないので被告には戻らない、話がつくまで富士機鋼に勤務しているつもりですと答えた。(原告本人尋問の結果)

(五) 磐長谷は、同年一〇月中旬以降、原告の折衝にあたることになったが、原告と被告との折衝が長期化していることから、原告を嘱託として再雇用し西部鋼材に出向させる、給与は年収七〇〇万円、支度金として三〇〇万円を支給する旨の提案を原告に行うこととし、被告内部で承諾を得たうえで、同年一〇月一四日、原告と面談し、被告の右提案を提示した。原告は、嘱託を拒み、被告に正社員として復職することを譲れない旨申し入れた。(<証拠・人証略>、原告本人尋問の結果)

(六) 原告は、同年一一月二日ころ、右磐長谷との折衝内容を播摩に連絡するとともに、原告と被告の間で、受入れ条件がととのわない場合には、富士機鋼を退職しない旨伝え、また、播摩も被告と交渉すように伝えた。(<証拠略>)

(七) 播摩は被告に対し、同月下旬、原告に対して同月二五日に雇用解除通知書を手渡すので、磐長谷にその場に立ち会って欲しい旨の電話連絡した。

(八) 播摩は原告に対し、左記内容の平成四年一一月二五日付け「連絡事項」(<証拠略>)を送付した。

小石原巌殿

一  平成四年一一月五日以降の営業活動は中止指示をしておりますので、営業活動の交通費その他の経費は支払いいたしません。

一  当社への勤務は平成四年一一月二五日までで以降の勤務及び勤務場所等は日鐵商事(株)人事部の指示を受けて下さい。

一  平成四年一二月度の給料は日鐵商事(株)が支払い(ママ)たす予定ですので、保険の手続は日鐵商事(株)で行ってください。

一  預りの保険書類は返却します。

平成四年一一月二五日一七時

専務取締役播摩幸三郎

(九) 播摩は原告に対し、同月二五日、被告において、左記内容の平成四年一一月二五日付け雇用解除通知書(<証拠略>)文書を送付し、以後原告の就労を拒否している。(<証拠・人証略>)

小石原巌殿(昭和一一年九月一二日生)

平成四年一一月二五日付けをもって貴殿との雇用契約を解除する。

解除予告日 平成四年八月二七日

一  就業規則六三条一〇号不履行による。

なお、富士機鋼の就業規則六三条一〇号は次のとおりである。(<証拠略>)

(懲戒解雇)

六三条 次の各号の一に該当する時は、懲戒解雇に処する。ただし、情状により出勤停止、または減給にとどめもしくはこれを併科することがある。

一〇号 その他諸規則等に違反し、その情状が特に重い時。

(一〇) 原告は富士機鋼の事務員小田に対し、同年一二月七日、富士機鋼は原告が一二月から被告に戻ったと外部の電話に応答しているようだが、まだ戻っていないので、そのような応答は辞(ママ)めるように注意した。(<証拠略>)

(一一) 原告と被告は、本件に関し、平成四年一一月から約一〇ヶ月にわたり交渉をしていたが、被告は原告に対し、平成五年八月一一日、最終回答として、<1>被告の従業員としての地位を認めることはできないこと、<2>関連会社への就職を斡旋するが、その会社は一年契約で、しかも嘱託であること、<3>その会社の給料は五五歳当時の七割であること、<4>支度金として三〇〇万円を支給すること、<5>富士機鋼から就労を拒否された以降の給料は支給しないことを告げた。(争いのない事実)

二  判断

1  本件退職願の提出は、要素の錯誤にあたるといえるか。

前記事実に照らせば、原告は、本件退職願の提出によって、被告を有効に退職したと認められる。

この点、原告は、平成三年九月中旬に鎌苅と面会した際、鎌苅から、富士機鋼に転籍した後も、被告在籍時と同じ約一〇〇〇万円の年収が保障されるとの説明があり、これを前提として退職願を提出したのであるから、右退職の申出の意思表示は要素の錯誤に基づくものであると主張する。

なるほど、本件においては、前記のとおり、原告は、本件退職願を提出して、富士機鋼から給料を支給されるようになるや、鎌苅に対し直ちにその金額の少ないことを訴えており、しかも右訴えがその後も一貫して行われていることが認められる。

しかしながら、原告は、磐長谷から、平成三年九月初旬に、<1>給与は最初は八〇パーセントで最後は六〇パーセントだから、平均すると七〇パーセントくらいになること、<2>給料は七〇〇万円くらいになること、<3>五五歳で転籍になることを、はっきりと説明されており(なお、原告本人尋問の際、原告はこれに対し「ただ聞き置いただけです。」と供述している。)、また、原告の強い求めに応じて作成された書簡(<証拠略>)には、「万々一、倒産等、不測の事態により、貴兄が職を失うことが起こった場合、出向(派遣)者に準じた取扱をもって、職場の確保に努力する」としか記載されていないにもかかわらず、原告においてこれ以上の事項につき文書化を求めることもなく、本件退職願を提出しているのである。原告は、右書簡に被告在職時の年収を保障する旨の記載がないので、その後、鎌苅・原告間で改めてこの点を確認した旨主張するが、原告が鎌苅に対し、平成三年九月中旬ころの鎌苅との面会の際の同人の発言内容につき文書化をわざわざ求め、その結果、現に文書化されているにもかかわらず、年収の保障等に関しては文書化を求めず、また、現に文書化されていないというのは極めて不自然である。

また、原告は、被告が平成四年以降の原告との折衝に際し、原告に三〇〇万円の支出を提案したことをもって、三〇〇万円は年収差額分の補償にほかならず、右被告の対応は、原告・被告間において被告在職時の年収保障があった証左である旨主張するが、前記のとおり、被告において、原告・被告間の折衝が長期化していることをも考慮し、支度金として三〇〇万円を支給する旨の提案を行うこと自体、格別不自然なものともいえないのであって、原告主張を裏付けるに足る証拠もない本件においては、原告右主張は採用できない。

以上の点に加え、本件退職願の提出は、平成三年四月一日の就業規則の改正以来四半期末期ごとに、出向中の従業員について五五歳到達後その全員に対し転籍を実行し、その際、給料については、五五歳時点での七割程度とする旨の、前記のとおりの被告の人事制度の一環として行われたものであり、また、本件全証拠に照らしても、被告において、原告のみに対し、その例外を認める必要性・許容性を認めがたいことなど、前記認定の諸事情等をも併せ考慮すれば、原告主張を認めるに足る証拠のない本件においては、結局のところ、被告在職時の年収を被告が保障した旨の原告主張の事実はこれを認めることができない。

してみれば、原告に仮に錯誤があったとしても、その動機が表示されたとはいえない本件においては、要素の錯誤があったとは認めることができない。

なお、原告は、富士機鋼に転籍されることを前提として本件退職願に署名したところ、富士機鋼においては、出向者として取り扱われ、被告においては、転籍者として取り扱われ、その地位において重大な取扱の差異があり、このような差異が原告に明らかであったならば、原告は退職の意思表示をしなかった旨主張し、本件退職願の提出は要素の錯誤に基づくものであるとも主張するが、本件退職願の提出にあたって、原告に、原告主張にかかる動機が存し、また、この動機が被告に表示されたとする証拠は存しないから、原告の右主張もまた採用することができない。

2  再雇用の合意の有無

原告は、被告・富士機鋼間において、平成四年一一月二六日以降、原告を被告に戻すという合意が成立した旨主張するが、本件全証拠に照らしても、原告主張にかかる事実はこれを認めることができない。(人証略)は、同人が、平成四年一一月一七日、被告において鎌苅と面会し、原告に対する同年一二月以降の給料については被告において支給するように鎌苅に対し求めたが、鎌苅からははっきりした返事を貰えなかった旨供述しているのであって、右供述に照らせば、(証拠略)をもってしても、原告主張の右事実を認めることはできない。

3  不法行為に基づく損害賠償請求の成否

前記のとおり、原告は、有効に富士機鋼へ転籍しており、本件全証拠に照らしても、被告の対応につき違法・過失があったとは認められない。

原告は、被告は富士機鋼と十分な連絡をとらずに、原告に対し、退職当時の給与が保障されるとの未確定な事実を申し向け、原告に退職の意思表示をさせた旨主張するが、被告は転籍に伴う諸手続を行っており、また、前記のとおり、原告に対し、被告在職時の給与を保障したとの事実も認めることができないから、原告の右主張は採用できない。

確かに、富士機鋼は、平成四年七月ころから、被告に対し、被告で原告を引きとって欲しい旨申し出ていることが認められ、同年一一月以降原告の就労を拒否し、賃金の支払を拒否していることは原告主張のとおりであるが、前記の事実によれば、富士機鋼においても、平成四年七月に勤務態度不良を理由に被告に対し引きとりを要請する以前は、原告を転籍してきた者として取り扱っており、被告・富士機鋼間において、原告の従業員たる地位の取扱について差異が生じているとはいえないし、また、そもそも、富士機鋼の前記のとおりの対応は同社の判断に基づくものであるから、富士機鋼の前記対応をもって、被告の不法行為と評価することはできない。

したがって、原告の右主張もまた理由がない。

第四結論

以上のとおりであるから、主文のとおり判決する。

(口頭弁論終結の日 平成九年一〇月一四日)

(裁判官 三浦隆志)

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