東京地方裁判所 平成7年(ワ)10237号 判決 1997年2月04日
主文
一 被告は、原告に対し、金一三二二万七〇九七円及び内金三四五万二六二八円に対する平成七年六月九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告のその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用は、被告の負担とする。
四 この判決の主文第一項は、内金七〇〇万円を限度として、仮に執行することができる。
理由
一 (当事者間に争いのない事実及び本件の争点)
1 請求原因1及び2の各事実並びに被告が原告の地位を争っていることについては、いずれも当事者間に争いがない。また、抗弁4の事実についても当事者間に争いがなく、抗弁5の事実については、当裁判所に顕著である。
2 本件の主要な争点は、被告が抗弁1(退職合意)及び抗弁2(任意退職)として主張する本件雇用契約の終了である。
二 (抗弁1及び抗弁2の主張に対する判断)
1 《証拠略》を綜合すると、次の各事実が認められる。
(1) 被告における平成六年の夏期休暇は、同年八月一六日から同月二二日までであった。原告は、右期間内に夏期休暇を取ったが、これについては、被告に対する事前の届出をせず、同年八月二九日に出社した際に北原部長から事後承諾を得た。
(2) 加えて、原告は、夏期休暇期間である同年八月二二日を経過した後である同年八月二三日から八月二八日まで、被告に出勤しなかった。
(3) 原告は、同月二九日に出勤し、原告の上司である北原部長に対し、右期間全部について事後的に休暇届出をした。
北原部長は、原告が同月二三日から二八日まで無断欠勤をしたものであると判断し、原告に対し、感情的になって原告を強く叱責し、「ファイアー!」(「解雇」の意味)と言ったので、原告と北原部長との間では、それ以上まともな話し合いをすることができない状態となった。
(4) 近森部長は、同日、原告と北原部長との間が険悪になっている旨の連絡を受け、自ら事情を聞いて調整することになった。
(5) 近森部長は、翌八月三〇日、原告と改めて面談し、北原部長が従業員を解雇する権限を有せず、また、北原部長の発言内容それ自体にも適切でない部分があることを説明した上、この点については謝罪した。
また、近森部長は、原告が北原部長の下で勤務を続けることを嫌悪していることから、海外営業部での勤務を続けさせることは困難であると判断し、また、従前から原告の業務実績が必ずしも芳しいものではないと判断していたことなどから、原告に対し、海外営業部からTD部へ移り、TD部の責任者であるヴァンダ・ペリー課長代理(以下「ペリー課長代理」という。)の下で勤務することを提案した。
ところで、当時、被告海外営業部及びTD部は、千葉県佐倉市所在の被告工場内にあり、原告は、肩書地から遠距離通勤をしていたところ、海外営業部は近々に東京都所在の本社に移転する予定であったのに、TD部はそのまま佐倉市の工場に残ることになっていた。このため、原告は、原告がTD部に移って勤務することになれば、原告の遠距離通勤が解消される可能性がなくなるものと考え、近森部長からの右提案を拒否した。
(6) そこで、近森部長は、原告に対し、TD部への配転がいやなのであれば、退職するしかない旨及び同年九月末日付で原告が退職することとし、それまでの間は、原告が有給休暇を取っても良い旨を勧告した上、原告の再就職の際の便宜等を考慮して、会社都合による退職扱いとしても良い旨を提案し、退職願を書くように求めた。
なお、その際の会話は、主として日本語によるものであり、時折英語を織り交ぜる程度のものであった。
(7) 原告は、近森部長の右勧告及び提案に対し、「それはグッド・アイデアだ。」と答えた。
原告の「グッド・アイデアだ。」との発言の真意は、近森部長からの右退職勧告を承諾する趣旨ではなく、むしろ右退職勧告の内容に半ば呆れて、大げさに「グッド・アイデアだ。」と表現したものである。
ところが、近森部長は、近森部長からの退職勧告に対して、原告がこれを承諾する趣旨で「グッド・アイデアだ。」と発言したものと理解し、近森部長の上司である被告代表者(以下「清原社長」という。)に対してもそのように報告した。
(8) しかし、原告は、自分が何故退職勧告されるのかが全く理解できないでいたため、翌八月三一日に出勤した際、近森部長に対し、被告が原告に対して退職勧告をする理由を文書にして交付して欲しい旨を要望した(この文書の交付要求は、おそらく、原告の妻のアドバイスによるものと推測される。)。
これに対し、近森部長は、会社都合を理由とする解雇通知書の交付を求められているものと判断し、原告に対し、「貴殿を一九九四年九月三〇日をもって解雇する旨、通知致します。」及び「《解雇理由》輸出不振により、現在貴殿が担当している広告宣伝(主に海外向け)関連業務は、仕事量全体が減少、余力のある他部門にて処理する事になった為。尚、退職金については、業務上の都合による解雇として計算支給致します。」との記載のある解雇通知書を交付した。
なお、被告においては、右解雇通知書上に解雇理由として記載のあるような被告海外輸出事業部門における業績が不振であったこと等の事実は、現実には存在せず、被告の海外輸出事業部に関連する業務等は、むしろ順調に推移していた。
また、この時点において、近森部長は、清原社長から原告を解雇する権限を授与されておらず、かつ、清原社長も原告を解雇する意思を全く有していなかった。
(9) 原告は、交付された書面の内容及びこの書面がもたらす結果を十分に理解することができないでいた(しかし、おそらく、同日帰宅後、原告の妻のアドバイスにより、右書面が解雇通知書であることを認識し、今後の生活を考えた上、被告に対して雇用継続を強く望む気持ちとなったものと推測される。)。
そして、翌九月一日、原告は、出勤して、雇用継続を希望するとともに、清原社長との面談を強く求めた。被告は、原告の要求を認め、同月六日に原告と清原社長が面談することになった。
(10) 同年九月六日朝、ペリー課長代理が同席して、原告と清原社長が面談した。
その席上では、様々なことが話し合われたが、結論としては、原告と北原部長とが一緒のセクションで仕事をするのは得策ではないので、原告がTD部へ移って仕事をするという条件で、被告との雇用契約を継続することで円満に合意がなされた。
そして、同日夕方ころ、原告とペリー課長代理との間で、今後のことについてミーティングが持たれたが、終始、平穏かつ友好的な状態であった。ただ、TD部での原告の具体的な勤務内容が未確定であったので、ペリー課長代理は、原告に対し、担当者と検討した上で翌九月七日に説明する旨を伝えてこの日のミーティングを終えた。
原告は、清原社長との間で右のような合意がなされ、ペリー課長代理と友好的にミーティングがもたれたことに感謝し、非常に喜んで帰宅した。
また、清原社長と原告との間で円満に合意ができたことを知って、近森部長もまた、事態が良い方向へ向かっているものと理解した。
(11) ところが、原告は、翌九月七日、新たな勤務場所である被告TD部での勤務開始初日であるにもかかわらず、被告海外技術部の中村政志次長(以下「中村次長」という。)に対し、休暇を取る旨を電話で連絡したまま、欠勤した。
そして、原告は、翌九月八日も、中村次長に対し、休暇を取る旨を連絡した。そこで、中村次長は、原告に対し、原告の上司であるペリー課長代理に電話をするように指示したが、原告は、中村次長に電話連絡をしただけでペリー課長代理には連絡をしないまま、この日も欠勤し、密かに品川労政事務所へと出向き、原告の取るべき態度等について相談をしていた(おそらく、原告の妻の勧めによるものと推測される。)。
ところが、同月七日及び八日とも、原告が中村次長には電話連絡をしておきながら、中村次長からの指示に反し、ペリー課長代理に対しては直接に連絡をしなかったため、ペリー課長代理は、原告の態度が不誠実であり、常識外れであると感じて、立腹した。
(12) 翌九月九日、原告は、出勤した。
ペリー課長代理は、原告に対し、「断りもなく二日も休んだことは常識外れである」旨を述べ、近森部長及び中村次長も、原告の真意を訝り、厳しい感情を持った。そして、近森部長は、原告に対し、被告に残りたいのか否か「イエスかノー」の二者択一で返答するように迫った。これに対し、原告は、TD部で仕事をするのであれば「ノー」である旨を返答した。
その結果、近森部長、ペリー課長代理及び中村次長は、原告の真意は、被告を退職することにあるのだろうと理解した。
(13) 同日、品川労政事務所から被告に対して電話があり、近森部長、ペリー課長代理及び中村次長は、事態の説明のために同事務所に出向いたところ、同事務所から、原告の妻が被告の考えについて誤解しているようであるから、説明してみてはどうかとの示唆を受けた。
そこで、被告は、同月一九日に原告の妻と会談することにした。
(14) 同月一九日、近森部長は、品川労政事務所の担当者の立会いの下、原告の妻と面談して、経過等を説明した。しかし、原告の妻は、被告の立場や説明を聞き入れようとしなかった。
(15) その後、原告は、同月二八日まで出勤した。原告の机等は、TD部に移動されていたが、原告は、TD部への異動を了承したつもりはなく、TD部で勤務しなかった。
(16) 同月二八日、近森部長は、同年八月三一日以降におけるTD部異動による勤務継続の提案を原告が蹴ったのである以上、同年八月三〇日の近森部長と原告との間の合意の効力が有効に維持されており、その合意のとおりに同年九月三〇日をもって原告が退職になるものとの理解に立脚して、出勤した原告に対し、失業保険について説明し、かつ、退職金の振込先を確認した。
そして、翌三〇日、近森部長は、原告から聴取した銀行口座に退職金を振込送金し、その後、原告のタイムカードを回収した。
なお、原告は、同月二九日から同年一〇月二日まで、被告に出勤しなかった。
(17) その後、原告は、同年一〇月三日、四日、七日、一一日及び一二日に被告に出勤した。しかし、近森部長は、原告の就労を拒んだ。
前記各証拠によって認められる事実は、右のとおりであり、他にこの認定を覆すに足りる証拠はない。
2 右認定事実によれば、原告と被告との間で退職の合意がなされたことの証明がないだけでなく、却って、被告主張のような退職合意の存在しなかったことが明らかである。
たしかに、被告側では原告との間で退職の合意がなされたものと認識していたようである。しかし、これは、真実は意思表示の合致がないのにあったものとの誤った理解によるものであり、しかも、平成六年九月六日には、原告と清原社長との面談の席上で雇用継続の合意がなされたのである以上、被告から原告に対する合意退職の申込の意思表示は、これに対する原告の承諾の意思表示を得ないまま、明瞭に撤回されたものと推認すべきである。
したがって、この点に関する被告の抗弁1の主張は、失当である。
3 他方、被告は、原告が労務提供を放棄し、抗弁2として、任意退職したものである旨を主張する。
しかしながら、前記二1(11)以下に認定の各事実によれば、原告は、平成六年九月二八日以降の時点においても、少なくとも労務の提供の申し出をしており、ただ、被告がその受領を拒絶していたのに過ぎないものであることが明らかである。
この点につき、原告は、TD部への異動を拒否していたのであるから、原告に右異動を拒否する正当な理由がない限り、近森部長の採った労務受領拒絶が合理的なものであったかのように考えられるかもしれない。しかしながら、北原部長が原告の労務提供の受領を拒否したのは、前記認定のとおり、原告の雇用契約が既に終了したものと誤解したことにのみ基づくものであったのであるから、原告の提供する労務の受領拒絶に合理性があると認めることはできない。
したがって、本件においては、被告主張のような労務提供放棄による退職との事実を認めることはできない。
4 以上によれば、被告の抗弁1及び2は、いずれも失当であり、被告の主張するような終了原因によって本件雇用契約が終了したものとすることはできない。
なお、被告は、本件雇用契約の終了原因につき、抗弁1及び抗弁2以外には、明確な主張をしない。
5 すると、原告と被告との本件雇用契約は、被告が抗弁1及び2として主張するような終了原因によっては終了していないことになり、したがって、原告と被告との間の本件雇用契約は、存続していることになる。
三 (地位確認請求について)
そこで、進んで、原告の労働契約上の地位確認請求について判断する。
1 まず、本件第一二回口頭弁論期日(平成八年一二月九日)の時点において、原告が被告に復帰して就労する意思を喪失した旨を表明したことは、当裁判所に顕著である。
2 一般に、労働者の有する諸権利及び労働者たる地位に基づく諸々の利益等は、労働者としての基本的な給付である労務の提供があることを前提にしている。そして、この提供(使用者の明確な受領拒絶がある場合には提供の準備)があることを要件として、労働者は、労働者としての権利ないしこれに基づく諸々の利益を主張することを得るものと解するべきであって、この労務提供の意思を喪失した場合には、労働者としての権利主張等が許されない以上、その地位の確認を求める法律上の利益をも喪失すると解する。
3 してみると、本件においても、原告は、右口頭弁論期日における就労意思の喪失により、本件地位確認請求の確認の利益をも喪失したものであり、したがって、原告の本件地位確認請求は、失当である。
四 (賃金請求について)
1 前記認定事実によれば、被告が原告に対して平成六年一〇月分以降の賃金の支払をしていないことが明らかである。また、原告の平成六年八月三一日当時における平均給与額が月額五三万四四一六円であること、原告の被告に対する賃金請求権の存在が肯定される場合には、被告が原告に対して振込送金した退職金各目の金八二万二七〇〇円をもって、原告の平成六年一〇月分以降の未払賃金の弁済に充当すべきことについては、いずれも当事者間に争いがない。
2 他方、前記のとおり、原告が労務提供の意思を喪失したのである以上、平成八年一二月九日以降は、被告の側における労務受領拒絶の態度の継続の如何にかかわらず、双務契約である雇用契約に基づく賃金債権の反対給付としての履行の提供がないことになる。
したがって、原告は、平成八年一二月九日以降の分については、本件雇用契約の存続していてもなお、被告に対する賃金請求権を有しない。要するに、本件雇用契約は、単に契約として終了していないというだけであって、契約当事者である原告・被告双方とも契約に基づく債務の本旨に従った債務の履行又は履行の提供を拒み合っている状態にあると評価することができる。なお、弁論の全趣旨によれば、原告は、TD部への異動及びTD部での勤務を前提した労務の提供をすることには不満を持っているようであるが、前記認定のとおり、原告と被告代表者である清原社長とは、原告がTD部へ異動して勤務することを条件として契約継続を合意したのであるから、原告が本件雇用契約に基づいてなすべき義務のある給付内容は、TD部でのペリー課長代理の指揮命令に従った勤務を前提にする労務提供以外にはない。
3 このほか、被告は、抗弁3として、原告が平成六年一〇月以降に他の会社に勤務して得た年収額をもって損益相殺すべき旨を主張し、原告が被告以外の勤務先から収入を得ていることについては、当事者間に争いがない。
しかし、一般に、賃金以外に収入のない労働者については、特段の事情がない限り、被告主張のような趣旨での損益相殺を許容すべきではなく、かかる意味での特段の事情につき主張・立証がない以上、本件原告についても同様に、被告の見解を採用することはできない。
4(1) そこで、以上に基づいて未払賃金の総額を計算すると、被告の原告に対する平成六年一〇月一日から平成八年一二月九日までの間(二六ケ月と九日間)の未払賃金の額は、右のとおり、合計金一三二二万七〇九七円(一円未満四捨五入)となる。
534、416×(26+9/31)-822、700=13、227、096・64
(2) 他方、前記のとおり、平成六年九月三〇日に退職金名目で原告に振込送金された八二万二七〇〇円については、これを未払賃金の弁済に充当すべきであるが、弁済充当の具体的方法は、民法所定の法定充当の規定に従い、平成六年一〇月分の賃金全部及び同年一一月分賃金の一部に弁済充当すべきである。すると、原告が請求する未払賃金のうち、平成七年五月分までの残額は、三四五万二六二八円となる。
534、416×8=4、275、328
4、275、328-822、700=3、452、628
ところで、原告は、未払賃金に対する遅延損害金の起算日として、本件訴状送達の日の翌日であると主張しているが、本件訴状送達の日の翌日が平成七年六月九日であることは本件記録及び暦によって明らかであるところ、この日が平成七年五月分の賃金の弁済期の後であることも明らかである。
(3) 以上を綜合すると、原告の本件賃金及び遅延損害請求は、一三二二万七〇九七円及び内金三四五万二六二八円に対する平成七年六月九日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度において理由がある。
五 (損害賠償請求について)
最後に原告の損害賠償請求につき判断する。
1 原告は、被告から解雇されたことによって被った著しい精神的苦痛を慰謝すべきであるとして、被告に対し、金二五〇万円の損害賠償金(慰謝料)の支払を求めている。
2 しかしながら、本件において、被告の原告に対する解雇の意思表示が存在しなかったことは、前記認定事実によって既に明らかである。
なお、原告は、近森部長から原告に対して交付された書面に「解雇する」旨の記載があることをもって、原告が解雇の意思表示を受けたものであると主張するもののようであるが、この書面の作成経過は、前記認定のとおりであり、かつ、他に補強的な証拠が存在しない以上、同記載の存在のみをもって原告主張のような解雇の意思表示があったことを推認することはできない。
また、一般に、単に「解雇する」との記載のある書面の交付を受けただけでは、法的に損害賠償請求権の発生原因としての不法行為を形成するとは到底認め難い。しかも、本件では、仮に原告が右書面中に「解雇する」との記載文言があることに対して相当程度の不快感又は不信感を抱いたのだとしても、前記認定事実のとおり、原告は、右書面の交付を受けた後、被告の雇用継続を希望して清原社長と面談するなどし、結局、TD部への異動を条件として雇用継続することを了承して円満合意に至ったのである以上、この円満合意によって一応満足の状態に達したと見るべきであるから、実体的に見ても、原告には何らの利益侵害も発生しておらず、やはり、不法行為の成立する余地はないものと判断すべきである。
3 したがって、原告の本件損害賠償(慰謝料)請求は、その前提を欠くものとして、明らかに失当である。
六 (結論)
以上のとおりであるから、原告の本件請求のうち、平成六年一一月から平成八年一二月九日までの賃金合計金一三二二万七〇九七円及び内金三四五万二六二八円に対する平成七年六月九日から支払済みまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める部分は理由があるので認容するが、その余は失当であるのでこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法九二条、八九条を、仮執行宣言(本件事案における仮執行宣言の必要性に関する諸事情を考慮して請求認容額のうち七〇〇万円の限度内)につき同法一九六条を適用して、主文のとおり判決する。
(口頭弁論終結の日・平成九年一月二一日)
(裁判官 夏井高人)