東京地方裁判所 平成7年(ワ)15435号 判決 1998年3月23日
原告
井上達也外一名
右原告両名訴訟代理人弁護士
米津稜威雄
同
長嶋憲一
同
佐貫葉子
同
野口英彦
同
増田充俊
同
世戸孝司
同
西畠義昭
被告
学校法人東邦大学
右代表者理事
柴田洋子
右訴訟代理人弁護士
加藤済仁
同
松本みどり
同
岡田隆志
主文
一 被告は、各原告に対し、それぞれ金二四二七万六七五〇円及びこれに対する平成七年一月八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告らのその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用は、これを三分し、その二を被告の負担とし、その余を原告らの負担とする。
四 この判決は、第一項に限り仮に執行することができる。
事実及び理由
第一 請求
被告は、各原告に対し、それぞれ、金三四四〇万五二八〇円及びこれに対する平成七年一月八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二 事案の概要
原告らは、原告らの子(新生児)である井上湧介が、被告の医学部付属病院で、うつ伏せ寝にされ、枕等による鼻口部圧迫による酸素欠乏状態と、これにより惹起された吐乳、吐乳吸引という一連の機序により、呼吸停止、心停止状態に陥り、低酸素脳症となって重度の脳性麻痺の障害を後遺し、数か月後、右障害の下でミルクを誤嚥したため窒息死した旨主張し、被告に対し、不法行為又は債務不履行を理由に損害賠償を請求するものである。
一 争いのない事実等(証拠を掲げていない事実は争いがない。)
1 原告井上達也(以下「原告達也」という。)は、亡井上湧介(以下「湧介」という。)の父であり、原告井上立子(以下「原告立子」という。)は、湧介の母である。
2 被告は、医学部付属大橋病院(以下「被告病院」という。)を開設しており、原告らは、平成六年八月一五日、被告との間において、原告立子が被告病院で湧介を出産することについて診療契約を締結した。
3 湧介は、平成七年一月五日午前五時四三分、被告病院産婦人科において、原告達也及び原告立子の二男として出生した。出生時には、湧介に異常はみられず、出産自体も順調であった。また、湧介の出生後の成育状況は良好で、ミルクをよく飲み排便もスムーズで泣き声も大きかった。
4 事故の発生
(一) 被告病院新生児室付きの助産婦である看護婦のA(以下「A助産婦」という。)は、平成七年一月八日午前五時四〇分ころ(甲二五)、授乳室に隣接する新生児室内のコット(新生児用ベッド)に仰向け寝で寝ていた湧介に腹満を認め、湧介をうつ伏せ寝で寝かせた。
(二) 原告立子が、右同日午前六時二五分ころ、湧介に授乳するために新生児室に赴いたところ、湧介はコット内において、呼吸停止、心停止状態となっていたため、被告病院の医師らにより蘇生措置が施され、湧介の心臓機能、呼吸機能が回復した。
(三) 湧介は、右蘇生措置により一命を取り留めたものの、低酸素脳症となり重度の脳性麻痺の障害を後遺し(甲二、三、九、二四)、気道分泌物による窒息により、平成七年八月九日午前八時二四分、被告病院において死亡した(甲一、三二)。
5 湧介の権利(財産)は原告らが二分の一ずつ相続した(甲一)。
二 争点
1 湧介が呼吸停止、心停止状態となったのは、A助産婦がうつ伏せ寝にしたことが原因となって吐乳吸引を引き起こして窒息したためか、それとも未然型乳幼児突然死症候群(abor-tive SIDS)によるものか。
(一) 原告らの主張
湧介は、被告病院におけるうつ伏せ寝の際の枕等による鼻口部圧迫による酸素欠乏状態と、これにより惹起された吐乳、吐乳吸引という一連の機序により呼吸停止、心停止状態となった。
(二) 被告の主張
(1) 次のとおり、湧介には、吐乳の事実はないので、うつ伏せ寝が呼吸停止、心停止の原因とは認められない。
(ア) 新生児が吐乳した場合には、溢乳し、新生児の口鼻周辺や枕辺りにミルクの付着が認められるのが通常である。このことはうつ伏せ寝であればなおさらのことである。しかし湧介が心肺停止の状態で発見された際、コット内や湧介の口鼻周辺はもとより、口腔内にも、ミルクの付着等、嘔吐の形跡は認められなかった。
(イ) うつ伏せ寝の場合、吐物は下に位置する口から出るはずで、位置的に上方になる気管に入ることはまずない。
(ウ) 湧介のような新生児であっても、吐物を誤嚥しそうになれば、防御機構が働き、反射的にこれを止めようとする(咳き込むなどにより、気管内に入らないようにする)ため、誤嚥の可能性自体低いし、窒息するほどの大量の気管内吸引は通常起こらない(これは、睡眠中でも同じである。なお、窒息するほどの吐物誤嚥が起こり得るのは、深麻酔下や意識障害時などの中枢神経抑制状態にある場合などである。)。しかも、窒息するほどの気管内吸引があったのであれば、湧介は暴れたりするなどの不穏な体動を示し、新生児集中治療室(以下「NICU室」という。)にいるA助産婦がこれに気付くはずであるし、新生児であっても、身体の位置が移動したり、掛けられた布団にその痕跡が残ったりするであろうし、着衣にも異常が認められるはずであるが、本件においては、A助産婦が湧介を抱き上げた時点で、そのような異常は全く認められていない。
(エ) 気管内挿管終了後、直ちに湧介の胸腹部のレントゲン写真が撮影されているが、このレントゲン写真及びその後に撮影されたレントゲン写真によっても、湧介にミルク誤嚥による窒息状態を窺わせる所見は認められない。
(オ) A助産婦が酸素マスクによる酸素投与をした時点では、口腔内に吐物は認められていないが、被告病院医師B(以下「B医師」という。)が到着し、心臓マッサージを施行した際に、湧介の口からミルク残滓を含む液体が溢れてきた。したがって、この時の吸引は、心臓マッサージにより口腔内に貯留した液体を吸引したものである。気管内挿管後に、挿管チューブを通して乳白色の粘性の低い液体が気管ないし気管支から引けているが、この液体は、A助産婦が湧介の異常を発見した後、湧介の身体の移動や蘇生処置(心臓マッサージ、バギング)によって気管内に入ったものである。
(カ) 湧介がミルク誤嚥により窒息したのであれば、バギングが行われていることも考え併せると、気管やその抹梢に広範囲に多量のミルクが存在しているはずであるが、そのような多量のミルクが存在していたという所見はない。
嘔吐したミルクを誤嚥して窒息したのであれば、鼻口から細小泡沫を洩出する。気管及び気管支が吸入したミルクで刺激されて咳き込むと共に、粘液が分泌され、呑み込んだミルクは呼気と吸気で攪拌され、ミルクと混和した粘液は細かい気泡を形成する。この気泡を細小泡沫というが、本件で吸引された液体は、いずれも粘調性の低いサラサラしたものであり、細小泡沫は全く認められていない。
(2) したがって、湧介の心肺停止は、次のとおり、未然型乳幼児突然死症候群によるものと考えられる。
厚生省心身障害研究乳幼児突然死研究班によれば、乳幼児突然死症候群(SIDS)は、「それまでの健康状態及び既往歴からその死亡が予測できなかった乳幼児に突然の死をもたらした症候群」と定義され、また未然型乳幼児突然死症候群(abortive SIDS)は、「それまでの健康状態及び既往歴から、その発生が予測できなかった乳幼児が、突然の死亡をもたらしうるような徐脈、不整脈、無呼吸、チアノーゼなどの状態で発見され、死に至らなかった症例」と定義されている。これらの発生頻度は次第に多くなってきているといわれるが、現在においても原因は解明されていない。そして、新生児にもSIDS、abortive SIDSが起こることが認められている。
このように、SIDS、abortive SIDSは、疫学的に一定の割合で発症することが知られており、本件では前記のとおり窒息が考えられず、また突然の心肺停止をきたす病態を窺わせる他の疾患が特に認められないことから、abortive SIDSと診断すべきである。
2 湧介の死亡についての被告の責任
(一) 原告らの主張
(1) 不法行為責任について
(ア) A助産婦は、平成七年一月八日午前五時四五分ころ、通常の授乳時間外に湧介におやつとしてミルクを与えた。その際、湧介は腹部が張っており、ミルクを吐いたため、A助産婦は、湧介が再度ミルクを吐くことを予想し、湧介をうつ伏せ寝にしたものである。
(イ) したがって、A助産婦としては、湧介をうつ伏せ寝にするに際し、固い布団を使い、枕は外し、布団を頭上までかけない等の細心の処置を施すと共に、常にも増して注意深く湧介の動静を注視すべき注意義務を負っていたが、同助産婦は、右注意義務を全く尽くさなかった。
(ウ) 仮に、A助産婦が、平成七年一月八日午前五時四五分ころ湧介にミルクを与えていなかったとしても、そもそもうつ伏せ寝にさせるときは必ず守るべき条件があるのに、これを守らなかった。すなわち、被告病院産婦人科が、産婦に配っている「産後の摂生と育児」という小冊子(甲一一)には、「「(うつぶせ寝は)乳児突然死症候群(SIDS)、吐物吸引による窒息死を起こす割合が多く危険」とする考え方と、「頭の形が良くなる、首の座りが早い、よく寝るなど、メリットが多い」とする考え方とあり、医療関係者の間でも賛否両論です。大切なことは、細やかな気配りと充分な注意を忘れずに育児に携わるという心構えです。もし、うつぶせ寝にするなら、①固い布団を使う②枕は使わない③シーツをピンと張る④ベッドの中にぬいぐるみを置いたり、タオルを敷いたりしない⑤半袖またはピッタリした袖の服を着せる、など最低の条件は守りましょう。」と記載されている。
A助産婦は、少なくとも②と④の条件を守っていないことは明らかである。また①と③の条件についても、仰向け寝にさせる場合と布団を替えたり、シーツをなおしたなどの事情は窺えない。そうであれば、同助産婦は、うつ伏せ寝にさせるための基本的な条件として被告自身が産婦を指導している条件をほとんど守っていないことになり、うつ伏せ寝にさせた事情の如何に関わらず、その責任を免れるものではない。
(エ) 湧介は、A助産婦がうつ伏せ寝にする際の注意義務を守らなかったために、呼吸停止、心停止状態になり、回復後も低酸素脳症となって重度の脳性麻痺の障害を後遺し、それが原因でミルクを誤嚥して窒息死したのであるから、A助産婦は、湧介の死亡について不法行為責任を負う。
(オ) A助産婦は、被告の被用者であり、被告病院の助産婦として湧介の看護をしていたのであるから、被告は湧介の死亡について民法七一五条の責任を負う。
(2) 債務不履行責任について
原告らは、平成六年八月一五日、被告との間において、原告立子が湧介を出産することについて、当時の医学水準において実務上必要とされる最善の注意をもって適切な診療を行う旨の診療契約を締結した。右契約は、湧介を受益者とする第三者のためにする契約であり、湧介は出産と共に両親である原告らに代理され、診療を受けることにより受益の意思表示をした。
したがって、被告は、湧介に対し、適切な診療、看護を行うべき注意義務を負っていたが、被告の履行補助者であるA助産婦は、前期のとおりその注意義務を怠り、そのため湧介が死亡するに至ったのであるから、被告は、原告らに対し、湧介の死亡について債務不履行責任を負う。
(二) 被告の主張
(1) 不法行為責任について
前記のとおり、湧介の心肺停止の原因は、ミルク誤嚥による窒息でなく、未然型乳幼児突然死症候群によるものであるから、A助産婦が不法行為責任を負うことはない。
なお、A助産婦は、平成七年一月八日午前五時四五分ころには湧介に授乳していない。同助産婦が湧介をうつ伏せ寝にしたのは、直前の授乳から約一時間四〇分後においても、授乳時に認めた腹満が変わらなかったため、ミルク嘔吐の可能性を否定できず、その誤嚥の危険もありえないわけではないと考えたからである。
(2) 債務不履行責任について
原告らと被告との間の診療契約は、出産に関するものである。湧介の死亡は出産後の出来事であるから、右診療契約の債務不履行にはならない。
3 湧介の死亡によって原告らが被告に請求できる損害賠償金
(一) 原告らの主張
(1) 湧介の被った損害
(ア) 逸失利益 二四八七万五三〇〇円
平成五年の賃金センサスにより、男子労働者学歴計の年収五四九万一六〇〇円をもとに、就労可能年齢を一八歳から六七歳までとし、ライプニッツ方式により中間利息を控除し、さらに生活費として四〇パーセントを控除すると、逸失利益は次のとおり二四八七万五三〇〇円になる。
5,491,600円×(19.2390(六七年のライプニッツ係数)−11.6895
(一八年のライプニッツ係数))×(1−0.4(生活費))=24,875,300円
(イ) 慰藉料 二六〇〇万円
(ウ) 葬儀費用 一二〇万円
湧介の葬儀は平成七年八月一一日に行われた
(エ) 入院雑費(母乳バッグ・乳児服等) 二七万八二〇〇円
湧介は、結局平成七年一月八日の事故後、同年八月九日に死亡するまでの二一四日間入院を余儀なくされた。入院雑費は一日一三〇〇円が相当である。
(オ) 近親者の通院交通費 二五万〇八八〇円
原告らが湧介の介護・入浴あるいは搾乳を届けるため等に要した交通費
(カ) 診断書料(二通) 六一八〇円
(キ) 合計 五二六一万〇五六〇円
原告らは右湧介の損害につき、二分の一(二六三〇万五二八〇円)ずつその賠償請求権を相続により取得した。
(2) 原告ら固有の損害
(ア) 慰藉料 原告らそれぞれにつき五〇〇万円
原告らは、順調な出産による喜びを味わったのもつかの間、健康なはずの我が子を重度の身障者にされてしまった。事故発生から湧介死亡までの約七か月間、小さな体に繰り返される検査、自らミルクを飲むこともできない姿、頻繁な痰の吸引などを眼前にした両親の苦痛は、湧介の慰藉料とは別途に考慮されるべきである。
(イ) 弁護士費用 原告らそれぞれにつき三一〇万円
原告らは弁護士に委任して本件訴訟を提起しており、その報酬六二〇万円を原告らが二分の一ずつ負担するので、これを損害として請求する。
(3) 原告らの請求額
右(1)、(2)を合計すると、原告らそれぞれについて三四四〇万五二八〇円になるので、原告らは被告に対し、右金員及びこれに対する不法行為又は債務不履行の日である平成七年一月八日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
第三 争点に対する判断
一 争点1(湧介の心肺停止の原因は吐乳吸引による窒息か、未然型乳幼児突然死症候群か)について
1 第二、一記載の争いのない事実等、甲第五ないし第一〇号証(枝番のあるものは枝番を含む。以下同じ。)、第二四ないし第二七号証、第三一、第三二号証、乙第一ないし第三号証、第五ないし第八号証、証人A、同B、同D、同Cの各証言及び原告立子の供述を総合すると、次の事実が認められる。
(一) 湧介の心肺停止に至る経緯
(1) 原告立子は、当初、自宅から被告病院まで一時間半以上の時間をかけて通院していたが、出産予定日(平成七年一月二一日)が近づいた平成六年一二月末ころからは、同病院から車で一五分位のところにある原告達也の実家において出産に備えるようになった。
(2) 原告立子は、平成七年一月五日午前三時ころ、陣痛が始まったことから、タクシーで被告病院に赴き、そのまま入院し、同日五時四三分、湧介を正常分娩で出産した。湧介の出生時の体重は三四六〇グラム、身長は五一センチであり、心拍数や呼吸等に異常は見られなかった。
(3) 平成七年一月五日午後二時から同月八日午前二時三〇分までの湧介に対する授乳等は次のとおりであった(甲八の三)。
① 平成七年一月五日
午後二時〇〇分 糖水一〇cc 合計一〇cc
午後三時三〇分 ミルク二〇cc 合計二〇cc
午後六時三〇分 直母乳二cc、ミルク二〇cc 合計二二cc
午後一〇時三〇分 直母乳二cc、ミルク三〇cc 合計三二cc
② 平成七年一月六日
午前二時三〇分 ミルク三〇cc 合計三〇cc
午前六時三〇分 直母乳二cc、ミルク二〇cc 合計二二cc
午前九時三〇分 ミルク三〇cc 合計三〇cc
午後〇時三〇分 ミルク三〇cc 合計三〇cc
午後三時三〇分 ミルク三〇cc 合計三〇cc
午後六時三〇分 ミルク四〇cc 合計四〇cc
午後一〇時三〇分 直母乳二cc、ミルク五〇cc 合計五二cc
③ 平成七年一月七日
午前二時〇〇分 ミルク四〇cc 合計四〇cc
午前三時三〇分 ミルク二〇cc 合計二〇cc
午前五時〇〇分 ミルク二〇cc 合計二〇cc
午前六時三〇分 直母乳六cc、ミルク六〇cc 合計六六cc
午前七時三〇分 ミルク三〇cc 合計三〇cc
午後〇時三〇分 直母乳四cc、ミルク六〇cc 合計六四cc
午後四時三〇分 直母乳四cc、ミルク五〇cc 合計五四cc
午後六時三〇分 直母乳八cc、ミルク三〇cc 合計三八cc
午後一〇時三〇分 搾母乳二〇cc、ミルク四〇cc 合計六〇cc
午後一一時三〇分 ミルク一〇cc 合計一〇cc
④ 平成七年一月八日
午後二時三〇分 搾母乳三〇cc、ミルク四〇cc 合計七〇cc
(4) 原告立子は、平成七年一月八日午前三時過ぎころ、乳房が張り、痛みがあったこと及び湧介が泣いていたことから、被告病院の看護婦の同意を得た上、同病院産婦人科授乳室において、湧介に若干量の授乳を行い、新生児室内のコットに湧介を仰向け寝で寝かせた。
(5) 同月午前四時ころ、湧介がかん高く泣いたため、A助産婦は、三〇ccのミルクを授乳し、それまでと同じように、コットに仰向け寝で寝かせた。
(6) A助産婦は、右同日午前五時四〇分ころ、さらに湧介が泣いたため、同人におやつとしてミルクを与えた。その時、湧介に排気させたが、ミルクを吐き、腹満もあったことから、再度吐く可能性があることを考え、同人をうつ伏せ寝で寝かせた(甲五の一、二、二七、原告立子)。その際、A助産婦は、湧介の顔を横向きにさせた。
この時の湧介の寝具は、被告病院において新生児を仰向け寝で寝かせる際に使用されるものと同じものであり、枕として二つ折りにされたハンドタオルが用いられ、敷布団は、マットレスの上に下から薄いベッドパット、バスタオル、防水用ラミシートが順次敷かれ、木綿のシーツでくるまれたものが用いられ、掛布団は二つ折りのバスタオルとその上掛けとしての二つ折りの毛布が用いられた。
(7) 右同日における被告病院産婦人科新生児室には、六、七名の新生児がおり、同室に隣接するNICU室には、三、四名の新生児がいて、NICU室中の新生児の中には、小児科の医師が担当する必要のある重症児もいた(証人B)。そして、右同日深夜帯(午前零時から午前八時三〇分)における新生児室担当看護婦は、A助産婦一名であり、同助産婦は新生児室及びNICU室の新生児の看護を一人で担当していた。
このような状況の中で、A助産婦は、湧介をうつ伏せ寝で寝かせた後、他の新生児に対して、黄疸測定、状態の観察等必要な処置を施し、右同日午前六時少し前、新生児室を出てNICU室に行き、記録をつけたりした。NICU室からは新生児室は見えない位置関係にあった。
(8) A助産婦は、右同日午前六時二五分ころ、朝の授乳開始のため、NICU室から新生児室に赴き、授乳に来ていた原告立子に湧介を渡そうと同人を抱き上げたところ、同人の顔面はチアノーゼ様で、呼吸は停止しており、肌着をはだいて確認したところ、チアノーゼは全身に及んでいた。A助産婦が抱き上げる前の湧介は、顔を真下に向けた状態でうつ伏せ寝で寝ていた(甲五、二七、原告立子)。
(二) 発見後の経過
(1) A助産婦は、湧介の呼吸停止に対する処置を行うべく、原告立子に対して吸引してくるからと告げ、湧介をNICU室に移してインファントウォーマーに仰向け寝で寝かせ、直ちに産婦人科当直のB医師を呼び出した。A助産婦は、同医師到着まで、湧介に酸素マスクによる酸素投与とタッピング(児を横向きにして背中を叩くこと)による皮膚刺激を行ったが、湧介に反応は現われなかった。
(2) 右同日午前六時三〇分ころ、B医師が到着し、湧介を診察したが、心肺機能停止状態であったため、直ちに体外心臓マッサージとバギング(酸素マスクを使用し、圧をかけて酸素を投与する。)を開始した。さらに、気道確保のために気管内挿管を試みたが、口頭展開を行い、声門を確認することまではできたが、挿管まではできなかった。そのため、B医師は、A助産婦に対し、小児科当直医を呼ぶことを指示し、同助産婦は、被告病院小児科C医師(以下「C医師」という。)に、すぐにNICU室に来るよう要請した。その後、C医師が到着するまでの間、湧介に対する心臓マッサージとバギングが継続されたが、心臓マッサージ施行中に、湧介の口からミルク残滓を含む液体が噴き出したことからこれを吸引し、更に心臓マッサージを続けた。
(3) 右同日午前六時三五分ころ、C医師がNICU室に到着し、気管内挿管を試みたが挿管できず、その後、要請を受けて到着した被告病院小児科D医師(以下「D医師」という。)により、同六時四〇分ころ、挿管が完了した。
右挿管後、挿管による吸引により乳白色の液体が吸引された。同液体の粘調性、量については、左記書類に左記の記載がなされている。
なお、挿管後、ポータブル撮影機により、湧介の胸腹部のレントゲン写真が撮影されているが、右撮影は、右吸引後になされたものであった(証人B、同C)。
記
① 原告立子の産婦人科入院診療録(甲一〇)七丁裏 記載者・B医師
Tapping吸引にて気管内よりmilk多量にひける
② 湧介の小児科入院診療録(甲九)一〇丁表 記載者・C医師
挿管よりmilk残渣多量に吸引できる
③ 同診療録一二丁裏 記載者・D医師
チューブより粘調なmilkかすのようなもの多量にひけ、吸引性肺炎を想定し、早目にアミノベンジルペニシリン抗生剤使用としました
(4) 右挿管による吸引後、まもなく、湧介の心拍音を聴取できるようになり、時々ではあるが自発呼吸も出現した。そして、右同日午前六時五三分になって自発呼吸が認められたが、未だ弱めであり、不規則なため、バギングが継続された。
(5) 右同日午前七時一〇分ころ、湧介の口腔内から唾液様の液体が多量に吸引され、また、挿管チューブからごく少量の淡々黄色の液体が引けた。
(6) 右同日午前七時三五分ころ、湧介の自発呼吸及び心拍が安定してきたため、バギングが中止され、同七時四五分、同人はクベース(保育器)に収容され、器内の酸素は三〇パーセントに維持された。
(三) 被告病院医師らによる説明等について
(1) B医師は、平成七年一月八日午前八時三〇分ころ、原告らに対し、本件事故の原因について、湧介が、戻したミルクを再度飲み込み、それが肺に入ったために本件事故が生じた旨の説明を行った。
(2) 被告病院小児科E医師、同科D医師、同科C医師、同病院産婦人科B医師、同科F医師は、右同日午前一〇時三〇分ころ、原告らに対し、本件事故の原因としてミルクの誤嚥が考えられる、挿管チューブより粘調なミルクかすのようなものが多量に引けた、肺炎を想定し、早目に抗生剤を使用することにした旨の説明を行った。
(3) 平成七年一月九日午後二時三〇分ころ、原告ら及び原告達也の母井上カツ子と、被告病院産婦人科部長G教授(以下「G教授」という。)、F医師、E医師、C医師との間で会談がなされたが、未然型乳幼児突然死症候群を示唆する説明はなされなかった。
(4) 湧介の心肺停止に関しては、左記書類に左記の記載がなされている。
① 湧介の小児科入院診療録(甲九)一〇丁表
記載日 平成七年一月八日
記載者 C医師
記載内容 milk誤嚥による窒息→呼吸停止→心臓停止の可能性大
誤嚥の原因は不明
② 同診療録一七〇丁表
記載日 平成七年三月一五日
記載者 C医師
記載内容 平成七年一月五日に、正常分娩にて三五w五d、三四六〇gで生まれた男児です。生後三日目の一月八日の早朝、うつぶせ寝状態にて、milk誤飲による窒息及び心停止状態で発見されました。直ちに蘇生しましたが、低酸素状態にしばらくさらされており、その後の頭部CTにてSAH、brain atrophyが認められました。現在は、room air自発呼吸しております。
2 右1の認定と異なる被告の主張について
(一) 平成七年一月八日午前五時四〇分ころの授乳の有無について
A助産婦は、右時点における授乳は行っていない旨証言し、更に、右同日午前四時の時点でも腹満が認められたが授乳直後であり吐く危険があったことから、うつ伏せ寝にはせず、同日午前五時四〇分の時点では、授乳後時間が経過しており、吐く危険が少なくなっていたのでうつ伏せ寝にした旨証言しているが、B医師に対しては、湧介をうつ伏せ寝にしたことにつき、腹満が認められ、吐乳する可能性があったことを理由として報告している(証人B)のであり、A助産婦の右証言は信用できず、午前四時の授乳に続けて午前五時四〇分ころにも授乳したからこそ、吐乳の可能性が高いと考え、午前四時の授乳の際には仰向け寝にしたにもかかわらず、午前五時四〇分ころにうつ伏せ寝にしたものと認められる。
右午前五時四〇分ころの授乳については、哺乳記録(ミルク板)(甲八の三)への記入がなされていないが、午前四時の授乳についても右哺乳記録への記載がなく、A助産婦は、午前五時四〇分ころの授乳については、午前四時の授乳と共に、後に記載する予定であったものと考えられる。
(二) 湧介が心肺停止の状態で発見されたときのコット内の状況について
被告は、湧介が心肺停止の状態で発見された際、コット内には、ミルクの付着等、嘔吐の形跡は認められなかった旨主張し、A助産婦及びD医師が右主張に沿った証言をしているが、A助産婦は、抱き上げた湧介がチアノーゼ様を呈し、呼吸停止に陥っている状態にあることを発見し、動揺しながら少しでも早く蘇生措置を採らなければならないと感じ、それに従った行動をとっていたはずであり、その際、コット内に嘔吐の痕跡があることは確認し得なかったものと思われる(なお、A助産婦は、湧介の蘇生措置が終わった後も、枕を触ったり、検査していない。)し、D医師にあっては、その陳述書(乙八)において、「新生児室の湧介君が寝ていたコット内には、嘔吐の痕跡はなかったと記憶しています。」と記述しているが、同医師は、新生児室を通らずに湧介が運び込まれたNICU室へ出入りしており、コット内の嘔吐の痕跡の有無を確認しうる状況にはなかったといわざるを得ない。
よって、被告の右主張は採用できない。
3 心肺停止の原因について
甲第一二ないし第一九、第二二、第二三号証によれば、うつ伏せ寝にした場合、ふとんや枕等で鼻口部が圧迫され、低酸素状態となり、嘔吐を引き起こし、その結果吐物を吸引して窒息することがあることが認められ、右1、2で認定した事実によれば、湧介は右の機序により窒息し、心肺停止の状態になったものと推認される。
この認定に反する被告の主張は、次のとおり、いずれも採用できない。
(一) 被告は、新生児が吐乳した場合には溢乳し、新生児の口鼻周辺や枕辺りにはミルクの付着が認められるのが通常であるが、本件ではこのような付着は認められない旨主張するが、原告立子は、A助産婦が湧介を抱き起こした後、湧介が使用していた枕代わりの白色のタオルの中央に黄色身を帯びた直径六、七センチのしみがあるのを確認したと供述している。
(二) 被告は、うつ伏せ寝の場合、吐物は下に位置する口から出るはずで、位置的に上方になる気管に入ることはほとんどない旨指摘するが、右指摘とは逆に、うつ伏せ寝にした場合には、気道は食道よりも下になるため咽喉頸部に溜まった吐瀉物を吸引しやすくなることが認められる(甲二二)。
(三) 被告は、湧介のような新生児であっても、吐物を誤嚥しそうになれば、防御機構が働き、反射的にこれを止めようとするため、誤嚥の可能性自体低いし、窒息するほどの大量の気管内吸引は通常起こらない、しかも窒息するほどの気管内吸引があったのであれば、湧介は暴れたりするなどの不穏な体動を示し、NICU室にいるA助産婦がこれに気付くはずであるし、新生児であっても、身体の位置が移動したり、掛けられた布団にその痕跡が残ったり、着衣の異常が認められるはずであるが、本件においては、A助産婦が湧介を抱き上げた時点で、そのような異常は全く認められなかった旨主張する。しかし、生後三日の乳幼児の運動能力からいって、寝具等に不穏な体動による移動等の痕跡がなかったとしても特に不自然ではなく、また、新生児室とA助産婦が詰めていたNICU室との位置関係からいって、同助産婦が湧介の異常に気付かなかったとしても不自然ではない。
(四) 被告は、湧介の胸腹部のレントゲン写真及びその後に撮影されたレントゲン写真によっても、湧介にミルク誤嚥による窒息状態を窺わせる所見は認められない旨主張するが、前記認定のとおり、ポータブル撮影機によるレントゲン写真の撮影は、気管内挿管後の吸引により、ミルクを含む液体が多量に吸引された後に行われており、右ポータブル撮影機によるレントゲン写真及びその後に撮影されたとするレントゲン写真上にミルク誤嚥の著明な状況が撮影されていなくても不自然ではない。
(五) 被告は、気管挿管後に、挿管チューブを通して乳白色の粘性の低い液体が気管ないし気管支から引けているが、この液体は、A助産婦が湧介の異常を発見した後に蘇生措置(心臓マッサージ、バギング)によって液体の気管への移動が生じたためである旨の主張をするが、前記認定のとおり、移動が生じることが一応考えられる液体の吐瀉は、B医師が気管内挿管を試みた後、C医師がNICU室に到着するまでの間に行われた心臓マッサージ中に生じているが、B医師は湧介の口から吹き出したミルク残滓を含む液体を吸引し、その後に心臓マッサージを再開継続させていることからいって、この際に吐瀉された液体が後に多量と認識されることになる程度に気管支等に移動したとは考えられず、また、この外に移動が生じた可能性を認めることができる液体の吐瀉が認められないので、被告の右主張は採用できない。
(六) 被告は、嘔吐したミルクを誤嚥して窒息したのであれば、挿管チューブから引けた液体に細小泡沫が存在したはずであるが、本件で吸引された液体は、いずれも粘調性の低いサラサラしたものであり細小泡沫は認められていない旨主張し、吸引を行ったD医師はその陳述書(乙八)において、吸引されたミルク様のものはサラサラしており固まりや気泡は認めなかったと、右主張に沿う記述をしている。しかし、D医師は、右陳述書の記載にもかかわらず、湧介の小児科入院診療録(甲九)において、「粘調なmilkかすのようなもの多量にひけ」と記載しており(一二丁裏)、同記載が担当の医師によりその印象に残ったことが端的に表現されたものとみるのが自然であること、そして、同診療録の記載においては、サラサラとの文言は使用されていないことからいって、吸引された液体の粘調度は高かったものとみることができるし、D医師の証言によっても、引けた液体は、チューブの中を、最初は一センチぐらいの量がずずずずずっと行って、その後細かい途切れ途切れの白い物質がずずずずずっと引けてきたということであり、細小泡沫が存在した可能性もあると考えられる。細小泡沫の存在の確認は、被告が主張するように、ミルク誤嚥による窒息の事実を確認する有力な方法となるとしても、それが唯一の方法とは認められないし、本件においては、細小泡沫が存在しなかったとは断定できないから、被告の右主張も採用できない。
(七) 被告は、湧介の心肺停止の原因は未然型乳幼児突然死症候群である旨主張するが、被告は、湧介に右症候群であることを窺わせる何らかの兆候があったということを主張、立証するものではなく、心肺停止の原因が不明であるというに尽きるのである(突然死症候群の場合、前記認定のような蘇生措置により蘇生することがあるのか否かも明らかでない。)から、前記認定を左右しない。
二 争点2(被告の責任)について
1 前記認定のとおり、A助産婦は、平成七年一月八日午前五時四〇分ころ、湧介が泣いたために、おやつとしてミルクを与えたが、湧介がミルクを吐き、腹満もあったことから、再度吐く可能性があると考えて、同人をうつ伏せ寝で寝かせたものであるが、このように嘔吐する可能性の高い新生児をうつ伏せ寝で寝かせる場合には、担当の助産婦は、当該新生児が低酸素状態となって嘔吐し、吐乳を吸引することのないよう、新生児が頭部の回転により容易に鼻口の圧迫状態から逃れられるような(頭部の運動を妨げないような)形状、材質の寝具を使用すべき注意義務があり、かつ、寝かせた後も、頭部の運動により鼻口が圧迫された状態となっていないか、また、吐物による気道閉塞が生じていないかを継続的に観察すべき注意義務があるものというべきである。特に、被告病院では、原告らが主張するとおりのうつ伏せ寝についての注意事項を記載した小冊子(甲一一)を産婦に配っているのであるから、A助産婦は、うつ伏せ寝にする場合は右のような注意をすべきことを十分に知っていたものと認められる。
2 しかし、A助産婦は、右義務を怠り、前記認定のとおり、仰向け寝で寝かせる場合に使用する寝具と同じ寝具を用い、枕としてハンドタオルを二つ折りにしたものを使用したため、湧介の頭部の運動が妨げられる結果になり、また、湧介を寝かせた後の監視についても、前記認定のとおり、午前六時少し前に新生児室を離れた後は、継続的にNICU室に詰めて湧介のいる新生児室には入らず、また、NICU室からでも湧介が見える位置に同人を移動させる等の措置も採らず、結局、湧介を呼吸停止状態で発見するまでは一度も同人の状態を観察していなかったものである。
3 A助産婦が右注意義務を果たしていれば、湧介は前記認定の機序により、心肺停止に至ることはなかったものであり、湧介は、蘇生措置により一命を取り留めたが、低酸素脳症となり重度の脳性麻痺の障害を後遺し、右脳性麻痺により気道分泌物の排泄に支障が生じ、気道分泌物が気道に貯留しやすくなっていたため、気道分泌物による窒息により死亡したものである(甲二、三、九、二四、二五、三二、弁論の全趣旨)から、A助産婦は、湧介の死亡につき、不法行為責任を負うものというべきである。
4 そして、A助産婦は、被告の被用者であり、被告病院の助産婦として湧介の看護をしていたのであるから、被告は湧介の死亡について民法七一五条の責任を負うものというべきである。
三 争点3(原告らが被告に請求できる損害賠償金)について
1 湧介の被った損害について
(一) 逸失利益
原告ら主張のとおりの理由により、湧介の逸失利益を二四八七万五三〇〇円と認めるのが相当である。
(二) 慰謝料
前記認定の湧介の死亡に至る経緯、逸失利益の額等を考慮すると、湧介の慰謝料としては一五〇〇万円が相当である。
(三) 葬儀費用
一〇〇万円を相当因果関係のある損害と認める。
(四) 入院雑費
原告ら主張のとおりの理由により、入院雑費を二七万八二〇〇円と認める。
(五) 近親者の通院交通費及び診断書料
これらは、湧介の損害といえるか疑問があるうえ、具体的な金額についての立証がないので、これを認めることができない。
(六) 合計
右(一)から(四)までの損害金の合計は四一一五万三五〇〇円となり、原告らは、その二分の一である二〇五七万六七五〇円ずつ賠償請求権を相続により取得したものと認められる。
2 原告ら固有の損害について
(一) 慰藉料
本件事故の態様、湧介の死亡に至る経緯その他本件に現れた一切の事情を考慮すると、原告ら固有の慰藉料を、それぞれ二五〇万円と認めるのが相当である。
(二) 弁護士費用
本件訴訟の内容、訴訟追行の態様、訴訟の経緯、認容額等を考慮すると、原告らが、本件不法行為による損害として賠償を求めうる弁護士費用は、原告らそれぞれにつき一二〇万円と認めるのが相当である。
四 結論
よって、原告らの本訴請求は、被告に対し、それぞれ金二四二七万六七五〇円及びこれに対する不法行為の日である平成七年一月八日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余は失当であるからこれを棄却することとする。
なお、被告は担保を条件とする仮執行免脱宣言を申し立てるが、本件においては仮執行免脱宣言は相当でないのでこれを付さないこととする。
(裁判長裁判官福田剛久 裁判官小林元二 裁判官廣田泰士)