大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 平成7年(ワ)2014号 判決 1997年6月26日

原告

須見スマ子

外三名

右四名訴訟代理人弁護士

稲益孝

長谷川久二

又市義男

被告

社会福祉法人恩賜財団済生会

右代表者理事

萱嶋幸雄

被告

森偉久夫

外一名

右三名訴訟代理人弁護士

井深泰夫

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第一  請求

一  被告らは、原告須見スマ子に対し、各自金三五八八万二〇〇〇円及び内金三二八八万二〇〇〇円に対する平成六年一〇月二九日から、内金三〇〇万円に対する被告社会福祉法人恩賜財団済生会については平成七年二月二一日から、被告森偉久夫及び同塩見興については同月一九日から、各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  被告らは、原告梅原由紀子、同須見美彦及び同須見守貴それぞれに対し、各自金一一九六万円及び内金一〇九六万円に対する平成六年一〇月二九日から、内金一〇〇万円に対する被告社会福祉法人恩賜財団済生会については平成七年二月二一日から、被告森偉久夫及び塩見興については同月一九日から、各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

本件は被告社会福祉法人恩賜財団済生会(以下「被告済生会」という。)が開設する栃木県済生会宇都宮病院(以下「宇都宮病院」という。)に入院して前立腺癌の摘出手術を受けた須見光一(以下「光一」という。)が、術後四日目に肺血栓塞栓症(以下「肺塞栓」と略称する。)によって死亡したことについて、光一の相続人である原告ら四名が、右肺塞栓は、術後の他人血輸血によって誘発されたものであり、また、宇都宮病院における肺塞栓の予防及び治療にも落ち度があったと主張して、被告済生会に対しては診療契約の債務不履行又は不法行為に基づき、光一の治療に当たった医師である被告森偉久夫及び同塩見興(以下「被告森」、「被告塩見」といい、両被告を「被告医師ら」という。)に対しては不法行為に基づき、損害賠償を請求した事案である。

一  前提事実(証拠を摘示しない事実は、当事者間に争いがない。)

1  原告須見スマ子(以下「原告スマ子」という。)は光一の妻であり、原告梅原由紀子(以下「原告由紀子」という。)、同須見美彦(以下「原告美彦」という。)及び同須見守貴(以下「原告守貴」という。)はいずれも光一の子である(<書証番号略>)。

被告済生会は、社会福祉の増進等を目的とした社会福祉法人であり、その医療機関の一つとして、宇都宮市中央本町四番一七号に宇都宮病院を設置して医療業務を営んでいる。被告医師らは、平成六年当時、いずれも宇都宮病院泌尿器科に勤務する医師であり、被告森は泌尿器科の医長として、被告塩見は光一の主治医として、それぞれ同人の治療に当たっていた。

2  光一は、宇都宮病院において、ほぼ毎月一回の割合で定期健康診断を受けていたところ、平成六年八月四日に前立腺癌と診断され、同年一〇月一九日、その摘出手術のために宇都宮病院に入院し、諸検査を経た後、同月二五日、被告医師ら他による前立腺癌の摘出手術を受けた。右手術は無事成功し、術後の回復も順調であった。ところが、光一は、同月二九日一四時四五分ころ、トイレに行こうとして病室から廊下に出た際、突然ショック症状を呈して倒れ込み、被告医師ら及びその他の医師、看護婦らによる応急措置が施されたが功を奏さず、同日一九時五九分、肺塞栓を直接の死因として死亡した。

二  原告らの主張

1  被告医師らの注意義務違反

(一) 被告医師らは、被告済生会と光一との間の診療契約の履行補助者ないし職業的専門人である医師として、光一の前立腺癌の摘出手術及び術後の管理監督に細心の注意を払い、適切に対応すべき注意義務がある。しかし、被告医師らは、以下のとおり、右注意義務を怠った。

(1) 他人血輸血における注意義務違反

光一は、平成六年一〇月二九日、術後初めて他人血輸血を受けたが、同人は、これを嫌がってその中止を求めていた。

被告医師らには、右他人血輸血に当たり、同種の血液型で行うべきことはもちろん、患者の心身の反応及び容態を輸血の前後にわたって十分かつ細心に観察しなければならない注意義務があった。

しかしながら、被告医師らはこれを怠り、光一からの輸血中止の申し出を聞き入れずに漫然と輸血を継続し、輸血終了後も、光一の心身の反応及び容態の観察を全く行わないまま放置した。右他人血輸血は不適合輸血であり、また、仮に適合輸血であっても光一の身体に微妙な影響を与え、肺塞栓を誘発したのものである。

(2) 肺塞栓の予防における注意義務違反

肺塞栓は術後合併症の一つとされ、ほとんどは安静臥床後の動作によって起きることが多いと言われているところ、その予防策としては、早期離床、下肢の運動、マッサージ及び弾性ストッキングの着用に加えて、ヘパリンの投与による予防的抗凝固療法が有効であるとされているのであるから、被告医師らには、光一の肺塞栓発症の可能性を予測し、同人が初めて離床するに当たっても十分に配慮し、右のような肺塞栓の予防策を講じる注意義務があった。

しかしながら、被告医師らはこれを怠り、術後、光一に対し、体位交換をさせた他は、歩行開始の時期及び方法等について何ら助言することなく、ただ歩行するよう漫然と指示するのみで、いわば光一に任せきりの状態で放置し、右のような肺塞栓の予防策を講じなかった。

(3) 肺塞栓の治療における注意義務違反

肺塞栓の治療としては、ヘパリンの投与による抗凝固療法及びウロキナーゼの投与による血栓溶解療法が有効であるとされているのであるから、光一がショック症状を呈した後、被告医師らには、これらの措置を試みる注意義務があった。また、ヘパリンが無効の段階になった後は、静脈結紮が行われるべきであった。

しかし、被告医師らはこれを怠った。特に、ヘパリンは、筋肉注射又は皮下注射で抗凝固作用を示し、三〇分から六〇分で活性をみるとされているところ、光一の血圧は、一時は回復の兆を見せていたのであるから、ヘパリン投与の機会は十分にあったとみるべきである。

(二) 被告済生会は光一との間の診療契約の当事者であり、被告医師らはその履行補助者であるから、被告済生会は債務不履行責任を負う。また、被告医師らは右注意義務違反により不法行為責任を負うから、被告医師らの使用者である被告済生会は使用責任を負う。

2  損害

(一) 光一の逸失利益

(1) 光一(大正一四年一二月一八日生)は、昭和二二年四月に栃木県の県立高等学校の教員となり、同三六年四月からの栃木県教育委員会健康教育課(現保健体育課)の勤務を経て、同五七年一月には南那須養護学校及び栃木養護学校の各校長になり、同六一年四月に定年退職した後は、栃木社会保険センターの専任トレーナー、栃木県障害者スポーツ協会事務局長に就任し、平成二年三月任期満了により退職しだ。平成二年四月からは、地元の宗教法人である大谷寺観音において「御札書き」の仕事をする傍ら、トレーナーとしても働いており、前立腺癌の摘出手術のために一度は退職したものの、術後の回復を待って復職する予定であった。

(2) 光一の平成五年の収入は、右大谷寺観音等からの給与所得金一八一万円と厚生年金など金四一〇万三四三二円であった。このうち、右給与所得については、六八歳の男性の平均余命が14.16年であることから、死亡時以降七年間稼働可能として、ライプニッツ方式(係数5.7863)で中間利息を控除し、生活費控除三〇パーセントとして計算すると、金七三三万一二四二円となる。また、年金については、右のとおり平均余命14.16年であることから、死亡時より少なくとも一四年間の逸失利益が発生することとなり、ライプニッツ方式(係数9.8986)で中間利息を控除し、生活費控除三〇パーセントとして計算すると、金二八四三万二七六二円となる。

(3) よって、光一の逸失利益は合計金三五七六万四〇〇四円となり、これについて、原告スマ子が二分の一の金一七八八万二〇〇二円を、原告由紀子、同美彦及び同守彦が各六分の一の金五九六万〇六六七円をそれぞれ相続した。

(二) 原告スマ子の損害

原告スマ子の損害は、左記(1)ないし(4)の合計金三五八八万二〇〇〇円である。

(1) 光一の逸失利益の相続分

金一七八八万二〇〇〇円

原告スマ子の相続分は、(一)(3)のとおり金一七八八万二〇〇二円となる(一部請求)。

(2) 慰謝料 金一〇〇〇万円

原告スマ子は、掛け替えのない夫を突然に失ったことと、被告らの責任逃れのような不誠実な態度によって精神的損害を被った。その慰謝料は金一〇〇〇万円を下らない。

(3) 葬儀費用 金五〇〇万円

原告スマ子は、平成六年一一月二日に行われた光一の葬儀費用として金六八七万四〇〇〇円余りを負担した。そのうち、返礼品代金一四四万二〇〇〇円等を控除しても、金五〇〇万円を下らない。

(4) 弁護士費用 金三〇〇万円

原告スマ子は、本件訴訟追行を原告ら訴訟代理人弁護士らに委任し、弁護士会の定める報酬規定により着手金及び謝金を支払うことを約したので、被告らは、少なくとも判決の認容額の約一割相当分を負担すべきである。

(三) 原告由紀子、同美彦及び同守貴の各損害

原告由紀子、同美彦及び同守貴の損害は、それぞれ左記(1)ないし(3)の合計金一一九六万円である。

(1) 光一の逸失利益の相続分

各金五九六万円

原告由紀子、同美彦及び同守貴の各相続分は、各金五九六万〇六六七円となる(一部請求)。

(2) 慰謝料 各金五〇〇万円

原告由紀子、同美彦及び同守貴は、掛け替えのない父を突然に失ったことと、被告らの責任逃れのような態度によって精神的損害を被った。その慰謝料は、各金五〇〇万円を下らない。

(3) 弁護士費用 各金一〇〇万円

原告由紀子、同美彦及び同守貴は、原告スマ子同様、本件訴訟追行を原告ら訴訟代理人弁護士らに委任した。

三  被告らの主張

1  被告医師らの注意義務違反の不存在

被告医師らに原告らが主張する一般的な注意義務があることは争わないが、以下のとおり、被告医師らには注意義務違反はなかった。

(一) 他人血輸血における注意義務違反の不存在

光一への他人血輸血は、平成六年一〇月二九日に初めて行われたものではなく、同月二七日から開始されていた。光一への輸血について、他人血の輸血による不適合はなかったし、被告医師らが、光一について十分かつ細心の観察を怠っていたこともない。

(二) 肺塞栓の予防における注意義務違反の不存在

肺塞栓の傷病素因としては、深部静脈血栓症、長期間のベッド上の安静、心疾患、悪性腫瘍及び術後の安静等が挙げられるが、光一の場合、下肢静脈血栓症も心疾患もなく、極端な肥満でもない上、前立腺癌は、肺塞栓を引き起こす蓋然性のある疾病とは考えられておらず、肺塞栓の発症を予測するような特別の事情もないので、被告医師らには、原告らが掲げる肺塞栓の予防策を講じるべき注意義務はなかった。

被告医師らは、肺塞栓に対する事前の特別の措置は採っていないが、早期離床に備え、一般的な措置として、術後一日目から体位交替を開始し、二日目から起座位にさせ、第四日目から歩行を開始させるなどしていたものである。

(三) 肺塞栓の治療における注意義務違反の不存在

光一は、ショック状態に陥った後、急速に血圧が低下し、自発呼吸も減弱し、蘇生術(昇圧剤、心臓マッサージ、人工呼吸)を行ったがさらに容態が悪化したため、被告医師らとしては、ヘパリンの投与による抗凝固療法又はウロキナーゼの投与による線溶解療法といった原因療法を行う機会を見い出せなかった。原告らは、光一の血圧が上昇していたと主張するが、これは昇圧剤投与によるごく一時的なものである。

このように、被告医師らが光一についての種々の救命措置を採っているにもかかわらず功を奏しない状況の下では、被告医師らには、原告らが掲げてるような原因療法を採る注意義務はなかったというべきである。また、静脈結紮は、肺塞栓発症前にその予防のために行うものであるから、この点に関する原告らの主張は理由がない。

2  原告らの主張の損害について

(一) 逸失利益について

光一は前立腺癌の摘出手術前に退職していたのであるから、同人に給与所得があるのと同様の前提に立つ原告らの主張は失当である。また、厚生年金等の年金収入は、その制度の目的からして相続の対象とはならないと解するのが相当であり、仮にそれが相続財産に属するとしても、例えば遺族厚生年金の制度があり、また、生活費の控除を考慮すると、逸失利益はないと考えられる。

(二) 慰謝料について

光一は、死亡当時、既に現役を引退しており、一家の支柱であったとも認め難いし、もともと前立腺癌という病気を抱えていた者であって、これらの事情を参酌すると、原告らの主張の慰謝料は多額に過ぎる。

第三  当裁判所の判断

一  光一の死亡に至るまでの経緯

<書証番号略>、被告森本人尋問の結果(以下「被告森本人」という。)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。

1  平成六年九月一六日から同年一〇月二二日までの間、光一は、数回にわたって血液を採取され、手術用の自己血の貯血が行われた。貯血した自己血の一部は、輸血されて戻された結果、最終的には総貯血量は二〇〇〇ccとなった。

光一は、被告済生会病院に入院した後、同年一〇月二〇日、ABO型とRh(D)式血液型の再検査及び不規則性抗体検査を受けた。血液型はA型・Rh(+)であり、不規則性抗体検査の結果は、生食法、ブロメリン法、アルブミン法及びクームス法とも陰性であった。

さらに、同月二四日、光一の血液について、同人に使用される予定の血液製剤(人赤血球濃厚液「赤血球M・A・P『日赤』」、ロットナンバー二四〇―二二三九、同五四〇―四五一及び同三二〇―七六七四。)とのクロスマッチ試験が行われ、生食法、ブロメリン法、γPeGクームス法とも陰性を示した。

2  同月二五日一三時一七分から一八時三二分までの間、光一の前立腺癌の摘出手術が行われた。右手術における光一の出血量は二三一〇ccであり、予め貯血されていた自己血二〇〇〇cc全量が輸血された。手術は成功であった。手術を終えた光一は、一八時三二分から二〇時一二分ころまでの間、手術室の回復室において五分ないし一〇分ごとのバイタルチェックを受け、二〇時三〇分に北二階病棟二〇三号室に帰室した。帰室した光一の血圧、脈拍および体温等の全身状態は落ち着いており、術後の出血も多くはなく、順調な経過であった。

同月二六日二三時ころから、体位交換が開始された。

同月二七日一時三〇分には、術後最初の排ガスが確認され、その後も排ガスは順調に続いた。また、手術後に認められていた嘔気、嘔吐もそれ以後軽快していった。光一は、同日一〇時から、同日に受けた血液検査の結果(赤血球二四九万個、血色素量7.3、ヘマトクリット値22.0パーセント)により貧血が認められたため、血液製剤二単位(ロットナンバー二四〇―二二三九)の輸血を受けた。その後、九〇度のギャッジアップによる起座位の許可が出て、同日一九時から二一時の間には飲水が開始された。

同月二八日一〇時ころから、光一は血液製剤二単位(ロットナンバー五四〇―四五一九)の輸血を受けた。

3  同月二九日六時(以下時刻のみで年月日を示さない場合は、同日を指す。)、光一の血圧は、一二〇/七四mmHG(以下血圧の単位は省略する。)で、脈拍は六四回であり、発熱はなかった。

九時ころ、被告医師らは光一を回診し、光一に対し、歩行を奨励する言葉を掛けた。

一二時ころ、光一は、術後初めての食事となる流動食を八割ほど摂った。その後、一二時五〇分ころから一三時五〇分ころまでの間、血液製剤が一単位(ロットナンバー三二〇―七六七四)輸血された。輸血が終わった後、光一は、ベッド上で起座位の状態で、看護婦に対し、嘔気、嘔吐はない、気分不快はない、先生から歩いていいと言われたなどと述べ、歩行に対して意欲を見せていた。看護婦は、光一が歩行を開始するに当たっての安静度を医師に確認していなかったため、医師(被告塩見又は泌尿器科の医師鈴木(以下「鈴木」という。))にそれを確認すると、トイレ歩行は可との返答であり、それを光一に伝えた。光一は、歩く時は息子(原告守貴)も付いてくれているから大丈夫などと言ったが、看護婦は、初めての歩行なので無理しないようになどと述べ、光一も納得した。この時の光一のバイタルサインに大きな変化はなかった。

4  一四時四五分ころ、光一は、トイレに行こうとして、原告守貴に支えられ、ゆっくりと廊下に歩いて出たが、約二メートルほど行ったところで、「やっぱりやめとく」と病室に戻ろうとしたときに、突然、廊下の壁に頭をぶつけて前かがみに倒れ込んだ。原告守貴は隣室にいた看護婦に声を掛け、それを聞いて光一の急変を知ったその看護婦がさらに鈴木らに応援を求め、皆で、原告守貴に抱えられて座り込むような状態となっていた光一をベッドに運び込んだ。

その直後に、被告塩見が駆けつけたとき、光一は、顔面蒼白で、四肢も冷たく、息が苦しい、暑い暑いなどと訴えており、血圧は七二/五二とショック状態を示していた。被告塩見、鈴木及び看護婦らは、酸素吸入、静脈確保及び昇圧剤(エフェドリン)投与等の蘇生術を開始するとともに、心電図検査、血液検査及び胸部レントゲン検査等を行った。

一四時五〇分、光一は顔色が悪く、四肢は冷たく、息苦しさを訴えていた。血圧は九二/五〇に上昇し、一時回復の兆しを見せたものの、一五時一〇分には八二/五〇と再び低下した。そのころ、狭心症も疑われたため、ニトロールが舌下投与された。

一五時一五分ころ、被告森が病室を訪れた。光一は、意識はあるものの、容態に変化はなく、血圧もショックレベルが続いていた。被告森は、循環器内科の医師野間及び麻酔科の医師西原に応援を求め、一五時二〇分からは同医師らが救命治療に協力した。しかし、その効果はなく、血圧は回復せず、一五時三五分には、血圧が六八に低下し、自発呼吸が弱くなったので、気管内挿管がされ、心臓マッサージ及び人工呼吸が開始されるとともに、昇圧剤(ドーパミン・ドプトレックス)の持続点滴も開始された。

一六時ころ、被告森は、被告守貴に対し、光一が危険な状態にあることを伝えた。

一六時一〇分、光一の瞳孔は散大し、心電図は平坦になったが、心臓マッサージは続けられた。そして、一九時五九分、光一は対光反射がみられず、自発呼吸もなく、死亡が確認された。

なお、原告らは、<書証番号略>について、光一の自己血の採血量に関する記載に不正確な箇所があることを根拠として、その信用性に疑義を述べるが、それらの記載に若干不正確な箇所があるとしても、記載の形式及び内容等に照らし、同号証全体の信用性を低下させるものとまでは到底言えない。

また、平成六年一〇月二九日の輸血開始時については、<書証番号略>には一二時との記載があるが、終了時の記載がないことから、これは予定時刻であると考えられ、現実の輸血開始時は、原告守貴の陳述書(<書証番号略>)により、十二時五〇分ころであったと認めるべきである。

二  被告医師らの注意義務違反について

被告医師らは、被告済生会と光一との間の診療契約の履行補助者ないし職業的専門人である医師として、光一の前立腺癌の摘出手術及び術後の管理監督に細心の注意を払い、当時の医療水準に応じた適切な指示、指導及び治療行為をすべき義務を負っている。これを前提に、以下、被告医師らについて、原告らが主張する具体的な注意義務及びその違反があったか否かについて検討する。

1  他人血輸血における注意義務違反について

(一)  被告医師らには、右他人血輸血に当たり、不適合輸血にならないよう十分に検査し、輸血の前後を通じて患者の心身の状況、容態を十分に観察して適切な対処をすべき注意義務があると解されるが、前認定のとおり、光一の血液については、平成六年一〇月二〇日に不規則性抗体検査が行われ、同月二四日には、後に光一に使用された血液製剤(ロットナンバー二四〇―二二三九、五四〇―四五一九及び三二〇―七六七四)とのクロスマッチ検査が行われており、いずれの検査結果も陰性を示している。また、<書証番号略>被告森本人によれば、光一がショック状態に陥った同月二九日は、北病棟二階で輸血が行われたのは光一だけであったことが認められるから、他の患者の血液製剤との取り違えがあったとは考えられない。さらに、被告森本人及び鑑定の結果によれば、不適合輸血がなされた場合、すぐに拒絶反応が生じ、血管中で溶血が起こって重篤な症状が発現し、LDHが異常に高い値を示すはずのところ、光一の場合、前認定のとおり、輸血開始(一二時五〇分)からショック(一四時四五分)までの時間が約二時間弱と長く、また、<書証番号略>によれば、ショック後に行われた血液検査では、LDHは四一三とほぼ正常値を示していることが認められる。

(二)  以上の諸点を考慮すると、平成六年二九日に光一に行われた輸血は適合輸血であったと認められる。原告らは、仮に適合輸血だったとしても、他人血の輸血が光一の身体に微妙な影響を与え、肺塞栓を誘発したと主張するが、本件全証拠によるも、同人の肺塞栓の原因が他人血の輸血であったとは認めることができない。

(三) その他、被告医師らについて、光一の輸血前後の状況、容態の観察及び処置に注意義務違反があったことをうかがわせる証拠はなく、結局、被告医師らに前記注意義務違反はなかったと判断するのが相当である。

2  肺塞栓の予防における注意義務違反について

(一) <書証番号略>、被告森本人、鑑定の結果及び弁論の全趣旨によれば、肺塞栓は、静脈系に発生した血栓(その起源の大部分は、下肢の深部静脈であると考えられている。)が遊離して肺動脈を閉塞せしめることにより発生する疾患であり、この静脈血栓を惹起する可能性が高い素因としては、高齢、臥床状態、下腿の静脈瘤、心疾患、悪性疾患、妊娠、薬物、血液疾患、外傷及び手術などの因子が挙げられ、また、肺塞栓の予防策として、早期離床、下肢の運動、弾性ストッキングの着用、ヘパリンの投与などが有効であるとされていることが認められる。

しかしながら、肺塞栓の危険因子には多種多様なものがあり、その発症に寄与する程度にも自ずから軽重があるのであるから、被告医師らについて、いかなる場合においても右に掲げた肺塞栓の予防策のすべてを行うべき注意義務があると解すべきではなく、光一に肺塞栓の発症を予見すべき具体的な危険因子があると認められる場合に、その状況、容態に照らして可能かつ有効と思われる予防策を講じるべき注意義務があると解するのが相当である。

(二) 本件においては、前認定のとおり、光一は、手術の翌日である平成九年一〇月二六日から体位交換が行われ、同月二七日からはギャッジアップによる起座位の許可が出て、さらに、同月二九日からは歩行を奨励する言葉を掛けられているが、特に下肢の運動や歩行について細かい指示がされたわけでもなく、また、弾性ストッキングの着用もヘパリンの投与も行われていない。

しかし、前認定の事実及び鑑定の結果によれば、光一は、肺塞栓の原因となる静脈血栓を惹起する前記素因のうち、高齢、臥床状態及び手術という一般的な因子には該当するものの、下腿の静脈瘤、心疾患その他の因子には該当するとはいえない(下腿の静脈瘤の存否は検査されていないが、前認定の状況下でその検査をすべき注意義務があったということはできない。)から、肺塞栓の発症を予見すべき具体的な危険因子はうかがわれず、前認定(一2、3)の状況下で、被告医師らには、早期離床、早期歩行を勧めるほかに、肺塞栓の特別の予防策(ヘパリンの予防的投与や弾性ストッキングの着用など)を講じるべき注意義務まではなかったというべきである。

(三) よって、この点に関する原告らの主張は採用できない。

3  肺塞栓の治療における注意義務違反について

(一) <書証番号略>、被告森本人、鑑定の結果及び弁論の全趣旨によれば、肺塞栓の治療には、呼吸循環の管理、ヘパリンの投与による抗凝固療法、ウロキナーゼの投与による線溶解療法、塞栓摘除術、下大静脈結紮術などがあることが認められる。

しかしながら、被告医師らについて、肺塞栓の場合は必ず右に掲げた肺塞栓の治療を行う注意義務があると解すべきではなく、刻々と変化する光一の容態に対応して、具体的状況下で可能かつ肺塞栓に最も効果的とみられる治療法を選択し、実施する注意義務があると解するのが相当である。

(二) 本件において、光一がショック状態に陥った後、被告医師らは、酸素吸入し、輸液、昇圧剤投与による静脈確保を行っているが、ヘパリンもウロキナーゼも投与していないことが認められる。

しかしながら、前認定のとおり、光一は、一四時四五分にショック状態に陥ってから、昇圧剤投与による一時的な血圧の上昇を除いては、ショック状態のままであり、肺塞栓という確定診断も得られないまま、容態の改善もなく悪化の一途をたどり、心電図が平坦になった一六時一〇分には救命が極めて困難な状態になったというべきである。そして、被告森本人によれば、被告医師らは、ヘパリンの投与などの原因療法を検討したものの、右のような急激な経過のため、結局それを実施する機会を見い出せなかったことが認められる。

このように、光一の容態がショック後急激な経過をたどったことに加え、鑑定の結果によれば、一般に確定診断が得られていない場合、ヘパリンやウロキナーゼなどの薬剤は、その出血傾向などの副作用のため使いづらいことが認められることなどに照らすと、本件事案においては、被告医師らには、ヘパリンやウロキナーゼを投与する注意義務があったとはいえない。また、原告らは、被告医師らが静脈結紮を怠ったとも主張しているが、<書証番号略>によれば、静脈結紮は主に肺塞栓摘出術の付加手術として、又は、肺塞栓の保存的療法後、繰り返し肺塞栓を起こす患者についてその防止を目的に行われるものであることが認められるから、本件で被告医師らにこれを行う注意義務があったとまではいえない。

(三) よって、この点に関する原告らの主張は採用できない。

三  以上の次第で、被告医師らに注意義務違反があったとする原告らの主張はいずれも採用できない。

第四  結論

よって、原告らの請求は、その余の点につき判断するまでもなく理由がないから、これをいずれも棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官山﨑恒 裁判官見米正 裁判官品田幸男)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例