大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 平成7年(ワ)8517号 判決 1996年8月29日

原告

右訴訟代理人弁護士

松嶋泰

寺澤正孝

相場中行

竹澤大格

鈴木雅之

被告

右訴訟代理人弁護士

紙子達子

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一  原告の請求

一  被告は、原告に対し、別紙物件目録三記載の建物(以下「本件建物」という)を収去して同目録二記載の土地(以下「本件土地」という)を明け渡せ。

二  被告は、原告に対し、平成七年一月一日以降右明渡ずみまで月額金二万一〇〇〇円の割合による金員(地代相当損害金)を支払え。

第二  事案の概要

本件は、本件土地を所有する原告が、同土地上に本件建物を所有する被告に対し、所有権に基づき、右建物収去土地明渡等を求めたところ、原告と被告間で成立していた本件土地の賃貸借契約を解消し、被告が本件建物を収去して本件土地を明け渡すことを合意したとする和解契約の効力及び原告の右請求の当否が争点となった事案である。

一  前提となるべき事実(認定事実には証拠を掲げる)

1  原告は、昭和一九年九月三日、家督相続により、本件土地の所有権を取得した。

2(一)  被告は、昭和二二年一〇月、原告から、本件土地を普通建物所有の目的により、地代二一円七〇銭<証拠省略>、期間二〇年との約定で賃借し、その引渡を受けた(以下「本件借地契約」という)。

被告は、右借地後、本件土地上に木造建物を建築し、昭和三五年には一部増築を行い<証拠省略>、現在、同土地上に本件建物を所有している。

(二)  右借地契約は、被告の本件土地の継続使用に基づき、昭和四二年一〇月次いで昭和六二年一〇月にそれぞれ法定更新された<証拠省略>。

3  原告と被告は、平成四年一月一〇日、本件土地の明渡に関し、要旨次のとおりの和解契約を締結した(以下「本件和解契約」という)。

(一) 被告及び被告の妻A(以下「A」という)は、本件土地について何ら占有権原のないことを確認し、平成六年一二月末日までに被告は本件建物を収去して、Aは本件建物から退去して、原告に対してそれぞれ本件土地を明け渡す。

(二) 原告は、被告及びAに対し、平成六年一二月末日まで、被告及びAが本件土地を無償で使用することを認める。

4  なお、被告は、昭和四二年一〇月の前記更新時において、原告から更新料支払の請求を受けたが、これを高額に過ぎるとして拒絶し、昭和四三年六月分以降の地代(ただし、月額金二一七〇円の割合)を供託するに至っている<証拠省略>。

二  争点

1  本件和解契約の締結によって本件借地契約を合意解約したものか否か

(原告)

本件和解契約は、本件借地契約の合意解約と本件土地の明渡猶予について双方が互譲の上で締結されたものであり、本件借地契約は、本件和解契約の締結によって合意解約され、平成四年一月一〇日をもって終了したものである。

(被告)

本件和解契約締結の事実はあるが、同契約に関する「和解書」には合意解約の文言はなく、本件借地契約が本件和解契約の締結によって合意解約されたとする原告の主張は争う。

2  本件和解契約の無効ないし取消

(被告)

(一) 意思無能力

被告は、本件和解契約締結当時、七七歳の老人であり、老人性痴呆症に罹患していたため、意思能力を欠いていた。

(二) 錯誤

① 被告は、本件和解契約締結当時、本件土地について適法な借地権を有しており、法律上、原告の請求するような高額の更新料及び供託中の地代と増額地代との差額分(以下単に「差額地代」という)を支払うべき義務は負っていなかった。それにもかかわらず、被告は、原告からの右支払要求により、本件建物の居住を続けるためには右支払をしなければならず、それをしない限り本件借地権はないものと錯誤に陥り、右支払ができない以上本件和解契約に応じざるを得ないものと考え、その結果、右契約を締結するに至った。

② 右錯誤は、要素の錯誤に該当する。仮に動機の錯誤に当たるとしても、本件和解契約の締結の際に表示されていたから、民法九五条により、右契約は無効である。

③ なお、被告の年齢と精神状態のほか、原告が右のとおり高額の更新料及び差額地代の支払を要求し、それに基づいて、被告が前記のような錯誤に陥ったという経過からすると、被告には右錯誤について重大な過失があったとは認められない。

(三) 詐欺

① 原告は、本件和解契約締結の際、被告に対し、本件建物の居住を続けていくためには、高額の更新料及び差額地代を支払わなければならないなどと虚偽の事実を申し向けて被告を欺き、その旨誤信させた上で、本件和解契約を締結させた。

② 被告は、原告に対し、平成八年二月二六日の本件第七回口頭弁論期日において、詐欺を理由として、本件和解契約を取り消す旨の意思表示をした。

(四) 強迫

① 原告は、本件和解契約締結の際、被告に対し、本件借地契約の合意解約に応じなければ、更新料及び差額地代として莫大な金額を支払わなければならないなどと申し向けて被告を強迫して畏怖させ、本件和解契約を締結させた。

② 被告は、原告に対し、平成四年一一月三〇日到達の書面をもって、強迫を理由として、本件和解契約を取り消す旨の意思表示をした。

(原告)

(一) 原告は、平成三年頃から半年くらいの時間をかけて、被告及びAに対して更新料の支払と差額地代の清算方を求めていたところ、被告及びAは、収入が少ないので右金員を支払うことはできないし、子供たちも独立しており、本件建物に戻ってきて住むということもないので、二、三年くらい本件建物に住むことさえできれば、それで良いということであったため、円満解決のため、双方十分納得した上で本件借地契約を合意解約することとし、前記内容の本件和解契約を締結したものである。

そして、被告は、本件和解契約締結当時、全くの健常者であり、その内容を十分理解していたものである。

したがって、本件和解契約の瑕疵に関する被告の主張は、すべて事実に反しており、理由がない。

(二) 仮に本件和解契約の締結に当たり被告に錯誤があったとしても、右錯誤について重大な過失があった。

3  公序良俗違反、権利濫用ないし信義則違反の主張の当否

(被告)

原告は、本件土地以外にも広大な土地を所有しており、本件土地を自ら使用する必要性が乏しいのに対し、被告は、高齢であり、本件借地上の建物を生活の本拠として利用しており、他に居住すべき場所を有していない。

そして、本件和解契約は、前記のとおり、被告が高額の更新料及び差額地代を支払うべき義務を負っていることが前提とされ、その支払ができないのであれば本件土地を明け渡さなければならないということから締結されるに至ったものである。

また、被告は、本件和解契約によれば、わずかな地代相当損害金の支払義務を免れる代わりに高価な借地権を失うことになるが、そのような内容の合意は、借地人に一方的な不利益を課すものであり、公序良俗に違反し、無効である。

さらに、原告の本訴請求は、原告が被告に対して法律上支払うべき義務のない更新料及び差額地代の支払を要求した上、被告の高齢と無知に乗じて高価で生活上不可欠な借地権を奪い取ろうとするものであるから、信義則に違反し、権利の濫用に当たる。

(原告)

被告の右主張は争う。

第三  当裁判所の判断

一  本件和解契約の締結によって本件借地契約を合意解約したものか否か。

被告とAが平成四年一月一〇日に原告との間で締結した本件和解契約をもって、被告とAが原告に対し、本件土地について何ら占有権原がないこと及び平成六年一二月末日限り本件建物を収去ないし退去して本件土地を明け渡すべきことを約したことは前記判示のとおりであり、証拠(証人Aの証言)によると、被告とAは、その際、原告に対して更新料及び差額地代を支払わない限り、本件借地契約を続けることができず、他へ転居しなければならないと考えていたことが認められる。

右事実によると、被告が、本件和解契約の締結によって、本件借地契約を解消することになることを認識していたことは明白であり、本件和解契約中の各条項が右合意解約を前提とするものであることを十分理解していたものというべきである。

したがって、本件和解契約の締結によって本件借地契約を合意解約したものではないとする被告の前記主張は採用できない。

二  本件和解契約の効力について

1  意思無能力

被告は、本件和解契約締結当時、高齢で老人性痴呆症に罹患していたとして意思無能力の状態にあったと主張する。

しかしながら、証人Aの証言と乙一三号証だけをもってしては、被告が右契約締結当時において事理弁識能力を欠く状態にあったものとまでは認められず、被告の右主張は採用できない。

2  錯誤

(一) 前記「前提となるべき事実」及び証拠(<証拠省略>)によると、被告(大正四年○月○日生)とA(大正七年○月○日生)夫婦は、昭和二二年一〇月以降本件土地を賃借しているが、昭和四二年一〇月の契約更新の際、原告から更新料(坪三万円の割合)の支払を求められたところ、それが高額に過ぎるとして支払に応じなかったこと、そうしたことから、被告は、昭和四三年六月分以降の地代を供託するようになったこと、原告は、本件土地周辺の多数の土地を他に賃貸しているが、以前から、被告と同様に更新料の支払等をめぐって紛争が生じている借地人がいたし、また、戦後の混乱期に不法に土地の占有を始めた者もいたこと、原告では、昭和六三年頃から、これらの解決を要する土地占有者との間で交渉を開始し、本件原告訴訟代理人弁護士らを介するなどして、右占有者との間で順次土地明渡等の合意を成立させてきたこと、そうした中で、原告は、平成三年秋頃、バスの中で偶々Aに会ったことから、同女に対して更新料及び差額地代の支払の件を切り出した上、その後、同年末にかけて、数回にわたり、被告ないしAとの間で右支払問題について話し合ったこと、その際、原告としては、昭和四三年六月分から供託中の地代額と税負担の上昇をスライドさせた適正地代額との差額金はかなりの金額になるものと考えられたことから、これらの清算と更新料の支払を求めて本件借地契約を継続することは被告とA夫婦の経済状態からみて難しいと思われたため、被告とA夫婦に対し、右支払をするよりは、それを引越費用に充てることにし、本件建物を出て家賃の安い建物に引っ越すことを勧めたこと、一方、被告とA夫婦においては、原告に対して当時の経済状況や家族や様子等を話したほか、一定程度の金員であれば支払う用意のあることを伝えたが、多額の金員を支払う余裕はないことから他へ転居した方が良いと考えるに至ったこと、その結果、被告とA夫婦は、平成四年一月一〇日、原告との間で、前記のとおり本件借地契約を合意解約するということで本件土地について占有権原を有しないこと、約三年間の猶予期間をおいてこれを明け渡すが、その間の地代の支払義務の免除を受けること、それ以外には何ら債権債務関係がないということを内容とする本件和解契約を締結したこと(<証拠省略>)が認められる。

(二) 右認定事実によると、被告とA夫婦は、本件和解契約締結当時、原告の支払要求を受け、原告に対して更新料及び差額地代の支払義務を負っているものと考えていたことが明らかである。

しかしながら、本件において、被告が原告に対して右更新料及び差額地代の支払義務を負っていたかどうかについてみると、原告の主張立証をもってしては、以下のとおり、被告が右各支払義務を負っていたものとは未だ認められない。

すなわち、更新料については、本件証拠上、被告が期間満了に当たり原告に対してこれを支払うことを約したことを認めるに足りる証拠はないし、また、賃貸人の請求があれば当然に賃借人の更新料支払義務が生ずる旨の商慣習ないし事実たる慣習の存在についての十分な主張立証もないのであるから、本件和解契約締結当時、被告が原告の要求する更新料について支払義務を負っていたものと認めることはできない(なお、原告本人は、他の借地人からは期間満了の都度更新料の支払を受けており、他の地主も同様である旨供述するが、そのような程度の事実をもってしては被告との関係で更新料支払義務を認めるまでには至らない)。

また、地代の増額がなされるためには、賃貸人からその旨の意思表示がなされることを要するところ、被告が供託を始めた昭和四三年六月分以降の地代につき、右増額の意思表示が行われたかどうかについては、原告本人は、その母が昭和四五年頃に一度増額をお願いしたはずだと述べたり、三年ごとに口頭で地代の値上げを求めていたはずだと述べたりするにとどまり、他方で、原告及びその母と被告及びA夫婦とは長年にわたって話合いのできるような関係にはなかったとも述べていることからすると、他に右増額の意思表示の事実を客観的に裏付ける証拠のない本件においては、原告本人の右供述部分だけから、具体的な金額によって増額の意思表示がなされてきたものと認めることは困難である。したがって、被告が供託にかかる地代を上回る金額の差額地代について支払義務を負っていたものとは未だ認められない。

以上によると、原告と被告双方とも、被告が右更新料及び差額地代の支払義務を負っているとの前提で本件和解契約を締結したところ、実際は、被告は右各支払義務を負っておらず、被告にはこの点について錯誤があったということができる。

(三) ところで、和解は、当事者の互譲によりその間に存する係争を止めることを約する契約であるが(民法六九五条)、争いの目的となり、互譲によって決定した事項については和解契約の成立によって確定されるため、右事項に関する錯誤を主張して争いを蒸し返すことは許されないものとされている(同法六九六条)。

これを本件についてみると、原告と被告間では、前記のとおり、被告が原告に対して更新料及び差額地代の支払義務を負うべきこと自体は前提とされて争われはしなかったものの、被告が本件建物を出て本件土地を明け渡すべきか否か、明け渡さない場合には右支払をどうすべきかといった問題が検討され、その上で、被告の本件土地に対する占有権原不存在と右支払義務の点を含めた債権債務関係の不存在が合意されたものということができる。

そうすると、本件和解契約においては、被告の右支払義務の存否についても全体として互譲の対象とされ、その結果、不存在ということで確定されたものというべきであるから、和解の確定効によって、被告は右の点について錯誤の主張をすることは許されないものといわなければならない。

(四) よって、被告の錯誤無効の主張は理由がない。

3  詐欺及び強迫

被告は、本件和解契約は原告の欺罔ないし強迫行為によって締結させられたものであるから、取り消し得べきものであると主張する。

しかしながら、前記2(一)で認定した事実関係からすると、原告と被告とA夫婦間の交渉経過及び本件和解契約締結に至る経過において、原告がことさら虚偽の事実を説明したり、畏怖せしめるような言動を採ったりしたとは認められないから、被告の右主張は採用できない(なお、原告が被告において更新料及び差額地代の支払義務を負担すべきものと考え、その支払を要求したことは、前記のとおり法的には直ちに認められないものであったけれども、それも一つの見解ということができ、そのことだけをもって違法視することはできない)。

三  公序良俗違反、権利濫用ないし信義則違反の主張について

1  これまでに判示したところからすると、被告は、昭和四二年一〇月の契約更新時の更新料支払をめぐって地代を供託するようになったが、それまでは原告との間で格別の問題もなく推移し、本件和解契約締結時においては約四四年間にわたって賃貸借関係が継続していたこと、被告が本件和解契約について錯誤による無効を主張し得ないことは前記判示のとおりではあるが、右契約締結に至ったのは、原告から、法律上支払うべき義務のない更新料及び差額地代の支払を要求されたからであり、その点についての法的知識が十分であれば、本件和解契約締結には至らなかった可能性が高いこと、被告は、妻Aとともに本件建物を生活の本拠としてきていたところ、本件和解契約を締結した結果、わずか約三年間分の地代相当損害金の支払義務を免れる代わりに、高価な本件借地権(<証拠省略>によると、平成四年の路線価では、右借地権価格は約四三八〇万円と認められる[平方メートル当たり金一〇二万円、借地権割合六割])を失うという著しく不利益で苛酷な結果を招くことになること、そして、本件和解契約は、昭和六二年一〇月の法定更新後わずか四年余経過したばかりの時期に締結されたものであり、期間満了までにはかなりの期間があったということができる。

また、証拠(<証拠省略>)によると、被告とA夫婦は、元来法的知識に乏しく、原告との交渉の間、区役所に相談に行ったことがあったが、その際には従来どおりの地代を供託するよう指導されたにとどまったこと、Aは、平成四年一月に本件和解契約を締結した後、子供に右契約のことを話し、その後さらに弁護士に相談したところ、同年一一月末にいたり、本件被告訴訟代理人弁護士から原告に対して右契約の効力を争う旨の通知がなされたことが認められる。

2 以上のような本件和解契約締結に至る交渉経過、特に原告の不正確な説明内容が契機となって被告が前記のとおり錯誤に陥ったことや被告の経済的損失の程度と右契約締結後の対応のほか、被告の年齢や原告が多数の土地を所有する地主であり、本件土地に対する自己使用の必要性はさほど高くないと考えられることなど諸般の事情を総合すると、本件和解契約は、被告において真実その効果を欲していたとはいえず、かつ、客観的にも、原告との関係からみて被告にとって不当に苛酷なものといわざる得ない(東京高裁昭和五八年三月九日判決・判例時報一〇七八号八三頁参照)。

よって、本件和解契約は、借地借家法九条の趣旨に照らし、また、信義則に照らし、無効であると認めるのが相当である。

四  以上によると、原告の本訴請求は理由がないからこれを棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判官安浪亮介)

別紙<省略>

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例