東京地方裁判所 平成7年(合わ)255号 判決 1998年6月12日
主文
被告人を懲役一七年に処する。
未決勾留日数中八〇〇日を右刑に算入する。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は、宗教法人オウム真理教(以下「教団」という。)に所属していたものであるが、以下の犯行に及んだ。
第一 サリンを生成し、これを発散させて不特定多数の者を殺害する目的で、教団代表者M’ことM(以下「M」という。)及び教団所属の多数の者と共謀の上、平成五年一一月ころから平成六年一二月下旬ころまでの間、山梨県西八代郡上九一色村富士ヶ嶺<番地略>所在の第七サティアンと称する教団施設及びその周辺の教団施設等において、同サティアン内に設置するサリン生成化学プラント工程等の設計図書類の作成、同プラントの施工に要する資材、器材及び部品類の調達、その据付け及び組立て並びに配管、配電作業を行うなどして同プラントを建設したほか、サリン生成に要する原料であるフッ化ナトリウム、イソプロピルアルコール等の化学薬品を調達し、これらをサリンの生成工程に応じて同プラントに投入し、これを作動させてサリンの生成を企て、もって、殺人の予備をした。
第二 M及び教団所属の故C、N、E、Sらと共謀の上、サリンを発散させて不特定多数の者を殺害しようと企て、平成六年六月二七日午後一〇時四〇分ころ、長野県松本市北深志一丁目<番地略>所在の駐車場において、サリンを充てんした加熱式噴霧器を設置した普通貨物自動車を同所に駐車させ、右加熱式噴霧器を作動させてサリンを加熱・気化させた上、同噴霧器の大型送風扇を用いてこれを周辺に発散させ、別表1記載のとおり、同市北深志一丁目<番地略>××ハイツ二〇四号室などにおいて、伊藤友視(当時二六歳)ほか六名をしてサリンガスを吸入させるなどし、よって、同月二八日午前零時一五分ころから午前四時二〇分ころまでの間、右××ハイツ二〇四号室ほか六か所において、サリン中毒により右伊藤ほか六名を死亡させて殺害するとともに、別表2記載のとおり、同市北深志一丁目<番地略>河野義行方などにおいて、河野澄子(当時四六歳)ほか三名をしてサリンガスを吸入させるなどしたが、同表加療等期間欄記載の各加療等日数を要するサリン中毒症の各傷害を負わせたにとどまり、殺害の目的を遂げなかった。
(証拠の標目)<省略>
(事実認定の補足説明)
第一 判示第二のいわゆる松本サリン事件(殺人、殺人未遂)について
一 弁護人らの主張
1 被告人には、サリンを噴霧するということの認識も、噴霧したものの毒性についての認識も欠如していたのであるから、不特定多数の者に対する殺意はおろか傷害の犯意さえなかったのであり、他の共犯者との間にサリンを噴霧することについての共謀もなかった。
2 仮に、犯罪の成立が肯定されるとしても、被告人は、本件犯行に関与していたことを、捜査機関が知る前に、自ら捜査機関に申告したのであるから、自首が成立する。
二 主張1について
1 証拠から認定できる事実
(一) サリンは、ドイツにおいて大量殺りく兵器として開発されたいわゆる毒ガスであり、常温下では無色、無臭の液体であって、体内に摂取されると、人の神経伝達機能に障害を与え、その結果、呼吸器系の障害、嘔吐、全身けいれん、けいれんによる呼吸器系の阻害等の諸症状が認められ、最終的には呼吸中枢がまひするため、空気を吸入することができなくなって死に至るというものであり、体重一キログラム当たり〇・〇一ミリグラム以上のサリンを摂取した場合には、一五分以内に死亡するという極めて殺傷力の強い神経ガスである。
(二) 平成五年一一月ころ、山梨県西八代郡上九一色村内の教団施設において、Tが多量のサリンの生成に成功したとの報告を受けた教団代表者のMは、かねてより他の宗教団体関係者を暗殺しようと考えていたことから、教団幹部の故Cらに命じて、以下のとおり、右宗教団体関係者に対するサリンの使用を行ったが、いずれも暗殺には失敗したため、Cらに対して失敗の原因を検討させた結果、サリンの使用方法等について種々の改良等を行うことになった。
(1) 平成五年一一月中旬ころ、東京都八王子市内において、C、N、S及びBが市販の農薬用噴霧器を自動車のトランク内に積載し、右噴霧器内に液体のままのサリンのほかにボツリヌス菌を加えて注入し、右宗教団体関係者に噴霧して暗殺しようとしたが、失敗してしまい、その際、防毒マスクを着用せずに自動車に乗り込んでいたCらが過ってサリン中毒に陥ったため、Sがサリンの解毒剤であるパムを注射して治療を行い、生命を取り留めたことがあった。そこで、失敗の原因を検討したところ、サリンを液体のまま噴霧したことが原因であり、暗殺を成功させるためには、サリンを気化させて噴霧するような装置に変更することが必要であるとの結論に達し、また、犯行時のサリンの吸入による中毒を防止するために、酸素ボンベとチューブで結んだ防毒マスクを製作して、これを使用することになった。
(2) 平成五年一二月中旬ころ、Cらは、ガスバーナーを熱源としてサリンを加熱・気化させ、大型の送風扇でこれを拡散させるという噴霧装置を製作し、これを幌付き二トントラックに積載して、再び八王子市内において、サリンを宗教団体関係者に対し噴霧しようとしたが、ガスバーナーの火が前記噴霧装置に移って、トラックの荷台が発火したため、暗殺は再度の失敗に終わった。また、右犯行の際、Cは、事前にサリンの予防薬であるメスチノンを服用していた上、酸素ボンベからチューブを通じて酸素が送り込まれる仕組みのビニール袋製の簡易な防毒マスクを使用していたため、サリン中毒に陥ることはなかった。ところが、Nは、警備員が乗車した自動車による追跡を受けて、逃走しようとした際、使用していた前記防毒マスクを一時的に外したことから、サリンを吸入してしまってひん死の状態に陥り、待機していたE、Sから解毒剤パムの注射を受けるなどの救命手当を受けた結果、ようやく一命を取り留めた。このような結果を目の前にして、Mら教団幹部の者は、サリンの毒性の強さを改めて認識するとともに、防毒マスクを使用していた者には特段の被害がなかったことから、防毒マスクの有効性を認めるに至った。さらに、サリンを噴霧している最中に妨害を受けた場合に備えて、妨害を排除する措置を講じておくほか、その場からの逃走を容易にする措置を講じておくことの必要性を認識するに至った。
(三) ところで、Mは、教団施設内において、サリンの大量生産を目的とした化学プラント建設工事が着々と進展し、その本格的稼動が間近い情勢となったこと等から、保管中の大量のサリンを都市部の人口密集地で噴霧して、実際にその効果を確かめようと考えていた。一方、教団においては、かねてより長野県松本市内に土地を購入あるいは賃借して、教団の松本支部及び食品工場に使用する施設を建設しようとしていたが、地域住民から教団進出に対する強い反対運動が起こり、地主側は、教団が最終的な土地の買主あるいは賃借人であると分かっていたら売買契約及び賃貸借契約を締結しなかった等と主張して、教団を相手取って右土地の明渡し等を求める民事訴訟を長野地方裁判所松本支部に提起しており、右訴訟については、平成六年五月一〇日に既に結審し、同年七月一九日には判決の言渡しが予定されていた。そして、Mは、教団所属のA弁護士から、右訴訟については教団が敗訴する可能性が高いとの報告を受けていたこともあり、人口密集地において大量のサリンを噴霧して、その効力を実際に検証するために、長野地方裁判所松本支部をサリン噴霧の標的として選定し、サリンを使用して同支部の担当裁判官を殺害することにより右訴訟の進行を妨害し、また、同支部付近の住民ら多数を殺害することになってもやむを得ないと決意した。
(1) そこで、Mは、平成六年六月二〇日過ぎころ、前記上九一色村内の第六サティアンの自室において、C、N、S及びEに対し、「オウムの裁判をしている松本の裁判所にサリンをまいて実際に効くかどうかやってみろ。」と指示した。その際、Cから、前回の失敗の原因が熱源にガスバーナーを使用したためであったから、今回は熱源をバッテリーに変更し、電気による加熱式噴霧器を開発して使用することが提案されて、それが承諾されたほか、前回その実効性が証明された簡易なビニール袋製防毒マスクを再度使用することも決められ、さらに、前回は警備員の追跡を受けて失敗した経験を踏まえ、警察官や通行人に発見された場合の対応策について検討を加えた結果、Mから、「警察等の排除はミラレパ(N)に任せる。武道にたけたウパーリ(D)、シーハ(被告人)、ガフヴァ(F)の三人を使え。」と指示があったほか、「サリン噴霧車の運転はガフヴァに担当させろ。」「後はお前たちに任せる。」と指示があり、結局はサリン噴霧車の準備ができ次第、長野地方裁判所松本支部に対してサリンの噴霧を実行することに決した。
(2) 被告人は、高校時代から、道場に通うなどして空手を学んでおり、教団内においては空手の最高実力者と目されており、一時はMの警備を担当していたこともあり、本件当時は、Fに対して空手の指導を行いつつ、Aが率いる究聖法院と称する組織で空手の道場を開く計画に加わっていた。
(四) Cは、コンテナ付き普通貨物自動車のコンテナ内にパイプを取り付けたサリン貯留用のタンク三個を設置し、右パイプに遠隔操作で開閉が可能なエアバルブを取り付け、その開閉によりタンク内のサリンを下部に設置した銅製容器内に落下させ、右容器底部をバッテリーを電源とするヒーターで加熱してサリンを気化させた上、コンテナ内に設置した大型の送風扇を作動させることにより気化したサリンを外部に拡散させるという加熱式噴霧器を製作することにして、部下のWに命じて、その設計、製作を担当させ、部下のZら多数の者に右作業への協力を命じた結果、サリンを噴霧するための車両の製作は完了するに至ったが、その他の事前の犯行準備の状況等は次のとおりであった。
(1) 平成六年六月二五日ころ、Nは、サリン噴霧車の運転担当を予定されていたFに普通乗用自動車を運転させて、松本市内に向かい、その途中の車内で、Fに対し、「松本の裁判所をねらってサリンをまくので、風向きを調べたり、サリン噴霧車が駐車できる位置を調べるために下見に行く。」とその目的を説明した上、JR南松本駅付近において松本市内の住宅地図を教団信者から入手して、長野地方裁判所松本支部所在地に赴き、同支部付近においてたばこの煙の流れを確認しながら風向きを調べたり、付近を歩き回りながらサリンを噴霧するのに適した駐車場を探すなどした。
(2) 同月二六日ころ、Eは、Cから、「明日実行するので、松本ナンバーのワゴン車を借りてきてくれ。ついでにSと下見をしてくれ。」と指示されたため、Sを誘って、事情を知らない配下の教団信者に普通乗用自動車を運転させて、松本市内に赴き、同市内のレンタカー業者からワゴン車をE名義で借り受け、自動車貸渡契約書を作成した際には、運転代行予定者としてN、被告人、右信者の名前を記載しておいた。また、松本市内において、Eは、Sとともに、サリン噴霧の標的とされた長野地方裁判所松本支部のほか、長野県松本警察署の所在地に赴き、その周辺の下見を行った。
(3) また、同月二六日ころ、Nは、Cから、「明日午前中にサリン噴霧車が用意できるので、昼ころ出発しよう。第七サティアン前に集まってくれ。」との指示を受けたので、被告人、F及びDに対し、「二七日は用事があるので、待機しておくように。」と連絡しておいた。
(五) 同月二七日、出発前の準備状況等は次のとおりであった。
(1) Sは、同月二六日ころ、Cから、「明日実行する。クシティガルバ棟でサリンを噴霧車に注入してくれ。」と指示されていたので、同月二七日、前記上九一色村内のクシティガルバ棟において、防毒マスクを使用しながら、Wらが設計、製作した噴霧車に積載する三個のサリン貯留用タンクに各約四リットル、合計約一二リットルのサリンの注入作業を完了した。また、Sは、Cの指示により、防毒マスクの製作も担当したが、ビニール袋を頭からかぶり、ビニール袋入口部分をひもで締めて外気の流入を制限するとともに、ビニール袋内にチューブを通して酸素ボンベから酸素を送り続けるという方式を採用することとし、ビニール袋にパンチで穴を空けてひもを通すなどして用意したほか、サリンを噴霧した際の不慮のサリン吸入による中毒事故に備えて、治療薬のパムのほかサリンの予防薬としてメスチノン等の医薬品を準備しておいた。
(2) 同月二七日早朝、Nは、前記上九一色村内の教団施設内において、被告人、F及びDに対し、「松本に行って、松本の裁判所にサリンをまいてくる。二トントラックに積む噴霧装置はCたちが作って用意してある。サリン噴霧車の運転はFに頼む。サリンをまいている最中に、警察等が来て妨害があった場合には、君たち三人でその妨害を排除してほしい。万一の場合は、自分がサリン噴霧車を運転して逃げる。昼に第七サティアン前に集合して出発することになっている。」などと指示したが、その際、被告人から、「打ち所が悪かったら死んじゃうかもしれませんよ、いいんですか。」との質問を受け、「いいんじゃないですか。」との回答をしたことがあった。さらに、Nは、被告人ら三名に対し、松本へ行くメンバー七名分の作業服、作業帽、革手袋、ベルト等の購入を指示し、被告人とFは、同日午後零時五三分ころ、近くのハヤブサ富士宮店等でこれらを購入してから教団施設に戻り、N及び被告人ら三名は右作業服等に着替え、その後、被告人とDは、警備室から妨害者を排除する際の武器として使用するために特殊警棒を持ち出しておいた。
(六) 同月二七日午後四時ころ、被告人やCら本件犯行参加者全員が第七サティアン前に集合し、酸素ボンベの積載も終わって(ワゴン車には一・五立方メートルの酸素ボンベ五本のほかに、七立方メートルのものが積載されており、サリン噴霧車にも酸素ボンベが積載されていた。)、出発準備も完了したので、Fが運転するサリン噴霧車(助手席にはCが同乗)、被告人が運転するワゴン車(助手席にN、後部座席にD、S及びEが同乗)は、松本市内へ向けて出発し、高速道路を使用した場合には通行記録が残ることから、一般道路を経由して、本件犯行現場に赴いたが、その間の状況は次のとおりであった。
(1) 出発後間もないワゴン車内において、参加者の間から、サリン噴霧時には煙が見えることはないのか、防毒マスクに実効性はあるのか、松本市内に到着するころには裁判所は既に閉まっているのではないか等の話題が出ており、Nは、前記宗教団体関係者の暗殺未遂事件の際、自身がサリン中毒に陥ったことに関連して、「前にもろにかぶっちゃったけど大丈夫でしたよ。」等と発言していた。
(2) 長野県諏訪市内のディスカウントショップ前で停車した際、Sは、被告人ら全員に対し、「サリンの予防薬だから飲んでおいて下さい。」と説明して、サリン予防薬として携行していたメスチノンを一錠ずつ各自に配布し、被告人らはその向かい側の商店の自動販売機で購入したジュース等とともに服用するなどした。
(3) また、Sは、初めてサリン噴霧に立ち会う被告人、D及びFに対して、「噴霧するガスを吸ったら視界が暗くなり、呼吸が困難になり、頭痛、腹痛、下痢、トイレが近くなるという症状が出てくる。症状が出たら、治療薬を準備しているのですぐに言って下さい。非常に危険なガスであり、吸ったら死ぬ可能性がある。」等とサリンの毒性の深刻さについて説明した。
(4) その後、塩尻峠前のドライブインにおいて休憩した際、既に夕刻を過ぎていたので、NとCが協議した結果、サリン噴霧の標的を長野地方裁判所松本支部から同支部裁判官宿舎に変更することに決し、Nは、ワゴン車内の被告人らに対し、その旨連絡した。
(5) 本件犯行の直前、松本市内のアップルランド開智店駐車場に到着して、以下のような準備行為を済ませた。
Nらは、サリン噴霧車とワゴン車に、事前にGに命じて作らせておいた偽造のナンバープレートを正規のナンバープレートの上から張り付けた。
Sは、用意してきたビニール袋に穴を開けて酸素ボンベと結んだチューブを差し込み、サリンを吸入せずに酸素を吸入できるようにした防毒マスクを各自に準備させたほか、サリン中毒に陥った場合に備えて、解毒剤パムをアンプルから注射器で吸い上げて準備し、また、Eも注射器と注射針等を着衣内に準備した。
Cは、住宅地図と懐中電灯を携行して、前記松本支部裁判官宿舎付近を下見して、サリン噴霧に適した場所を探したほか、風向き等を調査し、下見から戻ると、Nらに対して、「良い場所があった。現場に着いたらすぐスイッチを入れ、その後一〇分位噴霧を続ける。噴霧が終わったらすぐ出発するので、ワゴン車はサリン噴霧車についてくるように。」等と指示をした。
(七) 同日午後一〇時三〇分ころ、サリン噴霧車とワゴン車は、松本市北深志一丁目の鶴見方西駐車場に到着したが、犯行時の状況は以下のとおりであった。
(1) Cは、いったん下車してから、サリン噴霧車側面の噴霧口を開いた上、助手席に戻り、酸素ボンベと結んだ防毒マスクを使用しながら、助手席からの遠隔操作によってサリンの噴霧を開始し、約一〇分間にわたりこれを継続した。噴霧車の周辺には白煙状の気化したサリンが拡散しており、ワゴン車内の被告人らは、右防毒マスクを装着し、酸素ボンベからの酸素の供給を受けつつ、警察官や一般人に発見されて噴霧を妨害されないように、周辺の道路を見張りながら、妨害があった場合にはすぐに妨害を排除できる態勢で待機していた。
(2) 右噴霧をしている最中、前記防毒マスクを使用していた被告人が、「酸素が来ない、酸素が来ない。」と言って騒ぎ出したため、Sは、予備の酸素ボンベに切り替えて、被告人に対する酸素の供給を再開するということがあった。
(3) 噴霧終了後、サリン噴霧車を先頭に出発したが、続いて、被告人は、ワゴン車を運転して道路に出ようとした際、ワゴン車の右側部を出入口の石柱に接触させて同車の右側面を損傷させた。そして、その後、ワゴン車内の乗員の酸素ボンベ内の酸素がなくなったため、前記防毒マスクを外すことになったが、被告人は、「酸素、酸素マスク」と言って騒いだため、Nらから予備の酸素ボンベにつながれた医療用マスクを口にあてがってもらってNらと代る代る酸素を吸入し、酸素吸入ができない間は息を止めるなどして、ワゴン車の運転を続けた。
(4) 噴霧されたサリンを吸入した別表1記載の伊藤友視(当時二六歳、薬剤師の資格を有する製薬会社勤務の会社員)、阿部裕太(当時一九歳、信州大学経済学部二年生)、安元三井(当時二九歳、信州大学医学部六年生)、室岡憲二(当時五三歳、半導体等製造会社勤務の会社員)、瀬島民子(当時三五歳、資格取得援助会社勤務の会社員)、榎田哲二(当時四五歳、生命保険会社勤務の会社員)、小林豊(当時二三歳、電気会社勤務の会社員)の七名が死亡し、また、サリンを吸入した別表2記載の河野澄子(当時四六歳、主婦)、吉本大介(当時一九歳、信州大学経済学部一年生)、河野義行(当時四四歳、会社員)、西川紀代美(当時四四歳、病院勤務の看護助手)の四名がサリン中毒症の傷害を負った。
(八) 犯行後の状況は、以下のとおりであった。
(1) 松本市内のサンリン株式会社北側の駐車場に到着した後、Nが前記の偽造ナンバープレートを車両から取り外し、Dが農業用噴霧器を使用してワゴン車を洗浄するなどしたが、サリン噴霧車に関しては、依然として白煙が漏れ出している状態であったため、予定していた中和洗浄作業を行うことはできなかった。また、教団施設へ戻る途中、松本からNの携帯電話に連絡が入り、Nからはうまくいったとの報告が行われた。
(2) 同月二八日早朝、CとNは、前記Mの自室において、本件犯行の経過等を報告し、その後S、Eもこれに加わり、Eから被告人によるワゴン車の前記損傷に関する報告が行われた。また、Cらはパソコン通信で取り寄せた新聞記事により、本件犯行の被害結果の実際を知り、被告人もNの部屋において右記事を読み知った。
2 当裁判所の判断
以上認定の諸事実を総合すると、被告人は、少なくともサリンの噴霧が開始された時点までには、致死性の毒ガスであるサリンが本件犯行現場で噴霧されていることを認識していたことを優に肯認することができ、また、被告人も検察官に対する供述調書において、噴霧される物質が人体に有毒なガスであることを知っていたと犯意の一部について自白しており、右自白の信用性を疑うべき事情はうかがわれないことをも併せ考慮すると、弁護人の主張が理由のないことは明白というべきである。
3 弁護人は、前記認定事実の根拠となったN、Sらの検察官に対する各供述調書の信用性について争い、犯意を否定する被告人の公判弁解が信用できる旨主張するので、若干の補足説明を加えておくこととする。
(一) 被告人は、Nから「松本の裁判所にサリンをまく」旨の具体的説明を受けたことはないと弁解する。
(1) しかしながら、Nは、検察官に対する供述調書において、被告人に対して右のような具体的説明を行った旨明言しているのであり、Nの右供述は優に信用できるものというべきである。
(2) すなわち、Nは、検察官に対して、教団の教義等に関する具体的供述については一切これを拒んでいたものの、松本サリン事件に関する事実経過に関しては、その記憶するところを比較的率直に供述していると考えられること、Nの置かれた当時の立場等を種々検討してみても、Nが被告人に自己や他人の責任を転嫁すべき理由、根拠は全く見当たらないこと、Nの供述内容は、実際の引き当たり捜査の結果等ともよく合致ないしは符号しており、また、SやEらの検察官に対する供述調書の記載ともほぼ合致していること、しかも、その供述内容には特に不自然さ等は認められず、具体的かつ詳細であり、検察官による誘導等の形跡は一切認められず、Nの自発的供述と評価できること等を総合すると、右N供述は優に信用できると考えるべきである。なお、Nは、当初は偽造ナンバープレートの作成者を死亡したCである旨偽った供述しており、実際の作成者である部下のGの名前を出すことを渋っていたことがうかがわれるものの、右の虚偽供述にはそれなりの理由があると考えられ、右供述全体の信用性を否定するような事情とは考えられない。
(二) 次に、Sは、前記のとおり、本件犯行前に、被告人らに対して、サリンの毒性等を具体的かつ詳細に指摘したほか、予防薬を事前に服用させたり、被告人が酸素ボンベから酸素が来ないことに慌てていた旨供述しているが、被告人はこれらをいずれも否定している。
(1) しかしながら、Sは、一部の教団幹部による平成五年一一月と一二月の宗教団体関係者に対する暗殺のためのサリン使用に際して、一回目には参加者全員がサリン中毒に陥ったばかりでなく、二回目にはNがサリン中毒に陥り、SやEらの懸命な治療活動により、ようやく救命に成功したということを体験していたのであるから、初めてサリンの噴霧に関与する被告人らに対して、そのように強力な毒性を有するサリンの取扱いに関して事前に十分な注意、警告を与えておくことは合理的かつ自然極まりない行動というべきであり、疑問とすべき点は見当たらないこと、Sの本件犯行に関する検察官に対する供述調書の記載は、捜査官が知り得ない事項に関して、極めて具体的かつ詳細にわたっており、実際に体験した者でなければ供述できないような迫真性、真実性に富んでおり、Eら共犯者の検察官に対する供述調書の内容ともよく合致していること等をも併せ考えると、事前にサリンの毒性を詳しく説明した旨のSの右供述は優に信用することができ、これに反する被告人の弁解は到底信用できないものといわなければならない。
(2) Sは、二回目の宗教団体関係者に対するサリン使用の際、Cらが事前に予防薬メスチノンを服用しておいたため、サリン中毒を免れたという経験を有していたというのであるから、本件犯行に際しても同様の措置を採ったということは十分に考えられることである上、N及びEも予防薬の配布を受けたことを詳細に供述しており、これらはSの供述内容を裏付けていること等を総合するときには、この点に関するSの供述も十分に信用できるというべきである。なお、被告人だけではなく、F、Dも、サリンの予防薬であるメスチノンの配布を受けたことはない旨被告人と同様の弁解を当公判廷において行っているのであるが、F、Dの両名ともに、現在松本サリン事件の実行共同正犯として起訴されて審理を受けており、被告人と同様に、噴霧したものがサリンであることの認識がないなどと主張して争っているのであって、その供述の信用性に関しては慎重な判断が要求されるところであり、これをもって直ちにSの供述の信用性を一方的に否定するべきではない。
(3) Sは、本件犯行の前後に被告人の防毒マスクに酸素が順調に供給されなかったため、被告人が気が動転してしまっていた旨供述する。これに対して、被告人は、本件犯行が警察官に発覚するのではないかと緊張感を高めていたところ、酸素ボンベから酸素が流れてこなかったし、Sに伝えても誠実な対応をしてくれなかったので、怒りのあまり怒鳴りつけてしまったのであり、Sの供述するところとは実際には大きな違いがあるなどと弁解する。しかしながら、N及びEも検察官に対する供述調書においてSの供述に符号する供述をしている上、被告人は、予備の酸素ボンベから供給を受けるようになった後、ワゴン車内の同乗者が防毒マスクをはずして、医療用酸素マスクを通じて代る代る吸っていた際にも、「酸素、酸素マスク」などと騒いでいたというのであり、これらの関係証拠を総合すると、単なる一時的怒りから大声を出したなどという事実関係ではないことが明白であり、被告人の弁解は到底採用できないところである。
(三) そのほかに、被告人は、以下のような弁解を繰り返し述べている。
(1) 松本サリン事件の数日前に、交際中のHからMに肉体関係を強いられた旨聞かされて、異常極まりない精神状態にあったため、ワゴン車内での会話についてはほとんど聞いていなかった旨弁解する。
しかしながら、被告人は、Nから犯行現場での警備を命じられた際には、「打ち所が悪かったら死んじゃうかもしれませんよ、いいんですか。」とまで質問しているというのであって、その際には相当に落ち着いた精神状態にあったことがうかがわれること、また、被告人は長時間にわたってワゴン車を継続して運転していたのであって、その運転状況等に照らしても、特段の異常な精神状態にあったとは考え難い上、被告人の弁解するところによれば、本件犯行に関連する枢要な会話部分は一切聞いておらず、極めて断片的なごく一部分の会話しか聞いていなかったということに帰すのであって、甚だ不自然かつ不合理な弁解と考えられ、到底信用できないところである。
(2) 本件防毒マスクは、変装用と考えており、有毒ガス対策のものとは見えなかった旨弁解する。
しかしながら、本件防毒マスクはその形態等からして、変装用などに用いられるものではないことが明らかであり、酸素ボンベ内の酸素吸入を目的としたものであることは一見して明白というべきであり、不合理極まりない弁解というべきである。
(3) 致死性の猛毒ガスがまかれると分かっておれば、現場における妨害排除を引き受けるはずがなく、これを引き受けたのはその点の認識がなかったからである旨弁解する。
しかしながら、被告人は、犯行現場に至るまでの間に、Sからサリンの毒性等に関しては詳細な説明を受けているのみならず、酸素ボンベが多量に用意され、防毒マスクが配布されるなど犯行に備えて極めて慎重な準備が整えられている上、サリン噴霧中の被告人が執った行動の状況等にかんがみると、被告人が噴霧されている物質が致死性の毒ガスであるという認識がなかったなどという事実関係ではないことが明らかであり、到底信用できない弁解である。
二 主張2について
被告人は、平成六年一二月一七日、教団から脱走して以来、Hとともに名古屋市内に赴き、パチンコ店で稼動するなどして生活していたが、その後、テレビ局の職員から、被告人に対する逮捕状が発付されていると教えられたため、自ら最寄りの警視庁麹町警察署に出頭したところ、平成七年六月一六日、警視庁築地警察署において、いわゆる地下鉄サリン事件(殺人、殺人未遂)の被疑事実で通常逮捕され、代用監獄警視庁麹町警察署留置場に勾留され、その後勾留期間も延長されたが、同年七月七日には釈放され、同日、いわゆるサリン生成化学プラント事件(殺人予備)で起訴されるとともに、職権で勾留された。そして、同年七月一六日、被告人は、本件松本サリン事件の被疑事実により警視庁麹町警察署で通常逮捕され、同署留置場に勾留され、その後勾留期間が延長され、同年八月七日、勾留のまま起訴されたという経過が認められる。また、被告人の公判供述によると、逮捕後二、三日してから、捜査官に対して、自ら松本サリン事件に関与していたことを供述していたというのであるが(六月二三日付け乙A3では「見張りのワゴン車を運転するという形で事件に関与した」旨供述している。)、被告人の供述調書の内容を検討すると、被告人は、逮捕された当初から噴霧した物質がサリンであることの認識を完全に否定していたことがうかがわれる。ところで、自首が成立する要件としては、捜査機関に対して自己の犯罪事実を申告し、その訴追を含む処分を認めるような意思表示を行うことが必要である。しかしながら、被告人の逮捕当初の右供述は、被告人の松本サリン事件への関与が犯罪には該当しないことを前提としていることが明らかであるから、自首の要件を充足していないことは明らかといわなければならず、所論は失当である。
第二 判示第一のサリン生成化学プラント事件(殺人予備)について
一 弁護人らの主張
1 被告人が教団を脱走した当時でさえ、本件化学プラントは未完成であり、サリン生成の現実的な可能性はなかったのであるから、被告人の行為は殺人予備の可罰性を有していなかった。
2 被告人は、共犯者との間において、サリンの生成を共謀したことはない上、第七サティアン内の本件化学プラントがサリンや致死性の毒物を生成するためのものであるとの認識すらなかったのであるから、本件化学プラントによる生成物で人を殺傷するとの目的を有していなかった。
3 被告人は、本件化学プラントにおいて最終生成物が完成することはないと思っていたのであるから、殺人予備の認識に欠けるほか、殺人の結果発生に向けられた目的に欠けている。
4 被告人は、本件化学プラント内においては、補助的な単純作業しか行ってはおらず、そうすると、被告人の行為は、従犯としか評価できない。
5 被告人の本件化学プラントにおける稼動行為は、適法行為を期待することができない状況下で強制されたものであるから、有責性を欠く。
二 主張1について
1 証拠から認定できる事実
(一) Mは、教団に対立する勢力に対抗するためと称して、教団の武装化を計画し、化学兵器の一種である毒ガスの大量生成を企図していた。
(二) Mは、平成五年春ころから、教団の施設建設責任者のLらに命じて、毒ガス製造プラント用建物として第七サティアンと称する建物の設計、建設を開始させ、同年九月ころから一〇月ころにかけて、第三上九地区に鉄骨三階建ての右建物が完成した。
(三) Mから毒ガスの大量生成を命じられたCは、化学知識の豊富なTに毒ガスの研究を命じたので、Tは、平成五年六月ころから、サリンの生成に関する文献を検討した上、同年八月ころには、サリンの生成実験に着手した。一方、Bは、Cの指示を受けて、Tからサリンの生成方法等に関する説明を聞いて、日産二トンの割合により合計七〇トン程度のサリンを生成するための化学プラントの設計、資材や機器類の調達、製作を開始した。また、Nは、このころから平成六年二月ころにかけて、Mの指示を受けて、Iが設立した教団のダミー会社を通じて、サリンの生成に必要な原材料である各種化学物質を大量に購入し、これらを教団施設内に搬入しておいた。
(四) 平成五年八月末ころから、Lらは、教団の関係会社を通じて、サリンの散布に使用する目的で、旧ソヴィエト連邦製の大型ヘリコプターを購入する計画を進めるとともに、同年九月ころ、G及びPが、ヘリコプターの運転免許を取得するため、アメリカ合衆国に渡航した。
(五) 同年八月ころ、第七サティアン周辺にクシティガルバ棟と呼ばれるプレハブ製の建物が完成し、右建物内において、Tが化学プラントを使用しての大量生産を目指したサリンの生成方法を検討した結果、同年一一月ころには、五つの工程から成る生成方法を確立するとともに、標準サンプルの生成にも成功した。その後、Tは、Cの指示により、Sらの協力を受け、右生成方法に基づき、一部市販の化学薬品を用いて、約六〇〇グラムのサリンの生成にも成功したほか、その後も、二回にわたって、総計三〇キログラム以上ものサリンの生成に成功した。
(六) 平成六年二月末ころから、Bらによる本件化学プラントの設計作業が本格化し、同年四月ころからは、Q、Rら多数の教団信者らによって、第七サティアン内において、本件化学プラントの建設作業が進められるようになった。そして、同年八月ころには、メインプラントの各工程の反応タンク等の設置作業も一応終わり、完成作業が終了した工程から順次試運転が実施され、各工程の問題点について改良が加えられるなどして、同年一二月ころまでには、第一工程ないし第四工程を稼動させて、生成物ができるようになった。
2 当裁判所の判断
右のような認定事実に照らすと、平成五年一一月以降、Mを指揮者として、多数の教団関係者によりなされた諸行為について、殺人予備罪が成立することに法律上の問題点はないというべきである。
すなわち、平成五年一一月ころには、Tが効率的で大量生産が可能な五つの工程からなるサリンの生成方法を見いだして標準サンプルを生成しており、実際にも右生成方法に基づいてT及びSらが、サリン約六〇〇グラムの生成に成功したことにより、化学プラントによる大量生産を前提とするサリンの生成工程がほぼ確立されたと認められる。そして、当時の客観的情勢としては、既に第七サティアンの建物自体は完成しており、本件化学プラントの設計、機器の選定等も開始されており、サリンの大量生成に必要な化学物質を大量購入して確保しつつある一方で、ヘリコプターによる散布計画も着々と進められていたのである。そのような状況を総合的に考慮すると、サリンの生成工程がほぼ確立されたと認められる平成五年一一月の段階以降の化学プラント建設等への関与者に関しては、殺人予備罪が成立していたと評価するのが相当である。
また、所論は、被告人が教団から脱走した平成六年一二月一七日当時は、本件化学プラントの第四工程(第三工程の生成物であるメチルホスホン酸ジクロライドにフッ化ナトリウムを反応させてメチルホスホン酸ジフロライドを生成する工程)と第五工程(第三工程の生成物であるメチルホスホン酸ジクロライドと第四工程の生成物であるメチルホスホン酸ジフロライドを混合し、イソプロピルアルコールを反応させて最終生成物であるサリンを生成する工程)が稼動していなかったから、被告人については殺人予備罪の可罰性がないとも主張する。
そこで、検討すると、被告人が教団から脱走した当時は、本件化学プラントは第三工程までしか稼動していなかったこと、及び、被告人の脱走後に第四工程が稼動したことが認められる。また、後述するとおり、第五工程が稼動したとの的確な証拠はなく、第五工程が稼動したとは認められない。しかしながら、前述したとおり、平成五年一一月の段階では、既にMらによる本件殺人予備罪が成立していたのであり、それにもかかわらず、被告人は、平成六年七月ころから、本件化学プラントの建設工事等に関与しているのであり、その後、教団から脱走する同年一二月一七日までは本件化学プラントの建設工事等に従事していたのであって、教団から脱走する際にも、本件犯行から離脱することについて共犯者との間に、これを了承するようなことも全くなかったのであるから、第四工程の稼動が被告人の脱走後であったとしても、それが被告人の殺人予備罪の成否に影響を及ぼすことはなく、何ら問題とすべき点はない。
なお、第五工程の反応釜等からは自然界には存在しないサリンの第一次分解物(メチルホスホン酸モノイソプロピル)が検出されており、第五工程の機器を使用してサリンが生成されたことがうかがわれるが、他方では、第五工程のために設置された部屋の気密性が十分ではなかった等の状況が認められるほか、第五工程が稼動してサリンが生成されたことを認めるに足りる的確な証拠もないこと等を総合すると、所論が指摘するとおり、第五工程が本格的に稼動してサリンが大量に生成できる状態にあったとは認められない。
しかしながら、第五工程では前記のとおりの作業内容が予定されていたのであるが、その工程自体は既に確立していた上、第五工程の作業内容にも解決困難な問題点があったとはいえなかったのであるから、第五工程が現実には稼動していなかったからといって、それが殺人予備罪の成否に何らの影響も及ぼさないことは明らかというべきであって、いずれにしても所論は理由がない。
三 主張2について
1 証拠から認定できる事実
(一) 被告人は、平成六年六月二七日ころ発生した判示第二のいわゆる松本サリン事件に関して、前述したとおり、その実行共同正犯として犯行に加担していたものであり、右犯行に使用されたサリンが致死性を有していたことを十分に認識していたのである。そのことは、同年七月中旬ころ、被告人がOに対し、「ガンポパ師(O)は、まだ手を染めていないですよね。私なんか、捕まれば、死刑ですから。」と発言していたことからも認めるに十分である。
(二) 被告人は、平成六年七月下旬ころ、第六サティアン三階でポリグラフ検査を受けて、教団外部からのスパイではないことを確認された後、Nに指示されて、第二サティアン三階のMの部屋に赴いたが、そこで被告人ら稼動要員は、本件プラントにおける作業に関して、Mから「四〇日間のリトリート(独房)修行である。これから第七サティアンであるワークをやってもらう。第七サティアンで作るものを使えば、大都市が破壊する。ボタン操作一つ間違えば、この上九一色村、富士山麓全体が死の山となるぐらい大変危険なワークである。このワークを抜けたい者があれば今ここで言いなさい。この修行を終えたら菩長にしてやる。」などと指示を受けた。その際、被告人は、Mの正面付近の三列目くらいに位置して、神妙な顔をして、Mの言葉に肯いたり、耳を傾けたりしていた。その説明終了後、Mから稼動要員に個別に声をかけられた際、被告人は、Mから、「このことはソーマ(H)には話すなよ。」と直接口止めされた。
(三) 被告人ら稼動要員は、Mの指示を受けた後、間もなく第七サティアンに移り、外出を禁止されたほか、第七サティアン二階の危険作業準備室で、Sにおいて、白板に図や化学式を書きながら、本件プラントが五つの工程から成ることや、各工程の内容等を説明していたが、その際、「本件最終生成物は無色無臭であり、吸入すると、視界が暗くなり、体が動かなくなって、最終的には呼吸ができなくなって死に至る。視界が暗くなったら、すぐ私のところへ来て治療を受けるように。」と説明したことがあるほか、最終生成物を一日一トン、三五日間で合計七〇トン生成する予定である旨説明していた。
(四) 第七サティアン三階の居住区が完成した直後ころ、稼動要員同士で話をしていた際、被告人は、「ここで何を作っているのか聞いたら、たいていのサマナは揺れるだろうね。」などと発言したことがあるほか、平成六年一〇月から一一月ころ、第七サティアン二階の制御室において、被告人は、Oに対し、Dから聞いた言葉を引用し、「たとえ命令されてやったとしても、サリンなどの毒ガスを作ったり、使用したりすれば、国際法で死刑になるから、結局うまくいってもいかなくても、死刑になることには変わりがない」という内容のメモを手渡したことがあった。
(五) 被告人は、第七サティアンに常駐するようになった平成六年七月下旬ころから教団より脱走した同年一二月一七日ころまでの間、まず、同年八月末ころまで、第七サティアン三階で稼動要員居住区の製作に従事した後、D、Uらとともに水酸化ナトリウムを水に溶かしたり、第一工程の反応状況を監視していたほか、同年一一月ころ、Wの指示の下、U、D、Rとともに、三階に設置された第三工程の電解プラントの組立作業の手伝いをしたり、第七上九地区の倉庫等で三塩化リンのドラム缶の中身を移し替えたりする作業に従事していた。
(六) 第七サティアン内には、防毒マスクが常備されており、被告人自身も何度かこれを使用したことがあった。また、平成六年九月ないしは一〇月ころ、稼動要員とされた者は、身体の採寸を受けた上、Cから、「今度最終の製品を扱うときはこれを着てもらう。」との説明を受け、各自に防護服が支給された。
2 当裁判所の判断
右の認定諸事実に照らすと、被告人は、自身が関与した松本サリン事件の後、間もなくして、本件化学プラントで稼動するように命じられたのであって、稼動に先立って最終生成物についてSから受けた説明内容も、松本サリン事件に際して、噴霧する物質について受けた説明内容とほぼ同様である。そうすると、本件化学プラントで生成されている物質が、松本サリン事件で使用されたサリンないしはこれと同様の効能を有する毒ガスであることを容易に認識できたといわなければならない。しかも、Mの前記指示内容、Sの前記説明内容、取り扱う薬品の量や本件化学プラントの規模等に照らすと、被告人は、サリンやこれと同様の効能を有する毒ガスを本件化学プラントでは相当に大量に生成することを企てていたことを十分に認識していたものと認められる。
したがって、サリンの毒性の認識や殺害目的を否定する弁護人らの主張が理由のないことは明らかであり、しかも、Mらから稼動要員に対して行われた説明内容等によると、共犯者らとの共謀についても優に認定できるところであり、いずれにしても弁護人らの主張は理由がない。
3 被告人の弁解について
被告人は、平成六年七月下旬ころ、前記1(二)記載のとおり、Mから指示を受けた際の記憶がない旨弁解するのであるが、その場に居合わせたV、Oらは、いずれも前記のとおりの松本の指示を受けていたと明確に供述しているのであるから、その場に居合わせた被告人がM発言を聞いていなかったなどという弁解を受け入れる余地はない。また、第七サティアンの稼動要員に対しては、Sが各工程の内容等について詳細な説明を加えていたことが明らかであり、そのことはSの検察官に対する供述調書(甲A三二六)だけではなく、X(甲A四七〇)、Y(甲A五三三)の検察官に対する各供述調書等が既に明らかにしており、被告人の右弁解を採用する余地はない。
四 主張3について
前記三1の認定諸事実によれば、被告人が本件化学プラントを稼動させる目的は、最終生成物であるサリンを生成するためであると認識していたことが明らかであるから、サリンの生成があり得ないと考えていたとの被告人の弁解は不合理であり、到底採用できないものである。
五 主張4について
被告人が行っていた作業内容は、前記三1(五)記載のとおりであり、これらの行為が本件化学プラントの建設並びに稼動のために行われたことは明らかであり、殺人予備の構成要件に該当する行為と評価できるのであるから、これに反する所論を採用する余地はない。
六 主張5について
所論は、本件稼動行為は強制されたものであるから、期待可能性を欠くものとして犯罪が成立しない旨主張するのであるが、本件事実関係の下では所論が理由のないことは明白であり、到底受け入れられない見解である。
(法令の適用)
被告人の判示第一の所為は、平成七年法律第九一号附則二条一項本文により同法による改正前の刑法六〇条、二〇一条本文に、判示第二の各所為のうち、各被害者ごとに、殺人の点は同法六〇条、一九九条に、殺人未遂の点は同法六〇条、二〇三条、一九九条にそれぞれ該当するところ、判示第二の各殺人と各殺人未遂とは一個の行為で合計一一個の罪名に触れる場合であるから、同法五四条一項前段、一〇条により一罪として犯情の最も重い伊藤友視に対する殺人の罪の刑で処断し、判示第二の罪について所定刑中有期懲役刑を選択し、以上は同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により重い判示第二の罪の刑に同法四七条ただし書の制限内で法定の加重をした刑期の範囲内で被告人を懲役一七年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中八〇〇日を右刑に算入し、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項ただし書を適用して被告人に負担させないこととする。
(量刑の事情)
一 判示第二のいわゆる松本サリン事件について
本件は、教団の最高指導者であるMの指揮の下、教団所属の者多数により、無差別大量殺人を狙って敢行された、七名に対する殺人及び四名に対する殺人未遂の事件である。
1 Mは、サリンの大量生産を目的とした化学プラント建設工事が進展し、本格的稼動が間近くなり、将来のサリンの大量散布に備えて、市街地で大量のサリンを使用した場合の実効性を検証したいと考える一方、長野県松本市内に教団の施設を建設しようとしたところ、住民らの強い反対運動に遭ったばかりか、教団が取得した土地に関して民事訴訟を提起され、その審理の行方が教団に不利であったことから、右訴訟事件の担当裁判官らを殺害して、教団に不利な司法判断を免れる目的をも併せ持って、本件犯行を敢行したものである。
このような本件犯行の動機は、教団の利益のためには、手段を選ばず、無差別大量殺人の挙に出たものであって、独善的かつ反社会的思考に基づくばかりか、民主主義社会を支える司法制度を根底から破壊しようとしたものであり、現行憲法秩序を否定する点においても、酌量すべき余地は一切ない。
さらに、本件犯行の態様は、市街地におけるサリン散布の目的で特別に開発、製作された加熱式噴霧器設置車両を使用して、住民多数が安心して寝静まった夜間の時間帯に、多くの住宅が密集する市街地において、殺人兵器として生成された大量のサリンを一挙に噴霧して周囲に拡散させたというものであって、無差別大量殺人を企図した犯行であり、甚だ凶悪かつ残虐な犯行というほかはない。しかも、事前に下見を行ったり、教団の犯行であることが発覚しないように偽造のナンバープレートを用意したり、警察官に発覚した場合に備えて武道にたけた被告人らを配置したり、犯行時に過ってサリンを吸入した場合に備えて治療薬を準備した医師を待機させたりしており、極めて周到に準備、計画された組織的犯行でもある。
そして、本件犯行の結果は、本件において審理対象とされたものだけでも、死亡者が七名、受傷者も四名に及んでいるのであって、我が国犯罪史上例を見ない計り知れない深刻かつ甚大な被害を生じさせている。死亡した被害者七名は、当時一九歳から五三歳の男性五名と女性二名であり、いずれも将来に希望を抱きながら、教団とは無縁の平穏な日常生活を送っていたのに、突如猛毒の殺人兵器であるサリンに見舞われ、原因さえ分からないまま死に至る苦痛の中で絶命させられたものであって、その無念さはもちろんのこと、愛する家族の貴重な生命を理由なく一方的に奪われた遺族らの受けた衝撃の深刻さは筆舌に尽くし難いものがある。また、サリン中毒症により、意識が回復しない者を含んで、四名の重い傷害を負わされた被害者とその家族の受けた深刻極まりない苦痛も到底軽視することができない。しかるに、これらの被害に対して、被告人や本件犯行に関与した教団関係者からは全く慰謝の措置が講じられてはおらず、被害感情はいやされることなく今日に至っているのであり、遺族や被害者らが本件犯行に関与した者に対して厳重処罰を求めるのは当然のことである。加えて、無差別大量殺人という本件犯罪の性格からして、松本市周辺に居住する住民はもちろんのこと、我が国の社会一般に対しても、大きな衝撃を与えたほか、深刻な不安感、恐怖感を醸成させており、本件が及ぼした社会的影響も軽視できないところである。
2 被告人は、教団内においては、格闘技の第一人者と目されていたことから、本件犯行に際して、警察官等に発覚した場合、これを実力で排除するという重要な役割を担って犯行現場に臨んでいたのであり、サリンを噴霧していた間も、ワゴン車の中でそのために待機していたほか、犯行現場との往復の経路において、共犯者を搬送するためにワゴン車を運転するという役割も果たしているのであって、その刑責は重大というべきである。
二 判示第一のいわゆるサリン生成化学プラント事件について
本件は、Mの指示により、大量のサリンをヘリコプターで散布することを計画し、教団所属の者多数がこれに使用するためにサリンの大量生産を企てたという事案である。
1 本件犯行の動機も、松本サリン事件と同じく、無差別大量殺人を意図して、本件化学プラントを建設、稼動させてサリンの生成を企てたというものであり、独善的かつ反社会的思考に基づくものであって、酌量の余地は全くない。
さらに、本件犯行の態様を検討しても、無差別大量殺人兵器であるサリンの生成を教団の組織を挙げて大規模に敢行したものであり、本件化学プラントにおいては、平成六年一二月までに第四工程までを稼動させて中間生成物を作出していたのであって、平成七年元旦の新聞報道により、教団がサリンを生成していることが発覚するおそれが生じたため、生成作業を中止し、サリンの大量生成には至らなかったという経緯があり、そのような事情がなければ、比較的短期間のうちに予定どおりのサリンの大量生成が可能となっていたのであるから、無差別大量殺人の現実的危険性は差し迫っていたのであって、危険かつ悪質極まりない犯行といわなければならない。
2 被告人は、本件犯行に際して、他の教団信者とともに、生成工程の一部に現実に加わっていたものであり、松本サリン事件に関与して無差別大量殺人兵器としてのサリンの強力な毒性を熟知していながら、本件犯行に関与したものとして、犯情は甚だ悪質というほかはない。
三 被告人の個別的情状について
被告人は、松本サリン事件に際しては、警察官等に発覚した場合にこれを排除する役割を帯びて犯行現場に赴いたほか、教団施設と犯行現場の往復に使用されたワゴン車の運転を担当していたものであって、凶悪かつ残虐な本件犯行の重要部分に関与していたと評価すべきであり、その後もサリン生成プラント事件に関与していることを併せ考慮するときには、被告人の刑事責任が極めて重大であることは明らかである。しかしながら、松本サリン事件の際には、警備担当の役割を帯びて現場に赴いたものの、現実には警察官等と接触することはなかったのであり、本件犯行を命じた教団最高指導者のM、サリン噴霧を直接に担当したCと比較した場合にはもちろんのこと、N、S、Eらが果たした役割等と比較した場合には、これら共犯者の果たした役割等が被告人の果たした役割等に比べて一層重大であることは否定できない。また、サリン生成化学プラント事件の際にも、被告人は、他の末端の信者と同様の稼動要員としての立場で本件犯行に関与していたに過ぎない。さらに、本件各犯行について、被告人は、サリンの認識の有無などの主観的な面に関しては否認しているものの、被告人が果たした役割等の客観的事実関係については捜査段階以来ほぼ一貫して概ねこれを認めている上、被害者や遺族に対する謝罪の意思を表明しており、反省の態度も認められるところである。しかも、被告人は、既に昭和六三年には出家していたのであり、教団内では古参信者であるとはいえ、音楽と踊りを担当する部門の責任者を務めたり、Mの護衛役を果たしていた程度に過ぎず、教団内では幹部といわれるほどの重要な地位を与えられなかった上、平成六年一二月には、妻であったHとともに教団を脱走して教団から脱会しており、平成七年六月ころ、逮捕状が出されていることを知り、自ら警察署に出頭した上、松本サリン事件に関与したこと等を捜査官に対して供述しているのである。
四 結論
このような諸事情、特に、松本サリン事件の凶悪かつ残虐さ、被害結果の甚大さ等にかんがみると、被告人の刑事責任が極めて重大であり、被告人に対する科刑としては無期懲役をもって臨むことも考えられないではないが、前記のような被告人に有利な諸般の情状に加えて、松本サリン事件やサリン生成化学プラント事件の関与者に対する科刑の状況、さらには、他の教団所属の者による各種事件に対する科刑の状況等をも併せ考慮するときには、被告人に対する無期懲役の科刑は重きに過ぎ、主文掲記の科刑が相当であると思料する。
よって、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 大渕敏和 裁判官 高山光明 裁判官 松永栄治)