東京地方裁判所 平成8年(ワ)4060号 判決 1997年3月25日
原告
山本松子
右訴訟代理人弁護士
宮崎好廣
被告
有限会社野本商店
右代表者代表取締役
野本由美江
右訴訟代理人弁護士
伊藤哲
主文
被告は原告に対し、五〇万円及びこれに対する平成八年三月三一日から支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。
原告のその余の請求を棄却する。
訴訟費用はこれを一五分し、その一を被告の負担とし、その余を原告の負担とする。
この判決は、主文第一項に限り、仮に執行することができる。
事実及び理由
第一請求
被告は原告に対し、七六七万一七七三円を支払え。
第二事案の概要
本件は、かっ(ママ)て被告の従業員であった原告が被告に対し、給与及び退職金規定に基づいた退職金と昇給したことによる差額賃金及び賞与の支払いとを求め、これに対し、被告が業績悪化等により右規定が失効した等と主張してその支払いを拒否している事案である。
一 争いのない事実
1 原告は、白生地・染物の卸売りを業とする被告に昭和四〇年四月から平成七年一二月三一日までの約三〇年八か月間勤務した。
2 ところで、被告の昭和三六年九月一日からの施行にかかる就業規則附則「給与及び退職金規定」(以下「本件給与・退職金規定」という。)には、昇給、臨時給与及び退職金につき左記のとおりの定めがなされている。
記
昇給(七項)
定期昇給は、五月、一一月の年二回とし、五月は基本給の五パーセント、一一月は基本給の一〇パーセント昇給させる。
臨時給与(四項)
賞与として年二回、七月に基本給の〇・五か月分、一二月に基本給の一か月分の臨時給与を支給する。
退職金(八項)
退職金は勤続二年以上の社員が解雇又は退職する時に支給される。金額等については、最低政府で実施する中小企業退職金救済法(案)、東京都商店街連合会(案)給与を入社後毎月積立てたものと、その年の経済状況を考慮して、これを支給する。
二 争点
1 未払賃金の有無及びこれが存したとした場合の未払額
2 未払退職金の有無及びこれが存したとした場合の未払額
第三争点に対する判断
一 未払賃金の有無及びこれが存したとした場合の未払額について
原告の平成六年四月分から同七年一二月分までの支給基本給額が別紙「差額計算書」記載「支給基本給B」欄のとおり一五万七八〇〇円であったこと、原告の同年度の支給賞与額が同計算書記載「支給賞与D」欄のとおりであったことはいずれも争いがない。
原告は、本件給与・退職金規定には昇給及び賞与に関し前記のとおりの規定がなされているのであるから、原告の平成六年五月分以降の基本給額は別紙「差額計算書」記載の「基本給A」欄のとおりとなるべきところ、「支給基本給B」欄の基本給額のみの支給を受けたに過ぎなかったので、「昇給差額」欄の差額基本給が未払いとなっており、また、賞与についても、「賞与額C」欄の賞与の支給を受けるべきところ、「支給賞与D」欄の賞与の支給を受けたのみであったから「賞与差額」欄の差額賞与が未払いとなっている旨主張する。
なるほど、本件給与・退職金規定によれば、被告は従業員に対し、毎年五月には基本給の五パーセント、一一月には基本給の一〇パーセントの定期昇給を実施し、賞与については、七月には基本給の〇・五か月分、一二月には基本給の一か月分を支給するというものであって、しかも、右実施及び支給については業績等の諸事情を考慮対象とする等の留保条項が付されていないから、もともと、従業員は被告に対し、本件給与・退職金規定に基づき、右規定のとおりの昇給額及び賞与額の支給を求めることができ、したがって、原告の平成六年五月分以降の基本給額は原告の右主張するとおりとなるから、原告は被告に対し、原告の右主張するとおりの未払賃金と賞与とを請求をすることができるということができる。
ところが、被告は、本件給与・退職金規定は、これが制定された昭和三六年当時は被告は盛業であったが、その後の経済状況の激変により被告の業種は構造的な不況に陥り、このようなことから本件給与・退職金規定はその効力を失ったのであり、また、本件給与・退職金規定のとおりの昇給、賞与の支給をしないことについて原告を含めた従業員全員が同意をしていた旨主張し、原告の請求に応じない。
そこで、被告の右主張について検討する。
証拠(<証拠略>、原告及び被告代表者各本人尋問の結果)によれば、次の事実を認めることができる。
被告は、明治一〇年に個人商店として創業され、昭和二八年に現在の有限会社に組織替えをし、主に呉服の白生地染色加工業を営んできており、昭和三〇年ころから四〇年ころにかけては被告の営業は繁盛し、従業員も約三〇名雇用していたが、その後、呉服(和服)業界の衰退とともに構造的不況業種の一つとなり、これにともない被告の業績も悪化の一途を辿るようになった。とりわけ、昭和五六年一一月二〇日の手形の不渡事故発生の危機に直面して以降は業績も悪化の一途を辿り、平成元年度以降の業績をみると、平成元年五月一日から同二年四月三〇日までの間の営業年度においては、代表者からの短期借入金七〇〇万円を、自家消費の売上げに振り替えて商品売上高を増やし、決算書上は一四万二八〇〇円の黒字決算としている。平成二年五月一日から同三年四月三〇日までの間の営業年度においては、代表者からの短期借入金四六三万九九八八円及び取締役の野本松枝からの短期借入金二九五万円を、いずれも自家消費の売上げに振り替えて商品売上高を増やし、決算書上は、一五万五〇五二円の黒字決算としている。平成三年五月一日から同四年四月三〇日までの間の営業年度においては、代表者についての未払費用(報酬未払分)二一〇万円を、自家消費の売上げに振り替えて商品売上高を増やし、決算書上は、六万一二四七円の黒字決算としている。平成四年五月一日から同五年四月三〇日までの間の営業年度においては、野本松枝からの短期借入金四二二万三〇〇〇円を、自家消費の売上げに振り替えて商品売上げを増やし、決算書上は八万九五四六円の黒字決算としている。平成五年五月一日から同六年四月三〇日までの間の営業年度においては、野本松枝からの短期借入金三二〇万円を、自家消費の売上げに振り替えて商品売上高を増やし、決算書上は一七万九二五九円の黒字決算としている。平成六年五月一日から同七年四月三〇日までの間の営業年度においては、親族である被告役員からの借入金はなかったが、前代表者の亡野本博司の死亡保険金二二六三万五九三四円が雑収入として計上されたにもかかわらず、決算書上は八二万二三九六円の赤字決算となっている。このようなことから、被告は、何時倒産になるかも知れない状況にあり、従業員も四名、原告が退職して以降は三名となり、この従業員によって辛うじて営業を継続している状況にある。
ところで、本件給与・退職金規定は、被告の現代表者の夫亡野本博司の亡父野本冨士太郎郎(ママ)が代表者の時代に制定・施行したのであるが、この当時の被告の営業は前記のとおり繁盛している状況にあって、右規定のとおりの昇給の実施及び賞与の支給をすることも可能であったが、その後の前記の被告の業績悪化、とりわけ手形不渡り事故発生の危機に直面した以降は右規定のとおりの昇給の実施及び賞与の支給が困難となり、このような状況はその後も改善されることはなく、現代表者の夫亡野本博司が平成五年七月に脳梗塞で倒れ、同年一一月に退任し、この後を同代表者の妻である現代表者が引き継いで以降は右規定のとおりの昇給の実施は勿論のこと、賞与の支給も基本給の〇・一ないし〇・三か月分程度にとどまっており、また、同代表者は、本件給与・退職金規定の存在すらを原告との本件紛争発生まで知らなかった。
他方、原告を含めた従業員全員は、被告が右のような営業状態にあったことから、被告の右のような措置に対して規定のとおりの昇給の実施及び賞与の支給を要求したこともなかった。
なお、原告は、主に営業を担当していたが、昭和四七年ころから同五七年ころまでの間、経理関係業務をも担当したことがあり、被告の業績が不振であったことは十分に知ることのできる立場にあった。
右認定事実によると、本件給与・退職金規定の施行された当時の被告の営業は盛業状況にあって、この規定のとおりの昇給を実施し、賞与を支給することも可能ではあったが、その後の被告の業績の悪化、とりわけ、昭和五六年一一月二〇日の手形不渡事故発生の危機に直面して以降の業績は悪化の一途を辿るようになり、このようなことから右規定のとおりの昇給の実施及び賞与の支給は困難な状況となり、このような状況は一向に改善されず、現代表者が経営を引き継いだ以降は昇給の実施を全くしないようになったばかりか、賞与についても僅かの支給に止まっていたというのであり、従業員は、このような被告の経営状況を知っていたためと考えられるが、被告の右のような措置に対し何らの要求等をしなかったというのである。
そうすると、原告をも含めた従業員全員は、被告が右規定のとおりの昇給の実施をしないこと及び賞与の支給をしないことを暗黙のうちに承認していた、すなわち、黙示の承諾をしていたということができる。
したがって、この点に関する被告の主張には理由があることとなるので、原告の請求は理由がない。
二 未払退職金の有無及びこれが存するとした場合の額について
被告が原告に対し、本件給与・退職金規定上の退職金を全く支給していないことは争いがなく、被告が本件給与・退職金規定に基づいて原告のために積み立てた中小企業退職金共済法の給与の入社後の積立金の総額が三一万一八三五円にとどまり、右規定に基づいて原告のために積み立てることとなっていた東京都商店街連合会の給与の入社後の積立てには未加入であることも争いがない。
原告は、本件給与・退職金規定の定めによれば、中小企業退職金共済法の入社後の積立金は勤続年数三〇年間、最低月額掛金五〇〇〇円を納付したものとして計算されるべきであるから、支給退職金額は三七七万円となり、東京都商店街連合会の給与の入社後の積立金も同額と計算されるので、原告の退職金額は七五四万円となる旨主張する。
ところで、本件給与・退職金規定によると、退職金は勤続二年以上の社員に対し支給することとなっているのであるから、被告は原告に対しても退職金を支給する義務があるというべきである。
そこで、右支給すべき退職金額について検討するに、右規定によると、最低「政府で実施する中小企業退職金共済法(案)、東京都商店街連合会(案)給与を入社後毎月積立てたものと、その年の経済状況を考慮してこれを支給する。」と定めているのであるから、支給退職金額は、右積立金と被告が経済状況を考慮したうえでの決定金額ということとなる。
そうすると、右積立金額は、現実の積立金額を意味するものと解すべきであるから、中小企業退職金共済事業団に積み立てた額は三一万一八三五円であり、東京都商店街連合会の積立てには未加入であるというのであるから、被告は原告に対し、この積立金三一万一八三五円の支払義務があるということができる。
しかし、右支給金額のうち「その年の経済状況を考慮して」の部分については確定金額は被告の算定にかかるものと解すべきであるから、この算定のない現段階においては原告は被告に対し自ら算定した金額を請求する根拠を欠く。
もっとも、被告は、中小企業退職金共済事業団に積み立てている分三一万一八三五円と現在の経済状況及び被告の経営状況を考慮した額とを合わせて支給する用意があること、この額は五〇万円が相当であると答弁しているので、被告は原告に対し、五〇万円の範囲内での退職金を支給する義務のあることを自認しているということができる。
原告の主張する退職金額算定方法は独自の見解によるものであって採用できない。
そうすると、被告は原告に対し、退職金として五〇万円と少なくともこの弁済期である本件訴状の送達の日の翌日である平成八年三月三一日から支払い済みまで年五分の割合による遅延損害金の支払義務があるが、原告の被告に対するその余の請求は理由がない。
よって、主文のとおり判決する。
(裁判官 林豊)
別紙 差額計算書
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