東京地方裁判所 平成8年(ワ)6781号 判決 1999年10月21日
原告
株式会社コメット
右代表者代表取締役
【A】
右訴訟代理人弁護士
桐月典子
被告
【B】
同
【C】
同
【D】
同
株式会社グフィー
右代表者代表取締役
【B】
右被告四名訴訟代理人弁護士
舟木亮一
鳥飼重和
主文
一 原告の請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第一 原告の請求
1 被告らは、原告に対し、連帯して金九六二〇万一六一二円及びこれに対する平成八年五月四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
2 被告【B】、同【C】及び同【D】は、原告に対し、連帯して金一〇六六万一四五五円及びこれに対する平成八年五月四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
3 被告【B】は、原告に対し、六八万八五二〇円及びこれに対する平成八年五月四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二 事案の概要
本件は、被告【B】、同【C】及び同【D】が原告会社を退職して被告会社を設立したことにつき、原告会社が被告らに対し、取締役の忠実義務違反、共同不法行為等を主張して、損害賠償(不法行為又は債務不履行の後であり、本件の訴状送達の日より後である平成八年五月四日から支払済みまでの民法所定の遅延損害金を含む。)を求めている事案である。
一 争いのない事実
1 原告会社は、昭和五五年七月二九日に設立された、ソフトウェアの開発作成業務を主たる目的とする株式会社である。
2(一) 被告【B】は、昭和五六年四月に入社してから平成七年七月末日付けで退職するまでの間、原告会社の従業員として、コンピュータシステム開発業務に従事していた者であり、平成五年四月から右退職までの間は、原告会社の取締役であった。
(二) 被告【C】は、昭和五六年九月に入社してから平成七年九月末日付けで退職するまでの間、原告会社の従業員として、コンピュータシステム開発業務に従事していた者である。
(三) 被告【D】は、昭和六一年四月に入社してから平成七年九月末日付けで退職するまでの間、原告会社の従業員(システム開発部のシステムエンジニア)であった者であり、昭和六二年八月から平成七年九月までの間は、日本ヒューレットパッカード株式会社(以下「HP社」という。)に関する計測・制御プログラムの開発及び保守業務に専ら従事していた。
(四) 被告会社は、平成七年七月二四日に設立された株式会社であり、被告【B】はその代表取締役、被告【C】及び同【D】はその取締役である。
3 原告会社は、被告【B】らが退職する前後を通じて、コンピュータのシステム開発業務をHP社から受注しており、HP社は原告会社の主要な取引先である。被告会社は、平成七年一一月ころ以降、HP社から注文を受けて、コンピュータのシステム開発業務を行っている。
4 【E】、【F】、【G】及び【H】は、いずれも原告会社の従業員であったが、それぞれ平成七年九月、一一月、一二月又は平成八年一月の末日ころをもって原告会社を退職し、その後、被告会社に入社した。
二 争点
1 被告【B】が、原告会社の取締役在任中に、取締役の忠実義務に違反する行為をしたか。
2 被告【B】が、原告会社の取締役を退任した後に、原告会社に対する忠実義務(競業避止義務)に違反し又は不法行為に該当する行為をしたか。
3 被告【B】の取締役在任中の忠実義務違反行為(右1)及び取締役退任後の忠実義務違反又は不法行為(右2)に基づいて原告会社が求めることのできる損害賠償の額。
4 被告【C】及び同【D】が、原告会社に対する損害賠償義務を負うか。
5 被告会社が、原告会社に対する損害賠償義務を負うか。
6 株式会社ミツトヨへのコンピュータシステムの販売に関して、被告【B】が原告会社に対し損害賠償義務を負うか。
三 争点に関する当事者の主張
1 争点1(被告【B】の取締役在任中の忠実義務違反の有無)について
(一) 原告会社の主張
(1) 被告【B】は、原告会社の取締役であった平成七年六月ころ、原告会社のシステム開発部所属の従業員であった被告【C】、同【D】、【F】及び【E】並びに総務部所属の従業員であった【I】に対して、原告会社と業務目的を同じくする被告会社の発起人となってこれを設立することに協力し、その設立後は原告会社を退職して被告会社に入社するよう、積極的に勧誘した。また、原告会社の従業員であった【G】及び【H】に対しても、原告会社を退職して被告会社に入社するよう誘った。被告【B】の勧誘行為の結果、これらの者はいずれも原告会社を退職した。
原告会社は、HP社のコンピュータを使用する顧客のためにシステム開発をすることを主たる業務内容とする会社であり、システム開発を行う人材こそが原告会社の唯一の資産というべきものであるから、資本を投下して従業員の教育訓練を行っている。被告【B】が勧誘した者は、原告会社が独自に開発した効率的かつ柔軟な技術をOJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)を含めて教育し、HP社のコンピュータ及びこれに接続される各種計測機器に関する制御方法、操作方法等を修得させた、熟練した技術者であった。
したがって、被告【B】が、原告会社の取締役在任中に、原告会社と同一の業務目的を持つ被告会社を設立し、原告会社の熟練した技術者である被告【C】、同【D】、【F】、【E】、【G】及び【H】に対して、原告会社を退職して被告会社へ参加するよう勧誘した行為は、取締役の忠実義務に違反するものであり、被告【B】は原告会社に対し、商法二五四条ノ三、二六六条一項五号により、損害賠償義務を負う(なお、【G】及び【H】に対する働きかけが、取締役退任後である場合でも、取締役の忠実義務違反又は不法行為による損害賠償義務を負う。)。
(2) これに対し、被告【B】は、後記のとおり、被告【B】による勧誘行為はなかったなどと主張するが、被告【B】が原告会社に対し退職の意思表示をしたのは、平成七年六月九日に退職願を提出したのが最初であり、退職したのが同年七月三一日であるところ、同月七日に被告会社の原始定款が作成されていることからすると、被告【B】は、これよりもかなり以前から、被告【C】、同【D】らと、被告会社設立の計画をしていたというべきである。そして、被告会社の発起人のほとんどが被告【B】の部下であった者であることからみて、被告【B】は、原告会社においてHP社からの請負業務に従事し、その内容に精通していた従業員を引き抜いて、原告会社の顧客であるHP社からの発注業務を請け負う会社として、被告会社を設立したものということができる。また、被告【B】は、被告【C】、同【D】、【F】、【E】らはそれぞれ原告会社に対する不満があって自由な意思で退職したと主張するが、被告【D】以外は退職に当たり虚偽の理由を述べ、その後被告会社に入社していることからすれば、右の者らの退職は、職業選択の自由の域を超えるものであって、被告【B】による勧誘という、取締役の忠実義務違反行為に起因するものというべきである。
(二) 被告【B】の主張
(1) 被告【B】は、原告会社代表者の要求により同年七月三一日付けで退職することとしたが、同年五月中旬には退職の意思表示をしており、同月末までに原告会社代表者から退職を認められていた。被告【B】が退職することは社内に知れ渡るところとなり、原告会社を退職して新たに事業を起こすという被告【B】の意図を知った原告会社の従業員の中から、被告【B】と行動を共にしたいと申入れをする者が相次いだ。被告【B】は、これをすべて断っていたが、被告【C】、同【D】、【F】、【E】及び【I】が熱心に何度も申入れをしたので、これを受け入れた。また、【G】及び【H】については、被告【B】が原告会社を退職した後に、被告会社に入社したいと申入れをしてきたので、これを承諾したものである。
(2) 被告【C】らが原告会社を退職したのは、原告会社代表者に対する不満があったこと、被告【B】が退職した後の原告会社には何の魅力もないことなどが理由であり、これらの者が被告【B】と一緒に仕事をしようと欲したのは本人の自発的意思に基づくものであり、職業選択の自由の範囲に属する行為である。被告【B】の勧誘行為などは存在せず、原告は単に憶測を述べているものにすぎない。かえって、原告【B】は、被告【C】らが原告会社を退職しないよう説得したのであり、それにもかかわらず右の者らは考えを変えず、自発的に原告会社を退職したのである。なお、【F】は、結核により三か月入院した結果、原告会社から解雇されたものである。
(3) 被告会社の設立が平成七年七月二四日とされたのは、その日は日柄が良いという知人からの勧めがあったからにすぎず、この時期に被告会社は何の活動もしていない。被告【B】が被告会社の営業活動を開始したのは同年九月になってからであり、事務所の業務態勢が整備されたのは同年一〇月以降である。
(4) したがって、被告【B】には取締役の忠実義務に違反する行為はない。
2 争点2(被告【B】の取締役退任後の忠実義務違反又は不法行為の成否)について
(一) 原告会社の主張
(1) 被告【B】は、同被告が原告会社の取締役在任中に設立し、原告会社における教育訓練により熟練技術を身に付けた被告【C】、同【D】、【F】、【E】及び【G】をその従業員とする会社である被告会社の代表取締役として、原告会社の主たる取引先であるHP社に対して、業務を発注して欲しい旨を申し入れ、平成七年一一月ころ以降、コンピュータソフトの開発業務をHP社から受注した。これにより、原告会社は、右各人が原告会社の従業員として稼働していれば得られたであろう利益を失った。
HP社からコンピュータソフトの開発業務を受注するためには、HP社のコンピュータ及びこれに接続される各種計測機器に関する制御方法、操作方法等を修得した熟練した技術者がいなければならず、その養成のためには多大の資本の投下を必要とする。原告会社は、HP社のコンピュータを使用する顧客のためにシステム開発することを主たる業務内容とする会社であり、システム開発を行う人材こそが会社の唯一の資産というべきものであって、そのために右の者らを教育訓練してきた。ところが、被告【B】は、原告会社においてこれを修得した者を従業員として採用したので、自らは養成のための費用を負担せずに、HP社から開発業務を受注することができたのである。
(2) 原告と被告【B】との間には、被告【B】が原告会社の取締役を退任した後も原告会社と競業をしてはならない旨の特約は存在しなかったが、右(1)のような状況においては、取締役がその退任後も忠実義務(競業避止義務)を負うとしても、公正な競争を原理とする今日の経済組織の発展を阻害することにならず、退任した取締役の経済・社会活動に対する不当な制限とはならない。したがって、被告【B】は原告会社に対し、信義則上の忠実義務(競業避止義務)を負っているというべきである。
(3) また、被告【B】の右行為は、不法行為に該当するということもできる。
(4) したがって、被告【B】は原告会社に対し、損害賠償義務を負う。
(二) 被告【B】の主張
(1) 営業の自由の観点からすれば、取締役は、原則として退任後は競業避止義務を負わず、例外的な場合に信義則上の義務として負担するにすぎない。
(2) 本件では、被告会社とHP社との取引は、HP社からの要望により開始されたものであり、被告らの側からの働きかけはなかったこと、原告会社とHP社との従前からの取引は依然として継続していること、原告会社と被告会社の業務は、コンピュータ関係とはいっても業種が異なるものであることにみられるとおり、被告らは自由かつ公正な自由主義経済の下で活動を行っているのであり、これを債務不履行又は不法行為というのは失当である。
3 争点3(被告【B】の忠実義務違反又は不法行為による原告会社の損害の額)について
(一) 原告会社の主張
(1) 原告は、被告【B】が取締役在任中にした忠実義務違反行為により、以下の損害を被った。
ア 被告【B】は、原告会社のシステム開発部において、HP社から受注する業務に従事していた被告【C】、同【D】、【F】、【E】及び【G】をして、ほぼ時を同じくして原告会社を退社させ、被告【B】が設立した被告会社に入社させただけでなく、これらの者が従前携わっていたのと同じ業務に従事させ、原告会社のHP社からの受注量を減少させた。原告が右の各人に教育訓練して修得させた熟練技術が有用性を維持できる期間は三年間であるから、これらの者が三年間に得ることができたであろう利益は、原告会社の損害(逸失利益)となる。
平成四年四月一日から同七年三月三一日までの三年間に、右の各人による業務遂行によって原告会社が得ていた利益の額(各人の売上金額から、各人に支払った給与、賞与及び通勤費、各人のために原告会社が負担した社会保険料並びにこれらの五パーセントに当たる諸経費を差し引いた金額)は、次のとおりである。
被告【C】 一七三〇万六二九二円
被告【D】 二〇一四万〇九四九円
【F】 二七二四万五四二四円
【E】 二五六〇万六一八二円
【G】 二三八一万〇七四〇円
合計 一億一四一〇万九五八七円
そこで、原告会社は被告【B】に対し、右合計額のうち九六二〇万一六一二円を、損害賠償として請求する。
イ 被告【B】、同【C】、同【D】、【F】、【E】及び【G】は、原告会社の主要な部門であるシステム開発部のうちの約半分の利益をもたらす人材であり、右各人が退職したために、システム開発部はコンピュータソフトを開発作成する態勢を欠くに至った。原告会社は、その欠員を補って原告会社の経営を維持するための人材を募集する費用として、少なくとも一一三二万二九一〇円を支出した。右金額の半分の五六六万一四五五円は、被告【B】の忠実義務違反行為によって原告会社が被った損害である。
ウ 右各人が退職したために原告会社は業務態勢を欠くに至ったので、原告会社は、従前の業務態勢を回復して顧客に対する信用を取り戻すため、従業員に残業を強いたり、代表者において顧客に謝罪及び折衝に赴くなどの努力を強いられたり、講師料を支払って社内教育の講義を行ったりしなくてはならなかった。これらの社内態勢の維持のための費用は原告会社の受けた損害であり、これを金銭に見積もると少なくとも五〇〇万円に相当する。
(2) 原告は、被告【B】が取締役退任後にした忠実義務違反又は不法行為により、右(1)ア記載の損害を被ったので、取締役在任中の忠実義務違反に基づく損害賠償請求と選択的に、これを請求する。
(二) 被告【B】の主張
すべて争う。
4 争点4(被告【C】及び同【D】の損害賠償義務の有無)について
(一) 原告会社の主張
(1) 被告【C】及び同【D】は、平成七年六月ころ、被告【B】から勧誘を受けて、被告会社設立に際して発起人となってその設立に協力し、原告会社を退職して被告会社に入社する決意をするとともに、被告【B】と共同して、【E】、【F】及び【G】に対し、原告会社を退職して被告会社に入社するよう勧誘した。
したがって、被告【C】及び同【D】は、被告【B】の忠実義務違反行為を共同して行った者として、民法七一九条一項後段の類推適用により、また、被告【B】の不法行為の共同不法行為者として、原告会社に対して損害賠償義務を負う。
(2) 原告会社は、被告【C】及び同【D】の右(1)の行為により、前記3(原告会社の主張)(一)(1)の損害を被ったので、右被告らに対し、被告【B】と連帯してこれを支払うよう求める。
(二) 被告【C】及び同【D】の主張
被告【B】による忠実義務違反や不法行為が存在しないことは前述のとおりであるから、被告【C】及び同【D】も原告会社に対する責任を負わない。
5 争点5(被告会社の損害賠償義務の有無)について
(一) 原告会社の主張
(1) 被告会社は、被告【B】の取締役退任後の忠実義務違反ないし不法行為の共同行為者として、原告会社に対し損害賠償義務を負う。
また、被告会社は、その取締役である被告【B】、同【C】及び同【D】が、被告会社の職務行為を行うにつき原告会社に与えた損害について、民法四四条一項による損害賠償義務を負っている。
(2) よって、原告会社は、被告会社に対し、前記3(原告会社の主張)・(1)アの損害について、被告【B】、同【C】及び同【D】と連帯して、その賠償をするよう求める。
(二) 被告会社の主張
被告【B】による忠実義務違反や不法行為が存在しないことは前述のとおりであるから、被告会社の原告会社に対する損害賠償義務もない。
6 争点6(ミツトヨへのコンピュータシステムの販売に関する被告【B】の損害賠償義務の有無)について
(一) 原告会社の主張
被告【B】が、平成六年一〇月以降担当していたミツトヨへのコンピュータシステムの販売に関して仕入れを間違ったため、平成七年七月の同社への納入に際して、X端末が一式多く納入され、FORTRANコンパイラー一式が納入されなかった。その結果、原告会社は、不必要な端末を購入したこと及び本来必要なコンパイラーをその後購入せざるを得なかったことにより、六八万八五二〇円の損害を被った。
右は、被告【B】の原告会社に対する労働契約上の義務違反行為であるから、原告会社は被告【B】に対し、債務不履行に基づき、右金額の損害賠償を求める。
(二) 被告【B】の主張
原告会社の主張は、すべて否認し、争う。
ミツトヨへの納入に関して余分に注文したミスについて、被告【B】はこれを自ら買い取ると主張したのに対し、原告会社代表者は、給料一か月分だけ支払われることになっていた退職金で弁償することを要求した。その結果、被告【B】に退職金は支払われず、結果的に原告会社は無償で当該機器を入手できたこととなった。
第三 争点に対する判断
一 後掲の各証拠及び弁論の全趣旨によれば以下の事実が認められる。
1 原告会社は、ソフトウエアの開発作成業務、電子計算機利用に関するコンサルタント業務等を目的とする株式会社であり、その業務の主要部分は、HP社から受注するシステム開発関連のものにより占められている。原告会社は、HP社から資本参加及び役員の派遣を受けて、計測制御等に関するコンピュータシステム開発に係る業務を継続的に受注しており、同社から請け負った仕事を処理するために有益な技術と経験を蓄積している。原告会社が設立されたころの中心メンバーは、原告会社代表者、被告【B】を含め五名であったが、このうち二名は、被告【B】より前に、専ら原告会社代表者に対する不満が募ったことを理由に、原告会社を退職している。(甲一、九、七八、八一、乙一四、二一、三〇の1ないし5、原告代表者、被告【B】本人)
2 被告【B】は、原告会社において、平成二年四月に、ソフトウエア開発を中心とする業務を行うシステム開発部の部長となり、同六年七月には、ハードウエアを含めたシステムの受注を扱う部として新設されたシステム営業部の部長となった。また、同五年四月には取締役に就任した。被告【B】は、システム開発部の部長として、被告【C】、同【D】、【F】、【E】、【G】及び【H】の上司であり、システム営業部の部長になった後も、これらの者との交流が密だった。(甲七一、七八、原告代表者、被告【B】本人)
3 被告【B】は、原告会社の取締役となって以降、役員としての実質的な権限を与えられず、会社の経営に関わる根本的な問題の意思決定に関与させてもらえないこと、会社の経理(特に支出面)の詳細について知らされないことについて、原告会社代表者に対して強い不満を持っていた。また、原告会社代表者の妻が、技術翻訳を中心業務とする原告会社の子会社の株式会社トラビスの取締役として、実際には仕事をしていないのに多額の報酬を受けているのではないかと、不信感を抱いていた(ちなみに、原告会社代表者の妻は、平成三年にトラビスが設立されて以来名目上の取締役となっていたが、実際には取締役としての職務を行っていないにもかかわらず取締役報酬を支給されており、平成七年九月決算に係る一年間に同人に支給された報酬の額は二四〇万円であった。)。さらに、原告会社代表者が、自己啓発セミナーへの参加を従業員に対して事実上強制していたことに関しても不満に思っていた。(乙一四、二九の1ないし5、原告代表者、被告【B】本人)
4 平成七年三月ころ、被告【B】は、原告会社代表者の求めに応じて自己申告書を提出し、経営状態の開示、役員として果たすべき役割の説明及び職責に応じた金額への報酬の増額を求めた。ところが、再三にわたる求めにもかかわらず、原告会社代表者から納得のいく回答を得られなかったことから、同年五月中旬ころ、原告会社を退職することを決意し、その旨を原告会社代表者に告げて、その了解を得た。被告【B】は、同年七月末日をもって退職したい旨の退職願を同年六月九日に提出し、その後、同年七月二一日まで原告会社に出社して当時担当していた業務の引継ぎを済ませ、それ以降同月末日までは有給休暇を取得した。また、被告【B】は、原告会社代表者と共にHP社に退職のあいさつに行ったが、その際には、原告会社代表者は、被告【B】がコンピュータ関連の会社を設立することを認めており、HP社が被告会社と将来取引をしないよう求めたりすることはなかった。なお、被告【B】は、HP社以外の取引先へも退職のあいさつに行こうと考えていたものの、原告会社代表者からそうしないようにとの指示を受けたので、これに従った。被告【B】の退職に当たっては、原告会社代表者と被告【B】の間で、退職金の代わりに一か月分の給料に相当する七〇万円を支払うという話もあったが、結局その支払はされなかった。(甲三ないし六、八、七八、乙四、一四、被告【B】本人)
5 被告【B】は、原告会社を退職した後は、原告会社で従事していた業務とは分野が異なる、マルチメディア関係の仕事を一人でしていきたいと考えていた。ところが、被告【B】が原告会社を退職すると聞いた被告【D】及び同【C】が、被告【B】が退職するのであればこれ以上原告会社に勤める意思はないので、原告会社を辞めて被告【B】と行動を共にしたいと、被告【B】に頼み込んだ。また、【E】、【F】及び原告会社の総務部に所属していた【I】も、それぞれ原告会社に対する不満を述べ、被告【B】と一緒に仕事をしたいと申し出た。被告【B】は当初はこれを断り、原告会社を辞めないよう説得していた。ところが、これらの者が繰り返し熱心に頼んできたため、最終的にはこれを承諾することにし、同年六月中旬ころ、これらの五名の者を新会社設立の発起人としてその出資を受け、新たに会社を設立して仕事をしていく決意をした。すなわち、
(一) 被告【C】は、原告会社の人事考課制度や原告会社代表者の従業員に対する姿勢に不満を持っていたこと、週末にアルバイトでしていた仕事で生計を立てられる見通しが立ってきたことに加え、信頼していた上司である被告【B】が退職することになったことから、退職を決意した。ところが、右のアルバイトの仕事をその後することができなくなったことや、被告【B】と共に会社を起こした方が仕事の幅も広がると考えたことなどから、被告【B】に対して、一緒に仕事をさせてくれるよう懇願し、当初消極的だった被告【B】を説得して、その承諾を得た。
(二) 被告【D】は、従前から原告会社代表者の態度に対して不満を抱いていたところ、平成七年五月下旬ころ、尊敬していた被告【B】が退職することを知って、原告会社を辞めて被告【B】と行動を共にしたいと考えた。被告【D】からその考えを聞いた被告【B】は、被告【D】の申出を断り、原告会社を辞めないように説いたが、被告【D】が新たに設立する会社に出資をするなどと言って被告【B】に対して繰り返し希望を述べたので、最終的にはこれを承諾した。
(三) 【F】は、被告【C】や同【D】と同様に原告会社代表者に対する不満が募っていたところ、社内における最大の理解者であった被告【B】が退職することを聞いて、原告会社を辞める決意をした。そして、被告【B】に対し、退職後一緒に仕事をしたいと申し入れ、当初は断っていた被告【B】を説得して、出資して新会社に参加することへの承諾を得た。
(四) 【E】は、原告会社代表者が自己啓発セミナーへの参加を従業員に対して事実上強制したことなどから、原告会社代表者に対して不満を持っていたことや、激務のために体調を崩していたことに加え、信頼している上司である被告【B】が退職することを知ったことから、原告会社を退職する決意をした。【E】は、尊敬していた被告【B】の下で今後も仕事をしていきたいと考え、被告【B】に一緒に働きたいと願い出た。【E】が被告【B】にいったんは断わられたにもかかわらず繰り返しその気持ちを伝えた結果、被告【B】は、【E】が出資をすることと原告告会社の業務に支障がないように退職することを条件に、新たに設立する会社への参加を認めた。(甲一二、乙一四ないし一八、被告【B】本人、同【C】、同【D】)
6 被告【B】は、占いによると会社設立の日としては七月二四日が日柄が良いという話を聞いたので、この日に新会社を設立できるよう準備を始め、同年六月下旬に発起人総会を開いた。そして、被告【B】、同【C】、同【D】、【I】、【F】、【E】及び【J】(被告【B】の妻)が発起人となって、同年七月七日に定款を作成し、さらに同月一七日に資本金一〇〇〇万円につき銀行から株式払込金保管証明書の発行を受けた上で、同月二四日に被告会社の設立登記をした。右の資本金につき、被告【D】、【F】及び【E】は七月中旬に、被告【C】は九月中旬に、それぞれ一〇〇万円を、被告【B】又は被告会社名義の銀行預金口座に振り込んで支払った。ただし、【I】は、資本金を支払って被告会社の実際の業務に参加するということはなく、原告会社への勤務をその後も続けた。(甲一〇、一一、一五、七二、乙五の1ないし3、六ないし九、一四ないし一八、被告【B】本人、同【C】、同【D】)
7 被告【C】、同【D】、【F】及び【E】は、それぞれ、自分が担当していた作業を終えて区切りのいい時点で原告会社を退職した。すなわち、
(一) 被告【C】は、同年八月末が納期の仕事を終わらせ、他の担当業務の引継ぎをするために、同年九月に退職しようと考え、同年九月八日をもって退職したい旨の退職願を同年八月八日に提出し、結局、同年九月末日に退職した。被告【C】は、退職の理由につき、原告会社に対して、被告【B】と一緒に会社をやるためであるとは言わず、以前から考えていた事業を独立開業するためであると述べていた。
(二) 被告【D】は、担当していた仕事が一段落する同年九月末日をもって原告会社を退職することにし、被告【B】と一緒に事業を起こしたいので退職したい旨の辞表を同年八月一〇日に提出した。
(三) 【F】は、結核と診断されて同年八月上旬ころから一二月中旬ころまで入院することとなったが、その間、退院後は療養に努めたいので原告会社に戻る意思はない旨を原告会社側に伝えており、退院後原告会社の勤務に戻ることはなかった。
(四) 【E】は、退職の時期につき、当時担当していた業務が終了する時期を考慮して同年九月二九日と決め、同年八月上旬ころ、健康を害しているためゆっくりと療養したいことを理由に退職したい旨を原告会社側に伝え、その了承を得た上で、同年八月二二日付けの退職願を提出した。(甲一二ないし一四、一六、七三、七四、乙一五ないし一八、被告【B】本人、同【C】、同【D】)
8 被告会社は、同年一〇月に事務所を開いたものの、当初は仕事がなく、同年一一月上旬ころから、被告【B】、同【C】、同【D】及び【E】で実際の業務を始めた。同八年一月には、【F】が勤務を開始し、また、それ以降は、原告会社の従業員ではなかった者も、被告会社に入社して働くようになった。(甲六八、被告【B】本人、同【C】、同【D】)
9 HP社は、同七年九月ころ、被告会社に仕事を回さないようにしてほしい旨の申入れを原告会社から受けていた。また、被告会社としても、原告会社とのトラブルを未然に防止するため、HP社に対して積極的な営業活動をしていなかった。ところが、同年一一月二〇日ころ、HP社は、過去に納入した顧客の改良要求に原告会社が対応できなかったことから、原告会社を退職した技術者に仕事を依頼せざるを得ないと判断した旨を原告会社に伝えた。これに対し、原告会社代表者は、被告会社に仕事を発注しないようHP社に申し入れたが、同社の担当従業員は、同社としては顧客の満足を最優先に考えているので、被告会社への発注はやむを得ないものである旨を答えた。他方、このころ、HP社の担当従業員が、被告【D】に、被告会社としてHP社の仕事を受注する意思があるかを打診してきたので、被告【D】は被告【B】の意向を聞くことにした。被告【B】がHP社側と打合せをした結果、原告会社で開発した仕事に関連する業務はせず、新規の仕事を行うことを条件に、被告会社は、今後HP社からの仕事を受注することにした。そして、被告会社は、同年一一月から現在に至るまで、HP社から継続的にシステム開発、プログラム作成等の業務を引き受けている。ただし、被告会社でHP社関連の仕事をしているのは、専ら被告【D】であり、被告会社全体に占める右業務の割合は二五パーセント程度にとどまっている。(甲六六、六七、七五、七八、乙三、被告【B】本人、同【C】、同【D】)
10 【G】は、原告会社では正当な人事評価がされていないと感じて仕事に対する意欲を失っていたところ、被告【B】の退職後は社内の雰囲気が重苦しくなり、信頼できる上司がいないことから、退職を決意した。【G】は、新たな会社を設立した被告【B】と今後も一緒に仕事がしたいと思い、被告【B】に雇ってくれるよう何度も頼み込んで、最初は断られたものの、最終的には了解を得た。そして、同年一一月三〇日をもって退職したい旨の退職届を提出したが、原告会社側から作業の引継ぎのためにさらに一か月在職してほしいと求められたのでこれに応じ、同年一二月末に原告会社を退職した。また、【H】は、同年一〇月ころ以降、無言電話が頻繁にかかってきたことなどから、精神的に不安定な状態になって体調を崩したため、原告会社を退職することにした。そして、同年一二月ころ、原告会社側に退職の意思を伝え、同八年一月末をもって退職した。その後、体調が回復したので新しい就職先を考えたところ、被告会社であれば知人が多くて働きやすいと思い、被告【B】に連絡を取って、被告会社への入社を認められた。【G】は同年一月から、【H】は同年三月から、被告会社での勤務をそれぞれ開始した。(甲二三、六八、乙一九、二〇、被告【B】本人)
二 争点1(被告【B】の取締役の忠実義務違反の有無)について
1 原告は、前記第二、三1(一)のとおり、被告【B】が原告会社と同一の目的を持つ被告会社を設立して原告会社の従業員に対し被告会社に入社するよう勧誘した行為が、取締役の忠実義務に違反するものであると主張している。
そこで、右一において認定した事実及び前記第二、一の争いのない事実に基づいて検討すると、まず、被告会社を設立した行為については、その定款の作成、設立登記等は被告【B】が原告会社の取締役であった期間中にされているものの、実際の被告会社の業務は取締役を退任してから二か月以上経過した後に開始されていること、原告会社代表者も、被告【B】がHP社に退職のあいさつに行くのに同行した際に、被告【B】が新しい会社を設立することを認めていたこと、被告【B】は、新しい会社では原告会社で従事していたこととは異なる分野の仕事をしようと考えており、退職に当たり原告会社の顧客を奪う考えはなかったこと(なお、後述のとおり、HP社との取引は、取締役を退任した後に、同社から求められて開始され、かつ、原告会社のHP社との取引と直接競合しない範囲でされたものであると認められる。)に照らせば、被告【B】が被告会社を設立した行為が、取締役の忠実義務に違反するものであると認めることはできない。
次に、被告【C】、同【D】、【E】、【F】、【G】及び【H】が原告会社を退職して被告会社に入社した点については、右の者らが原告会社から被告会社に転職した行為は、基本的に各人の職業選択の自由(日本国憲法二二条一項)に属するものであり、それ自体違法なものとして非難されるべき行為ではないこと、右の者らは、突然一斉に原告会社を退職したものでなく、それぞれ原告会社の業務に大きな支障が生じないように、少なくとも退社する一か月前までに辞職の意思を原告会社に伝え、当時担当していた仕事にめどをつけてから辞めていること、右の者らが原告会社を退職する決意をするに関しては、被告【B】が原告会社を辞めたことがそのきっかけになっているとはいえるものの、それぞれ原告会社ないしその代表者に対する不満や体調の悪化等の個人的な理由から自発的に退職しているのであって、被告【B】がこれらの者に対し原告会社を辞めるよう積極的に勧誘したとは認められないことに照らし、被告【B】が、取締役としての忠実義務に違反するような、原告会社の従業員に対する不当な勧誘行為を行ったとは認められないというべきである。
2 これに対し、原告は前記のとおり主張する。しかし、被告【B】が、被告【C】、同【D】、【E】、【F】、【G】及び【H】に対して原告会社を辞めるよう勧誘したことや、右の者ら以外の原告会社の従業員に対して被告会社への参加をを働きかけたことについては、これに沿う証拠は、原告代表者並びに被告【B】、同【C】及び同【D】の各本人尋問の終了した後に提出された、被告【B】から勧誘を受けたという原告会社の従業員の陳述書(甲八四)以外にはないところ、前記認定事実に照らせば、右陳述書は措信できず、他に原告の主張を認めるに足りる証拠はない。
3 したがって、被告【B】において原告会社の取締役としての忠実義務に違反する行為があったとは認められないから、これを理由とする原告会社の損害賠償請求は、理由がない。
三 争点2(取締役退任後の被告【B】の忠実義務(競業避止義務)違反ないし不法行為の成否)について
1 原告は、前記第二、三2(一)のとおり、被告【B】が被告会社の代表取締役としてHP社から業務を受注した行為が、被告【B】が取締役退任後も信義則上原告会社に対し負っている忠実義務(競業避止義務)に違反し、又は、不法行為になると主張している。しかしながら、被告会社とHP社との取引がHP社側からの申出により開始されたこと、この申出を受けるまで、被告会社においては、原告会社とのトラブルを避けるためにHP社に対する営業活動を行っておらず、右申出を受けた後も、原告会社で開発した業務とは別の、新規の仕事を請け負うようにしたことは、前記一9で認定したとおりである。また、HP社は、原告会社に対して出資をし、役員を派遣しており、両社は密接な取引関係にあるのであるから(前記一1)、HP社の担当従業員が、ことさら被告会社に有利で、原告会社に不都合となる供述(乙三、四)をするとは考え難い。
2 右によれば、被告会社は、HP社からの申出に従って、かつ、原告会社のHP社との取引と直接競合しない範囲で、HP社から業務を受注したと認めるのが相当であって、被告【B】の行為が原告会社に対する信義則上の義務違反となり、又は、不法行為に該当するということはできないから、この点に関する原告会社の主張は採用できない。
3 したがって、取締役退任後の被告【B】の忠実義務違反ないし不法行為を理由とする原告会社の請求も、理由がない。
四 争点4(被告【C】及び同【D】の損害賠償義務の有無)及び同5(被告会社の損害賠償義務の有無)について
請求は、いずれも被告【B】が取締役在任中の忠実義務違反行為又は取締役退任後の忠実義務違反若しくは不法行為により原告会社に対して損害賠償義務を負うことを前提とするものであるところ、被告【B】が右の義務をいずれも負うものでないことは前記二及び三で判示したとおりである。したがって、原告の被告【C】、同【D】及び被告会社に対する請求も、すべて理由がない。
五 争点6(ミツトヨへの納入に関する損害賠償義務の存否)について
1 証拠(甲六ないし八、七八、原告代表者、被告【B】本人)及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。
(一) 被告【B】は、原告会社在職中、株式会社ミツトヨへのコンピュータシステムの納入を担当しており、その見積りを行っていた。ミツトヨへの納入は、平成七年七月下旬に予定されており、被告【B】は、ミツトヨに関係する仕事を全部は終わらせてはいなかったが、残務については原告会社の従業員への引継ぎを済ませていたので、右の納入には立ち会わなかった。ところが、右の見積りに誤りがあり、実際に納入する必要のないXターミナル(仕入価格三八万七四二〇円)が見積りに記載され、逆に、納入すべきFORTRANコンパイラー(同三〇万一一〇〇円)が見積もりに計上されていなかったことが、ミツトヨへの納入後判明した。
(二) 右のX端末は、幅広い用途を持った機器であり、原告会社はこれを引き取って、会社の業務に役立てている。コンパイラーについては、原告会社が新たに購入して、これをミツトヨに納入した。
2 原告は、ミツトヨへのコンピュータシステムの販売に関して被告【B】に労働契約上の義務違反があり、同被告は原告会社に対し損害賠償義務を負うと主張している。しかしながら、右1認定の事実及び前記一で認定した事実を総合しても、同被告において、原告会社に対する損害賠償責任を発生させるような労働契約上の義務の債務不履行があったと認めることはできないし、また、同被告による見積もりに相違点があったことにより、原告会社に現実に損害が発生したことを認めるに足りる証拠もない。
3 したがって、被告【B】が労働契約上の義務違反を理由として原告会社に対して損害賠償義務を負うとは認められない。
六 以上によれば、その余の点につき判断するまでもなく、原告の請求はすべて理由がない。
よって、主文のとおり判決する。
(口頭弁論の終結の日 平成一一年八月三一日)
(裁判長裁判官 三村量一 裁判官 中吉徹郎 裁判官長谷川浩二は、海外出張のため署名押印することができない。裁判長裁判官 三村量一)