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東京地方裁判所 平成8年(合わ)284号 判決 1997年12月12日

主文

被告人を懲役三年に処する。

未決勾留日数中三三〇日を右刑に算入する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、

第一  出入国管理及び難民認定法違反の事実<省略>

第二  平成八年五月二日に甲野花子と婚姻し、東京都渋谷区富ケ谷<番地略>所在のサンハイム△△△号室で一緒に暮らしていたものであるが、同年六月ころからしばしば夫婦げんかをするようになっていたところ、同年七月二四日深夜から翌二五日朝にかけて、同室において、同女(当時三三歳)が以前交際していた男性とホテルへ行った旨を告白したことから、憤激した被告人が離婚すると言い出し、被告人を引き止めようとする同女が包丁で自殺の素振りを示し、自殺されてはと困惑する被告人が同女を制止するなどして激しく争い、この間、同日午前三時ないし午前四時三〇分ころには、被告人が同室を飛び出して最寄の代々木公園交番へ離婚の相談に赴き、これを追って同女も同交番に赴き、ともに警察官からなだめられ助言を受けて再び同室に戻ったりしたが、このような争いが朝まで断続的に繰り返されるうち、同日午前八時二〇分前ころ、同女は、室内からベランダへ出て行こうとした。これは、被告人の気を引くため飛び降り自殺の素振りを見せたものであって、同女に真実自殺する意思はなかったが、被告人は、同女がベランダへ出て行こうとするのを見るや、同女が本気で自殺を図っているものと感じて、これを制止しようとした。その際、被告人は、同女に対する憤激や安易に自殺に走る同女への苛立ちの感情があったこともあって、自殺を制止するのにやむを得ない程度を超え、同女の両肩を両手で強く突いてその場に転倒させる暴行を加え、よって、同女に対し、右転倒に際し頭部を床面に強打したことによる頭部打撲の傷害を負わせ、同月二九日午後三時五〇分ころ、同区恵比寿二丁目三四番一〇号所在の東京都立広尾病院において、同女を右傷害に基づく頭蓋内損傷により死亡させたものである。

(証拠の標目)<省略>

(争点に対する判断)

一  判示第二の事実に相当する傷害致死の訴因につき、弁護人は、被告人が被害者の両肩を両手で突いてその場に転倒させた行為(以下「本件暴行」という。)は、自殺しようとした被害者の生命を守るためやむを得ずなした相当な行為であるから緊急避難が成立し、仮に、被害者に真に自殺する意図がなかったとしても、被告人は被害者が自殺するものと誤信していたのであるから誤想避難が成立するとし、また、本件暴行が緊急避難行為としての相当性を欠くとしても、過剰避難ないし誤想過剰避難が成立する旨主張しており、被告人も、本件暴行は被害者が自殺しようとするのを制止するためにしたものであるとして、弁護人の主張に沿う供述をしている。そこで検討すると、前判示のとおり、弁護人の主張は、誤想過剰避難をいう限度では採用し得るが、その余は採用することができない。その理由は、以下のとおりである。

二  まず、緊急避難における「現在の危難」について検討する。

1  本件暴行の直前に被害者が飛び降り自殺の素振り、すなわち室内からベランダへ出て行こうとする行動をとったか否かについてみると、被告人は、被害者がなお存命中の事件直後から捜査公判段階を通じて、被害者にそのような行動があった旨を供述しているところ、その供述内容は、基本的に一貫しており、動揺はみられない(広尾病院院長作成の照会回答書、乙山太郎の証言、被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書、被告人の公判供述)。また、被害者は、前判示のとおり、本件当夜、現に包丁で自殺の素振りを示しており(被告人の供述のほか丙野二郎の証言。更新手続前のものも含め「証言」などの要領で略記する。以下同様。)、平成八年七月三日未明に被告人と争った際にも、同室ベランダにおいて、飛び降り自殺するかのような言動をしていたものであって(被告人の供述のほか丁野夏子の証言)、被害者には日頃から被告人の面前で自殺の素振りを示す傾向があったことが明らかであり、本件暴行の直前に被害者が自殺の素振りを示したとする被告人の供述内容に沿う情況事実の存在が認められる。他方、本件においては、被告人の供述以外にはこの点に関する直接証拠がなく、被害者が本件の直前に室内からベランダへ出て行こうとしたことを否定するに足る情況も格別うかがうことはできない。以上のような証拠関係の下においては、本件暴行の直前に被害者が室内からベランダへ出て行こうとしたとする被告人の供述を排斥することは困難であるといわざるを得ず、したがって、被害者にそのような行動があったとの前提に立って検討を進めるべきものと考えられる。

2  本件暴行の直前に被害者が室内からベランダへ出て行こうとした際、被害者が真実自殺を意図していたか否かについてみると、関係各証拠によれば、前判示の包丁で自殺の素振りを示した点に関し、被害者自身が代々木公園交番の警察官に対し、そういうことをやれば被告人も落ち着いて話を聞いてくれると思ってジェスチャーとしてやった旨説明していたこと(丙野二郎の証言)、平成八年七月三日未明に飛び降り自殺の素振りを示した際の被害者の言動も、「来ないで、来たら飛び降りてやる。」というにとどまるものであって、自分の言い分を通すための便法にすぎないとみられること(丁野夏子の証言)、本件暴行直前の行動も、夫婦げんかに伴うそれまでの自殺の素振りを示す行動と同根のものと考えられること等の事情が認められ、これらに照らせば、被害者は、このときも被告人の気を引くため自殺の素振りを示したものであって、真実自殺を意図していたわけではないものと認めるのが相当である。

3  しかしながら、関係各証拠によれば、被告人は、事件の直後から捜査公判段階を通じ一貫して、被害者が自殺を意図しているものと思った旨の供述を維持していること、被告人は、前夜から一睡もせずに被害者と争いを繰り返しており、本件当時、冷静な判断がいささか困難になっていた側面も否定できないこと、他方、被告人において被害者が自殺を意図しているものと思ったか否かは、被告人の内心に係るものであるだけに、被告人の供述以外には直接証拠がないこと等の事情が認められ、これらに照らせば、本件暴行の際、とっさに被害者が本当にベランダから飛び降りるものと思った旨の被告人の供述を排斥することは困難であるものといわざるを得ず、したがって、被告人がそのように思ったとの前提に立って判断すべきものと考える。なお、本件暴行の時点では、被害者は未だベランダに出ていたわけではなく、六畳間にいたものであるが、六畳間とベランダとがガラス戸一枚を隔てて隣接していることにかんがみると、被害者が六畳間にいたことから危難の切迫に関する被告人の認識を否定することも困難である。

4  したがって、本件においては、客観的には「現在の危難」は存在しなかったものであるが、被告人の主観においてそれが存在する旨誤想したとの点については、これを認めざるを得ない。

三  次に、緊急避難における避難意思の点についてみると、受傷状況からも明らかなように本件暴行が相当強烈なものであったこと、被告人には従前から被害者に対し暴力に訴えがちな傾向があったこと、被告人は被害者が不貞を働いたと信じており、当時の被告人の心境としては被害者に対する愛情よりも怒りが全面に出ていたこと等、本件証拠上認められる諸事情に照らすと、本件暴行に及んだ被告人の内心には、被害者に対する憤激や安易に自殺に走る同女への苛立ちの感情も存在したことが認められる。しかしながら、被告人に被害者の自殺を制止しようとの意思があり、それが本件暴行の動機になっていたことは、本件証拠上否定できない。したがって、被告人の内心に右のような憤激や苛立ちの感情が併存していたからといって、そのことのゆえに避難意思が否定されることにはならないものと考えられる。

四  また、緊急避難における「やむを得ずにした」ものといえるか否かについて検討すると、関係各証拠によれば、被告人は身長体重等の体格差において被害者よりもはるかに勝っており、被告人が被害者の飛び降り自殺を制止するためには、被害者をその場で取り押さえるなど容易に採り得べき方法が他にいくらでも存在したものであって、そのことは被告人自身も十分承知していたものと認められるのに、被告人は、前判示のとおり、被害者の両肩を両手で強く突いてその場に転倒させる暴行を加えたものである。したがって、本件暴行は、被告人の誤想した「現在の危難」を前提とした場合においても、避難にやむを得ない程度を超えたものであったことは明らかであって、これを正当化することはできないというべきである。

五  ところで、検察官は、被告人の供述には虚偽が多く含まれており、本件暴行は、被害者の不貞行為に激怒してなされたものであって、弁護人の主張はいずれも理由がない旨主張している。本件においては、検察官の主張に沿うような情況事実も少なからず存在するが、他方、本件暴行に至る直前の情況及び本件暴行の具体的な態様に関する証拠が被告人の供述以外には乏しく、関係各証拠を総合しても、被告人の弁明的な供述を一概に排斥し難いことは、既にみたとおりである。

なお、本件における犯罪の成否に直接関わるものではないが、審理中問題となった若干の事項について、以下補足して述べておくこととする。

被告人は、本件当夜交番から自室に戻った後、被害者が漂白剤であるキッチンハイター(以下「ハイター」という。)をグラスに注いで飲もうとしたので取り上げて台所に流した旨供述する。しかし、関係各証拠によれば、同室台所の流し台の中にあったグラスのうち一個から確かにハイター成分が検出されてはいるものの、被告人は、事件当日の実況見分に際しては、ハイターを入れたのは青色シールが貼付された無色のグラスである旨警察官に対して指示説明していたのに、公判供述においては、それは青色のグラスである旨述べており、供述内容に変遷がある上、実際にハイター成分が検出されたのは、マンガのキャラクターが描かれた無色のグラスであって、被告人が供述するいずれのグラスとも異なっていることが認められる。これらは、見方によっては、被害者がハイターを飲もうとしたとする被告人の供述の信用性を減殺する方向の事情とも考えられるが、被告人が全く根拠のない供述をしていたところ、被告人の供述するものとは別のグラスから偶然ハイター成分が検出されたとみることにも問題があり、被告人の供述の信用性との関係では、とにかくもハイター成分付着のグラスが存在したということ自体に相応の意味があるともいえる。したがって、ハイターを入れたグラスの特定が不十分であることは、必ずしも被害者がハイターを飲もうとしたとする被告人の供述が虚偽であることを示すものとはいえない。

また、被告人は、当日の朝、被害者が包丁を持って同室ベランダのコンクリート製手すりの上に立って自殺の素振りを示したので、包丁を取り上げた上被害者を支えるようにして隣の三〇五号室のベランダへ押し込み、自分も隣室のベランダへ行ってしばらく被害者をなだめ、その後二人とも自室のベランダに戻った旨供述する。しかし、右供述に現れる被告人らの行動は若干不自然な感を否めない上、関係各証拠によれば、当該ベランダの構造に照らして右行動をとることはかなり困難であること、被告人が当初供述していた午前七時二〇分ころという時刻が正しいものとすれば、そのころには前記サンハイムの駐車場及び幅員四メートル余の道路をはさんで当該ベランダに隣接するマンションの建築現場には、既に工事関係者らが出勤していたことになるが、それにもかかわらず同人らが被告人のいう右行動には全く気付かなかったこと、隣室である三〇二号室の丁野夏子も、相応の注意をしていたのに被告人のいう右行動には気付かなかったこと、警察官が事件後の同年八月五日の検証に際して当該ベランダの手すり付近を見分したときにも、被告人のいう右行動があったことを示す格別の痕跡は見当たらなかったこと等の事情が認められる。これらは、右行動があったとする被告人の供述の信用性を相当減殺する方向の事情と考えられるが、仮に、午前七時二〇分ころに右行動があったものとしても、右工事関係者らは、特に本件ベランダに注目していたわけではないから、これに気付かなかったという可能性も全くないとはいえないし、被告人の公判供述によれば、右行動のあった時刻は必ずしも明確ではないから、右行動が工事関係者らの出勤する午前七時以前の時点で行われた可能性も否定できない。また、被告人は、ベランダでのやりとりは小さな声で話をした旨供述しており、そのために周辺の者が右行動に気付かなかった可能性も、あながち否定できない。さらに、被告人は、自分は洗濯機に足を掛けたことはなく、被害者が洗濯機に足を掛けたかどうかはわからないと供述しているところ、右洗濯機を利用しなくても手すりを上り下りすることは可能ではないかとみられ、また前記検証が行われたのは事件から一〇日も後のことであり、痕跡の保存に係る問題もある。加えて、被害者が同年七月三日に飛び下り自殺の素振りをし、本件当夜にも包丁で自殺する素振りをしたことは、既に認定したとおりである。これらによれば、右行動の存否については、これを積極的に認定し得る証拠があるとはいい難いが、他方、右行動に関する被告人の供述を直ちに虚偽と断定することもまた困難であるというほかはない。

六  以上を要するに、本件においては、被害者が室内からベランダへ出て行こうとしたとき、同女には真実自殺する意思はなかったが、被告人は、同女が本気で自殺を図っているものと誤信してこれを制止しようとし、その際、あえて自殺を制止するのにやむを得ない程度を超えて本件暴行に及び、被害者を死に致らせたものである。したがって、弁護人の主張のうち、緊急避難、誤想避難をいう点は採用できないが、誤想過剰避難の点を採用して、前記のとおり判示した次第である。

(法令の適用)

罰 条

判示第一の事実 平成九年法律第四二号による改正前の出入国管理及び難民認定法七〇条五号

判示第二の事実 刑法二〇五条

刑種の選択

判示第一の罪 懲役刑を選択

併合罪加重 刑法四五条前段、四七条本文、一〇条(重い判示第二の罪の刑に同法四七条ただし書の制限内で法定の加重)

未決勾留日数算入 刑法二一条

訴訟費用の不負担 刑事訴訟法一八一条一項ただし書

(量刑の理由)

本件は、不法残留中の被告人が夫婦げんかをきっかけとして妻の両肩を両手で突く暴行を加えた結果、頭蓋内損傷により同女を死亡させたという、出入国管理及び難民認定法違反及び傷害致死の事案である。傷害致死の犯行は、既に判示したとおり、誤想過剰防衛に当たる場合であって、安易に自殺の素振りを示して被告人の犯行を誘発した被害者にも問題がなかったわけではないが、被告人が被害者を制止するために加えた暴行の内容を具体的にみると、被告人は、被害者が仰向けにそのまま倒れるほど強く被害者を突いているのであって、行き過ぎがあったことは明らかである。被告人の内心に被害者に対する憤激と苛立ちの感情が併存していたことも、右のような制止の態様に影響しているものと認められる。被害者の死亡という結果は重大であり、被害者の母親は被告人に対し厳重な処罰を求めている。また、不法残留の期間も、約四年三か月間にわたるものである。以上の事情に照らすと、被告人の刑責を軽視することはできない。

他方、被告人は犯行直後、周囲の者に対して、救急車ないし医者を呼ぶよう被害者の救護を依頼していること、被害者の死を悼む旨供述しており、その旨の手紙を遺族にも書いて、反省の態度を示していること、わが国において前科前歴がないことなどの事情が認められる。そこで、本件が誤想過剰避難の事案であることに加え、これらの情状を被告人のために利益に斟酌し、主文掲記の刑を量定した次第である(求刑-懲役四年)。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 永井敏雄 裁判官 上田哲 裁判官 長瀬敬昭)

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