東京地方裁判所 平成9年(ワ)15729号 判決
原告 金澤秀典
右訴訟代理人弁護士 高岡信男
被告 金澤秀治
右訴訟代理人弁護士 志賀剛
主文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第一原告の請求
被告は、原告に対し、別紙物件目録記載の不動産について、別紙登記目録記載の登記を、原告の持分六分の一とする更正登記手続をせよ。
第二事案の概要
一 原告と被告はいずれも金澤よし(以下「よし」という。)の子であるが、本件は、原告が、よしの公正証書遺言に基づき所有権移転登記を得た被告に対し、右の遺言がされた当時、よしには遺言能力がなく、右の遺言は推定相続人である被告が影響を与えうる状況のもとで作成されたものであるから無効であるとして、自己の法定相続分に応ずる持分への更正登記手続を求めた事案である。
二 争いのない事実
1 よしは、平成八年二月一三日当時、別紙物件目録記載の不動産(以下「本件土地建物」という。)を所有していた。
2 よしは、大正元年一〇月二八日生まれで、平成八年二月一三日に死亡した(死亡当時満八三歳)。
3 よしには、死亡当時、同人の夫であった亡金澤正との間の子供である長男金澤宏泰、二男金澤正明、三男金澤秀治(被告)、四男金澤秀幸、長女藤田佐代子、五男金澤秀典(原告)がいた。
4 よしは、平成四年一一月一六日、東京法務局所属公証人増山登に対し、遣言公正証書の作成を嘱託し、本件土地建物を被告に相続させる旨の記載のある平成四年第二四三五号遺言公正証書(以下「本件公正証書」という。)が作成された。
5 本件公正証書作成の証人となったのは、被告経営会社の顧問税理士である高橋静雄(以下「高橋税理士」という。)及び同税理士事務所事務員の高橋順子である。
6 被告は、本件公正証書に基づき、本件土地建物について、平成八年七月一九日受付第一一九八七号により別紙登記目録記載の登記をした。
三 争点
本件公正証書作成の際の、よしの意思能力の有無。
(原告の主張)
よしは、平成二年ころからボケ症状が進行・悪化し、平成三年一一月ころからは痴呆症により通院治療を繰り返しており、本件公正証書作成の当時、正常な判断能力がなかった。すなわち、よしは、平成三年八月三〇日、同年九月一〇日、同年一一月七日、同月二六日、それぞれ日本医科大学付属病院で診察を受けているが、平成三年八月三〇日の診察では脳の深部白質に低吸収域の散在が認められ、長谷川式知的スケールでも準痴呆との診断を受けていたほか、右の一連の診断によれば、よしは、多発性脳梗塞で、準痴呆症の症状、脳萎縮との診断がされている。本件遺言書が作成された平成四年一一月一六日当時は、よしの前記症状は更に進展していて正常な判断能力を喪失していた。
しかも、本件公正証書は、被告経営の会社建物内において、推定相続人である被告とその妻金澤久恵(以下「久恵」という。)が同席し、被告の経営する会社の顧問税理士と同税理士事務所の事務員が証人として立ち会って作成されたものである。
したがって、本件公正証書作成当時、よしには意思能力がなく、また推定相続人である被告が影響を与えうる状況にあったのであるから、よしの真意に基づくものではなく無効である。
(被告の主張)
遺言能力は通常の行為能力の存在を必要とせず、意思能力の存在で足りる。
長谷川式検査は外来の短時間の面接により行うもので、診察にあたる者にとっての参考資料の一部にすぎず、意思能力の判定に十分なものではない。平成三年一一月七日に診察した平井医師との間でも、必要な会話はできていた。
よしは、本件公正証書の作成を嘱託した公証人増山登に対し、明確に遺言内容を自ら述べており、その際、呆けた様子は確認されていない。
よしは、本件公正証書の作成に先立つ昭和六〇年六月に、本件公正証書とほぼ同一の内容の遺言書を起案し、更に、平成三年三月にも、ほぼ同一内容の遺言書を起案している。本件公正証書の内容は、よしの、かなり以前からの、しかも全く元気だったころからの確定した意思に沿うものであり、よしにとっては何ら新たに複雑困難な判断をしなければならないものではなかった。よしに痴呆症状があったとしても、軽度でしかなく、右のような内容の遺言をする能力は十分にあったというべきである。
また、本件公正証書の作成は、よしの居室で作成されたものであり、その際、被告は全く同席しておらず、久恵も、茶菓子の接待のために右の居室に出入りはしていたが、本件公正証書の作成そのものには全く関与していない。
第三裁判所の判断
一 後掲各証拠によれば以下の事実が認められる。
1 被告は、昭和四三年に、父金澤正の希望により同人の経営する製版業を手伝うようになり、昭和五〇年に正が死亡してからは被告がその事業を承継した。昭和五七年には、よしが正から相続した不動産と引き替えに取得した文京区向丘所在の本件土地建物の一階部分を有限会社金沢製版の社屋・事業所とし、よし及び知的障害を抱えていた二男正明も同所に転居し、その二階部分を居室としていた。被告ら夫婦は、よしとは別居していたため、夜間は自宅に帰宅していたが、日中から夜にかけては右の向丘の事業所に居てよしと同居し、仕事の傍らよしらの面倒を見ていたほか、原告や長男宏泰も時折よしのもとを訪れていた(甲第三、第五、第一六号証、乙第五、第六号証)。
2 よしは、大正元年一〇月二八日生まれで、本件公正証書を作成した平成四年一一月当時七九歳であったが、本件公正証書作成の前後の、平成三年八月三〇日から同四年四月八日までの間は長男宏泰の付添により日本医科大学付属病院で、平成六年九月二六日には久恵の付添により東京大学医学部附属病院で、それぞれ診察を受け、その際の状況及び診察結果は以下のとおりであった(甲第四、第五、第一二号証、乙第二、第六号証)。
(一) 日本医科大学附属病院での受診
平成三年八月三〇日、老人科で腰痛を主訴として受診したが、その際、物忘れも併せて指摘されており、診察した山下医師は、現症について意識は明敏と診察したが、長谷川式簡易知的機能検査を実施し、その結果、同評価スケールが一六点であり、検査を実施することとなった。
平成三年九月一〇日、頭部CTスキャン検査を受け、その結果、脳深部白質に低吸収域が散在すること及び大脳萎縮、多発性虚血性変化が観察されたほか、腰椎について骨粗鬆症、第一腰椎変形が観察された。
平成三年一一月七日、老人科で受診し、その際、よしは平井医師に対し、目がしょぼしょぼする旨訴えた。同医師は眼科を紹介し、よしは、平成三年一一月二六日に、眼科、老人科で受診した。平井医師の診察に際しては、診察に必要な会話はできていた。
平成四年四月八日の受診に際しては、夜間失禁があり、夜間はおむつを使用していること、兄弟の名前を間違える時があることなどが申告されていた。
これらの診察の結果、日本医科大学附属病院では、よしの主症状について、腰痛症と多発性脳梗塞と評価していた。
(二) 東京大学医学部附属病院精神神経科での受診
久恵は、よしを老人施設に入所させるため、平成六年九月二六日に右病院で診察を受け、その際の予診票には、困っていることとして、「痴呆」「雑談を家族で行うことが無理になってきた」旨記載し、相談表には、五年位前(七七歳時)から痴呆症状がある旨記載したほか、問診に対し、八〇歳の時に、「人が家に入ってくるから」といって戸締まりをしたり、物取りが来るからと言って物を押入にいれたりし、きちょうめんさが失われるなど性格変化があらわれたほか、トイレの場所が分からない、自分がどこにいるのか分からない、日めくりカレンダーをみても日時・曜日が分からない、食事をしたことを忘れて何度も食事をすることがあったこと、同年九月一四日ころから急激に変化し、表情が仮面をかぶった様子のときと、衝動的に家人を殴打したり、怒りを露わにしたりすることが出現した旨、陳述していた。
診察した斎藤医師は、表情の表出少なく、自発言語少なく、しゃべり出してもほとんど脈絡がない、記憶障害は重度、知能の低下は明らか、特記すべき問題行動も精神症状もない、との主症状を観察したうえ、アルツハイマー型老年痴呆の疑いとの診断を下した。
3 よしは、七二歳時の昭和六〇年六月二〇日に自筆の遺言書を起案し、その遺言書では、本件土地建物について「事業承継を前提として金沢秀治に相続させます。」との記載していたほか、亡夫正名義となっている鎌倉市腰越所在の土地建物は長男宏泰が相続し、その他の財産の相続や今後の相続人の問題については相続人である子供達がみんなで争うことなく話し合って円満に決めて下さいとの趣旨の記載をしていた。
更に、よしは、長男宏泰と相談のうえ、平成三年三月二一日にも自筆の遺言書を起案し、その内容は「一 東京都文京区向丘二の三七の九の土地建物について事業の建物などいろいろな事情により三男秀治名義とする。但し事業やその他の事情からこの土地建物を止むを得ず売却せざるを得ないときは次ぎのようにすること、土地建物の売却額の半額の半額は三男秀治のものとし残り半額を二男正明四男秀幸五男秀典長女佐代子に家族を単位として適宜配分すること、この配分方法は原則としてそれぞれの家族が存続する末代まで継承すること、一 鎌倉市腰越五-十五-三七の土地建物については長男宏泰名義とすること、一 埼玉県狭山市の土地建物については私と二男正明の共同名義となっているがこれは購入時の便宜のためのものであってすべて二男正明のものである。一 東京都文京区の家を継ぐ者は兄弟六人の生家としてまたみんなが仲よく集まれる中心のところとして維持することにつとめることをお願ひいたします」というものであった。
よしは、遅くとも平成元年当初ころから、高橋税理士との会話のなかで遺言に言及するようになり、そのような話題の際に、被告の妻久恵は、遺言書があるとしてこれを高橋に見せていた。しかし、よしは、高橋から公正証書による遺言を勧められ、公正証書による遺言を考えるようになっていた(なお、よしは、平成二、三年ころ、原告に対し、遺言書を作成する必要があるのかという趣旨の問いかけをしていた。)。高橋税理士や久恵は、当初は、高橋税理士の知人がいるという世田谷の公証人役場での作成を考えていたが、久恵が文京区の公証人役場で相談し、その際、よしの健康状態に言及して足腰が不自由である旨話したところ、自宅でも作成が可能である旨の回答を得たため、同公証人役場の増山公証人に依頼することとし、同公証人に対し、よしが公正証書遺言の作成を希望している旨、また、よしが希望しているとする遺言内容を説明した(甲第三、乙第三、第四、第五、第六号証、証人高橋静雄、同金澤久恵の各証言、原告本人尋問の結果。証人金澤久恵の証言中、右認定に反する部分は採用できない。)。
4 増山公証人は、文京区向丘の被告の事業所二階のよしの居宅部分に赴き、同所で遺言書を作成したが、その際、よしに対し、直接、「遺言をしたいとのことのようですが、本当にしたいのですか」と尋ね、これに対して、よしは、「そうです」と答え、更に、「どのような遺言をされたのですか」との同公証人の問いに対し、よしは、「自分の財産である土地と建物を三男にやりたい」と答えたこと、よしには他に子供がいることを予め知っていた同公証人が、どうして他のお子さんにはあげないのですか、との質問をすると、よしは、被告が亡夫のしていた写真製版業を継いでくれたこと、被告夫婦が、よしや二男の面倒を看てくれており、今後も被告夫婦にお世話になりたい旨述べた(乙第一号証、証人高橋静雄の証言。なお、甲第六、第八号証には、公証人が用意してきた書面を読み上げて間違いのないことを確認した旨の記載があるが、右証拠によっても、公証人が右以外の意思確認の手段を執らなかったことを認定するには十分ではなく、他に右認定の事実を覆すに足りる証拠はない。)。
二 右認定の事実に甲第九、第一〇号証を総合考慮すると、よしは、本件公正証書作成の後である平成六年九月の段階では高度の痴呆状態にあり、本件公正証書が作成された平成四年一一月当時においても、少なくとも準痴呆と診断される状態にあって正常な判断能力は既に減退し、往時のような判断能力はなかったものと認められるものの、よしは、本件公正証書の作成にあたり、公証人からの発問に対して自ら遺言内容を伝え、しかも、他の子供らに対して本件土地建物を相続させない理由についても自ら具体的に述べていること、更に、よしは、往時の判断能力があったとみられる昭和六〇年にも遺言書を作成しており、その内容は、本件土地建物について「事業承継を前提として金沢秀治に相続させます。」というものであって本件公正証書の内容と一致するものであるばかりでなく、本件公正証書の内容も、本件土地建物を被告に相続させるという単純なものであることをも考慮すると、本件公正証書の作成当時、よしに右の遺言の意味を理解する能力がなかったものとまでは認めることはできず、他にこれを認めるに足りる十分な証拠はない。
なお、甲第一三、第一五号証、原告本人尋問の結果によれば、よしは、平成二、三年ころに、原告に対して遺言書作成の必要性について問いかけるような発言をしていたほか、本件公正証書が作成されたと同じ年の八月に、被告自ら兄弟らに呼びかけて話し合いの場を設け、その際にはよしの財産をめぐる話し合いをする予定でいたところ、被告はこれに欠席し、結局、その場では、本件土地建物のうち、建物については被告名義とするが土地については今後協議することとされていたことが認められ、右事実に本件公正証書が作成された時期・内容を考慮すると、公正証書による遺言の作成に関しては被告らがより積極的であったことが窺われるが、それ以上に、本件公正証書の作成が被告らの不当な圧力や影響力により作成されたと認めるには十分ではなく、他にこれを認めるに足りる十分な証拠はない(甲第六号証には、本件公正証書の作成に際し、被告及び久恵も同席していた旨の記載があるが、その「同席」の具体的内容は明確でないのみならず、乙第一号証、証人高橋静雄、同金澤久恵の各証言によれば、久恵は、高橋静雄や高橋順子が来た際や、これに遅れて来た増山公証人をそれぞれ二階の居室に案内して茶菓子を出すために出入りしていたが、遺言書作成の段階では公証人から席をはずすようにいわれて同席しておらず、被告自身も、最初の挨拶をしたものの、一階の現場で仕事をしており、同席していなかったことが認められ、甲第六号証は右認定を覆すに足りない。)。
三 以上によれば、原告の請求は理由がないからこれを棄却することとし、主文のとおり判決する。
(裁判官 斎藤憲次)
物件目録・登記目録<省略>