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東京地方裁判所 平成9年(ワ)18999号 判決 1998年4月08日

主文

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一  申立

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、以下の預金証書を引き渡せ。

(一) 金五二〇万円の甲野花子名義の定期預金証書

(二) 金六五万三六七〇円の甲野花子名義の普通預金証書

(三) 金五八五万三六七〇円に対する平成三年五月二二日から1(一)及び(二)記載の預金証書引渡済みまで年五分の割合による金額の甲野花子名義の普通預金証書

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  本案前の答弁

1  本件訴えを却下する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

三  請求の趣旨に対する答弁

主文と同じ。

第二  事案の概要

一  請求原因

1  被告は、甲野花子から、平成二年一一月二四日当時、別紙物件目録記載の普通預金二三八万一六九五円及び定期預金二六〇〇万円を預かり保管していた。

2(一)  花子は、平成二年一一月二四日死亡した。

(二)  原告は、花子の子である。

(三)  花子の相続人は、原告を含む五人の子である。

3  よって、原告は、被告に対し、預金返還請求権に基づき請求の趣旨1(一)(二)の預金証書の引渡及び右預金の合計額に対する被告が預金を払い戻した日である平成三年五月二二日から請求の趣旨1(一)(二)の預金証書引渡済みまで民法所定五分の割合による遅延損害金の普通預金証書の引渡を求める。

二  被告の本案前の主張

預金証書又は通帳は、証拠証券又は免責証券としての性質を持つものにすぎず、しかもこれらの証書又は通帳に記載された預金は、原告が認めるとおり、いずれも解約払戻済みであるから、右証書の引渡を求める訴えは本案判決をする必要もなければ、また実効性もなく、訴えの利益を有しない。

三  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実は認める。

2  同2(一)、(二)の各事実は認め、(三)の事実は知らない。

四  抗弁

1  原告は、平成三年四月二〇日、「証」と題する被告の所定の相続預金受取書の署名欄に署名し、印鑑を押捺して、これを花子の四男で共同相続人である甲野太郎に対して交付し、もって、同人に対し原告に代わって花子の相続預金の払戻と受領を行う権限を授与した。

2  太郎は、被告に対し、右権限に基づいて花子の相続預金の払戻を請求し、被告は、太郎に対し、平成三年五月二二日、右請求に応じて花子の相続預金二九二六万八三五一円(当日までの利息を含む)を払戻した。

五  抗弁に対する認否

抗弁1の事実は認める。

六  再抗弁

1  太郎は、原告に対し、原告が抗弁1の「証」に署名、押印し、それを太郎に交付するに先立って、真実は、同人が花子の相続預金を独占領得する意思であるのに、「相続預金を換金して原告その他の相続人らの相続税納付原資とするため」と虚言を申し向けて原告を欺罔し、原告に「証」に署名、押印させた。

2  原告は、花子の六男で共同相続人であった甲野良夫に対し、平成三年五月一日、「相続預金の払戻に同意しない」と通知し、同年五月八日、神奈川県中郡二宮町における印鑑登録を抹消し、もって、抗弁1の太郎に対する花子の相続預金の払戻、受領の権限を授与する意思表示を取り消した。

七  再抗弁に対する認否

再抗弁は知らない。

八  再々抗弁

1  被告は、抗弁2のとおり太郎に対して花子の相続預金を払戻す際、太郎が、被告の所定の様式の、原告を含む相続人各自の作成名義の、相続人全員の署名及び印鑑登録の印鑑が押捺され、かつ、相続人各自の印鑑登録証明書の添付された、太郎を右預金の払戻の代理受領者とする旨記載された「証」書面(相続預金受取書)を提出して、払戻を請求したことから、太郎の払戻、受領の権限が消滅したことを知らず、同人に右権限があると信じていた。

2  被告が再々抗弁1のように太郎の払戻、受領の権限が消滅したことを知らなかったことには過失はない。

(一) 右「証」書面に添付された原告の印鑑登録証明書は神奈川県中郡二宮町長が平成二年一二月一一日に発行したものであり、前記払戻請求の日である平成三年五月二二日の時点では発行日から三か月以上経過している。

しかし、被告においては、相続預金等について本人確認の手段としては、印鑑登録証明書に有効期限を定めてはおらず、発行日から三か月以内の印鑑登録証明書を徴求することは必要とされていない。取引先本人の確認に役立つものであれば、発行後三か月を経過したものでも差し支えないとして取り扱っている。

公正証書の作成等公証人が面識のない嘱託人について人違いでないこと即ち本人に相違ないことを確認する方法として官公署の作成した印鑑登録証明書の提出その他これに準ずべき確実な方法によるべきことが定められているが(公証人法二八条二項)、右印鑑証明書について、法務省民事局長は各司法事務局長宛の昭和二四年五月三〇日民事甲一二八二号の通達により、「嘱託人の人違いでないこと……を証するために提出する印鑑登録証明書……は、作成後六か月以内のものでなければならない」としていることからも、被告の前記の取扱は違法ではない。

(二) 本件においては、原告の印鑑登録証明書は作成後三か月以上は経過していたが六か月以内であり、その間原告から被告に対して「証」書面における原告の署名・押印又は添付の印鑑登録証明書についても何らの申し出もなされていない。

したがって、被告が右印鑑登録証明書によって相続預金の払戻をしたことをもって違法であるということはできず、原告の意思確認も必要ではない。

(三) よって、被告が太郎に払戻権限があると信じたことには過失はなく、抗弁2の払戻は有効である。

九  再々抗弁に対する認否

1  再々抗弁1の事実のうち、被告が、太郎に相続預金の払戻、受領権限がなかったことを知らなかったとの事実は否認する。

被告は、「証」に添付されるべき原告の印鑑登録証明書がないことを知るや、太郎と共謀の上、同人に対して相続預金を不正に払い戻すことを企て、太郎において原告の印鑑登録証明書を不正に入手し、右印鑑登録証明書の作成日が平成二年一二月一一日であったことから、「証」に「相続人甲野一郎印鑑証明期限切れであるが、受諾処理扱いとしたい」と上書きした上、担当課長印を押捺して、あたかも真正な受取書、印鑑登録証明書が正当に提出され、原告ら相続人の意思を十分に確認したかのように装って、太郎に対して払戻を行った。

2  同2(一)の事実のうち、「証」に添付された原告の印鑑登録証明書は神奈川県中郡二宮町長が平成二年一二月一一日に発行したものであり、前記払戻請求の日である平成三年五月二二日の時点では発行日から三か月以上経過していたことは認める。

一〇  再々々抗弁

被告の主張1の預金払戻は、被告の善管注意義務又は忠実義務違反によるものであり無効である。

1  本件印鑑登録証明書は期限切れで無効である。

預金払戻においては、確認を要するのは相続人の意思であって、申出者の本人確認ではない。預金払戻における意思確認手続は公正証書作成嘱託等の本人確認手続とは異なるものである。したがって、預金払戻手続には、不動産登記法二六条、同法施行細則四二条、四四条の有効期限(三か月)の趣旨が援用されるべきであり、被告の主張は失当である。

2  被告は、自社内には、原告ら相続人の署名・印鑑照合用の資料を持ち合わせていなかったし、かつ、被告は、少なくとも前記の印鑑登録証明書が期限切れであると認識・判断していたのであるから、このような場合、被告が太郎に対して相続預金の払戻を行うについては、被告には、原告に対して直接意思を確認するか、原告が「証」のために新たに交付したと証明しうる印鑑登録証明書の提出を求めることによって原告の意思を確認すべき善管注意義務・忠実義務がある。

被告が、原告に対する直接の意思確認を行わず、かつ、原告が「証」のために新たに交付したと証明しうる印鑑登録証明書の提出を受けることもなく、他所からの古い印鑑登録証明書を流用して原告の意思確認に代えたことは、前記の善管注意義務・忠実義務違反に反する。

したがって、本件払戻は無効である。

第三  理由

一  請求原因1、2(一)、(二)の各事実は当事者間に争いがなく、甲一及び弁論の全趣旨によれば同2(3)の事実が認められる。

二  抗弁1は当事者間に争いがない。甲五の1、八及び弁論の全趣旨によれば、抗弁2の事実が認められる。

三  再々抗弁及び再々々抗弁について判断する。

1  再々抗弁1について

甲五の1、八及び弁論の全趣旨によれば、再々抗弁1の事実が認められる。乙三及び弁論の全趣旨によれば、太郎が代表取締役である株式会社信光ビルディングと被告新橋支店との間に取引関係があった事実が認められるが、右事実から直ちに、被告において太郎の払戻、受領の権限が消滅したことを知っていたとすることはできず、他に前記認定を覆すに足りる証拠はない。

2  以下、被告が再々抗弁1のように信じたことに過失がないかについて判断する。

再々抗弁2(一)の事実のうち、「証」に添付された原告の印鑑登録証明書は神奈川県中郡二宮町長が平成二年一二月一一日に発行したものであり、前記払戻請求の日である平成三年五月二二日の時点では発行日から三か月以上経過していたことは当事者間に争いがない。

(一) 印鑑登録証明書の「有効期限」について

乙一、二の1、2によれば、印鑑登録証明書には一般的に三か月間の有効期限があるわけでなく、公正証書の作成等公証人が面識のない嘱託人について人違いでないこと即ち本人に相違ないことを確認する方法として官公署の作成した印鑑登録証明書の提出その他これに準ずべき確実な方法によるべきことが定められているが(公証人法二八条二項)、右印鑑登録証明書について、法務省民事局長は各司法事務局長宛の昭和二四年五月三〇日民事甲一二八二号により、「嘱託人の人違いでないこと……を証するために提出する印鑑登録証明書……は、作成後六か月以内のものでなければならない」と通達していることが認められる。そして、公正証書の作成等においては、嘱託人に関して人違いでないことが確認されると、公証人はその嘱託人の陳述内容を録取しこれを記載して公正証書を作成することになる(公証人法三五条)から、公正証書の作成における嘱託人についての確認は、単なる嘱託人の同一性の確認に止まらず、実質的には嘱託人とされる者の意思確認の趣旨も含むものと解される。

そうすると、そのように重要な事項について、提出が必要とされる印鑑登録証明書の作成日がその六か月以内であれば足りるとされていることに照らすと、本件のような、相続預金の払戻、受領に関して、一旦は払戻、受領権限を授与する意思表示がなされ、それが後日取り消されたような場合には、提出された払戻、受領権限を授与した者の印鑑登録証明書が三か月以内に作成されたことが必要であるとは解されず、それが相続開始後に作成され、払戻の請求の日から六か月以内に作成されたものであるときは、右印鑑登録証明書の提出によって本人の意思確認に代えることが直ちに違法であるということはできないと解する。甲一二の1・2、一三ないし一五は右認定を覆すに足りない。

(二) 被告の注意義務違反の有無

以上によれば、提出された印鑑登録証明書が三か月以前に作成されたものであるというだけでは、銀行側に、直接本人の意思を確認するか又は当該払戻、受領のために交付を得たと認められる新たな印鑑登録証明書の提出を要求する注意義務は発生せず、銀行側において、本人が払戻、受領権限の授与の撤回、取り消し、解除等を行ったことを疑うに足りる特段の事情のあるときに限って、右の注意義務が発生すると解するのが相当である。

弁論の全趣旨によれば、原告が、被告新橋支店に対し、平成三年五月三一日に残高証明書発行依頼用紙を請求した事実が認められる。この事実によれば、原告は、「証」への署名、押印当時既に花子の相続預金の預先が被告新橋支店であることを認識していたことが推認できる。であれば、たとえ、原告が、太郎らに自己の印鑑登録証明書を交付したことがなく、かつ、再抗弁2のとおり、平成三年五月八日に印鑑登録の抹消をしていたことから、太郎らが被告に原告の印鑑登録証明書を提出することはありえないと思っていたとしても、原告が、被告に対し、太郎に対する払戻、受領の権限の授与を取り消したことを通知、連絡をするのは、極めて容易であったと認められる。しかし、全証拠によっても、原告が被告にそのような通知、連絡をした事実は認められない。

また、弁論の全趣旨によれば、「証」書面は、原告を含む花子の相続人全員の印鑑登録証明書と共に平成三年五月二二日被告新橋支店に提出されたことが認められ、先行的に「証」書面と原告を除く他の相続人の印鑑登録証明書が提出され、後日原告の印鑑登録証明書が追完された等原告の印鑑登録証明書に関して特別の事情があったとも認められない。したがって、右経過に照らしても、被告に、原告の印鑑登録証明書が不正に入手されたことを疑わせるに足りる事情があったとは認められない。その他、被告に、原告が払戻、受領権限の授与の撤回、取り消し、解除等を行ったことを疑わせるに足りる特段の事情があったと認めるに足りる証拠はない。

以上によれば、被告には、直接本人の意思を確認するか又は当該払戻、受領のために交付を受けたと認められる新たな印鑑登録証明書の提出を要求する注意義務は発生したとはいえない。

(三) したがって、仮に再抗弁2のとおり、原告が太郎に対する預金払戻権限授与行為を取り消し又は撤回していたとしても、被告がそのことを知らなかったことについて過失はない。よって、被告が抗弁のとおり花子の相続預金の払戻に応じたことには何らの違法はなく、右払戻は有効である。

四  なお、被告は、「証」書面の乙川道子の住所、氏名の記載及び乙川の印影等は他の相続人の手によるものであるから、「証」には同人の意思表示がなく、無効であると主張する。しかし、弁論の全趣旨によれば、乙川が本件払戻の効力を争っていることは認められず、右事実からは、「証」書面の乙川の署名、押印は同人の意思に基づいて代行されたものと推認でき、これを覆すに足りる証拠はない。したがって、被告の右主張は失当である。

五  以上によれば、その余の点について判断するまでもなく、原告の請求は理由がないからこれを棄却する。

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