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東京地方裁判所 平成9年(ワ)8028号 判決 1998年5月13日

原告

長野泰子

右訴訟代理人弁護士

岡崎敬

五十嵐裕美

被告

右代表者法務大臣

下稲葉耕吉

右指定代理人

眞方和彦

外七名

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は、原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、金二〇五万二〇〇〇円及びこれに対する昭和六三年四月二二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は、被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文と同旨

第二  当事者の主張

一  請求原因

1(一)  訴外長野拓造(以下「拓造」という。)は、昭和二三年から昭和五八年六月まで、広島県安芸郡舟越町所在の訴外中本酒販株式会社に勤務していた者で、この間、政府管掌健康保険の被保険者であった。

拓造は、同社を退職した後、右保険の任意継続被保険者となることを選択して所定の手続を経た結果、昭和五八年七月一日から、右健康保険任意継続被保険者となった。

拓造は、昭和五八年八月ころ、別府社会保険事務所管内に移転し、そのため、拓造の社会保険に関する事務は、広島社会保険事務所から別府社会保険事務所に移管された。

(二)  拓造は、昭和五九年一〇月二〇日、多発性脳梗塞のため入院し、同日から一八か月と三日(傷病手当金支給要件の待期)を経た昭和六一年四月二二日までの間(実際には拓造死亡日の平成三年三月八日までの間)、労務が不能な状態となり、その結果、拓造は、支給基礎月額一九万円の六割に相当する金額の一八か月分である金二〇五万二〇〇〇円の傷病手当金の受給権を取得した。

2(一)  拓造は、昭和五九年一〇月ころから昭和六〇年六月ころまでの間、妻である原告をして、一か月に一度ないし二度の頻度で、別府社会保険事業所に出向かせ、政府管掌健康保険の任意継続被保険者としての保険料の支払及び高額療養費の給付請求手続を行ってきた。

別府社会保険事業所の係員は、拓造に傷病手当金の受給権がありながらその支給請求をしていないことを、十分に知っていたにもかかわらず、拓造の使者である原告を通じて、拓造に対し、同人が傷病手当金の支給請求をすることができる旨告知しなかった。

(二)(1)  傷病手当金の制度を定める健康保険法四五条は、次の理由から、当然に傷病手当金制度の「周知徹底義務」をその前提としていると言うべきである。

すなわち、生存権を定めた憲法二五条は、それ自体いわゆるプログラム規定であるとしても、同条を受けて具体的な立法がなされたときには、右法律の解釈基準となり得べきところ、健康保険法四五条は、憲法二五条を受けてその具体化として、健康保険の被保険者が傷病のために労務につくことができない場合にその療養中の生活費を補填するための制度を定めたものであるから、健康保険法四五条から、社会保険事業所の係員一般につき、傷病手当金の制度を周知徹底させる義務があることを導き得ると言うべきである。

また、健康保険法が、傷病手当金の給付につき受給者の申請に基づく方式を採用していることからして、傷病手当金については、社会保険事業所の係員に周知徹底義務があることを前提としていると言うべきである。しかも、右のような申請受給方式の下では、要保障者が右制度を知るか否かによる不平等が生じる可能性があり、したがって、右周知徹底義務は、憲法一四条の要請でもある。

さらに、経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(国際人権規約A)は、その締結国が、社会保障についてのすべての者の権利を認め(九条)、相当な生活水準についてのすべての者の権利を認め(一一条一項)、すべての者が到達可能な最高水準の身体及び精神の健康を享受する権利を有することを認め(一二条一項)、そして、締結国がその権利の完全な実現を達成するために必要な措置をとることを定めており(同条二項)、これらの規定も、社会保険事業所の係員に傷病手当金についての周知徹底義務があることの根拠となる。

(2) 右周知徹底義務の具体的内容は、広く国民に向けて広報活動を行うことが最も典型的なものと言うべきであるが、被保険者の個別具体的状況に応じて、被保険者に対し、個別的な助言、教示をなすべき義務が発生すると言うべきである。

本件の場合、被保険者である拓造が任意継続被保険者であって、傷病手当金の請求を行うことが期待できないこと及び同人が高額医療費を受給しており、傷病手当金の受給資格があることは明らかであり、したがって、別府社会保険事業所の係員は、拓造に傷病手当金の受給資格があるにもかかわらず右制度を知らないがために受給申請をしていないことを知っていたか、容易に知り得たはずである。そして、右係員は、単に一言、「傷病手当金の支給申請を行うことができる。」と拓造又はその使者である原告に告げるだけで、右義務を果たし得たのであり、また、右係員が右義務を果たした場合の効果が絶大であることは言うまでもなく、このような具体的状況に照らせば、右係員に拓造に対する前記周知徹底義務を認めるべき必要性は、極めて高いと言うべきである。

(三)  しかるに、別府社会保険事業所の係員は、右周知徹底義務を怠ったのであるから、同係員の右懈怠行為は、故意又は過失による違法行為と言える。

3  拓造の傷病手当金の支給末日から二年後の昭和六三年四月二二日が経過したため、同人の傷病手当金の受給権が、時効消滅し、拓造は、金二〇五万二〇〇〇円相当の損害を被った。

4  拓造は、平成三年三月八日に死亡し、同人の相続人らによる遺産分割協議の結果、妻である原告が、拓造の右受給権不告知に基づく被告に対する損害賠償請求権を相続した。

5  よって、原告は、被告に対し、公務員の右不法行為に基づき金二〇五万二〇〇〇円及びこれに対する不法行為日の後である昭和六三年四月二二日(損害確定の日)から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1(一)は認め、(二)は知らない。

2  同2(一)は知らない。(二)及び(三)は争う。

3  同3のうち、昭和六三年四月二二日が経過したこと及び拓造に傷病手当金の受給権が存在したとすれば右受給権が時効消滅したことは認める。拓造が、金二〇五万二〇〇〇円の損害を被ったことは否認する。

4  同4のうち、拓造が平成三年三月八日に死亡したこと及び同人の妻が原告であったことは認め、その余は知らない。

三  抗弁

1(一)  大分県社会保険審査官は、平成元年七月二八日、拓造又はその代理人ないし補助者に対し、拓造の傷病手当金請求権は二年の時効が完成しているため、これを拓造に支払うことはできない旨説明した。

(二)  その結果、拓造は、傷病手当金受給権の時効消滅による損害及び加害者を知った。

2  右説明日から三年後の平成四年七月二八日が経過した。

3  被告は、原告の被告に対する本訴請求権につき、消滅時効を援用する。

四  抗弁に対する認否

1  抗弁1(一)は認め、(二)は否認する(拓造は、その時点ではいまだ損害賠償請求権を現実に行使できるということを了解するまでに至っていない。)。

2  同2は認める(ただし、時効消滅の効果については争う。)。

第三  証拠

証拠関係は、本件記録中の書証目銀のとおりであるから、これらの各記載を引用する。

理由

一  請求原因について

1(一) 原告は、健康保険法四五条から、社会保険事業所の係員には傷病手当金制度の周知徹底義務が存する旨主張する(請求原因2(二)(1))。

(二) 健康保険法四五条は、被保険者が療養のため労務に服することができないという要件が満たされた場合に、その効果として、当該日から起算して四日目から労務に服することが可能になった日までの期間について、一日につき標準報酬日額の一〇〇分の六〇に該当する金額を傷病手当金として支給する旨定めているにすぎないのであって、その文言は、行政機関にそれ以上の権限を与えたり、義務を負わせたりする旨定めているとは到底読み取れず、したがって、同条が、社会保険事業所の係員の傷病手当金制度についての周知徹底義務の根拠法規と解釈することは、無理があると言わざるを得ない。

そもそも、一般論として、行政機関が一定の権限を発動したり、国民に対する作為義務を負う場合には、その根拠となる行政作用法規の存在が不可欠であり、その法規には、権限発動の要件又は作為義務を負う場合の要件が、明確に定められていることを要すると言うべきである。なぜなら、行政作用法規に定められた作為要件が漠然としている場合になお行政機関による作為を求めることは、行政機関による恣意的判断を招来するおそれがあり、法律による行政の原理、ひいては、民主主義に抵触することになりかねないからである。

2 原告の請求原因2(二)(2)の主張が、健康保険法四五条から社会保険事業所の係員に右周知徹底義務が存する場合にその具体的内容について主張したものであるか、それとも、健康保険法四五条からかような一般的義務を導き得ないとしても、個別具体的状況から右周知徹底義務が発生する旨の主張なのか、今一つ明らかではないが(仮に前者とすれば、請求原因2(二)(2)の主張について、前記以上に付言する必要はない。)、一応後者と理解した上で検討するに、結局のところ、原告の右主張は、正に個別具体的状況そのものが行政機関による権限の発動の要件になるという主張にすぎないのであって、そのような権限発動要件を定めた法規(行政作用法規)は存在しないのであるから、やはり、右主張も失当と言わざるを得ない。

3  以上によれば、別府社会保険事業所の係員には、原告の主張するような作為義務は認められないのであるから、その余の点について検討するまでもなく、本訴請求原因は、理由がない。

二  結語

以上の事実によれば、原告の本訴請求は、理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法六一条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官柴﨑哲夫)

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