東京地方裁判所 昭和22年(ワ)1913号 判決
原告 森田リン子
被告 阿部敬治
一、主 文
被告は原告に対し金五万円及びこれに対する昭和二十二年十月二日より完済まで年五分の割合による金員の支拂をせよ。
原告その余の請求はこれを棄却する。
訴訟費用はこれを二分しその一を原告の負担としその余を被告の負担とする。
本判決は原告勝訴の部分に限り原告において金一万円の担保を供するときは仮に執行することができる。
二、事 実
原告訴訟代理人は被告は原告に対し金二十四万円及びこれに対する昭和二十二年十月二日より完済まで年五分の割合による金員の支拂をせよ。訴訟費用は被告の負担とする。との判決並に仮執行の宣言を求め、その請求原因として次の通り述べた。
(一) 原告は昭和二十一年七月頃福島縣郡山駅より乘車上京の途次、その汽車の中で被告と知合つたがその際被告は東京帝國大学理工科を卒業した者であると身分を詐称し、近々東京に行くからよろしく頼むといつたので、原告は被告に現住所を教えて別れた。その後被告は二、三回原告を訪問したが、同年九月二十四日夜再び原告の家を訪れ、原告に対し東京帝國大学理工科を卒業して、應召し、將校になつて満洲に駐在していたが、終戰後飛行機で帰還した。現在京都帝國大学理学研究生であるなど虚構の事実を眞実であるかのように語り、徽章や服裝をもつて原告をそのように誤信させ、結婚の意思がないのにあるかのように裝つて結婚の申込をし原告を錯誤に陥らせて被告と婚約させ情交関係に入つた。翌二十二年四月被告は原告に対し、京都帝國大学も首尾よく卒業した。郷里に帰つて親兄弟に原告との結婚のことを相談したところ反対されたので、これ等の者と絶縁してきた。原告と結婚するから原告の家に置いてくれと語り、原告をそのように誤信させて同棲するに至つたが、原告は被告の挙動に不審を感じ調査の末被告の云うことが全く偽わりであることが判明すると、被告は原告を捨て立ち去り関係を絶つてしまつた。原告は昭和五年八月福島縣立磐城高等女学校をチブスの爲中途退学し、昭和十九年東京看護婦学校を卒業、昭和二十年三月東京助産婦学校を卒業して看護婦産婆の各免許状をもち、その間天眞古流華道を七年間修業して知芸庵香華の称号と奧傳を得て独立教授をし、又琴山田流を四年間修業して独立教授をした者である。
財産は價格約金十万円の家屋一戸を所有して賃貸し、自ら一戸を借家して喫茶店を経営している。原告は初婚として被告との夫婦関係に入つたものであつて、被告より貞操を蹂躙せられた精神上の苦痛は甚大である。原告の社会的地位、被告の資産其の他諸般の事情を勘案して、原告の右精神的苦痛は被告より金二十万円を得て慰藉せられるを相当とする。
(二) 被告が原告方に同棲中被告は原告より会社を設立する資金と称し原告をそのように誤信させて、昭和二十二年五月一日金二千円、同月三日金一万円、同月四日金一万五千円と金二百円、同月五日金百四十円と金八十円、同月十日金七百円、同月十三日金六十円と金四十円、同月二十七日金五百円と金百二十円、同月二十九日金百七十五円、同月三十日金五百円、同月三十一日金五百円、同年六月八日金千円、同月十三日金五千円、合計金三万六千十五円を騙取した。
(三) 被告は原告方に同棲中、原告と結婚の意思がないのに、これがあるように裝い、原告をそのように誤信させて昭和二十二年五月一日より同年六月三十日迄被告の爲に宿泊費飲食費その他の生活費として一日平均約金六十六円四十銭、合計金三千九百八十五円を支出せしめてこれを騙取した。
よつて右合計金二十四万円及びこれに対する訴状送達の翌日である昭和二十二年十月二日より完済まで年五分の割合による損害金の支拂を求めた。<立証省略>
被告訴訟代理人は、請求棄却の判決を求め、原告主張事実に対して次の通り述べた。
(一) 原告と被告が知り合になつた事情及び被告が原告と情を交えた事実は認めるが、原告を欺罔して結婚の申込をしたり、原告の貞操を蹂躙した事実はない。
即ち昭和二十一年九月頃、被告が原告の居宅を訪問した帰途、原告の世話によつて國鉄線王子駅附近の某旅館に止宿し、既に就寢中のところ、原告が被告の旅室に來て同衾情交を求めてこれを遂げたのである。翌二十二年四月頃から被告は原告の要求によつて原告方に居住したが、両者間に夫婦関係は存在しなかつた。
(二) 原告は被告が会社設立を名として原告より金員を騙取したと主張するが、被告が会社設立を企図したのは原告が昭和二十二年四月頃その自宅に被告の轉居を要請した際、原告が被告に対し事業経営を勧告し、融資を申出たことに基くものであつて、被告は原告より資金を借入れて、阿部商事株式会社設立の計画を樹て、順次これを実行に移していたが、原告の援助中止と融資の返還請求に遭つて右計画は実現できなくなつたのである。
(三) 原告は被告が原告と結婚する意思があるように裝い原告をそのように誤信させて飲食費その他の生活費を騙取したと主張するが、このような事実はない。<立証省略>
三、理 由
第一、先ず原告主張事実(一)の慰藉料請求について判断する。
(一) 原告と被告とが相識るに至つたのは、昭和二十一年七、八月頃福島縣下の列車中であつたことについては当事者間に爭がなく、原被告本人訊問(第一回及び対質)の各結果を綜合すれば、前記初対面の際被告は原告に対し、自分は東大の理工科を卒業し現在尚研究中である旨身分を誇称して原告の歓心をかい、これを誤信し且被告の容姿に魅かれた原告は軽卒にもその住居を被告に教え、上京の際は立寄る様にとすゝめ、これに應じて被告は同年九月頃原告方を訪れ、その歓待をうけ、再三訪問するうち被告において原告と終生を共にする意思がないのにもかゝわらず結婚の意思がある様に裝い甘言を以て原告を欺き遅くも昭和二十二年二月頃迄には原告は被告の甘言を盲信して情を通じ、これをつずけるうち同年四月頃には原告は被告をすゝめてその住居に同棲させるにいたつた事実が認められる。
次に右各本人訊問の結果及び成立に爭のない甲第四号証、第五号証の一乃至十七を綜合すると、原被告が結婚の諒解の下に同棲している間に被告は原告の愛情に甘えて生活費の一切を原告に負担させ、更に原告の慫慂もあつて被告は阿部商事株式会社なる会社を設立し、雜貨化粧品類の販賣業を営む計画をたて、そのため数回にわたり合計金三万六千十五円に達する事業資金を原告より借りうけ、原告も概ね快く之に應じた事実がうかがわれる。
ところが前記各本人訊問の結果及証人和田成康の証言、並に成立に爭のない甲第七号証を綜合すると、被告は原告に倦怠を感じ、且前記事業に熱中したため、同年五月頃より原告を疎んずるようになり、原被告は次第に不和になつて、遂に被告は結婚の意志がないことを明かにするにいたり、度々紛爭を重ねた末、同年六月被告の知人和田成康が仲介して前記被告が借用した金を原告に返還した上同棲生活を解消することを提案したが、完全に解決しないうちに被告は原告宅を出奔して了つた事実が認められる。
(二) 要するに、被告は学歴、経歴等を詐称し甘言を以て原告に近づきその誤信に乘じて貞操を奪つて同棲し情交を重ねていたが自己の事業に熱中し、且原告に倦怠を感じて相互に不和となると原告宅を出奔し、原告をすてゝ顧みなかつたのであるから、之によつて原告は少なからぬ精神的苦痛を蒙つたことは明らかで、被告は原告に対し右苦痛を慰藉するに足る金員の賠償をしなければならない。
(三) よつてその額について考えて見ると原告本人訊問(第一回及び対質)の結果及いずれも成立に爭のない甲第十四、第十六号証の各一、二、眞正に成立したものと認められる甲第十七号証を綜合すれば、原告は大正五年生れで高等女学校を中途退学し、その後独身生活をつずけているものであり、その間看護婦及産婆の免許をうけ、又華道、箏曲、三味線、俗曲等を相当に習得し、現在では神田駅前において露天商(おでんや)を営み、多少の資産を有している事実が認められ被告本人訊問(第一回)の結果及びいずれも成立に爭のない甲第二、第七、第十乃至第十二号証を綜合すれば、被告は大正十五年山形縣東田川郡黒川村において、村長の職にあつた阿部彦七の二男として生れ、兄彦美の戰死後は同家の相続人として、昭和二十一年所得税金三千十八円及地租、家屋税若干を賦課せられており、現在尚相当の資産を有している事実が認められる。
一方原被告本人訊問(第一回及び対質)の各結果、及びいずれも成立に爭のない甲第三号証の二、三及五を綜合すれば、被告はみだりに「運輸省東京地方建設部嘱託」「日本ビール会社新宿ビヤホール重役」「運輸省東京地方建設部直営武田組組長秘書」等自分の身分を誇称する名刺を作成し、又東大理工科卒業生で現在研究生である等学歴、経歴を詐称していた事実があり、郷里には被告を監督する者がないために、訴外和田成康が之を預り監督していたが、從來も、殊に女性問題によつて同人に度々迷惑をかけていた(このことを証人和田成康は寧ろ否定しているが、その陳述は信用できず、却てかゝることがあつた心証が得られる)事実を綜合すると、被告において、眞の惡意はなく寧ろ稚気に類するものであろうとも、自己を他人に誇示する惡癖があり、且從來女性関係において相当の問題をおこしていたことは想像に難くない。
然しながら原告も前に認定したように、一面識もなかつた被告と列車中で知合つて、直ちに自己の住居を教えて來訪をすゝめ、次でその來訪をうけ快く之を歓待した事実があり、しかも原告本人の云うところによれば、來訪をうけた際原告は不在であつたので、被告は勝手に床を就いて就寢していたので、之を起して食事をさせ、且宿泊を許したとのことであり、その後の交際においても被告の言動容姿外観のみによつて被告の甘言をたやすく信用し結婚の可能性を信じて情交関係を結んだものであり、被告と同棲するに当り被告と共にその所持品を当時の居所から運んで來た川口武につき被告の当時の生活振りを聞くことができるに拘らず何等これを確めることもしていない。原告は被告の愛情を信じ被告に対する愛情のゆえに何事も調査しなかつたというが被告の経歴、性格、素行等につき被告の云うところが眞実であるか否かに今少しく注意を拂つていたならば、被告の愛情なるものの信用し難いことに気付いていたであろうと思われるし、原告の被告に対する愛情とても被告の云うことをことごとく信じた結果によるものであるから、原告は被告の愛情と結婚の可能性を信ずるに付甚だ軽卒であつたと云はねばならず、被告に対する愛情のゆえを以てしては未だその軽卒のそしりを拂拭し去ることはできない。
以上認定した原被告の経歴、資産状態、人格、素行等と、原被告間の交渉の経緯を綜合考察すれば、原告請求の慰藉料金二十万円は過大に失し、金五万円を以て相当と認められる。
第二、次に原告主張事実(二)の被告が原告より会社設立資金名下に合計金三万六千十五円を騙取したとの主張について考察する。
原告被告各本人訊問の結果(各第一回及び対質)によると、原告は被告との同棲生活中、被告の借金の申込に対し千円、二千円と度度貸與した事実及び日本橋東芝の竹田某から原告名義で金一万円を借入れ、これを被告に貸與した事実は認められるが、原告主張のように被告が原告を欺罔して右金員を騙取したと認むべき証拠は存在しない。被告としては自ら事業を経営しようとしてその資金調達の目的で原告に融資を申込み、原告より右金員を借用して眞実会社を設立すべく定款の作成、事務員の雇入、商品の買入に努力した事実が認められ(この事実は証人川口武の証言によつても認められる)原告も被告の事業を援助すべく右金員を貸與したのであつて(贈與したのではない)この貸與が被告と結婚できるという錯誤に基いているとしても右金員貸借の点について原被告間に何等欺罔錯誤の関係はないから、原被告間に消費貸借関係は存在するが、被告が結婚の点において原告を欺罔し融資を得たからといつて、直ちに右金員を騙取したということはできない。
從つて原告のこの主張は理由がない。尚原告本人訊問の結果(第一回)によれば、被告は原告の簟笥の中から三万余円或は三万二千円を拔取つたと供述するが、対質訊問においては右金員は二万円であつたと供述し、前後矛盾するから金額の点でこれを採り得ない。
第三、次に原告主張事実(三)の飲食費等の詐取について考察する。
原告本人訊問の結果(第一回)によれば、被告は昭和二十二年四月中旬より原告と同棲し、被告の生活費は原告が負担している事実及び原告の右行爲が、被告と結婚できるとの錯誤に基因することが認められる。
而して被告は原告がそのような錯誤に陥つていることを知りつゝ同棲関係を継続していた事実は前認定の通りである。從つて被告は原告が右錯誤に陥つて被告の生活費を負担していることを知りながらその待遇を受けたのであつて、原告に対してその損害を賠償する責任があるといわなければならない。然しその数額については原告は昭和二十二年五月一日から同年六月三十日まで一日平均約金六十六円四十銭、合計金三千九百八十五円の損害を蒙つたと主張するが、原告が被告の生活費を負担した期間、一日平均の費用の合計額について何等立証しないから、原告のこの主張を採用するに由ない。
斯くして被告は原告に対し金五万円及びこれに対する訴状送達の翌日である昭和二十二年十月二日より完済まで民法所定の年五分の割合による損害金を支拂う義務があるものと認める。
よつて原告の請求は右の限度においてこれを認容し、その余の請求は失当としてこれを棄却し、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法第八十九條、第九十二條本文、仮執行の宣言につき同法第百九十六條を各適用して主文の通り判決する。
(裁判官 近藤完爾 和田嘉子 小林哲郎)