大判例

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東京地方裁判所 昭和23年(行)74号 判決 1949年5月18日

原告

寺田貞雄

外一名

被告

右代表者

法務総裁

"

主文

原告寺田が出生によつて日本の國籍を有することを確定する。

原告水野が日本の國籍を有せざることを確定する。

訴訟費用は全部被告の負担とする。

事実

原告両名訴訟代理人は主文第一、二項同旨の判決を求める旨申立て、その請求の原因として、

「原告寺田貞雄は大正九年(西暦一九二〇年)一月三日アメリカ合衆国ハワイにおいて、日本人たる寺田秀吉及び寺田ヨトを両親として生れ、出生により米国及び日本の両国籍を取得し、じ来ハワイに居住していたが、昭和十三年頃から日本に来て勉学していたところ昭和十五年一月父寺田秀吉は原告寺田の同意を得ずその不知の間に原告の名義をもつて、その日本の国籍離脱の届出をなし、これにより原告は日本の国籍を失つたものとして戸籍簿上除籍せられた。原告寺田はこのことを後になつて知つたが、たまたま太平洋戦争ぼつ発した結果原告は憲兵や学校の敎練の敎官や警察当局等の圧迫によつてその日本の国籍囘復の申請を為すの止むなきに至り、昭和十八年六月中内務大臣に対しその旨の申請をなし右申請は同十九年三月十三日内務大臣から許可された。しかして米国法によれば、米国の国籍を有する者が、自己の申請により外国の国籍を取得したときは米国の国籍を喪失するのであるが、橫浜米国領事館では原告寺田の有する日本国籍は前示囘復の申請に対する許可によるものであるとみなし、従つて同原告は米国の国籍を喪失したものとして原告寺田の帰米を許可しないのである。

しかし原告寺田名義による日本の国籍離脱の届出は原告の父寺田秀吉が右の如く当時既に満十五歳以上に達し、自らその届出をなす能力があつた原告本人に、無断でなしたものであるから無効であり、従つて原告は出生により取得した日本の国籍を引き続き保有して来たのであるから、同原告が離脱の届出により日本の国籍を失つたことを前提とする右の国籍囘復の申請及びこれに対する内務大臣の許可は当然無効であり、右許可によつて原告が日本の国籍を取得すべき理由がない。しかして原告寺田が出生によつて日本の国籍を有する旨の確定判決を得れば、同原告は米国の国籍を失うことなく帰米を許される利益があるから本訴において右確認を求める。

原告水野勝は大正十五年(西暦一九二六年)九月二十日アメリカ合衆国カルフオルニヤ州において日本人たる水野末松及び水野トミヨを両親として生れ出生により米国及び日本の両国籍を取得したが日本の国籍を留保する意思を表示しなかつたので、右出生の時にさかのぼり日本の国籍を喪失した。原告水野は、じ来米国に居住していたが昭和十一年頃から勉学の為日本へ来たり、広島県三原市西町千二百八十六番地の叔父亡高野和一方に居住していた。しかるにたまたま太平洋戦争がぼつ発するや忠海憲兵分隊の憲兵が一週一囘位宛右高野和一を訪れて同人に執ように原告水野の日本の国籍囘復の申請をなすことを要請するので高野は止むを得ず昭和十九年三月七日原告水野の同意を得ることなくその不知の間に原告水野名義をもつて内務大臣に対し同原告の国籍囘復の申請をなし、右申請に対し同月十六日内務大臣より許可あり、原告水野は日本の国籍を取得したものとして広島県三原市西町千二百八十六番地に一家創立の旨戸籍簿に記載された。しかし右申請は当時原告水野は満十五歳以上に達しており自らその申請をなす能力を有していたにもかかわらず叔父亡高野和一が右の如く原告に無断で為したのであるから無効であり、従つてこれに対する右内務大臣の許可も無効である。よつて原告水野は日本の国籍を有しないのであるから本訴においてその確認を求める。」旨陳述し、立証として甲第一号証の一、二甲第二号証の一(イ)(ロ)甲第二号証の二、甲第三、四号証の各一、二を提出し、証人高野マサコ原告本人両名の各尋問の結果を援用した。

被告指定代表者は「原告等の請求を棄却する」旨の判決を求め答弁として

「原告等の各主張事実中、昭和十五年一月原告寺田名義でなされた同人の日本の国籍離脱の届出が原告寺田の父寺田秀吉により同原告の同意なく、その不知の間に無断になされたこと、昭和十八年六月中原告寺田がなした日本の国籍囘復の申請が同原告主張の如く官憲の圧迫によりなされたこと及び昭和十九年三月七日原告水野名義でなされた日本の国籍囘復の申請が同原告主張の如く官憲の強要により亡高野和一が原告水野の同意なくその不知の間に無断でなしたことはいずれもこれを否認し、その余の原告等主張事実はすべて認める」旨陳述し甲第四号証の二の成立は不知、その余の甲号各証の成立は認めると述べた。

理由

原告寺田の主張事実につき考えるに成立に爭のない甲第一号証の一、第二号証の一の(イ)(ロ)及び同第三号証の一によれば、原告寺田貞雄が大正九年(西暦一九二〇年)一月三日アメリカ合衆國ハワイにおいて日本人である寺田秀吉同ヨトを父母として生れ出生により米國及び日本の両國籍を取得したがその後昭和十五年一月原告寺田名義により日本の國籍離脱の届出がなされ同年四月六日父寺田秀吉の戸籍吏への届出により、戸籍簿上日本の國籍を喪失したものとして除籍の記載がなされたこと、及び昭和十八年六月中原告寺田が日本の國籍回復の申請を内務大臣に対してなし、右申請は同十九年三月十三日内務大臣から許可されたことを認めることができる。原告寺田は右日本の國籍離脱の届出は当時原告寺田が満十五歳以上に達しており自ら届出をなす能力があつたにもかかわらず、その同意を得ずに父寺田秀吉が無断でなしたものである旨主張するので、この点につき考えてみるに成立に爭のない甲第四号証の一と原告本人尋問の結果によれば原告寺田は昭和十三年に日本に渡來し、勉学していたところ、ハワイに居住していた原告の父寺田秀吉は原告寺田が日本の國籍を有するため兵役法を適用せられて徴集せられる等のことがあつては同原告の敎育に甚しく妨げとなるべきことを恐れ自らの発意により原告に無断にてその不知の間に自ら在ホノルル日本総領事を経て内務大臣に原告名義をもつて同人の日本の國籍離脱の届出をなしたことが認められる。而して前記の如く原告寺田は大正九年一月三日に出生したのであるから右國籍離脱の届出がなされた昭和十五年一月当時は既に満十五歳以上であつて自らその届出をなす能力があつたのであるから、右寺田秀吉が原告に無断でなした前示國籍離脱の届出は無効であるといわねばならぬ。しからば原告寺田は出生により取得した日本の國籍を引き続き保有するものというべく右届出により原告が日本の國籍を失つたことを前提として、昭和十八年六月中原告より内務大臣に対してなされた國籍回復の申請及びこれに対して昭和十九年三月十三日なされた内務大臣の國籍回復許可も当然無効である。從つて右許可によつて以後原告寺田が日本の國籍を取得する理由なしというべきである。もつとも前記認定の昭和十八年六月中原告自らなした國籍回復の申請は、これによつて原告自ら前示無効なる國籍離脱の届出を追認したる意味を有するにあらずやとの疑をいだかしめるが、本來無効行爲に対する追認なるものなく、原告が前示國籍離脱の無効なることを知つて追認をなしよつて新なる行爲をなしたと解せられるが爲には、國籍離脱の届出の要式行爲なるに鑑み追認もまた同一の要式を必要とすると解すべきところ原告がかくの如き追認をなした形跡は本件全証拠によるもこれを認め得ざるのみならず、原告本人尋問の結果によれば、原告のなしたる國籍回復の申請はむしろ前示離脱の届出の有効なることを所期しつつ当時の官憲の圧迫により一時をことするためにこれをなしたことが認められるからこれにより追認があつたものとは到底認めることを得ないというべきである。しかりしかして前示無効なる國籍離脱により原告がその戸籍簿より除籍せられたことは既に認定の如くであるから、この戸籍訂正のために原告が依然出生による國籍を有することの確定を求むる利益あることもち論にしてあえて被告の爭うと否とにかかわらずというべく、しかのみならずアメリカ合衆國國籍法第四〇一條(a)によれば、米國の國籍を有する者が自己の出願により外國に帰化した場合は、米國の國籍を喪失するものであるから、米國の國籍を有する原告が日本國籍を有するもこの國籍が原告の任意に出でたものかないしは出生によるものであるかにつき明確を欠く本件において、在日本の米國官憲に対する申請のため原告の有する日本國籍が出生による旨の確定判決を要求せらるる場合(この事実は原告本人の尋問の結果により認め得る。)にあたかも日本の官廳に対する申請につき判決による確定のあることを要求せらるる場合と同視すべきであるからこの点よりしてもまた確定の利益ありというべきである。よつて原告寺田の本訴請求は理由がある。

次に原告水野の主張事実につき考えるに成立に爭ない甲第一号証の二、同第二号証の二及び同第三号証の二によれば原告水野勝は大正十五年(西暦一九二六年)九月二十日アメリカ合衆國カルフオルニヤ州において日本人である水野末松同トミヨを父母として生れ、出生により米國及び日本の両國籍を取得したが日本の國籍を留保する意思を表示しなかつた爲、右出生の時にさかのぼり日本の國籍を喪失したこと、昭和十九年三月七日原告水野名義をもつて内務大臣に対し日本の國籍回復の申請がなされ、右申請は同月十六日許可され、原告水野は日本の國籍を取得したものとして廣島縣三原市西町千二百八十六番地に一家創立の旨戸籍簿に記載されたことを認めうる。原告水野は右申請は代理権限のない叔父高野和一によりほしいままになされたものである旨主張するので、この点につき考えるに証人高野マサコの証言、原告水野本人の尋問の結果によれば原告水野は昭和十一年頃から勉学の目的で日本へ來り、廣島縣三原市西町千二百八十六番地の叔父亡高野和一方に居住するようになつたこと、右申請のあつた昭和十九年三月七日当時は原告水野はその叔父高野和一とは別棟に住んで忠海中学に通学していたが当時の國内状勢は太平洋戰爭により反米熱たかまり、米國の國籍を有する同原告及び同原告を居住させていた右高野和一一家のものは近隣の人々から白眼視され、附近の忠海憲兵隊の憲兵も週に一度位宛原告水野を監視に來ては右高野に対し同原告の日本の國籍を回復するよう勧告するなど強圧的言動をとつたので、右高野は以上の四囲の状況から判断して原告水野の日本の國籍を回復するにしかずと考え同原告の同意を得ることなくその不知の間に原告水野名義で日本の國籍回復の申請をなし、同月十六日右申請に対する内務大臣の許可があつたこと、その後同年六月頃原告は初めて右高野よりこれを聞知したが、元來同原告としては勉学のため日本へ來ていたのであり両親はアメリカに在つた関係上國籍回復などの意思はもとよりなく、高野のなした國籍回復の手続を不満に思つていたことが認められる。しかして前記の如く原告水野は大正十五年九月二十日の出生であり右申請のなされた昭和十九年三月七日当時、既に満十五歳以上であつて自らその申請をなす能力があつたにもかかわらず、右亡高野和一が原告の意に反して無断でなしたのであるから、前示國籍回復の申請は無効であるといわねばならぬ。よつて右申請に基き昭和十九年三月十六日内務大臣のなした國籍回復の許可も当然無効で、もとより國籍回復の効果を生ずるに由なし。しかして原告が日本の國籍を有するか否かは、その身分上財産上の法律関係に重大なる影響を及ぼすものであり、原告は現に日本に居住中でしかも日本人として戸籍簿に記載せられてあることは前認定のとおりであるから被告においてこれを爭う以上原告は日本の國籍を有しないことの確認を求める法律上の利益がある。よつて原告水野の本訴請求もまた理由がある。

以上の如くであるから原告等の本訴請求をいずれも正当としてこれを認容し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九條を適用して主文の通り判決した。

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