東京地方裁判所 昭和24年(ワ)2483号 判決
原告 宗像馬之助
被告 林武
一、主 文
被告は原告に対し、金三千六百八十円四十五銭を支払うべし。
原告その余の請求は、これを棄却する。
訴訟費用は、全部原告の負担とする。
この判決は、原告において金千円の担保を供するときは、その勝訴部分に限り、仮りに執行することができる。
二、事 実
原告訴訟代理人は、「被告は原告に対し、東京都中野区新井町五百一番地にある原告所有の木造瓦葺二階建住宅一棟建坪三十七坪七合二勺、二階十七坪二合四勺のうち階下七畳間(応接室)、三畳間(女中部屋)を除く部分を明渡すべし。被告は原告に対し金三千六百八十円四十五銭及び昭和二十四年五月十三日から右明渡済に至るまで一カ月金三百四円六十七銭の割合による金員を支払うべし。訴訟費用は、被告の負担とする。」との仮執行宣言つき判決を求め、請求の原因として、又被告の答弁に対して、次のとおり述べた。
原告は、もと東京都新宿区西大久保北町の自宅を郵便局舎に宛てて西大久保北町郵便局局長を勤め、一方同都中野区新井町五百一番地にある原告所有の本件家屋(木造瓦葺二階建住宅一棟建坪三十七坪七合二勺二階十七坪二合四勺)を、昭和十二年四月一日から被告に、賃料一カ月金六十五円毎月二十八日持参払いの約で期間を定めずに賃貸してきた。
ところが、昭和二十年五月二十五日に、右住宅兼郵便局舎が罹災焼失したので、原告は家族とともに一時郷里の福島県に疎開した。しかしながら、原告としては再び東京に出て郵便局を開設しなければならなかつたので、その後も本件家屋の明渡方について被告と種々交渉し、その結果昭和二十一年一月八日原、被告間において、被告は本件家屋のうち二階全部と階下の六畳間、四畳間浴室及び洗面所を使用し、原告はその余の部分を使用する。物置は双方で半分ずつ使用する、庭は家屋の表にある部分を原告、裏にある部分を被告が各使用する、賃料は従前の半額とする、という趣旨の和解が成立した。
そこで、原告は疎開先の家族をつれてくる為一旦郷里に引返えしたところ、被告は同年二月十八日に至つて、突然一方的に右和解を取消すと言つてきた。原告は被告の不信を責め、種々交渉して、同月中に辛うじて階下の三畳間(女中部屋)に入ることができた。その頃、被告は原告の同居を妨害しながら七畳間(応接室)を進駐軍の兵士に貸していたが、その後その兵士が憲兵に逮捕されて、右室があいたので、原告は憲兵の好意により、右室をも使用することができるようになり、現在に至るまで右二室を使用している。
現在の原告の家族は、妻、長男浄明(二十六歳)、二男貞昌(二十一歳)、三女晴子(二十七歳)、四女美智子(二十四歳)で、右二室だけでは全員の起居ができないので、三女と四女は、原告が局長をしている江戸川区葛飾西郵便局局舎の宿直室(六畳)に仮寓しているありさまである。その上鈴木五郎に嫁して満洲に在つた長女温子は、さきに長男武(七歳)、次男浩(五歳)を伴つて帰国し、夫が抑留され生死不明であるために福島県の原告の実兄方に寄寓しているが、独立の生計を営み得ないのみならず、実兄から原告にその引取方を要求されている。さらに二女恭子は牧田武に嫁していたが、夫が昭和二十三年一月死亡し、現在その長女美穂子(八歳)とともに夫の母と暮しているが、生活が困難であるため、武の弟から、母は引取るから恭子とその娘とは原告方で引取つてもらいたい、と要求されている。原告としては、右二女とその子供はどうしても本件家屋に引取つて扶養しなければならない立場におかれている。その外長男は結婚しなければならなくなつているが、現在の住居ではとうてい不可能である。
原告は、本件家屋全部を使用することができれば、何とか右のような苦境から脱することができるのであつて、どうしても本件家屋全部を使用する必要があるのみならず、被告は前記のとおり原告に対して不信の行為を繰返えしており、その上同居以来近隣の者を使つて原告及びその家族に対して暴行、脅迫を行い、或は原告の家族の者のささいな行為に対してむやみに警察に告訴するようないやがらせを行い、原告に多大の迷惑を与えている。以上のような事情は、借家法にいう「正当の事由」にあたるというべきであるから、原告は昭和二十三年十一月十一日発、翌十二日着の書面で、被告に対し、前記賃貸借契約の解約を申入れた。よつて、右賃貸借契約はその後六カ月を経過した昭和二十四年五月十二日をもつて終了した。
そこで、原告は被告に対し、賃貸借契約終了を原因として、本件家屋のうち前記原告の占有する二室を除く部分の明渡を求める。
次に、賃料は昭和二十二年六月一日から原、被告間で金六十五円の四分の三(四十八円七十五銭)とすることに約束ができ、その額はその後地代家賃統制令及びそれに基ずく物価庁告示によつて、同年九月一日から一カ月金百二十一円八十七銭に、昭和二十三年十一月一日から一カ月金三百四円六十七銭に、それぞれ値上げした。そして被告は昭和二十二年六月一日からの賃料を支払つていないから、原告は被告に対し、同日から前記賃貸借契約終了の日の前月である四月末日までの延滞賃料合計金六百八十円四十五銭の支払を求める。なお被告は右契約終了の日以後不法に本件家屋の前記部分を占有し、原告の所有権を侵害して、原告に対し賃料相当額の損害を与えているから、被告に対し、昭和二十四年五月十三日から右明渡ずみまで賃料相当額である一カ月金三百四円六十七銭の割合による損害金の支払を求める。
昭和二十一年一月八日原、被告が前記のような和解をした際、原告から、郵便局開設の申請をするためには東京都内に居住していなければならないという理由で、同居を求めたようなことはない。又原告と平山孝との間に被告主張のような約束ができたことはあるが、それは被告が暴力漢をさしむけて原告に平山と会うことを強要して平山に面会させ、平山もまた下僚多勢の面前で原告を威圧し、原告をしてやむを得ず平山の申出に応じさせてできたものである。しかも平山は原告の郵便局再開申請に対して何らの助力を与え得なかつたので(原告は被告主張のとおり葛飾西郵便局局長に就任したが、これは平山の助力によるものではない。)、原告は同人に対して、右約束を取消す旨通知した。従つて、右約束は何ら原告を拘束するものでない。
かように述べた。<立証省略>
被告訴訟代理人は、「原告の請求をいずれも棄却する。訴訟費用は、原告の負担とする。」との判決を求め、次のとおり答えた。
原告主張の事実のうち、その主張のとおり、原告が自宅を局舎に宛てて西大久保北町郵便局局長を勤め、かつ原告所有の本件家屋を被告に賃貸してきたこと、原告の右自宅兼局舎が罹災焼失したので、原告がその郷里福島県に疎開したこと、その後昭和二十一年一月八日その主張のような和解が原、被告間に成立したが、被告において後日右和解を取消す旨原告に通知したこと、原告は家族を伴つて本件家屋に入り込み、階下三畳間を占有したこと、その頃階下七畳間に進駐軍の兵士がいたが、同人が憲兵に逮捕された後、原告は右室をも占有使用するようになつたこと、原告が現在葛飾西郵便局局長をしており、その局舎に原告の娘二人が居住していること、原告からその主張のとおり解約申入れの意思表示があつたこと、被告が原告及びその家族の行為に対して警察に告訴したことがあること、本件家屋の賃料が原告主張のとおり定められ、かつ値上げされたこと及び被告が原告主張のとおり右賃料を支払つていないことは、いずれも認める。(賃料の点については多少の問題もあるが、争いを少くするために認めることにする。)前記賃貸借契約に原告主張のような特約のあること、被告が七畳間を進駐軍の兵士に貸したということ、被告が近隣の者を使つて原告及びその家族に暴行、脅迫を加えたということは、いずれも否認する。その余の原告主張の事実は知らない。
昭和二十一年一月八日原告のいうような和解ができた事情は、原告が、東京で郵便局を開設するためには、都内に居住していなければその申請ができないから、開設許可のあるまで一時同居させてくれ、と懇請してきたので、被告は快くこれに応じたのである。しかるに、郵便局の開設申請のためには都内に住居がなくてもよいということ(従つて被告がだまされたこと)が判明し、さらに当時疎開していた家主が都内の借家人に家屋の明渡を求める場合には、先ず口実を設けて同居した上で全部の明渡を迫つてくるのが常套手段である。ということを聞いたので、被告は前記のとおり右和解取消の通知をしたのである。しかるに、原告は被告の留守中むりやりに本件家屋に入り込み、三畳間を占有し、さらに当時勝手に入りこんでいた進駐軍兵士が逮捕されて明いた七畳間をも被告の承諾なしに使い始めて、現在に至つているのである。
ところで原告が本件建物に不法に入りこんで同居するようになつてから、原、被告間の紛争が生じたが、原告が郵便局開設の目的を達すれば本件家屋から退去する。と言つていたので、被告は原告の退去促進方について親友の平山孝(当時運輸次官)に相談をかけた。そして、同人のあつせんによつて、昭和二十一年六月二十六日原告と平山との間で、平山が原告の目的達成のために努力する。原告は郵便局の開設ができたら本件家屋から退去する。という趣旨の約束ができた。そこで被告は安心していたところ、原告は昭和二十二年一月前記葛飾西郵便局の局長に就任し、局舎も得たのに、右局舎には娘二人を居住させただけで、いぜんとして本件家屋から退去しようとしない。かような経過で現在に至つているので、被告には少くも不信の行為はない。却つて原告こそ被告を欺むいて本件家屋の一部を占領しながら、その息子等はたえず被告及び家族に対して暴行、脅迫を加えている。その結果被告は負傷を受けたことさえあるので警察に告訴したのである。
被告の家族は、妻、妻の妹渡辺清子及び被告の長男の四人であり、本件家屋の二階はアトリエに使用し、階下の六畳間及び四畳間を居室に使用し、食堂、ベランダは、ふだん数多く訪ねてくる客を迎えるための、応接室として使用している。そして、被告は長年の苦闘の生活を経た後近年漸くすぐれた画家として認められ生活上の安定も得てきたばかりのところであり、本件家屋を明渡して他にアトリエをもつ家屋を求めるだけの資力はない。
かような経過及び事情に徴すると、原告のした前記解約の申入れは、「正当の事由」がなく、その効力を生じない、といわなければならない。本件賃貸借契約は終了していないのであるから、被告は本件家屋から退去する必要もなければ、原告のいうような損害金を支払う義務もない。原告の請求は、いずれも失当である。
かように述べた。<立証省略>
三、理 由
原告がその所有の本件家屋を、昭和十二年四月一日から被告に対し、賃料一カ月金六十五円毎月二十八日持参払いの約で期間をきめずに賃貸してきたこと、原告から被告に対し、昭和二十三年十一月十一日発、翌十二日着の書面で、右賃貸借契約の解約を申入れたことは、当事者間に争いがない。
そこで、右解約申入れについて、「正当の事由」があるかどうかを判断しなければならない。この判断は、現下の社会経済情勢住宅事情のもとにおいては、賃貸人、賃借人双方の家族、職業、資力及び家屋の状況、賃貸借関係の従来の経過等諸般の事情を比較考察した上で、公平妥当な結果をもたらすことができるようにくださなければならないことは、いうまでもない。
原告は被告に屡々不信の所為があつたとし、このことをも「正当の事由」の一に数えているから、まずこの点を主眼として事件の経過を辿ることにする。
原告がもと新宿区西大久保北町の自宅を郵便局舎に宛てて西大久保北町郵便局局長を勤めていたが、昭和二十年五月二十五日に右住宅兼局舎が罹災、焼失したので、郷里の福島県に疎開したこと、昭和二十一年一月八日に、原、被告間において、被告が本件家屋のうち二階全部と階下の六畳間、四畳間、浴室及び洗面所を使用し、原告がその余の部分を使用する。物置は双方で半分ずつを使用する。庭は家屋の表にある部分を原告、裏にある部分を被告が各使用する。賃料は従前の半額とする。という趣旨の和解ができたこと、同年二月十八日になつて被告が原告に対し、右和解を取消す旨通知したこと、原告が同月中に家族を伴つて本件家屋の階下三畳間(女中部屋)に入つたこと、その頃階下七畳間(応接室)に進駐軍の兵士がいたが、その後同人が憲兵に逮捕されて右室が明き、原告がこの室を使うようになり、以後原告は右二室を使用していることは、当事者間に争いがない。そして甲第二号証(原告本人の供述により、原、被告間にできた前記和解を記した覚書を原告が牧田武に筆写させたものであることが認められる)、甲第三、第四号証(いずれも真正にできたことに争いがない)と証人川野豊、宗像浄明、平山孝、今野勝久、大野勝三、林幹子の各証言、原、被告各本人の供述とを合せ考えると、次のとおり事実を認めることができる。
原告は前記のとおり郷里に疎開したが、終戦となつた後再び東京都内(できればもとの場所)で郵便局を再開したい希望をもつていた。そしてその準備のためには都内にいた方が便利でもあるし、又そうしなければ許可がおりないかとも考えたので、本件家屋の明渡を求めることを弁護士川野豊に依頼した。川野弁護士は一応原告の意向を被告に伝えた上で、昭和二十一年一月八日原告をつれて被告方を訪れ、被告に対し、「原告は東京に居住していないと郵便局開設の許可を得ることができないし、開設でき次第立退くから同居させてもらいたい。」といつて、種々交渉した結果被告もこれに承諾し、前記和解ができた。被告は一旦承諾したものの、右和解によると台所も使えず、表の庭にも出られないことになり、極めて不便であるのみならず、原告の言つていたことが不審でならなくなつたので、友人の平山孝(当時運輸次官)に相談した。平山が当時の東京逓信局長大野勝三に問合せたところ、都内における郵便局開設申請をするためには、必ずしも都内に居住している必要はないとのことであつた。それを聞いた被告は、原告に欺かれたような気持になり、福島県に一時帰つていた原告宛に、前記のとおり和解を取消す旨の通知をした。しかし、原告はこの取消には応ぜず、前記のとおり同月被告の留守中に本件家屋の階下三畳間に入つた。その頃進駐軍の兵士が本件家屋に侵入してきたので、被告は追出すこともできず、やむなく階下の七畳間に入れたところ、前記のとおり進駐軍の憲兵がこれを追出してくれた。原告はそのあとをも使用するようになつた。被告は原告が本件家屋にはいつたことを不法侵入であると考えていたし、原告は前記和解の趣旨に従つて入つたのであると考えていたために両者の間には屡々紛争が起つたが、結局被告は、原告が郵便局開設の目的さえ達すれば本件家屋から立退くものと思つて、右二室を原告が使用することを承認した。
かように認められ、証人宗像浄明の証言及び原告本人の供述中右認定に反する部分は採用できないし、その他に右認定をくつがえすに足りる証拠はない。
以上認定の事実によると、被告が一度承諾した和解を取消す旨原告に通知したこと及び進駐軍の兵士を七畳間に入れたことをもつて、原告に対する不信の所為とみることはできないし、原告が本件家屋に入つた後に原、被告間に生じた紛争を全て被告の責任とすることも適当でない、といわなければならない。
原告は、また、被告がその後も近隣の者や暴力漢をさしむけて原告及びその家族を脅迫し、これに暴行を加えている、と主張し証人宗像浄明及び原告本人はその趣旨の供述をしているけれども証人林幹子の証言及び被告本人の供述によると、被告が脅迫、暴行といえるような行為に出たことはなく、一方原告の家族からも被告及びその家族に対して暴行とまぎらわしいような行為があつたことが認められ、前記証人宗像浄明及び原告本人の各供述は採用できない。結局双方の右証拠を合せ考えると、家屋明渡問題で争つている両当事者が一軒の家に同居している場合に起りがちないざこざが、必ずしも被告の責任といえないいきさつで、しばしば起つたに過ぎない、と認められる。また被告が原告及びその家族の行為に対して警察へ告訴したことがあることも、被告の認めるところであるが、被告本人訊問の結果と弁論の全趣旨とによると、それは原告の息子が被告の顔面を殴りつけて怪我をさせたからであると認められるから、告訴の点をとらえて被告の不信を云々するのは、当を得ないことである。
被告に不信の所為があるとの原告の主張は理由がない。
次に、原告は、本件家屋全部を使用する必要がある、と主張しているから、この点について判断を与える。
証人土田守雄、伊関末邦雄、宗像浄明、牧田恭子、林幹子の各証言と原告本人の供述とを合せ考えると、次のとおり事実を認めることができる。
原告の現在の家族は、妻、長男浄明(二十六歳)、二男貞昌(二十一歳位)、三女晴子(二十七歳位)、四女美智子(二十四歳位)の六人、原告は現在江戸川区葛飾西郵便局局長をしているが(この点は当事者間に争いがない。)相当の年齢(六十九歳)になつているので、長男は事実上局長代理として主要の事務を扱い、そして三女、四女の両名は事務員として同局に勤務している。二男は学生である。右郵便局の局舎には人の宿泊できる室としては六畳一間があるだけであるが、原告の家族全員が本件家屋の前記二室に起居することはできないので、三女、四女は主として右局舎に居住しており、長男も時折そこに宿泊している。長男には結婚の話もあるが目下のところ住宅のあてがなくてまだ具体化しない。原告の長女温子は鈴木五郎に嫁し満洲に赴き、終戦後子供二人を連れて帰国し、夫が抑留され生死不明であるために現在福島県の原告の実兄方に寄寓しているが、生活が苦しくかつ農耕作業にも慣れず、とかく農家である寄寓先と円満を欠いている。原告はその引取りを考慮しているが、住居のあてがつかない。又牧田武に嫁した二女恭子は、昭和二十三年一月十五日夫に死別し、現在夫の母と子供との三人で暮しているが、夫の弟からは「母親は引取るから、あなたは実家に帰つてはどうか。」と言われている。そこで原告は二女の引取りも考慮しなければならない立場にある。ただしかし、長女及び二女の引取りの問題は今日、明日に迫つたことがらではない。
かような事実が認められ、右認定に反する証拠はない。
右の事実によると、原告が本件家屋全部を使用することができれば、住居の点に関する限り、前記諸問題は比較的容易に解決がつくわけであり、それは原告にとつては極めて望ましいことであるから、その意味において本件家屋全部を原告が自ら使用する必要があるということは、これを認めなければならない。
よつて進んで原、被告間の従来の交渉の経過及び被告側の事情について判断を与えなければならない。
昭和二十一年二月に原告が本件家屋に入つてきた事情及び若干のいざこざの末結局被告は原告が一時的に前記二室を使用することを承認するに至つたことは、さきに認定したとおりである。昭和二十一年六月二十六日に原告と平山孝との間に、平山は原告の郵便局開設申請に対して許可がおりるように尽力する。原告は郵便局の開設ができたら本件家屋から退去する。という趣旨の約束ができたこと、原告が昭和二十二年一月江戸川区葛飾西郵便局局長に就任したことは、当事者間に争いがない。
甲第五号証(証人宗像浄明の証言によつて真正にできたことが認められる)、甲第六号証(原告本人の供述によつて、真正にできたことが認められる)、甲第七号証(証人森本寛美の証言によつて真正にできたことが認められる)、甲第八号証、乙第一号証(いずれも真正にできたことに争いがない)、乙第二号証(証人大野勝三の証言によつて真正にできたことが認められる)、乙第三号証(雑誌みづゑ)、乙第四号証(毎日新聞)と、証人宗像浄明、平山孝、今野勝久、大野勝三、森本寛美の各証言、原、被告各本人の供述とを合せ考えると、次のとおり事実が認められる。
被告は前記のとおり原告が前記二室を一時的に使用することについて承諾を与えたが、原告が速かに郵便局開設の目的を達して本件家屋を退去することを切望していたので、原告の立退き促進方について平山孝に相談をかけた。平山は被告に同情して原告と会談することを約し、本件家屋で原告と対談した。その際原告は「本件家屋を被告に貸しておくことには異存はない。郵便局の許可さえとれれば何時でも立退く。」と言つていたので、平山は早速もとの下僚であつた大野勝三(当時東京逓信局長か或は逓信省総務局長をしていた)に、原告の郵便局開設申請に便宜を図つてくれるように依頼した上で、改めて昭和二十一年六月二十六日原被告を運輸次官室に招き、原告との間で、前記のとおりの約束をし、これを書面(乙第一号証)にした。原告はできればもとの場所(そこには所有地がある)に開局したいと希望したが、同時に一刻も早く開局したいという希望も抑え難かつたので、一応東京逓信局管内であればよいということで乙第一号証に署名した。原告は、被告や平山から強迫又は威圧を受けたわけではなく、むしろ当時の状況からいつて郵便局を一日も早く開設することを念願し、喜んで平山に助力を求める気持で、右の約束をしたのであつた。その後、東京逓信局から平山宛に、中野区内の鍋屋横丁であれば許可してよいとの内報があつたので、平山は森本寛美をして帰郷中の原告にその旨伝えさせたところ、原告は既設の局舎がなくては困るからといつて、引受けなかつた。逓信局では、局舎のついた郵便局の局長が欠員となることは多くないことであるし、といつて予算の関係上局舎を建築した上で原告をその局長に任命するということも困難であつたから、急速には原告の要求に応ずるめあてがないことになつた。そこで同年十一月原告に対して、早急には要望にそい難い旨通知した。原告はこの通知を受取るや平山が原告の申請に助力できなかつたものと早合点し、同人に対して前記約束を取消す旨通告した。しかし、逓信局では平山孝や大野勝三の依頼もあつたので、原告のため局舎のある郵便局を探していたところ、たまたま江戸川区葛飾西郵便局の局長が欠員となつていたので、早速原告を右局長に任命することにした。
ところで、被告の家族は、妻、長男(小学校三年生)、妻の妹との四人で、被告は本件家屋の二階十二畳間をアトリエに、同屋根裏納屋(約六畳の広さで、アトリエの隣)を妹の部屋に、階下の六畳、四畳の二室を居室にあて、板敷きの食堂及びベランダを日常来訪する多数の客を迎える応接室として使用している。原被告のいざこざは依然あとを絶たないが、同居の初期の頃のことは別として、その後のいざこざの原因はいずれかといえば多く原告側が作り(例えばあまり必要もないのに原告の息子が被告の面前で腕の力を誇示したり、または七畳の応接間には玄関近くに出入口があるのに、被告の居室に面する出入口をことさら使つて被告をいやがらせたりして)、被告と協調的に暮す意思がないかのように原告が振舞い、そのため食堂及びベランダはあたかも緩衡地帶とでもいうべき役目を果している。被告は、数十年にわたる刻苦精進の生活を経て、今日においてはわが国における有数の洋画家として確乎たる地位を獲得し、画壇に重きをなしているが、依然としてその芸術的生命を尊重し、営利的製作を肯んじないので、経済的には必ずしも余裕をもつには至つていない。従つて、本件家屋を明渡してアトリエをもつ適当な家屋を他に求めるめあては、現在のところはない。
かような事実が認められ、証人宗像浄明の証言及び原告本人の供述中右認定に反する部分は採用できないし、他に右認定を左右できるような証拠はない。
以上認定の事実、さきに認定した原告側の事情及び弁論の全趣旨を合せ、つぶさに検討して、原告の解約申入れが「正当の事由」を備えているかどうかを判断する。
現状をありのままにみて、原告の住居は被告のそれに比べて狭隘不便であることは、被告といえども肯定するであろう。しかしながら、原告がその長女及び二女を早急に引取らなければならないという、さし迫つた事情は認められない。原告の三女及び四女は郵便局事務員として局舎に居住しているが、既に結婚適齢期にも達しているのであるから、社会通念上からして、遠からず適当な縁に恵まれることであろう。そのためにすでに住居が用意されていることはごく望ましいことには相違ないが、他に一部屋なりとも求めるのが普通であり、それは絶望ともいえない。長男の結婚のために住居が整備されていることは一そう望ましいことにちがいないが、同人は事実上局長代理として郵便局事務の中心にあるのであるから、本来は局舎又はその附近に居住するのがよいのである。それはともかく、現在のところ、原告及びその家族は、本件家屋の二室と局舎とを使用して、不便ながらも一応住居の安定は得ているのである。一方被告の職業及び社会的地位を眼中においてみるならば、被告としても不当に原告だけに不自由を与えて余裕ある住生活を楽しんでいるわけではなく、又本件家屋の構造からみて、現在被告の使用している部分の一部を原告に譲ることを被告に求めることも無理である。この点については食堂及びベランダが前記のとおりいわば緩衡地帶の役割を演じていることをおもい起さなければならない。また二階の屋根裏納屋を原告に使わせてはという提案に対しては、被告の妻の妹の行き場所をどうするかということは別としても、さようなことを強行すれば目と鼻の先のアトリエにおける被告の仕事がみだされることになつて、適当でない、と答えなければならない。そうかといつて被告が本件家屋全部を明渡して他へ移るあては、全然ない。凡そこれらの点については、芸術的生命を尊ぶ画家にとつては、精神の平安と、環境の快適(ことによいアトリエに恵まれること)とが通常人以上に必要であることを、考え合せなければならない。
しかも、昭和二十一年八月原、被告間で和解をしたときにおいても、また同年六月二十六日平山と原告との間で約束をかわしたときにおいても(その契約としての効力如何は別としても)ともかく原告は郵便局の開設ができたら本件家屋から立退くからと自らいつていたのであり、そして平山孝の側面的な援助も手伝つて、翌昭和二十二年一月には局舎のついた郵便局の局長になることができたのである。右局舎がとうてい原告の全家族を入れる余地のないことは明らかであり、現在の住宅事情のもとで原告にだけ別に住宅を求めることを要求することも酷であるから、原告が依然として本件家屋二室の使用を続けてきたことはなお恕すべきであるとしても、原告としてはむしろ、局舎の建増により居室をふやす等適宜の処置をとるべきではなかつたかとも考えられるのである。いずれにしても原告が本件家屋にはいつて三年にならないうちに、さらに進んで本件家屋全部の明渡を被告に要求するに至つたことは、穏当でない、といわなければならない。
してみると、原告が本件家屋全部の使用を必要とする事情は認められるけれども、被告側の事情と対比して考えると、結局未だ「正当の事由」があるとまではいえない、と断ぜざるを得ない。原告のした解約申入れは「正当の事由」を欠き、その効力を生じなかつたのであるから、本件賃貸借契約は未だ終了していないのである。
原告の本訴請求中、賃貸借終了を前提とする家屋明渡の部分及び損害金請求の部分は、いずれも失当として棄却すべきである。
被告が負担すべき本件家屋の賃料が原告主張のとおり改定されたこと、被告が昭和二十二年六月一日から昭和二十四年四月三十日までの賃料合計金三千六百八十円四十五銭を支払つていないことは、被告の認めるところであるから、原告の右賃料請求は正当として認容すべきである。
原告の本訴請求は、右延滞賃料金三千六百八十円四十五銭の支払を求める部分のみ正当として認容し、その余の部分は全部失当として棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八十九条、第九十二条但書を、仮執行の宣言について同法第百九十六条を適用して、主文のとおり判決する。
以上をもつて本件に必要な判断を終る。当裁判所は、原告側の事情をしさいに検討し、その窮状を察しながらも、本訴訟事件の解決としては、前記結論に到達せざるを得なかつたのである。この結論を正しとする信念は、動かすことができない。
しかし原告が家主でありながら借家人よりも狭い部分に起居し極めて不自由な生活をしていることは、蔽うことができない事実である。この原告の立場に同情を寄せることを被告に期待することは、無理なことであろうか。と同時に、全身全霊を美の探求に捧げて、ひたすら刻苦精進している、秀れた芸術家としての被告の生活を、原告は尊重しなければなるまい。芸術家を苦しめるには、これにわずかの心の乱れを与えることで十分だからである。
本件は、当裁判所の判断を必要とした領域以外において、なおさまざまの問題を包蔵している。このことは判文を一読することによつて、何人も理解することができるのである。つつき出せば問題はいくらでも起きる。しかし当裁判所の切に希望するところは、問題を起すことでなく、両当事者が互に相手の立場を尊重しおもいやりの心をもち、扶け合つて、円満な同居生活をして行くことである。そして誠意をもつて互に住宅問題解決の好機をとらえることに努力することである。いな、被告がその芸術の道に専念できるようにしてやることが、本件住宅問題解決の近道でないと、誰が言いきることができよう。被告がいたずらに借家権を主張し、本件家屋にいつまでも居据ろうという心境にないことは、誰よりも原告が最もよく知つているはずである。
(裁判官 新村義広 武藤英一 西村宏一)