東京地方裁判所 昭和24年(行)66号 判決
原告 秋山ミネ
被告 府中町農業委員会
一、主 文
別紙目録記載の農地について、被告(昭和二十六年法律第八十八号農業委員会法施行前の府中町農地委員会)が昭和二十四年二月十九日に定めた買収計画は、これを取消す。
訴訟費用は、被告の負担とする。
二、事 実
原告訴訟代理人は主文と同趣旨の判決を求め、請求の原因として次のとおり述べた。
別紙目録記載の土地はいずれも原告の所有地であるが、被告(昭和二十六年法律第八八号農業委員会施行前の府中町農地委員会、以下同じ)はこれを昭和二十年十一月二十三日現在における不在地主の小作地として、同二十四年二月十九日に、自作農創設特別措置法第六条の二第一項の規定により、いわゆる遡及買収計画を定めた。原告はこれに不服で、同月二十八日被告に異議の申立をしたが、同年三月八日附決定で却下されたので、更に同月十七日東京都農地委員会に訴願したけれども、これまた同年六月七日附裁決で棄却され、原告は同月十六日に裁決書謄本の送付を受けた。しかしながら右の買収計画は次の理由によつて違法である。
原告は従前本件土地のある北多摩郡府中町八幡宿七千八百八十四番地(肩書現住所)に居住して夫の秋山律と共に本件土地を耕作していたが、夫律が昭和十二年十月二十四日応召し、三人の子女を抱えては自作を継続することができなくなつたのでやむを得ず同年十一月頃、附近に住んでいた原告の義兄(姉の夫)藤田林太郎に、夫律が復員するまでの間ということで本件土地を賃貸した。ところが藤田方でもその後子息が応召して手不足となつたので藤田は原告の夫律の帰還するまでという条件で、訴外関田孫一、田中源太郎、梶蔵、梶政好の四名に本件土地を一時転貸した。そして現在まで右四名の者が本件土地の耕作を継続している。
これより先、原告の一家は、夫律が応召する直前である昭和十二年十月初頃、夫律の生家のある南多摩郡多磨村和田に一時借家して転居した。そのわけは、当時夫律には遠からず召集令状が来ることが予想されていたが、律と原告の親戚との間は甚だ円満を欠いていたので、律の応召後は多磨村で暮した方が原告のために安泰であると考えたからである。そして同時に、召集令状を速かに受領することができるように本籍も右多磨村和田に移転しておいた。しかし原告の一家は決して従前の居住地である府中町から永久に立退くつもりで移住したのではなく、前記の事情からしてやむを得ずに移住したのであるから、原告の夫律が復員して来た時は再び府中町に立戻るつもりであつた。そして夫律は昭和十五年一月三十日にいつたん召集解除となつて復員したけれども、原告等が府中町の以前の住居に帰ろうとしているうちに、同十六年十月四日再び応召し、同二十二年三月二十四日に復員して来たのであるが、原告は夫が二度目に復員する前に、夫律が南方で生存していることを聞いたので、昭和二十年十二月十九日に本件土地のある府中町の従前の住居(現住所)に帰つて来た。夫律の復員後は、原告が再び夫と共に農業に従事している。
右の諸事情によつて明らかであるように、第一に、原告が本件土地を他人に小作させたのは、夫律の応召というやむを得ない事由によつて、原告が自ら耕作することができなくなつたために、本件土地を一時他人の耕作の業務の目的に供したのであつて(いわゆる一時賃貸借)、本件土地を耕作する意思を永久に放棄したものではないから、右のやむを得ない事由が除かれた今日においては、原告が本件土地を自作するのが相当であり従つて本件土地は自作農創設特別措置法第五条第六号、同法施行令第七条第二号により、買収しない農地にあたるものであり第二に原告が本件土地のある府中町から他に転居して、昭和二十年十一月二十三日当時は府中町の区域内に住所を有していなかつたとしても、これまた夫律の応召というやむを得ない事由によるものであるから、前同法第四条第二項、第二条第四項、同法施行令第一条第三号により、特別の事由があるものとして原告は在村地主とみなさるべきである。そして原告の所有農地の面積は、本件土地を含めて一町二反三畝二十二歩である。従つて本件土地は不在地主の小作地として買収することのできないものである。
しかるに本件遡及買収計画は、原告が昭和二十年十一月二十三日当時本件土地のある区域内に住所を有していなかつた点だけを考え、前記の諸事情を無視して、右の日時における不在地主の小作地として定められたものであつて、違法であり、取消さるべきものであると述べた。(立証省略)
被告訴訟代理人は、「原告の請求を棄却する。」との判決を求め、次の通り答弁した。
本件土地がいずれももと原告の所有であつて、これにつき被告が原告主張の日時その主張のような買収計画を定めたところ原告がこれを不服として被告に異議の申立をし(その日時は昭和二十四年三月一日である)たが却下され、更に東京都農地委員会に訴願したけれども(その日時は昭和二十四年三月十八日である)、これまた昭和二十四年六月七日附裁決で棄却され、原告は同月十六日その裁決書謄本の送付を受けたこと、原告がその主張の日時にその主張のとおり移住転籍したこと、原告の夫秋山律が原告主張のとおり応召復員したこと、現在本件土地を訴外関田孫一、田中源太郎、梶蔵、梶政好の四名が耕作していることは、いずれも認める。その余の原告主張の事実は全部否認する。
原告とその夫秋山律は、もと本件土地のある府中町(現住所)に居住していたところ、警防団員や近隣の人々と融和を欠くようになつて、そこに居住していることができなくなつたために、南多摩郡多磨村に移住し、かつ本籍も同時に移したのである。原告の夫律が最初に応召したのが右の移住後のことであることは、原告の自認するところであり、かつ本件土地はいずれも原告が自作したことのない土地であつて、右移住前から訴外藤田林太郎が小作していた土地である。そしてその後藤田の子息が応召して手不足となつたので、藤田が原告の承諾を得て昭和十五年中に、梶蔵に別紙目録記載(チ)、(リ)の土地を、梶政好に同(ヌ)、(ル)、(オ)、(ワ)の各土地をそれぞれ転貸し、昭和十九年中に、田中源太郎に同(イ)、(ロ)、(ハ)の各土地を、関田孫一に同(ニ)、(ホ)、(ヘ)、(ト)の各土地をそれぞれ転貸し、その後右四名の転借人が藤田を通じて直接原告から賃借するようになつたものである。
従つて、昭和二十年十一月二十三日当時は、本件土地はいずれも不在地主の小作地であつたから、被告が右関田孫一外三名の小作人の遡及買収請求によつて、同日現在を基準として定めた本件買収計画は適法であると述べた。(立証省略)
三、理 由
別紙目録記載の土地がいずれも原告の所有地であつたこと、右土地について被告が原告主張の日時に、昭和二十年十一月二十三日現在における不在地主の小作地として、同日以降引続いて耕作の業務を営んでいる小作農の請求により、いわゆる遡及買収計画を定めたこと、原告は右買収計画を不服として被告に異議の申立をしたが却下され、更に東京都農地委員会に訴願したけれども、これもまた昭和二十四年六月七日附裁決で棄却され、同月十六日その裁決書謄本の送付を受けたことは、当事者間に争いがない。
そしてまた、原告がもと本件土地のある北多摩郡府中町の肩書現住所に居住していたが、原告主張の日時に南多摩郡多磨村和田に移住し、かつ本籍も移したこと、従つて昭和二十年十一月二十三日当時は原告は府中町に居住していなかつたことと原告の夫秋山律が原告主張のとおりに応召復員したことも当事者間に争いのないところであるが、本件買収計画は前記のとおり昭和二十年十一月二十三日現在を基準として定められたいわゆる遡及買収計画であつて、これに対し、原告はいわゆる在村地主とみなさるべきであると主張するのであるから、原告が何故に本件土地のある府中町から多磨村に移住するようになつたかについて検討しなければならない。
乙第五号証(真正にできたことに争いがない)と証人秋山律(一、二回)、比留間平蔵、伊野竹治、藤田林太郎、梶政好の各証言並びに原告本人の供述とを合せ考えると、この点について次のとおり認めることができる。
昭和十二年十月当時は、原告の夫律の友人に応召する者が多く、律にも遠からず召集令状が来るものと予想されていたが、(当時律は二十九歳、歩兵一等兵)律は原告の入夫であつて原告の近親者と折合いが悪く、かつ応召する近隣の人々の見送りをしなかつたり、防空演習にも参加しなかつたりして、近隣の人々の感情を著るしく害しており、特に消防団員とは仲が悪く常に排斥されていた。そこで律は、その応召した後に残る妻子の生活を不安に思い。律の生家のある多磨村に移住していた方が安泰であると考えて、多磨村に家を借りて引越すようになつた。又召集令状をなるべく速かに受取るために、本籍も同時に多磨村に移しておいた。その後十日位経つて予想どおり召集令状が来て応召するに至つた。
かように認められ、証人藤田林太郎の証言中右の認定事実に反する部分は信用できない。
そして本件土地の耕作関係については、甲第十九号証の二、乙第二号証の一乃至四(謄本)、乙第六号証の二(いずれも真正にできたことに争いがない。但し乙第二号証の一乃至四の記載中府中町農地委員会長作成名義の部分を除く)と証人藤田林太郎、比留間平蔵、田中源太郎、関田孫一、梶政好、梶蔵、伊野竹治、秋山律(一、二回)の各証言並びに原告本人の供述を合せ考えると、次のとおり認めることができる。
本件土地は、原告の夫律が応召するまでは原告方で作男を使用したりして自作していたが、前記のように原告等が多磨村に移住し、律が応召した後は、原告の女手ひとつでは耕作を続けてゆくことが困難となつたので、原告は義兄(姉の夫)の藤田林太郎に期限を定めずに本件土地の耕作を依頼した。ところが昭和十五年に藤田の子息も応召するようになり、藤田方でも手不足になつたので、藤田は原告の承諾を得て昭和十五年中に梶蔵に別紙目録記載の本件土地中(チ)、(リ)を、梶政好に同(ヌ)、(ル)、(オ)、(ワ)をそれぞれ転貸し、昭和十九年になつて田中源太郎に同(イ)、(ロ)、(ハ)と、関田孫一に(ニ)、(ホ)、(ヘ)、(ト)をそれぞれ転貸し、小作料は昭和二十一年まで藤田が右四名の者から受取つて原告に支払つていた。そして右四名が引続いて現在まで本件土地を耕作している(この点は当事者間に争いがない)。
かように認めることができ、証人藤田林太郎、関田孫一、田中源太郎の各証言、原告本人の供述中右の認定に反する部分はそのまま信用するわけにいかない。従つて原告が本件土地を他人に小作させるようになつたのは、結局その夫律が応召したためと解するのが相当である。
しかし原告等は前記のように、夫律の応召する以前に本件土地のある府中町から多磨村に移住しているのであるから、原告が将来府中町に帰つて来て本件土地を耕作する意思を有していたか否かが更に検討しなければならない事項になる。
甲第二十乃至第二十二号証の各一、二、甲第二十四、第二十七号証の各一、二(証人秋山律第二回の証言によつて真正にできたことが認められる)と証人藤田林太郎、秋山律(一、二回)の各証言並びに原告本人の供述とを合せ考えると、次のように認められる。
原告の夫律は昭和十五年一月三十日にいつたん召集解除となつて復員し(この点は当事者間に争いがない)、間もなく藤田林太郎に本件土地を返してくれるように交渉し、藤田もこれを承諾したが、原告方では府中町のもとの住居を他人に貸してあつて、すぐには府中町に戻ることができず、本件土地の返還ものびのびになつているうちに、律は昭和十六年十月四日再び応召するに至り、土地返還のことはそのままになつてしまつた。律は再度の応召後も屡々戦地から原告に本件土地の貸借関係、耕作状況等を問い合せており、昭和二十二年一月十一日附の葉書では、府中町の家を明けてもらうように交渉すべき旨を原告に指示している。原告はその前、昭和二十年十二月十九日に府中町の以前の住家(現住所)に立戻り、同時に本籍も移した。(この点は争いがない)。又原告も夫律も多磨村に移住した後他に定職を求めたこともなかつたし、現在は共に農業に従事している。かように認められる。
右の認定事実と、前認定の多磨村へ移住するに至つた事情とを合せ考えると、原告が多磨村に移住したのは、結局夫律の応召というやむを得ない事由に出たものに外ならず、将来とも多磨村に居住して他に職を求めようとしたものではなく、況んや農業に従事する意思を棄てきつたものではなく、夫律が復員して来た時は、府中町に戻つてもとどおり本件土地の耕作に従事しようというつもりであつた。と解するのが相当である。従つて、原告が昭和二十年十一月二十三日当時本件土地のある府中町の区域に住所を有しなかつたことは、自作農創設特別措置法第四条第二項にいわゆる特別の事由にあたり、原告はいわゆる在村地主とみなさるべきである。
のみならず、さきに認定したように、原告が本件土地の自作をやめて他に賃貸したのは、結局夫律の応召というやむを得ない事由によるものであるから、原告が本件土地を賃貸する際に夫律が復員するまでという期限を明示したか否かを論ずるまでもなく、本件賃貸借は夫律の復員までの間の一時的賃貸借とみるのが相当であり、かつ、甲第十七号証、第十九号証の二(いずれも真正にできたことに争いがない)と証人秋山律の証言(第二回)、原告本人の供述とを合せ考えると、原告方では従前(多磨村へ移住前)一町二反位を自作していたが、現在は六反五畝四歩を自作しており、家族は合計七人であることが認められ、従つて原告が現在本件土地のある府中町に居住している以上本件土地は原告が自作するのが相当であると認められる。
してみると、本件土地は自作農創設特別措置法第五条第六号に該当する農地であるから、これを昭和二十年十一月二十三日現在における不在地主の小作地として買収してはならないといわなければならない。
いずれにせよ本件買収計画は違法であるから、その取消を求める原告の請求を正当として認容し、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八十九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 新村義広 武藤英一 石沢健)
(目録省略)