東京地方裁判所 昭和25年(ワ)7603号 判決
原告 伴野文三郎
被告 今泉吉郎
一、主 文
東京都中央区銀座六丁目四番地の一所在家屋番号銀座六丁目七九号鉄筋コンクリート造一部モルタル塗木造鉄板葺七階建事務所一棟建坪六十四坪三合九勺一階以外四百三十三坪九合(尾張町ビルデイング)第一階第一号室(同ビル東南角九坪)の賃料は昭和二十五年八月一日以降一箇月金一万千七百円であることを確定する。
被告は原告に対して金二万三千三百四十円を支払え。
原告のその余の請求を棄却する。
訴訟費用は原、被告の平分負担とする。
二、事 実
原告訴訟代理人は、主文第一項記載の室の賃料は昭和二十五年八月一日以降一箇月金一万五千三百十円であることを確定する。被告は原告に対して右室を明け渡し且つ昭和二十五年八月一日から明渡済に至るまで一箇月金一万五千三百十円の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。との判決並びに第二項について担保を条件とする仮執行の宣言を求め、請求原因として、原告は主文第一項記載の建物の所有者で、昭和二十一年六月一日から被告に対してその第一階第一号室(九坪)を陶器の販売のため店舗として使用する目的で賃料一箇月金九百円毎月五日限りその月分を支払うこと、期間は一箇年の約定で賃貸し、その後家賃統制額の修正率に従つて賃料を増額して昭和二十四年六月一日から一箇月金五千二百八十円と改定して昭和二十五年七月分まで賃料の支払をうけた。ところが昭和二十五年八月一日以降政令第二二五号による地代家賃統制令の改正にともない事務所店舗に対する賃料統制が撤廃せられ、右建物従つて室の賃料の統制をはづされたので、原告は右建物に対する公課の増徴及び異常な経済事情の変化等のため従来の賃料が不相当に低廉であり、且つ被告に賃貸中の室の賃料が他の貸室に比べて不当に低額であつた事情をも勘案して右室の賃料を三倍程度に増額するのが至当と考え、同年七月末頃物価庁に照会の結果、その程度の値上は差支ない旨の内諾を受けたので、その頃被告に対して借家法第七条に基き同年八月分から賃料を値上する旨通告し、更に同月中賃料を一箇月金一万五千三百十円に増額する旨通知をした。
従つて本件貸室の賃料は原告の一方的の増額請求により値上の効力を生じ、昭和二十五年八月一日から客観的に相当な賃料である一箇月金一万五千三百十円と改定せられたのである。
然るに被告は右増額請求の効力を争い昭和二十五年八月分以降の賃料の支払をしないので、原告は被告に対して昭和二十五年十一月十四日附翌十五日到達の書留内容証明郵便をもつて、一箇月の賃料が金一万五千三百十円に増額せられた旨念のため通告し、並びに同年八月分から同年十一月分迄の延滞賃料四箇月分合計金六万一千二百四十円を同月二十四日迄に支払うべく、その支払がないときは、これを条件として賃貸借契約を解除する旨の催告並びに条件附契約解除の意思表示をした。然るに依然その支払をしないので右賃貸借契約は同年十一月二十四日の経過により終了した。
而して被告は賃料の増額の効力を争うので、本件貸室の賃料が一箇月金一万五千三百十円であることの確認を求めると共に賃貸借契約が解除されたことに基き本件貸室の明渡を求め、且つ昭和二十五年八月一日から同年十一月二十四日まで一箇月金一万五千三百十円の割合による延滞賃料並びに同年十一月二十五日から明渡済に至る迄不法占有による損害賠償として賃料相当額である一箇月金一万五千三百十円の割合による金員の支払を求めるため本訴請求に及んだと述べ、
被告の主張事実に対して、供託の点及び本件賃貸借契約の当初に戦災に罹つた本件ビルの修築費の負担金の名目で被告から金九万円を受領した事実は認めるが、右金員は賃貸借契約終了の際これを返還することを約束したもので被告主張のように権利金ではなく借入金に過ぎないものである。被告が毎月の賃料の他に支払つたという清住会費なるものは、本件ビルデイング七階の賃借人訴外小林数男がビルデイング内の賃借人並びに原告をも含んだ居住人から徴収している会費であつて、原告が受け取つたものでなく本件賃料とは無関係であると述べ、なお原告は本件ビルの戦災による改修費として百八十万円を投じたが右はビルの賃借人よりの借入金(被告よりの九万円を含む)で当てたものであると附陳した。<立証省略>
被告訴訟代理人は、原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。との判決を求め、答弁として、原告がその主張の建物の所有者であつて、被告が原告よりその主張の室を昭和二十一年六月一日より賃料一箇月九百円毎月五日支払の約束で賃借し、陶器の販売を目的とする店舗として使用していること、原告が右室の賃料を一箇月九百円と定めるについて都長官(当時都知事)の認可を受け、その後統制額の修正率に従つて賃料が改定せられ昭和二十五年七月当時の賃料が一箇月五千二百八十円であつたこと、同年八月一日以降右室の賃料の統制が撤廃せられたこと並びに内容証明郵便によつてその主張通りの意思表示の到達したことは何れもこれを認めるが、その余の事実は認めない。原告主張の値上請求は何等合理的根拠のない不当の要求である。本件の室は原告主張の通り第一階の東南隅にあるが、他の貸室に比べて最悪の場所にあつて、九百円の賃料は不当に低額のものではない。而して被告は賃借当初敷金として金二千七百円(賃料三箇月分)及び戦災による修築費の負担金の名目で権利金として金九万円を原告に支払い、(この九万円は被告の後継賃借人が権利金として九万円以上を支払つたとき原告から返還を受ける約束であるが利息なく、且つその外にも乙第一号証に記載のような返還についての条件があつて返還の見込少く実質上の権利金である)さらに賃料の他に清住会費と称してビルデイングの事務費の分担金の名目で四百円、電燈料として四百円乃至四百五十円、水道料百五十円、エレベーター要員費として百円を支払つている。右はいづれも実質上賃料の支払として考慮せらるべきものであるが、原告は右九百円の賃料について昭和二十一年十月頃東京都長官(当時都知事)の認可を受けるに当り、権利金九万円の受領の事実その他清住会費電燈料等の被告負担の点をことさらに隠蔽して認可申請をしたものであるから、若しこの事実を当局において諒知しておれば、九百円の認可は受け得られなかつたであらうし、又爾後においても右の認可は取消さるべき性質のものである。原告はかかる瑕疵のある不当な賃料を基準にしてその後統制額の改定に伴い数次にわたり増額したのであつて、本件賃料は相当に高額のものである。而して本件貸室の前面は車道と歩道との区別がなく、つねに自動車が停車している情況なので店舗としては他の貸室に比べて劣悪な条件下にあるばかりでなく原告は本件ビルデイングについては戦時災害国税減免法により終戦以降昭和二十四年まで家屋税を免除されていたものである。
従つて以上の諸事情を参酌すれば賃料の増額請求をなすべき根拠が存在しないから、増額賃料の確認を求める原告の本訴請求は失当である。
仮に経済事情の変動により多少の増額は免れ得ないとしても、その増額は衡平の理念に照し客観的に相当な賃料と認められる程度のものであるべきは勿論のところ、原告は突如然も慢然従前の賃料の三倍以上の高額を要求したので、被告はその不当を主張し適当額の値上について屡々協定を求めたのに拘らず頑迷にも原告は右三倍を固執し譲歩の気配を示さないので被告は原告に対して値上額は後に協定成立の上支払うべきにつき、取りあえず同年八月分より同年十一月分迄の従前の金額による賃料の受領方を求めてこれを現実に提供したけれども拒絶せられたので、催告期間内である同年十一月二十四日右四箇月分の賃料合計二万千百二十円を弁済のため供託し、その後も賃料を提供したが受領しないので、同年十二月分と昭和二十六年一月分として一万五百六十円を同月十八日に供託し、なお同年八月分迄引続き供託している。このような次第で被告は賃料支払について誠意を有するばかりでなく、原告のなした催告に表示の賃料額は過大のもので催告として効力を有しないから契約解除は不適法である。
従つて、本件貸室の明渡を求める請求も失当であると述べた。<立証省略>
三、理 由
原告がその主張の建物の所有者であつて被告がその第一階第一号室を昭和二十一年六月一日より賃料一箇月金九百円毎月五日支払の約束で賃借し陶器の販売を目的とする店舗として使用していること、原告が右室の賃料を一箇月九百円と定めるについて都知事の認可を受け、その後統制額の修正率に従つて賃料が改定せられ昭和二十五年七月当時一箇月の賃料は金五千二百八十円であつたこと、同年八月一日以降政令第二二五号によつて事務所店舗に対する賃料統制が撤廃されたので、右室の賃料統制も撤廃せられるに至つたことはいずれも当事者間に争がない。
而して証人尾上猛の証言と原告本人の供述並に被告本人の供述として昭和二十五年八月以降ビルの店舗の賃料の統制が撤廃になると同時に、一階は二倍の賃料の値上の要求があつた旨の供述部分を総合すれば、原告はビル協会の理事を勤めていた関係上同年八月より本件室の賃料の統制が撤廃せられることを事前に知り、物価庁に照会の結果従前の賃料の三倍程度の値上をしても差支えない旨の内諾を受けたので、同年七月中被告並に本件ビルの他の賃借人に対して統制が八月以降撤廃せられるについては一階の賃借人に対しては従前の賃料の二倍、二階以上は二倍半に値上する旨通告し、統制撤廃の告示が公にせられた八月中にも更に同様の値上の通告をしたこと、二階以上の賃借人は全部値上について承諾を与えたが、一階の賃借人は殆んど全部殊に被告はその承諾をしなかつたことが認められる。
右認定に反する趣旨の被告本人の供述は措信し難い。
而して原告が統制の撤廃を停止条件として同年七月中になした賃料の増額請求は、たとい借家法第七条の規定に基く権利の行使であることを明示しなくても、同条の規定によつて増額請求権の行使の効力を有することは言うを俟たないところであつて、その権利行使は形成的の効力を有するものと解するのが相当である。従つて右の意思表示の結果統制が撤廃せられた同年八月一日以降増額請求の効力を生じたものというべきであつて、その権利行使は土地又は建物に対する公租の増加、価格の騰貴比隣建物の賃料その他賃料決定の基準となるべき一切の経済事情の変動を考察してその適否を判定すべきであり、且つ増加額は前記法条の精神に則り衡平の理念に従い客観的に相当な賃料額に修正せられたものであつて、必ずしも当事者の主張する数額に一致するを要するものでないと解すべきである。
而してその相当額は判決を待つて確定せられるべきものであるが、請求者はその確定額を請求権行使の効力発生の時より請求し得るものというべきである。
よつて右の観点に基いて増額請求権の適否と客観的に相当な賃料額を考察する。
本件建物が戦災に罹つたビルであつて本件貸室のビル内の位置と範囲が原告の主張通りであることは当事者間に争ないところであり、この事実と成立に争ない乙第一、七、八号証の記載及び原告本人の供述並に当裁判所の検証の結果と鑑定人北尾春道の鑑定の結果を総合すれば、本件貸室は銀座においても特に商業繁華街の中心地に近い地理的好条件を有しているが、その入口に面する道路は車道と歩道との区別がなく、その前面に自動車が停車する関係上同ビルの北の歩道を有する道路に面する他の貸室よりは稍不良の位置にあること、被告は本件室の賃借当初敷金として賃料の三箇月分である金二千七百円とビルの修築費の負担金の名目で金九万円を交付し、この九万円は原被告の賃貸借契約終了の際被告に返還を約束しているが無利息であり、然も被告が賃貸借の契約条項を正確に履行し被告の後継賃借人が同額以上の金員を原告に交付した場合に限るもので、原告の責に帰すべき事由に基かずして賃貸借の継続不能となつた場合には返還しない等の約束があつて通常の消費貸借と異り、著しく賃貸人に利益を与える性質のものでその利益は賃貸借契約締結のために与えられたものであるから、権利金としての性質を多分に有していること、なおその外に清住会費の名目で毎月四百円を徴せられ電燈料四百円乃至四百五十円、水道代百五十円、エレベーター要員費百円を支払つていること並に貸店舗の適正賃料を算定するについては以上の事実関係を参酌すべきは勿論であるが、その基準として(1) 建築敷地の評価格、(2) 建築物の現在の評価格、(3) 戦災による特別補修費、(4) 建築物に対して投ぜられるべき補修費の一年間の平均額、(5) 人件費諸雑費を含んだ建築維持費として支出せらるべき一年間の平均額、(6) 諸税金、(7) 支払わるべき火災保険料、(8) 建築物の経過年数及び将来の耐用年数、(9) 資金消却返済の期間、(10)建築物の各階延面積、(11)貸室の室数及び面積と総延面積との対比、等を基本条項として考察すべきであつて、昭和二十五年八月現在において右(1) は九百三万四千五百六十円、(2) は四千二十六万三千二百円、(3) は百五十万円(但し昭和二十二年中に投じた補修費は百八十万円であるけれども、右は前認定の通りの被告よりの九万円の借受金を含み本件ビルの賃借人よりの借受金をこれに全額当たものであるに鑑み、且つその借受金は前述の通り一部は権利金たる性質を有し、補修費全額を原告の負担ということはできないから、その額を百五十万円に減額する。)以上合計五千七十九万七千七百六十円となる外、(4) は二十五万円、(5) は百八十万円、(6) は六十万円(但し戦時災害国税減免法により昭和二十四年度迄家屋税は免除せられていた。)(7) は七万五千円であつて、(4) 乃至(7) の合計二百七十二万五千円となり、(8) の経過年数十六年、将来の耐用年数五十年、(9) は二十年、(10)は五百三坪二合九勺、(11)の貸室の室数三十室、延面積三百七十坪則ち有効面積は七十三%であるから、固定資産と見るべき右(1) 乃至(3) の合計五千七十九万七千七百六十円を将来の耐用年数と対照して二十箇年間に消却するものとすれば、毎年二百五十三万九千円とこれに一年間の諸経費である(4) 乃至(7) の合計金二百七十二万五千円との合算額五百二十二万八千九百円の収入を必要とすることになるから、これを貸室としての有効面積三百七十坪で除すと坪当り年額一万四千五百円となり、一箇月の賃貸料は坪当り千二百五十円と算出せられること、而してこの額は平均価格であるから更に各階各室の位置、面積の大小、入口の方位使用方法の相違により多少増減せらるべきであること並に近隣にある本件と同様の建物の坪当り一箇月の賃貸料は概ね九百五十円から千五百円の相場であつて、貸店舗の場合はその高価に定められ千二百円乃至千四百五十円が標準であること等が認められるので、以上認定の諸般の事実関係を総合参酌して昭和二十五年八月当時の本件店舗の相当賃料は坪当り一箇月金千三百円、その九坪は一万千七百円と認定するのを相当とする。
もつとも成立に争ない甲第四号証(口頭弁論調書)の記載によれば原告は、昭和二十五年十一月十一日裁判上の和解により訴外藤本義雄に対して本件建物の一階約十一坪を賃料一箇月一万九千円で賃貸する旨契約したことが認められるから、その坪当りは千七百円強であつて右の認定の相当賃料額と均衡を失するようであるけれども、右は原告本人の供述によれば、藤本は右室の不法占有者であることが認められるので、不法占有者にその室を賃貸するに至つたため、その賃料を比較的高額に定めたものと推察せられるからその標準を直に取つて本件の場合の基準とするに足りない。
而して本件貸室の従前の賃料が昭和二十四年六月一日の統制賃料の修正率に従つて一箇月金五千二百八十円に改定せられたものであることは当事者間に争ないところであるから、前段認定の相当賃料額の昂騰は本件賃貸借契約締結後の建物に対する租税負担の増加土地建物の価格の騰貴等その他諸般の経済事情の変動の結果生じたもので、且つ比隣の建物の借賃に比較して不相当になつたものというべきであり、その間に甚しく均衡状態を失し既存の賃料で当事者を拘束することが公平の理念に反するものと認むべきであるから、原告のなした前記増額請求は借家法第七条に照して適法のものであつて、その増加賃料額は前認定の一箇月金一万千七百円と確定するのを相当とする。
従つて、これを超過する原告の主張は採用し難い。なお原告は昭和二十五年十一月十四日附の内容証明郵便によつて被告に対して本件賃料を一箇月金一万五千三百十円に増額する旨の意思表示をしたことは当事者間に争ないところであるけれども、前段認定の通り同年八月一日より増額の効力を生じた後僅か三箇月余を経過したに止るのに更に増額の請求をするのは特段の事情の認められない本件において甚しく信義に反するのみならず、前掲鑑定人北尾春道の鑑定の結果に徴し、同年八月と同年十一月当時の本件貸室の相当賃料額に相違のないことが認められるから右内容証明郵便による増額請求の意思表示はその効力ないものというべきである。もつとも鑑定人栗林正一の鑑定の結果によれば、その間に多少の増額あることを推認できるようであるけれども、その額は一箇月六百七十円位にとどまり従前の賃料を維持するのが不相当と認めるに足りないから右鑑定の結果を採つて前認定を左右する資料とすることはできない。
被告代理人は本件貸室の相当賃料を判定するについて、前に説明するところと反対の見解を主張するけれども、当裁判所の採用しないところである。
よつて次に契約解除の適否の点を判断する。
原告が被告に対して昭和二十五年十一月十四日附翌十五日到達の内容証明郵便により同年八月一日以降本件貸室の賃料が一箇月金一万五千三百十円に増額せられたので、同年十一月分迄合計金六万千二百四十円を同月二十四日迄に支払うべく、その支払がないときはこれを条件として賃貸借契約を解除する旨の催告並に条件附契約解除の意思表示をしたこと並に被告が同月二十四日同年八月分以降同年十一月分迄の本件室の賃料として従前の一箇月五千二百八十円の割合の四箇月分合計二万千百二十円を弁済のため供託したことは当事者間に争がない。
而して本件貸室の賃料は昭和二十五年八月一日以降一箇月金一万千七百円に増額せられたものであることは前段に認定したところであるから、原告のなした履行の催告は過大の譏を免れないけれども、これを以つて催告を無効となすに足らず右認定の増額の範囲内において有効の催告がなされたものと解すべきであるから被告のなした供託によつて、なお一部の不履行を免れない。
然しながらその不履行ある故に直に解除権の行使が適法のものと即断することはできない。
蓋し権利の行使と義務の履行は信義に従つて誠実にこれをなすべきは言う迄もないところであるが、本件のように賃料の増額請求権が行使せられた場合には、当事者間の置かれている経済的環境に照し値上数額の妥当の範囲について見解と主張の相違の生じ易いことは勿論であつて賃貸人の主張に応じない賃借人を目して必しも常に不誠実な債務者と断定することはできないばかりでなく、増額請求権の存否並にその範囲は後に裁判をまつて決定せられ然もその増額決定額は、増額の意思表示の効力発生の時に遡るものであるから、賃借人に対して増額請求のあつた後、速に客観的に妥当な賃料の決定とその支払を要求するのは酷に失する場合なきを保し難いからである。
よつてこの観点に基ずいて本件を見るに、被告が本件店舗を陶器の販売のために使用していることは当事者間に争ないところであつて、検証の結果によればその商品は概ね高級品を扱つているけれども近隣の他の商店と比べその場所的環境に拘らず繁華街にある商店相応の営業成績を挙げているものとは推察できない。いわゆる時勢に乗つて収入を獲得し、増額賃料を容易に捻出できる立場にあるものとは認め難いばかりでなく、統制撤廃の直後に際して比隣の相当賃料を覚知して決定させるには時期尚早というべく、然も本件の増額請求が既存の賃料の一躍倍額であつたので被告においてその妥当性を疑つたのは無理からぬことと考えられる。而して被告本人の供述によれば本件賃料について昭和二十五年八月頃原告から他の賃借人は全部原告主張通りの値上げ(二階以上は二倍半、一階は二倍)を承諾したから被告においても二倍の値上を承諾せられ度い旨の申入があつたので被告も一応これを承諾したが、その後他の賃借人において真実承諾していないことを知つたので承諾を撤回するに至つたが、その後も原告と値上額について交渉を重ね、他の室の賃借人の値上額が当初の契約の際の賃料額の十倍程度に止まつているので、被告の場合も同率である当初の賃料九百円の十倍の九千円程度に協定方を申出たけれども原告の応ずるところとならず逆に原告から従前二倍の値上要求を三倍にする旨の通告を受けるに至り更に間もなく前記の催告並に条件附契約解除の内容証明を受け取つたので、原告に対して後に相当額の増額が定まればその支払をなすべきにつき一応既存の賃料を受領せられ度い旨申出て、現金を所持してその提供を口頭で伝えたが、原告がこれを拒絶したのでやむを得ず前記の供託に及んだことを認めることができる。
この認定に反する原告本人の供述は措信できない。
果してそうであれば被告は誠意をもつて原告と増額の協定を望んでいたものであつて、好んで原告と事を構えようとしたものでなく、寧ろ原告において当初二倍の値上要求を、被告との交渉途中俄に理由なく他の賃借人との比率を無視して三倍に増額したのは信義に反するものというべきである。
この点につき原告本人は本件貸室の当初の賃料を他の室の賃料に比べ特に低廉に定めた旨供述するけれども被告本人の供述と対比して措信できない。
以上の経緯に鑑み被告は増額賃料の支払について不誠意な賃借人と認めることはできずその一部不払には相当の理由があるので、不履行を理由とする原告の解除権の行使は信義に反するものと断ずるのが相当である。
従つて前記契約解除の意思表示は不適法でその効力ないものというべきである。
然らば契約解除を理由とする明渡請求並に不法占有を理由とする損害賠償請求は失当で棄却を免れない。
而して原告の延滞賃料の請求部分については昭和二十五年八月一日から同年十一月二十四日迄の前認定の一箇月一万千七百円の割合の賃料額は四万四千四百六十円となるところ、前記弁済供託金二万千百二十円はその一部弁済として有効と認むべきであるから、この金額を控除した金二万三千三百四十円については、被告は原告に支払義務あること勿論である。
よつて原告の請求は以上認定の限度において正当として認容すべきもその余の請求を失当として棄却し訴訟費用の負担について民事訴訟法第九十二条を適用して主文の通り判決する。
なお、仮執行の宣言は相当と認めないのでその宣言をしない。
(裁判官 西川美数)