東京地方裁判所 昭和25年(ワ)7804号 判決
原告 中川八重
被告 味岡ミノ
一、主 文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
二、事 実
原告訴訟代理人は「申立被告、相手方原告間の東京地方裁判所昭和二十二年(ユヨ)第一五号家屋一部明渡調停事件につき昭和二十三年二月二十六日成立した調停の無効なことを確認する。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求める旨申立ててその請求原因として、原告は昭和二十一年三月一日以降訴外味岡美惠子から同人所有の東京都中央区日本橋蠣殼町二丁目十八番地所在木造スレート葺二階建一棟建坪三十七坪一合五勺外二階十四坪五合三勺を賃借居住して来たところ、美惠子の母である被告は、右家屋を自分で使用する必要があるとゆうことを理由として昭和二十二年二月十三日原告を相手取り、東京地方裁判所(当時東京区裁判所)に借地借家調停法に基き「(イ)相手方は申立人に対し前示建物の内、店舗の部分、階下八坪七合五勺と同上二階八坪七合五勺を即時返還すること。(ロ)相手方は申立人に対し右建物一棟全部を同年同月末日限り明渡すこと。」とゆう趣旨の調停をして欲しいとゆう調停申立をなし、同庁昭和二十二年(ユ)第一五号事件(昭和二十二年(ユ)第一五号事件は二件あり記号番号は同一であるが全然別異の事件である。本件は調停調書によれば同年(ユヨ)第一五号となつている。)として係属したが調停手続開始、進行の結果、昭和二十三年二月二十六日原、被告間に、(い)相手方(原告)は本件建物についての賃貸借契約終了の事実を認めて申立人(被告)に対し昭和二十五年九月末日限り右建物から退去して、これを明渡すこと。(ろ)右明渡は後記造作代金の支払とは無関係に履行することとし、同時履行の抗弁はしないこと。(は)原告から被告に売渡した本件建物の造作の代金は当事者双方協議の上委嘱する鑑定人二人の評価額を平均し、その平均額の十分の七を以て代金額とすること。(に)右代金支払方法は明渡と同時にその十分の四を支払い、残額は明渡の翌月を始期とし毎月末限り残額の二十四分の一宛を割賦支払うこと。等の条項を含む調停が成立した。けれども右調停は次の各理由によつて無効である。第一に、借地借家調停法に基き賃貸借関係について調停の申立をなし得るものは当該賃貸借契約の当事者であるが本件建物の貸主は前述の如く味岡美惠子であつて被告ではない。それにも拘らず原告が右調停に応じたのは全く錯誤によつて被告が貸主であると誤信したためであるから調停は当然に無効である。第二に、調停は賃貸借関係について争議の存することを前提とすることは借地借家調停法第一条に「借地借家関係ニ付争議ヲ生シタルトキ」と規定するによつて明である。ところが本件調停申立当時は賃貸借契約は存続中であり貸主から解約申入れもなかつたのであるし、その他賃貸借関係について当事者間に何等の争議もなかつたのであるから、争議がないのになされた調停であつて上叙法条に反する無効のものである。第三に、本件調停に際り原告は訴外弁護士和田亀太郎を代理人に選任して事件処理に当らせたのであるが同代理人は原被告間の賃貸借契約はまだ存続中のものであつたのに、錯誤により右契約は期間満了によつてすでに終了しているものと誤信し、その誤信に基いて調停に応じたのであるからこの点からしても本件調停は無効である。第四に、原告が和田弁護士を代理人に選任するに際り原告において被告の要求に応ずべき理由はないのであるから、成るべく右の要求を拒絶すること、已むを得ず調停に応ずる場合でも原告の申立(イ)の部分の明渡にのみ応じ、建物全部の明渡には絶対に応じないことと定めて代理を委任したのであるから右の範囲においてのみ代理権を授与したものである。ところが同弁護士は既述の如く建物全部の明渡を取り極めた調停に応じたのであつて、右は同人が原告から与えられていた代理権限を超えたものであるから原告に対し、その調停は効力がない。第五に、前示調停条項によれば原告から被告に本件建物の造作を売渡すこととし、その造作代金の支払の有無に拘らず原告は本件建物明渡義務を履行し、同時履行の抗弁をしないこととなつているが、右の取極めは、借家法第五条の規定に反する借家人に不利なものであるから右条項を内容とする本件調停は同法第六条によつて無効であるのは勿論、第六に、右の如き造作売渡の取極めをするには代理人において特別の授権を受けていることを要するものであるが、和田弁護士は造作を処分するについて、代理権を与えられていなかつたのであるからこの点からしても、調停は無効である。被告の抗弁事実中本件調停に際り原告が和田弁護士に対する委任事項として被告主張の文言を記載した原告作成の委任状を調停裁判所に提出していたことは認めるが、その余の点は否認すると述べた。<立証省略>
被告訴訟代理人は原告の請求を棄却するとの判決を求め、原告が昭和二十一年三月一日以降訴外味岡美惠子の所有に係る原告主張の建物を賃借居住して来たことは認めるが賃貸人は美恵子の母である被告である。而して被告が昭和二十二年二月十三日自己使用の必要を理由として原告を相手取り東京地方裁判所(当時東京区裁判所)に借地借家調停法に基き原告主張の調停申立をなし同庁昭和二十二(年)ユ第一五号事件(調停調書は同年(ユヨ)第一五号事件となつている)として係属したが調停手続進行の結果、昭和二十三年二月二十六日原被告間に原告主張の条項を含む調停が成立したこと、右調停に際り原告において弁護士和田亀太郎を、その代理人に選任して、調停事件処理に当らせたことは認めるがその余の原告主張事実はすべて否認する。と述べ抗弁として仮に原告主張のように和田弁護士の代理権に制限が加えられてあつたとしても原告から調停裁判所に提出された代理人選任を証する委任状には和田弁護士に対する委任事項として「申立人味岡ミノ対自分間ノ東京区裁判所昭和二十二年(ユヨ)第十五号借地借家調停事件ノ相手方トシテノ一切ノ件」と記載されているので右委任状の提出により原告としては第三者に対し借地借家調停事件において通常予想される一切の事項について無制限の代理権を与えたことを表示したものであるが、本件調停条項は通常調停事件の範囲内の事項についての取極めに属するので、原告において本人としての責を免れることはできないと述べた。<立証省略>
三、理 由
原告が昭和二十一年三月一日以降訴外味岡美惠子の所有に係る原告主張の建物を賃借居住したことは本件当事者間に争がない。
原告は右建物の所有者は味岡美惠子であり、同人が賃貸人であり被告ではないと主張し、その建物が美惠子の所有に属することは前示の如く争がないので特段の事情がない限り所有者が貸主となることは推定できるわけであるが、被告が美惠子の母であることは当事者間に争がなく、成立に争のない甲第三号証により明なように、昭和二十一年の本件賃貸借契約当時においては、被告の親権を離れて間もないので事実上、母である被告が対外的交渉に当つていたであろうことも容易に推定し得ることであり、上叙事実と甲第五号証の存在、原告の署名捺印の成立に争なく、その余の部分については証人桜井惣三郎の証言により真正に成立したと認められる乙第一号証、証人桜井惣三郎、高野市三郎の各証言並に原被告に対する各本人訊問の結果を綜合すれば、原告主張の建物は昭和十八年頃日本橋区が区役所の職員寮として賃借したものであつたが、後になつて原告所有家屋を職員寮として使用することとなつたので、区役所の斡旋で、従来職員寮としていた本件建物を原告において賃借することとなり、区役所で甲第五号証の建物賃貸借契約書の草案を作つて呉れたが、右草案の作成に当つた吏員は家屋台帳により本件建物の所有者が味岡美惠子であることを知り同人を貸主として作成したところ、被告は予て右建物の管理を委任していた訴外桜井惣三郎から、その草案を示され、その草案による賃貸借には応じ難いとして、被告が別に作成した被告を賃貸人とする第一号証の賃貸借契約書を桜井を通じて原告に呈示し、これに署名捺印を求めたので原告においてこれに応じたものであり、原告としては、被告を賃貸人とする意思の下に賃貸借契約を結んだものであることが認められ、右認定に反する証拠はない。
して見れば右賃貸借契約は原被告間に成立したものであるから被告が賃貸人でないことを前提とする原告の第一の主張は理由がない。次に被告が昭和二十二年二月十三日自己使用の必要を理由として原告を相手取り東京地方裁判所(当時東京区裁判所)に借地借家調停法に基き原告主張の調停申立をなし、同庁昭和二十二年(ユ)第一五号事件(調停調書は同年(ユヨ)第一五号事件)として係属し、調停手続進行の結果昭和二十三年二月二十六日原被告間に原告主張の条項を含む調停が成立したことは当事者間に争がない。そこで原告の第二の主張について考える。借地借家調停法第一条に「借地借家関係ニ付争議ヲ生シタルトキ」は調停の申立をすることができる旨規定しているのは観念上、調停はその前提として争議の存在を予定していることを指示しているにとどまるのであつて、つまり争議のない場合には事実上調停の必要もないし調停など起り得ないとゆう意味であつて時間的関係で、先づ争議があつてその後に調停が来る場合でなければ調停の申立が不適法になるとゆう趣旨のものではない。調停とゆう制度は当事者間だけでは話がまとまりそうもないと思われるときに、調停裁判所の力添えで話をまとめて貰うための手軽な制度であり、調停申立前に争議の存在が確実でなく、単に見込だけのものであつても、調停手続進行の結果争議の存することがわかれば、調停の必要もあり調停成立の余地もあるわけである。若し調停手続進行の結果争議がないとゆうことが判然となれば、調停の必要もないから調停申立は取下げられるであろうし、又争議がないことが、はつきりしているのに調停の本旨を逸脱する目的で調停申立をしたものならば借地借家調停法第三条、第二十五条により調停裁判所はその申立を却下するし、調停委員会は調停をしない旨の決議をするだけのことで調停申立の濫用を妨止できる。要するに争議の存在は調停の観念上の前提であり、前示第一条はこのことを明にしたにすぎない。
ところで本件においては甲第三号証、証人和田亀太郎、味岡七郎の各証言並に被告本人訊問の結果によれば被告が本件建物を原告に賃貸した当時応召中であつた美惠子の夫訴外味岡七郎が帰還したので、被告から右建物は被告一家で使用する必要があるから明渡して欲しいと原告方に申入れたのに対し原告はこれを拒絶しており、賃貸借建物の明渡について調停申立前すでに原被告に争議があつたばかりでなく、調停申立後、調停手続中においても、明渡の時期、造作買取請求権の有無、造作代金等に関し当事者の言分にへだたりがあつて、容易に話合がつかなかつた程の争議があつたことが認められるので、争議がないのになされた調停申立に基く調停であるから無効であるとゆう原告の第二の主張も理由がない。
次に原告は本件調停は原告の代理人和田亀太郎が賃貸借契約が存続しているのに錯誤により右契約が終了したものと誤信したため調停条項を受諾したものであるから無効であると主張するので、この点について考えると、調停に際り原告が弁護士和田亀太郎を代理人に選任して調停事件の処理に当らせたことは当事者間に争がないけれども原告の代理人が調停条項を受諾したのは賃貸借契約が法律上終了しているものと信じたためであるとゆうことは、本件全証拠を以てしても認められないので右事実の存在を前提とする原告の第三の主張も理由がない。
よつて原告のその余の主張について考える。
原告が和田弁護士を代理人に選任するに際り原告の云うような代理権の範囲を限定した事実はこれを認め得る何等の証拠がないばかりでなく、原告から同弁護士に対する委任事項として被告主張の文言を記載した委任状が調停裁判所に提出されていることは原告の認めるところであり、右事実と証人和田亀太郎の証言とを綜合すれば和田弁護士は本件調停事件の処理に関して原告を代理して賃借人として処置し得る一切の権限を与えられていたが、本件調停条項は、原告と原告の内縁の夫との協議の上定めたものが基礎となつており、原告の承諾を得た上で代理人において調停条項を応諾したものであることが認められる。
甲第八号証は成立に争はないが同号証だけで右認定を左右し得ないし、原告本人訊問の結果中右認定に反する部分は信用できない。右認定の事実からするときは、原告の第四の主張が理由がないのは勿論、造作売渡条項を取極めるについて特別の授権の必要が仮にあるものとしても前示の如く原告の承諾の下に調停条項を受諾した代理行為の有効であることは云うまでもないので第六の主張も理由がないことは明かである。
そこで更に原告の第五の主張について考える。
借家法第五条には賃借人が賃貸人の同意を得て賃借建物に対し附加した造作等に限り賃借人において買取請求をなし得る旨を規定し、同法第六条により右規定に反する約定であつて賃借人に不利なものは約定がないものと看做す旨規定しているが、その法意は賃貸借の締約、更新等にあたり賃貸人が家屋の必要に迫られている借手を強要して買取請求をしない旨の約定をさせるようなこととなつては、折角第五条の規定を設けた目的が達せられないことになるので、その約定を存在しないものと看做すこととしたのであるが、賃貸借を存続させないこととし、賃貸借契約の終了を前提としてその跡始末をつける段になれば、最早賃借人において、何等の圧迫も感じないわけであるから、その際買取請求権自体を抛棄することさえも、何等借家法の禁ずるところではない。(大審院昭和五年(オ)第八七三号は同趣旨を明にしている。)まして、造作代金(これは造作引渡と同時履行の関係に立つが家屋明渡とは同時履行の関係には立たないとするのが従来の判例の態度であるけれどもその点は暫らく措く)の支払方法について、建物の明渡と関連させない旨の約定をしたからとて、右約定を無効としなければならない理由はない。
ところで本件では賃借人が賃貸借契約の終了を認めて建物を明渡すことを趣旨とする調停が成立したものであることは原告の主張自体により明であり、又証人和田亀太郎の証言により明なように、本件調停手続においては原告が家屋に附加した造作については、賃貸人の承諾の下になされた造作なりや否について争があり、その評価についても、複雑な方法が協定されたのであるから、このような事情の下で、建物の明渡と造作代金の支払とがその期日を異にする約定がなされたからとて、この約定はもとより、この約定条項を含む調停が無効となる理由はなく、この点に関する原告の主張も排斥を免れない。
以上原告が本訴請求の原因とする主張はすべて、その理由がないので本訴請求を失当として棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用して主文の通り判決する。
(裁判官 毛利野富治郎)