東京地方裁判所 昭和27年(タ)232号
主文
原告と被告とを離婚する。
原告と被告間の長女幸子の親権者を原告と定める。
訴訟費用は、被告の負担とする。
事実
原告訴訟代理人は、主文同旨の判決を求め、その請求の原因として、
一、原告は、昭和二一年五月被告と結婚式を挙げ爾来同棲し、昭和二二年七月九日に婚姻の届出をした。尚その間昭和二二年三月二五日に原被告間に長女幸子が生まれた。しかし原告は、次のような事由で被告との婚姻生活を続けて行くことができない。すなわち、
(一) 被告の性格は、非常に強情で且つ甚しく女性としての情味に欠け、また、東京女子高等師範学校卒業という学歴を鼻にかけて原告を軽視し、そのため結婚当初より事毎に原告と対立し、原告が反省を促しても口答えなどして一向に反省せず、また原告の母に対しても嫁としての従順さが全くなく事毎に反抗的態度に出る有様であり、長女幸子に対しても母としての愛情に乏しく幸子も母である被告になつかず、これがため家庭の円満は全く得られなかつた。
上述の被告の性格の一端を示すため、二、三の例を挙げるならば、(イ)原告の父が昭和二三年四月一二日病死したが、その病臥中、被告は、自身の病気静養を口実に実家に帰り、原告の父危篤の知らせにも帰宅に応ぜず、一二日死亡した際も再度にわたつて帰宅を促したにもかかわらずこれに従わず、結局通夜にも告別式にも参列しなかつた。(ロ)また、被告は、原被告の口論を仲裁しようとした原告の母を突き飛ばして、けがをさせたことがあり、なお、後に記載する原告の家出後には、被告は、別居先を訪れて原告の首を締めたり、原告の母と口争いの果子供の玩具箱を原告の母に投げ付けて母の顔面に打撲傷を与えたりするに至つた。(ハ)被告が原告の母に長女幸子の子守代として三千円差し出したことがあつたが、原告の母がこれを拒絶するやその目の前でこれを破り捨てた。
(二) かくて、原告は被告の前述のような性格及び被告と原告の母との対立のため、被告との同棲に堪えられず、昭和二五年五月、当時の住居品川区五反田二丁目○○○番地を出て原告の母の実妹の天知民子方に同居し被告と別居するに至り、爾来被告と同棲生活を営んでいない。
二、叙上の事実は、原告にとつて、被告との婚姻を継続し難い重大な事由にあたるものというべきであるから、被告との離婚を求める。なお原被告の長女幸子は、既に数年原告方に於て監護及び教育の任に当り原告になついて目下小学校に通学中で、被告には母親としての愛情をいだいていないから、右幸子の親権者は原告と定められたいと述べ、原告の主張に反する被告の答弁事実を否認し、
立証として甲第一、第二号証を提出し、証人稲田キミ、同小林友子、同天知昌子、同天知民子及び同天知道子の各証言並びに原告本人尋問の結果(第一回乃至第三回)を援用し、乙号各証の成立を認めた。
被告は、原告の請求を棄却するとの判決を求め、答弁として、
原告が請求の原因として主張する事実中、原告と被告が昭和二一年五月結婚式を挙げて爾来同棲し昭和二二年七月九日婚姻の届出をしたこと、同年三月二五日に原被告間に長女幸子が生まれたこと、原告の父が昭和二三年四月一二日病死し、その際被告が実家に帰つていて、通夜、告別式に参列しなかつたこと、原告の母に三千円渡した際、原告の母が受け取ることを拒んだので被告がその紙幣を破り捨てたこと、原告が昭和二五年五月家出し天知民子方へ同居し、その時以来、原被告が別居していることはみとめるがその余の事実は否認する。原告の父死亡の際の事情は被告が流産したため帰宅しようにも帰宅できなかつたものである。現在、原被告が同棲せず、円満な家庭生活を営んでいないことは事実であるけれども、これは、原告が自らの母及び妻子を捨置いて家出したためであり、しかも家出の原因は、原告が天知民子方に赴いて民子の次女道子と同棲生活をするためであり、そして爾来同女と同棲して今日に至つているためであるから、原告の本訴請求は失当であり、被告は、両親の離婚から長女幸子にもたらされる不幸を見るにしのびない、原告が非を悟り再び被告のもとへ帰つてくる日をただ待つのみであると述べ、
立証として乙第一乃至第九号証、第一〇号証の一乃至五及び第一一、一二号証を提出し、証人松井俊男、同小林五郎、同天知昌子、同細田太郎、同川上三重、同由利成男及び同天知道子の各証言並びに原被告本人の各尋問の結果(但し、原告本人尋問の結果は、第三回のみを捨用)を援用し、甲号各証の成立を認めた。
理由
一、原告と被告とが昭和二二年七月九日婚姻届をした夫婦であること、原被告間に昭和二二年三月二五日長女幸子か生まれたことは、公文書であるからその成立を認め得る甲第一号証(戸籍謄本)によつて明らかであり、証人小林友子、同天知昌子(但し、後記措信しない部分を除く。)、及び同天知民子の各証言並びに原被告本人尋問の各結果(原告本人については、第一回乃至第三回、なお、後記措信しない部分を除く。)を綜合すると次の事実をみとめることができる。すなわち、
原告と被告は、竹田則昭夫婦の媒酌で見合をし、互いの人柄、性格などを知るに充分な交際の期間もないまま、結婚の式を挙げ、荻窪で原告の母と同居して原被告の結婚生活が始められたが、原告が気性が弱く物事に消極的であるのに対し、被告は生来気性が強く、この二人の性格の相違に基く夫婦の精神的な違和に加えて、同居していた原告の母もいずれかといえば勝気な性質であり、被告と原告の母は、自然互に我を張り、その間にあつて原告は、消極的態度を持するため、結婚後間もなく、原告と被告、被告と原告の母との間に風波が絶えない状態になつた。(もつとも、被告が原告及び原告の母に対して暴行を加えたとの点については、原告の主張に副う証人天知昌子の証言及び原告本人尋問の結果((第一回))は、にわかに措信し難く、他にこれを認めるに足る証拠は存在しない。)時が経つにつれ、原被告間の溝は漸次大きくなり、昭和二三年四月原告の父が病死した際には、その数日前に病気静養のため実家に帰つていた被告が、通夜、告別式にも原告方に帰宅しなかつたことや、その後、被告が原告の母に長女幸子の子守代として三千円渡そうとしたところ原告の母がこれを拒絶したので、被告が原告の母の面前で、口惜しさの余り右紙幣を破り捨てたことなども加わつて、原被告の家庭生活は荒んでいつた。原被告及び原告の母等が荻窪から五反田に転居して後、昭和二五年五月、原告は、荒んだ家庭生活に堪えかね、単身家出して、原告の母の妹である天知民子方へ同居し被告とは別居するに至り、昭和二七年には、原告の母及び被告は、土地区画整理の関係で五反田の家に続けて住むことができなくなつたので、結局、原告の母と幸子は、原告が新築した藤沢市辻堂の住居に移り、被告は、実家に帰つた。
原告は、原告の母が病気になつたので、昭和三〇年五月に神奈川県藤沢市辻堂の現住所に帰つたが、被告との別居生活は今日まで続いている。しかして、被告は、いまなお、本件婚姻関係の継続に望みをかけているけれども、原告は、もはや、被告との婚姻関係を維持する気持をもつていない。なお、被告は、原告が家出をしたのは、天知道子と同棲するためであり、しかも今日まで同女と同棲していると主張するが右事実を認定するに足る明確な証拠は存在しない。
二、右に認定した事実関係に徴すれば、原告については、自らの母、妻子を捨置いて一人家を出るなど、自己の母と被告との間の融和を図るための配意等婚姻維持の努力においてまだ足らなかつた嫌があるけれども、原告は、元来、消極的な性格であり、他方、被告については、余りにも冷く鋭く、自己の正しさを信ずること厚い性格であり、そのため原被告は和合することができず、原告も家出のやむなきに至り、かくして、原被告の婚姻関係は、破綻したものというべきであり、原告と被告とは、もはや、円満な家庭生活を営むことができないものと断ぜざるを得ない。
はたして、しからば、原告にとつて、被告との間の婚姻関係を継続し難い重大な事由があるものというべく、原告の本件離婚の請求は、正当として容認すべきである。
三、なお、原被告が離婚した後の長女幸子に対する親権者を誰にすべきかを考えて見るに、原告本人尋問の結果(第三回)によれば、原被告別居後は幸子は原告の母友子の許で育てられ、爾来原告方において学校に通学させ、友子死亡(昭和三一年一二月)後も、幸子は、原告、原告の妹及び女中に世話されて、つつがなく成人しつつあるのであり、原告は、将来もその手もとで育てたい希望をもつていることが認められるから、右幸子に対する養育監護を含む親権は、原告にこれを行なわせるのが適当とみとめ、この点について人事訴訟法第一五条を、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。