大判例

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東京地方裁判所 昭和28年(行)69号 判決

原告 原瀬規

被告 国

一、主  文

原告は日本の国籍を有しないことを確認する。

訴訟費用は被告の負担とする。

二、事  実

原告訴訟代理人等は主文と同旨の判決を求め、請求の原因として次のとおり述べた。

原告は大正七年十二月二十九日アメリカ合衆国カリフオルニヤ州ロスアンゼルス市において、日本人原瀬半三郎を父、同原瀬ヨシを母として生まれ、日米両国籍を取得したが、昭和十三年十月十七日日本国籍を離脱して米国籍のみをもつこととなつた。その後原告は昭和十六年三月日本に渡来したが、昭和十八年四月二十日原告名義で内務大臣に対し国籍回復願が提出され、同年十一月十九日その許可が与えられた結果、原告が横浜市中区豆口台三九番地に一家を創立した旨戸籍簿に記載されている。

しかし右の国籍回復許可願が提出され、これに対し許可が与えられるに至つた事情は次のとおりである。

原告は将来米国において米国人として電気事業に従事することを生涯の目的と定め、前記のとおり昭和十三年十月十七日日本国籍を離脱するかたわら、カリフオルニヤ大学工学部電気料を専攻し、昭和十五年十二月同大学を卒業した。そして、昭和十六年三月、亡父の日本における事業の整理をする目的で、母とともに往復六ケ月間の予定で日本に渡来した。日本に渡来しても再び米国に戻る予定であるから、原告の家財道具及び工作機械等一切は米国の倉庫会社に預けておいた。ところが父の事業整理のために予想以上の時間を費し、日本滞在が長びいている間に第二次世界大戦が勃発し、帰米が不可能となつたので、原告はやむをえず横浜市中区豆口台三九番地に借家して、横浜駅附近の医療器械工場の共同経営に当つていた。

当時官憲はたえず原告を監視し、殊に神奈川県警察部外事課勤務隅田明、山手警察署外事係勤務木下見蔓の両警察官は、しばしば原告宅を訪問し、管下在住のいわゆる二世米人が日本国籍を回復して二世の名簿から削除されてゆくのを示して、原告の日本国籍回復を強要し、国籍を回復しなければ横浜から追放するとか、二世収容所に収容するとかいつて脅かしたので、原告は非常な脅威におそわれた。その上原告については旅行の自由は認められず、届出をしてもすぐには許可されない状態であつた。昭和十七年暮から昭和十八年にかけて、監視は愈々厳しくなり、憲兵警察官はいずれも月に四、五回は原告宅を訪れ、あるいは原告を呼出して、国籍回復を迫つたが、原告としては国籍回復を欲しなかつたので拒み続けた。ところが前記の警察官等は管下在住の他の二世が次第に日本国籍を回復してゆくにも拘らず、原告が二年たつてもその態度を変更しないのは甚だ不都合であると難詰し、山の方へ追放すると原告を威嚇した。横浜から追放されれば前記の工場経営に当ることができなくなつて生活費を得る唯一の手段を奪われるし、その上日本にきて以来食糧事情の変化のため、胃腸を害して極度に衰弱していた事情があつたので、原告は全く進退に窮した。

右の窮状を見るに見かねた原告の母は、遂に警察官に対し原告をして国籍回復に応じさせると返答するに至つたので、原告も従来の態度をそのままの形で押しとおすことができなくなり、昭和十八年四月二十日母が国籍回復願の書類を作成させて警察署に提出するのを心ならずもそのまま見送つた。その後また、右の回復願の手続では不充分であるということで、原告と母とが憲兵隊に呼出されて誓約書の提出を命ぜられたので、原告の母は、前同様誓約書を作成させて自から捺印し、同年十月二十五日警察署に提出した。その結果、同年十一月十九日原告に対して日本国籍回復の許可が与えられたのである。

原告としては終始一貫日本国籍の回復を欲していなかつたが、右のとおりの事情の下にあつたので、母のする国籍回復のための右の各書類の提出を心ならずも阻止することができなかつたのである。即ち本件国籍回復願は原告の意思によるものでないから無効であり、従つてこれに対して与えられた回復の許可もまた無効である。しかるに、原告は国籍を回復して日本人になつたものとして扱われているのであるから、原告が日本の国籍を有しないことの確認を求める。

かように述べた(立証省略)。

被告指定代理人等は、「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、次のとおり答弁した。

原告がその主張の日時場所で日本人原瀬半三郎を父、同原瀬ヨシを母として生まれ、日米両国籍を取得したこと、原告主張の日に原告が日本国籍を離脱して米国籍のみを有するに至つたこと、原告主張の日内務大臣あて原告名義で国籍回復願及び誓約書が提出され、原告主張の日に原告に対して国籍回復の許可が与えられたこと、その結果原告が横浜市中区豆口台三九番地に一家を創立した旨戸籍簿に記載されていることは認めるが、原告名義の右国籍回復願が原告の意思によるものでないということは否認する。原告の経歴等についての原告主張の事実は知らない。

かように述べた(立証省略)。

三、理  由

原告が大正七年十二月二十九日アメリカ合衆国カリフオルニヤ州ロスアンゼルス市において、日本人原瀬半三郎を父、同原瀬ヨシを母として生まれ、日米両国籍を取得し、その後昭和十三年十月十七日日本国籍を離脱して米国籍のみを有することとなつたこと、原告名義で内務大臣あて昭和十八年四月二十日国籍回復願が、同年十月二十五日誓約書が提出され、同年十一月十九日これに対して国籍回復の許可が与えられたこと、その結果原告が横浜市中区豆口台三九番地に一家を創立した旨戸籍簿に記載されていることは、当事者間に争いがない。

証人隅田明、同木下見蔓、原告本人の各供述と甲第六号証(真正にできたことに争いがない)とを合せ考えると、次のとおり認めることができる。

原告は昭和十六年三月母とともに六カ月滞在の予定で日本に渡来したが、その目的は亡父の日本における医療器械事業の整理をするためであつたので、家財道具等は米国の倉庫会社に預けておいた。ところが特許権の登録名義の変更手続等のため、整理に意外の日数がかかつているうちに、日米間に戦争が勃発し、帰米は不可能となつたので、原告はやむをえずそのまま横浜市内の医療器械工場の共同経営に当つていた。その頃から原告に対する官憲の監視が続けられ、特に当時の神奈川県警察部外事課米国係勤務隅田明及び同県警察部所轄山手警察署勤務木下見蔓の両警察官は、原告と母とが借家をして居住する横浜市中区豆口台三九番地が内務省令により防諜上甲地区(同地区内に居住する外国人に対しては同省令により移転命令が発せられていた)に指定されていた関係から前後十数回にわたり原告宅を訪問して、原告に対し日本国籍の回復を勧告し、管下在住の二世が国籍を回復して二世の名簿から削除されてゆくのを示し、国籍を回復しなければ、直ちに同地区より立退き軽井沢へ移転せよ、と命じた。殊に前記木下はその際、国籍を回復せずしかも期限内に立退かなければ、収容所にいれるか処罰する、と強硬な態度を示し、又旅行申請の許可については二度与えるところを一度だけ与えるなどのいやがらせを行い、約六カ月間原告を監視尾行した。原告としてはできるだけ早く帰米したい気持が強く、日本国籍を回復する意思はなかつたのであるが、右の官憲の監視勧告によつて非常な心理的圧迫を受けた。そして横浜を離れては生活の手段を奪われることをおもい、母とともに将来の生計に不安を抱き、その上馴れぬ食事によつて胃腸を害し、健康を損じ、全く窮地に追込まれた。当時原告が日本語に未熟であつたために、右の官憲との応援の時は必ず原告の母が立会つていたが、原告の母は将来に対する生活の不安に悩み、且つ右の原告の窮状を見るに見かね、かつは親子が離別するようなことになつてはとおそれ、遂に官憲に対し原告を国籍回復に応じさせる旨回答するに至り、昭和十八年四月二十日自から原告名義の国籍回復願の申請書類を作成させて捺印し、これを当局へ提出した。原告はこれを見てはいたが、前記窮地に陥つていたので敢えて母の処置に反対することができず、そのまま見送つた。その後同年十月憲兵隊から呼出があつて、原告と母とが出頭したところ、内務大臣あて誓約書を提出するようにとのことであつた。このときも原告の母は前と同じように同書類を作成捺印して提出した。

以上のとおり認めることができ、この認定を動かすに足りる証拠はない。

即ち、本件国籍回復願及び誓約書はいずれも原告の母が作成提出したのであり、原告は度重なる官憲の圧迫による畏怖と横浜を離れることによる生計の不安とから、心ならずも阻止することができなかつたものであるから、右国籍回復申請は原告の意思にもとづくものではないのであつて、無効である。

従つて前記国籍回復申請が有効であることを前提とする昭和十八年十一月十九日の内務大臣の国籍回復の許可も無効であり、結局原告は現在日本国籍を有しないというべきである。しかるに原告は回復によつて日本国籍を取得したとされているのであるから、本訴については確認の利益があるこというまでもない。

よつて原告の請求を認容し、訴訟費用の負担について行政事件訴訟特例法第一条民事訴訟法第八十九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 新村義広 入山実 石沢健)

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