東京地方裁判所 昭和29年(ヨ)2415号 判決
債務者が、昭和二十四年十月七日、特許庁に対し、別紙目録記載のような完全無瓦斯導火線の発明について特許出願し、昭和二十六年六月十二日公告手続を経て、昭和二十九年一月十六日右特許の登録を受けた(登録番号第二〇三四四九号)ことは、当事者間に争がない。
債権者は、右特許出願の日たる昭和二十四年十月七日当時、現に、善意に、国内において、右特許発明と同一発明につきその実施の事業をし又はその事業設備を有していたものであるから、特許法第三十七条に定めるいわゆる法定実施権を有するものである旨主張するので、按ずるに、そもそも、最先願主義を採用する現行特許法が、その第三十七条において、あだかも最先発明主義をとる場合におけるように、特許出願の際、現に、善意に、国内において、特許発明と同一発明の実施事業を営み、又は事業設備を有するものに、いわゆる法定実施権を付与している所以のものはもし最先願主義を貫き通すならば、特許出願の際、現に、善意に他人の出願にかかる特許発明と同一発明を利用して、製作、使用、販売、拡布等実施事業を営み、又は、その設備を有する者の既存の事業もしくは設備を無用廃絶に帰せしめ、ひいて、国家経済の見地からしても不利を招来する虞れがあるところから、このような結果を防止する目的をもつて、右特許発明と同一発明の利用者に対し、その利用の範囲内において、なお従前どおり、これを利用する権利、すなわち実施権を付与し、特許権者の権利と右先用者の権利との調整を図ろうとするにあることは明らかである。従つて、前示法条にいわゆる「実施の事業をなすもの」とは、特許発明と同一発明を利用して、その発明にかかる物を製作(方法の発明における方法の使用を含む。以下同じ。)、使用、販売、拡布するものをいい、また、同条にいわゆる「実施の事業設備を有するもの」とは、右発明を即時に実施しようとする意思を有し、かつ、その意思の客観的表明としての施設を有するものをいい、単に特許発明と同一発明をなすべく研究中のものは勿論、右発明をしたものであつても、その実施をしないもの又はこれを即時に実施しようとする意思を有しないもの、もしくは、その意思を有していても、それが客観的に表明された施設を有しないものなどは右法条にいわゆる実施の事業をなし又は事業設備を有するものには該当しないものと解するを相当とする。いま、これを本件についてみるに、(一)本件弁論の全趣旨に徴し真正に成立したと認める甲第五十八号証の四によれば、債権者が、昭和二十四年二月十一日株式会社米井商店(以下単に米井商店という。)から、見本品として、不燃性糸条であるグラスヤーン八十番手約六十米、三十番手約百米の送付を受けたことが、一応、認められるけれども、成立に争ない乙第二十八号証の二及び弁論の全趣旨によれば、右のような番手のグラスヤーンでは、本件導火線の被覆はできないものであることが推認される。(二)本件弁論の全趣旨に徴し真正に成立したと認める甲第二号証、同第三十八号証の二、同第五十八号証の五及び同第六十九号証の二によれば、債権者が米井商店から昭和二十四年五月六日に約千二百番手一・〇四瓩、二百番手〇・三瓩、同年九月十七日頃約千二百番手三瓩、二百番手〇・五瓩、同月二十六日に約千二百番手六瓩、二百番手一瓩のグラスヤーンをそれぞれ購入したことが、一応、認められるが、前顕乙第二十八号証の二によれば、債務者において本件導火線の研究に着手以来その発明完成に至るまでの間に消費したグラスヤーンの量は、約三、四十瓩であつたことが窺われる。(三)右乙第二十八号証の二によれば、無瓦斯火導薬を導火線形式に被覆する場合には、その被覆材料の如何にかかわらず、黒色火薬導火線を被覆する場合よりも口径の大きい薬臼と中臼を被覆機に使用しなければならないことが疏明され、成立に争ない甲第七十二号証の三によれば、債権者が従来黒色火薬導火線の被覆に使用していた薬臼を口径の大きい薬臼に始めて取り替えたのは、昭和二十四年六月頃であつたこと、債権者の無瓦斯火導薬を導火線形式に被覆する研究過程において、グラスヤーンで被覆するようになる以前に、麻糸で被覆した時代があつたことが窺われるが、これらの事実によれば、債権者は、昭和二十四年六月頃に至つて始めて、無瓦斯火導薬を麻糸で被覆する実験に着手したことが推認される。(四)成立に争ない乙第二十九号証の四により真正に成立したと認める乙第七号証によれば、債務者は、昭和二十四年十一月から日本産業火薬会に対し本件段発電気雷管の製作数量を報告しているに対し、債権者が始めて右物件の製作数量を同会に報告したのは、昭和二十五年六月であることが明らかである。(五)成立に争ない乙第二十九号証の三によれば、火薬類その他の危険物を甲種炭坑の特免区域、乙種炭坑、金属鉱山等に設置使用する場合には、それが型式検定に合格したものであることは、必ずしも法規上要求されてはいないが、新製品が発明された場合には、型式検定に合格して、始めてその価値が一般に承認され、需要者も始めてこれを使用するに至るのが実情であるので、新製品が出来たときは、遅滞なく型式検定を受けるのが業界における一般的慣習であることが窺われるところ、成立に争ない乙第四号証によれば、債務者が本件段発電気雷管について型式検定に合格したのは、昭和二十五年一月三十日であることが一応認められるに反し、成立に争ない乙第六号証によれば、債権者が右同様の型式検定に合格したのは、同年八月三十日であることが明らかである。上記(一)から(五)の各事実と、当事者間に争のない債権者が本件段発電気雷管の市販を開始したのが昭和二十五年六月である事実及び弁論の全趣旨とを総合して考えると、債権者は、昭和二十四年十月七日当時においては、前記グラスヤーンを使用し既存設備を利用して無瓦斯火導線を導火線形式に被覆する研究をしていたに止り、いまだ本件導火線及び段発電気雷管を製作、使用、販売、拡布等するに至つてはいなかつたのみならず、右物件を即時に製作、使用、販売、拡布等しようとする意思をもつて既存設備の転用の準備をし、もしくは新設備を設置する等その実施の具体的準備をするという段階にも至つていなかつたものと推認せざるを得ない。従つて、債権者は昭和二十四年十月七日当時、現に、本件特許発明と同一発明について、その実施の事業をなし又は事業設備を有したものということはできない甲第四号証の十、同第六、第七、第九、第十三、第十六、第十八、第二十、第三十九、第四十六、第五十二、第六十七号証、同第七十二号証の二から五、同第七十三号証の二の各記載中、債権者の前記主張に符合する部分は前掲の各事実及び本件口頭弁論の全趣旨に照らし、たやすく信用することができない。もつとも、前顕甲第七十二号証の三により真正に成立したと認める甲第五十七号証によれば、昭和二十四年八月二十二日、債権者会社小倉作業所において、無瓦斯火導薬を導火線形式に被覆する作業中に火薬の発火事故が発生したことは、一応認められるが、右事故が無瓦斯導火線をグラスヤーンで被覆中に発生したものであることについては、甲第七十一号証の二の記載中にこれに符合するような記載部分があるけれども、右記載部分は前顕乙第二十九号証の四により真正に成立したと認める乙第十六号証の二の一、三及び証人石原資郎の証言により、いずれも真正に成立したと認める乙第二十四号証の二、第二十六、第二十七号証並びに成立に争のない乙第二十五号証の二の二に対比し、にわかに措信しがたく、他に右事実を認めるに足る適確な疏明資料はないから、いまだもつて、債権者が当時本件導火線の製造とくに事業として製造をしていたとすることはできない。また、甲第五号証の三、第四十一号証から第四十三号証及び同第四十九号証の一、二には、それぞれ、昭和二十四年五月頃から同年十一月頃までの間において、債権者製作にかかる「新段発電気雷管」あるいは「無瓦斯段発電気雷管」と称するものの実用試験が行われた旨の記載があるけれども、成立に争のない乙第二十号証及び弁論の全趣旨に徴すれば、昭和二十四、五年当時、業界においては、「新段発電気雷管」あるいは「無瓦斯段発電気雷管」といえば、無瓦斯火導薬を芯薬とし、これを不燃性糸条で被覆した導火線を延時装置に使用した段発電気雷管を指すものとは限らず、無瓦斯火導薬を芯薬とし、これを通常の導火線と同一の被覆材料、例えば麻糸で被覆した導火線を延時装置に使用した段発電気雷管も、一般に、「新段発電気雷管」あるいは「無瓦斯段発電気雷管」と呼ばれていたものであることが窺われ、この事実に弁論の全趣旨を斟酌して考えれば、前記各記載をもつて、直ちに債権者が、その主張の頃、本件段発電気雷管の実用試験を行つたとの疏明があつたものとはなしがたい。その他本件口頭弁論に現われたすべての疏明方法によつても、債権者が昭和二十四年十月七日当時本件特許発明と同一発明の実施事業をなし又は事業設備を有していたとの事実を疏明することができない。従つて、右事実の存在を前提とする債権者の本件仮処分申請は、その余の点について判断するまでもなく、すでにこの点において疏明なきに帰し、もとより保証をもつてこれに代えることも適当とは認められないので、これを却下する。