東京地方裁判所 昭和31年(ワ)1123号 判決 1958年6月26日
原告 有限会社巨人商会
被告 土屋新一
主文
一、被告は原告に対し金十万円及びこれに対する昭和三十一年二月二十七日以降右完済に至るまで年六分の割合による金員を支払え。
二、原告その余の請求を棄却する。
三、訴訟費用は二分しその一を原告の負担としその余を被告の負担とする。
四、この判決は原告において金二万円の担保を供するときは主文第一項に限り仮に執行することができる。
事実
原告訴訟代理人は「被告は原告に対し金二十六万円及び内金二十二万円に対しては昭和三十一年二月二十七日から、内金四万円に対しては本件判決確定の日の翌日から各完済に至るまで年六分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告負担とする。」との判決並びに仮執行の宣言を求め、その請求の原因として、
一、原告は麺類の製造販売を業とする商人であるがその営業に使用するため、昭和二十八年六月二十二日訴外吉田益雄よりその所有にかゝる東京都中野区川島町十一番地、家屋番号同町十一番の三、木造スレート葺二階建店舗一棟、建坪六十八坪六合二勺、二階七十一坪二合(通称ひかり市場)のうち階下第一号店舗(以下本件店舗という)を、敷金及び権利金各金十万円、賃料一日金百円毎日払の約定にて期間の定なく賃借した。そして原告は前記訴外吉田に対し右権利金十万円は即日全額支払い、敷金十万円は同年七月二日より同年十一月三十日まで一日金五百円の割合による日掛払にて合計金六万四千五百円を支払い、残額金三万五千五百円は同年十一・十二月に二回に分割して支払い全額を差入れた。
二、ところが本件店舗を含む右ひかり市場は昭和三十年三月二十三日前記訴外吉田と被告との間の売買によりその所有権は被告に移転し、被告は東京法務局中野出張所同月二十四日受付第三七四六号を以てその所有権取得の登記を経由した。従つて被告は原告の賃借する本件店舗の賃貸人たる地位を当然に承継したものである。
而して右承継の当時において原告は旧賃貸人たる訴外吉田に対して延滞賃料その他何らの債務もなかつた。
三、その後原告は本件店舗における営業を廃止するに至つたので昭和三十年九月三十日頃被告との間に本件店舗賃貸借の解除契約を結び同日限り本件店舗賃貸借は終了した。仮りに而らずとするも原告は右同日被告に対し本件店舗の賃貸借の解約の申入をなしたものであるから同日から三ケ月を経過した同年十二月末日限り本件店舗の賃貸借は終了した。
四、従つて原告は被告に対し本件店舗の賃貸借の終了を原因として前記敷金金十万円の返還を請求しうることは勿論であるが、更に前記権利金についても右は本件店舗の所謂場所的利益の対価であつて原告が旧賃貸人たる訴外吉田より買受けた無形的な一種の造作と解すべきところ、本件店舗の賃貸借終了の当時におけるその時価は少くとも金十万円を下らないものであるから借家法第五条に基き原告は被告に対し右の場所的利益(即ち権利金)を金十万円を以て買取るべきことを請求することができると謂うべく、仮りに右権利金が借家法第五条に謂う造作に含まれないとして本件権利金はその授受の当初から賃貸借終了の際は当然賃貸人において返還すべき性質を有していたものであり、被告は旧賃貸人たる訴外吉田から右権利金に関する契約上の地位を承継しているものである。
五、そこで原告は被告に対し昭和三十年九月三十日頃右敷金金十万円の返還及び権利金金十万円の買取ないし返還を請求したのであるが被告は原告の右各請求に対し、いづれも不当に否認抗争して之が履行をなさず、ために原告は昭和三十一年二月本件訴訟の提起を余儀なくされ、その訴訟追行の必要上弁護士上野正秀に訴訟を委任してその着手金として金二万円を支払い、成功報酬として本件勝訴判決確定と同時に右請求金額合計金二十万円の二割に当る金四万円を支払うべき債務を負担した。
右は即ち被告が本件訴訟に不当に応訴抗争して原告の前記債権を侵害した不法行為に因り原告の蒙つた消極的損害と謂わねばならない。
以上により原告は被告に対し、前記敷金及び権利金に関する合計金二十万円の請求権に併せて、被告の不法行為を原因とするその損害合計金六万円の損害賠償請求権を有する。
よつて原告は被告に対し以上合計金二十六万円並びに右はいづれも商人たる原告の商行為により生じた債権であるからそのうち金二十二万円に対しては本件訴状送達の日の翌日から、金四万円に対しては本件訴訟の判決確定の日の翌日から各完済に至るまで商法所定の年六分の割合による遅延損害金の支払を求めるため本訴請求に及んだ。と述べ被告の主張事実をいづれも否認し、
立証として、甲第一、二号証、第三号証の一、二、第四号証、第五号証の一ないし三、第六ないし第十号証を提出し、証人荻原嘉雄、同吉田正、同神田勘十郎、同吉田かつ江、同関綾子、同田中しまの各証言及び原告代表者田中七五郎の本人尋問の結果竝びに鑑定人平野晃の鑑定の結果を援用し乙号各証の成立はいづれも認めると述べた。
被告訴訟代理人は「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、答弁として、
原告の請求原因の一については、原告と訴外吉田との間に敷金及び権利金各十万円の約定及びその授受があつたことは否認しその余の事実は認める、二は認める、三は否認、四はいづれも争う、五については被告が原告の請求に応じなかつたことは認め、原告がその訴訟代理人に対し金二万円を支払ひ、金四万円の債務を負担したことは不知、その余は争う。
更に敷金及び権利金の点については
仮りに原告と訴外吉田益雄との間に敷金及び権利金各十万円の授受があつたとしても、右の敷金十万円は名目は敷金であつてもそれは税金関係等を考慮して名を敷金に借りただけで実質は権利金に他ならなかつたのである。このことは原告と同様の立場にある前記ひかり市場内の他の店舗賃借人にはいづれも敷金を差入れた事実なく、又右金額並びにその支払方法の点で敷金としては著しく不相当である点等に徴して明らかである。
従つて原告から訴外吉田に交付された合計金二十万円いづれもその実質において所謂権利金であるから原告において当然にその返還ないし買取を請求しうるものではない。
即ち、本件権利金とは一般に意味する如く無形の場所的利益の対価に他ならないのであつて、原告の主張する借家法第五条に基く造作買取請求権の所謂造作には本来有形的な造作のみを指し、かゝる無形的な権利金を含まないことは明らかである。そして一般に賃貸借の終了によつて賃貸人が所謂権利金を返還しなければならないかどうかは、その授受の際における当事者の意思によつてきまるものであつて本件の権利金授受に際しては当事者間に何ら返還すべき特約がなかつたばかりでなく、被告は旧賃貸人たる訴外吉田から右権利金につき何ら引継ぎを受けていない。
以上により、いづれにせよ原告の請求はいづれも理由がない。と述べ、
立証として、乙第一、二号証を提出し、証人帯金貢、同土屋宗一の各証言及び被告本人尋問の結果を援用し、甲第八号証は成立を認める同第十号証中郵便官署作成部分は成立を認めるがその余の部分は不知、その余の甲号各証はいづれも不知と述べた。
理由
原告が昭和二十八年六月二十二日訴外吉田益雄からその所有にかかる本件店舗を賃借したこと、及び被告が昭和三十年三月二十三日右吉田から売買により本件店舗を含む前記ひかり市場の所有権を取得してその登記を経由して、原告の賃借する本件店舗の賃貸人たる地位を承継したことは当事者間に争がない。
そこで先づ敷金返還請求について判断する。
証人吉田正の証言及び原告代表者田中七五郎の本人尋問の結果によりその成立を認めうる甲第一号証及び同第五号証の一ないし三に、右各供述竝びに証人吉田かつ江、同神田勘十郎の各証言を綜合すると、原告は旧賃貸人たる訴外吉田益雄に対し昭和二十八年七月二日より同年十一月三十日まで毎日金五百円の割合で合計金六万四千五百円を大同信用金庫南中野支店に日掛預金する形式で支払い、更に同年十二月末までに二回に分割して合計金三万五千五百円を支払い、結局原告は右訴外吉田に対して敷金名義で合計金十万円を交付した事実が認められる。
而して被告が右金十万円は名目は敷金であつたがその実質は権利金である旨争うのであるが、を除く甲第五号の一ないし三及び証人神田の証言前掲各証拠に証人荻原嘉雄の証言によりその成立を認めうる甲第四号証及び同証言を綜合すると、原告以外の前記ひかり市場内の他の店舗賃借人が敷金を差入れた事実が全然なかつたものではなく右市場の店舗賃借人である訴外荻原嘉雄もその賃貸人たる訴外に吉田に対して敷金として原告と同一金額金十万円を、原告と同様の支払方法により数ケ月にわたつて分割して交付した事実が認められるし、右認定の金額及び交付の方法の点は何ら敷金としての本質を左右するものとは認められず、他に特別の事情を認むべき証拠がない本件においては原告が訴外吉田に対して敷金として交付した金十万円を以て敢えてその実質は権利金であつたと解すべき余地はない。即ち右金十万円は名実共に普通の敷金であつて、賃借人たる原告が本件店舗の賃貸借契約上の債務を担保する目的でその所有権を賃貸人たる訴外吉田に移転し、賃貸借終りの際に原告に債務不履行がなければ全額を返還すべく、若し不履行あるときは右金額中から当然に弁済に充当されることを約して授受された金銭であると認めるのが相当である。
更に原告と新賃貸人たる被告との間における本件店舗賃貸借が終了したか否かについて争があるが、証人関綾子、同田中しまの各証言及び原告代表者本人尋問の結果並びに証人土屋宗一の証言の一部を綜合すると、昭和三十年九月末頃原告代表者田中七五郎が当時前記ひかり市場を管理していた訴外土屋宗一方に赴き、同人に対し原告は以後本件店舗を使用しない旨を申入れた事実が認められ、他に右認定を左右するに足る証拠はない。右事実はこれを以て直ちに原告と被告との間に原告主張の如き本件店舗の賃貸借の解除契約が成立したものとは認めることが出来ないけれども少くとも借家人たる原告が被告に対して本件店舗の賃貸借の解約の申入をなしたものと認めるのが相当である。従つて原被告間の本件店舗の賃貸借は右契約の申入より民法所定の三ケ月を経過した同年十二月末頃に終了したものと謂うべきである。
以上の認定により原告は本件店舗の賃貸借に関し、旧賃貸人訴外吉田に対し敷金金十万円を差入れ、その後賃貸人たる地位を承継した被告との間において本件店舗の賃貸借が終了したことが明らかであるが、右の被告の賃貸人たる地位の承継に際して原告が旧賃貸人たる訴外吉田に対して延滞賃料その他賃貸借契約上の何らの債務もなかつたことは被告の明らかに争わないところであるから新賃貸人たる被告は旧賃貸人吉田から現実に敷金の引継ぎがあつたか否かに拘らず借家人たる原告に対する敷金返還義務を当然に承継したものと謂わねばならない。
よつて原告の被告に対する敷金十万円の返還請求は正当として認容すべきである。
次に権利金に関する請求について判断する。
証人吉田正の証言によりその成立を認めうる甲第二号証に同証言及び証人田中しまの証言並びに原告代表者本人尋問の結果を綜合すると、原告が昭和二十八年六月二十二日本件店舗を賃借するに当り賃貸人に対して権利金として金十万円を交付した事実が認められ、右認定を覆す証拠はない。
而して右権利金は一般に謂われているように原告が本件店舗所在地を利用することによつて享有する無形的な場所的利益の対価たる性質を有すると認めるのが相当であるところ、原告は第一次的に借家法第五条所定の造作買取請求権に基き、無形的な造作として権利金(即ち場所的利益)の時価買取りを求め、その代金として金十万円を請求するのであるが、右借家法に謂う造作とは専ら有形的なものに限り、無形的な権利金の如きは含まれないと解すべきであるから、右の原告の第一次的請求は失当である。
更に権利金は賃貸借終了の際賃貸人からそれを返還すべきか否かは、結局その授受の際における当事者の意思によつて決定さるべきものであつて特別の合意ないし事情が認められない限り賃借人において当然にはその返還を請求しうるものでないと解するを相当とすべきところ、本件においては右権利金の授受に際しその当事者間に賃貸借終了に際し賃貸人から之を返還すべき旨の特別の合意ないし右に準ずべき特段の事情があつたことは原告の全立証を以てするも認めることは出来ない。
従つて原告の権利金に関する金十万円の請求はその余の判断をまつまでもなく、失当と謂わねばならない。
最後に不法行為に因る損害賠償請求について判断する。被告が原告の前記合計二十万円の請求に対して否認抗争して履行をなさなかつたことは記録上明らかである。そして原告は右の事実を以て原告の債権合計金二十万円を侵害する不当応訴であると主張するのであるが、前叙認定したとおり原告の請求合計金二十万円のうち権利金に関する金十万円の請求は何ら法律上の理由なき不当なものであるから結局原告の右金二十万円の請求は被告の実際に負担する債務額に比して過大に失すると謂わねばならない。ところで被告は訴外吉田益雄から本件ひかり市場の建物を買受けた際原告が右訴外人に支払つた前認定の金員について何等の説明引継がなかつたことは被告本人の供述により認められるのであるから従つて被告としてはかゝる原告の請求に対しては直ちに応諾しえないことはいうまでもなく、被告が原告の右請求を理由のない不当な請求であると信じこれに応訴抗争したことは被告としてまことに己むを得ない措置であつて、これを不法行為と断ずべきでないことは明白である。従つて原告の右不法行為を原因とする損害賠償の請求はその余の判断をまつまでもなく失当として排斥を免れない。
以上説示した通りであるから被告は原告に対し敷金十万円及びこれに対する本件訴状送達の翌日たること記録上明らかな昭和三十一年二月二十七日から右完済に至るまで商法所定の年六分の割合による損害金を支払う義務があるから原告の本訴請求は右限度においては正当として認容すべきであるが、その余はいずれも失当としてこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九十二条、仮執行の宣言につき同法第百九十六条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 花渕精一)