東京地方裁判所 昭和31年(刑わ)2357号 判決 1958年5月26日
被告人 武藤一羊 外三名
主文
被告人等は、いずれも無罪。
理由
第一本件公訴事実の要旨
本件公訴事実の要旨は、
一 被告人武藤は、宮原正宏外数名と共謀の上昭和二十九年一月二十五日午後一時十分頃東京都文京区本富士町一番地東京大学(以下東大と略称する。)構内において、国際短期大学(以下国際短大と略称する。)学生山田初市(当時二十四年)が全日本学生自治会総連合(以下全学連と略称する。)等の構成員等の秘密を不当に探知し、これを取締官憲に内通した疑があり、その行動及び理由等の究明に必要なりとして、右山田の意思に反し、ほしいままに同人の身辺を取り囲み、その両腕を捉える等してその身体の自由を拘束して不法に逮捕した上同大学構内の全学連の使用する別室内に連行し、同年二月十九日午前七時三十分頃までの間右宮原外数名以外に、被告人下村、同吉川、同大谷外十数名と共謀の上右別室内、同都目黒区駒場町八百六十五番地東京大学教養学部(以下東大教養学部と略称する。)構内の建物内、同都豊島区雑司ヶ谷三丁目五百五十番地所在の木造平家建一棟(以下民家と略称する。)内、同都目黒区大岡山一番地東京工業大学(以下東京工大と略称する。)構内、同区緑ヶ丘同大学向岳寮(以下向岳寮と略称する。)内、前記東大教養学部構内、同都品川区大井鮫州町二百四十八番地東京都立大学(以下都立大と略称する。)東寮構内の各建物内等において、引き続き右山田の意思に反し、ほしいままに同人の身辺に監視者を付し、強いて同人をこれ等の場所に抑留しもつて同人を不法に監禁したものである。
二 被告人吉川、同大谷は、同年一月二十六日午後五時頃から同年二月十九日午前七時三十分頃までの間同被告人等間並びに被告人武藤、同下村外十数名と共謀の上前記民家内、東京工大構内、向岳寮内、東大教養学部構内、都立大東寮構内の各建物内等において、前記被告人武藤の山田初市に対する逮捕と同一の理由、監禁と同一の方法をもつて、強いて同人をこれ等の場所に抑留しもつて同人を不法に監禁したものである。
三 被告人下村は、昭和二十九年一月二十五日午後一時十分頃から同年二月十九日午前七時三十分頃までの間被告人武藤、同吉川、同大谷外十数名と共謀の上前記東大構内の全学連の使用する別室内、東大教養学部構内の建物内、民家内、東京工大、向岳寮、都立大東寮構内の各建物内等において、前記被告人武藤の山田初市に対する逮捕と同一の理由、監禁と同一の方法をもつて強いて同人をこれ等の場所に抑留しもつて同人を不法に監禁したものである。
というにある。
第二証人山田初市の供述の信憑力について
一 検察官が、本件公訴事実の証拠として援用しているものは、右事実に示すとおり、本件の被害者といわれる証人山田初市の当公判廷における供述及び公判調書中の同証人の供述記載(以下右供述、供述記載を含めて供述と略称する。)がその中核をなしているのであり、右供述以外後記のような若干の証拠も存在はするが、本件公訴事実の全部或いはその一部を認定するためには、先ず同証人の供述の全部或いはその一部に信憑力が十分であるという前提をとらなければならないということに帰着するのである。そこで、まず、同証人の供述の信憑力につき検討することとするが、当裁判所としては、以下に説明する理由により、同証人の供述をそのまま全面的にこれを措信することには相当な躊躇を感ぜざるを得ないのである。
二 まず、第一として、同証人の公訴事実以外の点に関する供述中には、少なからざる不可解な、真実と受け取り難い点があり、この点は、当裁判所としては、山田証人の供述の信憑力を考える上において重要視せざるを得ないところであり、即ちこの点からいつても、山田証人の供述を全面的に措信することについて躊躇せざるを得ないのである。
山田証人の不可解な供述とは、次の如きものである。即ち、同証人の供述によれば、
1 山田は、昭和二十三年頃より共産主義思想を持ち始めたが、昭和二十五、六年頃より、さらに関心を高め、昭和二十七年再上京するまでの間郷里前橋市の共産党関係の会合に若干出席したり等していた。しかしその当時もその後も同市内で民主青年団の細胞である、全学連に関係がある等と称したことはなく、また駐留米軍の撤退活動を積極的に企画したり、高校生を対象とする指導会を開催したことはない(第三回公判調書中の同証人の供述、第十八回公判調書中の一丁から四丁、十三丁から十八丁、二十四丁から三十四丁、四十三丁)。
2 右上京後昭和二十八年一月頃北沢三平等の勧誘で、その頃より同年九月初頃までの間に、十回位に亘つてアカハタ読書会に出席し、或いは同年行われた参議院議員選挙の際は、共産党候補者を支持しその選挙運動にも参加した。これ等の機会等に知合つた者には、外語に在学しているといつていたが、それは当時在学していた国際短大が以前国際外国語学校であつた頃外語と口癖にいつていた関係からで、別に他意はなかつたのである。ところがその結果、相手がいずれも東京外国語大学に在学しているものと誤解していることが判つたのであるが、若し実際の在学校名を明らかにした場合は、学校当局に右の活動状況が知れ、そのため卒業、就職に支障を来たすことを恐れて、誤解している儘に放置していたのである(第三回公判調書中の同証人の供述)。
3 同年三、四月頃同短大における授業料値上げ反対運動に参加し、同年五月頃からは同短大の社会思想研究会の責任者となつていたが、自治会委員長から学校当局には責任をもつてその名前を知らせていないといわれていたので同短大当局には、自分の学校内での活動状況は、知られていないと思つていたのである(第四回公判調書中の二十一頁から二十六頁まで、第五回公判調書中の二十一頁から二十八頁まで)。
4 同年九月五日池袋警察署にアカハタ売りの問題に派生して検挙され、同日中に住所氏名を明らかにしたため釈放されたが、その後一旦警察に住所を明らかにした以上身辺を警戒されるとの理由もあり、同月下旬頃都内代々木の藤岡方に下宿を移転した。当初の条件は、主食の外部屋代副食費合計三千五百円であつたが、その後三千五百円、四千円、五千円と順次条件が変更されて来たので一ヶ月足らずで右下宿を移転した。右金額は、主食を別にしてのものであつたが、その際副食費がいくらであるかは聞かなかつたが、自分で別に副食費を出すものと思つたのである(第四回公判調書中の三頁から五頁まで、八頁から十五頁まで、第五回公判調書中の九十三頁から百三頁まで、第十九回公判調書中の三十九、四十丁)。
5 右池袋署で検挙釈放後、池袋の公会堂で催し物のあつた後、右検挙の状況を話したことがある。その際学校当局や警察官に知られた場合のことは考えなかつたが、現在考えるとまづいことをしたと思うのである(第十九回公判調書中の四十一、四十二丁)。
6 同年四月頃から同年九月末頃までの間都内豊島区椎名町に下宿していた際、その間アルバイトとして、附近の西部という家で、家庭教師をした。隔日同家に行つたのであるが、現在その教え子の名前は記憶していない(第四回公判調書中の百三頁から百五頁まで、第五回公判調書中の二十一頁から二十五頁まで)。
7 同年八月頃梅沢某に名刺の作成を依頼したことがある。名刺は、そのとき初めて作つたのであるが、同人には何等の指示をしなかつた。ところが同人は、自分が他の機会に、外語に在学しているといつたのを、東京外国語大学に在学しているものと誤信じて、同学校名を名刺に印刷して来た。名刺を受取つた際居合わせた者に名刺を渡したが、その時は未だ内容を調べないで、箱ごと渡したのであり、その後右印刷の誤りを発見したのである(第三回公判調書中の同証人の供述、第五回公判調書中の三八頁から四十一頁まで、四十七頁から五十一頁まで)。
8 同年八月頃国際短大の社会思想研究会の第三回学生新聞として発刊したのが、「夜明け」という題名のものである。この原紙は、桜間某に作成を依頼したのであるが、同人が独断で東京外国語大学と発行名義を記載しているのに、印刷中気付いた。それ以前のものは墨で、以後のものは原紙を訂正した。友人樋口三郎に配布した分は、余部で訂正しなかつたものである。なお、同新聞中自分名義の寄稿があるが、自分の執筆したものではないが、学内の学生の関心を集めるために自分の名を表示させたのである(第四回公判調書中の八十七、八十八頁、第五回公判調書中の五十三頁から六十五頁まで、六十九頁から七十三頁まで)。
9 本件事件後、警視庁の係官と共に、東大教養学部の現地調査に同行したが、その際自分は、同学部の門の附近においては、係官にいわれる儘下を向いていた。しかし門の処を通つたといわれたので、一月二十五日夜連行された門の処を唯何んとなく通つたと感じたのである(第二十回公判調書中の六十四丁から七十三丁まで)。
というのである。
しかし、右1の供述に対しては、次の如きこれに反する証言がある。即ち、
イ 証人高倉進治の当公判廷(第五十三回公判期日)における「昭和二十五年頃から山田初市を知つた。同人は、その後前橋市内の主な共産党員の処には、良く出入していたようである。昭和二十六年夏頃同人に依頼されて、前橋市内の同人の住所附近の高校生に対する社会問題の指導教師として、菱山を紹介したことがある。その際、山田は、東京外語の学生だといつていた。昭和二十八年夏頃山田から、同人が全学連書記局にいるということを聞いたこともある。」旨の供述
ロ 証人菱山珠夫の当公判廷(第五十三回公判期日)における「昭和二十六年夏頃山田と、前橋で知合つた。同人に依頼されて、高校生に対する社会問題の指導会に出席したことがあるが、同人がその会の主催者であつたと思われたのである。なお、同人は、その頃東京外語の学生であり、全学連に関係している、民青にも関係があるといつていた。」旨の供述
ハ 証人泰永孝次郎の当公判廷(第五十三回公判期日)における「昭和二十七年夏頃山田初市の依頼で、前橋市の同人の住所附近において開かれた青年の会合に出席した。その席上山田から同市内の駐留米軍の撤退運動を積極化するために、実力闘争に出ようという趣旨の過激な提案があつたが自分は、これを制止した。同人から、その頃民青細胞に所属している
共産党員であるということを聞いたことがある。」旨の供述
以上の通りであり、しかも、これらの各証言は、必ずしも全面的にこれを虚偽なりとする事情も見受けられない以上、山田証人の右1の供述の信憑性は著しく減殺されるものと考えなければならない。又、2の供述については、自己の在学校名をあくまで秘していた理由説明が頗る理解し難いのであり、4の供述については、僅々一ヶ月以内に数次にわたつて値上交渉が行われること等不可解な点が多く、同証人の供述に誇張があるのではないかとの疑念を抱かざるを得ないのであり、5の供述は、2、3の供述と矛盾するものでこれ又不可解といわざるを得ず、6の供述からはその記憶の正確性の程度につき疑問を持たざるを得ないのであり、7乃至9の各供述は、頗る不可解な措信し難いものであり、単なる強弁に過ぎないのではないかと疑われるのである。
三 第二としては、証人吉沢照代の証言(第五十六回公判期日)についてである。その証言の要旨は、山田が本件事件後である昭和三十一年九月末頃においてもなお東大生であるかの如き身分詐称を敢て行つたというのであるが、こうなると、山田の人格乃至は心理状態についても一抹の疑問を挿まざるを得ないのであつて、この点からいつても、山田の供述の全面的信用には相当の躊躇が感ぜられるのである。
四 第三としては、山田が当公判廷において証言した際における供述態度についてである。
証人は、一般論として、主尋問に対する供述は比較的短時間内に円滑明確にこれを行うが、反対尋問に対しては、供述が渋滞し、不明確な供述をなし、ために主尋問の場合に比し時間がかかる場合があるということは往々経験させられるところであり、敢て異とするに足りないところであるが、本件山田証人の場合には、それが特に著しい形式で表現されたのである。即ち、同証人は、反対尋問者に供述の矛盾、不明確等を追及された場合、これに反抗、闘争するような強い態度に出た場合と、これに反し、にわかに身体の変調を訴え、その供述を渋るような消極的態度に出た場合とが少なからずあつたのである。以上のような同証人の証言態度も又当裁判所の同証人の供述を全面的に措信するについての躊躇の一因となつているのである。なお、同証人が供述中において、前言を飜し、後にその供述趣旨を訂正している点は、数多く存するのであるが、しかし次の各点については、比較的重要な事実に関するものであつて、このような点に関する供述の訂正それ自体が不可解であり、同証人の供述に際しての慎重さを欠くことの一証左とも考えられ、これ又同証人の供述の信憑力の判定に際して十分考慮しなければならない点と思うのである。
1 民家における査問中、これを阻止させようとしたという女の声について
イ 一月二十七日昼間査問中自分が泣き出したとき可哀想にいい加減に止めたらといつた女の声は隣室から聞えた(第十一回公判調書中の十四、十五丁)。
ロ その人は隣室以外の他の部屋で、男の人と話しているらしい様子であり、救助を求めなかつたのは、自分を監禁している人と同じ考えの人と思われたからである(第十二回公判調書中の十七丁、第十五回公判調書中の六十六丁から六十八丁まで)。
ハ その女の人は、民家で事件後に会つた人でなく、自分を民家に連行した際に、同行した女子学生と思われた(第二十五回公判調書中の二十丁から二十二丁まで)。
2 救助を求める手紙の作成について
イ 救いの手紙は、昭和二十九年二月一日頃より東大教養学部に監禁されている時から書いたものである(第十回公判調書中の五十丁)。
ロ これは、その以前同年一月二十八、九日東京工大自治会室にいる時から書いたものである(第二十二回公判調書中の三十丁から四十一丁まで)。
と順次訂正されているのである。
五 第四としては、山田証人の公訴事実に関する供述についても多くのこれと牴触する証拠があることである。即ち、
1 弁護人申請にかかる多数の証人の証言は、いずれも被告人等のアリバイその他の点に関するものであり、全く山田証人の公訴事実に関する供述と相反するものである。当裁判所としては、これらの弁護人申請にかかる各証人の証言をすべて信憑力十分なものと断ずるわけではないが、とに角相反する多数の証拠が存在し、しかもこの反証をくずす証拠が存在しないとあつては、これ又山田証人の供述の信憑力を決するについてこの事情も又一応考慮に入れざるを得ないのである。
2 民家における査問、宿泊の点につき、山田証人の供述と証人山本キクヨ及び山本岩雄の各証言とを比較検討すると、民家内における査問、宿泊の時期等につき明確でない点が出て来るのである。即ち、証人山本キクヨに対する尋問調書によれば、「私は、夫等と共に昭和二十九年一、二月頃都内豊島区雑司ヶ谷三丁目五百五十番地所在の家屋の一部を借受けて居住していた。当時、井上兄弟もその一部を別に借り受けて居住していた。私は、夫岩雄が、同年一月二十七、八日にかけて一泊出張をした不在中の間の二十七日午前から午後にかけて、右井上との共同使用部分である同家屋内四畳半の一室に、一人の女子学生を含む約十名位の学生が集合しているのを目撃した。私は、同夜八時頃から同夜遅くまで、隣室で、二、三人が一人の男を低い声で責めている様子で、責められている男は、時々すすり泣いている状況を知つた。その男は、便所に行く際もすすり上げており、一人が廊下で待つている様子であり、翌二十八日廊下で二人の男が蒲団を敷き、本を読んでいるのを目撃した」という記載があり、右証人山本岩雄の供述によれば「昭和二十九年一月二十七日に水上に出張して一泊し、その翌日帰宅した。その日時は、会社の卓上メモの記載によつたもので間違いないと思う。その前夜自宅の隣室における異常な状況は、気付かないし、記憶もない」というのである。ところが、この点に関する山田証人の供述は、後記六の(一)の3のとおりであり、民家における査問の日時、査問の状況につき、右証人山本キクヨに対する尋問調書の記載並びに証人山本岩雄の当公判廷における供述と、山田証人の供述との間に著しい相違があるのである。こうなると、一体山田は右民家に果して宿泊したことがあるかどうかすらも疑えば疑い得るわけであり、又山田が真に民家に宿泊し且つ査問をも受けたとすれば、右民家における夜間の査問の日時は、一月二十七日と認定し得る蓋然性が大であるというべきであり、このような前提をとつた場合においては、山田証人の供述は、右査問の際の状況はいうに及ばず、本件逮捕日時は、一日ずれて、一月二十六日といわざるを得ない結果、その供述はその全部について適確にこれを措信することが困難となるのである。
六 第五としては、山田証人の公訴事実に関する供述それ自体を検討しても、必ずしも納得が行かない点が少なからず存在するということである。以下これを説明すると、
(一) まず、山田の本件日時期間に逮捕、監禁されたという趣旨の供述としては、次の如きものがある。
1 昭和二十九年一月二十五日午後一時過頃東大構内図書館附近において、突然被告人武藤及び宮原某以下五、六名に周囲を囲まれて、同被告人に左腕を、宮原某に右腕を掴まれて、同大学構内の全学連等の使用する一室の向い側の奥の一室に連行された。その連行の途中腕を放してくれといつたところ、宮原某は、腕を放してくれたが、被告人武藤は、放してくれなかつた。同日夕方暗くなるまで、同所において、被告人武藤、同下村外数名により査問及び監視がなされた。その間意に反して、被告人武藤等に両腕を掴まれたりして写真撮影や、所持品検査のための身体検査をされた。結局その所持品を殆んど取り上げられてしまつた(第十回公判調書中の四丁より十二丁まで、第四十一回公判調書中の四丁より六丁まで。)
2 同日夕方暗くなつてから、被告人武藤外一名に両腕を掴まえられて同所を出て、自動車に乗車させられ、乗車後被告人下村等に監視されて東大教養学部の社会科学研究室と扉に貼り紙のある、生田という衣紋掛のあつた部屋に連行され、同夜同所で被告人下村等により査問及び監視がなされ、翌二十六日午後まで同所に監視されていた。なお、同所にいた際に気付いた物音は、選挙だという太鼓の音を聞いた程度であつた(第十回公判調書中の十四、十五丁、十八丁より二十二丁まで、第二十六回公判調書中の九丁、第四十一回公判調書中の六丁から八丁まで)。
3 同日午後右社会科学研究室から、監視者等により(途中被告人吉川も参加)民家に連行され、同夜及び翌二十七日昼間に査問された。二十六日夜の査問は、被告人武藤、同吉川、同大谷外数名が参加し、特に被告人大谷には、凄く詰問され、被告人武藤には怒鳴られたりした。被告人大谷には喰つてかかつたりしたが、問答の末帰されないことが判り不安で泣き度い気持になつた。その査問中気持が悪くなり、洗面器に吐いたりした。翌日の査問の際には、口惜しくて泣いたこともある。民家内には二十八日夕方まで監視されていた(第十回公判調書中の二十二丁、二十八丁より三十三丁まで、第十一回公判調書中の十五丁)。
4 一月二十八日夕方民家より被告人武藤、同下村外数名に連行されて出た、同所附近から自動車で被告人下村等により東京工大附近まで連行され、同大学構内に入つてから、同被告人等に周囲を囲まれて同大学本館内自治会室に至り、同夜十一時頃まで同所において、被告人武藤、同吉川、同下村等から査問を受け、その際被告人武藤より二、三回靴で足を小突かれる暴行を受けた。同夜及び翌二十九日夕方暗くなるまで、同所のパイプ製寝台に寝かされて監視されていた。同室の状況で記憶しているのは、円筒形の瓦斯焜炉のようなものがあり、凄く火が噴き出ていたことである(第十回公判調書中の三十三丁より三十七丁まで、第十二回公判調書中の三十二丁、第二十二回公判調書中の五十三丁から五十五丁まで、第四十一回公判調書中の九丁から十三丁まで)。
5 同日夕方暗くなつてから、被告人下村外数名により、同所から同大学学生寮の玄関附近の一室に連行された。右連行の途中被告人下村に眼かくしされ、同被告人外一名より両腕を掴えられて右一室附近まで至つたのである。同所には、三十一日夕方暗くなるまで、同被告人等により順次監視されていたが、その間特に記憶に残る物音はなかつた。なお同所の廊下は、スリッパか素足で歩いていた様な記憶である(第十回公判調書中の三十七丁から四十一丁まで、第二十二回公判調書中の六十二丁、六十五丁、六十六丁、第四十一回公判調書中の十三丁、十四丁)。
6イ 同日夕方暗くなつてから被告人下村等により同所から連行されて出た、途中腕を掴えられて同寮附近から自動車で東大教養学部に連行された。同所の井の頭線の見える門を入つた附近から暫らくの間同被告人に眼かくしをされ、同被告人外一名に両腕を掴まれたりした後同学部構内のわだつみ会室に連行され、同夜より二月三日夜までの間は、前記社会科学研究室において、
ロ 同夜被告人下村に、わだつみ会室の建物の二階にある協同組合のマークの入つたカーテンのある部屋に連行され、同夜より四日夜までの間同所において、
ハ 同夜より七日夕方頃までの間同学部構内の中国研究室と扉に貼り紙のある部屋において、
同被告人外数名により監視された。
ニ 右期間中殆んど連夜に亘つて右わだつみ会室において、査問された。右査問は、主に被告人下村によりなされ、被告人吉川及び竹内某も各一回参加した。被告人下村及び竹内の参加した査問の際、竹内より顔面を強く小突かれたことがあり、また別の査問中参加者の一人から怒声を浴びされたこともある(第十回公判調書中の四十一丁から五十丁まで、第十一回公判調書中の六十六丁、第二十五回公判調書中の三十丁、第四十一回公判調書中の十四丁から二十丁まで、第四十二回公判調書中の一丁)。
7 二月七日夕方暗くなつてから、右中国研究室より被告人下村外数名に連行され自動車で都立大寮内の和田某、中村某両名の居住する部屋の右隣りの部屋に至り、同所において、同月十九日朝まで同被告人及び諸田某外数名により順次監視された。その間同被告人及び諸田により順次査問され、諸田により強いて自己批判書数通を作成させられた。二月十九日朝監視者の隙をうかがい、辛うじて同所より脱出したのである(第十回公判調書中の五十一丁から五十四丁まで、第十一回公判調書中の一丁から十二丁まで、第十四回公判調書中の十五丁、十六丁、第四十一回公判調書中の二十丁から二十七丁まで)。
8 右一月二十五日午後一時過頃より二月十九日朝までの間常に救助を求めること及び脱出の機会をうかがつていたのであるが、救助を求めなかつたのは、主として救助を求めた場合相手方が果して現実に救助してくれるか否か疑問を抱いたのであり、脱出しなかつたのは、常に監視されていたので断念せざるを得なかつたのである。なお、具体的に脱出を試みるようになつたのは、右3の一月二十六、七日民家に抑留されていた頃以降であり、三、四回に亘つて、監視の隙をうかがつて実行しようとしたが、実行できなかつた。別に右4の東京工大自治会室に監禁されていた頃から計四通の救助を求める書面を作成し、うち二通は、右7の東大教養学部から都立大寮に連行された際の自動車内外一ヶ所にてこれを使用し、残り二枚は、同月十九日品川警察署に保護を求めた際提出したのである(第十回公判調書中の五十丁、第十一回公判調書中の十五丁、十六丁、第十四回公判調書中の六十六丁、六十八丁、六十九丁、第二十四回公判調書中の三十丁から四十丁まで、第二十五回公判調書中の四十七丁から五十丁まで、第二十六回公判調書中の二十五丁)。
(二) しかし、同証人の供述中には、次の如きものもあるのである。即ち、
1 (一)の1の供述に対して
東大図書館附近から全学連等の使用する一室のある建物え連行された際、仲俣某は、自分と一緒について来てくれた。自分は、途中で、人の見ている前で腕を掴まれるのは恥かしいから放してくれといつた。その附近には、事件に関係のないと思われる学生が五人位通行していた。それ以外に人がいるか否かは、探さなかつたので判らない。右通行の学生に救助を求めなかつたが、それは、東大の学生は進歩的であるから救助を求めても駄目だとの先入観があり、救助を求めても不可能だと思つたからである。その当時、自分は、進んで自分にかけられているスパイの嫌疑をときたいという気持もなくはなかつた、それで腕を掴まれた際は、逃げられないし、また話し合えば判るという気持もあつたのである(第十回公判調書中の六丁、七丁、第十四回公判調書中の六十丁、第十五回公判調書中の六十丁から六十二丁まで、第二十五回公判調書中の四十四丁から四十六丁まで、第二十六回公判調書中の十五丁)。
2 (一)の2の供述に対して
イ 東大から東大教養学部に自動車で連行される途中、車が雪の中に突つ込んでしまつた。自分以外の監視者は全部、運転手にいわれて車を押すために下車した。ところが車は動かず、後から来たタクシーの運転手にスコップを借りて雪を払いのけ車が動き出した。自動車が停車していた道路は、歩道と車道とが区別されていたと思うが、広い道路であつたと思うのである。自分は、その間下車しなかつた、それは下車してはいけないといわれたことと、逃げようという気持はあつたが、話せば判ると思つていたからである。なお、その際運転手に救助を求めなかつたのは、頭が混乱していたからである(第十回公判調書中の十六丁、第十一回公判調書中の五十丁から五十三丁まで、第十五回公判調書中の五丁、六丁)。
ロ 一月二十六日東大教養学部社会科学研究室にいた際は、あまり皆に顔を見られないようにして、殆んど終日毛布を被つて寝ていたのである(第十一回公判調書中の六十五丁)。
3 (一)の3の供述に対して
東大教養学部から雑司ヶ谷の民家に連行された際、自動車から下車後民家までの間に商店街があつた。同所を通行した際は、下を俯向かされ周囲を囲まれていたが腕は掴まれていなかつた。その際の監視の人員は、三、四名と思うがはつきり記憶していない。時間は、未だ明るい頃であつたと記憶している。この附近商店街の人に救助を求めなかつたのは、相手が後難を恐れて、救助に応じてくれないと思つたからである(第十一回公判調書中の七十一丁、七十二丁、第二十一回公判調書中の二十六丁、二十七丁、三十四丁)。
4 (一)の4の供述に対して
イ 民家から東京工大に連行された際自動車から下車した場所は、同工大附近の線路の手前であつたが駅の建物があつたか、附近が商店街であつたか記憶していない。当時交番、警察官等に注意した記憶はない。その際、同工大までは腕は掴えられていないし又周囲は囲まれていなかつたし、監視者は、三名位で両側に並んでいたのである(第二十二回公判調書中の七丁から十丁まで、十六丁から十八丁まで)。
ロ 東京工大の建物を入つた処に守衛室があり、同所に守衛が二名位いて、自分の方を見たが、どうせ逃げられないと思つたので、同人等に救助を求めなかつた(第二十二回公判調書中の五十五丁、五十六丁)。
5 (一)の6の供述に対して
イ 協同組合のマークの入つたカーテンのある部屋では、自分が寝るまでは、監視者は、一人であつたが、その夜一晩中起きていなかつたが、同夜右監視者は、ずつと一緒にいたと思うのである(第十二回公判調書中の六十七丁から六十九丁まで)。
ロ(い) わだつみ会室における査問中、竹内某から暴行を受けた際、自分が反撥したら同人は、今度いつか腕つ節の強い人を連れて来てひつぱたいてやるから覚えていろといつていた(第十回公判調書中の四十九丁)。
(ろ) 同室における査問中、被告人下村には、正直に答えても信じてくれないので、殆んど答えなかつたし、また真面目に答えなかつた。喧嘩腰で争つたりしたので、同被告人の査問は、長くかかつたのであるが、しまいには癪にさわつて、同被告人に喰つてかかつたりして凄く争つたりもしたのである(第十三回公判調書中の二十八丁より三十丁まで)。
(は) 同室における査問中、小使らしい人が、二、三回火気の取締りに廻つて来たことがあるが、同人に救助を求めなかつたのは救助を求めても駄目だと思つたので黙つていたのである(第二十五回公判調書中の八丁から十丁まで)。
6 (一)の7の供述に対して
イ 東大教養学部から、都立大寮に連行される途中、自動車から下車後、被告人下村外一名が紙片を見ながらあちこち歩いて寮を探していた。その際、周囲は、囲まれていたが腕は掴まれていなかつた(第十回公判調書中の五十二丁)。
ロ 同寮にいた期間中、諸田某一人に監視されていたことがある。その際脱出しようと思つたが、終夜寝ないで同人の動静をうかがつたことはなかつた。なお、同人一人の監視の際、同人が用便に行く場合は、そのいう儘に同行し、同人の用便中傍に立たされていたのである(第十四回公判調書中の十九丁から二十一丁まで、第十五回公判調書中の二十一丁、二十二丁)。
ハ 同寮に抑留されていた期間中監視者一名と共に、同寮入口附近にいた際、舎監らしい同一人から二回に亘つて、誰であるかという旨の注意を受けたことがある。その際いずれも同人に救助を求めなかつたが、それは同人が果して救助してくれるか否か疑問に思つたからである(第十一回公判調書中の九丁、十丁、第二十五回公判調書中の十三丁、十四丁)。
(三) 右(一)、(二)の供述を綜合考慮し、且つこれに関係する他の証拠を併せ考えると、本件日時期間中に次の如き事態が存在したこととなるのである。
1 昭和二十九年一月二十五日午後一時過頃東大構内図書館附近から全学連等の使用する別室に至る間の路上において、山田が受けていた制約は、僅かに被告人武藤より左腕を掴まえられていたという軽微な制約と、ほかに五、六名位により周囲を囲まれていたというのに止まり、その際通行人も、同人が認識した関係のみでも少くとも五人はあつたのであつて、加えて知人の東大生仲俣某が、同人と行動を共にしていた。
2 同日夕刻東大から東大教養学部に至る間、自動車が雪中に突込んだ直後頃において、同人の受けていた制約は、僅かに車外に出ることを禁止された言辞と、附近に自動車を押している数名の監視者がいた点のみというのであり、その際の附近の状況は広い街路であり、同自動車の運転手及び他一台の自動車の運転手がそれぞれその場に居合わせていた。
3 一月二十六日午後東大教養学部から民家に至る途中商店街を通行した際において、同人の受けていた制約は、同人の周囲を三、四名が囲んでいたという点のみであり、時刻は、未だ明るかつた。なお、同所附近が繁華な商店街であることは、検事吉良敬三郎の実況見分調書により明らかである。
4 一月二十八日夕方民家より東京工大自治会室に連行された際自動車から下車後同大学構内に至つた際において、同人の受けていた制約は、同人の両側に三名位の者が並んでいたというだけのことであつた。その際の附近の状況が、大岡山駅附近の稠密した市街地であり、午後十時頃まで通行人の多い場所であることは、証人春日井敬彦の当公判廷(第四十四回公判期日)における供述及び司法警察員松沢喜久雄作成の実況見分調書により明らかである。
5イ 東大教養学部から都立大寮に至る間自動車から下車後同寮に至つた際における同人が受けていた制約は、同人の周囲を数名により囲まれていたというだけであつた。
ロ 都立大寮内において、同人の受けていた制約は、右(二)の6のロのような僅かの制約があつたかなかつたかというようなきわどいものであつた。
(四) 以上のように見て来ると、右1乃至5の各場所における状況下の制約は、その供述自体からして山田をして右各場所から容易に立ち去るを得しめない程度の暴行、脅迫が同人に加えられていたものと認めるには相当な躊躇を感ぜざるを得ないのである。即ち、山田が突如その場所からかけ出して逃げるとか或は又附近の人に救助を求めることが不可能又は著しく困難であつたと認めるのには相当な躊躇を感ぜざるを得ないのである。加え、その他の場合においても、次の如きことがいえると思うのである。即ち、
1 前記(二)の1の場合には、山田と行動を共にしていた仲俣某からも、通行人等に対し救助を求めた形跡がない。
2 前記(二)の4のロ、5のロの(は)、6のハの各場合においても、救助を求めることが不可能又は著しく困難であつたと認めるには、相当の躊躇を感ぜしめられる。
3 前記(二)の1、2のイ、3の各場合において、山田がそれぞれその個所に記載したような理由により救助を求めなかつた旨の供述は、前記の如く((一)の3、8の供述参照)一月二十六日の査問により初めて帰してくれないことが判つてその頃から具体的に脱出を試みるようになつた旨の供述とまさに矛盾するのである。
尤も、山田は、前記(二)の1、2のイ、3、4のロ、5のロの(は)、6のハの各場合につき、救助を求めなかつた理由として、それぞれの個所に記載したような供述をしているが、これらの供述は、当裁判所としては必ずしも措信できないし、又その理由それ自体もその各場合の状況を併せ考えると、人をして納得させるに足りる合理性に乏しいものと考えざるを得ないのである。
七 当裁判所としては、以上説明した理由により、山田証人の供述をそのまま全面的にこれを措信することには、相当な躊躇を感ぜざるを得ないのである。
第三その他の証拠について
検察官提出の証拠は、他にも存在するが、そのうち検討を要するものとしては、救いを求める書面(昭和三一年証第四〇二号の五)と証人都築克男の証言(第二十八回公判期日)とである。これらの証拠は、一見山田が監禁されていたことを肯認せしめる資料となるかの如き観がないでもないが、よく考えて見ると、証人都築克男の証言内容は殆んど山田の申出そのものを内容とするものであり、又救いを求める書面は、山田自身の作成にかかるものであり、これがいついかなる際に作成されたものであるか、いずれも同人の供述を措信し得て始めて証拠的意味をもつものであり、結局右両証拠は、独立して本件公訴事実を確認せしめる資料とはなり得ないのである。
他の検察官提出の証拠は、すべてそれら独力を以てしては、本件公訴事実を肯認せしめるに足るものではない。
以上説明の如く、山田の供述については全面的には信を措き難く、又他にも本件公訴事実を肯定するに足る証拠もない以上、結局本件は犯罪の証明のないことに帰するのである。
第四補足説明
以上の如く、結局本件は犯罪の証明がないことに帰すのであるが、然らば、本件は全く砂上の桜閣の如き事件かというに、当裁判所として信頼し得る証拠と考えられるところの次の如き証拠とこの点に関する山田証人の供述の一部とにより、次の如き事実はあつたものと考えるのである。即ち、山田は昭和二十九年一月二十五日頃から外数名の者と共に都内の都立大学寮等を転々として歩き、二月十九日午前八時頃品川警察署南品川派出所へ訴えて出たという事実である。右の山田の供述の一部以外の証拠としては、
一 石塚克子の検察官に対する供述調書
一 証人都築克男、中山倉次、菊地保子の当公廷における各供述である。
しかし、以上の如き事実が認め得ても、それはそれだけのことであり、それが被告人等を含む者の逮捕、監禁に基くものであることは、結局上来説明した通り、これを確認するに足る証拠はないのである。
なお、最後に一言附加しておくが、山田が警察等のスパイであつたことは、これを確認すべき証拠は存在しないし、又一方本件に顕われた全証拠(特に第二の六の(四)の説明参照)を通じて見た場合、当裁判所としては、山田が前記一月二十五日頃から二月十九日に至るまで都内を数名の者と共に転々して歩いたのは、寧ろ同人が自己にふりかかつたスパイの嫌疑を解きたい余り、或は又、逃走は必ずしも不可能ではなかつたが逃走すると後日又いかなる危害を加えられるかも知れないとの危惧の念を一方的に抱いて(山田と行を共にした者がかかる脅迫を山田に加えたことを確認するに足る証拠はない)、好むところではないが、必ずしも自己の意思に反しないで右の如く行動したのではないかとの疑念を少なからず抱かせられるのである。
第五結論
以上説明した通り、結局本件は犯罪の証明がないことに帰するので、刑事訴訟法第三百三十六条に則り、被告人等に対し無罪の言渡をすることとする。
よつて主文の通り判決する。
(裁判官 栗本一夫 外池泰治 堀江一夫)