東京地方裁判所 昭和32年(ワ)3611号 判決 1958年12月27日
原告 佐野麗子 外一名
被告 水橋章吉
主文
被告は原告佐野麗子に対し金三〇万円、同佐野勇に対し金四万四〇四八円並びに右各金員に対する昭和三二年五月一八日からそれぞれその支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
原告佐野麗子のその余の請求は棄却する。
訴訟費用は被告の負担とする。
この判決は、原告佐野麗子において金六万円、原告佐野勇において金一万円の各担保を供するときは、主文第一項に限り、仮りに執行することができる。
事実
原告等訴訟代理人等は、「被告は、原告麗子に対し金一〇〇万円、同勇に対し金四万四〇四八円並びに右各金員に対する昭和三二年五月一八日からそれぞれその支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決並びに仮執行の宣言を求め、その請求の原因として、
(一) 原告麗子(昭和二二年三月三一日出生、後記事故発生当時満九才一〇ケ月、小学校第四学年在学)が昭和三二年二月四日午後三時頃学校からの帰途学友訴外根岸記子とともに東京都千代田区二番町一〇番地先路上にさしかかつたところ、反対方向から進行して来た被告の雇人訴外富田栄が引綱をもつて牽き、被告の飼育占有するグレートデン種の牝犬二頭は、突然相前後して原告麗子に跳びかかり、同人の顔、後頭部、頤、首、胸、腕等上半身至るところに咬みつき、同人の身体を引き倒し縦横に引きずり廻した。そのため、原告麗子は左腕関節骨折並びに両側上腕、前胸部、頤部、右耳前部及び後頭部等咬創の傷害を受け、なお、次の事由による多大の精神的損害を蒙つた。すなわち、原告麗子は、(1) 前記咬創が傷口を三六針も縫う重傷であつたため、事故当日より同年三月一七日迄東京警察病院に入院加療を受けその間学業を中断されたこと。(2) 右入院中負傷部分の治療手術のため苦痛を味つたこと。(3) 退院後原告麗子の左手は不自由であり全治迄相当期間加療を要すること。(4) 少女の身で二頭の大きな犬に襲撃されたことによる精神的衝撃は、その後単独では屋外を歩行出来ない程であつたこと。(5) 顔面の咬創による容貌毀損は将来においても女性として大きな精神的苦痛を味わねばならぬことが予想されること。
(二) 被告は、その占有にかかる前記犬二頭が原告麗子に加えた前記の精神的損害を賠償すべき義務あるところ、被告が少くとも数千万円の資産を有すること等をも考えると、その慰藉料額は金一〇〇万円を相当とする。
(三) 原告勇は、前出(一)記載の事故により原告麗子の父としてその治療費金三万二五六八円、通院交通費金七四八〇円の支払を余儀なくされ、かつ、原告麗子に事故当日着用させていた衣類一揃(金四〇〇〇円相当)を損傷されて合計金四万四〇四八円の損害を蒙つた。被告は原告勇に対し同人の蒙つた右の損害を賠償すべき義務がある。
(四) よつて、被告に対し、原告麗子は金一〇〇万円、原告勇は金四万四〇四八円並びに右各金員に対する本件訴状送達の翌日である昭和三二年五月一八日からそれぞれ右支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
と述べ、被告の抗弁事実を否認し、
立証として、甲第一号証乃至第三号証、甲第四号証の一乃至五、検第一号証乃至第三号証を提出し、証人富田栄、同根岸記子の証言及び原告勇、同麗子各本人尋問の結果を援用し、乙第一号証の二、乙第四号証の一乃至三の成立を認め、その余の乙号各証の成立は不知と述べた。
被告訴訟代理人は、「原告等の請求を棄却する。訴訟費用は原告等の負担とする。」との判決を求め、答弁及び抗弁として、
(一) 原告等の主張する請求原因事実中(1) 原告等主張の頃原告等主張の場所で被告の雇人たる訴外富田が牽き被告が飼育するグレートデン種の牝犬二頭が、当時満九才一〇ケ月、小学校第四学年在学中であつた原告麗子にかみつき、同人に原告等主張の傷害を負わせたこと。(2) 原告麗子が右事故当時たる昭和三二年二月四日から同年三月一七日迄入院したこと。(3) 原告勇が原告麗子の父であることは、いずれも認めるが、その余の事実は争う。
(二) 本件事故は被告の所有する二頭の犬の飼育訓練を担当していた訴外富田栄が右の犬を運動に連れ出した間に起つたものであるから、右事故の際における犬の占有者は訴外富田栄であつて被告ではない。
(三) 仮りに被告が本件事故の際本件犬二頭を占有していたとしても、被告は右犬の種類性質に従い次のとおり相当の注意をもつてその保管をしていたものであるから被告に過失はない。すなわち、
(1) 本件事故を惹起した二頭の犬は、いずれも、愛犬家の間に子供の護衛犬として知られている性質温順なグレートデン種の牝犬であるが、うち一頭のリリーは、昭和二七年四、五月頃被告が飼育を始めて以来、訓練士をつけ、数箇月にわたり家庭犬としての服従訓練を施し、優秀な成績で訓練試験に合格しており、その後も引続き四、五名の訓練係が交替で訓練を重ねて来たもので、只一度学童の挑発により、塀を飛び越えて学童一名に軽傷を負わせたことがあるほか、街頭を運動させても通行人にかみついたことはなく、他の一頭ボピーもリリーの子であるがリリーとともに優良犬に選定され、それ迄事故を起したことはなかつた。
(2) 被告は、自宅敷地内に鉄製アングルに太い鉄網を張り床をコンクリートで固めた丈夫な犬舎を設けて、ここに本件犬二頭を入れ、その逸走を防止する等の注意を払つた。
(3) 被告は、昭和三二年一月一五日本件犬の飼育係としてとくに犬の飼育に経験深き訴外富田栄を雇入れたのである。同人は、昭和一八年九月三〇日期鮮総督府官立水原高等農林学校獣医畜産学科を卒業し、獣医の資格を有する上、獣医少尉として軍用犬の訓練に関係し、また被告が雇入れる直前迄東京都新宿区西落合二丁目二四九番地米国人マクダーナーのハウスボーイとして剽悍なワイマール成犬三頭、未成犬一二頭の飼育に従事していた経験の持主である。
(4) 被告は、現住所に移転した昭和三二年一月二五日以来、訴外富田に対し本件犬を運動のため屋敷外へ連れ出すには常に一頭づつ、早朝または夜間人通りの少い時刻を選ぶよう指示した。
(5) 被告は、本件犬二頭をそれぞれ牛皮製の長さ約四尺の堅牢な引綱並びに右の引綱を引けば自然に犬の頸部が締る仕掛の鎖製の頸輪をはめ、引綱によつて犬を自由に操作出来るよう配慮してあつた。
(四) 仮りに、被告に過失ありとしても、被告の代理人長男訴外水橋宏之は事故当日の午後六時三〇分頃麹町四丁目の交番において、同交番勤務の巡査立会の上、原告麗子の法定代理人でもある原告勇に金五〇〇〇円を見舞金として贈与し、なお治療費等一切を被告が負担することとし、原告等においては本件事故による被告に対する損害賠償請求権を放棄する旨の和解契約が成立したから、原告等の損害賠償請求権は消滅した。
(五) 仮りに和解契約の成立が認められないとしても、本件事故は訴外富田が原告麗子に大きな声を立てない様注意を与えたのに拘らず原告麗子が突然大声で「ギヤツ」と云つたため二頭の犬が驚いたことに起因するもので、被害者たる原告麗子の過失は損害額の算定にあたつて斟酌さるべきである。と述べ、
立証として、乙第一号証の一、二、乙第二号証、乙第三号証の一乃至三、乙第四号証の一乃至三、乙第五号証を提出し、証人富田栄、同根岸記子、同高木昭、同沢辺賢次郎の各証言、原告勇及び被告各本人尋問の結果並びに検証の結果を援用し、甲第四号証の一乃至五の成立は不知、その余の甲号各証の成立を認めると述べた。
理由
(一) 昭和三二年二月四日午後三時頃東京都千代田区二番町一〇番地先路上において被告の雇人訴外富田栄が引綱をもつて牽き被告の飼育するグレートデン種の犬二頭が原告麗子を襲い、同人に左腕関節骨折並びに両側上腕、前胸部、頤部、右耳前部及後頭部等咬創の傷害を与えたことは、当事者間に争いがない。
(二) 被告は、右事故は被告の雇人富田が右二頭の犬に戸外運動をさせていた間に起つたもので、その際における右犬の占有者は富田であつて被告ではない旨争うので、まずこの点について判断する。
証人富田栄の証言、被告本人尋問の結果に弁論の全越旨を参酌すると、
(1) 被告は、昭和三一年一月一五日新宿職業紹介所の斡旋によつて富田栄を雇入れ、目前に迫つていた転宅の準備、その他の家事の手伝をさせ、旁ら右富田が獣医の資格を持ち動物の取扱いに慣れているのを幸、本件の犬二頭を含む畜犬四頭に餌をやらせ、あるいは被告の屋敷外に連出して運動をさせる等その世話をさせていたこと。
(2) 本件事故は、富田が被告から指示されて本件二頭の犬を被告の屋敷外に連出し運動をさせていた際に起きたものであること。
を認定するに足り、右認定を左右するに足る証拠はない。
右の事実によれば、本件事故当時、富田は雇主たる被告を補助し、その機関として本件犬二頭を占有していたものにすぎずその法律上の占有者は被告であつたものというべきであるから被告の前記主張は採用できない。
(二) 次に、被告は、本件二頭の犬はいずれも服従訓練を受け、その性質も温順で他人に害を加える虞れのない犬であるが、平素は堅固な犬舎内に入れてその逸走を防ぎ、また、その飼育には動物の取扱に経験深き訴外富田にあたらせる等本件の犬の種類性質に従い相当の注意をもつてその保管をした旨抗弁する。
思うに、およそ他人を自己の占有機関として動物を占有する者は、その占有機関として適当な者を選任するとともに、事故の発生を防止するため右の占有機関に適切な指示を与える等これを監督すべき責任あることは勿論であるが、たといその選任監督に何等の過失なしとするも、万一その占有機関たる者に動物の保管について過失があれば、その過失について当然責に任ずべきものと解すべきである。そして、本件事故当時富田栄が被告の占有機関として本件犬を占有していたこと、前段認定のとおりであるところ、本件事故について、富田栄に過失あること後記(三)に説示するとおりであるから、被告もまた本件事故の際における本件犬の保管につき過失があつたものといわねばならない。
(三) 本件二頭の犬はグレートデン種の牝犬であること当事者間に争いがないところ、証人沢辺賢次郎の証言により真正に成立したものと認める乙第二号証、右証人の証言、被告本人尋問の結果を綜合すると、一般にグレートデン種の犬は、比較的性質は温順であり、本件二頭の犬もよく家族には馴れていたこと。うち一頭のリリーは、本件事故後である昭和三二年九月二〇日、日本警備犬協会の訓練試験(咬癖の有無をも検査する。)に優(九〇点以上)の成績で合格していることが認められるが、被告本人尋問の結果及び弁論の全趣旨により真正に成立したと認める乙第五号証によれば、右リリーは、被告が新宿区下落合に居住していた頃附近の学童に挑発され塀を飛越えて追掛け、一名に擦過傷を与えたことがあること。一般に犬はかん高い声をきらい、本件二頭の犬もその例外ではないこと並びに、昭和三三年八月八日当時、前記リリーは体量五六キロ、背丈七六糎体長八二糎であり、他の一頭ポピーは体重四五キロ、背丈七三糎であつたことが認められ、右の事実から右二頭の犬が本件事故当時も大きく、かつ、力の強い犬であつたこと並びに甲高い声の衝撃によつて驚けば事故を起すこともありうることが推認され、右認定に反する証拠はない。そして、検証の結果によれば本件事故が発生した場所であること当事者間に争いのない東京都千代田区二番町一〇番地先道路は周囲は閑静な住宅街であり人通りの少い場所であるが、都電麹町四丁目停留所方面から市ケ谷方面に抜ける幅員四、一米の非鋪装の公道であることが認められる。
思うに、畜犬は、一般に家人に対しては温順であるが、未知の人に対しては必らずしもそうでなく、また音響その他外界の刺戟により容易に昂奮する性癖を有する動物であるから、犬を戸外に連れ出す者は、万一犬が昂奮した際にも充分これを制禦出来るよう、自己の体力、技術の程度と犬の種類、その性癖等を考慮して、通行の場所、時間、犬を牽引する方法、その頭数等について注意を払うべき義務があるものというべきところ、証人富田栄の証言によれば、訴外富田は身長五尺三寸、体重一三貫の小柄な男であること。同人が昭和三二年一月一五日被告に雇われてから本件事故当日迄僅か半月を経過したばかりで、本件二頭の犬を取扱つた期間も短く、未だ右犬の制禦方法を会得していなかつたこと。それにも拘らず白昼右二頭の犬を一緒に運動させたため、右二頭の犬が原告麗子に跳びついた際その力に負けてこれを制禦することができなかつたことが認められ、右認定に反する証拠はない。
もし訴外富田において、本件犬を一頭ずつ夜間或いは早朝人通りの少い時間運動させていたとすれば、本件事故を避けることが出来たであろうことは容易に想像出来るところであるから、訴外富田は前記の注意義務を怠つたものといわねばならない。
(四) 被告は、本件事故について、原告等、被告間に右事故の当日和解が成立したと抗弁するが、これを認むべき証拠はない。被告のこの抗弁も理由がない。
(五) そこで、原告麗子に対する慰藉料額について考える。
(1) 被告は、本件事故は、原告麗子が訴外富田の注意を無視し突然大声で悲鳴をあげたため、本件二頭の犬が驚いたため発生したもので、被害者たる原告麗子にも過失があると主張するが、証人根岸記子の証言及び原告麗子本人尋問の結果によれば、原告麗子は、本件事故の際「キヤツ」と悲鳴をあげたがそれは同人が右二頭の犬のうち一頭に左腕を咬まれた瞬間であることが認められ、これに反する証人富田栄の供述部分は信用するに足らず、他に右認定を左右する証拠はない。尤も、右悲鳴が、一層犬を昂奮させ、原告麗子の傷害を大ならしめたことは推認される。しかし、原告麗子は、事故発生の当時満九才一〇ケ月の小女にすぎなかつたのであるから(当事者間に争いがない。)前認定のとおりの大きさの本件犬に襲われた際驚いて悲鳴をあげないことを期待するのは不可能であるから、右悲鳴をあげた点を目して原告麗子に過失があるとする被告の主張は採用できない。
(2) 原告麗子が本件事故により前出(一)記載の咬創等の傷害を受けたこと及び同人が昭和三二年二月四日から同年三月一七日迄入院していたことは当事者間に争いがない。そして証人高木昭の証言、原告勇及び被告の各本人尋問の結果並びに被告本人尋問の結果によつて成立を認める乙第三号証の一乃至三及び検第一号証乃至三号証を綜合すると訴外高木昭が本件事故後原告麗子を発見したときは負傷して失神状態で現場附近の道路上に倒れていたこと。右咬創による傷痕は、顔面、頤下胸、両腕、脇下等一〇ケ所を越え、うち顔面の傷は現在では幸い薄れているが頤下その他のものは顕著な斑痕となつて残り、女子の身である同人の将来に大きな精神的苦痛を負わせるであろうこと。退院後も同年四月五日まで隔日通院したこと。退院後も暫らく小学校における体操を休んだことが認められ、幼い原告麗子が本件事故によつて蒙つた肉体的精神的苦痛は相当深刻であつたことが窺えるが、他方被告は、本件事故後その長男訴外水橋宏之及び訴外富田をして原告勇方を訪れ見舞金五、〇〇〇円を贈り、その後も右宏之をして何回となく人形、食物等を携えて病院に原告麗子を見舞わせ、同人を慰藉するに努めており、被告自身も原告勇方を訪れて謝罪の意を示していることが認められるので、これらの事情を斟酌すると慰藉料の額は金三〇万円が相当であると認める。
(六) 次に原告勇の損害について検討する。原告勇が原告麗子の父であることは当事者間に争いがない。そして、証人根岸記子の証言、原告勇本人尋問の結果並びに同尋問の結果により成立を認める甲第四号証の三、五、及び成立に争のない甲第三号証を綜合すると、原告勇は、本件事故により、原告麗子の治療費として金三万二五六八円を東京警察病院に支払い、また原告勇、同麗子の通院交通費として金七四八〇円を支出し、さらに本件事故により原告麗子に着用させていたガーデイガン、下着等衣類一揃(四〇〇〇円相当)は全く着用できない状態に損ぜられたため、合計金四万四〇四八円相当の損害を蒙つたことが認められ、右認定に反する証拠はない。そして、右損害は被告の過失によつて惹起された本件事故に原因するものであるから、被告は原告勇に対して右損害を賠償すべき義務がある。
(七) 以上要するに原告麗子の請求は金三〇万円、原告勇の請求は金四万四〇四八円及び右各金員に対する本件訴状送達の日の翌日であること記録上明らかである昭和三二年五月一八日からその支払ずみまで民法所定年五分の割合による金員の支払を求める範囲でそれぞれ理由があるので認容し、原告麗子のその余の請求はいずれも理由がないので棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、第九二条但書、仮執行の宣言につき同法第一九六条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 磯崎良誉)