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東京地方裁判所 昭和33年(ワ)1776号 判決 1960年12月26日

原告 大舘一良

被告 国

訴訟代理人 河津圭一 外三名

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一、当事者双方の求める裁判

一、原告は「原告と被告との間に昭和二六年七月一日締結した雇用契約にもとづく雇用関係が存在することを確認する。被告は原告に対し金九八万五六六六円を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求めた。

二、被告は「原告の請求を棄却する。」との判決を求めた。

第二、請求原因

一、原告は、昭和二六年七月一日いわゆる駐留軍労務者として被告に雇用され、米国極東陸軍の第一騎兵師団に所属する、当時東京都府中市にあつた府中兵器廠の所沢支廠において、その後昭和二九年中右兵器廠が埼玉県所沢市所在の所沢基地内に移転されて右支廠を合併のうえ所沢兵器廠となつてからは同兵器廠において電力電気工として勤務していたものであるが、被告の行政機関である埼玉県所沢渉外労務管理事務所長から「日本人及びその他の日本国在住者の役務に対する基本契約」。(以下の労務基本契約という。)の附属協定第六九号(以下附属協定という。)第一条a項所定のいわゆる保安基準に該当するとの理由で昭和三一年七月一〇日付をもつて解雇する旨の意志表示をうけた。

二、しかしながら、右解雇の意思表示は、以下に述べる理由により無効である。

1、原告には右にいうような解雇の理由に該当する事実はなかつたのであるから、かかる虚無の理由にもとづく解雇の意志表示は無効である。

2、原告に対する解雇の理由は、表面的には附属協定第一条a項に定める保安上の危険とされているが、実際には原告がその所属する労働組合の正当な行為をしたことを駐留軍(以下軍という。)が嫌悪したことにあるのであつて、右解雇の意思表示は、労働組合法第七条第一号の不当労働行為にあたるものとして無効である。左にその論拠を説明する。

(一) 原告は、昭和二九年一一月二九日全駐留軍労働組合(以下全駐労という。)埼玉地区本部キヤンプ所沢支部に加入したが、当時原告の勤務していた所沢兵器廠内の職場で働く日本人労務者で労働組合に加入している者はなくそのほとんどが相互扶助会という職場の親睦団体に入会していた。相互扶助会は、その設立当時になされた告示によると軍のフレーザー少佐が会長で、その他の幹部には大部分職制が就任し、軍の援助のもとにその育成が図られて来たのであつて、昭和二七年四月頃その副会長二名が同会の労働組合への改組を主張したため軍に難詰されたような事実もあつた。軍は、相互扶助会の会員の労働組合への加入に対して露骨な反対の態度を示し、労働組合のため活動している日本人労務者を発見すると、解雇をもつて脅びやかすような状況であつた。このような情勢にもかかわらず、原告は、中山七郎および横田常吉と力を合わせて職場の日本人労務者に対し原告の所属する全駐労埼玉地区本部キヤンプ所沢支部への加入を勧誘し、昭和三〇年一月当時右支部に加入した約一四〇名中八十数名は原告が説得したものであつたが、原告は軍の圧迫を恐れて自らの労働組合加入の事実を秘して右活動を続けたのである。

(二) 原告は、相互扶助会に対する反対運動の急先鋒に立つていたところ、たまたま同会の幹部に会計上の不正措置に関する疑惑がもたれたことから、会員に対し署名運動を起して同会の解散大会を開催せしめ、自ら議長となつて当該幹部を追究し、昭和三〇年四月頃同会を解散させることに成功した。しかるにその後をうけて、原告の勤務する職場に相互扶助会と性格を同じくする親睦会という団体が結成されるに至つたのであるが、その発起人の多くは職制で、この会も軍の庇護をうけてその活動を行なつていた。

(三) 原告は、昭和三〇年四月その所属する全駐労埼玉地区本部キヤンプ所沢支部の定期大会において同支部の執行委員に選出され、教宣部長となつたが、右労働組合による同年の春季賃上闘争に際して親睦会がその機関紙に右労働組合の行動を破壊的なものであるとしてこれを批判する記事を掲載したのに反論を執筆して右労働組合の機関紙に発表するなど、親睦会との抗争に重要な役割を果した。

(四) 全駐労埼玉地区本部キヤンプ所沢支部には、原告の職場の日本人労務者のほか所沢基地内の第四三工作大隊に勤務していた日本人労務者が加入していたが、右各職場から選出された同支部の執行委員間にはかねてより意見の対立があつた。例えば、昭和三〇年五月頃から五回に亘つて旧第四三工作大隊関係の日本人労務者について行なわれた人員整理および同年八月一九日全駐労埼玉地区本部朝霞支部の執行委員長橋詰信之助と同副執行委員長高橋軍治に対してなされた出勤停止処分につき労働組合としてとるべき態度に関して両者は、互に見解を異にしていた。そのような事情から、同年一〇月二一日原告の職場の組合員は、前記部隊出身の執行委員のとかく微温的な言動にあきたらず、同支部から分離して所沢のオーデナンス支部を結成したのであるが、その結成大会において原告は同支部の副執行委員長に選出され、かつ前記地区本部の委員となつた。

(五) 昭和三〇年一一月原告の勤務する職場の日本人労務者に対して昭和二六年から続けられていた特殊作業手当の支給が同年九月に遡つて停止されたことについて、全駐労埼玉地区本部所沢オーデナンス支部が埼玉県所沢渉外労務管理事務所(以下所沢労管という。)に抗議したことから開催された労使間の合同協議会において、原告は、右労働組合の他の幹部らとともに、右措置につき追究した結果、右手当の支給に関して軍の労務連絡士官の承認を欠いていたという手続上の不備と受給者の担当する作業内容からみてその支給に疑義がもたれた向きもあつたため、軍において所沢労管に連絡なく右措置をとつたものであることが判明したのであるが、その後労使間の団体交渉と作業内容の実態調査とを経て、昭和三一年一月末頃に至り、作業の実情に適応して右手当の支給が再開されることになつた。

(六) 昭和三一年春全駐労が賃上闘争を行なつた当時原告は、前記支部の副執行委員長、教宣部長であつたが、その頃同支部の石川執行委員長が病気のため欠勤勝ちであつたところから、同支部の闘争委員長となり軍の監視にあいながらも各職場をオルグして約一〇〇〇名の組合員を総括し、右支部をして全駐労埼玉地区本部傘下の支部の中で最も早くスト権を確立させた。

(七) 右賃上闘争が行われている間に起つた所沢兵器廠内モータープールの人員整理問題につき全駐労埼玉地区本部所沢オーデナンス支部は、必然的に残留労務者の労働強化を招来する不当なものであるとしてこれに反対し、同年五月一七日および一八日の両日ストライキを決行する旨の通告をするまでに至つた。右闘争中原告は、基地のゲート前で右人員整理に反対する演説をするなど、教宣活動に従事し、軍の注目をひいた。かくして右人員整理案は撤回され、整理予定全人員の配置転換によつて事態の解決をみるに至つた。

(八) 原告は昭和三一年七月三日全駐労埼玉地区本部所沢オーデナンス支部の定期大会において同支部の執行委員長に選出されたところ、その矢先同月六日軍から基地外退去を命ぜられ、さらに軍の要求により続いて上述のとおり同月二〇日付で、被告より保安解雇の通告をうけたのである。

(九) 軍が被告に対して原告の保安解雇を要求するに至つた経過は、次のとおりである。

(1) 原告の勤務していた所沢兵器廠その他東京都内および同近辺に駐留する米国極東陸軍の諸部隊および諸施設において働く日本人労務者の労務管理については、中央軍管区司令部内の東京管区労務連絡室の労務連絡士官がこれを指揮していたが、所沢兵器廠には別に労務士官が配置され、そこに勤務する日本人労務者に関する直接の労務管理にあたつていた。

(2) 昭和三〇年四月に原告が全駐労埼玉地区本部キヤンプ所沢支部の執行委員となつた頃から原告の勤務する職場において、急速に日本人労務者の労働組合加入がふえ、労働組合活動が活発になつたところ、原告に対する作業上の監督官であつたルザツク軍曹は、原告がその中心に立つて活躍しているものとみて、にわかに原告に対し監視を強化し圧迫を加え、その職場における労働組合活動の抑圧に乗り出した。例えば、職場で労働組合の機関新聞を読んでいた原告に対し日本人監督者を通じて警告したこと、休憩時間中に他の職場から労働組合の活動家が連絡のため原告の職場へ集まつて来るのを中止するよう日本人監督者に注意させたこと、原告を他の職場に配置転換したこと、職場における労働組合活動の中心人物である原告に対し監視を要する旨労務士官に報告したことなどは、その一端を示すものである。

(3) 中央軍管区司令部東京管区労務連絡室の労務連絡士官パドベリイは、労働組合嫌いで有名であつたが、全駐労埼玉地区本部の執行委員で、同地区本部朝霞支部の専従書記長であつた福井達三の労働組合活動が活溌なのに着目して、昭和三〇年七月同地区本部の執行委員長太田桂助および同書記長西島武夫に対し、福井達三が軍にとつて好ましくない人物であるとして同人の労働組合よりの排除を要求すると同時に、その要求を容れない限り軍としては当該労働組合との交渉に一切応じられないのみならず、かかる人物と行動を共にする者に対しては保安解雇の処置に出るべき旨申し入れたところ、同月二十九日右地区本部執行委員長太田桂助の名において文書により、不当労働行為にあたることを理由に右要求を拒否された。ところで右地区本部の執行委員会における右問題に関する討議に際して、副執行委員長の橋詰信之助(朝霞支部の執行委員長)始め執行委員の高橋軍治(朝霞支部の副執行委員長)、原告、中山七郎、三輪寿一、および倉林三津雄(原告はキヤンプ所沢支部の副執行委員長で他の三名は同支部の執行委員であつた。)は、軍の前記要求に対して強硬な反対意見を述べたのであるが、このことを知つたパドベリイは、橋詰信之助と高橋軍治を同年八月中保安上の理由による出勤停止に処せしめたほか、同年九月始め頃原告以下前記四名の者を基地外に排除するための処分をとるべき旨所沢兵器廠の司令官に指令するところがあつた。もつともさすがにパドベリイの右措置の行過ぎを認めた軍の上級機関により原告以下四名に対しては処分が留保され、パドベリイはその職を解かれて本国へ帰任を命ぜられ、その後任のキリオンによつて高橋軍治に対する出勤停止処分は同年一二月五日に、橋詰信之助に対する同上処分も昭和三一年二月八日に解除されるに至つた。

(4) ところが原告は、その後既述のとおり軍の要求にもとづき、軍に対する保安上の危険を理由に被告から解雇の意思表示をうけたのである。

これを要するに、前述のような原告の労働組合活動の状況およびこれに対する軍の態度にかんがみるときは、原告に対する保安解雇の決定的な理由は、原告の正当な組合活動を軍が嫌悪したことにあつたものとみるべきである。

3、被告が本訴において明らかにしたところによると、軍は被告に対して原告の保安解雇を要求するについて、原告が昭和二四年三月一七日以来日本共産党東京都豊島区委員会の構成員であつたことに着目していたというのであるから、原告の解雇理由にいわゆる軍に対する保安上の危険とは、具体的には右事実を意味するものと認めるべきである。してみると原告に対する解雇の意思表示は、結局原告の思想信条を理由とするものというべく、日本国憲法第二一条および労働基準法第三条の各規定に違反するものであつて無効である。

三、叙上いずれの理由によるにせよ、被告が原告に対してした昭和三一年七月二〇日付保安解雇の意思表示は無効であり、原告と被告との間にはその後においても依然として雇用契約にもとづく法律関係が存続しているものであるところ、原告は右解雇の意思表示をうけるまで被告から一カ月分(月の初日より末日まで)の賃金として基本給、家族手当、時間外手当、有給休暇出勤手当を毎翌月の一〇日限り、そのほかに毎年夏期手当および年末手当を支給されていたのであるが、右解雇の意思表示のなされた後その支払がなされなくなつた。そこで原告は、被告に対し原告と被告との間に昭和二六年七月一日締結にかかる契約にもとづく雇用関係の存在することの確認および昭和三一年七月二一日から本件口頭弁論終結の日である昭和三五年四月一三日までの間に支払期日の到来した諸給与の支払を本訴において請求するものであるが、右請求金額の明細は左のとおりである。

1、基本給

駐留軍労務者に対する基本給の現実の支払額は、所定の基本給月額を月間の所定労働時間数である一七六で除したものに当該月における実際の稼動時間数を乗じて算出されるものであるが、原告の基本給月額は、特別調達庁長官の定めた「連合国軍関係技能士系統使用人給与規程」(昭和二三年特調庶発第四四六号。以下給与規程という。)により昭和三一年四月一日以降金一万四四四〇円であつたころ、昭和二六年六月九日特調乙発第三七二号による給与規程の一部改訂により、右規程の適用をうける駐留軍労務者の基本給月額については、当該労務者が六カ月以上満足すべき勤務をした場合には、毎年一月、四月、七月および一〇月の各一日ごとに金二〇〇円づつの昇給が行なわれることが定められたのであるが、昭和三二年四月一日に賃金ベースの改訂があり、かつこれに伴つて以後における右昇給額が全三三〇円となつたのに従つて、在来の勤務成績にかんがみ、被告から解雇の意思表示さえなければ当然右所定の昇給にあずかるはずであつた原告の基本給月額は、昭和三一年一〇月一日からは金一万四六四〇円、昭和三二年四月一日からは金一万五八八〇円、同年一〇月一日からは金一万六二一〇円になつたはず(その後における昇給予定については特に主張しない。)である。以上に説明した基準によつて原告が本訴において請求する昭和三一年七月二一日以後原告に対し現実に支給されるべかりし基本給は、別表中(1)欄の基本給月額と(2)欄の稼動時間とに応じて(3)欄記載の金額(但し、昭和三一年七月分としては、被告からすでに支払ずみの金額を差し引いた残額を掲げた。)となる計算である。

2、家族手当

別表中(4)欄に掲げるとおり毎月の金額が金一〇〇〇円(昭和三一年七月分については、被告からすでに一部支払があつたので、その残額を掲げた。)である。

3、時間外手当

給与規程によると、一カ月の労働時間が一七六時間を超えるときには、その一時間につき基本給月額の一七六分の一・五に相当する時間外手当が支給される定であるが、昭和三一年八月および一〇月と昭和三二年一月、五月および七月は暦日の関係で月間の労働時間が最低一八四時間となり、少なくとも八時間分の時間外手当が支給されるべきものであつたところ、原告も被告から解雇の意思表示をうけなければ右各月の労働時間全部を勤務したはずであるから、これによつて支給されるべかりし時間外手当の額は、別表中(5)欄記載のとおりである。

4、有給休暇出勤手当

給与規程においては、原告のような技能工系の駐留軍労務者は月二日の有給休暇をとることができるが、もしこれをとらなかつた場合には、一日につきその者の基本給月額の二二分の一に相当する手当を加給するものと定められていたが、昭和三二年一〇月一日から発効した新しい日米労務基本契約では、月の所定労働日の八〇パーセント以上を勤務した常用労務者は、その月において一六時間の有給休暇をとる権利を取得するが、これを行使しなかつた場合には、その時間につき通常の勤務による賃金の率にもとづき手当が支給されることになつた。原告は、被告から解雇の意思表示をうける以前常に月二日(一六時間)の有給休暇請求権取得していながらこれを行使しないでいたのであつて、右解雇の意思表示後においても同様の勤務態勢を継続していたはずであるから、別表中(6)欄記載のような有給休暇出勤手当の支給を被告に対して請求し得べきものである。

5、夏期手当および年末手当

原告は、昭和三一年七月以降駐留軍労務者として勤務していたとすれば、昭和三一年度の年末手当として金二万五八〇六円、昭和三三年度の夏期手当として金一万二六六〇円同年度の年末手当として金三万九七八円を被告から支給されていたはずである。

すなわち昭和三一年七月二一日(原告が被告から受領した保安解雇の意思表示の発効日とされた日の翌日)から昭和三五年四月一三日(本件口頭弁論終結の日)までの間にすでに履行期が到来したものとして原告が被告に対して請求し得る賃金(上掲年末手当および夏期手当を含む。)の総額は九八万五六六六円に

達するわけである。

第三、請求原因に対する認否および被告の主張

一  1、請求原因一記載の事実は認める。

2、請求原因二記載の被告が原告に対してした解雇の意思表示が無効であるという主張は争う。

原告の主張するように右解雇の意思表示が虚無の事由にもとづくものであることは否認する。原告に関する解雇理由としては、後述のような事実が実在したのである。

原告の主張するとおり原告に対する解雇の意思表示の実際上の理由が原告の正当な組合活動を軍が嫌悪したことにあることは否認する。右主張の論拠とされている事実については、以下のとおり認否する。

(一)の事実中原告がその主張の日に全駐労埼玉地区本部キヤンプ所沢支部に加入したこと、その当時原告の勤務していた所沢兵器廠内の職場の日本人労務者で労働組合に加入している者がなく、そのほとんどが相互扶助会という職場の親睦団体に入会していたこと、同会の労働組合への改組が論議されたことのあつたことおよび原告主張の頃(正確にいえば昭和二九年九月頃から同年一二月頃までの間)に約一四〇名の日本人労務者が右支部に加入したことは認めるが、右人数のうちに原告の説得により右支部に加入した者があつたかどうかは知らない。その余の事実は否認する。右のような約一四〇名の者が全駐労埼玉地区本部キヤンプ所沢支部に加入したのは、すでに他の支部の組合員であつた第四三工作大隊に勤務する日本人労務者が人員整理のため原告の職場に前示期間中において約一五〇名配置転換されたという事情があつたことによるものである。相互扶助会は、日本人労務者の福利厚生を目的とする単なる親睦機関であつてフレーザー少佐が会長に就任したことはもとより軍がその育成を図るため援助を与えたようなことはなく、同会の設立当時における役員一〇名中職制の地位にあつたものは桜庭広と小峰麒一の二名にすぎなかつた。同会の内部で労働組合への改組問題が論議されたことはあつたけれども、会員の投票により否決されたのであつて、軍の全く関知しなかつたところである。軍は、かねてよりその使用する日本人労務者の労働組合に関する活動について不介入の基本方針を堅持し、むしろこれを尊重し保障しこそすれ、これを妨害したり圧迫したりしたことは絶対にない。

(二)の事実中相互扶助会がその幹部の会計上の措置について不正の疑惑をもたれたことから昭和三〇年四月頃解散したことおよびその後親睦会が結成されたことは認めるが、原告が相互扶助会の解散についてどのような行動をとつたかは知らない。その余の事実は否認する。親睦会の結成当初における役員七名中職制の地位にあつた者は猪坂勇栄と野村茂の二名のみで、同会も相互扶助会と同じく軍とは特別の関係はなかつたのである。

(三)の事実中原告がその主張のように労働組合の役職に就いたことは認めるが、その余の事実は知らない。

(四)の事実中原告の主張するように全駐労埼玉地区本部キヤンプ所沢支部の内部に意見の対立があり、そのことが全駐労埼玉地区本部所沢オーデナンス支部の結成の動機となつたことおよび原告がその主張の頃全駐労埼玉地区本部の委員になつたことは知らないが、その余の事実は認める。

(五)の事実中一旦停止された特殊作業手当の支給再開が原告およびその所属する労働組合の幹部の活動に負うものであることは否認するが、その余の事実は認める。軍が特殊作業手当の支給を停止したのは、原告も主張しているような理由にもとづいたものであつて、その措置はあくまで一時的のものであり、軍としては、右措置と同時に新しい手続による支給の復活について準備を進め、昭和三〇年一〇月頃にはすでに成案を得て関係書類を所沢労管に発送したのであるが、事務上の手違いから同労管によるその受領がおくれたほか、支給の対象となるべき作業の内容につき右労管において検討を加える必要があつたため支給の再開に幾分手間取つたものである。もつとも所沢労管では軍が右手当の支給を停止したことをその当時気付かず、労働組合からの申入れをうけて軍に照会した結果事実を確知したのであるが、元来軍の措置は、上述のような理由によつてとられたものであつたところから、早晩解決をみるべき問題であつて、この点に関して労働組合との間に特段の紛争を生じたこともないし、原告が労使間の交渉にあたつて積極的な発言等をして、軍の注目をひいたようなことも無論なかつたのである。

(六)の事実中昭和三一年春全駐労による賃上闘争が行なわれたことおよび当時原告がその主張のような労働組合の役職に就いていたことは認めるが、その余の事実は知らない。全駐労全体による右闘争において、原告の活動が特に目立つたものであつて、ことさら軍を刺戟したものとは考えられないのである。

(七)の事実中原告の主張する人員整理につき全駐労埼玉地区本部所沢オーデナンス支部が反対して、原告主張のとおりストライキの通告をしたことおよび右人員整理が予定人員全部の配置転換によつて解決されたことは認めるが、右人員整理案が撤回されたことは否認する。その余の事実は知らない。

右配置転換は、人員整理の当初から計画されていたものであつて、所沢労管において労働組合と話合いの機会をもつたことはあるが、労働組合の要求によつて整理の方法を変更したり、その案を撤回したようなことはない。

(八)の事実は認める。

(九)の(1)の事実中中央軍管区司令部内の東京管区労務連絡室の労務連絡士官が原告主張のような日本人労務者の労務管理につき指揮権を有していたことは否認し、その余の事実は認める。右労務連絡士官は、所沢兵器廠等に勤務する日本人労務者の労務管理につき連絡、指導および支出関係書類の認証等を担当するだけがその職責であつたのである。

同上(2)の事実中原告に対する作業上の監督官であつたルザツク軍曹が原告に対し日本人監督者を通じて、職場において労働組合の発行にかかるものに限らず新聞を読んではいけない旨警告したほか、業務上必要のない者を職場内に入れないようにとの注意を与えたことはあるが、もとより当然の措置であつて、何ら非難されるべきものではない。なお、新聞の閲読に関する警告は、原告が全駐労埼玉地区本部キヤンプ所沢支部の執行委員になつた昭和三〇年四月より以前のことである。原告の職場において日本人労務者の労働組合への加入が急増した事情は、前述したとおりである。その余の事情は否認する。

同上(3)の事実中中央軍管区司令部東京管区労務連絡室の労務連絡士官パドベリイが全駐労埼玉地区本部の書記長西島武夫に対し原告主張の頃原告主張の福井達三の労働組合からの排除につき申入れ(その内容は、後述のようなものであつた。)をしたこと、この申入れに関する右地区本部の執行委員会の討議において執行委員の意見が対立したこと、原告主張の頃原告の主張する橋詰信之助および高橋軍治に対して保安上の理由により出勤停止の措置がとられたこと、パドベリイが本国へ帰任し、キリヨンがその後任者として就任したことおよび橋詰信之助と高橋軍治に対する出勤停止の措置が後に解除されたことは認めるが、その余の事実は否認する。福井達三の件に関して前記申入がなされたのは、同人に軍の保安上危険が実在したからにほかならず、軍においては、かかる人物が執行委員会の構成員に加わつている以上、右地区本部との折衝には応じられないし、労働組合にとつても不利益を招来するであろうとして、善処を要望したにすぎないのであり、また右地区本部の執行委員会の討議に際して意見の対立があつたとはいうものの、福井達三の労働組合からの排除に反対したのは、朝霞支部から選出された執行委員のみで、キヤンプ所沢支部出身の執行委員は、もし福井達三に軍のいうような事実があれば同人を労働組合から脱退させることもやむを得ないとの留保付で、右反対意見に同調していたに止まるのである。同上(4)の事実は認める。

原告の主張するごとく被告の原告に対する解雇の意思表示が原告の思想、信条を理由としてなされたことは否認する。

3、請求原因三記載の事実中被告の原告に対する解雇の意思表示が無効であつて、原告がその後も被告との雇用契約にもとづき、有給休暇出勤をも含めて完全に労務の提供を継続したとすれば、原告主張の定期昇給および賃金ベースの改訂を加えて原告主張の期間中においてその主張のような種別および金額の給与を被告から支払われるべきものであつたことは認める。

二、被告が原告に対して解雇の意思表示をしたのは、つぎのようないきさつと理由によるのである。

原告の保安解雇については、昭和三一年四月一一日米国極東陸軍司令部から附属協定第一条c項所定の通告をうけた調達庁長官において同年五月九日意見を述べ、以後所要の手続を経て、所沢労管所長より原告に対し附属協定第一条a項所定の保安基準に該当することを理由に同年七月二〇日限り原告を解雇する旨の意思表示をしたのである。

軍が果してどのような具体的事実にもとづいて原告を保安解雇すべきものと認定したかを詳らかにすることはできないけれども、原告が昭和二四年三月一七日頃以来日本共産党東京都豊島区委員会の構成員であつた事実に軍が着目して調査を続けていたことからみても、そもそも米国極東陸軍司令官が駐留軍労務者の保安解雇につき決定をするのにあたつては、担当職員の報告にもとづいて、もつぱら保安基準に該当する事由の有無について審査することを職責とする、軍の機関である保安解雇審査委員会に諮問し、かつ事前に調達庁長官の意見を聞くという慎重な手続をとるものである以上、当該労務者の労働組合活動が保安解雇の理由として考慮されることはあり得べくもないところである。右のような手続を経由してなされた原告に対する本件解雇の理由もまた軍に対する保安上の危険以外になかつたことは疑いの余地のないところである。

第四、被告の主張に対する認否

原告の保安解雇に関する手続として、昭和三一年四月一一日米国極東陸軍司令部から調達庁長官に対して被告主張のような通告があつたことは認めるが、その余の手続については知らない。

調達庁長官は、右通告をうけたのに対して原告に保安基準該当の事実がない旨の意見を述べたのであり、現に原告は、かつて日本共産党東京都豊島区委員会の構成員であつたこともなければ、その他原告には保安解雇の理由に該当するような事実は皆無であつたのである。

第五、証拠<省略>

理由

一  原告が昭和二六年七月一日いわゆる駐留軍労務者として被告に雇用され、原告主張のとおり始め府中兵器廠所沢支廠、ついで所沢兵器廠において電力電気工とし勤務していたところ、被告の行政機関である所沢労管所長から労務基本契約附属協定第一条a項所定のいわゆる保安基準に該当することを理由として昭和三一年七月二〇日付で解雇する旨の意思表示をうけたことは、当事者間に争いがない。

二  そこで右解雇の意思表示が無効であるという原告の主張について検討する。

1  原告は、まず最初に、原告には保安解雇の理由にあたる事由がなかつたのであるから、右解雇の意思表示は無効であると主張する。

ところで成立に争いのない乙第二一号証によれば、附属協定においては、駐留軍労務者に対する保安解雇の手続について左のような定がなされていることが認められる。すなわち、軍が駐留軍労務者に第一条a項(1)号ないしは(3)号所定の保安基準に該当する事実があると認める場合には、被告は、軍の通知にもとづき最終的な人事措置の決定があるまで当該労務者の軍の施設および区域への出入を直ちに差し止めるものとする。軍は、当該労務者が前記保安基準に該当するかどうかに関する決定をするにあたり、保安の許す限り、該当理由をあらかじめ被告に通告するものとし、被告は、右通告に関しては、軍がその決定をするに資する情報資料を軍に提供し、かつ自らの意見および見解を軍に対して述べることができるものとする。当該労務者が前記保安基準に照らして軍の保安に危険でありまたは脅威となるものと軍において決定した場合には、被告は、軍の要請に応じて当該労務者に対し必要な人事措置をとるものとする。以上の実施細目手続は、つぎのとおりとする。労務者が保安上危険であるとの証拠またはその他の情報を得た場合には、軍の指揮官は、直ちに当該労務者を軍の施設または区域から排除することができ、このときその他当該指揮官が適当と認めるときには、指揮官は、被告の行政機関である労務管理事務所長に対し、当該労務者の出勤を停止するよう要求するものとし、同所長は、当該指揮官の要求に従うものとする。労務者が保安上危険である旨の証拠またはその他の情報を得た場合、指揮官は、当該労務者が実際に保安上危険であるかどうかに関し決定をするに必要な調査を引き続き行わせなければならず、被告の所轄機関は、この調査を行なうにあたり援助を求められれば、すべてこれを提供するものとする。このようにして詳説された証拠を再調査した後、雇用終止の措置を正当であると決定した場合には、当該指揮官は、軍の保安上の利益の許す限り解雇事由を文書で労務管理事務所長に通知し、同所長は、その文書受領後三労働日以内にそれに関する意見を当該指揮官に述べるものとする。労務管理事務所長の提出した意見を検討した後、当該労務者を保安上危険であると認めた場合には、当該指揮官は、極東米国陸、海、空軍司令官によつて指名された所轄司令官に対し適当な勧告および雇用差止要求を附した完全な報告を提出するものとし、この報告および被告(調達庁長官)の意見を十分考慮した後、前記指名された司令官が当該労務者を保安上危険であると認めた場合には、その雇用を終止するに必要な人事措置を講ずるため当該労務者を労務管理事務所長に差向けることを命じて事案を指揮官に差戻すよう適当な措置を講ずるものとする。出勤を停止された労務者が保安上危険であることに労務管理事務所長が同意しない場合でも、同所長は雇用終止要求日から一五日以内に雇用終止の通告を発出するものとし、当該指揮官が当該労務管理事務所長に対して当該労務者がもはや保安上危険であると認めない旨通告しない限り、雇用終止要求日から一五日後に自動的に雇用が終止するものとする。上述したところが、附属協定による保安解雇の手続の概要であるところ、証人八木正勝の証言によると、右手続の実際の運用については、普通一般のものと特例のものとがあり、前者は、現地の指揮官が労務者に関して保安上の危険についての容疑をもつた場合にとられるものであつて、この場合において、当該指揮官は、調査の結果保安上の危険が存在するものと認めたときには労務管理事務所長の意見を求め、これを検討のうえ、なお右の危険があると思料すれば、上級司令官にこれを報告し、上級司令官が右報告を正当であると認めたときには、調達庁長官の意見を徴する等、保安解雇に必要な手続が進められるのに反して、後者は、労務者に保安上の危険がある旨の情報を上級司令官が現地の指揮官とは無関係に入手した場合に行なわれるものであつて、この場合には、上級司令官から直ちに調達庁長官に意見が求められて爾後の処理が遂行されるのであるが、原告に対する保安解雇は、右特例の手続に従つてなされたものであることが認められる。

さて叙上のような手続にかんがみるときは、被告がその雇用する駐留軍労務者に対して行う保安解雇においては、解雇理由の存否に関する認定についての最終の権限は軍に留保されているのであつて、被告は軍から要求された以上、当該労務者にたとえ解雇の理由がないものと考える場合であつても、必ず保安解雇の意思表示をしなければならないのである。そしてこのことは、駐留軍労務者を直接使用する立場にある軍にとつて、その保安を維持する見地からいつてまことにやむを得ない方策であるというべきである。してみると被告が所定の手続に則つてその雇用にかかる駐留軍労務者に対してした保安解雇の意思表示は、たとえその解雇の理由について被告が確証を挙げることができない場合であつても、そのことのために無効であるといい得ないことは明らかであり、右に反する見解に立脚する原告の前記主張は採用するに足りない。

2  原告は、さらに、被告が原告に対してした解雇の意思表示は、軍に対する保安上の危険を表向き理由とするものではあるが、実際には軍が原告の正当な労働組合活動を嫌悪したことによるものであつて、労働組合法第七条第一号所定の不当労働行為として無効であると主張するので、以下その当否について考える。

(一)  原告の労働組合員としての経歴

原告が被告に雇用された後、昭和二九年一一月二九日全駐労埼玉地区本部キヤンプ所沢支部に加入し、昭和三〇年四月同支部の執行委員に、同年一〇月二一日同支部から分離して結成された全駐労埼玉地区本部所沢オーデナンス支部の副執行委員長に、ついで昭和三一年七月三日同支部の執行委員長に選出されて右各役職に就いていたことは、当事者間に争いがない。

(二)  原告の労働組合活動およびこれに対する軍の態度

(1) 原告が全駐労埼玉地区本部キヤンプ所沢支部に加入した昭和二九年一一月頃原告の勤務していた所沢兵器廠内の職場に働く日本人労務者で労働組合に加入している者がなく、そのほとんどが相互扶助会という職場の親睦団体に入会していたことおよび原告の職場における日本人労務者約一四〇名が右キヤンプ所沢支部に加入したこと(その時期はしばらく措く。)は当事者間に争いがない。

ところで原本の存在と成立に争いのない甲第一ないし第四号証および第一〇号証を総合するときは、原告の勤務する所沢兵器廠においては、かねて相互扶助会の労働組合への改組問題が同会の内部で論議されたこともあつた(このことは、被告の認めるところである。)ところ、昭和二九年の夏頃から日本人労務者の労働組合への組織化の気運が高まつてその準備が進められたのであるが、原告もその一翼をになつてこの活動に従事し、同年末頃までに前述のとおり約一四〇名の日本人労務者が全駐労埼玉地区本部の支部(当時は所沢支部と称したところ、昭和三〇年一月キヤンプ所沢支部と改称した。)に加入したことが認められる。原告は、前記約一四〇名の右支部加入者中八十数名は原告の説得によるものであつたと主張し、甲第一号証にはこれに副う趣旨の中山七郎の被審尋人としての供述が記載されているけれども、にわかに措信しがたいし、証人番場正夫の証言とこれにより成立の真正を認め得る乙第三〇号証の二中添付の別紙目録三および前掲甲第四号証ならびに原本の存在と成立に争いのない甲第七号証によれば昭和二九年九月頃から同年一二月にかけて所沢兵器廠へ、隣接の第四三工作大隊に勤務していた日本人労務者が配置転換および新規採用により約八〇名入職したのであるが、その大部分の者はかねてから全駐労埼玉地区本部所沢支部の組合員でその身分を保持したまま右のとおり職場を移動しまたは一旦右支部を脱退した後新しい職場へ来て再加入した者もあり、特にその中に高橋春吉という労働組合運動の経験者がいたことが認められるところからするときは、前述のような全駐労埼玉地区本部所沢支部における組合員の増加が原告の主張する程原告の努力に負うものというには、いささか疑いの余地がないでもないけれども、ともかくも原告が右組織の拡大についてある程度寄与したことは、叙上認定の事実に照らして肯定せざるを得ないのである。

さて原告の職場の日本人労務者が右に認定したように労働組合へ加入したことについて、軍がどのような態度をとつたかを調べてみる。(イ)原告の主張するごとく軍が相互扶助会の育成を図つてその会員の労働組合への加入を妨げたり、労働組合の組織活動に従事する日本人労務者を弾圧したりしたとかいう趣旨に帰する甲第一ないし第三号証および第一〇号証中の各供述記載は措信することができず、他に原告のこの点に関する主張を認めるに足りる証拠はないのみならず、原告は、その自陳するところによると、軍の圧迫を恐れて自らの労働組合加入の事実を秘して右活動を続けたということであり、さらに前掲甲第一号証によれば、原告は、右活動にあたり表面に立つことを避けて職場の内部にあつて労働組合への加入の勧誘説得を行なつたものであることが認められるところからするときは、原告が前述のような労働組合強化の運動にたずさわつていたとはいえ、少くともその当時においては軍の注目をひくような状況にはなかつたものとみるのが相当である。(ロ)原告がその職場において新聞を読んでいたことについて、原告に対する作業上の監督官であつたルザツク軍曹から原告に対し日本人監督者を通じてそのようなことを止めるようにとの警告が与えられたことは、当事者間に争いがなく、前掲甲第一〇号証および弁論の全趣旨により成立の真正を認め得る甲第一一号証によると、その時期は昭和三〇年五月頃であつたことが認められる。被告は、原告に対する右警告は同年四月より前のことであると主張するけれども、これを認めて右認定を翻すに足りる証拠はない。なお、原告は、原告が閲読禁止の警告をうけたのは労働組合の機関新聞であつたと主張し、甲第三号証および第一〇号証中にはその旨の供述が記載されているけれども措信しがたく、原本の存在と成立に争いのない甲第七号証によると、右警告は、原告が職場内で普通の新聞を読んでいたところから新聞一般の閲読についてなされたものであつたことが認められる。原告の職場へ他の職場の従業員を出入させることを差し控えるよう、原告に対し日本人監督者をしてルザツク軍曹が注意させたことのあることは、当事者間に争いがなく、その時期が原告の主張するごとく昭和三〇年四月頃であつたことは、被告の明らかに争わないところである。しかしながら右の処置が原告の主張するように、原告の職場へ他の職場から労働組合の活動家が連絡用務のため集まつて来るのを阻止しようとする目的に出たものであることを認め得る証拠は存しない。かえつて前掲甲第三号証および第七号証によれば、原告に対して上述のような注意が発せられたのは、原告の職場へ作業の休憩時間外に他の職場から出入する者が多かつたからであつて、その頃作業に関係のない話は職場の外でするようにとの立札が出されたこともあつたが、ことさら労働組合の活動を封じようという特別の意図にもとづいたものではなかつたことが認められる。さらに前掲甲第三号証および第一〇号証によると、昭和三〇年五月頃それまで所沢兵器廠内のデイボー・メンテナンス・デイビジヨンに働いていた原告が人員過剰を理由としてメンテナンス・インストレーズ・セクシヨンの中の作業場へ配置転換されたことが認められるけれども、上掲各証拠中右のような配置転換の必要性はなかつた旨の供述記載は措信するに足りず、弁論の全趣旨により成立の真正を認め得る乙第二八号証によれば、原告の右職場変更は仕事の都合上なされたものであることが認められる。そのほかルザツク軍曹が原告をその職場における労働組合運動の中心人物であるとして、原告に対しては監視を必要とする旨労務士官に報告したとの原告の主張については、これを認めるに足りる証拠がない。ところで叙上のようなルザツク軍曹の原告に対する警告および注意ならびに原告の配置転換は、いずれも前示認定のような理由にもとずいて行なわれたものである以上、もとより軍の日本人労務者に対する労務管理上当然の措置であつたものと解すべきである。なお、甲第一〇号証中、昭和三〇年一〇月初旬頃原告を始めその所属の労働組合の幹部四名が保安解雇の対象に擬せられていたとの供述記載および甲第一一号証中ルザツク軍曹が原告の職場の労働組合員の動向に注目していた旨の記載は、何ら首肯するに足りる根拠を示さないものであつて、証拠として採用するに値いしないものである。他に原告の主張するとおり、昭和三〇年四月頃原告の所属する労働組合の組合員が急速に増加して組合運動が活溌になつたについて、ルザツク軍曹が原告をその中心人物とみて、にわかに原告に対し監視を強化して圧迫を加え、その職場における労働組合活動の抑圧に乗り出したというような事実を認め得る証拠は見出されない。

(2) 相互扶助会がその幹部の会計上の措置について不正があるとの疑惑をもたれたことから昭和三〇年四月頃解散するに至つたことは、当事者間に争いがないところ、甲第二号証中には、被審尋人三輪寿一の供述として、相互扶助会の解散については、全駐労埼玉地区本部キヤンプ所沢支部がこれを推進し、同会の規約に総会に関する規定がなかつたので、会員に対し署名運動を起して解散大会を開催させたのであるが、原告は、その急先峰に立つて、職場大会において相互扶助会の幹部の不正を追及したほか、前記解散大会の議長をつとめた旨の記載がみられる。しかしながらこの証拠は、証人番場正夫の証言によつて成立の真正を認め得る乙第二二号証の一ないし四に照らしてきわめて信憑力に乏しく、成立に争いのない乙第二号証により認められる相互扶助会の規約によれば、同会には、委員長、副委員長、委員および幹事をもつて構成する最高決議機関としての総会が置かれていたことが認められるところからすると、甲第二号証記載の前示供述にいわゆる総会とは、恐らくは右規約に定められたものではなく、会員全員による総会を意味しているものと解されるのであるが、それにしても前掲乙第二二号証の二および三によると、相互扶助会の解散は、その規約の定める総会の決議によつたものであることが認められる。のみならず仮に原告の所属する労働組合がその目的のために相互扶助会の解散について運動し、かつ、原告が何らかこれに関与したことがあつたとしても、相互扶助会の育成に関して軍から特別の保護が与えられていたようなことのなかつたことは、先に判示したとおりであり、まして軍が同会の解散したことによつて原告を労働組合の活動家として注目し嫌悪したというごとき事実のあつたことを認めるに足りる証拠はない。

(3) 相互扶助会の解散後に原告の職場の日本人労務者によつて親睦会という団体が結成されたことは、当事者間に争いがないところ、前掲甲第二号証によると、原告の所属する労働組合が行なつた昭和三〇年の春季賃上闘争に際して、親睦会の機関紙に右労働組合の行動が破壊的なもので軍の信頼をそこなうものである旨の記事が掲載されたについて、親睦会の幹部を追及したり、当時全駐労埼玉地区本部キヤンプ所沢支部の執行委員で教宣部長をしていた原告が右記事に対する反駁文を労働組合の機関紙に発表したことのあつたことが認められる(原告がその頃右のような労働組合の役職についていたことは、当事者間に争いがない。もつとも成立に争いのない乙第一九号証中昭和三〇年四月一〇日の定期大会において改選にかかる右キヤンプ所沢支部の役員の名簿によると、原告は右大会で青年部長に選出されたものであつて、当時同支部には、その際本橋一啓がその部長に選任された組織宣伝部というものはあつたけれども教宣部という部はなかつたことが認められる。)しかしながら甲第二号証の供述記載中、親睦会に対して軍が特別の便宜を与え、労働組合と差別待遇していたとの趣旨の部分は措信しがたいのみならず、親睦会に対する原告の反対運動が軍を刺戟したようなことを認めるに足りる証拠はない。

(4) 原告およびその職場の日本人労務者のほか、もと所沢基地内の第四三工作大隊に勤務していた日本人労務者の加入していた全駐労埼玉地区本部キヤンプ所沢支部から組合員の一部が分離して昭和三〇年一〇月二一日所沢オーデナンス支部が結成されたことは、当事者間に争いがなく、原告が右支部の結成に際してその副執行委員長に選出されたことも、先に判示したとおり当事者間に争いのないところであるが、原告が当時その主張するように全駐労埼玉地区本部の委員になつたことについては、これを認め得る確証がない。

ところで全駐労埼玉地区本部所沢オーデナンス支部の結成されるに至つた事情は、左のとおりである。前掲甲第一号証および原本の存在と成立に争いのない甲第九号証によると、前述のような分離前における全駐労埼玉地区本部キヤンプ所沢支部では、その対軍活動の方針に関して、比較的軍に対し協調的な態度をとろうとする、旧第四三工作大隊出身の組合員と原告を含むこれに反対する組合員とが互いに対立していたところ、昭和三〇年五月頃から五回に亘つて旧第四三工作大隊関係の日本人労務者について行なわれた人員整理ならびに同年七月中央軍管区司令部東京管区労務連絡室の労務連絡士官パドベリイから全駐労埼玉地区本部に対して申し入れられた傘下の朝霞支部の専従書記長福井達三の労働組合よりの排除要求および右要求に対してこれを拒否すべきであるとの見解をしていた右朝霞支部の執行委員長橋詰信之助と同副執行委員長高橋軍治に対し同年八月一九日なされた出勤停止処分についてとるべき対策に関して、原告の所属するキヤンプ所沢支部の内部においても意見が二派に別れたのであるが、原告の属する一派の者は、前示各問題について強硬な反対闘争を回避しようとする右支部組合員の大勢にあきたりないで、同支部を脱退して前述のように別の支部を結成したものであることが認められる(叙上の事実中、上述のような人員整理の行なわれたこと、福井達三の排除に関するパドベリイの要求および橋詰信之助と高橋軍治に対する出勤停止処分のあつたことならびに前示のごとく労働組合が分裂したことは、当事者間に争いのないところである。)。前記所沢オーデナンス支部の結成の原因につき、乙第二九号証の三において、もとキヤンプ所沢支部の副執行委員長であつた高橋春吉が記述しているところは、上示認定と異るけれども、これは単なる推測に止まるものと解されるので、右認定を左右する資料には供しがたいし、他にこの点に関する反証は見出されない。

さてパドベリイが全駐労埼玉地区本部に対してその傘下の朝霞支部の専従書記長福井達三の労働組合からの排除を要求する申入れをするに至つたのはいかなる事情にもとづいたものであり右申入れに対して関係労働組合がどのような態度をとつたかについて、以下において調べてみることとする。

(イ) まず本題に入る前に、パドベリイが中央軍管区司令部東京管区労務連絡室の労務連絡士官として、駐留軍労務者の労務管理に関してどのような権限を与えられていたかについてであるが、同人が原告の勤務していた所沢兵器廠その他東京都内および同近辺に駐留する米国極東陸軍の諸部隊および諸施設において働く日本人労務者の労務管理につき指揮権をもつていたという原告の主張については、甲第九号証中に被審尋人中山七郎の右主張に副う趣旨の供述が録取されているけれども、確たる根拠にもとづくものとはみられないし、他に原告の右主張を肯定するに足りる証左はなく、かえつて弁論の全趣旨により原本の存在と成立を認める乙第二四号証の二によると一般に労務連絡士官の職責は、大体被告の主張しているとおり、駐留軍労務者に関する労務管理についての連絡、指導および支出関係書類の認証等に限られていることが認められるのである。

(ロ) ところで前掲甲第一号証および第九号証、原本の存在と成立に争いのない乙第二号証、成立に争いのない乙第二六号証ならびに原告本人尋問の結果(第一回)(但し、これらの証拠中後掲措信しない部分を除く。)を総合すると、つぎのとおり事実が認められる。

パドベリイが全駐労埼玉地区本部に対して行なつた前記申入れは、福井達三がこれより先軍に対する保安上の危険を理由に解雇の措置をうけ、その訴願も却下されていたので、労働組合としてはそのような処分をうけた役員をその責任において組織外に排除すべきであるというのがその趣旨であつた。この申入れは、最初昭和三〇年七月一四日パドベリイから全駐労埼玉地区本部の書記長西島武夫に対してなされた(この事実は、当事者間に争いがない。)のであるが、その後同月二〇日パドベリイの要請によつて行なわれた同人と右地区本部の執行委員長太田桂助との会談においても重ねて同様の申入れがあり、その際福井達三が依然その地位に留まる限りは、同人の関与した討議にもとづく労働組合の要求につき軍は一切協議に応じられないし、かくては労働組合に対して不利益な取扱いが行なわれざるを得なくなるおそれもあるので、右地区本部の執行部として善処してもらいたいとの要望がなされた。パドベリイの右申入れに対しては全駐労埼玉地区本部の執行委員会の議により、一応執行委員長太田桂助の私信をもつて、右要求にかかる福井達三に対する処分は行なわない旨の回答を発したうえ、引き続き右地区本部の執行委員会において審議が行なわれたのであるが、その席上右地区本部傘下の三支部の執行委員会の討議の結果として報告された右各支部の考えは左のとおりであつた。すなわち、ジヨンソン支部の意見は福井達三の排除を軍が要求するのは不当な干渉であることに異論はないけれども、全駐労埼玉地区本部の組織を護る見地に立つて、軍の要求とは別個に労働組合自体の問題として右地区本部で独自に福井達三の進退を処理するため、同人に一切の役職からの辞任を勧告すべきであるというにあり、キヤンプ所沢支部(同支部から所沢オーデナンス支部が分離したのは、既述のとおり昭和三〇年一〇月二一日であるから、全駐労埼玉地区本部の執行委員会で前記審議が行なわれていた当時においては、原告もキヤンプ所沢支部に所属していたわけである。)の見解は、具体的な結論には到達していないが、ともかくも福井達三の事件のために軍との協議の道が閉されるということでは困るし、福井達三に軍のいうごとく保安上の危険のあることが明らかにされた場合には労働組合の組織に対する影響も大きいことであるから同人に辞職をしてもらうことというにあつたのに反して、福井達三の所属していた朝霞支部の態度は、福井達三を組織の中に留まらせて置くことの労働組合に対する有利不利は、あくまで純然たるその内部問題として十分に堀り下げて検討すべきものであるところ、この前提に立つ以上、軍の前記要求は、労働組合の内政に対する干渉、団結権および団体交渉権の重大な侵害であり、保安解雇の本質を曝露したもので、もしこれを放置すれば全駐労の運動方針の推進に甚大な障害を及ぼし、労働組合の信頼を失わせる原因となるのみならず、軍の要求に諾々として従つて労働組合が軍に好ましくないとされる組合員を自らの手で組織外に追放したとしても、これにより得るところは全くないのであるから、軍の上記要求に対してはあらゆる手段をもつて強力なる反撃を行なわなければならないというにあつた。ところで当時原告の加入していたキヤンプ所沢支部においては、前にも判示したとおり、福井達三の労働組合よりの排除を要求するパドベリイの申入れを断固として拒否すべきであるとする原告およびその一派の者とこれに反対する旧第四三工作大隊出身の者とが相対峙していたのであるが、原告らの意見は大勢を制するに至らず、前記地区本部の執行委員会においてキヤンプ所沢支部の動向が叙上のように報告されたのである。右に説明したような情況であつたところから、全駐労埼玉地区本部では、福井達三に対していかなる処置を講ずべきかに関して最終的な結論を決定しかねていたのである(右地区本部の執行委員会における前記審議において執行委員の意見が対立していたこと自体については、当事者間に争いがない。)。

そして以上認定のような情勢の下において昭和三〇年八月中当時全駐労埼玉地区本部の執行委員であつた橋詰信之助および高橋軍治(前者は全駐労埼玉地区本部朝霞支部の執行委員長、後者はその副執行委員長でもあつた。)に対して保安上の理由にもとづく出勤停止が命ぜられたことは、当事者間に争いがない。ところで原告は、パドベリイが前述のとおり福井達三の労働組合からの排除を全駐労埼玉地区本部の執行委員長太田桂助あるいは同書記長西島武夫に対して要求した際に、もしこれに応じないで福井達三と行動を共にする者に対しては保安解雇の措置に出るべき旨の警告がパドベリイからなされたと主張し、乙第二六号証にはこれに符合する記載が存するけれども、前掲乙第二五号証に録取されている太田桂助の証言によると、パドベリイからは、もし同人の要求がいれられない場合には労働組合に不利益な取扱いを行なわざるを得なくなるであろうとの趣旨の発言があり、太田桂助としては、その体験に徴して保安解雇という処分も出て来るかも知れないと判断はしたものの、保安解雇という言葉がその時にパドベリイによつて用いられたことはなかつたことが認められるところからすると、乙第二六号証中の前示記載は、パドベリイの言明の内容を正しく表現したものではないと解せざるを得ないのみならず、後段において判示するところにかんがみるときは、太田桂助が前記証言において述べているごとく、当時パドベリイにおいて同人の要求の拒否に対して保安解雇を暗示したものとは、とうてい考えられないのである。原告は、さらに、上述の橋詰信之助および高橋軍治に対する出勤停止処分は、同人らがパドベリイの要求に対して反対する意見を述べたことに対する報復措置であるばかりでなく、右両名と同一の見解をとつていた、当時キヤンプ所沢支部の副執行委員長であつた原告のほか同じくその執行委員であつた中山七郎、三輪寿一および倉林三津雄に対しても、昭和三〇年九月始め頃パドベリイから所沢兵器廠の司令官に基地排除の手続をとるべき旨の指令が発せられた旨主張するところ、乙第二五および第二六号証、甲第二号証、第九および第一〇号証ならびに第一二号証と原告本人尋問の結果(第一回)中には、原告の右主張に副うような趣旨のものがみられるけれども、仔細に検討するに単なる臆測以上に出るものではないとみられるので、証拠として採用するにあたらず、他に原告の右主張のような事実を認めるに足りる資料は存しない。のみならず原本の存在と成立に争いのない乙第二七号証の一および二によると、前述のような福井達三の排除に関するパドベリイの要求について労働組合より団体交渉の申入れをうけてその事実を知り、所沢労管および埼玉県渉外課の係官において、昭和三〇年九月一六日頃中央軍管区司令部の幕僚第五部参謀次長のクイグ少佐に照会したところ、軍としては保安解雇の処分をうけた福井達三につき基地外排除の実効を収めること以外に他意はない旨の回答があり、なお、出勤停止中の橋詰信之助および高橋軍治に対する最終処置については軍において審査中であるからその結果を待たれたいとのことであつたこと、パドベリイが福井達三を労働組合より排除すべき旨要求したことに関し、これを不当労動行為にあたるものとして、全駐労埼玉地区本部朝霞支部より埼玉県知事を相手方として同県地方労働委員会に救済の申立がなされていたところ、昭和三二年三月二日付の命令書によつて右申立が棄却されたのであるが、その理由の要旨は、パドベリイの当該行為が果して労働組合の活動に対する支配介入の意思をもつてなされたものといえるかどうかについては多大の疑問なしとしないけれども、保安解雇の意思表示をうけた福井達三に対する軍施設よりの排除を完全に実現しようとしたパドベリイの主観的な恣意が同人に問題のような行過ぎの行為をなさしめるに至つたものではないかと認められるところ、同人がすでに労務連絡士官の地位を退き、その在任中同人の労務管理について関係労働組合の内部でパドベリイ旋風と呼ばれていたものもおさまつたことではあるし、駐留軍労務者に関する間接雇傭という特殊な労務関係にかんがみるときは、他の一般の労使関係に比して多少異質的な責任理念を考えるべきであり、このことに前述のような状況からみて救済の利益の認められない場合において、叙上のごとき軍の行為についてまで埼玉県知事に責任を負わせて救済命令を発するのは酷に過ぎるものといわざるを得ないというにあつたことが認められる。

パドベリイがその後前示労務連絡士官の職を解かれて本国へ帰任したことおよびキリヨンがその後任者となつてから橋詰信之助と高橋軍治に対する前記出勤停止処分が解除されたことは、当事者間に争いがないところ、甲第九号証中に被審尋人中山七郎の供述として、パドベリイの前記解職は、同人の職務遂行の不手際がその原因であつた旨の記載があるけれども、措信するに足りず、さらに前掲甲第九および第一〇号証ならびに乙第二五号証と弁論の全趣旨により成立の真正を認める甲第一四号証によると、パドベリイが上述のとおり労務連絡士官の職を解かれる直前の昭和三〇年一一月中旬頃(弁論の全趣旨により成立の真正を認める乙第三四号証によると、パドベリイは、同年一二月一五日まで前示職に在任していたことが認められる。)全駐労加盟の労働組合員がパドベリイの更送を要求して東京において坐込みその他の行動に出たことが認められるけれども、このことから直ちに、パドベリイの解職の理由が同人の日本人労務者に対する労務管理の失敗にあつたものと解することはできない(右に反するような趣旨の甲第一四号証中の記載は措信しがたい。)し、前掲乙第二七号証の一によれば、パドベリイは、前記労務連絡士官の職より中央軍管区司令部の第五幕僚部の労働課長に転勤し、その後帰米したものであることが認められるとともに、橋詰信之助および高橋軍治に対する出勤停止処分が後に解除されたことが、原告の主張するとおり同人らの労働組合活動の故に右のような処分のなされたことが判明したためであつたことを認め得る証拠はない。

してみると、原告が叙上認定のように、全駐労埼玉地区本部キヤンプ所沢支部内において、軍の、特にパドベリイ労務連絡士官の労働組合対策その他の労務管理に対して反対の態度をとり続けたのみならず、とかく軍に協調しようとする一派の労働組合員の言動にあき足りないで右支部から分離して結成された所沢オーデナンス支部に加入してその副執行委員長となつたことのために、原告の主張のするごとく軍の反感を買い、そのことが原告に対する本件解雇の誘因となつたものであるとは、とうてい考えられないのである。

(5) 原告の勤務する職場の日本人労務者に対して昭和二六年以来続けられていた特殊作業手当の支給が昭和三〇年一一月に至り、同年九月に遡つて停止されたところから、原告の所属する全駐労埼玉地区本部所沢オーデナンス支部が所沢労管に抗議し、労使間の合同協議会において交渉が行なわれたが、結局右手当の支給に関して軍の労務連絡士官の承認を欠いていたという手続上の不備と受給者の相当する作業内容からみてその支給に疑義がもたれた向きもあつたため軍が所沢労管に連絡なく右のような支給停止の措置をとつたものであつたことが判明し、その後における労使間の団体交渉と作業内容の実態調査とを経て昭和三一年一月末頃に至り、作業の実情に適応して特殊作業手当の支給が再開されることになつたことは、当事者間に争いがない。そして証人番場正夫の証言により成立の真正を認め得る乙第八号証および第三五号証の一と二、原本の存在と成立に争いのない甲第八号証成立に争いのない乙第三七号証ならびに右証言によれば、特殊作業手当は、本来左のような手続を経て支給されるべきものであつたこと、すなわち、日本人労務者関係の人事担当官から、中央軍管区司令部の制定にかかる方式に則つて受給者の作業内容等を記載した申請書が労務連絡士官に提出され、それが承認されると、所轄の渉外労務管理事務所に送付され、特殊作業手当支給基準に従つて支給率が決定されたうえ、前記人事担当官に回答されるが、もし申請書の内容に疑義のある場合には、知事に対して禀議した後に回答がなされ、以上のような手続を経てから、人事担当官において支給の措置を講ずるのが建前であつたこと、しかるに原告の勤務する職場の日本人労務者に対して上述のとおり特殊作業手当の支給が停止されたのは右のような所定の手続が履践されていなかつたほかに、前述のような受給者の作業内容に疑義があつたことによるものであつたが、昭和三〇年一一月一〇日に支払われるべき同年一〇月分の賃金に関するペイロール(軍の作成する賃金支払票)中車輛の車体および部品等の吹付等塗装作業等に従事する二七二名の者に関するものの備考欄に、同年九月分の特殊作業手当の支給を取り消す旨の記載がなされていたのを、所沢労管の係官において、通常行われる軍の過誤払に対する訂正であろうと誤解して同年一〇月分の賃金より右取消にかかる特殊作業手当の金額につき返納の措置をとつたところ、その一両日後全駐労埼玉地区本部所沢オーデナンス支部の書記長中山七郎より前記のとおりの抗議が述べられて初めて所沢労管においても上述のような特殊作業手当の支給停止の措置が軍によつてとられたことを知り、かつ、同年一一月一四、五日頃軍より事情を聴取してその理由が判明するに至つたので、同月一八日開催された労使協議会において、所沢労管の係官より労働組合側にその旨を説明するとともに、関係日本人労務者の担当する作業内容を的確に把握するため、労働組合側に対しその調査書の提出を求めたほか、現場調査等を行つて、特殊作業手当支給基準表に従い支給率を決定し、疑義ある者については知事に対し禀議をなし、事案の解決を図つたのであるが、その間における労使交渉の状況は、以下のとおりであつたこと、すなわち、同年一一月一八日全駐労埼玉地区本部所沢オーデナンス支部の申入れにより第一回協議会が開催されて、前述のとおり所沢労管側より事情の説明および調査書提出の要請がなされ、労働組合側もこれを了承したのであるが、その後翌昭和三一年二月初旬頃まで随時団体交渉または協議会で問題の早期解決について話合いが続けられたことが認められる。

ところで前掲甲第一号証、第四号証、第八号証および第一〇号証によると、原告は、当時全駐労埼玉地区本部所沢オーデナンス支部の副執行委員長として、労使間の右折衝に終始参加する等、熱心な活動を続けたことが認められるけれども、甲一〇号証中に記載されている原告の被審尋人としての供述のうち、前述のような軍による特殊作業手当の支給停止は、全駐労埼玉地区本部所沢オーデナンス支部が同キヤンプ所沢支部より分離して結成されてから僅々一カ月足らず後に行われたところからみても、結成早々の同支部に対する軍の圧迫の表われであるとの趣旨の部分はにわかに措信することができず、他に原告が上述のような活動をしたことのために軍から憎まれたというような事実を立証する証拠は全くないのである。

(6) 昭和三一年春全駐労が賃上闘争を行つたことおよび原告が当時全駐労埼玉地区本部所沢オーデナンス支部の副執行委員長兼教宣部長であつたことは、当事者間に争いのないところであるが、前掲甲第二号証と第四号証、成立に争いのない乙第一七号証および証人番場正夫の証言によれば、右賃上闘争当時原告は、病気で欠勤勝ちであつた所沢オーデナンス支部の石川執行委員長に代わつて右支部における闘争委員長となり、同支部の執行委員と手別けして一週間ないし一〇日間位組合員の職場をオルグして廻つて指導に努めたこと、その結果結成後なお日の浅い所沢オーデナンス支部では組合員の気勢が盛り上り、いち早く同年三月一二日および一三日の両日に亘つて行われた投票によりスト権を確立したことおよび原告はその所属支部の闘争委員長として労使間の団体交渉においても活躍したことが認められる。なお、甲第二号証中には、前記賃上闘争に際して全駐労埼玉地区本部傘下の支部のうちでスト権を確立したのは原告の加入する所沢オーデナンス支部が最も早かつた旨の供述記載があるけれども、上掲乙第一七号証によると、同支部よりも先にキヤンプ所沢支部において昭和三〇年三月五日および六日両日の投票によつてスト権が確立されたことが認められるので、甲第二号証の前示記載は、その限りにおいては事実に合致しないものといわなければならない。ところでやはり甲第二号証中には、その所属支部の組合員の職場において前記オルグ活動をしていたときに、軍の中佐が日本人雇問を伴つてその状況を視察しに来たということを聞き及んでいる旨の供述記載がみられ、これをそのまま信用するとしても、そのことから、軍が原告に対し右行動の故に悪感情を抱き、それが原告に対する本件保安解雇の動機の一にでもなつたものとは即断しがたく、他に右のように認定し得る証拠はない。

(7) 全駐労による前記賃上闘争中に所沢兵器廠内のモータープールで人員整理が行われようとしたのに対し、全駐労埼玉地区本部所沢オーデナンス支部が残留労務者の労働強化を招来する不当なものであるとして反対し、昭和三一年五月一七日および一八日の両日に亘りストライキを決行する旨通告したが、結局整理予定全人員の配置転換によつて紛争の解決が図られたことは、当事者間に争いがないところ、前掲甲第二号証、第四号証および第七号証、成立に争いのない乙第一八号証の一の一および二、証人番場正夫の証言により成立の真正を認め得る乙第一八号証の一の三および同号証の二、成立に争いのない同号証の三ないし六ならびに右証言によれば、右人員整理は、当該職場に労働力の余剰があるという軍の要求にもとづきその職場の日本人労務者二七名を対象として行われようとしたものであるところ、全駐労埼玉地区本部所沢オーデナンス支部は、前述のような理由によつてこれに反対したのであるが、所轄の所沢労管においては、調査の結果および軍との折衝により、労働組合の憂えるように右人員整理によつて残留労務者の労働強化をもたらすおそれは絶無であると考え、なお、右人員程度の整理ならば職種の変更さえいとわない限り解雇者を出さず配置転換によつて目的を達成し得るとの見通しを立て、右労働組合との団体交渉等においてその旨の説明をしたほか、軍と所沢労管および右労働組合との間の三者会議においても、労務連絡士官のキリオンより右労働組合に対して前記人員整理の趣旨を釈明するところがあり、結局上述のように整理予定人員全部の配置転換によつて解決をみたこと、この間全駐労埼玉地区本部所沢オーデナンス支部は、先に当事者間に争いのない事実として判示したとおりストライキ決行の通告をなし、このストライキはその開始の前日に全駐労の石川中央執行委員長と軍側の責任者ハンキンソン大佐との会談の結果中止されたけれども、所沢基地のゲート前に労働組合員を動員して人員整理反対の気勢を揚げたほか、一般市民の協力を得るための宣伝活動をも展開したのであるが、原告は、闘争委員長としてこれら運動の指導にあたり、基地のゲート前に集合した労働組合員に対して激励演説を行つたり、所沢労管との団体交渉およびいわゆる三者会談に出席して活溌に発言したりしたことが認められる。

しかしながら原告の右のような行動が軍の注目をひき、本件保安解雇の直接または間接の理由とされたような事実を認めるに足りる証拠はない。甲第二号証および第四号証には、右闘争中に軍から職場内における労働組合の機関紙の配布および集会の開催が禁止された旨の供述が記載されているけれども、仮にそのような事実があつたとしてもあながち不当なものであるとは考えられないし、従来労働組合の機関紙を職場内において配布することは制限されていなかつた旨および前記反対闘争が続けられていた最中にこれを圧迫する目的からダーフイ軍曹が日本人職制とともに原告を初めとする労働組合全員の脱衣箱の中を無断で調べたことがある旨の供述記載は、にわかに措信することができない。

(三)  被告の原告に対する保安解雇の意思表示につき不当労働行為の成否

上来判示したところを要約するに、軍がかねて原告をその労働組合活動の故に嫌悪しており、そのことが本件解雇の理由となつたものとはとうてい認められない。ただ当事者間に争いのないところとして、原告が被告からうけた保安解雇の意思表示は昭和三一年七月二〇日付であり、かつ、その前提処分として原告に対して基地外退去が命ぜられたのは同月六日であるところ、原告はその直前すなわち同月三日全駐労埼玉地区本部所沢オーデナンス支部の執行委員長に選出されているのであるけれども、さればといつてこのようないきさつだけから、原告に対する保安解雇が軍の不当労働行為意思にもとづいて行われたものであると、直ちに断定することは困難である。さらにまた原告に対する保安解雇の理由として掲げられたところは、附属協定第一条a項所定の保安基準に該当するというにあつたことは、当事者間に争いがない(詳しくいえば、原告が附属協定第一条a項(3)号後段の保安基準すなわち軍の保安に直接的に有害であると認められる政策を継続的にかつ反覆的に採用しもしくは支持する破壊的団体または会の構成員と軍の保安上の利益に反して行動をなすものとの結論を正当ならしめる程度まで常習的にまたは密接に連携するものであるというのが原告に対する保安解雇の理由であつたことが、成立に争いのない乙第三二号証とこれにより成立の真正を認める乙第一三号証および弁論の全趣旨に徴して明らかである。)ところであるが、右保安解雇の理由に該当すべき具体的な事実については、本訴において被告より、原告に対する保安解雇の措置がとられるに至るまでの過程において、原告が昭和二四年三月一七日頃以来日本共産党東京都豊島区委員会の構成員であつたことに軍が注目して調査を続けていたことがあるとの主張がなされた以外に何ら明示されるところがない。従つて原告が前述のような保安解雇の基準に該当するものであることについての被告の立証は十分に尽されているとはいいがたいのであるけれども、すでに明らかにしたとおり、被告の原告に対する保安解雇の意思表示が、原告の主張するように軍の不当労働行為意思を実現したものとみるにあたらない以上、右保安解雇の理由を構成すべき具体的事実に関して叙述のような不明確さの残されていることからして、被告が原告に対してした保安解雇の意思表示をもつて不当労働行為にあたるものと解することはできないものというべきである。

さすれば被告の原告に対する保安解雇の意思表示が労働組合法第七条第一号所定の不当労働行為にあたるものとして無効であるという原告の主張は失当であるといわざるを得ない。

3  最後に原告は、被告が原告に対して本件解雇の意思表示をしたのは、もつぱら原告の思想、信条を理由としたものと認めるべきであるから、右意思表示は日本国憲法第二一条および労働基準法第三条の各規定に違反するものとして無効であると主張する。

すでにこの項の1において詳述したとおり、駐留軍労務者に対する附属協定にもとづく保安解雇の手続には、一般的なものと特別的なものとがあり、原告に対する本件保安解雇の意思表示は後者の手続に従つてなされたものである。

ところで前掲乙第三二号証と証人八木正勝および佐藤芳蔵の各証言によると、原告の保安解雇については、昭和三一年四月一一日付の書簡をもつて軍当局より調達庁に意見が求められ、これに対し調達庁から同年五月九日付で、原告については保安解雇の基準に該当する容疑が濃厚であるけれども、原告に対して直ちに解雇の措置をとることは相当でない旨回答したけれども、軍よりその要求があつたため、すでに当事者間に争いのない事実として判示したとおり、所沢労管所長より原告に対し同年七月二〇日付をもつて保安解雇の意思表示がなされるに至つたことが認められる。

さて被告は、先にも言及したとおり、原告に対する保安解雇の手続が進められている間に、軍において原告が昭和二四年三月一七日頃以来日本共産党東京都豊島区委員会の構成員であつたことに注目して調査を行つていたと主張するのであるが、必ずしもそのような事実が原告に対する保安解雇の事由となつたものであると確言しているわけでないことは、この点に関する被告の主張の全趣旨に照らして明らかであり、証人佐藤芳蔵の証言およびこれにより成立の真正を認める乙第一五号証によると、被告の当該行政機関である調達庁において前記事実を確認したのは、本件訴訟の提起後に公安調査庁に照会したところ、昭和二四年三月一七日付で日本共産党東京都豊島区委員会の代表者から提出されたその結社届の構成員名簿に原告の住所、氏名等が登載されていたことによるものであることが認められるところ、原告は、原告が右のような政治結社に加入していた事実はないと主張し、その本人尋問の結果(第二回)中には、右主張に副うとともに、もし前記結社届の構成員名簿に原告の住所、氏名等が記載されていたとしても何らかの間違いであると思われる旨の供述があるが、その真否はしばらく問わないこととし、かつまた軍において真実被告の主張しているとおり、原告が日本共産党東京都豊島区委員会の構成員であることを、原告の保安解雇を被告に対して要求するにあたつて考慮の中に入れたものであつたとしても、すでに明らかにしたように原告に対する保安解雇の理由は、附属協定第一条a項(3)号該当の事実、すなわち原告が軍の保安に直接的に有害であると認められる政策を継続的にかつ反覆的に採用しもしくは支持する破壊的団体または会の構成員と軍の保安上の利益に反して行動をなすものとの結論を正当ならしめる程度まで常習的にまたは密接に連携しているものであるというにあるのであるから、たとえ日本共産党東京都豊島区委員会が右保安解雇の基準にいわゆる破壊的団体または会に該当し、原告がその構成員であるとされたものであるとしても、単にその事実のみを理由として軍が原告の保安解雇を被告に要求したものとは考えられず原告の軍に対する保安上の危険となるべき行為が軍の右要求の決定的な根拠となつたものとみるべきである。そうだとすれば、右要求にもとづいてなされた被告の原告に対する保安解雇の意思表示が原告の思想、信条のみを理由としたものとはとうてい認めがたく、従つて右解雇の意思表示をもつて日本国憲法第二一条および労働基準法第三条の各規定に違反する無効のものであるとする原告の主張は排斥を免れないものといわなければならない。

三、叙上のとおり被告の原告に対する保安解雇の意思表示が無効であると解されない以上、原告と被告との間の雇用関係は、右意思表示によつて昭和三一年七月二〇日限り消滅したものというべく、これに反する主張を前提とする原告の本訴請求は、すでにこの点において理由がないことになるので、これを棄却すべきものとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 桑原正憲 駒田駿太郎 西山俊彦)

(別表省略)

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