東京地方裁判所 昭和33年(合わ)105号 判決 1958年6月03日
被告人 荻原俊助 外三名
主文
被告人荻原俊助を懲役四年に、被告人桜忠一を懲役六年に、被告人内海力弥太、同阿部伸儀を各懲役三年にそれぞれ処する。
右各被告人に対し未決勾留日数中四十日を右各刑に算入する。
但し被告人内海力弥太、同阿部伸義に対し、この裁判確定の日から三年間いずれも右刑の執行を猶予する。
訴訟費用中証人荻原わか子に支給した分は被告人荻原俊助の負担とする。
被告人桜忠一、同内海力弥太、同阿部伸義に対し訴訟費用は全部これを負担させない。
理由
(罪となるべき事実)
被告人荻原俊助は栃木県下阿久津町の小学校を卒業した後、農業手伝、荷揚人夫、鳶職等の職を経て昭和三十年六月頃から仮枠解体業三浦勇方に雇われ人夫として働いていたが、昭和三十三年二月頃から同人の下請けとして一応独立し、東京都深川浜園町十番地増岡組山崎建設飯場に配下の人夫十数名と共に住み込み仮枠解体業を営んでいるもの、被告人桜忠一は宮城県下渡波町の小学校を卒業して桶職見習、土工等の仕事に従事し、被告人内海力弥太、同阿部伸義も右渡波町の新制中学校を卒業後牡蠣養殖、海苔作手伝等をしていたが、いずれも昭和三十二年十二月頃から前記三浦勇方の人夫となり当時横浜市内の作業現場で人夫世話役をしていた被告人荻原のもとで働いたことのあるものであるが、
右山崎飯場は二棟の宿舎から成り、当初は西川某配下の大工と被告人荻原輩下の人夫とが入り混つて居住していたため両者の折り合いが悪く、殊に大工大竹某は屡々人夫等に乱暴を働き酒をたかる等のことがあつて被告人荻原を困惑させていたところ、昭和三十三年二月中旬頃右大竹は西川に解雇され、また人夫等は第二号宿舎に集つて居住することになつて、やうやく平穏となつた。ところが同年三月六日午後被告人荻原は前記第二号宿舎の自室で輩下の一人から、大竹大工が酒を飲んで飯場に来ており、今夜人夫等に殴り込みをかけると言つていると聞かされ、夕刻には炊事場附近で直接右大竹から酒を買え等と要求されたので憤慨したものの余り相手にならずこれを断り、残業している者達の夕食を現場に運んだうえ、翌日は仕事がないこととて輩下に骨休みの酒を出してやろうと考え、午後八時過頃同都中央区月島通り九丁目七番地八港建設株式会社三浦飯場の三浦勇方を訪ね、同人妻から二合壜入り焼酎、清酒各五本を借り受けた。その後同被告人は隣室の者から酒を御馳走になつたりしたうえ山崎飯場の妻わか子に電話したところ、同女から大竹大工が被告人の帰りを待ちうけて宿舎附近をうろついている旨告げられたため、先刻来の同大工の言動を想い合せ或いは同人が真実同夜殴り込みをかけて来るかも知れないと考え、酒の勢もあつて俄に興奮し、寧ろ大竹が押しかけて来た機に乗じて同人を痛めつけて従前の欝憤をはらそうと決意するに至つたが、折から被告人桜、同阿部が他の現場から戻つて酒を飲み出したので、同人等に酒を振舞いながら「今晩はこれから帰つて大工のやつをやつつけてやる」等と憤懣をもらし、そのため同被告人等は被告人荻原が喧嘩するかも知れないと考え、以前被告人荻原から世話になつた義理合いから被告人内海を誘い、他三名と共に被告人荻原についてタクシー二台に分乗し前記山崎飯場に赴いた。被告人荻原はその際同飯場第一号宿舎の大橋成男方に立寄り、大竹大工が宿舎にいないことを知つたので、そのまま第二号宿舎の人夫部屋に入り、同所に就寝中の人夫を起し同人等及び被告人桜、同内海、同阿部等に対し三浦飯場から持参して来た焼酎、酒を振舞つたが、やがて被告人桜が「大工はどこだ」等と言い出し、大工の誰彼を構わず殴り込みをかける気配を示したので、被告人荻原は喧嘩の相手はそのうち押しかけてくる大竹大工のみであることを明らかにし、他の大工と喧嘩になることを防止する趣旨で、しかしこの状態では被告人桜、同内海、同阿部等が大竹と闘争するようになるのもやむをえないとの考えのもとに、同人等に対し「大工のやつは今いないからもう少し待て、いずれやつてくるだろうが、こちらから先に手を出すな。相手がやつたらやつちまえ」等と申し向けて教唆し、その結果被告人桜、同内海、同阿部は暗黙のうちに、やがて殴り込みをかけて来るであろう右大工と喧嘩闘争しようと共謀するに至つた。ところがその後間もなく午後十一時頃被告人桜は寧ろ大工に対し先に攻撃を加えようと考え被告人荻原が自室に立つた隙をうかがい、「便所はどこだ、ここで小便してもいいか」等と言いがかりをつけながら第一号宿舎南西隅の十二畳の部屋に入つたため、同室内に一人就寝中の大工石川正司(当二十八年)と忽ち口論となり、その騒ぎを聞いた被告人内海、同阿部等は喧嘩が始まつたと考えて同所に馳けつけたが、右石川がまさかり(昭和三十三年証第五三六号の四)を構えて右部屋入口に立ち塞がり攻撃できないところから被告人内海は所携のバール(同号の一)で、同阿部は足で蹴る等して隣室との境の壁代用のパネルを破り同所から右部屋に入つて石川を取り囲み、被告人阿部において所携の一升壜(同号の二)で同人の頭部を強打するとともに被告人桜において所携の出刃庖丁(同号の三)を以てその左下腹部を突き刺し被告人内海においてその背部を足蹴りする等の暴行を加え以て同人に対し左下腹部刺創、左側頭部、背部の各打撲傷等の傷害を与え、因つて右刺創に基く左総腸骨動静脈切断による失血のため即時同所で同人を死亡するに至らしめたものである。
(証拠の標目)(略)
(訴訟関係人の主張に対する判断)
本件公訴事実に関する本来的訴因の要旨は、被告人荻原は判示のような大工大竹某の人夫に対する乱暴に憤慨して報復を決意し、昭和三十三年三月六日夜これを被告人桜、同内海、同阿部に諮つたところ同被告人等もこれに応じ、ここに被告人等四名共謀のうえ被告人桜、同内海、同阿部において石川に対し判示のような傷害を与え因つて同人を死に致したものであると謂うのである。しかして共謀共同正犯が成立するためには単に他人の犯行を認識しているだけでは不十分であつて、行為者相互間に、互に他の行為を利用し全員協力して犯罪を実現するものであることの意思の連絡即ち共同犯行の認識が必要であり、右の意思連絡のあることが明かな以上は仮に共謀者の一人が直接実行行為に加担しなかつたとしてもその罪責を免れないことは当然であるが、他面実行行為に加担しなかつた者に対し共謀共同正犯の責任を負わしめるためには、前記共同犯行の認識があつたことについて明確な証拠がなければならないことも亦謂うまでもない。そこで本件について検討すると、被告人桜、同内海、同阿部の捜査官に対する各供述調書中には判示のように被告人荻原が三浦飯場において被告人桜、同阿部に対し「今晩は大工をやつつけてやる」と語つたことを以て被告人荻原が大工に対し殴り込みをかける相談を持ちかけたと解せられるような供述記載が散見され、特に被告人阿部の検察官調書にはその際被告人荻原がその殴り込みに一緒に来て貰いたい口振りをしていた旨の記載もあつて、これらをその後被告人桜等五名が被告人荻原と共にタクシーに分乗して山崎飯場に赴いた事実と併せ考えると被告人桜等は被告人荻原の相談に応じ同人と協力し大工に対し殴り込みをかけようと決意し、被告人荻原と被告人桜等との間に右殴り込みについて意思の連絡を生じたものであるようにも見受けられるのである。しかし被告人内海の右検察官調書中の記載部分は同人の司法警察員供述調書、当公廷の供述及び同人が三浦飯場で座つていた位置、また同人がやや難聴であること等に照し採用し難く、更に被告人桜、同阿部の前記各供述調書の記載も仔細に見れば、三浦飯場における被告人荻原の客観的な言動としては単に同被告人が前記のような言辞を吐いたというだけで、大工との喧嘩闘争についての方法等について話し合いがあつたとの記載もなく、また右大工を特定するについて具体的な話しもなかつたことが明らかである。従つてこれらの点を判示のように被告人荻原がその直前に山崎飯場の妻に電話し大竹大工が被告人荻原の帰るのを待ち受けていることを聞き憤慨した事実に照して考察すれば、同被告人が捜査官に供述するように、たまたま同所に来た被告人桜、同阿部等に対しその憤懣の情を吐露したに過ぎないと認めるのが相当である。もつとも被告人荻原の各供述調書中には被告人桜等が右の言葉を聞いて「よし上等だ、やろう。おやじに手出しさせないで俺達でやつちやおう」と言つた旨の記載があるけれども、同司法警察員調書によれば、被告人荻原はこれに対し「いや皆も来てもいいが、向うが暴れない限り下手な手出しはするな、とにかく俺が片附けるから」と制止したと謂うのであるから、これによつても被告人荻原はあくまでも自分一人で大竹大工と闘争する決意をしていたことをうかがいうるのみで、被告人桜等と互に協力して右闘争を行う意思があつた、即ち共同犯行の認識があつたとは到底認めることはできない。のみならず、前示のように被告人桜、同阿部の供述調書中にはこの点に関する記載がなく、大竹大工についての具体的な認識も有せず、また当時同被告人等が飲酒して威勢がよくなつていたことを考慮すると同被告人等が仮にそのような発言をしたとしても果してその言葉どおりの意図を生じていたか否か疑わしく、結局三浦飯場から山崎飯場に赴くまでの経緯については前掲各証拠に照し判示のとおり認定するのが相当である。そこで進んで山崎飯場第二号宿舎人夫部屋内の状況について考察すると、被告人荻原、同阿部、同内海及び内海国夫の各検察官調書、被告人内海の当公廷の供述によれば、被告人荻原は右人夫部屋で被告人桜等に酒を振舞いながら「大工が殴り込んで来たならばやつちまえ」という趣旨の話をしたことが明らかである。しかし右各調書によれば同被告人の右発言は被告人桜が「大工はどこだ」等と言つて大工の誰彼を問わず殴り込みをかける気配を示したのに対し「大工は今いないから一寸待て」と制止した際になされたことを認めることができるから被告人荻原の当公廷の供述とも併せ考えれば、同被告人はその時も亦闘争の相手方は大竹大工一人であり他の者と喧嘩になることを虞れていたこと、大竹との闘争も同人が殴り込んで来た時に開始する考えであつたことをうかがうことができるのである。即ち同被告人は大竹以外の大工と闘争する意思がなかつたことは固より、大竹大工と闘争するについてもその時直ちに積極的に攻撃にでる意思はなかつたのであるから同被告人は被告人桜等と協力し、同人等の行為を利用し一心同体となつて行動する意思があつたと認めることもできない。
被告人荻原の弁護人は右の事情につき同被告人はあくまでも自分一人で大竹大工と闘争する考えであつて、被告人桜等を制止したにも拘らず同被告人等が本件被害者である石川正司に対し暴行を加えるに至つたものであり、同被告人等の行為は被告人荻原の関知するところではなく、従つて同被告人は本件につき刑責を負う筋合いではない旨主張する。そして前段説示のとおり被告人荻原に共謀共同正犯の責を帰せしめることのできないことは勿論であるが、前示のような山崎飯場第二号宿舎内の人夫部屋における被告人荻原と被告人桜等との間で取り交わされた談話の内容に徴すれば既にその時において被告人荻原が被告人桜等に対し大竹大工に暴行を加えることを教唆したことを認めることができ、かつ右談話の取り交わされた経過に照せば、まさに被告人荻原の右言辞の結果により被告人桜、同内海、同阿部等は、やがて殴り込みをかけてくる大竹大工と喧嘩闘争すべきことを決意したものと断定すべきであるから、被告人荻原については大竹大工に対する暴行につき被告人桜、同内海、同阿部に対し教唆犯の成立を認めざるをえない。しかして、被告人桜等が判示のような経緯から大竹大工とは別人の石川正司を死に致したとしてもこれは教唆と錯誤の問題に帰着し教唆者たる被告人荻原の刑責に消長を来すものではなく、なお暴行傷害のみを教唆した場合でも教唆者は、これに基き被教唆者がなした傷害致死の結果について責任を免れないことは明らかであるから、被告人荻原は右石川大工に対する傷害致死教唆の責任を免れることはできない。以上説示したところに従い本件公訴事実については予備的訴因に基き判示のとおり認定する次第である。
(累犯となる前科)
被告人荻原は昭和二十二年十二月二十四日宇都宮地方裁判所において強盗傷人罪により懲役五年以上七年以下に処せられ、なおその余の刑の執行をも受けた結果右の刑につき昭和二十八年八月十三日仮出獄となり、昭和三十一年九月七日その執行を受け終つたものであつて右の事実は法務省矯正局指紋係作成の指紋照会回答書、阿久津町長作成の身上調査回答書、被告人荻原の司法警察員に対する昭和三十三年三月七日附供述調書によつてこれを認める。
(法令の適用)
被告人等の判示所為中、被告人荻原の傷害致死教唆の点は刑法第二百五条第一項第六十一条第一項に、被告人桜、同内海、同阿部の各傷害致死の点は同法第二百五条第一項第六十条にそれぞれ該当するが、被告人荻原には前示前科があるので同法第五十六条第一項第五十七条に従い同法第十四条の制限内で累犯の加重をした刑期範囲内で同被告人を懲役四年に処し、被告人桜、同内海、同阿部につきそれぞれ所定刑期の範囲内で処断し、被告人桜を懲役六年に、被告人内海、同阿部を各懲役三年に処することとし、同法第二十一条に従い、右各被告人につき未決勾留日数中四十日を右各刑に算入し、なお被告人内海、同阿部についてはその犯情に鑑みいずれもその刑の執行を猶予するのを相当と認め同法第二十五条第一項に従い本裁判確定の日から三年間それぞれ右刑の執行を猶予し、訴訟費用については証人荻原わか子に支給した分は刑事訴訟法第百八十一条第一項本文に則り被告人荻原の負担とするが、被告人桜、同内海、同阿部はいずれも貧困のためこれを納付することができないことが明らかであるから同法第百八十一条第一項但書に従い同被告人等に対しいずれも全部これを負担させないこととする。
よつて主文のとおり判決する。
(裁判官 岸盛一 目黒太郎 千葉一郎)