東京地方裁判所 昭和33年(合わ)328号 判決 1958年12月15日
被告人 草島絹
主文
被告人を懲役三年に処する。
ただし、この裁判確定の日から四年間右刑の執行を猶予する。
訴訟費用は、被告人の負担とする。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は、東京女子薬学専門学校を卒業したのち、昭和十年薬科大学の講師をしていた(現数育大学教授)草島時介と結婚し、長男太郎を頭に、次男次郎(当二十年)、長女美子(当十七年)、次女郁子(当十五年)の二男二女をもうけた。太郎を除く他の子供達は、温順で学校の成績もよかつたが、太郎は、移り気な我侭な性質で、小学校時代から、学業を好まず多額の小遣銭を要求し、要求が容れられないと、手当り次第に物をこわしたり、家人に暴行を加えたりすることが多かつた。昭和二十七年太郎は、中学校を卒業したのち二、三の職についたが、いずれも長続きせず、いよいよ多額の小遣銭を要求し、次から次えと高価な品物を買い求めて止まるところがなく、その乱暴ぶりも、部屋の中で爆薬を破裂させるとか、家の中に煉瓦を投げこむとか、美子等のねている枕もとの本箱を押し倒すとか、一層兇暴さを加え、このため一家は経済的におびやかされるとともに暗い空気につつまれるようになり、被告人は、心労のあまり昭和三十一年十二月頃には睡眠薬自殺を図つたことさえあつた。被告人夫婦は、昭和三十二年春頃思案の末いつそ家財を処分して無一物となれば太郎の浪費癖も改まるかも知れないし、その金を生業資金として太郎に与えれば、あるいは太郎も発奮して働くようになるかも知れないと期待し、横須賀市久比里の住家及び敷地を売り払い、東京都新宿区下落合一丁目五百二十七番地金子君子方二階二間を借り受け、太郎を除く家族全員が同所に移り住んだ。太郎は、右売却代金の中から合計三十万円を貰つたが、被告人らの予期に反して仕事を始めようともせず、たちまちの間にカメラ、洋服等の購入に費やしてしまい、前と同じように度々間借先を訪れては種々の名目で被告人から金をひき出していた。このようなことがくりかえされるうち、昭和三十三年九月三日午後二時三十分頃太郎は、右の間借先においてまたも被告人に対し、「横須賀に喫茶店を出すから四万円作れ」と要求し、拒絶されるや、いきなり八畳の間の茶箪笥をひつくりかえす等の乱暴をし、一たんはそれで鎮まつたようにみえたが、同日午後四時頃同室脇の廊下に寝そべつたまま、再び被告人に対し「金を借りて来い」とどなり出し、隣りの四畳半の間で勉強していた次郎が見るに見かねて、「お母さんばかりいじめないで、そんなに欲しかつたら自分で借りて来たらよいだろう。」といい返したところ、起き上つて「お前は生意気だ。やつつけてやる。」といいながら、八畳の間に出てきた次郎につかみかかり、二人はその場で取つ組み合いの喧嘩を始めたが、太郎はやがて次郎を組み伏せ、かたわらにあつた電気スタンド(昭和三十三年証第一、三一九号の二)の台で次郎の頭部を殴打し、更にそのビニールコードを次郎の鼻孔の下から両耳の下方にかけて締めつけようとした。太郎の相次ぐ乱暴な仕打ちに堪りかねていた被告人は、右の状況を前にして興奮激昂の極、とつさに太郎に対して殺意を生じ、廊下にあつた日本手拭(同号の一)を手に取り、美子の制止するのを振り切つて太郎(当時二十二年)の背後にかけ寄り、後方からその頸部に巻きつけて強く引き絞め、太郎が悲鳴を挙げるのにもかまわず絞めつづけ、更にこれを知つた次郎が被告人に加勢するや、ここに互いに意を通じて次郎とともに手拭の両端をそれぞれ強く引き絞め、よつて間もなく、同家四畳半の間において太郎を窒息死させて殺害したものである。
(証拠の標目)(略)
(弁護人の主張に対する判断)
弁護人等は、「被告人は、太郎が次郎の頸にビニールコードをかけて力まかせに絞めつけているのを見て、次郎の生命、身体を衛るために、傍らに落ちていた手拭をとつて太郎の背後からその首にひつかけ太郎をうしろへ引き戻そうとして本件のような結果を生じたものであるから、その行為は正当防衛乃至過剰防衛をもつて論ずべきであり、かりにそうでないとしても、右のような情況のもとにおいて被告人に他の適法行為に出ることを期待することは不可能であつた。」と主張しているが、判示事実自体からも、ある程度明らかなように、
(1) 太郎と次郎の取つ組み合いについては、次郎も「やる気ならやろう」といつて太郎の挑戦を買うような態度で四畳半の間から八畳の間に出てきたこと(草島次郎の当公廷における供述および草島美子の証人尋問調書参照)、次郎も太郎の腹部、大腿部等に咬みついていること(次郎の当公廷における供述および鑑定書参照)等からみて、必ずしも太郎の一方的攻撃、したがつて不正の侵害と断じがたいこと。
(2) ビニールコードは次郎の鼻の下にかかつていただけで、そのままでは次郎の生命に対する危険は考えられないこと(鑑定人青木利彦の当公廷における供述参照)。
(3) 被告人が手拭を持つて太郎の背後にかけ寄ろうとした際美子からひきとめられたのにもかかわらず、これをふりきつて本件行為に及んだこと(草島美子の証人尋問調書参照)。
(4) 太郎が「苦しい放せ放せ」といつていたにもかまわず被告人がなおも強く絞めつづけたこと(草島次郎の検察官に対する昭和三十三年九月十八日付供述調書参照)。
(5) 被告人が本件犯行直後美子に対し「警察に知らせてくれ」といつただけで、医者を呼ぶことに考え及ばなかつたこと(草島美子の証人尋問調書参照)。
(6) 太郎の頸部の索溝は、右側頸部からやや後側の部において走向がやや下向きとなつてはいるけれども、その走向は概ね水平であつて頸部をほぼ一周しており、単に被告人が太郎の右後方から手拭をかけて引戻そうとしたものとは認めがたいこと(鑑定書参照)。
等の事情に、太郎のかねての素行、犯行当日の態度、喧嘩の状態等をあわせ考えれば、被告人は、つもる苦悩や次郎の身体に対する危惧の念等から興奮、激昂の極とつさに殺意を生じて本件犯行に及んだとみるのが自然であつて、被告人の行為を単なる防衛的行為(すなわち、太郎の急迫不正の侵害に対し次郎の生命を守るためにやむなくされた行為)とみるのは適当でない。したがつて、弁護人の正当防衛乃至過剰防衛の主張および「被告人に期待可能性がなかつた」との主張は、いずれも採用しない。
(法令の適用)
法律に照すと、被告人の判示所為は、刑法第百九十九条、第六十条に該当するので、所定刑中有期懲役刑を選択し、その刑期範囲内で被告人を懲役三年に処し、ただし、情状刑の執行を猶予するのを相当と認め、同法第二十五条第一項を適用してこの裁判確定の日から四年間右刑の執行を猶予し、訴訟費用は、刑事訴訟法第百八十一条第一項本文に則り被告人に負担させることとする。
(刑の量定の事情)
人の生命は、何ものにもかえることのできない貴重なものである。どんな事情があるにせよ、一個の若い生命を奪い去つた被告人の責任は、きわめて重大である。被告人の行為は、法の命ずるところに従い、厳として罰せられなければならない。この点被告人としても、更に深い反省が必要である。しかし本件については、酌量すべき事情も少くない。十数年に及ぶ長期間太郎のために一日として心安まる日もなく、その目にあまる浪費や乱暴に耐えながら、太郎を真人間にしようと苦心してきた被告人の労苦は、察するに余りがある。しかも、その間夫時介が学問に専念し、家庭を顧みること稍足りなかつたと思われる事情を考慮すれば、被告人の立場には一層同情すべきものがある。また本件は、不幸な結果をひき起したものではあるが、被害者の乱暴な行為によつて誘発されたものである点、何ら計画的なものでない点等において、決して悪質であるとはいえない。右の事情のほか、犯行後直ちに自首していること、悔悟の情を示していること、再犯の虞れがないこと、健康状態がすぐれないこと、前途ある三人の子供をかかえていること等の事情を斟酌するときは、被告人に対しては、その罪は罪として、この際実刑を科するよりも、むしろ刑の執行を猶予する方が妥当であると思われる。
そこで、主文のとおり判決する。
(裁判官 横川敏雄 緒方誠哉 吉丸真)