東京地方裁判所 昭和34年(ワ)4835号 判決 1962年2月12日
主文
原告らの請求はいずれもこれを棄却する。
訴訟費用は原告らの負担とする。
事実
第一、当事者双方の申立
一、原告らは「被告は原告塩野幸雄に対し金二九五、九九〇円、原告塩野幸子に対し金二五〇、〇〇〇円、および右各金員に対する昭和三四年六月二六日以降完済まで年五分の割合による金員を、それぞれ支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求めた。
二、被告は主文と同旨の判決を求めた。
第二、原告らの主張
(請求の原因)
一、本件事故
原告らは夫婦であつて、訴外塩野由美子(昭和三一年四月二四日生)はその長女であるところ、右由美子は昭和三四年四月二三日午後五時五四分頃、被告会社の経営する井之頭線東大前駅と神泉駅間に存在する東京都目黒区駒場町九三五番地の七神泉一号踏切(以下単に本件踏切という)北側において、訴外村上正の運転する被告会社の電車(吉祥寺発渋谷行上り三輌編成第二三八号列車)の最前部左角附近に接触してはねとばされ、附近の溝に頭部を激突し、頭蓋骨々折脳挫傷等の傷害を受け、そのため同月二四日午前九時四五分、同都渋谷区円山町六五番地藤田医院において遂に死亡した。
二、被告会社の故意、過失
本件踏切は東大前駅から三四三米、神泉駅から三七八米の位置にある、踏切警手の配置はもちろん、踏切遮断機も踏切警報機の設置もない無人踏切であるが、右踏切においては、下り電車の場合、列車よりの見通しは良好であるため、本件踏切上に障害物が存したとしても、その発見は容易であるに反し、上り電車の場合には、線路が「カーブ」をしているため見通しは困難であつて、電車が本件踏切の六〇米ないし七〇米前方に達してのみ列車より右踏切上の障害物を発見し得る。ところで本件事故当時における、被告会社の定めた、上り電車の本件踏切通過の際の運転速度(表定速度)は時速五二粁となつておつて、前記村上運転士が乗務した本件電車はこれを下廻る時速五〇粁で本件踏切にさしかかつたものであるが、右五〇粁で電車を運行した場合すら、急制動をかけたとしても、ようやく一〇〇米先においてのみ停車せしめることが可能である。そうとすれば、本件踏切を通過する上り電車は右表定速度に従つて運行する限り、たとい本件踏切上の障害物をその発見可能な最長距離の六、七〇米前方で発見し、直ちに急制動の処置をとつても、事故の発生を防止することは不可能であるといわなければならない。しからば、被告会社は本件踏切には遮断機等の保安設備を施すか、または右踏切を通過する上り電車の表定速度を本件踏切上の障害物と衝突を避け得る程度に制限して、以て右踏切における事故の発生を未然に防止すべき義務あるものというべきである。しかるに、被告会社は右いずれの措置をもとることなく、漫然本件電車を前記表定速度に従つて運行せしめて、本件事故を惹き起した。してみれば、本件事故は被告会所の未必の故意または重過失に基くものというべきである。したがつて、被告会社は民法第七〇九条により原告らに対し、右事故に因つて原告らが被つた損害の一切につき、これが賠償をなすべき義務がある。
三、損害額
(1)原告幸雄の物質上の損害
原告幸雄は被告会社の右不法行為により、前記由美子の傷害および死亡に関し、左の如き金員合計金四五、九九〇円の支出を余儀なくされ、同額の損害を被つた。
(イ)病院関係費――金五、〇〇〇円
(内訳)
a、二、三八〇円――{亡由美子の前記藤田医院における治療費、入院料等の半額。 (他の半額は健康保険による)
b、四一〇円――{右入院中、原告らの近親に由美子の危篤を報知した電報料。
c、一、四八〇円――{由美子の死体を右医院から原告宅まで運搬した自動車代等。
d、三三〇円――由美子の入院中、手伝人に供した食事の代金。
e、四〇〇円――由美子の死体を包んだキヤラコ(布)の代金。
(ロ)通夜関係費――金六、四八五円
(内訳)
a、三、五三五円――亡由美子の通夜の際、客に供した酒の代金。
b、一、〇五〇円――{右通夜の際の手伝人数人が帰宅するときの自動車代。
c、一、九〇〇円――右通夜の際のa、b以外の雑費。
(ハ)葬儀関係費――金二〇、四二五円
(内訳)
a、二、二二〇円――亡由美子の火葬料。
b、五五〇円――火葬場における列式者の休憩料および茶菓代。
c、一、一六〇円――火葬場における祭壇の借料。
d、二、五八〇円――火葬場への列式者の往復の自動車代。
e、一、一六〇円――{右自動車の運転手および火葬場係員に対するチツプ。
f、四〇〇円――葬儀の際の亡由美子の写真の引伸代等。
g、二七五円――葬儀の際の原告らの喪服の借料。
h、二、二〇〇円――{葬儀の際に使用するドライアイスおよび挨拶状の代金。
i、三五〇円――葬儀の際の香典に対する挨拶状の代金。
j、八、〇〇〇円――{葬儀の際、僧侶に支払つた戒名料その他を含むいわゆるお布施。
k、一、五三〇円――葬儀の際の手伝人の食事代。
(ニ)初七日関係費――金三、五〇〇円
a、一、五〇〇円――初七日の際、僧侶に支払つたお布施。
b、二、〇〇〇円――{初七日の際、霊前に集つた亡由美子の遊び友達に対し供したお菓子代。
(ホ)納骨費関係――金五、三八〇円
a、三、八八〇円――{原告らが亡由美子の納骨のため肩書住所から郷里の山形市へ往復した汽車賃。
b、一、五〇〇円――右納骨の際、僧侶へ支払つたお布施。
(ヘ)仏壇購入費関係――金五、二〇〇円
a、五、〇〇〇円――{原告らが亡由美子の冥福を祈るため、山形市で購入した仏壇の代金。
b、二〇〇円――右仏壇の原告宅までの送料。
(2) 原告らの精神上の損害、――慰藉料
原告幸雄は大正一五年一一月三日生れで、昭和二〇年七月五日逓信官吏練習所に入所し、以来逓信者および郵政省に勤務し、現在は同省貯金局規劃課服務係に勤務する本俸二六、〇〇〇円の公務員であつて、一方原告幸子はその妻であり、大正一五年二月一一日に出生し無職であるが、右原告らの間には、亡由美子のほかその二才年長である長男があるのみであつて、本件事故により右由美子を失つた原告らの精神的打撃は甚大である。したがつて、右苦痛を慰藉するためには、原告らの前記社会的地位および家族構成等に照らし、少くとも原告ら各自に対し金二五万円の金員の支払を必要とする。
四、よつて、被告会社に対し、原告幸雄は右物質上の損害および慰藉料合計金二九五、九九〇円、原告幸子は右慰藉料金二五万円、ならびに右各金員に対する本件訴状送達の翌日である昭和三四年六月二六日以降完済まで、民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を、それぞれ求める。
(被告の積極的主張に対する答弁および反駁)
一、被告会社の無過失の点について
この点に関する被告会社の主張中「本件踏切における前記上り電車の表定速度が被告主張の如き認可速度の範囲内で定められたもので、これにより認可ダイヤが組まれているものであること。および本件踏切における警笛吹鳴に関する事実」は認める。しかし、その余は全部否認する。
かりに、本件踏切が踏切道保安設備設置標準によれば、第四種踏切道に該当し、踏切警手の配置はもちろん踏切遮断機や同警報機等の保安設備を設置すべき踏切には当らないとしても、右標準は単に監督官庁の行政命令にすぎないもので、民法の過失に関する責任規定に優位するものではないから、右標準に従つた一事を以てはただちに被告会社が本件事故につきなんらの責任もないものということはできない。
次に、本件踏切における前記表定速度が前叙の如きものであつても、右速度に従つて電車を運行する限り、被告会社は当然に本件事故につき責を免れるというものでは断じてない。
また、本件踏切における警笛吹鳴に関する被告主張の事実は、被告会社が専用軌道による交通事業の経営者として、いわゆる危険業務の遂行につき遵守すべき注意義務の一部分を電車の運転者をして履践せしめたことを意味するにすぎないものでこれだけでは、いまだその全部を完全に被告会社が遵守したものということはできない。
二、原告らの過失の点について
この点に関する被告の主張は全部争う。
亡由美子は前記事故当日、夕方近所の子供と一諸に遊びに出て本件事故にあつたものであるが、原告らは常々右由美子に対し、道路を横断する場合には、道路のはしによけて立つて、自動車等の通過したのち道路を渡るようしつけておいたので、本件事故の際も右由美子は本件踏切のはしに立つて、電車の通過を待つていたものである。したがつて、原告側にはなんらの過失もない。
かりに本件事故につき、原告らにも亡由美子の監護の点においてなんらかの過失があつたとしても、右原告らの過失は被告会社の前記未必の故意または重過失と比較するとき、過失相殺の観念すら容れる余地がない程軽微なものであるから、被告会社は本件事故につき到底その責任を免れることはできない。
第三、被告の主張
(請求の原因に対する答弁)
請求原因事実中、本件事故(第一項)ならびに「本件踏切が原告ら主張の位置にある、踏切警手の配置はもちろん、踏切遮断機も踏切警報機の設置もない無人踏切であること。本件事故当時における被告会社の定めた、上り電車の本件踏切通過の際の表定速度が時速五二粁であつて、本件電車がこれを下廻る時速五〇粁で本件踏切にさしかかつたものであること。および本件訴状送達の翌日が昭和三四年六月二六日であること。」は認める。しかし、原告ら主張の損害の点は不知。そして、その余の事実は全部否認する。
(被告の積極的主張)
一、被告会社の無過失
被告会社は踏切道の保安については、たえず関係法令を遵守して、他の同業私鉄よりも一層その保安設備の改善に努力しているものであるが、本件踏切は踏切道保安設備設備標準(運輸省鉄道監督局長通達、昭和二九年四月二七日鉄監第三八四号および同号の二)によれば、第四種踏切道に該当し、踏切警手の配置はもちろん踏切遮断機や同警報機等の保安設備を設置すべき踏切には該当しない。のみならず、その交通量は右標準にいわゆる第三種踏切道として踏切警報機を設置すべき踏切には到底達しない低位にある。
次に、本件踏切における前記上り電車の表定速度は被告会社が東大前――神泉間の最大速度として監督官庁より認可された六〇粁の範囲内で適法に定めたもので、これにより右同様認可されたダイヤが組まれているものであるから、高速度交通機関としての公共的使命を負う被告会社が右速度に従つて電車を運行することは当然のことである。
また本件踏切については、被告会社は地方鉄道運転規則に基き、警笛吹鳴標を設置して、すべての上り電車に右警笛吹鳴を励行させているが、現に本件電車も右規則どおり警笛を吹鳴した。
したがつて、以上要するに、被告会社は本件事故につき故意は勿論なんらの過失もない。
二、原告らの過失
そもそも私鉄は、高速度交通機関として、正確なダイヤによりしかも安全な運行をなすべき公共的使命を負つているものであるが、右公共的使命はひとり私鉄だけの努力によつて達成できるものではなく、殊に現在私鉄が収入その他多くの面につき国家的規整を受けている経営の実態よりすれば、当然歩行者側にも一定の注意義務が要求されるものであつて、踏切通過の場合の如きはその最たるものである。しかるに、原告らは亡由美子の監護を全く怠り、薄暗くなつた夕方六時頃、自宅より遠く離れしかも通行人のまれな本件踏切まで、同女が独り遊びに出ることを放置して、その結果本件事故を惹き起した。したがつて、本件事故は、ひとえに原告らが三才の幼児の保護責任あるものとして、踏切もしくはその附近の道路において幼児に遊戯をさせ、または監護者なしで歩行させてはならない旨の義務(道路交通法第一四条第三号参照)あるにかかわらず、右義務を怠つた過失に基因するものというべきである。
原告らの主張は、以上の諸点を全く考慮することなく、被告会社(私鉄)の一方的犠性において踏切道通過の絶対安全を要求するものであつて、著しく衡平の観念を無視し、全く社会常識を逸脱した暴論である。
第四、立証〔略〕
理由
一、本件事故(請求原因第一項)は当事者間に争がない。
二、そこで、本件事故が被告会社の故意または過失に因つて発生したものか否かについて判断する。
まず「本件踏切が、東大前駅から三四三米、神泉駅から三八七米の位置にある。踏切警手の配置はもちろん踏切遮断機も踏切警報機の設置もない無人踏切であること、および本件事故当時における、被告会社の定めた、上り電車の本件踏切通過の際の運転速度(表定速度)が時速五二粁であつて、訴外村上運転士の乗務した本件電車がこれを下廻る時速五〇粁で本件踏切にさしかかつたものであること。」は当事者間に争がない。
そして、〔証拠略〕を綜合すれば「本件踏切附近は家屋の点在する閑静な住宅地帯であるが、同所における井之頭線軌道は本件踏切の西方(東大前駅寄り)約七〇米あたりから神泉駅方面にかけて半径三六二米の曲線をなし、且つ千分の一〇ないし一一の下り勾配となつておつて、それから東方はほぼ直線となつているため、本件踏切南側より神泉駅方面に対する軌道の見通しおよび同方面から進行する下り電車よりの本件踏切の見通しはいずれも良好であるが、上り電車の場合には、その反対であつて、通行人が本件踏切の北側(これは上り線側であつて、本件事故現場である。)より東大前方面を展望した場合、上り電車は最初本件踏切より約一八〇米前方の神泉第一二号鉄柱附近から望見することができるけれども、その後本件踏切より約八〇米前方の同第八号鉄柱附近まで進行してくると、樹木・人家・鉄柱等にさえぎられて見えなくなり、更に本件踏切の前方約五〇米の同第七号鉄柱附近に到達してはじめて再び認めることができる状態にあり、また電車からの見通しは、電車が前記第八号鉄柱を通過すれば本件踏切の南側は見通し得るが、その北側は前記第七号鉄柱に到達しなければ見通し不可能であつて、現に本件電車の運転士も右第七号鉄柱にさしかかつてはじめて、前記由美子が本件踏切の北側より上り線に入ろうとしているのを発見したものであること。および時速五〇粁で進行中の電車において急停車の処置をとつた場合、前記の如き曲線半径ならびに勾配等の条件の下では、約一〇〇米先においてのみ停車せしめることが可能であつて、現に本件電車の運転士も前記由美子の発見と同時に非常制動の措置をとつたが、本件踏切を通り越してその東方(神泉駅寄り)五一米の地点に至り、ようやく電車を停止させることができたものであること。」が認められる。他に右認定を左右するに足る証拠はない。
そうとすれば、本件踏切を通過する上り電車は、前記表定速度に従つて運行する限り、たとい本件踏切上の障害物、例えば通行人を、その発見可能な最長距離、すなわち同踏切を南側から北側にかけて渡ろうとする通行人の場合は約八〇米、北側から南側にかけて渡ろうとする通行人の場合は約五〇米の前方において発見し、直ちに急停車の処置をとつても、通行人が電車の接近に気がつかず、そのまま進出をするならば、接触は不可避であるといわなければならない。
しからば、被告会社は、かかる場合、必ず、本件踏切には遮断機等の保安設備を施すか、または右踏切を通過する上り電車の表定速度を踏切上の障害物と接触を避け得る程度に制限して、以て本件踏切における事故の発生を防止すべき義務あるものというべきであろうか。
裁判所は右一事あるをもつては、直ちにこれを積極に断定できないものと考える。けだし、被告会社が専用軌道による交通事業の経営者として、踏切道における事故の発生を未然に防止すべき一般的注意義務を負うていることは勿論であるが、具体的にいかなる踏切道の場合、遮断機その他の保安設備を設置したり、または該踏切を通過する電車に対し速度制限をなす等して事故の発生を未然に防止すべき注意義務を負うかについては、軌道運送事業の公共的性格およびこれに対する国家的規整にかんがみ、単に踏切に対する電車からの展望の良否のみによつてこれを決すべきものではなく、その外に広く踏切における人車の交通量および列車回数、通行人の交通常識その他諸般の事情を綜合して、公正な社会観念によりこれを決すべきものであつて、しかもこの場合、右保安設備の設置義務と速度制限義務との両者の間には微妙な質的差異が存在して、その判断基準も、どちらかといえば、前者の場合には軌道運送事業に対する国家的規整に、後者の場合にはその公共的性格に、それぞれ看過すべからざる契機があるものと考えられるからである。したがつて、まず踏切における保安設備の要否については、地方鉄道建設規程第二一条第三項がその設置義務の存否判断の重要なる基準となるべく、次に踏切における速度制限の要否については、右保安設備の有無いかんと相関々係を有することは当然であるが、結局は、正確なダイヤにより、しかも高速で且つ安全に列車を運行すべき高速度交通機関の公共的使命と踏切における道路交通の安全との合理的調整に、右制限義務の存否判断の基礎があるものというべきである。
そこで、以上の如き観点から本件を考察する。
まず本件踏切における被告会社の保安設備設置義務の存否について按ずるに、本件踏切が上り線の場合、展望不良なものであることは既に説明したとおりであるが、交通量の点については、〔証拠略〕によれば「本件踏切における一日の各種交通量は左記A表のとおりであつて、これを後記踏切道保安設備設置標準に揚げる換算率で換算すると、左記B表のとおりになること」が認められるから、本件事故当日である昭和三四年四月二三日の本件踏切における一日の交通量(換算交通量)は約七〇〇人程度であつたと推認するのが相当である。
(A表)
<省略>
(B表)
<省略>
そしてまた、〔証拠略〕を綜合すれば「本件事故当時における本件踏切の一日の列車回数は五〇四回であつたこと」が認められる。
ところで、踏切における道路交通量、列車回数および展望等との関係で、専用軌道による交通事業の経営者に対し、保安設備の要否につき国家的規整(行政上の取締)をしているのは、地方鉄道建設規程第二一条第三項であるが、同条項はただ単に鉄道業者は「交通ひんぱんにして展望不良なる踏切道には、門扉その他相当の保安設備を設置しなければならない」旨規定するだけあつて、いまだ具体的な保安設備の設置基準を明らかにしているものとはいい難いところ、〔証拠略〕によれば「地方鉄道の監督官庁である運輸省は、昭和二九年四月二七日、同省鉄道監督局長の各陸運局長および都道府県知事に対する通達(鉄監第三八四号および同号の二)を以て前記規程第二一条の具体化を計り、これを踏切道保安設備設置標準と題し、爾来右標準によつて鉄道業者の踏切道における保安設備の設置方を指導監督してきたこと。および右標準においては、まず踏切道を主として保安設備(これは踏切遮断設備または踏切警報機をいう)の有無ないし種別により、左記C表の如く分類し、特定の踏切道を右いずれの種別の踏切道となすべきかの基準としては、踏切道における危険率(これは昭和二五年から同二七年までの三年間における踏切事故の実績と同二七年、二八年の踏切道の実体調査の結果に基き算出したものである。)と換算道路交通量、換算列車回数(これは踏切道を通過する一日の列車につき、その種別ごとに一定の換算率を乗じ、これを合計したものである。しかし、本件においては前認定の列車回数と右換算列車回数とは一致する。)および見通し距離(これは軌道の中心線より外側五米の道路中心線上において一・四米の高さから列車を見通し得る最大距離をいう。)との関係から導き出された一定の計数を以てこれにあて、右基準に従えば、特定の踏切道を第三種以上の踏切道すなわち保安設備を設置した踏切道となすべき場合は、列車回数が四〇〇以上のものについては、見通し距離が五〇米以上のとき交通量二、〇〇〇人以上、見通し距離が五〇米未満のとき交通量一、八〇〇人以上の各場合だけであること。」が認められる。
(C表)
<省略>
そうとすれば、本件踏切は本件事故当時、第四種踏切道に該当し、したがつて前記地方鉄道建設規程にいわゆる「交通ひんぱんにして、展望不良なる踏切道」には該当せず、殊にその交通量は第三種踏切道の標準より遙かに低位にあつたこと明らかであるから、いまだ一般に被告会社が国家的規整として保安設備の設置方を要求せられるには程遠かつたものというの外ない。
しかるところ、〔証拠略〕を綜合すれば「被告会社は本件事故当時、本件踏切には保安設備こそ置かなかつたけれども、通行人に対し注意を喚起するため、踏切の両側に、それぞれ一旦停止の白線を表示し、その白線の左右に『止れ見よ』『踏切注意』『電車注意見よ右左』『止つてよく見て渡りましよう』と各大書した警標四個を設置し、なお右一旦停止線の中央には『自動車通り抜け禁止、でんしやにちうい』と大書した警標一個を樹立して、軽自動車を除く車馬の通行が出来ないようにしていたこと。および本件踏切はいわゆる裏通りにある小さな踏切であつて、通行人もせいぜい朝夕の買物客が第一位を占め、本件事故以前殆んど事故がなく、僅かに通行人の不注意による軽微な事故が数回あつたにすぎないこと。」が認められる。
してみれば、以上の如き事情のもとでは、被告会社は本件事故当時、本件踏切には右警標等を設置するだけで現在の鉄道業者に対し客観的に期待せられる注意義務を果していたものというべく、保安設備(警報機以上のもの)の設置までは当然に義務づけられていなかつたものといわなければならない。
次に本件踏切における被告会社の速度制限義務の存否について按ずるに、まず「本件踏切における前記上り電車の表定速度は被告会社が監督官庁より認可された東大前――神泉間の最大速度六〇粁の範囲内で定めたもので、これにより電車のダイヤが編成せられ、しかも右ダイヤもまた監督官庁より認可されたものであること。」は当事者間に争いがなく、更に〔証拠略〕によれば「右区間最高速度ないし列車ダイヤは、監督官庁が当該区間ないし全線における踏切道の(したがつて、本件踏切道の)種別およびその保安をも考慮に入れて、安全性を見越したうえ、これを認可したものであること」明らかであり、また「本件踏切については、被告会社は地方鉄道運転規則に基き警笛吹鳴標を設置して、すべての上り電車に右警笛吹鳴を励行させ、現に本件電車も右規則どおり警笛を吹鳴したものであること。」は当事者間に争がない。そしてなお「本件踏切においては、軽自動車を除く車馬の通行が禁止されていたものであること」は前認定のとおりである。
しかるところ〔証拠略〕を綜合すれば「本件踏切における上り線の場合、前認定の如き見通し距離では、電車が常にいかなる場合も本件踏切前において停車し得るようにするためには、時速三〇粁前後で本件踏切を通過するほかないものであつて、かかる低速では電車のダイヤは根本から混乱するにとどまらず、もし、井之頭線全線の第四種踏切道二二ケ所で、このように見通し距離との関係から運行速度を低減するなら、現在片道二六分の所要時間は六〇分程度にまで長くなること必至であつて、これでは到底高速度交通機関としての被告会社の前記使命は達成困難であること。」が認められる。
そうとすれば、以上の如き事情のもとでは、被告会社は本件事故当時、本件踏切における前記表定速度の制限義務もまたこれを要求されていなかつたものと解するを相当とする。
果してしからば、本件においては、踏切の展望は良好ではなかつたが、結局被告会社には、民法第七〇九条にいわゆる過失の前提となる注意義務(しかも専用軌道による交通事業の企業者に対し要求せられる注意義務)としての原告ら主張の如き保安設備設置義務または上り電車の表定速度制限義務は存しなかつたものというべく、したがつて、本件事故は被告会社の故意または過失に因つて発生したものとは到底いい難い。
原告らは以上の点につき、まず前記踏切道保安設備設置標準は単に監督官庁の行政命令にすぎないもので、民法の過失に関する責任規定に優位するものではないから、右標準に従つた一事を以ては、ただちに被告会社が本件事故につきなんらの責任もないものということはできない旨主張するが、なるほど右標準が、それ自体の形式としては、監督官庁の管下諸機関に対する命令であつて、法規ではないから、民法の過失に関する責任規定に優位するものではないことは、原告らの主張するとおりであるが、その実質は、科学的な根拠に基いて抽象的な取締規定の内容を具体化し、現在の鉄道業者に対し踏切における保安設備の設置についての実際的な基準を示す合理的な典拠であることは前認定のとおりであつて、鉄道業者の過失の前提となる注意義務の存否判断の具体的根拠としてまことに尊重すべき契機であることは明らかであるから、被告会社がまず右標準に従つたことは当然または無理からぬことというべく、更に裁判所が本件において被告会社の過失の有無を判断するにつき、右標準にのみ依拠したものでないことは前叙のとおりであるから、結局原告らの前記主張は採用できない。
次に原告らは、本件踏切における前記表定速度が前認定の如きものであつても、右速度に従つて電車を運行する限り、被告会社は当然に本件事故につき責を免れるというものではない旨主張するが、裁判所は右表定速度の性質のみによつて被告会社に本件事故につき過失なしと判断したものではないこと前叙のとおりであるのみならず、およそ踏切事故に関しては、鉄道業者にその過失の有無を論ずることなく、すべて賠償責任を負わしむべきであるとしたり、または踏切道の保安のためには高速度交通機関の公共的使命を犠牲に供するもやむを得ないとの法的制度または社会通念が存在するなら格別、かかる制度または社会通念の存在しない現在の法秩序のもとにおいては、原告らの前記主張は到底採用できないものというべきである。
更に原告らは、本件踏切における警笛吹鳴に関する前認定の如き事実は、被告会社が、専用軌道による交通事業の経営者として、いわゆる危険業務の遂行につき遵守すべき注意義務の一部分を電車の運転者をして履践せしめたことを意味するにすぎないもので、これだけでは、いまだその全部を完全に被告会社が遵守したものということはできない旨主張するが、裁判所は右事実のみによつて被告会社に右注意義務の違反がない旨判断したものではないこと前記のとおりであるから、原告らの右主張もまた採用できない。
三、よつて、原告らの本訴請求は、民法第七一七条による請求としてなら格別、同法第七〇九条による請求としては、既にその前提において失当であること明らかであるから、次余の点につき判断をなすまでもなく、これを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。(本件については、下級裁判所民事裁判例集第六巻第一二号一一八頁、東京高裁判決参照)