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東京地方裁判所 昭和35年(タ)144号 判決 1960年12月24日

原告(反訴被告) 鄭和子

被告(反訴原告) 鄭英光(いずれも仮名)

主文

原告(反訴被告。以下同じ)の本訴請求を棄却する。

被告(反訴原告。以下同じ)と原告とを離婚する。

原被告間の長男ベン・ユンキ(Ben Yong Ki )長女エミリー・シユウミン(Emily Shau Ming )次男トーマス・ユンホン(Tohmas Yong Hong)の監護者を被告に指定する。

訴訟費用は、原告の負担とする。

事実

第一、双方の求める裁判

原告訴訟代理人は、本訴につき、「原告と被告とを離婚する、原被告間の長男ベン・ユンキ、長女エミリー・シユウミン、次男トーマス・ユンホンの親権者を原告と定める、訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求め、反訴につき、「反訴請求棄却」の判決を求めた。

被告訴訟代理人は、本訴につき、「本訴請求棄却」の判決を求め、反訴につき、主文第三項に「監護者」とある点を「親権者」とする外は、主文第二、三、四項と同旨の判決を求めた。

第二、本訴請求の原因

一、原告は、昭和二年生れの日本人であるが、昭和二二年頃、たまたま、知人の郭氏から英国籍の中国人で当時香港から来日した貿易商の被告を紹介され、交際するうち、互に愛し合うようになり、同年一一月銀座教会において結婚式をあげ、事実上婚姻した。昭和二四年二月正規の婚姻手続を了し、昭和二八年五月一日原告は、英国の国籍を取得した。

二、原被告は、当初は、千代田区富士見町の原告の実家で生活していたが、昭和二六年三月千代田区三番町に家屋を新築し、同所で婚姻生活を営んだ、原被告間には、昭和二三年八月二三日長男ベン・ユンキが、昭和二四年一一月一八日長女エミリー・シユウミンが、昭和二六年一一月三日次男トーマス・ユンホンがそれぞれ出生した。

三、原被告の婚姻生活は次に述べる如きものであつて、婚姻を継続し難い重大な事由がある。

すなわち、

(1)  被告は、結婚当初から外部の者に対しては非常に愛想が良かつた反面、家庭では全くの暴君であつて、妻たる原告に対しても、また、家庭生活についても全く意をはらうことなく、殆んど毎晩友人との交際と称して夜遅くまで帰宅ぜず、原告は、妻とはいうものゝ全然無視されて、時折開かれたパーテイのホステスとしての意味しか持たないような状態であつた。

(2)  被告は酒乱の性癖があり、飲酒の上原告に対し暴力を振うのみか、子供に対しても残酷な折檻をして、子供達が泣き叫ぶのを喜んでいるといつた筆舌に尽し得ないような残虐な行為をする為家族は全く被告を恐れ戦々兢々として毎日を送るという状態であつた。

この為原告は、昭和三〇年頃から子供達と一緒に同じ屋敷内の別棟の家屋に別居し危難を避けていたが、被告は一向に右の行状を改めようとしなかつた。

(3)  原告は、右のような被告の行為の為心痛のあまり、昭和三一年から昭和三三年一一月にかけて毎年一回宛病にたおれ、毎回一ケ月位聖路加病院に入院したほどである。

しかも右はいずれも極度の精神的苦痛からくるノイローゼだという診断であつた。

(4)  以上の次第で、原告としては、これ以上被告との婚姻生活に耐えられず、昭和三三年一二月に聖路加病院を退院するや遂に確定的に被告との離婚の意思を固め、昭和三四年二月八日単身家を出て、横浜港から、フランス船でシンガポールに行き、友人の家に身を寄せて現在に至つている。

四、よつて、被告との裁判上の離婚を求める為本訴に及んだ。

尚前記子供三名の親権者は、前記の事情参酌の上原告に指定されたい。

第三、右に対する被告の答弁

原告主張の本訴請求原因事実中、一、二の事実及び三の(3) 、(4) の事実は、認める。三の(1) 、(2) の事実は否認する。四は争う。

第四、反訴請求の原因

一、被告は一九一三年(大正二年)一月一五日香港に生れた中国系の英国人であるが、六歳の時来日し横浜の華僑小学校を卒業、その後上海に帰つたが父親が貿易商として日本、中国間を往復していたため、昭和六年頃迄は被告も夏休み等にはしばしば日本を訪れていた。その後日中関係が悪化したため被告の訪日も途絶していたが、かねてより父親が日本に築きあげた地盤を生かして事業を再開したいと念願していた被告は昭和二二年七月香港貿易代表団五名の一員として来日し、化学材料、食料品の貿易を手広く営んで今日に至つている。肩書地の居宅は昭和二六年三月に新築したものであるが、建坪約六〇坪、敷地は四〇〇坪に及んでいる。

戦後来日した貿易業者に対しては日本政府が永住許可を与えていないので、被告は三年毎に旅券の切換を受けているが、被告が日本に永住の意思を有していることはその生い立ち、事業の規模資産から見て明らかである。

二、昭和二二年十一月被告は原告と銀座教会において結婚式を挙げた。当時日本は占領下にあつたゝめ、英国籍を持つ被告と日本人である原告の婚姻登録には種々の手続上の障碍があつた。両名の英国法上正式な婚姻が成立したのは昭和二四年二月十日である。

三、かゝるうちに昭和二三年八月二三日に長男ベン・ユンキ(Ben Yong Kit)(英傑)、同二四年十一月十八日に長女シユウミン(Emily Shau Ming )(秀敏)、同二六年十一月三日に次男ユンホン(Tohmas Yong Hong)(英雄)が生れ、幸福な家庭生活が営まれた。被告の両親も若年の原告をよくいたわつたので、国際結婚にありがちな親類縁者の無理解にもとずく心理的軋轢もみられず、極めて恵まれた生活であつた。

原告は実業家の家庭に育ち、すすんで貿易商である被告と結婚したのであるから、被告はきわめて多忙であること、社交もまたビジネスの一部であることを理解していた筈であり、その上被告が結婚後は他に女性関係がないことも承知し、外泊したことさえ一度もないに拘らず被告が仕事のための交際に時を費すことを極度に嫌つた。特に次男出生後はその傾向が著しく、昭和三一年からは三年間引続き毎年一回聖路加病院に入院しているが、医師の診断によれば格別の疾患はなくノイローゼということであつたのである。

被告は三児の将来を思い、一日も早く原告が精神の平静をとりもどし妻として母として安定した生活を送ることが出来るようにと苦慮し、昭和三一年には反訴被告が気分転換のため海外に行きたいと切望したので、一ケ月あまりシンガポール、香港に単身で旅行することさえ許したのである。昭和三二年頃には原告は大量の飲酒をなすようになりしばしば友人を訪ねては深夜まで帰宅しないことがあつた。このため子供達も母より女中になつくようになり家庭とは名ばりのものとなつた。

四、原告はこの間しばしば離婚の意向をもらしていたが、被告は原告が一応したいことをやりつくし、いくつか年もとれば自然に落着いて自己の生活を反省するようになると考えてこれに応じなかつた。ところが昭和三四年二月原告は身の廻り一切を整理し、二度と帰宅する意思のないことを告げて同月八日フランス船でシンガポールに出発した。被告は子供に母親宛の手紙を書かせ自らも筆をとつて一日も早く帰国するように促した。

同年五月原告の妹浪江雅子の結婚のため原告はいつたん帰国したが、その時は被告の友人の息子である訴外曹永基を伴つていた。雅子の挙式は被告の家で行われたが、原告は式に参列せず、この帰国が実は曹との事実上の新婚旅行のための世界一周の途次日本に立寄つたものであることが判明した。尚後に判明した事実によれば原告が曹と相知つたのは前記フランス船の中においてであつた。在日外人の狭い社会で原告のこのような行動が問題にならない筈はなく、原告があからさまなる不貞の事実をつきつけて被告に対し離婚を求めているのは明らかであつた。この時も原告は被告に面会を求め「将来誰かと結婚するかどうか未定であるが、とにかく離婚してくれ」と迫つた。離婚自体については被告としてももとより問題なきところであつたが、三児の将来について熟慮し、その方針を決定した上で離婚の手続をとりたいと思い直ちに返答は与えなかつた。かくするうちに原告の日本滞在期限が切れて原告は離日した。同年十月原告は再び単身来日し被告を訪れ、曹永基と結婚の意思を明らかにして離婚を迫つた。こゝにおいて被告は両親の不幸な結婚生活について今後出来るだけ耳に入れないようにすることが三児の将来のために最善と考えて子供との接触を一切断絶することを条件として離婚に同意した。

五、かくして離婚はもはや動かすべからざる事実となつたが二週間にして原告の滞在期間がきれたので訴訟を提起することが出来なかつた。原告はその後も曹永基と同棲を続け、シンガポール、香港を往復していた模様であるが本年一月曹永基の親類の人々に共に来日し被告に対し離婚訴訟を提起した。

六、このような事情であつて原告は母としての責任を自覚せず三児を残して日本を離れ、異郷にあつて既に一年以上も別の家庭を営みつゝある。現在では長男ユンキは十一歳、長女シユウミンは十歳、次男ユンホンは八歳になりそれぞれ東京の学校ですぐれた教育を受けつゝあり、家庭においても日本人のハウスキーパーの行届いた世話を受けて母なしといえども安定した生活を送りつゝある。原告自身には三児を養育するための経済力はなく、たとえ三児をシンガポールに引取つたとしても年令僅か三十歳の曹永基が弟妹のような年令であり、既に或程度の分別を具えた三児と円満に暮し得る筈はない。

七、以上の次第により被告は民法第七七〇条第一項第一号により原告に対し裁判上の離婚を求めると共に三児の親権者として被告を指定せられることを求めるため、反訴を提起する次第であります。

第五、右に対する原告の答弁

被告主張の反訴請求原因事実中一、二の事実は認める。三の事実中被告主張の年月日にその主張どおりの子供が出生した事実は認めるが、その余は否認する。四の事実中原告がシンガポールへ行つた事実は認めるがその余は否認する。五、六、七は争う。

第六、双方の証拠

原告訴訟代理人は、甲第一ないし第五号証を提出し、証人浪江はまの証言及び原告本人尋問の結果を援用し、

被告訴訟代理人は、証人ユーキツト・サウ(曹永基)、森田みつの各証言及び被告本人尋問の結果を援用し、甲号各証の成立を認めた。

理由

一、公文書であるから、真正に成立したものと推定すべき甲第一ないし第五号証及び被告本人尋問の結果並びに原告本人尋問の結果の一部と原告の自認を綜合すると、反訴請求の原因一の事実及び、原告と被告は、昭和二二年一一月銀座教会において結婚式をあげ、事実上婚姻し、昭和二四年二月正規の婚姻手続を了し、原告は、昭和二八年五月一日英国籍を取得したこと、原被告間には、昭和二三年八月二三日長男ベン・ユンキ、昭和二四年一一月一八日長女エミリー・シユウミン、昭和二六年一一月三日次男トーマス・ユンホンがそれぞれ出生したことが認められる。

そこで、まず、本件離婚の準拠法について考えるに、法例第一六条の規定によれば、離婚の準拠法は、その原因たる事実の発生したときにおける夫の本国法によるべきであるから、夫たる被告の本国法すなわち英国の法律によるべきである。しかるに、英国国際私法上離婚は婚姻住所(Matrimonial domicil )の法によることとなつており、婚姻住所は、通常夫の住所と一致するものであるところ、(有斐閣英米法辞典)前記認定の事実に照らせば、夫である被告の住所(domicile)は肩書住所地に存すると認めるのを相当とするから、結局本件離婚の準拠法は、法例第二九条の規定により日本民法となるものと考える。

二、証人浪江はま、ユーキツト・サウの各証言及び双方本人尋問の結果を綜合すると、

原被告は、結婚後数年間は、千代田区富士見町の原告の実家で、昭和二六年三月からは、原告の現住所で、婚姻生活を営んでいたが、被告は、貿易商であるところから、外で食事をすることが多く、またパーテー等で帰宅の遅くなることが多い等概して、家庭的でなかつた(但し、原告をも伴うことが多かつた。)外、酔余子供をかまい過ぎて泣かしてしまうことも再三あつた上原被告の年令の相違(原告は、当年三二才、被告は、当年四七才である。)なども加わり、原告は次第に被告との婚姻生活に不満を持つようになり、昭和三一年頃には、被告と離婚したいと考えるようになつた。そして、その頃原告は、その旨被告に申し出たが同意を得られなかつたので、以来子供達と共に、同一敷地内の別棟の家屋に被告と離れて起居するようになつた。原告は、昭和二七年頃から生活態度が荒れてきて、夜遅く酔つて帰つたり、一週間に一回位の割合で外泊したりするようになつたが、遂に昭和三四年二月八日単身で被告の許を出てしまい、現在は、訴外ユーキツト・サウと同棲して共に、アメリカやヨーロツパを旅行したり、シンガポール、香港などで暮している。

原告が同訴外人と最初に肉体関係を結んだのは、昭和三四年四月下旬頃である。

以上の事実を認めることができる。

証人浪江はまの証言及び原告本人尋問の結果中右認定に牴触する部分は、弁論の全趣旨に照らして信用できない。

三、原告は、民法第七七〇条第一項第五号の婚姻を継続し難い重大な事由があると主張するけれども、前項認定の事実に照らせば、原被告の婚姻生活を決定的に破綻せしめたのは、むしろ原告なのであるから、右主張は採用できない。

もつとも証人浪江はま及び原告本人は、被告が故意にひどく子供をいじめた旨供述しているところ、原告本人尋問の結果と被告の自認によれば、原告は、昭和三一年から昭和三三年にかけて、毎年一回の割合で各回共約一ケ月の間ノイローゼの為入院した事実が認められるから、一応、被告がひどく子供をいじめた事実が存在するか、または、原告がノイローゼになつたのは、被告のなんらかの行為ないし態度に起因するのではないかという疑が存するかの如くであるが、原告本人尋問の結果によるも、原告は身体が虚弱であり、また、我侭な性質であることが認められる上、前認定のように、原告は当時既に被告との離婚を望んでおり生活も荒れていたことに鑑みれば右発病の事実は、前記二の認定を左右するものではなく、また、婚姻を継続し難い重大な事由となるものでもない。

一方二に認定した原告の行為中、昭和三四年四月下旬頃から訴外ユーキツト・サウと肉体関係を持つに至つた点は、民法第七七〇条第一項第一号の「配偶者に不貞な行為があつたとき」に該当することは明らかである。

それ故、原告の本訴請求は理由がないから、これを棄却すべく、被告の反訴請求は理由があるから、認容すべきである。

四、次に被告の親権者指定の申立について考える。

我が法例の解釈上、離婚の際における子の処遇に関する準拠法に関しては、ことは親子間の法律関係ではあるが、一面父母の離婚の効果として特に生ずる問題であるから、法例第二〇条(親子間の法律関係の準拠法)によらず、同第一六条(離婚の準拠法)によるべきものとされている。したがつて、本件の如く離婚についての準拠法が夫の本国法による反致の結果結局日本民法となる場合においては、裁判上の離婚に伴う子の処遇に関しては民法第八一九条第二項に従い父母の一方を親権者と定める必要があり、その親権者の親権とは、日本の法律により定められた親権であるべきかのように考えられる。しかしながら、父母の一方は離婚の場合には日本の法律による親権を取得し、しからざる場合には法例第三条、第七条あるいは第二〇条の規定等によつて別の取扱いを受けるということは、法例の各規定の解釈上極めて不合理であるから前記離婚の場合の子の処遇に関する準拠法如何についての解釈は、離婚の準拠法そのままを適用するという趣旨ではなく、離婚の場合の子の処遇については反致前の準拠法と反致後の日本の法律とを対照して子に対する父母の権利に関し各規定が照応する範囲においてのみ反致前の準拠法も適用するとの趣旨とすべきである。よつて本件離婚についての反致前の準拠法である夫たる被告の本国法すなわち英国の法律と日本の法律とを対照するに、離婚の場合になすべき子に対する父母の権利指定について一致するのは子に対する監護権(英国法上はRight of Custody)の指定を離婚の裁判を行う裁判所が指定するとの点のみである(Gurdianship of Clufauts Act, 1886 and 1925参照。)。したがつて当裁判所は原被告の離婚の判決と同時に日本民法上の親権者の指定はこれをなしえず、右監護権者の指定のみをなしうるにすぎない。

よつて監護権者指定について判断するに、前途認定の諸事実及び諸般の事情、特に英国法上子に対する監護権は原則として子の父にあり、離婚の場合には離婚について責任のない当事者に与らえれ、離婚に際し父から監護権を奪う場合には父が監護権者として不適格であることにつき強い立証を要するなどとされていることを併せ考えると、本件における主文掲記の三子の監護権者は被告と指定するのが相当である。

五、以上説示のとおり、被告の反訴請求中、「親権者」指定の申立のみは、理由がないけれども、我が国法上裁判上の離婚に当つては、裁判所が職権で一切の事情を考慮した上子の処遇に関し親権者を決定することゝなつておることから見れば(民法第八一九条第二項、人事訴訟手続法第一五条)当事者のなす子の処遇に関する申立は、裁判所に職権の発動を促し、その当事者の希望、意見を申し立てる意味しか有しないから、この点に関して請求棄却の言渡をすることはしない。

よつて、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 岡成人 篠清 渡部保夫)

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