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東京地方裁判所 昭和36年(合わ)115号 判決 1962年2月26日

被告人 少年K(昭一八・五・二五生)

主文

被告人を懲役一五年に処する。

未決勾留日数中二五○日を右刑に算入する。

領置してある登山用ナイフ一ちよう(昭和三六年押第八九〇号の四)を没収する。

理由

一  (事実)

被告人は旧台湾総督府の警察官をしていた父義雄と母たつの長男として台北市で生れ、終戦後両親及び三人の姉とともに長崎県に引き揚げたが、三歳のおり、実母に死別(脳溢血による半身不随の身を苦にして自殺)し、その後は、被告人が六歳の時迎えられた事実上の継母と当時副検事となつた父のもとで育てられ、長崎市立勝山小学校などを経て長崎市立長崎中学校に入学し、昭和三三年四月同校第二学年のおり、東京大学へ進学を志して、一たん東京都千代田区立九段中学校に転校したが、経費の関係や、被告人自身東京での学校生活、下宿生活にいや気がさしたことなどから同年九月再び前記長崎中学校第三学年に編入学し、同三四年四月長崎県立長崎東高等学校に入学した。被告人は小学校及び中学校入学当初までは学習及び作業態度はまじめで責任感も強く、したがつて学業成績は優秀であつたが、中学校第二学年の時、被告人と最も仲の良かつた姉弘子(三女)が突然精神分裂病で長崎大学医学部付属病院精神科に入院することになつたうえに、前記九段中学校に在学中のころ、祖母から母の不慮の死や姉弘子の発病も父が戦地で感染した悪性の病気がその原因であるかのように、心なくもまことしやかに聞かされたため、被告人自身もこれを気に病んで自己の将来の運命に暗い影を感じ、小学校時代ごろまでは温和で明朗な面もあつた被告人の性格に、暗いがん固な面が現われるとともに、勉学にも興味を失い始めた。そして被告人が高等学校入学後間もない同年八月、入院中の姉弘子が自殺を遂げたことは、被告人に精神的に大きな衝撃を与え、高等学校入学当初は柔道部、英語部などに入会し、多少活動的な面を見せた被告人も、精神生活における不安動搖のため、ひとり物思いに沈むようになり、勉学態度も極めて消極的となつて、学業成績は、しだいに低下するようになつた。他面、被告人は中学校時代には英語を得意とし、西洋音楽、洋画など西欧文芸を好んでいたが、高等学校入学のころから日本古来の伝統的文化に興味を覚えるようになり、特に、そのころ読んだ鶴見祐輔著「北米遊説記」などに感動し、反動的に一転して日本古典文学や邦楽など日本的な文芸に傾倒し、高等学校の教科に邦楽の時間がないことを非難し、日本歴史の教育方法を不満としたり、あるいは、日常ことさら洋服を避けて和服を用いるなど、万事日本的なものに強い関心を示し、又そのころから日本の国家のあり方について、古来のように皇室中心に形成されていくべきだと考え、皇室尊崇の強い信念を抱くようになつた。

前記のように高等学校入学後、学業成績が低下するにつれて、生来勝ち気な被告人はますます学習意欲を失い、第二学年になつてから特にそれが顕著となつて、欠席し勝ちとなり、ついには自ら学校教育の価値を疑い、「学校を出たところで大したことはない、学校をやめても、りつぱにやつて見せる」と自らに言いきかせ、ついに、父や教師の説得にもかかわらず、第二学年一学期の終りに、自ら中途退学願いを提出して退学してしまつた。学業放棄の意を決した被告人は、同三五年九月初めころ自活を志し、長崎市内の職業安定所をたずねて職を求め、その世話で名古屋市におもむき、製パン会社の住込工員として働くようになつた。その間、被告人は山口二矢少年による日本社会党浅沼委員長刺殺事件の発生を知り、かつ赤尾敏を総裁とするいわゆる右翼団体としての大日本愛国党(以下愛国党と略称)の存在を知つたのであるが、当時の被告人としては、右の浅沼事件について「社会党のやり方は日本の政治の秩序を乱すもので、その代表者である浅沼委員長は殺されてもしかたがない」という感想を抱きはしたが、いわゆるテロ行為はどういう理由があろうともよくないことだとし、山口二矢少年を賞揚する気持は、これを抱くに至らなかつた。ところで、被告人は、長く製パン職工を続けるつもりはなかつたし、店の同僚との折り合いも良くなかつたところから、同年一一月初旬同所をやめて横浜市に行つた。被告人は、横浜方面は外国人も多い所だから、学生時代好きであつた英語の勉強にもなろうと考えて行つたのであるが、思うような職も見つからず、ようやく同市内の中華料理店の出前持ちになつてみたが、仕事がつらく、一〇日間ぐらいで、そこもやめ、その後同年一二月末まで同市内の簡易旅館を泊まり歩いて沖仲仕になつたり、東京都内小岩の工事飯場に出かせぎに行つたりして働いていたが、そのころは困窮してその日暮しの生活を送つていた。同月三一日ごろ、被告人はたまたま東京に出てきて台東区浅草公園付近を歩いているうち、同公園内で、かつて名古屋でその名を知つた愛国党の宣伝ビラを見て、ふと思い立つて同党本部をたずねようという気になり、その所在を探したが判らず、その日はそのまま帰つてしまつたが、同三六年正月には所持金もわずかとなり、仕事にもありつけなかつたので、あすの生活にも困るという追いつめられた状態にまでになつた。その時思い出したのが愛国党で、当時、被告人は愛国党については、ばく然と赤尾敏という人物の主宰する皇室中心主義のいわゆる右翼団体だということを知つていただけであつたが、被告人自身かねて皇室崇拝の信念に燃え、いつかは、そういう団体に入つて勉強したいという気持を抱いたこともあつたところから、この際同党を頼つてみようと、同三六年一月二日の夕方、台東区浅草公園一区七号の愛国党本部におもむいたが、総裁赤尾敏が不在のため、翌三日早朝再び同党本部を訪れ、同人に面接して入党を申し込み、まず仮党員として入党を許され、一週間後には正式党員としての身分を認められ、ここに愛国党本部員として同党の党活動に従事するに至つた。

被告人は、前記のように同三五年一一月から一二月にかけて、横浜で沖仲士をやつていたころ、しばしば同市内の神奈川県立図書館に通つて読書していたが、同年一二月ごろ雑誌「中央公論」同年一二月号に掲載された深沢七郎作の小説「風流夢譚」を読み、皇室尊崇の念に厚かつた被告人は、その小説の内容が、甚しく皇室を侮辱するものと良い気持はしなかつたものの、当時、その日その日の生活に追われていたので、「いつもの進歩的文化人がまた皇室の悪口を書いている、革命が起つて皇室の人々が惨殺されるというようなことを描写するのは、けしからんことだ」と感じたのにとどまり、それ以上深く考えたことはなかつた。ところが被告人は、前記のように愛国党に入党して、同党がすでに小説「風流夢譚」攻撃運動を展開していることを知り、かつ党本部備付けの帝都日日新聞、防共新聞、「紫雲」、「不二」などの世上いわゆる右翼系の諸新聞雑誌、書籍を読んで、かねて自己の抱懐していた皇室尊崇の信念にいよいよ確信を深め、教育勅語を指導原理とし、反共愛国の精神を鼓吹する同党の思想に共感を覚えるとともに、前記の諸新聞、雑誌、書籍及び随時なされる赤尾総裁の時局批判の談話、同三六年一月八日の「暴力について」をテーマとした同総裁を囲む座談会(NETテレビ放送「集団の中の青春」の一こま)のような、主として当面の政治的社会的諸問題を対象とした研究討論会における談論、あるいは同月下旬愛国党の党活動の一環として行われた新島ミサイル基地設置賛成運動のため赤尾総裁らとともに新島に渡つて、つぶさに体験した同党の実践活動などを通じて、「浅沼社会党委員長刺殺事件における山口二矢少年の行為は、その精神において国を危くするいわゆる左翼の暴力的勢力に対し、国を護るための正当防衛であつて、山口二矢少年は捨身奉公の殉教者であるから神格化すべきである」とし、又「小説風流夢譚は皇室及び国民を侮辱し、国民に共産主義暴力革命の暗示を与えるもので、小説風流夢譚それ自体が暴力である、かような小説を雑誌に掲載して公にした中央公論社を糾弾すべきであり、中央公論社は雑誌中央公論を廃刊し、解散すべきである」とし、あるいは、「暴力とはいわゆるまちの愚連隊のそれだけではない、左翼的集団勢力の暴力、あるいは言論の暴力こそ国を危くする許し難い暴力である」とする赤尾総裁を中心とする同党の暴力観に共鳴し、場合によつては、いわゆるテロ行為に出ることもまたやむを得ないという考えを抱くようになつた。そして、被告人は、「小説風流夢譚という許し難い言論の暴力」について、一般の新聞があえて世論喚起のための批判を加えようともしないのは、その左傾的偏向から公正でないためであると考えていた。

同三六年一月二九日ごろ、被告人は前記の新島基地ミサイル設置賛成運動に参加して帰つてから、党本部で吉田松陰の、「佞臣を斬るは剣の徳を尽すに足る」ということを唱つた「剣の説」(不二歌道会、昭和三三年七月発行「不二」盛夏号所載)の一文を読んで深い感銘を受け、又同じころ、三上綾子著「匪賊と共に」(太平洋戦争の終戦時の満洲において、日本人特に婦人がソ連兵あるいは共産匪賊のため悲惨な境遇に落ち入る状態を体験記風に綴つた著作)を読んで、強い衝撃を受けたのであるが、小説「風流夢譚」の問題を、このまま放置するにおいては、やがて共産主義暴力革命が起り、右の「匪賊の共に」という著作に描写されたような悲惨な事態が我が国民の頭上に襲いかかつてくるであろうという切迫した被害感情に駆られ、小説「風流夢譚」を雑誌に登載発行して、これを公にした責任者である中央公論社社長嶋中鵬二を「刺す」ことによつて事件を起し、これを広く新聞紙上に報道させて、小説「風流夢譚」糾弾の世論を巻き起したいということを考えるようになつた。おりから、同月三〇日午後、日比谷公会堂において、帝都日々新聞社(社長野依秀市)主催のもとに「赤色革命から国民を守る国民大会」が開催され、被告人も愛国党党員の一員として他の党員らとともに同大会に参加し、防共新聞社主幹浅沼美知雄、赤尾総裁ら数名の弁士の小説「風流夢譚」ないし中央公論社に対する激しい非難攻撃の演説を聞き、引き続いて行われた中央公論社に対する抗議運動に加わつて、赤尾総裁はじめ他の党員らとともに中央区京橋二丁目所在の中央公論社に押しかけ、同社社長らに対する抗議の状況を見聞し、そのふんい気にあおられて、いよいよ中央公論社に対する憤激の念を高めたのであるが、同日の中央公論社に対する抗議も、結局同社長嶋中鵬二をして謝罪文を中央公論誌上に掲載することを約束させる程度で終つたのを見て、被告人は内心不満に思い、ここに、かねて考えていたとおり、自分が身を犠牲にしてでも、国のため中央公論社社長嶋中鵬二を刺して、社会的センセイシヨンを巻き起し、小説「風流夢譚」に対する国民一般の批判と糾弾の声を盛り上げねばならぬと決意するとともに、直ちに同日夕刻台東区浅草千束町の金物店で登山用ナイフ一ちよう(刃渡り約一三・五センチメートル)(昭和三六年押第八九〇号の四)を買求めて決行の意思を固めた。そして、被告人は、愛国党に対しては、党員の日常生活における行動の不規律なことなどを見て気分的にいや気がさしていたこと、他の党員と折り合いが必しもよくなかつたことなどから、当時すでに同党から離脱したい気持を抱いていた際でもあり、又、このまま党にとどまつては、短期間ではあるが、恩義を受けた赤尾総裁にも迷惑の及ぶべきことを懸念して、この際脱党しようと考え、回年二月一日赤尾総裁に「党活動は自分の性に合わないから、国に帰つて自動車運転手か巡査でもしたい」と口実を作つて脱党したい旨伝え、同日午前同党から立ち去つた。被告人は、その足で千代田区九段一丁目の千代田図書館におもむき、全日本紳士録などにあたつて嶋中鵬二宅の住所をメモにとり、更に持ち合わせのハンカチ(前同号の三)に、内心山口二矢少年の残した辞世に寄せて、「天皇陛下万歳君ヲオモヒ国ヲオモヘバ世ノ人ゾイカデ惜シマン露ノ命ヲ 松風」とペンで書き、歌に托して一身を犠牲にして事に当るべき心境をしたためた。そして、被告人は、まず、新宿区砂土原町一丁目二番地の嶋中鵬二宅への地理を知つておくため、右メモを頼りに同人方を探し歩いて、その所在を確かめたうえ、一たん浅草山谷に行き、夕食をとつた後、前記の登山用ナイフを懐中に忍ばせ、再び前記嶋中宅に向つた。同日午後九時ごろ、嶋中社長の帰宅時を見計らつて同人宅におもむいた被告人は、付近に人影のないのを確かめ、同家の玄関先に立つて、「今晩は」と数回呼んだ。被告人は、嶋中社長はすでに帰宅しているものと信じ、「ひとまず、同人に面会して、中央公論社の解散を要求してみよう、どうせ聞き入れられないであろうから、その時に予定どおり同人をナイフで刺そう」という気持から一応の案内を求めたのであるが、奥の方からは、女の話し声が聞えてくるだけで返答がなかつた。被告人は、一瞬そのまま帰ろうかと迷つたが、思い直し、どうしても、今日かねての計画どおり実行しようと、意を決して、故なく玄関から同家屋内に侵入して応接間に入り、携えていた前記登山用ナイフを取り出して右手に持ち、嶋中社長が見えたら、刺そうと機をうかがつていた。

そのころ、同家では奥四畳半の間で、外出先から戻つたばかりの嶋中鵬二の妻雅子(当時三六歳)を囲んでその娘留美(当時一二歳)らが談笑していたのであるが、被告人が前記のように応接間に忍び込んでから間もなく、同家の家事手伝丸山かね(当時五一歳)及び上野信子の両名が、たまたま雅子の指示で、一〇数冊の書籍を応接間に運ぶべく、右丸山かねが先に立ち、そのとびらを開けて中に入ろうとしたので、被告人は家人に発見された以上、やむを得ないと考え、室内から廊下に飛び出し、右手に持つた前記登山用ナイフを丸山かねに突きつけ、後ずさりする同女らと、もつれ合うようにしながら、嶋中鵬二を求めて奥の方へ進み、雅子らのいる奥四畳半の茶の間の近くに至つた。その時、雅子は応接間のほうで聞えた悲鳴や物音を不審に思い、茶の間から廊下のほうに向つてへやぎわまで出てきた。被告人の姿を見て驚く同女に対し、被告人は、右手に登山用ナイフを手に構えながら、「おれは右翼の一人だ、嶋中鵬二はどこにいるか、出せ」というようなことを言つたが、同女から「主人は印刷所のほうへ行つていて、るすである」と言われ、押し問答のすえ、重ねて同女から「自分は嶋中の家内である、うそだと思つたら、へやを探しても結構である」旨告げられ、結局嶋中鵬二が不在であることを確認するや、一瞬そのまま帰ろうかと思い迷つたが、このまま帰つては、所期の目的を達する機会は、もはや得られない、嶋中社長が不在であるならば、同人の妻をその身代りとして刺し、もつて所期の目的を遂げるほかないものと、とつさに決意し、「それじや、お前を殺してやる」と叫びつつ同女に迫り、いきなり、右手に構えた前記登山用ナイフを振つて相対した同女にからだごとぶつかるような態勢で同女の左胸部を突き刺したうえ、その右手を引き、右に向き変えて立ち去ろうとした時、被告人のやや右後方にいた前記丸山かねが駆け寄り、被告人に背を向けて雅子をかばうようなかつこうに立ちはだかつたとたん、同女に対しても右登山用ナイフを突き出して、同女の左背部を突き刺し、よつて右丸山かねをして左背部刺創による肺動脈損傷に基づく出血のため、同日午後九時過ぎごろ医療処置を講ずるため運搬の途中、同所付近もしくは同所より新宿区荒木町一三番地伴病院に至る間において死亡するに至らしめ、右嶋中雅子に対しては幸い適切な医療処置が講じられたことなどから、治療四八日間を要する左側胸部刺創、左気血胸などの傷害を負わせたのにとどまつた。そうして、被告人は、嶋中雅子及び丸山かねに対し、右の凶行を演ずるにあたつては、当然これにより、あるいは殺害の結果を生ずべきおそれのあることを知りながら、勢いのおもむくところ、あえて叙上の行為に出たものである。

二  (証拠)

(一)  (証拠の標目)

一 被告人の当公判廷における供述

二 被告人の司法警察員(一五通)及び検察官(一一通)に対する各供述調書

三 被告人作成の昭和三六年二月二二日付自己反省記と題する書面

四 証人小森義雄の当公判廷における供述

五 小森義雄の検察官に対する供述調書(二通)

六 片野喜一郎の司法警察員に対する供述調書

七 佐藤春雄及び毛利勝郎の検察官に対する各供述調書

八 長崎県立長崎東高等学校長斎藤雄作成の昭和三六年二月一六日付牛込警察署長あての「生徒の学業成績などに関する照会について回報」と題する書面

九 鈴木久夫の検察官に対する供述調書

一〇 証人赤尾敏及び同浅沼美知雄の当公判廷における各供述

一一 高花豊の検察官に対する供述調書(二通)

一二 岡田尚平の検察官に対する供述調書(二通)

一三 加藤勲の検察官に対する供述調書

一四 鷺信義の検察官に対する供述調書(二通)

一五 赤尾国彦及び赤尾道彦の検察官に対する各供述調書

一六 司法警察員宮下立己作成の昭和三六年一月三〇日付「赤色革命から国民を守る国民大会」についての搜査報告書と題する書面

一七 砂沢朋三郎の司法警察員に対する供述調書謄本

一八 証人笹原金次郎同竹森清及び同蝋山政道の当公判廷における各供述

一九 司法警察員佐久間隆光作成の「赤色革命から国民を守る国民大会」の中央公論社に対する抗議状況現認報告書と題する書面の謄本

二〇 富田保夫の司法警察員に対する供述調書(二通)

二一 志村勲の司法警察員に対する供述調書

二二 嶋中留美の司法警察員に対する昭和三六年二月二日付及び同月六日付各供述調書

二三 嶋中留美、上野信子及び嶋中雅子の検察官に対する各供述調書

二四 木内光江及び丸山朋太郎の司法警察員に対する各供述調書

二五 医師城後昭彦作成の嶋中雅子に対する診断書

二六 証人城後昭彦の当公判廷における供述、同人作成の嶋中雅子に対する医証と題する書面並びに同女に対するカルテ一綴(昭和三六年押第八九〇号の五五)

二七 証人松下良司の当公判廷における供述

二八 東京都監察医越永重四郎作成の丸山かねの死体検案調書及び司法警察員作成の検視調書

二九 医師八十島信之助同中館久平作成の丸山かねの死体に対する鑑定書

三〇 司法警察員西山功作成の嶋中鵬二方居宅及びその付近一帯などについての実況見分調書

三一 領置してある登山用ナイフ一ちよう(昭和三六年押第八九〇号の四)及びハンカチ一枚(同号の三)

三二 領置してある雑誌「中央公論」昭和三五年一二月号一冊(同号の五一)、

三三 領置してある雑誌「不二」盛夏号一冊(不二歌道会、昭和三三年七月発行)(同号の二五)、三上綾子著「匪賊と共に」一冊(同号の五六)及び帝都日日新聞昭和三六年一月三〇日号一部(同号の二八)

(二)  本件公訴事実中殺意の点について

検察官は、被告人は被害者嶋中雅子に対しては殺害の気持、換言すればいわゆる確定殺意を、被害者丸山かねに対しては殺害するもやむを得ない気持、換言すればいわゆる未必の殺意をもつて本件犯行に及んだものである旨主張するに対し、被告人及び各弁護人はいずれも被告人には殺意はない旨争つており、重要な争点であるが、この点についての判断は次のとおりである。

(1)  嶋中雅子に対する所為について

(イ) 検察官は、その主張の根拠として、被告人が本件犯行を敢行するに至つた事情及び犯行を企図してから敢行するまでの行動、犯行の状況、被害者の傷害の部位、程度、死因等被害の客観的状況並びに被告人の検察官に対する昭和三六年二月四日付供述調書をあげている。しかし、被告人の当公判廷における供述及び検察官に対する供述調書などを精査し、検察官指摘の証拠と対比考察すれば、これらの証拠によつては検察官が主張するまでのことは確信を得難く、結局、本件においては、被告人が嶋中雅子に対し当初から同女を殺害する意図をもつていたことはもちろん、判示所為に際し、これによつて被害者が死に至るべきことを確定的に認識していたことについてはこれを認めるに足りる証拠はないといわねばならない(もつとも、被告人が判示のように嶋中雅子を刺すにあたつて、「それじや、お前を殺してやる」と叫んだことは、さきに認めたとおりであるが、この言葉自体をとらえて確定的な殺意を認めることは妥当でなく、本件の場合は、むしろ、後記(ロ)で認定した他の諸情況と合わせ考えて、同項で認定した未必的殺意のあつたことを物語る一つの徴表として認めるのが相当である)。

(ロ) しかしながら、医師城後昭彦作成の診断書、証人城後昭彦の当公判廷における供述、並びに同人作成の嶋中雅子に対する医証と題する書面、証人松下良司の当公判廷における供述、嶋中雅子並びに嶋中留美の検察官に対する各供述調書、嶋中留美の司法警察員に対する昭和三六年二月六日付供述調書、領置してある前記登山用ナイフを合わせ考えると、被告人が判示のように中央公論社社長嶋中鵬二を「刺す」決意を固めるとともに直ちに買い求めて本件犯行に用いた兇器は、刃渡り約一三・五センチメートルの登山用ナイフであつて、きわめて鋭利なものであり、これをもつて突き刺し生じた左側胸部の創傷は、左乳首の斜左上約二センチメートルの個所において右上方から左下方に向う、斜めの刺創で、その部位は当然致命傷ともなるべき身体における重要な機能を営む個所を含んでおり、かつ、その程度は、傷の長さ約二・五センチメートル、深さ約七センチメートルで、左乳腺、左大胸筋、左肋膜を損傷して肺臓に達するていのものであり、生命に危険のある重篤の創傷であつたこと、同女が幸い前後四八日間の入院加療の後、ようやく危険を脱して自宅静養が可能な程度に回復し、昭和三六年三月二〇日退院するに至つたのは、余病の発生がなく、治療も正確適切に行われたためであること、右創傷を生ぜしめた状態については、被告人が必ずしも嶋中雅子の胸部をめがけて突き刺したものでなかつたとしても、被告人は判示のように同女に対し、右手に右登山用ナイフを構えながら同女と相対し、同女から嶋中社長不在の旨告げられるや、一瞬思い迷つたが、とつさに、同女が同社長の妻であることから、同女を社長の身代りとして刺し、あくまで所期の目的を達しようと決意し、やにわに、同女に迫つて、からだごとぶつかるようにして突き刺したことがそれぞれ認められる。かような態勢において、手にした前記のような性能をもつた兇器を振つて被害者に切りつければ、当然その刃先はその胸部に及び、致命傷となるべき傷害を加えるおそれのあることは通常容易に予想されるところであるが、本件において、被告人が特にこれらの個所を避けて切りつけたものと認むべき事情はいささかも認められない(のみならず、被告人の当公判廷における供述によると、嶋中社長に対しては、兇器で同人の胸部のあたりを刺す考えであつたというのであるから、雅子を同人の身代りとして刺そうとした決意のうちには、おのずから同女の胸部を刺す意識が働いたものとも認められないこともない)。以上の諸事実を合わせ考えると、本件においては前記(イ)で認定したとおり、被告人が嶋中雅子に対し、当初から同女を殺害する意図のあつたこと並びに判示行為に際し、これによつて被害者が死に至きるべことを確定的に認識していたことは、これを認めることはできないが、少くとも場合によつては殺害の結果を生ずべきおそれのあることを察知しながら、あえて嶋中雅子に対し、判示傷害行為に及んだことはこれを認めることができる。そうとすれば、本件において、被告人に対し、殺人についての未必的故意は、これを認めざるを得ない。

(2)  丸山かねに対する所為について

嶋中雅子並びに嶋中留美の検察官に対する各供述調書、嶋中留美の司法警察員に対する昭和三六年二月六日付供述調書及び領置してある登山用ナイフを合わせ考えると、被告人が丸山かねを刺したのは、被告人が嶋中雅子を刺して立ち去ろうとした瞬間、丸山かねが判示のように雅子をかばうようにして、被告人に背を向けて立ちふさがるようなかつこうになつた際、前記の登山用ナイフを突き出したのであり、しかも、その用いた兇器は、前記のように刃渡り約一三・五センチメートルの鋭利なものであることが認められ、又、医師八十島信之助同中館久平作成の鑑定書によると、その致命傷となつた創傷は、背部ではあるが、雅子の場合と同様、場合によつては、致命傷ともなるべき身体の重要な機能を営む個所を含んでおり、かつ、その程度は、左背部において刺入口の長さ二・六センチメートル、深さ約一四・五センチメートルで、肋骨、左肺及び肺動脈の損傷を伴つた刺創で、第六肋間筋をほぼ腋窩線上において、ほぼ垂直に切載し、第六肋骨を挫截、第七肋骨には完全に横骨折を起して左胸腔内に入り、心嚢内において肺動脈を損傷しており、極めて強い力を加えて刺したものであることが看取できる。以上の事実と被告人の「自分が奥さんを刺して向きをかえて立ち去ろうとした時に、自分のすぐ前に立ちはだかるようにしており、邪魔だという感じがしたように思う。自分は奥さんを刺してしまつて破れかぶれの気持になつていて、すぐ前に立つていたおばあさんまでも刺したのである。奥さんを刺した右手を引いてすぐ自分は右の方へ身体をよじるようにして右足を一歩踏みこんで……ハッキリしないが、おばあさんの腹か胸のあたりを刺したように思う」旨の供述(被告人の検察官に対する昭和三六年三月二四日付供述調書第二項)及び犯行時における目撃者である嶋中留美の「男(被告人)は右手に持つていた刃物ですつと母の胸のあたりを刺した。ちようどそのころ、それまでホールにいたかねさんが何をするんですというようなことを言いながら、母のそばに走つてきた。母の方を向いているので、その男の人には斜め後方を見せるようなかつこうになつていた。その男の人は今度は、やはり母を刺した時と同じようにかねの左の背中のあたりを刺した。母を刺して、かねを刺すまでほとんど僅かな時間のことですぐ続いて刺したと言えるくらいであつた」旨の供述(嶋中留美の検察官に対する供述調書)とを総合して考察すれば、丸山かねに対する所為についても、被告人が少くとも未必的殺意をもつていたことは、これを認めざるを得ない。もつとも、被告人が搜査の段階から当公判廷に至るまで丸山かねに対しては、その腹又は胸のあたりを刺したように思う旨の供述をし、鑑定書によつて認められる創傷の部位とそごしているが、これは、被告人が丸山かねに対して凶器を振つたのは、被告人が雅子を刺した直後で、しかも所期の目的を達したとして一刻も早くその場を立ち去ろうとした際に、突然目前に立ちはだかられたため、当時精神的に動搖し、ある程度興奮状態-興奮状態といつても、被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書中の犯行前後の状況に関する供述その他、後記「心神耗弱の主張に対する判断」の項で掲げている各証拠によれば、いまだ通常人の分別をわきまえないほどの非常意識状態にあつたものとは認められない-にあつて、その部位を正確に認識し得なかつたために出た供述と認められ、右認定に抵触しない。

三 (弁護人の主張に対する判断)

(一)  正当防衛等の主張に対する判断

弁護人岩本健一郎は、被告人は、小説「風流夢譚」が夢物語に托して風刺した革命下における皇族殺害の描写は、皇室に対する甚しい侮辱であつて、国民に対し革命の暗示を与え、かつこれによりその小説に描写された共産主義による暴力革命の危機がまさに到来しようとし、わが祖国が危局に瀕しているのにかかわらず、社会の公器であるべき新聞並びに言論人は、小説「風流夢譚」について何ら批判を加えず、傍観的であり、告訴権を有する政府当局はその行使を怠つたものとし、この国家に対する急迫不正の国賊的侵害から祖国を防護するためには、中央公論社社長嶋中鵬二を刺して社会的センセイションを巻き起し、小説「風流夢譚」に対する批判と糾弾の世論を盛り上げるほかなしとした結果、ついに本件行為を敢行したものであつて、被告人の所為は、まさに国家民族の利益を防衛するためやむを得ずしてなした国家のためにする緊急救助的行為であるから、正当防衛ないし過剰防衛として無罪もしくは刑の減免の裁判があつて然るべきであり、かりに、正当防衛もしくは過剰防衛として論ずることを得ないとしても、法律上正当なる行為として、はた又期待可能性なき行為として無罪である、又、以上の主張にして理由がないとしても、少くとも誤想防衛として論ぜられるべきである旨主張する。しかしながら、本件犯行が行われた当時のわが国家社会の諸般の客観的情勢が前記中央公論誌上に小説「風流夢譚」が掲載され、公にされたことを契機として、所論のような共産主義による暴力革命の危機が切迫するなど、わが国家的民族的公共の利益に対し現実に急迫不正の侵害があつたものとは、証拠上とうてい認められないのみならず、その行為の点からみても、本件のように人身に対し殺傷行為に及ぶような暴力による直接行動が、かような場合の防衛行為として社会通念上是認し、許容し得ないものであることも明らかであるから、弁護人の正当防衛ないし過剰防衛の主張は理由がない。又かような直接行動が現在の法律秩序全体の精神に照らし、許容されるべき筋合のものでないことも明白であるから、被告人の本件所為をもつて正当なる行為ということはできないのはもちろん、当時の国家社会の情勢上、被告人の本件行為が、その行為に出ることが緊急を要するやむを得ないものであつたとすることもできない。したがつて、正当行為の主張もしくは期待可能性がない旨の主張は理由がない。又かりに、被告人において、当時の事態を錯覚し、前記のような緊急事態が客観的に存在しないのに、これが存在するものと誤信し、本件行為に及んだものとしても、かように信ずるについて相当な理由があつたものとは認められないのみならず、被告人の本件所為が社会共同生活上の観念に照らし、防衛行為として、とうてい許容されるべきものでないことも前記のとおりであるから、同弁護人の誤想防衛の主張も理由がない。

(二)  心神耗弱の主張に対する判断

弁護人向江璋悦同日野久三郎同安西義明同水谷明は、被告人は本件犯行当時精神興奮状態、恐怖ないし被害者念慮、ろうばい、逆上、焦燥の諸症状を呈し、知覚及び判断力の不十分な状態にあつたもので、普通人の有する精神作用に比し著しく減退した状態すなわち心神耗弱の状態にあつた旨主張する。なるほど、被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書、嶋中雅子の検察官に対する供述調書等の証拠中の本件犯行時における被告人の態度などに関する供述記載及び被告人の当公判廷における供述によると、本件犯行時被告人の言語、動作など外見上一種の精神興奮状態にあつたことは認められるが、右は、犯人の心理に通有の心理的緊張状態に基づくものと認められるのみならず、鑑定人土井正徳作成の鑑定書(以下土井鑑定書と略称)によれば、本件犯行当時の被告人の精神状態は精神医学的にいわゆる普通の精神状態の範ちゆうに属し、犯行時においても、一時的に特定の精神病が発病したと認められる事実もないことが認められる。そして土井鑑定書によれば、被告人には自尊的自我中心的誇張的自我主張(自己顕示)、偏向固執(粘着)、浮動的、移り気(意思欠如)及び軽はずみ・即行の著しい傾向があつて、被告人はこれを性格特性としており、この結果、その性格特性に基づき精神医学的にいう被暗示性や模倣性は消極的で、一時的に阻止あるいは拒否の傾向があり、又、思考は自我中心的に偏向固執する傾向すなわち自己本位に考え込む傾向が強いが、その知能は精神医学的・心理学的にいわゆる普通(普通の上)の段階に属し被告人と同年齢者や成人のいわゆる普通の知能との差異はなく、同時に社会的事理、是非善悪の弁識・判断に欠けるところはないこと及びその運動機能一般、感覚、知覚、反射機能一般、その他の機能に精神障害・神経病に直接関係あるべき病的症候はないことがそれぞれ認められる。そのうえ被告人の検察官及び司法警察員に対する各供述調書並びに被告人の当公判廷における供述によれば、被告人が本件犯行を決意するに至つた心理・思考の推移、その決意を実行に移すに至つた過程、犯行前後の状況についてはもちろん、犯行直前における被害者らとの応接の模様等についても詳細めいりように記憶し、犯行の態様についての記憶には多少のそごはあるが、著しい記憶障害や記憶欠損はなく、搜査官の取調べに際し任意に供述していることが認められる。これらの事実を総合して考察すれば、被告人が犯行時一七才八ヵ月の少年であつたことを考慮しても、本件犯行当時、被告人が是非善悪を弁別し、又その弁別に従つて行動することが著しく困難な状態にあつたものとはとうてい認められないので、右弁護人の主張は採用できない。

四 (法令の適用)

被告人の判示所為中住居侵入の点は刑法第一三〇条、罰金等臨時措置法第二条、第三条に、嶋中雅子に対する殺人未遂の点は刑法第一九九条、第二〇三条に、丸山かねに対する殺人の点は、同法第一九九条に該当するところ、右住居侵入と殺人未遂及び殺人との間にはそれぞれ牽連犯の関係があるから同法第五四条第一項後段、第一〇条により結局一罪とし、最も重いと認める丸山かねに対する殺人の罪の刑に従い、後記量刑の理由に掲記した諸般の情状を考慮したうえ、所定刑中無期懲役刑を選択し、無期懲役刑をもつて処断すべきところ、被告人は罪を犯すとき一八才に満たない少年であるから、少年法第五一条に則り、被告人を懲役一五年に処し、刑法第二一条により未決勾留日数中二五〇日を右刑に算入する。領置してある登山用ナイフ一ちよう(昭和三六年押第八九〇号の四)は、被告人が判示殺人未遂及び殺人の犯行に供した物で、被告人以外の者に属しないから、同法第一九条第一項第二号、第二項により、これを没収すべきものとする。

(訴訟費用は、刑事訴訟法第一八一条第一項但書により被告人に負担させない。)

五 (量刑の理由)

(イ)  被告人に対する量刑は、一件証拠によつて認め得る被告人の年齢、性格、経歴及び環境、犯罪の動機及び軽重並びに犯罪後における被告人の態度その他諸般の情状を考慮したうえ慎重に行つたのであるが、特に指摘して置くことは次の事実である。

(ロ)  被告人の本件犯行に及んだ動機目的が、小説「風流夢譚」は皇室を侮辱し、国民に共産主義による暴力革命の暗示を与えるものと考え、この小説を中央公論に登載し公にした責任者である中央公論社社長嶋中鵬二を凶器で刺して社会的センセイションを巻き起し、その事件を広く一般に報道させて右小説に対する批判と糾弾の世論を喚起しようとすることにあつたことは、さきに認定したとおりである。

思うに、民主主義を基調とする国家社会においては、言論等表現の自由はその主要な礎の一つであり、意見の表明は憲法及びこれに基づく法令のほか何ものにも侵されないことは近代国家の鉄則でもある。そして小説「風流夢譚」は、多くの問題点を含んだ作品であるから、その内容及びこれを雑誌に登載した中央公論社の編集方針などについて批判の行われることは、民主主義社会の本質上、もとより当然のことである。この場合、その世論はあくまで、一方に偏せず、あらゆる観点に立つて、自由な論議の末、国民の良識によつて形成されなければならないことも、これまた多言を要しない。この世論の形成に当り、言論のわくを越えて人身に殺傷行為を加えるなどの暴力を行うがごときことは、どのような動機理由があつても、断じて許されないことであり、このことは、いまさらここに説明を加える必要もない自明の事理である。

(ハ)  そのうえ、本件において、看過できないことは、本件犯行はなんらとがめることもない、しかも無抵抗な二人の婦人に対して行われていることである。すなわち、被告人は判示のように、かねての決意どおり、嶋中社長を刺す目的で、同人宅に侵入した際、目指す嶋中社長が不在であることを知り、かつ、たまたま居合わせた妻雅子及び家事手伝の丸山かねがなんらの抵抗も示さないにもかかわらず、嶋中雅子に対して、同社長の身代りだとして、あえて凶器を振つて殺傷行為を加えたばかりか、家事手伝の丸山かねに対しても、加害行為に出て、ついに同女をして死に至らしめるという重大な結果をもたらしているのである。のみならず、被告人は被害者雅子の娘留美(当時一二歳)らがその場に居合わせたのにかかわらず、その目前で母親に対し、「殺してやる」というようなことを言つて、凶器を振つているのであつて、その所為はまことにむざんであるといわなければならない。

(ニ)  被告人は本件犯行後、事件に対する反省として、「今度の事件は、なんと言つても、自分自身に一番問題があつたと考えている。自分の性格とか環境というものが事件を起したのである。今まで何かやろうと考えるとすぐ実行しなければ気がすまない性質なのである。愛国党をやめる時でも、やめようと思いだすと、もうやめなければならないし、党を出てから嶋中社長をやろうと考えると、もうやらずにはいられないといつたところが自分にはあつたのである。自分のそういう素質というものに加えて愛国党という環境がピッタリとして合つてしまつたとも言えるのではないかと思うのである」と述べ(被告人の司法警察員に対する昭和三六年三月二九日付供述調書第一三項)、又、被告人が判示のように、本件犯行を決行しようとして嶋中社長宅に向う犯行直前の心境について、自分は愛国党を出てから一週間ぐらいの間にやろうなどと考えていたが、それはのんきな考えだ、そんなことをしていると、できなくなつてしまう、どうしても今日やろうという気持になつていた。自分としても人を刺すということについて、国のためとは言いながら、いろいろどうしようかという気持も起つてきて、早くやらなければできなくなつてしまうという、追いつめられた気持があつたのである。最初に考えたことはどうしても、やり通したいといういこじなところがあり、この場合でも、このような自分の性質が働いていたのである」旨述べている(被告人の検察官に対する昭和三六年二月二〇日付第二供述調書第二項)。これらの供述によつても、うかがい知ることができるのであるが、被告人が本件犯行を敢行するに至つた原因として、学業放棄、家出に始まり愛国党入党に至るまでの被告人の生活環境の変動(特に愛国党入党後における生活環境による感化影響)が、被告人に対する前記精神鑑定書によつて認められるような自我中心的(自己顕示性)、偏向固執的、即行的傾向の強い性格と相まつて極めて重要性をもつていることは否定できないところである。しかしながら、かような生活環境を作り出す第一歩となつた学業放棄、家出は、-それが幼少時から中学校卒業前後ごろまでの養育環境に欠けるところのあつたことに、その一端の原因があつたにせよ-父や教師の、被告人の将来を思う愛情のこもつた熱心な説得にもかかわらず、独善的な考えのもとに、軽卒にもこれを押し切つて行われたものであるから、これら一連の社会不適応行動も、結局被告人の社会人としての自己の責任に対する自覚の欠如に帰せられなければならない。

(ホ)  被告人は、もともと学業成績もよく、知能は、精神医学的・心理学的にいわゆる普通(普通の上)の段階に属し、成人のいわゆる普通の知能と差異はなく、精神、身体の諸機能にも欠陥はなかつたのである。弁護人は、本件につき、少年法第五五条により家庭裁判所に移送し、被告人を保護処分に付するのが相当である旨主張する。しかし、本件の場合、被告人は、少年であるとはいえ、右のように正常な意思決定能力をもちながら、しかも計画性をもつて殺傷行為を敢行しているのであるから、その動機のいかんにかかわらず、又被告人が少年であつても、その行為に対し、きびしい道義的非難が加えられるべきは、人間本然の正義感から言つても当然である。しかも、本件の場合、嶋中社長宅に侵入した際、その目的とした同社長が不在であることを知らされたのであるから、そのまま同社長を刺すことを放棄して帰つたとしても、すでに、そのことによつて「事件を起して一般に報道させ、世論を喚起しよう」とする被告人の意図の大半は達せられたはずであるのに、なんら罪のない、無抵抗な、その妻に対し、その身代りとしてというような単に被告人の主観において独善的に正当化された目的のために、殺傷行為をあえてし、その実行を抑制するに足りる道義的倫理的反省を怠つている。そこに、どのような目的のためであるにせよ、人に対し殺傷行為を加えることが人間として許すべからざることであるということ、換言すれば、人格の尊重について根本的な自覚を欠いているといわなければならない。したがつて、被告人に対しては、刑事裁判による法の裁きによつて、まず犯した罪に対するきびしい道義的倫理的責任の自覚から出発させることが相当であり、そして少年にふさわしい行刑処遇のうちにも、しよく罪の意味を含めた生活を送らせ、あわせて将来における更生の道も配慮されるということによつて、社会一般の正義感情も満たされるものというべきである。

(ヘ)  被告人は、本件犯行後、その犯した罪の重大さを深く反省し、今後再びかような罪を繰り返さない旨並びに将来愛国党その他のいわゆる右翼団体とはいつさい関係をもたず、よき社会人として更生したい旨誓つていることなど改心の情が認められる。

以上の理由により、主文のとおり判決する。

(公判出席検察官 検事 大槻一雄 同弁護人 弁護士 向江璋悦ほか四名)

(裁判長裁判官 八島三郎 裁判官 相沢正重 裁判官 佐藤文哉)

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