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東京地方裁判所 昭和38年(ワ)2345号 判決 1965年1月29日

原告

木下安太郎

原告

木下タケ

右両名訴訟代理人

田口康雅

石田享

被告

有限会社菊池酸素工業所

右代表者清算人

菊池貞雄

被告

菊池清

右両名訴訟代理人

菅沼利雄

ほか二名

主文

被告両名は連帯して原告両名に対し各金九一八、五一四円及びこれに対する昭和三八年四月六日以降完済まで年五分の割合による金員を支払え。

原告両名のその余の請求を棄却する。

訴訟費用中六分の一を原告両名、その余を被告両名の各負担とする。

第一項は、仮に執行することができる。

事実

第一、当事者双方の求める裁判

原告両名は「被告両名は原告それぞれに対し各自金一、一六九、〇〇〇円及びこれに対する昭和三八年四月六日以降完済まで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告らの負担とする」との判決並びに仮執行の宣言を求め、被告両名は「原告らの請求を棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする」との判決を求めた。

第二、請求原因

一、被告有限会社菊池酸素工業所は、電気・酸素熔接及び板金加工を業とするもの、被告菊池清は会社代表者菊池貞雄の子であつて会社の業務遂行上監督的地位にあるものである。亡木下吉弥(昭和一七年一二月一六日生・妻子なし)は、昭和三七年四月三〇日から後記死亡時まで被告会社従業員であつて、原告両名は、その父母である。

二、亡吉弥は、昭和三七年五月一五日午後一時頃から午後三時頃までの間、高崎市所在理研合成樹脂株式会社の工場において、被告会社の業務のため、被告清の指揮の下に、被告会社が前記工業に製作納入したヘノール樹脂用貯蔵タンク(円簡形、高さ四・五メートル、容積二〇トン)の内壁洗浄漂白作業(タンク内壁に塩酸と硝酸と水を硅藻土に含ませて団子状に練り固めたものを刷毛で塗りつけた後、約一〇後水洗するもの)に従事したが作業中不快感を訴え、同日午後四時三〇分頃同市井草病院に入院したが、翌一六日午後一一時二五分頃気管支肺炎による肺水腫のため死亡した。

三、被告清は作業指揮者として、かように有毒な塩素ガスの発生を伴なう作業に際しては作業員に防毒マスクを使用させる等により、塩素ガス吸入の危険を未然に防止すべき業務上の注意義務(労働基準法第四二条、労働安全衛生規則第一八一条等により使用者に課せられた安全、衛生業務上から当然認められる)があるにもかかわらずこれを怠つたため、作業中発生した塩素ガス吸入による中毒によつて、前記のとおり吉弥を死亡に至らしめたのであるから、同人の死亡につき民法第七〇九条による損害賠償責任を免れない。

四、被告会社は、(一)被告清の使用者として、民法第七一五条第一項により被告清と連帯して右の損害賠償責任を負う。

(二) また亡吉弥の使用者として、同人の前記就業に際しては防毒マスクを使用させる等により塩素ガス吸入の危険を未然に防止すべき安全衛生上の義務を怠つたものであるから、民法第七〇九条による損害賠償責任を負うものといえる。

五、(一) 吉弥は本件事故死によつて左記のとおり少くとも金二、一六六、六六六円の得べかりし利益を喪失し、原告らは同人から右損害賠償請求権を相続により取得した。

1  吉弥は事故当時満一九才でなお四九年余の平均余命を有し(第一〇回生命表)、少くとも四〇年間は労働可能と考えられる。

2  吉弥は当時日給六八〇円を得ていたから、一箇月に二二日働くものとして一年間に二六四日分一七九、五二〇円の賃金を得られ、一箇月の必要生活費五〇〇〇円として年六〇、〇〇〇円をこれから控除しても、同人の一年間の純収益は、一〇〇、〇〇〇円を下らない。

3  右に従い労働可能期間四〇年、一年間の純収益一〇〇、〇〇〇円として計上した総額から複式ホフマン方式により民法所定年五分の中間利息を控除した金額は、二、一六六、六六六円である。

(二) 原告らは、吉弥の死亡により各自四〇〇、〇〇〇円の慰藉に値する精神的損害を受けた。

六、よつて、原告らは、各自被告らに対して、上記五の(一)の損害額から原告両名が受領した労災保険金六二七、二三三円を控除した金額の半額を越えない七六九、〇〇〇円及び慰藉料四〇〇、〇〇〇円の合計一、一六九、〇〇〇円とこれに対する本訴状送達の翌日以降法定利率による遅延損害金の支払を求める。

第三、被告らの答弁及び反対主張

一、請求原因一、の事実のうち、原告らが亡吉弥の父母である点は不知、その余は認める。

二、同二の事実は、認める。

三、同三以下の事実は、争う。

四、本件のような作業には送風換気装置(貯蔵タンク内筒内にコンプレツサーで空気を送りこみ塩素ガスを円筒上部から排除する装置)を使用すれば防毒マスクを着用しないでも従業員になんら危険はないのであるが、本件作業時においては、五馬力モーター付の強力な空気装置を使用した上、とくに亡吉弥にだけは、防毒マスクを着用させ、また、被告清は終始同人とともに円筒内にとどまつて、作業状態を、監視する等事故防止の注意を怠らなかつた。

五、仮に吉弥が本件作業中微量の塩素ガスを吸入したとしても、当日共同作業に従事した被告清、訴外三木辰枝らに何ら異常のないところからみて、吉弥の発病死亡は同人の異常体質に起因するものと思われる。また、吉弥の容態が治療に当たつた医師井草憲太郎が同人に希硫塩酸注射を施して後まもなく悪化したところからみて、右医師の不適切な治療措置が死亡の原因とも考えられる。

いずれにせよ、吉弥の死亡は、被告らの業務ないし所為との間に相当因果関係を欠くものである。

第四、証拠<省略>

理由

一、請求原因一の事実のうち原告らが亡吉弥の父母であることを除くその余の事実及び同二の事実は、いずれも当事者間に争がない。

二、右争のない事実と<証拠―省略>を綜合すれば、吉弥が昭和三七年五月一五日午後一時頃から三時頃まで行なつた貯蔵タンク内壁の洗浄漂白作業のうち、王水(塩酸と硝酸の混合液、その成分比率、濃度等は明らかでない)を硅藻土に含ませたものを刷毛で内壁に塗布する過程は、作業者自ら右タンク内に立ち入つてこれをなすものであるところ、右タンクは円筒形で高さ四メートルを超え、内径二・五メートルで、作業当時すでに立てられており、下面、側壁及び天蓋はいずれもステンレス鋼で作られ、タンク内は天蓋に直径約四七センチメートルの孔が開かれていたほか、側壁に直径約五センチメートル又はそれ以下の若干の小孔があるを除いて外気と完全に遮ぎられていること及び吉弥は繰返しタンク内に入つて前記塗布作業をなしたことが認められる。

ところで、王水が常温において塩素ガスを発生することは、<証拠―省略>をまつまでもなく、経験則上公知の事実である(その反応式は3HCL+NHO3=CL2↑+NOCL+2H2O)。したがつて、タンク内には前記作業により相当量の塩素ガスが発生充満し、タンク内で作業をくり返し行なつた吉弥は相当量の塩素ガスを吸い込んだものとみなければならない。

もつとも、<証拠―省略>によると右作業中吉弥が防塵マスクを着用していたこと及び五馬力のコンプレサーによりタンク下部から外気がタンク内に送られていたことが認められるけれども、<証拠―省略>によれば、右防塵マスクの構造は吸入口にグラスウール及びゴムの薄片が設けられているだけで、被告清も本人尋問において自認するとおり、その着用により塩素ガスの透過、吸引を防ぐことはできないものであることが明らかであるし、前記コンプレツサーによるる送風も、これにより塩素ガスをタンク内から有効に排除し得たと認められる確証はない。むしろ、標準状態において塩素ガスの空気に対する比重が二・四九〇であることからみて、縦長の円筒形タンクの上部孔から塩素ガスを排出することはかなり困難であると推測されるのみならず(前示乙第七、第二一号証によれば、作業時上部孔から発煙していた事実が認められるが、王水中の塩化水素HCL中前記反応により生ずる塩化ニトロシルNOCL水蒸気H2Oはいずれも塩素ガスより比重が小さいので、右発煙をもつて直ちに塩素ガスの排出と認めることはできない)送風により王水の前記化学反応が促進されると同時に、水溶性の強い(体積にして標準状態では四・六一倍、二〇度では二・三〇倍)塩素ガスが塗布個所からタンク内にすみやかに拡散される結果となることも推測できるから、上記コンプレツサーの使用は、かえつて塩素ガスがタンク内に充満するのを助長したのではないかとも考えられる。その他、前記認定を妨げるべき証拠はない。

三、塩素ガスが有毒であつて、その吸引により呼吸器官が冒されることは、経験上公知の事実である。

<証拠―省略>及び弁論の全趣旨を総合すれば、吉弥は日頃健康であつて、右作業中午後三時近くまでは身体に格別異常がなかつたと認められるところ、<証拠―省略>によれば、吉弥は当日午後五時過頃作業現場に近い井草病院に赴き医師井草憲太郎の診察を受けたところ、一般症状にはまださほどの衰弱がないのに、既に喉頭部発赤、ラツセルが顕著でレントゲン撮影の結果気管支肺炎の所見が明らかだつたので、そのまま同病院に入院し安静加療を続けているうち、病勢は急速に進行して午後八時頃には激しい痙攣症状が始まつたことが認められ、また<証拠―省略>によれば、死後吉弥の解剖の結果、喉頭、気管、気管支、肺全般にわたつて溢血点あるいは溢血斑が多数みられ同部位に強い炎症を来たしており、同人の死因たる気管支肺炎及び肺水腫がビールスあるいは細菌感染によるものとは通常考えられないほど急性のものであつたこと、さらに同人の肺組織から塩酸基CLが検出されたが、仮に微量の塩酸が注射により体内に注入されたとしても(前記乙第一六号証によれば井草医師が同人に施した注射薬剤中には微量の塩酸塩を含有するものもあつたと認められる。)かように微量の物質は体内に拡散吸収されてしまうものであつて、それが血液により肺まで運ばれて肺組織中から塩酸基が検出されるようなことは通常あり得ない事態であることが認められ、以上の事実に前出乙第一六号証記載の医師井草憲太郎の診断所見においても他に死因と窺われるものが認められないこと及び前記二で認定した吉弥の塩素ガス吸引の事実を総合すれば、同人の死亡原因は、古川も証言するとおり、前記作業時における塩素ガス吸引によつて急性気管支肺炎及びこれに起因する肺水腫に冒されたことにあるものと断定することができる。

当日吉弥と作業を共にしていた被告清に何ら異常な症状がみれなかつたことは、前出<証拠―省略>から明らかであるが、右証拠によつても同被告の作業状態、作業量、とくにタンク内に滞留した時間等について吉弥と比較した場合の差異の有無ないし程度が必ずしも判然としないばかりでなく、塩素ガスに対する反応にも個人差があることを考えれば、右事実は吉弥の死亡原因に関する上記判示と矛盾するものではなく、その他前記認定を覆えすに足りる証拠はない。

四、被告清が被告会社の従業員であつて吉弥の前記作業を指揮監督する立場にあつたことは争がなくこの種の作業が被告会社の業務内容に属し被告清がその経験者であることは同被告の供述により明らかであるところ、右作業に伴つて有毒な塩素ガスが発生し、作業者がこれを吸入すれば中毒ないし死亡の危険があることことに前記タンクの位置、構造からすればその危険が大きいことは、単に業務上具備すべき知識の上からばかりでなく科学の一般常識からしても十分予見し得るところであるから、被告清は吉弥に対し前記作業中防毒マスクを使用させる等の措置を講じて右危険を未然に防止すべき監督者としての注意義務があるのに拘らず前記コンプレツサーによる送風と防塵マスクの着用のみをもつて(これらの措置が危険防止に役立たず、それが容易に認識できるものであることは、前記二に述べたとおりである。)漫然塩素ガス吸入の危険が防げるものと即断して吉弥に作業を行わせた点において前記注意義務を怠つた過失があるものというべく、吉弥の死亡につき民法第七〇九条の損害賠償責任を免れない。

五、また、被告清の右所為が被告会社の業務の執行に関しなされたものであることは上記によつて明らかであるから、被告会社は、被告清の使用者として、民法第七一五条第一項本文により被告清と連帯して右の損害賠償責任を負わなければならない。

六、吉弥が本件事故発生当時満一九才であつて、日頃健康で、被告会社に就業していたことは既述のとおりであつて、成立に争のない甲第二号証によれば同人が当時被告会社から受けていた賃金日額は六八〇円であると認められるから、一年間の純収益一〇〇、〇〇〇円、労働可能期間四〇年として計上した総額から複式ホフマン方式により年五分の中間利息を控除した金額をもつて同人の得べかりし利益の喪失額とする原告らの主張は肯定できるが、右金額は計算上二、一六四、二六一円となることが明らかで、これを二、一六六、六六六円とする主張は誤りである。

七、原告らが吉弥の父母であることは成立に争ない甲第一号証により明らかであるところ、吉弥の死亡により原告らの受けるべき慰藉料については、前記のとおり吉弥が本件事故に至るまで健康で就労していた一九才の少年であつたこと、原告タケ及び被告清の供述により認められる次のような事情、すなわち原告安太郎は吉弥の死亡後寝込みがちとなり現在身体の自由も余り利かない状態にあること、被告清は事故発生後遅滞なく吉弥を医師のもとに同行し爾後適切な医療措置を受けさせ、被告会社は原告らに香奠として一〇、〇〇〇円を贈り、かつ医療費、葬儀費用もすべて負担していること、吉弥は被告会社に雇われてからまだ二〇日にも満たないこと、さらに前記のとおり危険防止上無益とはいえコンプレツサーによる送風、防塵マスク着用の措置を講じていた等過失につき酌量すべき情状、その他本件証拠に顕われた諸事情を考慮した上、原告各自につき金額一五〇、〇〇〇円をもつて相当と認める。

八、甲第一号証によれば原告らは第一順位の相続人として吉弥から上記六の金額に相当する損害賠償請求権を相続したものと認められるから、原告らの請求は各自被告らに対し連帯して、右金額からその自認する労災保険金六二七、二三三円を控除した金額の半額七六八、五一四円及び上記七の慰藉料一五〇、〇〇〇円の合計九六八、五一四円及びこれに対する本訴状送達の翌日であること記録上明らかな昭和三八年四月六日以降完済まで法定利率による遅延損害金の支払を求める範囲内においては正当であるからこれを認容し、その他は理由がないのでこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九二条本文、第九三条第一項本文、仮執行宣言につき同法第一九六条を各適用して主文のとおり判決する。(裁判長裁判官橘喬 裁判官吉田良正 高山晨)

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