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東京地方裁判所 昭和39年(ワ)1256号 判決 1966年4月08日

原告 長坂正孟

右原告訴訟代理人弁護士 沼生三

被告 大矢守蔵

被告 小堺福松

右被告両名訴訟代理人弁護士 大村金次郎

同 原長一

右訴訟復代理人弁護士 大塚功男

同 須藤善雄

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

一、当事者の申立

(一)  原告の請求の趣旨

(1)  被告大矢守蔵は、原告に対し、金一〇、六九〇円およびこれに対する昭和三九年二月二二日から完済まで、年五分の割合による金員を支払え。

(2)  被告小堺福松は原告に対し、金五一、二七〇円およびこれに対する昭和三九年二月二二日から完済まで、年五分の割合による金員を支払え。

(3)  訴訟費用は、被告らの負担とする。

との判決および仮執行宣言を求めた。

(二)  被告らの申立

(1)  原告の請求を棄却する。

(2)  訴訟費用は原告の負担とする。

二、請求の原因とこれに対する被告らの答弁。

(一)  原告の請求の原因

(1)  原告は、昭和一二年六月一一日、訴外大矢正太郎から、その所有にかかる別紙一物件目録記載の家屋(以下本件家屋と称する。)を期間を定めず、賃料を一ヵ月金一七円毎月末持参払と定めて借り受けた。

その後右賃料は昭和二七年一二月以後一ヵ月金一、〇〇〇となった。

(2)  ところが、右訴外人は、昭和二九年一二月一九日死亡したので、被告大矢守蔵が本家屋を相続により取得し、右賃貸借契約を承継した。

(3)  つぎに、被告大矢守蔵は、昭和三三年六月二六日、本件家屋を被告小堺福松に売り渡し、同被告は右賃貸借契約を承継した。

(4)  本件家屋は、訴外大矢正太郎が、貸家として収益をはかる目的で昭和五年頃建築した安普請の建物であるから、随時必要に応じて修理をしなければ遠からず朽廃のおそれがあった。

原告は昭和二九年一一月頃、同訴外人に本件家屋の保存に必要な修繕をなすことを請求したところ、原告の必要費償還請求権と相殺する条件で原告において修繕をする旨の特約が成立した。

しかるに、右訴外人はその所有に属する期間建物の保存に必要な修理を全くしないので原告はやむなく別紙二修繕目録記載一のとおりの修繕を施した。被告らはその所有に属する期間中建物の保存に必要な修理をしないので、原告は必要最少限度の修繕をなすことを被告らに通知した上同目録記載の二ないし九記載のとおりの修繕をした。貸主である大矢正太郎および被告人らは前記特約に基づいて、仮に右特約が認められないとしても、右修繕はすべて本件家屋を使用収益するために必要なものであるから、これに要した費用は当然貸主である訴外大矢正太郎および被告らが負担すべきものである。しかして、原告と右訴外人との間の賃貸借期間中に生じた修繕費および原告と被告大矢との賃貸借期間中に生じた修繕費は被告大矢が、前者については右訴外人の権利義務の承継者として、後者については同被告固有の義務として、また原告と被告小堺との間の賃貸借期間中に生じた修繕費は同被告が、それぞれ原告に対し償還する義務がある。

(5)  そこで原告は、

(イ) 被告大矢に対しては、修繕費合計五四、六九〇円のうち、別紙二記載の相殺一覧表のとおり、昭和二九年一一月以降同三三年五月までの本件家屋の賃料合計金四四、〇〇〇円と対当額につき相殺した残金一〇、六九〇円およびこれに対する本件訴状送達の翌日である昭和三九年二月二二日から完済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求め、

(ロ) 被告小堺福松に対しては、修繕費合計一二五、二七〇円のうち別紙三記載の相殺一覧表のとおり、昭和三三年六月以降同三九年七月まで本件家屋の賃料合計金七四、〇〇〇円と対当額につき相殺した残金五一、二七〇円およびこれに対する本件訴状送達の翌日である昭和三九年二月二二日から完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

(二)  被告大矢守蔵の答弁

(1)  請求の原因(1)ないし(3)は認める。

(2)  同(4)のうち本件建物が昭和五年頃建築されたものであることは認めるが、その余は否認する。

(三)  被告小堺福松の答弁

(1)  請求の原因(1)ないし(4)については、被告大矢守蔵と同様である。

三、被告らの抗弁と原告の答弁

(一)  被告大矢守蔵の抗弁

(1)  本件家屋は、被告大矢の所有となったとき、経済的見地からすればすでに朽廃しており、修繕自体が一般社会観念からみて不能な状態にあったのであって、本件家屋の賃貸借は右朽廃のとき消滅した。したがって同被告には修繕義務がない。

(2)  かりに、右主張が認められないとしても、本件家屋の賃貸借は地代家賃統制令の適用をうけ、その公定家賃は一ヵ月につき、昭和二九年金九五四円、同三〇年金九五八円、同三一年九八〇円、同三二年ないし三九年金九九一円であるが、被告が原告から受取っていた賃料は、ほぼ右公定家賃にしたがった金一、〇〇〇円である。そもそも家屋の賃貸借が統制令の適用をうけ、その賃料が低額に統制されているような場合には、該家屋の貸主には公平上、修繕義務はないものといわなければならない。したがって、被告大矢には本件家屋の修繕義務はない。

(3)  かりに、以上の主張が認められないとしても、被告大矢は、昭和四〇年一二月一一日の本件口頭弁論期日において、昭和二九年一二月一九日から昭和三三年六月一六日までの本件家屋の賃料債権金四二、〇〇〇円をもって本件修繕費債権と対当額につき相殺する旨の意思表示をした。

(二)  被告小堺福松の抗弁

(1)  原告と被告小堺間の、当裁判所昭和三七年(レ)第六七六号家屋明渡請求控訴事件において、原告は本訴において請求する修繕費債権を自働債権とする相殺の抗弁を提出したところ、右事件についての判決理由中で、右修繕費債権が不存在であると判断され該相殺の抗弁は排斥された。そして、右判決はすでに確定している。したがって、原告の本訴請求は右判決の既判力に牴触するものであるから許されない。

(2)  かりに右主張が認められないとしても、被告大矢守蔵の抗弁のうち(1)(2)と同一の主張をする。

(3)  かりに、右主張が認められないとしても原告の被告小堺に対する本訴請求は、被告小堺が同大矢から本件家屋の所有権の譲渡を受けた日である昭和三三年六月二六日から一年以上経過してなされたものであるから失当である(民法第六二二条第六〇〇条)

(4)  またかりに、右主張が認められないとしても、被告大矢は原告に対し、昭和三三年六月八日原告に到達の内容証明郵便をもって、昭和二九年一〇月以降同三三年五月分までの滞納賃料を右書面到達の日から三日以内に支払うよう催告するとともに、もし右期限内に支払わないときは本件家屋の賃貸借契約を解除する旨の意思表示をした。しかるに、原告は右期限内に右滞納賃料を支払わなかった。したがって、本件家屋の賃貸借契約は昭和三三年六月一一日限り解除されたこととなる。しかして、被告小堺が同大矢から本件家屋を買受けてその所有権を取得したのは、昭和三三年六月二六日であるが、被告小堺は同日以降原告と本件家屋の賃貸借契約を締結した事実はない。したがって、前記解除の効果が発生した日以降においては、被告らには本件家屋を修繕する義務はない。

(5)  かりに以上の主張が認められないとしても、被告小堺の昭和四〇年一二月一一日の本件口頭弁論期日において、同被告の原告に対する昭和三三年六月二七日より昭和三七年七月五日まで一ヵ月金一、〇〇〇円の割合による本件家屋の賃料および昭和三七年七月六日より昭和三九年五月一四日まで原告が本件家屋を占有することにより被告の受けた一ヵ月金一、〇〇〇円の割合による賃料相当の損害金七〇、〇〇〇円と原告主張の本件修繕費債権と対当額において相殺する旨の意思表示をした。

(三)  原告の答弁

(1)  被告大矢守蔵の抗弁に対し

(イ) (1)の事実は否認する。

(ロ) (2)のうち、本件家屋が地代家賃統制令の適用を受けるものであること、本件家屋の約定賃料が公定賃料にほぼ等しかった金一、〇〇〇円であることは認めるが、その余は争う。

なお、本件家屋の統制賃料は一ヵ月につき、昭和二九年金八五七円、同三三年金八九四円、同三八年金九二七円である。

(ハ) つぎに、本件家屋の賃料が統制令による賃料額にそったものであっても、被告らは左記の理由から修繕義務を免れるものではない。すなわち

統制令の目的は、住宅事情の改善が望み薄であった戦後の社会状勢下において、住宅面における国民生活安定の一施策として、建築後一定年限を経過した建物および一定坪数以下の建物につき賃貸人の投下資本の回収が他の一般物価のそれと均衡を失しないことを充分考慮して、その額を一定限度に押えることにあったのであって、賃貸人の犠牲のもとに賃借人の利益のみをはかったのではない。

昭和二七年一二月四日建設省告示第一、四一八号(地代家賃統制令による地代並びに家賃の停止統制額又は認可統制額に代るべき額等)第二、一、3、(3)によれば、「建物の主体の修繕は貸主が行う」と規定している。

以上の点から判断すると、統制令により賃料が低額に抑えられているという一事をもって、賃貸人に修繕義務がないということはできない。

さらに、統制令第七条第一項第一号、同条第二項、同令施行規則第四条の二によれば、建物の壁、基礎、土台、柱、床、はり、屋根、階段その他建物の構造上主要な部分について行う修繕工事及びこれに関連して行われる修繕工事で、これに要した費用を建物の延べ坪数で除して得た額が二、〇〇〇円以上である場合は、貸主は都道府県知事に対し賃料増額の申請ができることになっているのである。ところで、原告が昭和三四年四月一〇日に行った柱の根つぎ等の修繕は、建物の主体の修繕であり、それに要した費用金四五、三〇〇円は統制令施行規則第四条の二に規定する限度額を超過するから、もし被告小堺が右修繕費を支出したとすれば、当然に右修繕の日現在において、右支出額につき統制令第七条第一項第一号により賃料増額の申請をなしうるのであり、しかして、右申請をするならば、当然に同日以降の賃料は一ヵ月金一、九〇六円に増額することの認可が得られたはずである。さらに、原告が昭和三七年二月一七日に行った台所板くされ個所等の修繕もまた建物の主体の修繕であるから、それに要した費用金二五、七〇〇円については右同様の根拠と手続により、金二、四二一円に増額することの認可が得られたはずである。被告小堺が、右のように賃料増額の認可を得たとすれば、原告がその支出した修繕費をもって賃料と対当額で相殺した結果は、昭和三九年七月現在において賃料の残額が金二二、二五四円となり、なお若干の余剰を生ずるのである。このことは、また被告小堺が原告がなしたと同様の必要最小限度の修繕をしたとしても、前記のように賃料増額の申請をしその認可を得たならば、同被告には右金額の所得が生じることになる。したがって、同被告が右増額申請をしなかったのは自らその権利を放棄したものである。

(ニ) (3)の相殺の意思表示のあったことは認める。

(2)  被告小堺福松の抗弁に対し

(イ) (1)の事実は認める。本訴請求が前訴の既判力に牴触する旨の主張は争う。

(ロ) (2)については、被告大矢守蔵の抗弁に対する答弁(イ)ないし(ハ)と同一である。

(ハ) (3)については争う。

一年間の期間の起算点は、原告が被告らに本件家屋の返還をした時である。しかるに、原告は被告らに本件家屋の返還をしたという事実はない。

(ニ) (4)主張にかかる書面がその主張の頃原告に到達したことは認めるが、賃貸借契約解除の効果が発生したという点は争う。

(ホ) (5)については、その主張の相殺の意思表示のあったことは認める。

四、原告の再抗弁および予備的請求原因とこれに対する被告らの答弁

(一)  原告の再抗弁

被告大矢が抗弁(3)で主張する賃料債権および被告小堺が抗弁(5)で主張する賃料債権は既に原告が相殺したことにより消滅している。すなわち

(1)  原告は被告大矢に対しては別紙三記載の相殺一覧表のとおり、昭和二九年一一月以降昭和三三年五月まで賃料の弁済期である毎月末毎に口頭をもって、当該月と賃料と修繕費債権と相殺する旨の意思表示をした。仮に右相殺の意思表示が認められないとしても、原告の同被告に対する昭和三三年六月二〇日付内容証明郵便で修繕費合計五四、六九〇円をもって、賃料合計金四四、〇〇〇円と対当額で相殺する旨の意思表示をした。

(2)  原告は被告小堺に対しては別紙三記載の相殺一覧表のとおり、昭和三三年六月以降昭和三九年七月まで賃料の弁済期である毎月末毎に、口頭をもって当該月の賃料と相殺する旨の意思表示をした。仮に右相殺の意思表示が認められないとしても、原告の同被告に対する昭和三三年一二月一〇日、同月三〇日、昭和三七年八月一一日各日付の内容証明郵便で修繕費合計一二五、二七〇円をもって賃料合計七四、〇〇〇円と対当額で相殺する旨の意思表示をした。

よって、被告らの相殺の抗弁は理由がない。

(二)  原告予備的請求原因

仮に被告小堺の抗弁(4)の賃貸借契約解除の効果が認められるときは、原告は左記の主張をする。すなわち

原告は請求の原因(5)において主張するとおり、被告大矢、同小堺に対し相殺の意思表示をするとともに、残額の修繕費についてその返還を請求したのであるが、同人らが右請求に応じないので原告は留置権を行使し本件家屋を昭和三九年七月七日まで占有し、これに居住した。しこうして、前記解除の効果が発生した昭和三三年六月一一日以降の原告の本件家屋の修繕は、該家屋留置中の保存行為としてなしたものである。

したがって、原告は被告小堺に対しては民法第二九九条にもとづき、原告の支出した費用の償還を求めることができる。

(三)  被告らの答弁

いずれも否認する。

六、証拠≪省略≫

理由

一、原告は、昭和一二年六月一一日、本件家屋を訴外大矢正太郎から賃借したが、同二九年一二月一九日、右訴外人が死亡したので相続人である被告大矢守蔵が本件家屋を相続により取得し、右賃貸借契約を承継したこと、および被告小堺福松は、同三三年六月二六日、本件家屋を被告大矢から買い受けその所有権を取得したことは当事者に争いがない。

二、ところで、被告小堺から、原告は別訴において排斥された相殺の自働債権を本訴において再び請求するものであるから、既判力により原告の本訴請求は理由がないと主張するから、まずこの点から判断する。

≪証拠省略≫によれば、本件被告小堺は、中野簡易裁判所昭和三七年(ハ)第三九〇号家屋明渡請求訴訟を提起して、原告に対し本件家屋の明渡しと昭和三三年七月一日から昭和三七年七月五日までの賃料同月六日から明渡しまで賃料相当の損害金として一か月金一、〇〇〇円の割合による金員の支払いを訴求して勝訴したところ、その後本件原告が控訴した結果当裁判所昭和三七年(レ)第六七六号同控訴事件として係属した。右控訴審において、本件原告は、本件家屋の修繕のため(イ)、昭和三三年金二六、六〇〇円(土台柱の修理、流しの取替等)、(ロ)、同三四年金五〇、〇〇〇円(柱、床、屋根板、土台の取替え、瓦建具の取替え)、(ハ)、同三五年金三、〇〇〇円をそれぞれ支出したとして、本件被告小堺の請求する賃料と対当額につき相殺する旨の意思表示をしたところ、審理の結果本件原告の主張する修繕費債権は、不存在であると認められ、その相殺の抗弁は排斥されて控訴棄却の判決が言い渡された。そこでさらに、本件原告が上告したところ、東京高等裁判所昭和三九年(ツ)第六号同上告事件として係属し、昭和三九年六月一六日上告棄却の判決言渡があり、本件被告小堺の本件原告に対する右請求認容の判決は当事者間に確定したことが認められる。

右控訴審において、本件原告が相殺を主張した自働債権の内容は前記のとおりであるが、他方本件原告が右控訴審において相殺する旨の意思表示をした昭和三八年六月一三日現在で弁済期の到来していた同年五月三一日までの賃料は合計金五九、〇〇〇円である。ところで、相殺をもって対抗した自働債権につき既判力が認められるのは、右賃料債権の金五九、〇〇〇円の限度についてであるから、結局既判力のために再度の判断が許されないのは、前記修繕費債権のうち、(イ)の金二六、六〇〇円と(ロ)の金五〇、〇〇〇円のうち金一七、六〇〇円である。

しかし原告が本訴で被告小堺に対して請求している修繕費債権は原告がさきに相殺に供した分を含まないことは原告の主張によって明らかであるから、原告の本訴請求が前訴訟の既判力により許されないという被告小堺の主張は理由がない。

三、被告らは本件家屋の賃貸借契約は被告大矢が本件家屋の所有権を取得した当時既に建物の朽廃により消滅していたと主張するが、本件家屋が当時建物としての効用を失う程度に朽廃していたことを認めるに足りる証拠はない。又被告小堺は本件家屋の賃貸借契約は被告大矢の契約解除したことにより終了したと主張するが、被告小堺は前の原告との訴訟において、本件家屋賃貸借の存続していることを主張し、その賃料の支払い請求が認容されたことは前記認定のとおりであるから、本訴において、賃貸借契約の存在しないことを主張することは信義則上許されないといわなければならない。

ところで、原告が本訴で請求しているのは被告大矢に対する修繕費のうち相殺に供した分を除くと別紙二修繕目録記載四の修繕費の内金一〇、六九〇円および被告小堺に対する修繕費のうち、同目録記載の七のうち金一一、五〇〇円および八、九の修繕費の合計五一二七〇円である。

そこで原告が本訴請求にかかる修繕費を支出したか否かについて検討する。

≪証拠省略≫を綜合すると、原告は

(1)  同三二年一二月

台所入口引戸取付、天井及び廻りブチ修理、屋根雨もり個所修理、瓦取替えをし金二〇、五〇〇円を

(2)  同三五年一二月

六畳間天井廻り及び壁手直し、押入受板張替、台所の押入受板取替、流し手入、壁及び屋根修理をし、金一六、七〇〇円

(3)  同三六年一〇月

屋根雨もり個所を野地板及びルーフィングで一時雨止め、下見板手直し、床板一部入替をし、金二〇、三〇〇円

(4)  同三七年二月

台所板くされ個所入替、三畳天井手直し、隣家との切り口手直し、屋根修理をし金二五、七七〇円

を費したことが認められる。

四、原告は保存に必要な修理は賃料と相殺する特約が原告と本件家屋の前賃貸人大矢正太郎間に成立していたと主張し証人三善清胤、および原告本人はこれにそう供述をしているが、たやすく信用できず、他に右主張を認めるに足りる証拠はない。

原告は右修繕費は賃貸人が当然に負担すべきものである、と主張するので考えるに家屋の賃貸借においては、賃貸人は賃借人が該家屋を使用収益するに適した状態におく積極的義務を負っており、そのため賃貸家屋が破損し使用収益に適しない状態になったときはこれを修繕する義務を負うこととされているが賃貸人が修繕義務を負うのは、修繕が可能であって、かつ、その必要のある場合に限られるものというべく、修繕が可能というためにはそれが物理的に可能であるだけでなく経済的にも可能であることを要するものと解すべきである。すなわち賃貸人に右義務を認めることがかえって、賃貸借の基礎をなす経済関係に著しい不公平をきたすこととなり、信義則上妥当でない場合には、賃貸人は修繕義務を免れ賃借人が賃借家屋について修繕をした場合でも、その費用償還義務を負わないものと解すべきである。

いまこれを具体的事例に即して検討してみると、

(イ)家屋が老朽化し、遠からず朽廃するというような命運にあるときは賃貸人には右家屋の修繕義務はないというべきである。けだし右のような状態にある家屋の修繕は、家屋の土台、柱等にかかわる大修繕となり修繕費用が賃料と比較して甚だしく均衡を失した多額にのぼるのに対し、かような大修繕を賃貸人がした場合でもこれを償うに足りるだけの賃料の増額には賃借人が容易に応じないのが通常であろうから、賃貸人に対しかかる過大な費用を要する修繕義務を負わせるのは経済原則の上に立つ個人間の賃貸借関係においては公平の原則に反するからである。かかる場合には賃貸人は修繕義務を免れ、他方賃借人としては遠からず朽廃により賃貸借契約が消滅するということを忍ばなければならないというべきである。

(ロ)つぎに、賃料が近隣の賃料に比し相当に低額に約定されているような特殊な場合は、賃貸人は当然には修繕義務を負わない旨の特約が黙示的になされていると考えるべきである。(ハ)さらに、賃料が統制法令により賃貸家屋の再生産費を無視した著しい低額に抑制されているため、右賃料と賃貸人の租税負担や修繕費との均衡を著しく失しているような場合は、他方の債務である修繕義務も右に比例して軽減せられ必要最少限度の修繕義務、すなわち雨漏りを直し雨露をしのぐに足りる程度にするだけで足りるものと考えることが信義則上妥当であるといわなければならない。

いまこれを本件についてみるに、原告の本件家屋の修繕は前記認定の外前記二において挙示した証拠によれば原告主張の別紙二、修繕目録一ないし三、五、六のとおり修繕費を原告が支出していることが認められるところその修繕個所も多岐にわたり、しかも土台、柱の根つぎ等家屋の構造にかかわる大修繕を施している。したがって、本件家屋は原告主張のとおり随時必要に応じて修理しなければ遠からず朽廃のおそれがある程度に老朽化しているものであるならば、むしろ被告らには右のような大修繕をする義務はないといわなければならない。また、本件賃料が概ね統制賃料一ヵ月一、〇〇〇円であることは当事者間に争いがなく、また昭和二九年一一月から同三六年一〇月までの間における賃料総額は合計八八、〇〇〇円であるのに対し原告の支出した本件修繕費は前記認定のとおり合計金一四九、八六〇円であって、これが賃料に比し過大に失していることはあきらかである。したがって原告がした修繕のうち雨漏り修理の部分を除いたものは被告らが賃貸人として負担する本件家屋の修繕義務の範囲内に入らないものと解すべきである。

この点について原告は、(イ)統制令は一定の建物につき、賃貸人の投下資本の回収が他の一般投資のそれと均衡を失しないことを考慮して賃料を統制しているのであって、統制賃料が必らずしも低廉とのみいえない。(ロ)昭和二七年一二月四日建設省告示第一、四一八号、第一、一、3、(3)には「建物の主体の修繕は貸主が行う。」と規定している。(ハ)貸主が一定額に達する大修繕をした場合またはその費用を支出した場合は、賃料の増額申請ができる等の理由をあげて、公定家賃の家屋についても賃貸人には修繕義務があると主張する。しかし、地代家賃統制令の公定家賃が再生産費を無視した低額であることは公知の事実であって、原告の主張は採用できない。(ロ)については、原告の指摘する建設省告示の趣旨は前記のとおり解すべきものであって、原告主張のような修繕義務を賃貸人に認める趣旨と解することはできない。

(ハ)については、一定種類の大修繕について、それに要した費用が一定額に達する場合に賃貸人は賃料増額の申請が可能であることは原告の主張のとおりであるが、これは賃貸人が積極的に大修繕をした場合に賃貸人に賃料増額申請をすることを可能にしたに過ぎずこれを理由に賃貸人に原告主張のような大修繕をする義務のあることを根拠づけることはできない。

しかして雨漏りを修繕することは本件の場合でもなお被告ら賃貸人の義務であると解すべきであるが、前記二において認定した(1)ないし(4)の修繕費の中には雨漏を防ぐための屋根の修理費も含まれていることは認められるが、右修繕費のうちいくらが右屋根修理費であるかを認定できる証拠は存在しない。

五、してみれば、その余の点を判断するまでもなく原告の本訴請求は失当であるから棄却することとし訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 岡松行雄)

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