東京地方裁判所 昭和40年(刑わ)879号 判決
以下は、判例タイムズに掲載された記事をそのまま収録しています。オリジナルの判決文ではありません。
〔判決理由〕本件公訴事実は
「被告人は、自動車運転の業務に従事するものであるが、昭和三十八年四月二十日午後五時三十五分頃普通乗用自動車を運転し、東京都大田区東蒲田三丁目四十八番地先の交通整理の行なわれていない交差点を第一京浜国道方面から大鳥居方面に向かい直進するに際し、該交差点は左右の見とおしが困難であり、かつ、道路右側は連続して車両が停止しており、その間からの横断者の出現が予想できる状況であつたから、徐行して横断者の有無を確認しつつ進行すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、漫然時速約三十五粁で進行した過失により、おりから右方道路から左方道路に直進するため右側の連続停止車両の間から進出してきた小林秀男(当三十八年)運転の第一種原動機付自転車に自車前部を衝突させ、よつて同人に対し加療約八カ月を要する左大腿骨骨折の傷害を負わせたものである。」
というのである。
右公訴事実の中、被告人が昭和三十八年四月二十日午後五時三十五分頃東京都大田区東蒲田三丁目四十八番地先の交差点において時速約三十五粁で進行中、被告人進行方向右側の連続停止車両の間から進出してきた小林秀男運転の第一種原動機付自転車に自車前部を衝突させて、同人に対し加療約八カ月を要する左大腿骨骨折の傷害を負わせた事実は、当公判廷で取調べた各証拠によつてたやすく認めることができるのであつて、問題は果して被告人に検察官主張のような業務上の注意義務懈怠による過失があつたかどうかに帰することになる。
被告人は本件事故現場が交差点であることは当時知らなかつた旨極力主張するのでまずこの点について考察すると、((証拠))によれば、本件事故現場は、東方は大鳥居を経て羽田街道方面に通じ、西方は京浜国道方面に通じる東西に走る幅員六・四米の通称日の出通り(以下日の出通りと略称する。)と、東蒲田四丁目方面から京浜急行穴守線踏切を経て東蒲田一丁目方面に通じる南北に走る幅員四・六米の道路(以下本件交差道路と略称する。)と交差する交差点内であつて、被告人は右日の出通りを西方から東方に向けて進行していたものであること、本件事故現場附近は会社や商店がいずれも軒を接して立て込んでおること、本件事故当時右日の出通りは東方から西方に向けて進行する車両が本件事故現場のやや東方から京浜国道までの間連続して停滞し、しかも事故現場の交差点には丁度三台の大型バスがわずか一米程の間隔で連なつて停止しており(検証調書添付写真(四)および(九)参照)、一方同交差点の被告人進行方向左側部分についていえば、同交差点の東北角には渡辺産業株式会社の建物が、同交差点の西北角には尾田商店の高さ約二・五米の板塀がそれぞれ道路の各側端まで一ぱいに建てられていた(検証調書添付写真(六)参照)ことをそれぞれ認めることができ、これらの事実関係からすれば、通常、このような具体的状況下においては日の出通りを被告人と同一方向にはじめて進行する自動車運転者にとつて、右交差点の存在は、その進行方向右側部分については全く知ることが不可能であるのみならず、左側部分についても、車庫或いは玄関等への出入口と見まちがいやすい状態にあつてその交差点に極めて接近するまで知りえないものと認められる。ところで、被告人は日の出通りを本件事故当日以前に五、六回通行したことがある旨当公判廷において供述し、しかも被告人の取調にあたつた検察官須田進二郎の当公判廷における証言によれば、被告人は右検察官に対し本件交差点を当初から認識していた旨の供述をしていたような点も伺えないわけではないが、当公判廷における証人山崎広二および被告人の各供述によつて認められるように、日の出通りには、本件交差道路と同程度の割合に狭い道幅の道路が極めて多く交差していることからすれば、四、五回位しか通行したことのない運転者が日の出通りと交差する道路を逐一認識していたとする方が却つて不自然であり、特段の事情の認められない被告人において、本件事故現場が交差点であることを当初から認識していたと認めるには証拠不十分である。
ところで検察官は、たとえ被告人の進行方向右側部分については本件交差道路のあることが発見しえなかつたとしても、左側部分についてはこれを発見しえた筈であるから、該交差点を進行するときはいつでも停止しうるような速度にまで減速すべき義務があるのに、被告人はこれに違背して進行したがために本件事故が発生した旨主張する。しかしながら、本件交差道路の左側部分についても極めて接近しなければ発見しにくい状態にあつたことは前述した通りであるが、仮りに被告人が事故発生交差点の前方で停止操作を行なえばたやすく交差点直前で停止しうるような位置から既にこれを発見することができたとして、このような場合にいつでも停止しうるような速度にまで徐行する義務があるか否かについて考察する。なるほどこのような場合にも一般的、抽象的には自己の進行道路と交わる狭い道路から人がでてくる可能性は常に考えられるし、その場合の危険の発生は極めて大きいから、平生よりも、速度を制限して進路の前方および左右に対する注視を特に厳にして進行しなければならない注意義務があるとはいいえても、日の出通りと本件交差道路との各幅員の差、自動車の高速度交通機関としての使命等からすれば、現実に人や車両が広い道路に突然に飛び出してくる可能性のあることがその現場の状況から高度に予見せられるとはいえない本件においては、いつでも停止しうるような速度にまで徐行すべき義務を被告人に負わせるわけにはいかない。けだし運転者にこのような義務を認めることになれば、本件の如く右側に連続して車両が停止している場合には、常に車のかげには人がいることを予期してこのような人々の突然の飛び出しに対していつでも停止しうるような速度で進行すべき義務を課する結果となり、自動車の高速度交通機関としての使命は全く無視されることになるからである。そこで、進んで被告人に前方注視義務違背があつたか否か、更には進行速度が相当であつたか否かについて考察する。((証拠))を綜合すれば、被害者の小林秀男は日の出通りを東方から西方へ向け原動機付自転車を運転していたが、前述した通り同方向に進行する車両が停滞して進路を塞がれたため、やむなく進路を変じて本件交差道路を穴守線踏切方向にぬけようとして事故現場交差点で右折にかかつたこと、同被害者は右折にあたつて日の出通りの左方からの車の進行状況を全然考慮することなく、そのまま停車中のバスとバスの間から被告人の進路に突然飛び出して被告人車両と衝突したものであること、被告人は被害者の原動機付自転車前車輪の前部を進路やや右斜め前方約十一米の地点で発見すると同時にただちに急停車の措置をとつたことが認められ、右事実関係からすれば、被告人が前方注視を欠いたため被害者の発見が遅れたということは到底考えられない。次に被告人の進行速度についてであるが、前述した通り対向車両が連続して停止していたため、被告人車両の通過有効幅員が比較的狭隘になつていたことからすれば、被告人の時速約三十五粁はいささか早すぎるといわなければならないが、本件事故発生時における状況の通り、被害者をやや右斜め前方約十一米の地点に発見してこれとの衝突事故を避けるためには、被告人に対し時速約二十五粁以下で進行することが要求されるわけであり、本件日の出通りの制限速度が時速四十粁であることを勘案すれば、被告人は時速二十五粁以下で進行すべき業務上の注意義務を課せられていたものともいえない。
結局被告人の過失の点についてはその証明がないことに帰するので、刑事訴訟法三百三十六条により被告人に対し無罪の言渡しをすることとする。(高木典雄)