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東京地方裁判所 昭和41年(刑わ)2330号 判決 1968年4月08日

主文

被告人後沢信吾を懲役一年に、被告人栗田千足を懲役八月にそれぞれ処する。

但し被告人両名に対し本裁判確定の日から三年間右各刑の執行を猶予する。

被告人後沢信吾から押収にかかる村山大島反物一疋(昭和四二年押第一四〇号の一)、額入り表装の書(同押号の八)を没収する。

被告人後沢信吾から一五万円を、被告人栗田千足から一〇万円をそれぞれ追徴する。

訴訟費用中、証人正木実に支給した分はその各二分の一をそれぞれ被告人両名の、証人竹内喜一郎、同村山長三郎、同川田良造に支給した分は被告人後沢信吾の、証人田島勉、同板垣多木治、同平国節男に支給した分は被告人栗田千足の各負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人栗田千足は昭和二二年六月政府職員共済組合連合会参事となり、同二三年七月一日国家公務員共済組合法施行に伴い同連合会の権利関係が非現業共済組合連合会に承継され、ついで同三三年七月一日新国家公務員共済組合法施行に伴い右連合会が国家公務員共済組合連合会と改称された後も、引きつづき右連合会に勤務し、同二四年八月一日事務局長、同三七年一月一六日常務理事、事務局長事務取扱となり、理事長を補佐して業務を執行し、右連合会の事務を総括処理していた者、被告人後沢信吾は昭和二四年八月一日非現業共済組合連合会技師となり同二五年一二月一三日営繕課長を命ぜられ、爾来施設の設計、工事に関する指名業者の選択、入札、監督、検査等の事務を担当していた者であるが

第一、被告人栗田千足は土木建築請負などを営む野村工事株式会社取締役営業部長である川脇常信において、右連合会の発注にかかる神奈川県厚木市、同県中郡伊勢原町所在の公務員住宅用地約二五万七八〇〇平方メートル(約七万八千坪)の宅地造成工事を請負い施行することを強く希望していたところ、昭和三九年一二月その発注をうけ工事も順調に進捗したことから、これに対する謝礼の趣旨で供与するものであることの情を知りながら、同四〇年一二月中旬ころ東京都世田谷区代田一丁目三四番地の一八被告人の自宅において右川脇常信から現金一〇万円の供与をうけ、もつてその職務に関し賄賂を収受し、

第二、被告人後沢信吾は、

一、昭和四〇年一二月下旬ころ横浜市保土ヶ谷区和田町七六番地被告人の自宅において、右川脇から前記同趣旨のもとに供与されるものであることの情を知りながら現金一〇万円の供与をうけ、

二、中田猛建築事務所長中田猛において、昭和三八年三月以降、右連合会から湯沢保養所、福井宿泊所、新潟宿泊所の設計ならびに監理を、次いで山代保養所、池の平保養所等の設計を引き続き依頼されたことに対する謝礼の趣旨で供与するものであることの情を知りながら

(一) 昭和三九年一二月一一日ころ前記自宅において中田猛から富士銀行目白支店振出額面金三万円の贈答用小切手一枚(昭和四二年押第一四〇号の三)の供与をうけ、

(二) 同四〇年一二月一一日ころ前記自宅において右中田から富士銀行目白支店振出の額面二万円の贈答用小切手一枚(前同押号の四)の供与をうけ

三、(一) 土木建築請負業株式会社三平興業の取締役営業部長である望月秀夫において、同株式会社が昭和三八年末はじめて右連合会から那須保養所の新築工事を依頼されて着工したのち、まもなく右工事が中止され、同四〇年三月ようやく再開の運びとなつたので、右工事を施行することになつた謝礼ならびに今後も連合会施設工事の発注にあたり便宜な取りはからいをうけたいとの趣旨で供与するものであることの情を知りながら、同四〇年四月四日ころ前記自宅において右望月秀夫から村山大島反物一疋(時価二万八〇〇〇円相当)の供与をうけ

(二) 同四〇年四月一八日ころ前記自宅において、前記望月において前同趣旨のもとに供与するものであることの情を知りながら、同人から松井如流揮毫の額入りの書一枚(時価約五万円相当)の供与をうけ

(三) 前記望月において、前記株式会社が同四〇年五月右連合会から日光保養所の増改築工事の発注をうけたのでこれに対する謝礼ならびに今後も連合会施設工事の発注にあたり便宜な取りはからいをうけたいとの趣旨で供与するものであることの情を知りながら、同年一二月上旬ころ前記自宅において、望月から長谷川〓作成の彫刻一個(時価一〇万円相当)の供与をうけ、

もつて、その職務に関し賄賂を収受し

たものである。

(証拠の標目)(省略)

(主な争点についての判断)

一、被告人後沢が国家公務員共済組合法第一三条にいう「組合に使用され、その事務に従事するもの」に当るか否かについて、

弁護人は、被告人後沢は昭和三三年一二月三一日停年により国家公務員共済組合連合会を退職し職員たる身分を失つたものであるから、国家公務員共済組合法第一三条にいう所謂「みなし公務員」には該らない旨主張するので、まずこの点について判断する。

国家公務員共済組合法第一三条は「組合に使用され、その事務に従事する者は刑法その他の規定の適用については、法令により公務に従事する職員とみなす。」と規定しているが右にいう「組合に使用されその事務に従事する者」とは、刑法第七条における「職員」と同様、その任命が法令に根拠を有するものでなければならないことは弁護人主張のとおりである。ところで、被告人後沢が昭和二五年一二月一三日非現業共済組合連合会参事を命ぜられるとともに営繕課長に補職されたこと、ついで昭和三三年一二月三一日停年により参事を解かれ嘱託を命ぜられたが、ひきつづき営繕課長の地位にとどまつており、本件犯行当時もその地位にあつたことは第四回公判調書中証人川添誠の供述記載部分、今井一男作成の後沢信吾に関する「人事関係の回答について」と題する書面によつて明らかである。しかも、国家公務員共済組合連合会運営規則第一七条は「本会の職員は理事長が任命する。」旨を、さらに同連合会人事規程第二条は「職員の採用は理事長又はその委任を受けた者がこれを行なう。」旨規定しているが、非現業共済組合連合会事務規程第二条には「事務局に左の職員をおく、事務局長一名、技師一名、参事若干名、副参事若干名、主事若干名、書記若干名、技術員若干名」と規定し、その後数次の改正によつても、あらたに書記補、書記見習、技術見習というものが設けられたにとどまり、嘱託をおく旨の規定はどこにも見出しえない。これらの規定からすれば、前記連合会運営規則第一七条、同人事規程第二条に定められた理事長の職員採用についての権限は前記事務規程第二条に列挙された職員のみに限られるとの解釈の生れる余地もないではないが、前記人事規程第二三条第一項には常勤職員には給料を支給する旨を、同条第四項には非常勤職員には給料を支給しないで手当を支給することができる旨を定めており、しかも前記事務規程第二条に定められた各職員は、いずれも人事規程第二三条第一項にいう給料を支給される常勤職員であることからすれば、右人事規程は事務規程第二条に列挙した以外の職員をも予定しているところというべく、前記運営規則第一七条、人事規程第二条はこれら職員の任免権をも理事長に付与したものとみる外はない。したがつて、被告人後沢に対する嘱託の発令は法令に根拠を有するものというのにいささかも欠けるところがないから、被告人後沢が国家公務員共済組合法第一三条にいう「組合に使用され、その事務に従事する者」であることは疑いの余地がない。

二、川脇と各被告人間の各一〇万円の金員授受の有無について、

被告人両名および弁護人はいずれも右各金員が川脇から被告人等に対し供与された事実はない旨主張する。

第二回公判調書中証人平山賢一の供述記載部分(被告人後沢に対する分)、平山賢一の検察官に対する供述調書(被告人栗田に対する分)、第二回公判調書中山口政子の供述記載部分、第六回公判調書中証人藤井正三の供述記載部分に徴すれば、川脇は昭和四〇年暮、判示罪となるべき事実第一および第二の一記載の如き趣旨を含んで被告人栗田および被告人後沢の両名に、各金一〇万円ずつをお歳暮として供与することを企図し、当時の野村工事株式会社専務取締役平山己之吉の了承をえたうえで、同年一二月一〇日ころ当時の経理部次長平山賢一に対し一〇万円二口を準備するよう命じたこと、野村工事株式会社においては、お歳暮等としてこのような現金を供与する場合には、現金を封筒に入れたうえでせんべい、クツキー等の品物と一緒に包んで贈与するのが慣例であり、このような包装は山口政子が行なつていたこと、川脇が右の如く平山賢一に現金一〇万円二口を支出するよう命じた際、同人から包む品物は何にするかと尋ねられたので、せんべいでもクツキーでも何でもよいと答えておいたこと、同月一三日午前九時すぎ、川脇が山口に対し「この前平山から云われて用意した品物を出してくれ。」と命じたところ、山口は二個の包みを一緒に持つて来たので、一つは遅くなるからとさらに保管を継続させ、一つの菓子包みに当直室に用意させておいたジヨニーウオーカーをそえさせてこれを被告人栗田方において同被告人の妻に手交したこと、ついで同月二五日ころ川脇は前記山口に保管を継続させておいたもう一つの菓子包みを出させ、これにカシミヤのシヤツをそえさせ、これを被告人後沢方において同被告人の妻に手交したこと、山口はお歳暮、中元等の品を包装して保管する場合には、必らず「川脇扱い」等と記載したメモをつけて何人に手交すべきものかを明らかにし、過誤のないようつとめていたこと、川脇が被告人栗田、同後沢方を訪問した各日時に現金入り歳暮品を他にも携帯していたということはなかつたこと、川脇が中元や歳暮品として菓子包みを使用するのは現金が封入されている場合に限られ、現金を贈らない場合には贈答品に菓子包みを使用することがなかつたこと、被告人栗田および被告人後沢方に川脇から届けられた品物はそれぞれ二個でうち一個はいずれも菓子包みであつたこと、前述の如く山口によつて包装された歳暮品は庶務の戸棚の中に保管されるのが通例であり、時には宿直室に保管されることがあつたとはいえ、いずれの場合にも川脇扱いの分は川脇扱いとして各扱い者ごとに一括して保管されていたことが窺われる。そうだとすれば、よしんば山口が附した「川脇扱い」なるメモが保管中にはずれて他の品物につけかえられることがあつたとしても、それは結局川脇扱いの品物に附されたものというべく、しかも、げんに被告人栗田方および被告人後沢方に届けられた品物が菓子包みであつた以上、右品物の保管中に、同封されていた現金のみが抜きとられる等の極めて例外的な場合を除いては、右菓子包みの中に金員が封入されていたと推認するに十分である。

そこで、次にこの点に対する被告人栗田、同後沢の各供述について検討することとする。

被告人栗田の弁護人は「本件事実について録取された同被告人の検察官に対する昭和四一年三月二一日付供述調書が、同被告人の作成にかかる同年三月五日付上申書、同被告人の司法警察員に対する同年三月六日付供述調書とほぼ同趣旨の内容を記載した調書であることは、これら各調書ならびに右上申書を対比するとき一見して明らかであり、しかも被告人に対する司法警察員の取調は昭和四一年二月二八日逮捕以来連日長時間に及び、被告人に対する罵詈讒謗と脅迫のうちに明け暮れ、遂にその精神的、身体的苦痛に堪え切れず、同年三月五日に至り虚偽の自白をしたものである。」旨主張しているところであるが、警視庁刑事部刑事管理課長警視指岡徳治の送付にかかる留置人出入簿の昭和四一年三月一六日付記載によれば、右同日被告人は取調のため午前九時五〇分に房を出て翌日午前零時一五分に房に入れられていることが認められるが、第一一回公判調書中証人田島勉、同板垣多木治の各供述記載部分、第一三回公判調書中田中豊の供述記載部分によれば、右三月一六日は被告人栗田が自白後一〇日余を経過しており、しかも同日以外に特段に夜遅くまで取調が続いた事実も、検察官のもとにおける取調において強制、拷問、脅迫等が行なわれた事実も、被告人栗田に対する検察官の取調中本件捜査に関与していた警察官が同席した事実も認められないのであつて、右事実関係に徴すれば、同被告人の検察官に対する供述調書に任意性を疑わせるような事情は存しないというべきである。もつとも、被告人栗田の検察官に対する前記供述調書は、同被告人の司法警察員に対する昭和四一年三月六日付供述調書と殆んど同趣旨の調書であつて、検察官が自ら右調書の内容の真実性を吟味した節は全く見られないのみならず、特に右二通の調書において、本件犯罪事実自供の動機とされている手帳(昭和四二年押第一四〇号の二二)の電話番号の記載が、右調書にあるが如く、本件金一〇万円を川脇に返還するために川脇の名刺あるいは電話帳から書きとつたものでないことは、右手帳記載の電話番号に照らし明らかである。しかしながら、本件被告事件につき被告人栗田に対する取調の開始されたのが昭和四一年二月二八日であるのに、わずかその三ヶ月程前に一〇万円の金員の授受があつたことを全く忘れ去つていたということは、右金額および被告人栗田の地位等に照らし到底考えられないところであつてみれば、取調が開始されて以来否認し続けて来た被告人栗田としては、捜査官からの右電話番号にもとづく尋問に逢着して、これを自白の契機にしたに過ぎないものと解する外はない。さらに、右二通の調書中の川脇が供与した歳暮品の包装の仕方、包装紙の種類、色、歳暮品であることを表示する挨拶文言の記載等の点についても、川脇の司法警察員に対する昭和四一年二月二七日付、検察官に対する同年三月一四日付各供述調書と著しく異なるのみならず、しかもこれらはいずれも客観的事実とも符合しないものであることは右川脇の各供述調書や第二回公判調書中証人山口政子の供述記載部分等に照らしても弁護人の主張するとおりであることが認められる。しかしながら、右歳暮品の包装の仕方、包装紙の種類、色、挨拶文言の記載の有無等についてはその記憶の正確性を期し難いことは極めて通常のことであるのみならず、第一二回公判調書中平国節男の供述記載部分、川脇常信の司法警察員に対する昭和四一年二月二七日付供述調書、被告人栗田の司法警察員に対する昭和四一年三月六日付供述調書によつても明らかな如く、平国節男は昭和四一年二月二七日川脇常信を取調べたうえ、川脇が被告人栗田に対し本件の金一〇万円を供与したときの経緯について供述録取書を作成している一方、同年三月六日田島巡査部長の被告人栗田に対する取調に立ち会つているのに拘らず、前記の如く右各調書の記載がかなりの程度において相違していることは却つて被告人栗田に対する取調が川脇の自供をもとにして強引に押しつけられたものではないことを物語つているとも考えられる。以上述べたところから明らかな如く、被告人の前記検察官に対する供述調書中、一部事実に吻合しないところがあるからといつて、右調書の信憑性が全く失なわれるものでないことはもちろん、平山賢一のもとから支出された本件一〇万円が被告人栗田のもとに到達しないことは殆んど稀有の事態としか考えられないこと、被告人栗田に対する検察官の取調が任意になされたものであることからすれば、証拠の標目欄掲記の各証拠に照らし、被告人栗田のもとに届けられた菓子折の中に金一〇万円が封入されており、これを被告人栗田が知悉して収受したものであることについて合理的な疑いを容れる余地はない。

次に被告人後沢の捜査段階における供述について検討すると、第一〇回公判調書中証人川田良三、同村山長三郎の各供述記載部分、医師石見善一作成にかかる被告人後沢に対する昭和四二年一月二六日付診断書、医師平川良三作成の被告人後沢に対するカルテによれば、被告人後沢は昭和四一年二月二八日逮捕され、翌三月一日朝同被告人の取調にあたつた司法警察員川田良三に対し、昭和四〇年一二月二四日か二五日ころ、被告人後沢の留守中に川脇が現金一〇万円入りの菓子箱とカシミヤのシヤツ上下一組とを届けていたのを当日帰宅後知り、これを受領した旨自供し、以後捜査段階においては、警察、検察庁を通じ、少なくとも右金員授受の点については一貫して自白していること、被告人後沢は昭和三三年六月以降昭和四〇年末まで高血圧症等の治療をうけていたとはいえ、逮捕勾留後も医師による診察が頻繁に行なわれ、その都度適宜な措置がとられたうえ、同月一八日八王子医療刑務所に移監されたことが認められる。もつとも、弁護人は、「被告人後沢が警視庁に連行された昭和四一年二月二八日終日村山巡査部長によつて精神的強制拷問を加えられたため、被告人後沢は捜査当局が考えている通り金一〇万円を川脇から受領したと認めない限りこのような強制拷問が続き、病身であることから到底肉体的にも堪えきれないと思つたので翌三月一日虚偽の自白をしたものであり、また被告人後沢の検察官に対する昭和四一年三月一六日付供述調書は、右取調当日、前記村山巡査部長が検察官の取調中、被告人後沢の後方の席に立ち会つていたために、被告人後沢としては真実を告げることによつて捜査が再び振り出しに戻ることをおそれ、結局警察における供述を繰り返したにすぎないもので、司法警察員および検察官に対する供述調書はいずれも任意性を欠くものである。」旨主張する。しかしながら、昭和四一年二月二八日の村山巡査部長の取調が任意性を疑わせるような方法でなされた事情は認められないのみならず、前記カルテの記載によつても、被告人後沢においてかかる取調に堪えられないような身体的症状にあつたともまた認めえないのである。そうだとすれば、被告人後沢の昭和四一年三月一日における自供を当時の被告人後沢の身体的状況と村山巡査部長の不当な捜査方法とに帰せしめることはできない。しかも、被告人後沢はその後一貫して一〇万円収受の事実を認めているところであることからすれば、検察官の取調の際、たとえ村山巡査部長が被告人後沢の席の後方に位置していたとしても、それによつて、前記検察官面前調書の証拠能力を否定すべきいわれはないし、一〇万円を川脇から収受したとの自白の信憑性についても疑いをさしはさむべき特段の事情もない。

三、被告人後沢が中田から受領した額面三万円及び二万円の各小切手授受の趣旨について。

被告人後沢および弁護人は「右三万円の小切手は中田を詩吟吼山流三代目伊藤吼遊に紹介しその指導をうけさせるに至つたことに対する謝礼であり、右二万円の小切手は建築関係者をもつて組織する相川音頭同好会の家元を名乗る中田が、同人の先輩であり、かつ右会の準師範である大成建設株式会社新潟支店長市川裕観から師範に昇格させるよう迫られたのに対し、被告人後沢において右市川の師範昇格を断念させるために骨折つたことに対する謝礼の趣旨であり、しかも被告人後沢の職務と中田の仕事の間には何の関係もなかつたものである。」と主張する。

中田猛が中田猛建築事務所長であり、しかも共済組合連合会の発注にかかる宿泊所及び保養所等の設計監理を請負施行してきたことは判示認定事実のとおりである。第三回公判調書中証人中田猛の供述記載部分、第六回公判調書中証人田牧四郎の供述記載部分によれば、共済組合連合会営繕課にあつては、同連合会の発注にかかる保養所、宿泊所、病院等の工事につき各地区或いは施設の種類等に応じて担当責任書をきめており、中田の施行した前記各工事はいずれも同連合会営繕課の田牧四郎参事がその担当者であつたことが窺われるが、被告人後沢は営繕課長としてその統轄責任者であつたことからすれば、中田と被告人後沢の職務の間に何の関係もなかつたとは到底云えない。のみならず、中田が被告人後沢を通じて伊藤吼遊に紹介されたのは相川音頭練習会の会場であり、吼遊は詩吟、中田は民謡をよくするものであつてみれば、いかに発声方法に過ぎないとはいえ、中田が吼遊の指導をうけたような事実も、また市川裕観の師範昇格のことに関しても、その昇格を断念させるために被告人後沢に取り計つて貰うよう中田から依頼した事実もないこと等に徴すれば、中田が被告人後沢に対し、その主張の如き趣旨で右各小切手を贈ったものとは到底解されないところであり、げんに第三回公判調書中の証人中田の供述記載部分に照らしても、右各小切手は判示認定事実記載の如き趣旨で後沢に贈与したものである旨を明確に供述しており、右供述の信憑性を疑わせるに足るような事情はいささかも認められない。一方、被告人後沢としても、自らは営繕課長の地位にあり、しかも中田においては営繕課の所管に属する関係工事の設計もしくは監督を施行していたうえに、職務外の謝礼として金品の贈与をうけるような個人的交際その他の特段の事情もなかつたのであつて、中田が前記各小切手を職務に関する謝礼として贈与したものであることは、自らがもつともよく認識していたものというべく、被告人後沢がその主張のとおり信じていたとは到底考えられない。

四、望月から贈与された村山大島反物の賄賂性、

被告人後沢及び弁護人は、「右反物は那須保養所の工事再開の挨拶に望月が被告人後沢方を訪問した際に贈られたものであり、被告人後沢はもちろん、妻トシも反物に関する智識に乏しいところから、右反物をわずか二、三千円位のものと誤認し儀礼的な贈答品と考えて受けとつたにすぎないので賄賂の認識はなかつたものである。」と主張する

ところで、望月が被告人後沢に右反物を贈与したのは、判示認定事実のとおり、三平興業において共済組合連合会からはじめて発注された那須保養所工事が漸やく再開されるに至つたことに対する謝礼の趣旨とともに、右工事は三平興業にとつて決して利益の厚い工事ではなかつたところから、今後連合会の発注にかかる工事を是非請負施行できるように取り計らつて欲しいとの趣旨からでたものであり、一方、被告人後沢もまた那須保養所の右工事が三平興業にとつて決して利益の厚い工事ではないことも一番良く知悉していたのであつて、このことは、第三回及び第五回公判調書中証人望月秀夫の供述記載部分によつて明らかなところである。そうだとすれば、被告人後沢が望月の右の如き意図を認識していなかつたとは到底考え得ないところであり、しかも、被告人後沢及び妻トシにおいて右反物を値段相応のものとは思わなかつたとしても、望月が被告人後沢方を訪問したのはこれが始めてでそれまで個人的交際もなかつたこと、さらに右反物は他に二千円相当の菓子箱と一緒に贈与されたことからすれば、右反物をも単なる社交的儀礼に過ぎないとは解しえないし、また被告人後沢においてそのように解していたとの供述は措信しえない。

五、松井如流揮毫の額入り書の賄賂性、

被告人および弁護人は「右書が被告人後沢のもとに届けられるに至つた経緯は、昭和四〇年四月四日望月秀夫が三平興業営業部の社員松井洪を同道して被告人後沢方を訪ねた折、偶々詩の話に及んだ際望月から書家である松井洪の父松井如流に詩を書いて貰うことにしようとの申出に対し、被告人後沢としては、如流の書壇における地位も知らなかつたため揮毫料等について考慮することなく軽い気持からこれに応じたものである。しかも、右書が被告人後沢方に届けられて以来、被告人後沢は再三望月に対して如何程の謝礼が相当であるかを聞きただしたがこれを教えて貰えないうちに、如流が書の大家であることを知り、謝礼の額につき益々見当をつけかねて今日に及んだものであつて、謝礼する意思は当初から持ち合わせていたものである。したがつて、右書を賄賂というには該らない。」と主張する。

右書が被告人後沢方に届けられるに至つた経緯が右主張の通りであることは当裁判所としてもこれを認めるにやぶさかではない。しかしながら、望月から右書の話が出たのがはじめて望月が被告人後沢方を訪ねた昭和四一年四月四日のことであり、しかも望月は被告人後沢に対し共済組合連合会の工事発注に際し三平興業においてその指名を受けられるよう取り計らつて欲しいとの意図で訪ねたものであつて、このことは被告人後沢において十分に察しえたところである。そうだとすれば、仮りに如流の書壇における地位、その揮毫料等についての智識がなかつたとしても、右の如き揮毫を依頼することは、所謂みなし公務員である共済組合連合会職員として極めて不用意なことといわなければならないのみならず、げんに被告人後沢のもとに届けられた額入り表装の書が一見して相当の金銭的価値を有することを看取しえたのに拘らず、望月において右揮毫料を明らかにしなかつたことは、却つて被告人後沢からの便宜な取計らいを期待して供与するものであることが明白であり、事実このことを被告人後沢が認識していたことは第三回公判調書中証人望月秀夫の供述記載部分、被告人後沢の検察官に対する昭和四一年三月二八日付供述調書(その一)によつてこれを認めるに十分である。

六、被告人後沢の望月から供与された彫刻収受の意思について。

被告人後沢および弁護人は、「望月から被告人後沢に供与された本件彫刻については当初から被告人後沢においてこれを収受する意思はなかつたものである。」旨主張する。

しかしながら、第三回、第五回各公判調書中証人望月秀夫の供述記載部分、同人の検察官に対する昭和四一年三月三一日付供述調書第四項、被告人後沢の検察官に対する昭和四一年三月二八日付供述調書(その一)を綜合して検討すると、被告人後沢は右彫刻が昭和四〇年一二月上旬被告人後沢宅に届けられたのを知りながら現実にこれを望月に返還したのは昭和四一年二月二二日ころであつたこと、その間望月は同年一月中に一回、同年二月中に二回と少なくとも三回は被告人後沢宅を訪問していること、被告人後沢は共済組合連合会の嘱託をしていた西尾治郎が同年二月一六日収賄容疑で逮捕されたのをそのころ知つたこと、被告人後沢の捜査段階における供述および望月の前記検察官に対する供述調書によれば、被告人後沢が本件彫刻を返還するよう申し出たのは西尾が逮捕された後であること等を認めることができるのであつて、右各事実に徴すれば、たとえ被告人後沢がそれ以前に右彫刻を収受するわけにはいかない旨望月に申し出た事実があるとしても、右申出は到底積極的な真意と認めるわけにはいかない。けだし、被告人後沢において真に右彫刻を収受する意思がなかつたとすれば、西尾の逮捕される以前に優に二ヶ月の期間が存するのであつて、この間如何様にしてでもこれを返還しえた筈であるからである。そうだとすれば、被告人後沢が本件彫刻を返還したのは結局収受した賄賂を後日返還したに過ぎないものというべく、収賄罪の成立に消長を来たすものではない。

(法令の適用)

被告人等の判示各所為は、いずれも刑法第一九七条第一項前段に該当するところ、被告人後沢の右各罪は同法第四五条前段の併合罪に該当するので同法第四七条本文、第一〇条により最も重い第二の一の罪の刑に法定の加重をなした刑期範囲内で同被告人を懲役一年に、被告人栗田については右罪の刑期範囲内で同被告人を懲役八月に処することとし、同法第二五条第一項により被告人両名に対し本裁判確定の日から三年間右各刑の執行を猶予し、被告人後沢が収受した村山大島反物一疋(昭和四二年押第一四〇号の一)、額入り表装の書(同押号の八)は同法第一九七条の五前段によつてこれを没収するが、被告人両名の収受した判示各金員は没収することができないので前同条後段により被告人後沢から一五万円を、被告人栗田から一〇万円をそれぞれ追徴することとし、訴訟費用については刑事訴訟法第一八一条第一項本文により、証人正木実に支給した分はその各二分の一をそれぞれ被告人両名の、証人竹内喜一郎、同村山長三郎、同川田良造に支給した分は被告人後沢の、証人田島勉、同板垣多木治、同平国節男に支給した分は被告人栗田の各負担とする。

よつて、主文のとおり判決する。

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